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生の存在論としての<存在と時間> : マールブルク時代のハイデガーにおける古代哲学解釈

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Academic year: 2021

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(1)Title. 生の存在論としての<存在と時間> : マールブルク時代のハイデガーにお ける古代哲学解釈. Author(s). 後藤, 嘉也. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 54(1): A13-A1. Issue Date. 2003-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/756. Rights. 本文ファイルはNIIから提供されたものである。. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学 紀 要 ︵ 人 文 科 学 ・ 社 会 科 学 編 ︶. 生の存在論としての. 第五十西巻. 第二号. 平成十五年九月. ︵存在と時間︶. ⋮. 藤. 嘉. 也. におい. ︵ヨルク伯爵︶. 驚かないでください璽歴史の. 哲学が存在するのです。. 思うに. 哲学することは生きることなのですから、. 後. 北海道教育大学函館校倫理学研究室. マールブルク時代のハイデガーにおける古代哲学解釈. はじめに. ︵一九一九年夏学期1二三年夏学期︶. 読としてしりぞけた。これらを額面どおりに受けとれば、﹃存在と時間﹄と. ヽヽヽヽ. いう著作は、そして︵存在と時間︶という問題設定は、人間の生ないし実存 とは無関係だということになろう。. 人間や物体など各種各様の存在者︵存在するもの︶とそれが存在するとい. うこととを区別したうえで、存在者が存在するということは一般にどういう ヽヽヽ. 意味なのかという問い ︵普遍的存在論︶を、現存在︵人間︶という特定の存. である。存在者のうち現存在だけが暖味ながら存在理解をそなえ. 在者の存在の意味である時間性から解明すること1これを企てたのが﹃存 在と時間﹄. ており、また、永遠な真理の理論的認識を志向する古代ギリシャ以来の西洋. 哲学の伝統において、存在は恒常的現前性︵いつまでも現前・現在しっづけ. ること︶として非本来的に現在という特定の時間様態から理解されてきた。. そこで、この著作のプログラムは、第一部で現存在の本来的な存在の意味を. 将来から時間化する有限な時間性にもとめ ︵第一篇第二篇︶、この時間性か. ら存在すること一般の意味を解釈し ︵第三篇︶、第二部で存在論の歴史と対 決する、というものであった。. もともと初期フライブルク時代の終わりごろから、ハイデガーは浩潮な研. 究書﹃アリストテレスの現象学的解釈﹄ の刊行をもくろんでおり、それに. とって代わったのが﹃存在と時間﹄である。この書物は巻頭で﹁存在をめぐ. すでに初 期 フ ラ イ ブ ル ク 時 代. て、ハイデガーは、生についての問いと存在についての問いとの結びつきな. 間︶という視点から試みられた古代存在論の反復として解すべきであろう。. あればなおさら、彼の主著は実存を問うものとしてではなく、︵存在と時. る巨人族との戦い﹂という﹃ソビステス﹄篇の言葉を掲げてもいる。そうで に執筆、出版された主著﹃存在と時. いし解釈学的循環をおぼろげに読みとっており、それはマールブルク時代 ︵二三/二 四 年 冬 学 期 1 二 八 年 夏 学 期 ︶. にも受け継がれていた。これは筆者が旧稿で簡単に見た. しかし、この小論はそうした見方に必ずしも与しない。︵存在と時間︶と. ︵一 九 二 七 年 ︶. とおりである。しかしもう一度考えてみよう。この作品によれば、哲学はあ. いう問いは、なるほど古代存在論の反復であるが、同時に生ないし現存在の. 間﹄. くまで普遍的存在論であり人間学から区別されなくてはならない。その後も. 存在論でもある。マールブルク時代を中心にそれを描き出すのが本稿の課題. ゝ−1、. 著者は、折にふれて実存哲学ないし実存主義の書という大方の性格づけを誤. 1.

(3) 後 藤 嘉 也. ーり︶聖。. この文言は、ナートルプの計報に接して洩らした個人的な感懐であって哲. である。結論はおよそこうである。古代存在論を反復する歴史的省察は、将 来から時間化する時間としての実存︵現存在、生︶を一方の端点とし生など. 学ともプラトンとも直接には関係のないものにも思える。講義の実質が絵だ. ヽ. ︵生. とすればただの額縁のようなものだ、と。ドイツ、青年、誠実、自己責任、. 多様な存在すること一般を他方の端点とする解釈学的循環、すなわち生の存 在論としておこなわれた。そしてそれは、プラトンとアリストテレスの の存在・現前. 自分の生、大学数授というような事柄は、存在論としての哲学にとって外面. ︵非存在・非現前︶. の︶存在論 の な か に 、 異 な い し 異 な る も の. 学、学問などとならんで力をこめて繰り返される。これまた、ハイデガー哲. る。責務、ドイツ、意欲、青年、自己主張といった語が、国家、民族、大. 的ないし付帯的なことなのではあるまいか。一方、それらの言葉は、一九三. ヽ. ︵存在と時間︶. ︵2︶. を目撃した。ところが、循環のうちに跳びこむ生の存在論として存在論的創. プラトンにおける. 三年のフライブルク大学学長就任講演﹃ドイツの大学の自己主張﹄で再帰す. −. 造に挑んだために、存在することの異他性は消去されかねなかった。. 一生と哲学. 学にとっては偶然的なエピソードであり、哲学者ではなく人間としての過誤. 村ナポレオン戟勝百周年記念日に当たる一九一三年十月十一日、ドイツや. では、生と哲学が不可分であり︵存在と時間︶という問題をめぐつて循環し. 切り離すべきだとすれば、そうでもあろう。だが私たちの見方は違う。本節. なのだろうか。もしも生と哲学、実存と存在論を切り離せるとすれば、また. オーストリア、スイスから二千人ほどの若者がここに集まり、﹁自由ドイツ. あうことを、ハイデガーのプラトン解釈から読みとろう。. カッセルにホーアー・マイスナーという標高七五四メートルの山がある。. 青年﹂を結成した。祖国愛を共有しながらも彼/彼女らの政治的立場はさま. ある。﹁自由ドイツ青年は、自らの決定にもとづき、自らの責任を目の当た. とかを問うた。プラトンの分身として対話をみちびくエレアからの客人によ. ビストとは何かを定義するという枠組みのなかで、存在するとはどういうこ. ﹃ソビステス﹄篇は、ソビストと哲学者と政治家を区別するためにまずソ. りにし、内的な誠実さをもって自分たちの生をかたちづくることを欲す. れば、ソビストとは、あらゆる事柄について真理を語るかのように見せかけ. ざまであった。翌日、若者たちはマイスナー宣言を採択した。それにはこう. る!﹂あくる年に第一次世界大戦が始まり、青年たちの多くがそのなかで舞. る技術をむったペテン師である。彼らはすべてを知っていると称している. が、本当はそうではない。真理を告げているように見えるが本当はそうでは ヽヽ ないというこのことは、﹁あらぬ ︵もの︶がある﹂、﹁ある︵もの︶があら. れた。 ところで、一九二三/二四年冬学期にマールブルク大学で、ハイデガーは ︵以下. ぬ﹂ということ、つまり虚偽ないし隠蔽があるということ艮意味する。たと. について講義した. では. えば、﹁某氏は美しい︵美しくある︶﹂と言いながら事実は美しくない︵美し. 存在を主題 と す る プ ラ ト ン の 対 話 篇 ﹃ ソ ビ ス テ ス ﹄. ナートルプへの追悼の辞を述べ、次のように語っている。﹁十年以上も前の. くあらぬ︶ということ、また﹁某氏は美しくない﹂と述べているのに実際は. ﹃ソビステス﹄講義と呼ぶ︶。その冒頭で、休暇中に死去したパウル・. 一九一三年秋、ドイツの青年はホーアー・マイスナ一に集い、内的な誠実さ. 美しくあるということである。. る﹂. ことに反対し、あらぬ ︵もの︶. については語ることも知ることもできな. しかし、エレア学派の偉大な父パルメニデスは、﹁あらぬ ︵もの︶があ. と自己責任にもとづいて自分たちの生をかたちづくることを誓った。そのと. ︵nA. きナートルプは、青年たちの欲したことを理解した数少ない最初のドイツの 教授たちの一人であった。いや、ただ一人の教授だったかもしれない﹂. 2.

(4) 生の存在論としての〈存在と時間〉. これによって、存在するものを存在しないものたらしめる﹁異のあまねき. ︵6︶. ︵非存在︶ とするからである。﹂. 一、それはパルメニデス以来の伝統的存在論にたいする批判である。パル. 異︵および運動︶ のこの普遍的現前の発見には二つの重要な意味がある。. しないもの. 異の本性が、それぞれを存在とは異なるものに仕上げることによって、存在. いと教えていた。これにしたがえば、存在しないものを存在するものとして. が何らか. 現前性﹂︵GA忘二設立が見出される。﹁なぜなら、すべてのものに関して、. ︵もの︶. 語るソビストは存在しえないことになる。そこで、エレアからの客人すなわ ﹁あらぬ ︵3. が何らかの仕方であらぬこと﹂、. になって. ︵もの︶. ちプラトンは 、 ﹁ 父 親 殺 し の よ う な 者 ﹂ の仕方である こ と 、 ま た 逆 に あ る それゆえソビ ス ト も 存 在 す る こ と を 、 立 証 し ょ う と し た 。. あらぬ、存在しないとはどういうことか。客人は言う。﹁われわれが非存. メニデスにとって、存在するとは永遠不動のさまで現在していること、ハイ. デガー用語でいう恒常的現前性であり、したがって同であり、静止であっ. のことを語るとき、どうやらわれわれは、存在︵する. と反対のもののことを言っているわけではなく、たんに、それと異な. た。客人が異他性の発見によってあらぬ ︵もの︶とある ︵もの︶とを交錯さ. 在︵存在しな い も の ︶ もの︶ るもののことを言っているだけのように思われる。﹂美しくないということ. ようにするためである。自同性. ︵4︶. ︵もの︶︺が揺り動かされる﹂ ︵畠○︶. せたのは、﹁パルメニデスの静止した意味での、従来の伝統的な意味でのOn. ヽヽヽ. ︹ある. は、醜くあるということでは必ずしもない。美しいのとは異なるあり方をし ているということである。美しくあらぬとは美しくあることと無縁ではな. それゆえ、﹁存在しないものも存在するのではないかというプラトンの問. には異他性が、静止には運動が、現前には非現前がつきまとう。. しかも、美しくあることより存在が少ないわけではない。私のスケッチの美. 題﹂︵ロA帖陀﹀票︶ の描出は、︵存在と時間︶という問いに結びつく。存在す. く、美しくあることとの関係においてはじめて美しくあらぬことができる。. しくなさは、存在するという点では、モネの絵の美しさにくらべて何ら遜色. ることが現在という時間の一様態から理解されていること自体、暗黙のうち. ヽヽヽヽ. がない。したがって、非存在も、存在とは異なった仕方で、存在と関係する. に︵存在と時間︶の問題が設定されてきた証しである。異他性︵非存在・非. ヽヽヽヽ. が普遍的に現前するという洞察は、︵存在と時間︶の歴史の革新を要. ︵つねに存在すること・存在するもの︶ つまり永続性︵St旨digkeit︶と理. 求する。ハイデガーは、プラトンのsta乳s︵通常は静止の意味︶をaei Oロ. 現前︶. という仕方で存在する。存在と異が共同し結合するとき非存在が生じる。. 言葉がこの非存在と結合できること、言葉のなかに異が現前すること ︵parOuSia︶を示せば、虚偽の言葉を語るソビストの存在可能性が立証でき ヽヽヽ. 解し、そこには事象のうえからいえば ﹁時間という現象が存在者をその存在. ヽヽヽ. を或るものとして、つまりそれ自身と同じものまたは異なったものとして語. において規定する現象として浮かび上がっている﹂ ︵茫r−ジヨ里という。. 人として語ることもできる。﹁虚偽の言葉は⋮実際に存在するのとは異なっ. 意義をもつ。プラトン研究者たちは、この対話篇の、ソビストとは何かとい. 二、其の発見は、存在論にとどまらず、生ないし人間学にとっても重要な. ︵7︶. る。心は、美しい某氏について、美しい人として語ることも、美しくあらぬ. たことを語っている。﹂覆い隠す虚偽の言葉において存在と非存在・異とは. う外枠ないし殻と存在とは何かという中身ないし果肉との禿離について、. ︵5︶. 結合しており、だからソビストは存在可能である。ハイデガーがいうには、. 種O 々g のO 議S論を重ねてきた。しかし、ハイデガーによれば、両者は緊密に結び ﹁heterOn︹異︺は、kin訝is︹運動︺と、したがってpsychm︹心︺、−. ということ、これが﹃ソビステス﹄篇の結論である。. 可能性について解明することだ﹂. ︵讐∽︶ からである。存在の問いは実存の. ついている。なぜなら、﹁対話篇の二貰したテーマはソビストの実存をその ︹言葉・語り︺とkOinぎein︹共同・結合する︺ことができる﹂︵GA−∽﹀ 讐史. 3. る。そもそも言葉は或るものについて何かを語る。言い換えれば、或るもの. →−.

(5) 後 藤 嘉 也. 問いである。存在するものをそれとは異なるすがたで、ありもしないありさ まで語るのがソビストの実存であり、存在である。それを可能にするのが異 他性としての 非 存 在 で あ る 。. トヤフツサールが似非哲学として嫌うもの. − は、﹁植物の植物学﹂と同じ. くこつけいで無意味だ、と言い切る︵2r−∞﹀芝N︶ のも、そのためである。. そうだとすると、自らの決定にもとづき自らの責任を目の当たりにしなが. ら自分の生をかたちづくるというマイスナー宣言も、﹃ソビステス﹄講義に. を解釈し、存在と非存在、現在と非現前の交錯を解きほぐすことは、哲学す. ること、最高の生を生きようとすることであって、宣言にこだまを返すこと. である︵いやそれどころか、現前と非現前の結合・交錯にてらせば、額縁と. であり、これが哲学者のつとめである。ハイデガーが﹁最高の実存可. S空. 絵、内と外を区別することさえ、疑わしくなるであろう︶。. ただ、勘違いしてはならない。存在するものをありのまま現在にもたらす. 実質もともに、自己自身を知るというソクラテスの課題への、ただし自己自. 哲学者について語ることである。﹃ソビステス﹄篇は、彼によって、外枠も. られてきた。しかしハイデガーによると、ソビストを論じることはそのまま. ることから、プラトンは﹃哲学者﹄という対話篇を著すつもりだったと考え. 提起しただけで舞台から消え、またのちに﹃ポリティコス﹄が執筆されてい. 頭でソクラテスはソビストと哲学者と政治家の三者を区別するという課題を. 間接的な仕方で哲学者とは何かを問うことであった。﹃ソビステス﹄篇の冒. 二直角であることを知る。書物のページをめくるのも料理を作るのも明日の. ものへとそのつど運動し変化している。少女はあるとき三角形の内角の和が. に二直角でありつづけるかもしれないが、心は白岡的でありながらも異なる. 性と結びつくことによって運動し、活動する。三角形の内角の和は永遠不変. 変わらず恒常的現前性が存在の理想であることになろう。しかし、心は異他. とすると、存在することにとって異他性や運動は否定的現象にとどまり、相. 在すること︶を排除するのが最高の生を生きることではない。もしもそうだ. のが最高の実存可能性だからといって、非現前、あらぬ︵異なった仕方で存. ない。言葉をもつ動物という人間の定義は、ハイデガーによって﹁ただしい. したがって、存在についての問いと人間についての問いとは切り分けられ. ない﹂︵nA−∞﹀∽−告。運動どいう常態の特別な場合が静止である。. スの運動論にそくしていうところでは、﹁静止は運動の極限的な場合にすぎ. わって手が静止しているのもやはり運動である。ハイデガーがアリストテレ. ちに鋳直される。存在について語ること、存在者を存在させ現前させること. 在を現在たらしめることだとしても、あるいはそうだからこそ、非現前の陰. 言葉ないし語りが現在化するとは、隠れたものを明るみにもたらし、非現. していないこと︺が本質的である﹂ ︵∽〓︶。種々の神秘家が語る︵永遠の. 影をともなわない現前はない。生ないし心のあるところ運動があり、運動の ︵讐宗︶。私たちが旧稿で垣間見た生. リッカー. 存在論の問 い は 人 間 学 の 問 い で あ る ﹂. ー. あるところには非現前がある。﹁或るものの現在にとっては非現前性︹現在 確に循環のかたちで定式化されている。﹁生の哲学﹂なるもの. の問いと存在の問いとの重層ないし循環は、﹃ソビステス﹄講義のなかで明. が、人間の実存、存在、生である。﹁人間学の問いは存在論の問いであり、. レゲイン. ロゴ ス. 意味での語ることが存在しなければ、人間の実存も存在しない﹂というかた. ポリティコス. 身の存在を問うという存在論の視座から捉えられたこの課題への応答として. ことを思い煩うのも運動である。それどころか、ページをめくる仕事が終. して生きるこの可能性のことである。それゆえ、ソビストについての問いは. 能性﹂︵諾○︶と呼ぶのは、言葉ないし語りのこの可能性、人間が哲学者と. のを⋮ありのままに︹存在するとおりの姿で︺現在させること﹂︵nA−り﹀. ︵語る︶とは、﹁話すことによって存在者を開示すること﹂、﹁存在者そのも. 存はロゴスの可能性の非本来的様態である。つまり、−品OSないしーegein おいてたんなる額縁として飾られていたのではなかった。﹃ソビステス﹄篇. ソビストのこのありようは哲学者のありようの陰画である。ソビストの実. 4. 読まれている 。. ′.

(6) 生の存在論としての〈存在と時間〉. ているが、しかし言葉も発せられない。永遠の今という言葉さえ、体験が終. 今︶のさなかには、運動、異他なるもの、個別性が、つまりは非現前が欠け. 継承である。本節ではそれを明らかにしたい。. の存在論ではあるが、他方で恒常的現前性という伝統的な︵存在と時間︶の. テレス哲学は、一方で生と哲学のあいだを循環する生の存在論ないし現存在. アレーテウェイン ソピアーヌース. ︵9︶. アルケー. テクネー エピステーメー. プロネーシズ たり. ﹃ニコマコス倫理学﹄第六巻でアリストテレスは、心が肯定したり否定し. わってから語 ら れ る ほ か は な い 。. 以上のように、プラトンが異他性という事実を、つまり非存在の存在、非 へと動. 知恵、知性の五つを挙げた。心のうちロゴスをもつ部分は、始源︵端緒︶ が. 現前の現前を発見したことによって、恒常的現前性は︵存在と時間︶ 態化され、しかもこの︵存在と時間︶の問いは実存の問いであると同時に存. 異なる仕方ではありえない永続的で必然的なものを考察する部分と、異なる. ヽヽ. 在の問いである。実存の問いと存在の問いは、ハイデガーのいう根源的時間. 仕方でありうるものを考察する部分に二分される。学問と知恵は前者に、技. 術と賢慮は後者に属する。ハイデガーの理解では、知性はどちらでもなく、. ヽヽ. 性が人間の存在そのものだという点で交差する。時間は、今が継起する過去 ←現在←未来という物理的な永遠の流れではなく、人間︵死すべきもの︶. むしろこれら四つは知性の特定の遂行様式である。. の. 現存在の意味、つまり人間が存在するということの根本規定である。端的に. 学問は普遍的で必然的なものにかかわる。相対性理論はアインシュタイン. ヽヽヽヽヽ. 言えば人間とは時間ないし時間性︵将来から時間化する有限な脱自的時間 ︵8︶. から独立してつねにただしいだろうし、八から三を引いた答えは時と場合に. 性︶ 間性︶という こ と で あ る 。. アリストテレスの. ︵存在と時間︶. ところで、︵存在と時間︶をめぐる生と哲学の循環は、アリストテレス哲. −. 学のなかに生 の 存 在 論 と し て 見 出 さ れ る 。. 生の存在論. ︵the腎ein︶ である。神ないし神々の観想は思考するという自ら. き知恵は学問のなかでももっとも厳密なものであり、神々のように純粋に観 想すること. の活動自体を思考すること、思考の思考であるが、知恵とは人間がこの神的 な活動を観想することである。. わる。技術はものを作り出すこと、制作にかかわる。この机は制作される以. 技術や賢慮は永続的でも不動でもないあり方のもの、個別的な事象にかか エレアからの客人が父祖パルメニデスに挑んだ争いは、存在とは異なるこ. 前には存在しなかったし、百年後にもおそらく存在しない。その高さは六十. はいえ、人間の行為はそのつどのものである。近くで乳児が泣いていると. ︵phrOn乳s︶といた うめ 実にどういうことがふさわしいかを一般的に考える。一般的に考察すると. るように作ることもできた。賢慮は人間自身の行為にかかわり、よく生きる. ととしての非存在の発見によって、不動の永続的現前性を有限化し揺り動か. 二. よって変わるなどいうことはなく必然的に五であり。哲学の別名ともいうべ. である。それゆゝえ、︵存在と時間︶とはさしあたり︵人間的現存在=時. の二. 五センチメートルであるが、これとは異なってあと三センチメートル高くあ プロネーシズ. による真理開示︵a−竪heuein隠されているものをあらわにすること︶. した。二人の相違は、ハイデガーの解釈するアリストテレスにおいて、人間 アレーテウェ イ ン. ソピアー. 存可能性の対照となる。知恵は永続的かつ自同的に存在するものを﹂賢慮は. き、抱き上げることも、誰かを呼びに走ることも、ただ立ち去ることもでき. っの極限的可能性、すなわち知恵︵sOpbia︶と賢慮. 生成消滅する人間の生という異なった仕方でもありうるものを開示する。人. る。自己観想するだけで行為しない神には、無視する可能性さえない。. これらの開示様式のうち、とりわけ重要なのは知恵と賢慮であり、﹃ニコ. 間的現存在の二つの実存可能性は、︵存在と時間︶をめぐつて相対略する。 しかし、決定的な優位を占めたのは知恵のほうである。それゆえ、アリスト. 5.

(7) 後 藤 嘉 也. そもそも生 ︵biOS︶とは、ハイデガーの解釈するアリストテレスによれば. 期フライブルク時代以来の課題が与えられるのはそのためである。. いる。これを受けてハイデガーは、知恵と賢慮とのどちらが最高の様式かと. ﹁誕生から死にいたる生の特別な時間性﹂、﹁ある生の歴史﹂︵ロA−00㌔告を. マコス倫理学﹄第六巻第十二章と第十三章では、もっぱら両者が対照されて. いう問いを突きつける。アリストテレス自身は、知恵ないし観想を最高の 活動と考え、そのなかに人間の完全な幸福を見出した。人間は、死すべき. 意味する。﹃存在と時間﹄や論文﹃時間の概念﹄、講演﹃時間の概念﹄、﹃カツ. エネルゲイア. セル講演﹄などにおいても、さらに初期フライブルク時代にまでさかのぼれ. ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ. プラトン解釈においてそうであったように、︵存在と時間︶という主題は、. へと先駆する存在であり、先駆するなかで現存在は自らの将来を存在する。. ものでありながら、不断に存在する神にならうことで幸福を得ることができ. のでなくてはならな. ば﹃ナートルプ報告﹄ においても語られているように、人間は死という終末. ︵10︶. る。﹁できるかぎり自らを不死にし、自分のなかにあるもののうち最高のも. ○. のにしたが っ て 生 き る よ う あ ら ゆ る こ と を お こ な う ﹂ ヽ■ 、∨. そのかぎりにおいて︵人間的現存在と時間性︶を意味する。﹁現存在が⋮時 ヽヽヽ. アリストテレスのこの決定は、︵存在と時間︶という視点から解体され ノエインソピアー. 間そのものである﹂ ︵BZ﹀−竺。︵存在と時間︶の﹁と﹂は等号を、あるいは. プロシネース. る。ハイデガーによれば、﹁ここで賢慮における思考作用と知恵における. もっと適切には ﹁である﹂を意味する。. ノエイン. 思考作用との判別基準として機能しているのは、時間︵瞬間と、つねに存在. 学は両義性を刻印されている。アリストテレスは、一方では、賢慮の性格づ. 以上のように、︵存在と時間︶という観点から見て、アリストテレスの哲. スをとむなってあらわにすることだという点を共有するが、知恵においては. けに典型的に示されるように、そのつど別な仕方でありうるという人間の生. ヌース ︵ロA−タ]玩A∵品−.BZ﹀㌶︶。知恵も賢慮も、知性がロゴ. たらく知性が、恒常的に存在するもの、﹁つねに自同性において現在するも. のありかたを開示しようとする。彼は特定の時間を生きる現存在をあらわに. である﹂. の﹂を考察するのにたいし、賢慮のなかではたらく知性は、﹁そのつどの具. する︵存在と時間︶の現象学者である。他方では、知恵の優位に象徴される. 在を暴き出す﹂︵ロA−り﹀−∽○︶賢慮よりも不死なる存在者に定位する知恵の. な自己観想する神︶ のようにつねに存在するものに準拠する。彼は恒常的現. それでは、ハイデガーの賢慮解釈にもう少し立ち入って、前者の側面を、. 前性という不十分な︵存在と時間︶の形而上学者である。 にしたがっている。. つまり﹁現存在と時間性﹂ ︵主著第一部第二篇の表題︶としての︵存在と時. ︵−ヨ︶. それは、生という事象をあらわにせず、恒常的に存在する可能性をどこまで. 間︶を確認してみよう。. 始源が異なる仕方で仕方でありうるものを考察する様式のうち、技術は エイドス. ギリシャ人にとって、ひいては西洋の伝統にとって、本来の存在者はつねに. 形相を始源とする。机を制作するばあい、机の形相が最初にあってこれが制. 終極もよき行為そのもの、そのつどにおける実存それ自身にある。ハイデ. テロス. 存在するもの、たえずすでに現に存在するものである。だがそれは、死すべ. ︵−当︶。ギリシャ人と対決するという初. 作者に現前している。終極︵何のためにhOu heneka︶ は制作されるものと. がある﹂. きものという人間の根本制約を無視している。人間の現存在はつねに存在す. 時間、自らの 時 間 ︵ a i ぎ ︶. は異なる。机制作の終極は人間による使用にある。ところが、賢慮は始源も. 6. るわけではない。﹁人間の現存在は生成し消滅する。その現存在には特定の. アルケー. もっているかという基準で人間を判断する。アリストテレスにとって、また. のつねなる 存 在 に よ っ て は か ろ う と す る 傾 向 ﹂. ほうを優越させる存在論は、■﹁人間の現存在をその時間的存在に関して世界. アレー テ ウ ェ イ ン. 眼差す瞬間︵B−ickdesAuges﹀Augen女ick︶﹂である。そして、﹁人と 間お のり 現存 、伝統の枠内で神︵信仰される神ではなく、必然的で永続的で理性的. 体的なものを、またこうしたものとしてつねに異なる仕方で存在するものを. すること︶. ヽ.

(8) 生の存在論としての〈存在と時間〉. ガ一によれば、賢慮は、﹁現存在自身にひそむ自分自身を隠蔽する傾向との のうちにある。自分自身を隠蔽する傾向とは、実. ︵実存論. のを隠し偽装する日常的態度の撤回であり、実存の分析は生という存在の腑. 分けである。生の存在論には、生と哲学、実存の問いと存在の問い. ︵茫r−り﹀諾︶. 不断の闘い﹂ 的分析論︶. との循環がある。. 存論的にみれば、︵みんな︶と同じかどうかを気遣い︵ひと︶というありさ. 在自身を隠蔽するこの傾向に対抗して自ら暴露すること、本来的可能性ない. も知恵を優先する、恒常的現前性という︵存在と時間︶である。賢慮は現存. あり、しかも後者の存在が前者の存在の理解を妨げている。生という存在を. 示様式が教えるように、生という存在とは異なる恒常的現前性という存在が. すという意味での現存在の存在論にとどまることを許さない。知恵という開. だが、賢慮と知恵の存在論的村比は、現存在という存在だけを明るみに出. し本来的実存である。しかも、普遍的で必然的なものにではなく個別的なも. あらわにするためにも、現存在の存在論は観想される存在や制作される存在. まをしている非本来的実存であり、同時に存在論の水準でいえば、賢慮より. のにかかわるのだから、賢慮の終極は、つまり﹁行為の、時に応じた終極 〓∵. 第三節 制作。観想。行為1アリストテレスと﹃存在と時間﹄. 時間の地平で企てられる普遍的存在論を見よう。. ﹁私 のあいだを循環しなくてはならない。アリストテレス解釈のなかに、今度は. ︵te−OSt訝p代a舛e訝katatOnkairOn︶﹂は、時々の状況を見定めることにに よも っ 目を向ける必要がある。そうすると、実存論的分析論と普遍的存在論と. て、つまりいまここで、決定するほかない。レーヴィソトの或る学生は. は決意している、だが何を決意しているかば知らない﹂と先駆的決意性を椰 検したが、これは変動することのない普遍的な存在秩序への郷愁であり、観 想と行為との混同である。ハイデガーは賢慮の要求するkairOSを﹁瞬間﹂ ︵更r−00﹀−∞竺ないし﹁行為の瞬間﹂︵PANN︸∽−豊などと意訳している。. プラトンの父親殺しは存在のなかに異他性を、またそれによって運動をみ. ずとどまるもの、つねに存在するものだけに目を向けた思索者のなかにあっ. ガーによれば、それよりも前に歩を進めたのはアリストテレスである。たえ. アリストテレスにおける知恵の賢慮にたいする優位は転倒され、生成する. であり﹁現存在の存在論﹂. ちびきいれた。異他性の発見は運動する生ないし心の発見であった。ハイデ 琵︶. ものとしての生があらわにされる。そのかぎりで、マールブルク期における 存在論は、 ﹁ 現 存 在 の 現 象 学 ﹂ ︵ G A − ∽ ﹀. ﹃心について﹄も、心理学などではなく. て、アリストテレスの ﹃自然学﹄は﹁はじめて運動そのものを問題にした﹂. である。アリストテレスの. アリストテレスによる生の現象学的把握であり、﹁生という特徴をもってい. ︵ロANM﹀N望︶。運動は場所的変化だけをさすのではない。アリストテレス. ︵∽召︶. る存在の存在論﹂︵訂r岸−蔓、﹁生の存在論﹂︵更r帖柏こ蔓である。﹃存. は、存在者が生成し転変し消滅するという現象一般を論究した。. この節では二つの点を明らかにしたい。一、運動のこの解明は制作をモデ. 在と時間﹄は、とりわけ第一部第三篇﹁時間と存在﹂が公表されなかったた めに、生の哲学や実存哲学と﹁誤読﹂されたが、それにしてもその第一部第. エンテレケイア. ヽヽ 山篇と第二篇が現存在の存在論であったこと、それも現存在が現存在という ルにした存在論であり、恒常的現前性を動揺させながらも、運動をその. 終極態からみるかぎりで存在を現在から捉える伝統に屈している。二、川 ヽヽ. 存在を時間として開示するという意味でそうであったことを忘れてばならな. ヽヽ. ︵道具的なものの︶ 制作から導き出された、︵存在=制作された存在=硯. エピステーメーソピアー. い。第一篇で現存在を存在論的に分析し、第二篇で現存在の存在を時間に還. ヽヾ. 在︶というこの定式は、潮学問や知恵によって観想される恒久的存在へと ロ、不−シズ. 元するという構成をとるのは、右のようなアリストテレス. 昇華されるとともに、㈱賢慮にもとづいて行為する入間の生の理解をも制. ︵およびプラト. ン︶解釈と平行していた。そもそも、賢慮ないし本来的実存は、存在するも. 7.

(9) 後 藤 嘉 也. 現前していない死へと先駆けること、すなわち自分自身に到来・将来するこ. と、これが根源的時間性であるのに、この意味での︵存在と時間︶は隠され. 約した。そして、制作・観想・行為という人間のこの三つのあり方における 存在理解は 、 普 遍 的 存 在 論 の 書 ﹃ 存 在 と 時 間 ﹄ たままである。. における三種類の存在、すな. わち道具的存在・客体的存在・実存と類同の関係にある。. 一、′﹁運動は⋮存在可能なもののエンテレケイア︵tOudynameiOntOSenこ ・うして、アリストテレスは運動そのものを問題にした点でギリシャ存在 ︵ほ︶︷デュナミス te−e打heia︶ である。﹂そうアリストテレスは運動を定義した。運動は可能性. デュナミス. 論の頂点に立つが、しかしその運動は完了し働きが現在しているエネルゲイ. エンテレケイア. ソピアー. アからみられている。運動における可能性にたいするエネルゲイアの先行. はたらき. 永続的で純粋なエネルゲイアとして自らは運動せず、自らの思考を思考する. プロネーシス. という状態から終極態という異なる状態への運動である。机を制作するとい. は、思うに賢慮にたいする知恵の優位と通底する。アリストテレスの神は、. エンテレケイア. エルゴン. において終結し、現実化な. う運動は、動かされうるものである木材にとって存在可能なものを、つまり デュナミステロスエンエケイン 机の可能性を終極のうちにもつ状態︵終極態︶. いどおりにできる最も純粋な運動性﹂ ︵岳﹀裟巴 である。. 二、存在することがまさに存在することという一つの事象でありながら多. でもある。指物師が机を作るばあい、制作は終極を頭に. いし現在化する。エンテレケイアはまたエネルゲイア︵energeiaはたらき というエネルゲイアがあるだけである。人間の知恵ないし観想も、﹁生が思 エン. 措くことから始まり、机でありうることが現に机としてはたらいている状態. 義性をまぬかれないという謎を、つまり普遍的存在論の課題をアリストテレ. のうちにあ る 状 態 ︶. になることによって終極にいたる。制作が完了して、現にはたらいているこ. に、存在することを何らかの仕方で理解している現存在の存在論的構造をあ. スから受け継いだハイデガーは、主著で、存在一般の意味を究明するため ︵呂﹀. と、机である可能性が現在していることが真のありさまである。﹁存在する とは出来上がっていること、運動が終極に達している存在である﹂. において. 開示する。日常的現存在は、制作し使用するなどものにたいする配慮的気遣. ヽヽ. Ⅲ彼はまず、現存在をさしあたりたいていのありさま︵日常性︶. エンテレケイアデュナミス らわにする。. ︵ロA−00﹀. N窒︶。現在の優位は歴然としている。アリストテレス自身、﹁終極態は可能性 ︵13︶. よりも先に あ る ﹂ と 明 言 し た 。 それゆえハイデガーは、﹁存在︰現在のうちに現・存在すること﹂. い. 定は道具的存在︵zuhandenseiロ現に手許にありいつでも手で使えるという. aus⋮︶﹂といゆえ、人間以外の存在者は道具ないし道具的存在者であり、その存在論的規. 打って机などを作るためのもの、机は読み書きするためのものである。それ. ︵出esOrgeロ︶ によって存在している。現存在にとって、存在するものは. 望も. ﹁⋮のための或るもの﹂という性格をもった道具である。ハンマーは釘を. という定式をアリストテレスから取り出している。ここでの現・存在. は、人間だけでなく存在するもの一般が現に存在することを意味する。しか. ︵Hersein. も、この﹁現﹂には二重の契機がある。一つは現在︵いま目の前にあるこ ヽヽヽヽ. ︵∽−韓︶。後者は可能性からの由来を暗示する。制作と訳したHer・. デュナミス. と︶という 契 機 、 も う 一 つ は ﹁ ⋮ か ら こ ち ら に あ る うそれ. である。この規定は、道具的存在者を使用して別の道具的存在者. を制作するという場面設定のなかで浮き彫りにされた。. ste−Fngにも、ハ√デガーはこの二重の契機を響かせている。ハイデガーの ありかた︶ 理解するギリシャ人アリストテレスにとって、存在するとは、制作において. 使用される存在、手にとっての存在は、その存在者そのものの姿ではなく、. ㈲なるほど、或るひとびとはこれに反論するだろう。道具として制作され. る。そうだ と す る と 、. ニュートラルな存在それ自身に価値的なものが加わったものだ、と。現存在. みられるように、可能性から由来していま目の前に現在していることであ. 動かされてはいない。自分自身の極端な可能性である死、したがって現在・ ︵14︶. 8.

(10) 生の存在論としての〈存在と時間〉. ︵の手︶とのかかわりを抜きにした存在者それ自身のすがただと想定される. アレーテウェイン. 以上の三点から分かるように、隠されているものをあらわにする三様式と. 識するのは、あるいは認識するのを目指すのは、この客体的存在である。だ. 手から離れてその前に、手と没交渉に存在すること︶と呼ばれる。科学が認. デガーは、これらの三様式を同格のものとして並置しているのでも、知恵の. と時間﹄が﹃ニコマコス倫理学﹄ の翻訳だとさえいっている。ただし、ハイ. 実存を開示する様式である。こうした事情にかんがみて、ヴオルピは﹃存在. のなかで客体的存在︵﹂訂rhandensein しての技術、学問ないし知恵、賢慮は、それぞれ道具的存在、客体的存在、. が、現存在はつねにすでに道具的存在者とのかかわりを生きている世界内存. 賢慮にたいする優位をただ逆転しているのでもない。実存ないし賢慮が根源. ﹁客観的な ﹂ 存 在 は 、 ﹃ 存 在 と 時 間 ﹄. 在であるから、客体的存在は、道具的存在者とのかかわりを中止したときに. 的様式である。. 由がおおよそ見えてくる。﹁存在 ︵者︶ は多様に語られるが、それは一つの. ︵普遍的存在論の基礎をなす基礎的存在論︶と普遍的存在論が循環しあう理. そうだとすると、︵存在と時間︶という問題設定のもとで現存在の存在論. ︵15︶. 現れる存在にすぎない。先入見をもたない冷静中立な認識は、制作や使用な. ﹁第一次的な存在様式ではけっしてな. ど存在者との不断のかかわりないし配慮的気遣いの欠如態であり派生態であ る。認識す る と い う こ と は 、 現 存 在 の く、世界内存在にもとづけられた存在様式、認識するのではないふるまいに. ものとの関係においてである ︵tO de. という普遍的存在論の課題は、その一つのものを時間として明らかに. On legetai menp註akh厨a−−. もと、づいて の み 可 能 な あ り 方 で あ る ﹂. heロ︶. ︵GA讐二諾没。客体的存在は、アリス. トテレスの学問ないし知恵があらわにする存在、つねに現在する存在であ. することによって答えられる。その時問とは、現存在の存在規定としての時. 理解を可能にする、現存在のテンポラリテート﹂. ︵GA望u畠笠だからであ. 間性である。現存在の存在を根拠づけている脱自的時間性は、同時に﹁存在. ︵16︶. る。. ㈱ものの制作に準拠してえられた︵存在=現在︶という図式は、現存在自 に関係. る。実存はもちろん、客体的存在も道具的存在も、現存在の時間性ないしテ. 身の生理解、存在理解にも投影される。現存在は自らの存在︵実存︶ することが 重 要 な 存 在 者 で あ る ︵ 2 r 帖 ﹀ − 空. ンポラリテートにもとづいてのみ、理解できる。存在することは時間性との. のに、現存在はさしあたりたい. てい自己を自己自身から理解せず、自分がかかわり配慮的に気遣っている道. 関係において多様に語られる。それゆえ、現存在の存在論ないし生の存在論. ヽヽヽヽヽ. ヽヽヽヽヽ. ︵書くべき. は、前節でみた硯存在による現存在についての存在論であるだけでない。そ. ヽヽヽ. 具的存在者から理解する。なすべき仕事や得るべき事物、世間体. などが、私. 存在論的創造∃循環の非対称性. 現存在だけが存在することを理解しており、存在は現存在から出発しての. 四. ことと現存在とのあいだの非対称性をさししめす。. さて、現存在・生と存在すること一般とのあいだのこの循環は、存在する. は普遍的存在論である。. ヽヽヽ. ペーパー、作るべき料理、出席すべき会議、︵ひと︶のうわさ︶. れは現存在による存在すること一般についての存在論でもある。生の存在論. ヽ. アイうン ウノ の関心の的である。自分に固有の自己・実存にかかわらないがゆえに. への顆落である。﹁現 可能性︵Se−bst蒜ink旨・. 非本来的実 存 と 名 づ け ら れ る こ の あ り 方 は 、 ︵ 世 界 ︶. ウシアイケン ト り ∴ ノ ヒ. ︹自己を存在する︺. ない. ︵豊里。この動向は反転されなくてはならない。この. としての自己自身からさしあたりつねにすでに離れて落ちて、︵世. 存在は、本来 的 な 自 己 で あ る. nen︶. 界︶に額落 し て い る ﹂. ヽヽ. デュナミス. 反転は、ウーシアのように現在する︵世界︵尋e−t︶︶︵また世間、現世︶ メメント!モリー. に向かう本来的実存である。賢慮であり、死をおぼえよである。. プロ、スー・Jンス. しエネルゲイアから、可能性の訳語でもある︵自己である︶存在可能性︵sein・. k許nen ︶. 9. ヽ.

(11) 後 藤 嘉 也. み解釈され暴き出される。そして解釈された存在することは現存在の存在・. の根本テーゼの一つ. 生に打ち返していく。循環の起点はあくまで現存在にある。存在の問いは現 存在によっ て の み 発 せ ら れ る 。 そ れ ゆ え ﹃ 存 在 と 時 間 ﹄ ﹁存在者は経験や知識や把捉から独立して存在する。⋮し. い。カントの超越論的主観性には有限かつ無限という二面性がある。ハイデ. ガーの現存在もこの両義性の刻印を打たれた。現存在は存在者を創造するこ オンティッシュ とがないという存在者の水準での有限性と、存在を開示するという存在論的. 無限性とをあわせもつ。ハイデガーによれば、カントの産出的構想力は根源. ー. はこうであ る. 的時間性であり、今連続という時間地平︵派生態としての時間︶を対象性. ︵客体的存在︶ 認知の地平として形成する。これがアプリオリな総合判断で ヽヽヽ. かるに存在は、その存在に存在理解のようなものが属する存在者の理解作用 のうちにのみ ︵ あ る 乳 b t e s ︶ ﹂ ︵ e r N ﹀ ∽ ○ 告 。. ある。したがって、産出的構想力は﹁存在論的にのみ創造的である﹂ ︵ロA. ぶ本昌。主観の主観性である根源的時間性は、神のように対象を産出する. なるほど、この机は私が使うかどうかに関係なく存在する。あの風雪も私 が見ているから吹きすさんでいるわけではない。指物師が机を制作するばあ. 一九二九年のいわゆるダヴオース討論でも基調は変わらない。論争相手の. という意味でではなく、存在認知の地平としての時間に関してのみ根源的で. 太陽は地上に光と闇をもたらすであろう。しかし、それらがあるということ. カッシーラーは、有限な人間にたいする真理の相対性・相関性に依拠するハ. いでさえ、指物師は机を無から創造することはできず、木材は指物師から独. 自体は、あるということを理解している人間、あるということを立ち現れさ. イデガーを追及する。﹁そうした有限な存在者は、そもそもどのようにして. あり、創造的である。. せ開示する人間︵ハイデガーが現存在ないし硯,存在と呼ぶのはこの人間で. 認識や理性、真理に到達するのか﹂、﹁カントが⋮主張したこの完全な客観. 立して存在する。たとえ巨大隕石の衝突によって人類が滅亡したとしても、. ある︶なしには、与えられない。そもそも、存在の意味を解明するとは、存. 性、この絶対性の形式を、ハイデガーは断念しようとするのか﹂︵nA∽﹀当↓. ヽヽ. 在の背後にひそむ何かを取り出すことではなく、﹁現存在の理解可能性のう. 〇。それをハイデガーはこう切り返す。﹁人間は、存在者そのものを創造す. を問うことである。. むしろ、カッシーラーが信じて疑わない真理の永遠性なるものの正体を暴. ︵NO巴. この非対称性は、マールブルク時代最後の一九二八年夏学期講義では、. かなくてはならない。﹁この永遠性は時間のつねにという意味での恒常性に. ちに収まる か ぎ り で の 存 在 す る こ と そ の こ と ﹂. ﹁存在問題一般にとってと同じく、超越にとって主観そのものの主観性が中. すぎないのではないか。時間そのものの内的超越にもとづいてのみ可能なの. るという点で無限で絶対的なわけではけっしてないが、存在を理解するとい. ︵G担Nの﹀−芝︶と言い表されている。超越とは現存在が存. 存在することや真理は、現存在が存在することに相関している。︵存在と時. 心の問いと な る ﹂. ではないか﹂. う意味で無限である﹂ ︵誌○︶。こうして人間の存在論的無限性が誇らかに告. 在者から存在することへと向かうことである。主著では注意深く避けられた. いう超越論的性格が時間には固有だからこそ、恒常性としての永遠性も可能. 間︶とは、存在が濁存在ないし時間性に依存していることを暗示する定式で. 主観ないし主観性という語がためらいもなく前景に登場しているのは、カン. になる、というのがその主旨である。カッシーラーは、客観的で絶村的で理. げられている。. ト哲学の影響が大きい。﹃純粋理性批判﹄は、超越論的主観性が物自体を認. 性的な永遠の真理という伝統的真理観の、アリストテレスでいえば知恵の優. ある。存在 す る こ と と 現 存 在 と は 非 対 称 な 関 係 に あ る 。. 識する越権行為をいましめるとともに、対象に関するアプリオリな総合判断. 位という伝統の虜である。真理の永遠性︵無時間性ないし超時間性︶ なるも. ソピアー. ︵法帖︶。到来・既在性・現在からなる脱自的地平を形成すると. アユイ. の可能性を保証していた。対象は私たちの認識にのっとらなくてはならな. 10.

(12) 生の存在論としての〈存在と時間〉. のは、あるいは恒常的現前性という︵存在と時間︶は、時間性としての現存 在が構成した 派 生 態 で し か な い 。. ふりかえれば、現存在の存在論創造という大胆な企てはマイスナー宣言に 呼応している。時間性としての主観性は有限でありながらも無限であり、存. ︵17︶. 在理解の地平を自ら形成する。ドイツの青年は、さまざまな仕方で拘束され ながらも、フィヒテ哲学を継承し自由な主体として自らの決定にもとづいて 自らの生を形成する。プラトンヤアリストテレス解釈を先導する生の存在論 も、存在論的創造にまでは踏み込まなかったにせよ、自己決定を核としてい た。. だが、この自己決定の形而上学とも呼ぶべき存在論的創造は、存在すると いう事象をあからさまにすることができるだろうか。﹁人間の生は、自分自. ︵ロA−00﹀空という実存的・実存論的自負は、自分の髪. 身をひたすら自分自身だけのうえに築き、信仰や宗教のたぐいなしに切り抜 ける可能性 を も つ ﹂. をつかんで泥沼からわが身を引き上げるミュンヒハウゼンの冒険に帰着しな いだろうか。そこでは、発見したはずの異他なるものがふたたび見失われる ようにも思わ れ る 。 ヽヽ. ﹁或るものは或るものではなく、或るものでありかつ他のもの. に、あるいは存在理解をはみ出る存在、現前しな. ︵ロA−∞﹀−○告として、自分自身の. ︵GA付和︶謡00︶ということを発見した。これに忠実であるかぎり、. プラトン は である﹂. ︵う ち な る 他 の も の ︶. 人間は、﹁自 分 自 身 に 耳 を 傾 け る 存 在 者 ﹂. 外部. い存在に呼応することを命じられる。そうだとすれば、存在することへの応 答は循環にとどまることでは果たせないであろう。ここで生じるのが、循環 から転回への道行きである。一九三六年以後のこの歩みを跡づけ、私たちの. ハイデガーの全集と著述からの引用は次の略号による。. MaanHeide明笥rGe置mtauSgabe﹀≦ttOriO匹○裟ermann. b玩Ph旨OmenO−○腎che:nterpretatiOnNuA計tOte訂︵>ロNei笥derhermeneutischenS. GA. iロ︰b謀計童・計ざぎc計音﹁℃已訂功名已内§札n認C已cだ吋計1G乳監認∈訂籍莞C計鳥§﹀ぷrnd2nh02Ck 紆Ruprecht﹀Bd.の﹀−慧這. BZ出馬r≠萄私宅Zeit︸M.Niemeye♪−慧這. N§払莞軒数仇b3許諾︸M.NiemeyeJ−望遠. scha仁ung︶−n︰b賢計童・n訂ざひ莞PBd.00L諾∽. D句Wi−be−mDi芹beys﹃OrSCどngsarbeitunddergegenw笹註ge只ampfum2in2. SD. 日本倫理学会編、一九九三年、一〇一−一一七ページ。. ︵1︶拙稿﹁循環!ハイデガー初期フライブルク時代への一視点﹂、﹃倫理学年報﹄第四三集所収、. Nたd?ヅ︵邦訳﹃ソビステス﹄プラトン全集3所収、藤沢令夫訳、岩波書. ス﹄講義を中心に﹂、﹃創文﹄第三四六号所収、創文社、一九九三年、一五‡一人ページ。. ︵2︶本節は次の拙稿に大幅に手を加えたものである。﹁現前と非現前ヨハイデガー﹃ソビステ. ︵3︶P−atO﹀払竜已洛恥﹀ 店、一九七六年、七人ページ。︶. ︵4︶功名已諷眉N∽ざ∽ム.︵邦訳、一三二−一三三ページ。︶. −. 真理についての問い﹄. ︵一九二五/二六. において、︵︵解釈学的な︶として一構造︶という術語を与えら. 別なもの︶として語るという言葉の構造は、﹃論理学. 盲︶官等を孝志盃bヅ︵邦訳、一五一ページ。︶ちなみに、或るものを或るもの︵当のものないし ヽヽヽ や﹃存在と時間﹄. れるようになる。﹃ソビステス﹄講義ではプラトンに帰せられているが︵GA−¢﹀誓ゴ、﹃ナートル. 年冬学期講義︶. −00巴。. プ報告﹄以来しばしばアリストテレスに源を求められている︵呂﹀N諾いGA−∞︶霊﹀誌○いロA柏N﹀. 崇監−N・e悼㌧︵邦訳、二二〇−三二ページ。︶文脈からすれば﹁それぞれ﹂はそれ. ぞれのeidOSと解するのが穏当だが、ハイデガーはそれぞれの或るもの、存在者と読む︵GA−深. ︵6︶官等を訂り. また、Onが存在する. ︵もの︶、訂terOnが異. ︵なるもの︶. と両義的に訳されている点からわか. ぃ宗︶。この強引な解釈はeidOSを存在者の存在と見る見方が背景にあろう。. るように、ハイデガーによれば、プラトンはアリストテレスと追って存在の水準には達しておら. ず存在者の水準にとどまった ︵竺箕︶。存在するものの存在を表す語としてのgenOSとeidOSに. ついても、ハイデガーは次のように述べる。プラトンのばあい、駕nOSは純粋な認知︵n邑n︶. によって見られるeidOS︵見え姿A亡SSehen伝統的解釈では形相︶と混同されているが、あえて. アリストテレスの地平から、﹁或るものが由来する系統﹂、すなわち﹁或る存在者が当のものとし. ︵人間が現に存在しっつある過去︶であり、eidO∽は見え姿として現前性である︵諾∽〇。この. てそのつどすでにそれであるところのもの﹂として解釈しょう、と。genOSは由来として既在性. いわば発生的、力動的なプラトン読解は︵存在と時間︶を視座としている。多様な存在があるの. 11. 解釈学的視座から吟味するのは、しかし本稿の課題ではない。. 註.

(13) 後 藤 嘉 也. でなくて は な ら な い と い う 存 在 論 を プ ラ ト ン に 帰 す ︵ 藍 色 ある。. のも、アリストテレスの地平からで. ︵7︶一九三〇/三一年冬学期のゼミナールでハイデガー自身が認めるところでは、﹃パルメニデ ス﹄篇は︵存在と時間︶という問題への﹁もっともラディカルな突進﹂であった︵Th.RegeE崇. ものであるかどうかは、存在論的な構造から考えられている。すなわち、恒常的、不変的、必然. は劣った存在者である﹂. ︵﹃アリストテレスの倫理思想﹄岩波書店、一九九二年、七一ページ︶。. 的、永遠的に存在する者は勝れた存在者であり、断続的、可変的、偶然的、一時的に存在する者. 本節と次節でまもなく示すように、マールブルク時代のハイデガーは、この存在論的構図をたん. qbersicht告erdieこHeidegge計ロa矢imHerbertMarcuse・旨cbiくderSt tし ・た uの nで dは Un S在 iと t時 跡間 訂︶ ・ という視点から組み替え、永遠の存在を人間の脱自的時 にa 逆d転 なi くく 、e ︵r存. ると、﹃パルメニデス﹄篇のe舛aiphanmsに注目してこれを瞬間︵Augenb−ick︶と解釈したキル. が、ハイデガーによれば、古代ギリシャには永遠なるものはなく、﹁つねに﹂があるだけであ. bib−iOthekin守ank2まamMain∵n︰加訂註奄r哲邑訂恥﹀ざー.↓こ謡−㌫﹂芸︶。ガーダマ一に 間よ 性によって構成される恒常的現前性として位置づけようどした。ちなみに、最終節でもふれる. る。永遠なるものは現存在によって構成されたものにすぎない。彼が恒常的現前性とはいうが永. J・C・B・MOhJBd.〆−浩犀S.N宗”くg−.〇.P爵ge−eJ寧ぎStreitumP−atOロ︰Heidegger遠 声n a性 da のd 現G前 と・ いわないのはおそらくそのためである。ハイデガーが留保ぬきで永遠という言葉を. ケゴールの﹃不安の概念﹄の長い註がここに介在している︵串・P︵訂鉢S賀三好変SS買ぎこ霹ま挙. 第六十三節は、数少ないその例外の一つである。. ︵u︶如芦3c.L−Ⅰ﹀−ユーーOa−?−P︵邦訳﹃ニコマコス倫理学︵上︶﹄. ︵ほ︶♭已stO邑es﹀Pbys.﹂IH﹂︸望−a−?⊥こ.︵邦訳﹃自然学﹄アリストテレス全集3、出隆・岩崎允. 二二〇ページ。︶. することがきわめて稀だという点は注目に催する。全集第二十二巻︵一九二六年夏学期講義︶ me︼こn︰℃訂旨⊇S.軋篭乱S詰む芦註宍許さQ乳監q童謡C已c訂e﹀hrg.↓KObuschu.B.M鼠sisch−Wi発 s・ 語nSCha迂icheBuchgese−−scha芦−涙声S.芝?N琵︶。. である。いつなの. 立ち返ることが、既在しっつあること. ギリシャにおける︵存在=現在︶という︵存在と時間︶は、存在することをさすOuSiaという. あるもの﹂. ︵PA−P当○︶という意味合いがある。ものが存在するとは、畑や台所用品などのよう. それには、﹁日常的現存在において思いどおりになるもの、思いどおりになるように現にそこに. る。この語は、哲学以前の日常的用法では家屋敷や財産、所有物を指す。ハイデガーによると、. ヒユポケイメノンやエイドスなどの意味で用いられ、ギリシャ存在論のキーワードの一つであ. 語と制作との連関からも見て取れる。OuSiaは、プラトンではイデアの、アリストテレスでは. ︵14︶. 書店、一九七七年、三〇八ページ。︶. ︵13︶b已stOte−es︶Met.宍﹀00こ○怠b−?−−.︵邦訳﹃形而上学﹄アリストテレス全集ほ、出隆訳、岩波. こと、すなわち将来︵zukun芭という時間の根源的現 胤象 訳、岩波書店、一九六人年、八四ページ。︶. かが未定でしかし確実な可能性としての死に向かって先駆することが、自分を自分自身へと到来. ︵8︶時間性とは、﹁既在しっつ現在化する将来として統一した現象﹂︵ロビN﹀金柑︶. ︵苫kOmmen⊥assen︶. である。これにもとづいて、自分がつねにすでにあったとおりのもの、もっとも固有な既在︵Ge・. させ将来 さ せ る. む或る人 物 に 手 を 差 し 出 さ な か っ た と い う 自 ら の 事 実 に ︶. weseもに︵たとえば、死の可能性を忘れ︵ひと︶というありさまに没入したという、また苦し. ︵Au笥nb−ick︶、これが現在化である。それゆえ、﹁人間の生は時間のなかで生起するのではな. である。そして自らがおかれている状況に自分が出会うようにすること、状況を眼差す瞬間. であってそのつど時間化する。また、死という. 到来・既在・現在という三つの様相のいずれも﹁⋮に向かって﹂という性格をおびており、時. く、時間そのものである﹂ ︵D月−霊︶。. 間性は脱自的 ︵ekstatischおのれの外に向かう︶. に、いま目の前にあり私が制作し使用し配慮しかかわっているもの︵pra叫ヨata︶、いつでも現在. である。この時. ぼって﹁○亡加iaの意味とpOi賢s︹制作︺の意味との基礎的連関﹂︵当−︶に言及する。. す制作︵Herste−−en︶ のherと結びついている。それゆえ、ハイデガーはプラトンにさかの. 終末︵Ende︶ に向かう将来が第一次的現象であるから、それは有限︵end−ich︶. という概念自体、そうした︵存在と時間︶. させられるものだということである。ここでいう現や現在は、アリストテレス存在論の基礎をな. ルを踏襲して自己関係を特徴とする実存︵E軋stenz︶. 間化する有限な脱自的時間性が恒常的現前性の対極に位置するのはいうまでもない。キルケゴー. の視界か ら 選 ば れ て い た と 読 む こ と も で き る 。. 文庫、一九九四年、二二〇ページ。︶くg−.ゝ昆︶M試いPA−乎N−.なお、後世において岩phiaは理論. =現在存在すること︶︵のA−00一帖−里という規定から︵存在=生成する存在=ビュシス︶に回帰し. 波現代文庫、二〇〇〇年、第三章︶。ただし、ハイデガーは当時すでに、︵存在=制作される存在. この連関を鋭く指摘したのは木田元である︵たとえば﹃ハイデガー﹃存在と時間﹄の構築﹄岩. 理性、phrOn訝isは実践理性と解されるようになるが、ハイデガーによれば、アリストテレスを. ょうとしていた、という趣旨の木田の解釈には同意できない。なぜなら、第一に、マールブルク. ︵9︶旨stOte−es﹀馳芦≧c.∨≦︸∽﹀ 〓∽欝−甲−甲︵邦訳﹃ニコマコス倫理学︵上︶﹄高田三郎訳、岩波. カントから解釈することはできない ︵GA−00﹀霊〇。その意味で、tbeひユaとthe晋einの訳語には. 時代の解釈では、ビュシスによる存在︵者︶. ︵physeiOnta︶という生成する存在者も、﹁ほかの存. 理論的観 想 で は な く 観 想 を あ て た い 。. 四年、一七六ページ。︶くg−.GA−ダー遥.岩田靖夫は、神的なものにかかわる知恵と人間の生にか. ︵望もからである。一粒の麦が地面に落ちることによって麦が新たに生まれる。この出来事も. たがって﹁技術のなかで制作されているpra習ataとまったく同じように現に存在している﹂. 在者によって制作される必要がなく、自分自身を制作するなかで現に存在するもの﹂であり、し. かわる賢慮との対比について、適切にも次のように記している。﹁ここで、或る存在者が勝れた. ︵10︶向芦旨c﹀〆↓﹀−−∃b窒・∽甲︵邦訳﹃ニコマコス倫理学︵下︶﹄高田三郎訳、岩波文庫、一九九. 12.

(14) 生の存在論としての〈存在と時間〉. 広義の制作であり、自然は制作の一部である。一九三九年にはビュシスを制作の一種とみなすア. 在﹂と連関する︶ことを指摘している︵く箪〇.P茸ge訂J詳説慮喝爪こ⊇乳莞rN&︸−涙声S.葦. のあらわにする三様式が﹃存在と時間﹄. 駕﹁曾ヨ叫訂哲弓叫﹀ed.︶つ詳sie−軒叫.声B彗enこ波扇pp﹂漂一望−.ペゲラーも、アリストテレス. ︵ひいては第三篇﹁時間と存. リストテレス解釈をしりぞける ︵のA¢︸諾巽︶が、マールブルク時代にはそうではなかった。﹃存. ﹁良心をもとうとする意志﹂ないし決意性を先取りして、一九二三年のハ. の三種の存在と照応する. 在と時間﹄などでも、風や林のような自然も、周囲世界の広義の道具的存在者、現前する存在者. の. 諾︶。﹃存在と時間﹄. イデガーが賢慮について ﹁それは良心のことだ﹂と語ったのはあまりにも有名なエピソードであ. ︵nA. として位置、づけられている。当時の彼は、パルメニデスなどビュシスを主題にしたソクラテス以 前の思索者よりもプラトンを、そしてプラトンよりもアリストテレスを高く評価していた. る︵碑缶n乱PヨerG空白ヨヨ覧m寿r訂﹀Bd﹂ⅠIL慧声S﹂冨ごく箪GA−00﹂会︶。. 数訂℃家宝ヨ含0∼局訂﹀−器00u. tiOn訂ide喝geユennede−aphilO∽Ophiepratiq莞d︶貧stOte㌦n︰﹃.言古ieta−.︼詳説慮. なうことについては、次を見よ。﹃ざ督︸DaseincOmmepra軋∽︰巳as玖mi訂tiOneこaradica. ︵16︶寮NごⅠメNこ00∽a∽∽.︵邦訳、九二ページ。︶存在することの多義性が時間の一義性とあいとも. −り﹂害﹀㌶−﹀畠○﹀畠↓︶。第二に、技術と対比されていたのは、この節でまもなくみるようにビュ. である時間から多様かつ一なるものとして解釈されようとしていたからである。ちなみに、転換. ることは、ビュシスつまり﹁おのれからの立ち現れ﹂としてではなく、人間の現存在の根本規定. 年、一七五ページ。もちろん、この三種をアリストテレスにおける存在の多様性とみなすのは強. シスではなく賢慮ないし実存・生だったからである。第三に、これも本節で検討するが、存在す. 期の大著﹃哲学的寄与﹄ ︵一九三六−三六年︶ でも、アナクシマンドロスからニーチェまでの全. し、一九二六年夏学期講義では、デュナミスとエネルゲイアがそれらの多様性の一石の根本様式. ての存在、アレーテイアとしての存在、カテゴリアイとしての存在という多様性である。しか. pp.−ムー.また細川亮一﹃意味・真理・場所﹄創文社、一九九二. 歴史は存在の真理を問わない最初の始源として来るべき別の始源とは対照的に位置、づけられ、立. のなかでも、自然は、行為が親密なもの. 引にすぎる。アリストテレスのばあい、ウーシアとしての存在、デュナミスとエネルゲイアとし. なお、1 ・ フ エ ル に よ る と 、 す で に ﹃ 存 在 と 時 間 ﹄. ち現れとしてのビュシスと存在の真理との相違が指摘されている︵GA票﹂芝︸山∽陀﹀∽N讐。. ︵道具的存在者︶ たらしめるにもかかわらず、これに抵抗する異他なるものとして根源的に開示. とn しt てh 解e釈 されている︵↑Hル句e亡㌔beFami−iarandt訂Strange︰OntheLimitsOfPra舛訂i Eさ aれ r、 −し yかもデュナミスですら客体的存在として現在中心に捉えられたことが示唆さ れている. ︵GANN−∽讐︶。この批判的示唆は、可能性という現前しない存在・実存を、つまり将来. 嵩eideggeユn︰昏註應喝er︰Cr註c已知昌乱眉ed.H.Dreuきs詳H.H巴−︸−遥N︶p.遥︶。この解釈は. ﹃ドイツ国民. ︵函館校教授︶. ︵口付栄子﹃若き教養市民層とナチ. ﹁自由ドイツ青年﹂という名称は、ナポレオン占領下におこなわれたフィヒテの. 魅力的で相応の説得力がある。たとえば、﹁世界は現存在が実存するかぎりでしか存在しない。. ︵17︶. から時間化する時間性を強調する本稿の解釈を補強する。. 自然は現存在が実存しなくとも存在しうる﹂︵G>M♪Nた︶という注意は、﹃存在と時間﹄にたい. に告ぐ﹄. 第七講演に示唆を受けたといわれる. する留保の表明である。主著では、﹁いわゆる︵自然︶は自然の産物という視点からともに発見. ズム﹄名古屋大学出版会、二〇〇二年、九二ページ︶。. ︵一八〇八年︶. されている﹂ ︵pだ三富︶と語られており、樹木は木材、川は水資源として開示されたのだからで. ある。しかし、この留保は、人間の視界に入るかぎりでの存在者に接近する姿勢の根底的変更を 迫ってはいない。草木の自然が道具的存在者と異なる可能性が承認されるかどうかは別として、. が重要であ っ た 。. 当時においては自然そのものよりも種々の存在を理解する唯一の存在者である人間の実存のほう. また、○宏iaと驚くほど類似しているのがドイツ語のトロWeSenである。>ロWeSenも、日常語. としては思いどおりになるものとしていま目の前にある家屋敷や地所を意味し、ハイデガーの哲 ︵のちに顕在化するギリ. シャ・ゲルマン枢軸称揚の原型をここに見ることもできよう︶。ボーフレが伝えるところでは、. 学的術語と し て は 現 前 ・ 現 在 と し て の 存 在 す る こ と と し て 用 い ら れ る. ハイデガーはギリシャ語を経由して間接的にではなくドイツ語から直接この点を学んだ︵J.Bea苧. 守2tもを厨莞崇莞染敦盛菩声㌣訂註箋計落益ぎ首領ユき萱チ忘葦p﹂−ゴ。いずれにせ シャ人ヤアリストテレスは︻解釈学的循環のゆえに重砲自身から分かちがたくなっていた. よ、○宏ia解釈と♭巨竜eSen解釈のあいだには循環がある。そもそもハイデガーにとって、ギリ. ︵遥1.SD﹀荒いGA票︶∽∽︶。. ︵ほ︶繋ぎ音読eingandゴme︰A天守an∽訂tiOn¥Ofthe呂cOmaCheanEtEcsごn︰詳喜ぎ告辞註琴. 13.

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