集 中 研 究
﹃ 奥 の 細 道 ﹄ を め ぐ っ て
■ 集 中 研 究 発 表 要 旨
貼紙訂正︿過客﹁にして行かふ﹂年も﹀について
︱不易流行・行きかふ・立ち帰る・月日・年・船頭・馬子・予︱
谷地快一
﹃おくのほそ道﹄冒頭にでる︿行かふ年﹀は李白の︿光陰﹀(春
夜宴桃李園序)よりも︑むしろ﹁あらたまの年立帰る朝よりまたる
る物は鴬の声﹂(素性・拾遺・春)の﹁立ち帰る年﹂に近い︒一方
に流れ去る時間把握(第‑図)ではなく︑循環して元の場所にたど
り着いた旅人のごとき概念である︒だが︑新出本﹃おくの細道﹄は 第五十回俳文学会全国大会第二日(一九九八年十月十八日︑神戸親和女子
大学)に開かれた集中研究発表﹁﹃おくのほそ道﹄をめぐって﹂の発表要旨
と発表・討議についての印象記とを︑以下に掲載する︒発表要旨は︑必要に
応じて大会当日までに結論を含めて書き直していただいたもの(山本唯一氏
のものは大会発表要旨のまま)︑印象記は︑編集委員会から依頼したもの(編
集後記参照)である︒なお︑発表者ではなかったが︑急拠︑司会者側(堀信
夫・堀切実)の依頼でパネラーのかたちで壇上に上がっていただいた上野洋
三氏の︑現時点での見解メモも︑収録させていただいた︒
(発表要旨は︑当日の発表順︑印象記は五十音順)
︿として立帰﹀に貼紙をして︿にして行かふ﹀へと推敲した︒︿とし
て立帰﹀では︿行かふ﹀べき二者の一方しか示さないからである︒
数種の﹁行きかふ﹂の意味の中から︑芭蕉は﹁行き
違う﹂の用例を選び採った︒﹁夏と秋とゆきかふ空の
かよひぢはかたへすゞしき風や吹らん﹂(躬恒・古今・
夏)は︿夏﹀と︿秋﹀の二者が入れ替わる情景︑﹁白
たへの波路を遠く行きかひて我に似べきは誰ならな
くに﹂(土佐日記)は新旧の国守の交替を題材とする︒
旅が一方的に行って帰ることではなく︑邂逅と別離
をその本意とすると思い直したとき︑﹁立ち帰る年﹂
は﹁行きかふ年﹂へと改められた︒
光 陰 → 天 地 → 光 陰 第1図
50
︿月日は百代の過客にして︑行かふ年も又旅人也﹀は対句的修辞
で前後をつなぐ︒つまり︿過客﹀と︿旅人﹀が対をなし︑︿月日﹀
に︿行かふ年﹀が対応する構造である︒このうち︿行かふ年﹀が往
く年と来る年であるならば︑それと対をなす︿月日﹀も行き違う二
者︑すなわち月(MOON)と太陽(SUN)である︒李白の︿光
陰﹀が一方に過ぎゆく時間であるのに対して︑芭蕉は︿光‑陰ハ日
‑月ノヒカリカゲ也﹀(古文真宝諺解大成)などの原義に立ち戻った
のだ︒李白の世界観は︑時間は天地という仮の舎りを過ぎゆく旅人
で︑人生もはかない浮世であるという︒これでは﹃方丈記﹄や﹃平
家物語﹄の序が説く救いのない常識と同じで︑︿漂白の思ひ﹀は高
揚し難く︑芭蕉は旅立てない︒旅の本意はあるモノと︿行かふ﹀こ
とにあり︑それに積極的な意義を認めなければ旅は始まらないのだ
から︒ここに︿光陰﹀を︿月﹀と︿日﹀に分けた理由がある︒︿月日﹀を太陰と太陽と解することは︑例えば元文五年の﹃奥羽
笠﹄の松琵序︑寛保三年の﹃芭蕉翁奥細道拾遺﹄の莎青序︑宝暦九
年の﹃おくのほそ道鈔﹄(村径著)などにみえて︑少しも荒唐無稽
ではない︒梨一著﹃奥細道菅菰抄﹄が︿日月ハ百代ノ過客⁝⁝﹀と
立項したのも︿原文を﹁日月﹂と誤つて﹀(詳考奥の細道)掲げた
のではなく︑︿日‑月ノ行‑道ヲ旅二喩フ﹀という梨一の解釈の反映
と忖度すべきものであった︒
序章は天体の運行から歳月へと素材をかえ︑次第に人の世に視点
を移し︑最後に旅人芭蕉に焦点を絞る︒船頭や馬子そして旅に生涯
を終えた古人と同じく︑自分もまた︿行かふ﹀べき存在の一方であ
るという自覚が︑もう一方の存在である妻子ある家庭を想定させ︑
草庵をも旅すなわち︿行かふ﹀空間として創造する(第2図)︒省
第2図
かれたかにみえた李白
の︿天地者万物之逆
旅﹀の︿逆旅﹀は︑こ
こで︿草の戸﹀すなわ
ち︿雛の家﹀という住
み替わる空間として提
示されたのである︒と
すれば︿雛の家﹀の主
に代えて︑たとえば︿仏五左衛門﹀や馬の
跡を慕う︿かさね﹀を
代入し︑︿清水流るふ
の柳﹀を取り込んでゆ
くとき︑そこはすなわ
ち作者が旅における﹁あるモノ﹂との出会いを通じて不易すなわち﹁まことなるもの﹂
を詠いあげる舞台そのものではないか︒そして︑この行きかう時空
を前提とし︑かつ﹃おくのほそ道﹄を逸脱しないように注意を払っ
た上で︑不易流行の意味を考えれば︑不易と流行の二項はやはり︿対立するものではなく︑流行する中に不易が表われる﹀(井本農一
﹁おくのほそ道ノート﹂︑﹃奥の細道を歩く﹄新潮社)という文芸観
として説かれはじめたもののように思われる︒ 51
﹁俳 諧 ﹂ ﹁誹 諧 ﹂ の 用 字 法 を 視 座 と し て の ﹃ お く の ほ そ 道 ﹄ の 諸 本 の 検 討
復本一郎
天理本(曾良本)﹃おくのほそ道﹄の墨訂が︑素龍によってなさ
れたものであるという小林孔氏の﹃文学﹄一九九八年春号︿﹃奥の
細道﹄の展開︱曽良本墨訂前後︱>の新説は︑大変興味深い論
考であった︒
ただ︑文学があくまでも個人の天賦の才に負うところの大きな営
みであることを忘却してしまったならば︑小林氏の新見は︑氏の意
図したところとは異なる方向へと発展してしまう危険性を孕んでい
ると思われる︒
素龍の墨訂が総て素龍の文学的才によってなされたと判断してし
まうことは︑あまりに早計に過ぎるであろう︒素龍の墨訂により︑
﹃おくのほそ道﹄の文章が︑よりすぐれたものになっているとする
ならば︑芭蕉より素龍の方が天賦の才に恵まれていた︑ということ
になる︒このことを認めるか︑認めないかは︑俳文学者個々人の文
学に対する姿勢を問うことにもなる︒大坂住の素龍は︑江戸に下り
元禄五年(一六九二)冬︑芭蕉と相識る(﹃俳文学大辞典﹄上野洋
三氏説)︒︱﹃おくのほそ道﹄の成立を︑今栄蔵氏説に従って
(﹁連歌俳諧研究﹂九十五号所収︿﹃奥の細道﹄の成立をめぐる諸問
題﹀参照)元禄六年初秋盆過ぎから初冬の頃まで︑としても︑芭蕉
と素龍は︑江戸という同じエリアで生活していた時期があったので
ある︒とすれば︑芭蕉は︑直接素龍に面晤して補訂の指示を与えた り︑あるいは︑メモを手渡して指示したり︑そして︑時には書簡に
よって指示したりした︱その結果としての素龍の墨訂であると判
断したほうが︑自然に納得できる箇所が少なくないのである︒
その代表的な一つが︑新出自筆本(中尾本)の段階で︑すでに
﹁等窮﹂﹁等躬﹂の両表記が示されていた登場人物が︑天理本(曽良
本)で﹁等躬﹂から﹁等窮﹂へと墨訂されている例である︒ここに
は︑明らかに芭蕉の文学的意図を認めるべきであろう︒モデルの朧
化である︒それゆえの指示の結果による素龍の墨訂である︒
そして︑もう一例が︑私が特に注目している﹁俳諧﹂﹁誹諧﹂の
表記の問題である︒二つの表記に対しては︑歌論以来︑常に問題に
されてきた︒言葉に敏感な文学者であれば︑誰もがなおざりにし得
ない問題であろう︒芭蕉もしかりである︒自筆本では︑貼付下の一
例も含めて全五例が﹁俳諧﹂の表記であった︒ところが︑天理本(曽良本)においては︑前半二例が﹁俳諧﹂︑後半二例が﹁誹諧﹂で
ある︒そして︑最終的には前半二例も﹁誹諧﹂と墨訂されているの
である︒その墨訂が素龍によるものだったとしても︑そこには当然
芭蕉の意図を認めるべきであろう︒︱とすると︑新出自筆本(中
尾本)と天理本(曽良本)との間に︑もう一つの二次草稿本ともい
うべき﹃おくのほそ道﹄の存在を想定しなければ︑この問題は解決
しないのである︒ 52
曾 良 本 の 墨 訂 に 関 す る 私 見
小 林 孔
先般発表した拙稿﹁﹃奥の細道﹄の展開︱曾良本墨訂前後
1﹂(﹁文学﹂第九巻第二号・一九九八)では︑曾良本の墨訂のう
ち書き入れの大半を素龍の添削の筆とし︑墨消し抹消の筆を芭蕉の
点検の筆と考えた︒現在は二三想定される例外を除いて︑すべて
この考え方でおさまるのではないかと思っている︒ただし︑このよ
うに判断する場合︑改めて問題となるのは︑芭蕉の筆と考えられる
抹消の墨色にくらべ︑素龍の書き入れの濃淡の差がよほど大きいこ
とにある︒
拙稿の時点でも︑このことを考慮したうえで︑筆蹟照合の結果︑
墨の書き入れを素龍の筆と判断したのであるが︑この問題の回答に
ついては言及しないままであった︒そこで︑以下にこの点を含め︑
現時点での墨訂に関する私見を補記しておきたい︒
(1)墨の書き入れを見渡して︑それらの濃淡に明らかに差の認め
られるものがる︒その理由に︑墨つぎなどの要因も考えられよう
が︑とくに時間的な差が濃淡の差として現れたと考える必要があ
る︒
(2)素龍の書き入れの範囲は︑誤字等の訂正︑本文の推敲にとも
なう一部の改変と加筆︑さらには紛らわしい文字に墨を入れた文
字の修正にまで及んでいる︒加筆から添削︑修正と広範な墨の書
き入れには︑何回かの本文通読の反復が想定される︒
(3)墨訂のうち芭蕉の墨の抹消を追ってゆくと︑二十五丁表二行 目に﹁親王﹂を一度墨で消した後︑この二文字それぞれに朱の○
印がかけられ︑右に﹁僧正﹂と書き替えられた箇所が見出せる︒
これは朱の書き入れのすべてが墨訂の事前に完了していたわけで
はないことを意味するが︑他にもこれを証明しうる事象が曾良本
の中に見ることができる(曾良本に一箇所ある貼り紙の上の朱点な
ど)︒
ここに拙稿で示した︹曾良本成立図︺に右の(3)の項目を加えると︑
◆曾良本清書本文(利牛書写)←朱訂(芭蕉の筆による書
き入れ・補訂)←墨訂(1)(素龍の筆による改訂・推敲の加
筆)←墨訂(2)(芭蕉の墨消し・補訂)
※たとえば︑曾良本に一箇所ある貼り紙の上の文字
の墨訂(2)の補訂の中にふたたび朱の加筆が考慮されなければならな
いことになる︒やや複雑な様相を呈してはいるが︑清書へ向けた入
念な準備が曾良本の中で整えられていたのである︒
曽 良 本 は 本 文 も 芭 蕉 自 筆 で は な い だ ろ う か
村 松 友 次
漢字の字体の野坡本との相似
曽良本は薄くて表面のなめらかな用紙にかかれているために︑厚
くて表面のやや粗い野坡本に書かれた文字に比べると一見まさに別
人の筆のように見える︒しかし︑いちいちの漢字の書体を比べてみ
ると驚くほど相似点が見られる︒約四十字ほどを次に示す︒ 53
注右肩に○を付した文字は当時の他の文書にも見られる︒(山本唯一)
しかし︑当時の人が書体を人の書体に似せて書くことはさほど困
難なことではない︒それで芭蕉ではないある別の人物が忠実に野坡
本を模写した結果であるとの推定も成り立つであろう︒しかし︑以
下に示す三点を考えると曽良本筆者は野坡本を忠実に模写したとは
考えられない︒
その第一点は曽良本筆者が野坡本に従わずに勝手に本文を直して
いることである︒左にその十四例を示す︒
(1)﹁かすに見えて﹂を﹁幽に見えて﹂に(2)﹁日々﹂を削除
(3)﹁山山居﹂を﹁山居﹂に(4)﹁見るかこし﹂を﹁見るかことし﹂に
(5)﹁物ゝ影﹂を﹁物影﹂に(6)﹁栗の木﹂を﹁西の木﹂に
(7)﹁其後﹂を﹁其後二﹂に(8)﹁青たり﹂を﹁青ミたり﹂に
(9)﹁漸にして﹂を﹁漸として﹂に(10)﹁登ルニ﹂を﹁登ル﹂に
(11)﹁故ある﹂の三字を省く(12)﹁年老たる﹂を﹁年寄たる﹂に
(13)﹁行末しらぬ﹂を﹁行衛しらぬ﹂に(14)﹁葦﹂を﹁草﹂に その第二点は曽良本筆者が野坡本に従わずに漢字を改めているこ
とである︒その中の二三は野坡本が全くの誤りなので直したものが
あるが︑他は特に誤りではないのに︑あえて別の字体で書いている︒
それらの十一例(重複があるので計二十一例)を示す︒
(1)道岨神を道祖神に(2)處を所に(7ヶ所)(3)舟を船に(4ヶ所)(4)涙を泪に(5)箕張を三春に(6)添をに(7)漸を漸に
(8)安直を安置に(9)牧を巻に(10)磯を礒に(11)厂を广に
第三点は曽良本筆者が野坡本に従わずに勝手にかなを漢字に︑漢
字をかなに書き換えていることである︒それは左に示す四十五例に
のぼる︒
(1)光おさまれる←ひかりおさまれる(2)これを矢立の←是を矢立の
(3)見ゆる←ミゆる(4)おもひ立て←思ひ立て(5)見るに←ミるに
(6)もの也←者也(7)改たまふ←改給ふ(8)見れは←ミれハ
(9)那すの黒はね←那須の黒はね(10)これより←是より
(11)いへ共←いへとも(12)方二音信ルおもひ←方に音信ル思ひ
(13)那すの篠原←那須の篠原(20)侍るときけは←侍ると聞ハ
(15)これより←是より(16)おもひし←思ひし(17)秋風を←秋かせを
(18)兎角して←とかくして(19)川をわたる←川を渡る(20)0はるか←遥
(21)筵←莚(22)これ天の命なりと←是天の命也と(23)これより←是5
(24)あるハきり←あるハ伐(25)名も又これに←名も又是に
(26)小嶋の磯←小しまの磯(27)神のむかし←神の昔
(28)発句あり←発句有り(29)そこ共←そことも(30)風に破れ←風にやふれ
(31)見やりて←ミやりて(32)これより←是より(33)ひきのこゑ←ひきの声(34)の姿哉←すかたかな
(35)これをいなふねと云←是に稲つミたるをやいなふねとハ云ふならし
(36))云處に←云ところに(37)よまれし←讀れし(38)残ス←のこす 54
(39)おもひ侍れ共←おもひ侍れとも(40)初秋のあはれ←初秋の哀
(41)云ものあり←云もの有(42)萩薄←萩すゝき(43)散柳←ちる柳
(44)其家に←その家に(45)わたりて←渡りて
利牛説疑問
俳人真蹟全集第四巻﹃元禄時代上﹄(昭和六年刊)に載る利牛・
野坡両名の句(各三句ずつ六句)に編者巖谷小波が﹁利牛詠草﹂と
題をつけている︒
その六句の筆蹟が曽良本の筆蹟と同一であることから上野洋三氏
は曽良本筆者は利牛なりと判断した︒
しかし﹁利牛詠草﹂の四文字はこの六句を書いた人物が利牛であ
るということを意味していないと私は考える︒
利牛の筆蹟の管見に入ったものは柿衛文庫蔵の掛軸一本と某氏蔵
の短冊一枚の二点のみであるが俳人真蹟全集に載る利牛詠草と題さ
れたものとはあきらかにちがう︒
以上の点から私は曽良本の筆者は利牛ではなく︑かつ門人・知友
の誰かではなく︑芭蕉本人であろうと推察する︒御批判を乞う︒
中 尾 本 は 芭 蕉 自 筆 で は な い
山本唯一
中尾本には︑芭蕉特有の癖字がある︑したがって芭蕉自筆だと認
定するむきもある︒しかし癖字というものの中には︑当時通行して
いた異体字も多い︒それに癖字とて正確に模写されることが往々
あった︒癖字は︑真偽判定の切札とはなしがたい︒ ところで誤記や誤字が中尾本には異常に多く見受けられる︒﹁道
祖神﹂を﹁道岨神﹂︑﹁剛毅木訥﹂を﹁毅義朴納﹂とする︒また﹁瑞
巌寺﹂を﹁瑞林寺﹂︑﹁立石寺﹂を﹁隆釈寺﹂とする︒これらを文芸
的創作だとすれば︑他の地名などを正確に書いているのは何ゆえか︑﹁瑞林寺﹂﹁隆釈寺﹂と一旦書いたのに貼紙して訂正したのはなぜな
のか︒﹁戸伊广﹂(戸伊摩)を﹁戸伊厂﹂と厂(雁垂れ)にしている
のもおかしかろう︒
芭蕉が︑他で正しく書いているのに︑中尾本で誤った文字になっ
ている点が特に注目される︒﹃奥の細道﹄では﹁開基﹂の語は二回
出る︒中尾本では二回とも﹁開記﹂とする︒芭蕉は﹁羽山開基にひ
とし﹂(天宥追悼・懐紙)と正確に書いていた︒﹁雉兎蒭蕘﹂を中尾
本では︑最初﹁稚兎蒭遶﹂と誤る︒全く意味をなさない︒芭蕉は﹁身は蒭蕘雉兎の交をなし﹂(綿弓や・句文懐紙)とかつて記してい
た︒﹁恐る﹂を中尾本では﹁恥﹂の下に﹁心﹂という字を書く︒﹁世
に賞せらる﹂を中尾本では﹁世に棠せらる﹂とする︒書簡などをみ
ても芭蕉は﹁恐﹂や﹁賞﹂を誤ることはなかった︒さらに中尾本で
は︑﹁出づ﹂を二回﹁出ス﹂と記す︒芭蕉には﹁出ズ﹂と書く癖は
ない︒﹁大津にいつる道﹂(野ざらし紀行・初稿本)︑﹁破屋をいつる
程﹂(甲子吟行画巻)︑﹁桟や先おもひいつ馬むかへ﹂(更科紀行・草
稿)と書く︒﹁方寸を漬﹂﹁瓜天茄﹂等々も︑本人とすれば理解に苦
しむ表記である︒書写者には︑さして素養がなく︑書写の態度も厳
正ではなかった︒
中尾本の貼紙は︑書写の段階でも芭蕉が推敲していたことによろ
う︒一応文章を写したあとの貼紙(訂正)である︒中尾本は︑芭蕉
自筆とは認められない︒ 55
︻参考︼
上野洋三氏メモ
(1)基本的に芭蕉の筆蹟に共通する空気を湛えているが︑各丁ごとに
異った印象を与える︒
(2)一貫して明確に芭蕉のものであると論証するには︑積極的な言表
が必要であるので︑字のかたち︑書体をとりあげて︑一点一画の
有無を例にあげることにした︒
(3)用紙に関しては︑町田博士の鑑定に全面的に依拠している︒定量
分析のような手法は︑当面の判定に関して必要ではない︑とのこ
とである︒目視︑感触によるのみで充分である︑という︒
■ 集 中 研 究 印 象 記
集 中 研 究 雑 感
加 藤 定 彦
最初に司会者(ディレクター)からことわりがあったように︑こ
の集中研究は︑質疑応答(討議)で対決させて成否を決めるのが目
的ではなく︑﹃おくのほそ道﹄研究の今後の方向を示唆︑もしくは
促進するのが目的であった︒窮屈な時間制限の中で︑持説を展開さ
れた発表者の苦心︑中立の立場で的確に指揮権を発動し︑実りある 討議を演出された司会者の手腕にまず敬意を表し︑特に印象深かっ
た発表について若干の感想を述べてみたい︒
何といっても関心が集中したのは︑新出の中尾本が芭蕉自筆かど
うかの一点であろう︒自筆説側の発表はなく︑一貫して自筆否定説
をとる山本唯一氏が発表された︒その論拠の基本は脱字・誤記の多
さで︑中尾本を親しい門人による写しで︑張紙の訂正部分を書写を
同時進行のかたちで芭蕉が推敲していたことからの現象とする︒上
野洋三氏が芭蕉の癖字を自筆の根拠にされたのに対し︑門人などで
も癖字を書くのは可能で︑自筆の根拠とはならないとする︒新聞記
事などで山本氏の所説を拝読したとき感じたのだが︑もし芭蕉の癖
字を忠実に転写したのであれば︑誤字も同様に写し取られたと考え
られるので︑誤字・誤記の多さは自筆を否定する根拠にはならない︑
ということになる︒芭蕉自筆のものには︑案外︑誤字・脱字が多い
ことは経験で知っていたが︑中尾本のそれはやや多すぎ︑筆跡もど
ことはなしに弱々しいので不審は拭い去れなかった︒
しかしこの不審は︑今栄蔵氏が﹃連歌俳諧研究﹄第九五号に発表
された﹁﹃奥の細道﹄の成立をめぐる諸問題﹂により八割方解消さ
れたように思う︒﹃細道﹄は元禄六年秋から初冬の執筆にかかり︑
当時︑しのびよる老衰のため手紙などにも多くの誤字・脱字が認め
られ︑自身それを慨嘆しているので︑中尾本に誤字・脱字・衍字が
多いのも頷かれる︑というのである︱なお︑討議中に﹁芭蕉の誤
字﹂を﹃芭蕉全図譜﹄から拾って列挙した資料が聴衆に配布された
が︑山本氏の基本的疑義に答えるべく︑こうした反証データはいち
早く公表されるべきであった︱︒
一般論として紙質を科学的に究明して同時代のものであることを 56
立証しても︑自筆かどうかの決め手にはならない︒誰の目にも一〇
〇パーセント完璧な真筆は希少なので(中尾本ももちろん完璧とい
うわけにはゆかない)︑たとえ見解に個人差が生じても︑かつて岡
田利兵衛氏が実践されていたように︑一〇〇点満点で何点と点数で
評価付けするのが穏当のように思われる︒一人の権威により真偽を
裁断してしまうよりは︑そうした幅のある評価の方がかえって慎重
で︑学問的な態度のように思われる︒中尾本は︑山本氏も︑芭蕉が
関与したものであることを認めておられるのであるから︑そうした
幅をもたせつつ︑今後は︑稿本としての資料価値の考究に重点を置
くべきであろう︒
曾良本の訂正が芭蕉によると判定し︑﹃細道﹄のテキストとして
の重要性を看破された村松友次氏は︑その後︑曾良本本文も芭蕉自
筆であると主張された︒今回の発表もそれを踏襲されている︒共通
する癖字が散見することなどが根拠になっているが︑私見では︑全
体として書風に芭蕉らしさが感じられず︑先の今氏論文にも抵触す
るので︑賛成出来ない︒
小林孔氏の﹁曾良本の墨訂に関する私見﹂は︑基本的に抹消は芭
蕉の筆により︑墨訂の書き入れは素龍の筆によるとの結論である︒
同氏はすでに﹃文学﹄に論文を発表され︑﹃細道﹄のテキスト完成
に素龍がかなり関与していたという重大な新事実を発見された︒今
回の発表もその延長線上にあるが︑細かい表記上の字句修正はとも
かく︑文学性の根幹にかかわる重要な内容修正まで素龍が独断でお
こなったとは到底思われない︒筆跡だけでなく︑訂正が誰の意志に
より︑どのような手続きを経て行われたのかが今後の課題となろう︒
その他︑金貞禮・谷地快一・復本一郎各氏の有益な発表があり︑ それぞれ裨益するところ大であった︒諸説が出され︑揉まれること
によって︑問題のありかがはっきりし︑解決の糸口が見えて来る︒
その意味でも︑今回の集中研究は好企画であったと思う︒
議 論 を 詰 め る こ と へ の 未 成 熟
中 森 康 之
この種の討論で重要なのは︑分かり切ったことからもう一度︑一
つずつ論を詰めていくことである︒今回の討論は︑個別には興味深
かったものの︑全体としてはその雰囲気が薄かったように思う︒し
かも当日の発表自体は︑ほとんど議論されなかった︒そこで私なり
にもう一度︑その意味を受け取り直したい︒
・第一の柱︑真偽問題︒
発表者は山本唯一氏︒自筆説優勢の中︑異を唱える発表は意義深
い︒ただし期待はずれだった︒では何を期待したのか︒既に出てい
る山本説批判を一つ一つ検証し︑山本説を更に詰めること︒山本説
に説得力が出るとすればそれ以外にない︒当日配布された資料(自
筆説への質問)を中心に発表してほしかった︒櫻井武次郎氏からも︑
討論中ゲリラ的に山本説批判の資料が配布されたが︑こちらも説明
なし︒もう少し真正面から組み合ってもよかったのではないか︒
さて︑本格的な口火を切ったのは今栄蔵氏︒執筆年代を確認の上︑
﹁その時期に芭蕉そっくりの字を書けたのは誰か︑それが言えなけ
れば山本説は成り難い﹂︒見事な話の運びと迫力だったが︑実はこ
れは︑無実を証明したければ真犯人を連れて来い︑というのと同じ︑
強引な論法である︒そもそも自筆か否かと︑他筆なら誰が書いたか 57
は別問題だ︒おそらく今氏の真意は︑山本説の見通しの狭さにあっ
たのだろう︒他の質問もそこに集中した︒曽良本との関係(櫻井
氏)︑写しの目的(藤田真一氏)︑貼り紙の意味(同氏)︒
しかしその前に︑他筆説の根拠を詰める必要があったのではない
か︒山本説は微妙にニュアンスを変えているが︑﹁中尾本は芭蕉自
筆草稿の写し︑根拠は誤字﹂というに尽きる︒桃印説もそこから﹁憶測﹂という注釈付で出たものに過ぎない︒
だからこそ山本氏には︑提示された﹁別表﹂を誤りの性質によっ
て分類し︑批判を踏まえた上で︑それでもなお残るものがあるのか
ないのかを︑はっきりさせてほしかったのだ︒例えば氏が重視され
る﹁隆釈寺﹂はどうか︒ここを写しの根拠とするのは︑内部矛盾と
しか思えない︒写しなら︑芭蕉原稿にも﹁隆釈寺﹂とあったとしか
考えられないからだ︒﹁瑞林寺﹂﹁平永寺﹂とは誤りの性質が異なる
のではないか︒また﹁誤字の訂正の仕方にも留意すべき﹂とは︑小
林孔氏の発言︒
発表のもう一つの主眼は癖字批判︒上野洋三氏提示の癖字の多く
が芭蕉以外にもあるというのだが︑これは逆に︑上野説の精緻化に
過ぎない︒もし上野氏が始めから︑今もって芭蕉以外に用例を見な
いものだけを癖字として提示していたら︑そこにどういう論理をぶ
つけるのか︒このやり方は︑全ての例が他にもあり︑かつそれが同
一人に書ける可能性を示さなければ成り立たない︒むしろ山本説で
は︑癖字も写せると主張する方が自然だと思う︒そうすると︑では
何のためにそんな写しを︑という先の藤田氏の質問が効いてくるが︒
ただ山本説の論破が自筆説の証明になると錯覚してはならない︒
断定は厳しく慎重に︑という山本氏の言は重要である︒ ・第二の柱︑諸問題︒
まず小林孔氏の発表︒曽良本書込全てに判断を示し検討を促す姿
勢は高く評価されるべきである︒願わくば︑素龍の筆の資料も欲し
かった︒ところで︑もし素龍筆を認めたとして︑次の疑問が起こる︒
(1)書込は誰の意志を反映しているのか︒
(2)曽良本書込と素龍清書本の本文の違いをどう考えるか︒
それぞれ関連の質問が出たが︑小林氏の考えは︑(1)は素龍の意志
もありうる︑(2)は不明︒(2)は底本を考えるとき重要なのだが︒
また︑新たな仮説が提出された︒曽良本二六丁裏の﹁さゝえ﹂﹁かまへ﹂の﹁え﹂﹁へ﹂について︑従来の︑仮名遣いの迷い説を否
定︑素龍が二つ同時に書いて︑芭蕉に選択させたのだという︒そこ
から︑氏は素龍の添削の細かさ︑芭蕉への気遣いを読みとる︒書込
の墨具合はなるほどと思わせるが︑実は︑西村本は両者とも﹁え﹂︒
かえって芭蕉に失礼ではないか︒また単に訂正だけで︑選択させて
いない箇所はどう考えるのか︒あるいはわざわざ﹁へ﹂と書いたの
は﹁つ﹂と間違わないため︑というのも無理か︒さらに墨と朱の順
序についての興味深い提言もあった︒
次に村松友次氏の発表について︒十分説得的とまではいかず︑雲
英末雄氏ははっきり否定した︒﹁写せば字は似るのは当然﹂という
雲英氏の言は︑中尾本考察においても重要だと思った︒また発表資
料に自説反証材料もあげられた点︑村松氏の誠実さを感じた︒
第三に復本一郎氏の発表︒﹁俳諧﹂と﹁誹諧﹂を根拠にした︑新
しい諸本関係の試み︒言偏人偏の判断への疑問も出たが︑その判断
を支持したとしても︑この諸本関係には無理がある︒
復本氏は︑四例のうち︑全半二例を誤写とするが︑それには(1)曽 58
良本筆写者は︑普段人偏で書いていた︑(2)曽良本の当該箇所の書込
は誤写訂正である︑という二つの前提が必要なのである︒しかし︑
(1)は根拠が薄いし︑(2)は︑藤田氏が指摘したように︑素龍の添削と
も考えられる︒むしろ(1)(2)を前提とせず︑後半二例が誤写で︑書込
は推敲(素龍添削?)と見る方が自然で︑それだと中尾本から直接
曽良本で︑何の問題も生じないのである︒
・第三の柱︑内容解釈︒
発表は谷地快一氏︒﹃奥の細道﹄冒頭に関する刺激的な発表︒た
だ次の疑問を感じた︒(1)﹁時空﹂という語で因を進められたが︑そ
れだと︑李白﹁序﹂の﹁空間﹂﹁時間﹂の対句から︑芭蕉が敢えて﹁時間﹂だけをピックアップしたことの意味が瞹昧になってしまう
のではないか︒(2)﹁月日﹂と﹁年﹂の対句で︑﹁月日﹂をSUN とMOOMON
という具体物だとすると︑﹁年﹂はどうなるのか︒(3)﹁月日﹂にSUN
とMOONを読みとることはいいとしても︑その運行が時間概念の
具象化だとすれば︑やはり時間概念とは切り離せないのではないか︒
興味深い説ゆえ︑さらなる踏み込みを期待したい︒
﹁奥 の 細 道 ﹂ 論 の ゆ く え
藤田真一
ほぼ十年前の一九八九年は﹁奥の細道﹂三百年記念にあたり︑前
後三年間︑大垣・鶴岡・伊丹という︑ゆかりの地で俳文学会全国大
会が開かれた︒ちょうど昭和から平成への変わり目の三年間であっ
た︒当時の﹁大会の記﹂を繰ってみると︑やはり﹁奥の細道﹂関連
の発表が確認できるが︑数としてはかならずしも目立たない︒三百 年という節目と研究の醸成と一致するというのはむしろ稀なことだ
ろうから︑そのときの発表傾向は自然の成り行きといえるだろう︒
去秋の大会は︑それとは事情を異にした︒﹃自筆・奥の細道﹄出
現事件をきっかけに起こってきた諸問題︱自筆か否かの問題︑新
出本の意義︑曾良本の位置など︱︑これを集中的に討議すること
を︑学会あげて企画するものであった︒わたくしは︑早い段階で︑
積極的にかかわるように促されていたこともあり︑また当然ながら︑
一会員としてみのり多き討議になることを願ってもおり︑聴衆の立
場に終始することはかなうまいと思っていた︒当学会として久しぶ
りの試みを成功させたい気持ちもあった︒
五名のパネラーを兼ねた研究発表者は︑なんらかの形で発表済み
の自説を披瀝したものが多かった︒問題提起の色分けを明白にし︑
大会に臨む会員の準備と心構えを高めるねらいもあったのだろう︒
議論の白熱をねがう立場としては︑もっともな配慮といえよう︒そ
の思惑は︑ある程度成功したと評価できる︒ただ︑その配慮は逆に︑
既発表のさらに先をゆく︑新鮮な研究を展開させる方向に働かな
かったのも事実である(一部の発表にはあった)︒そのことは︑学
会として既定方針のゆえであり︑その責めを発表者に問うつもりは
まったくない︒
さて︑討論に先だって司会者から︑三点にしぼって議論をすると
通告があった︒一に︑新出﹁中尾本﹂(この名称は司会者からの提
案︒いわゆる﹁自筆本﹂)が芭蕉自筆であるか否か︑という問題︒
二に︑﹁曾良本﹂についてのさまざまな問題︒三に︑推敲過程や作
品としての文意の問題︒
この三点のうちで︑第一の問題が中心になるのは当然であろう︒
59
事実︑質疑も活発で︑熱の入ったやりとりがかわされ︑またもっと
も多くの時間が割かれた︒それでもなお︑時間不足・突っ込み不足
のために︑消化不良の感がのこった︒
第二の点については︑曾良本に多少ともかかわる発表をした三名
が︑曾良本に対してそれぞれちがった見解をもっていたのが印象的
であった︒いや︑立場上パネラーの一員に加わった上野氏を加える
ならば︑四通りの見解があったというべきだろう︒このことは︑曾
良本の筆者の問題︑朱・墨訂正者の問題︑﹁奥の細道﹂本文の生成
過程の問題など︑作品そのものを考えるうえで︑曾良本が今後のカ
ギとなることを予想させるものである︒
第二の議論は︑おのずと第三の問題につながっていくことになっ
たが︑この検討のためにのこされた時間はわずかであった︒
わたくし個人としては︑大阪の研究会で検討の機会をもち︑こん
ど学会の場で論議を重ねた︒いずれも十分であったとは言えないが︑
全体的討議を二度体験して︑一定の段階を踏んだと評価している︒
だが︑このようなかたちはもう打ち止めにしてよいだろう︒当面の
議論のありかや研究の方向性が見えてきたところで︑今後は個々の
研究者がさまざまな角度から問題を掘り起こし︑その成果を積極的
に世に問うていくことを念願する︒そこから︑﹁奧の細道﹂読解の
道が新たに開けていくのを楽しみにしている︒
最後に︑会場で質問したひとりとして︑その真意をただしておき
たい︒一は︑﹁中尾本﹂が︑芭蕉在世時︑その周辺での筆写だとし
たら(山本氏説)︑なぜあれほど手のこんだ貼紙訂正をほどこす必
要があったのか︒それなりの説明がなされなければならない︑とい
う指摘をしたものである︒二は︑曾良本中の﹁俳諧﹂から﹁誹諧﹂ への墨訂が︑芭蕉ではなく︑素龍によるものだとしたら(小林氏説
)︑復本氏の第二次自筆本説や支考俳論をからめる議論は不要に
依る点である︒歌人でもある素龍が︑和歌者流の﹁誹諧﹂の文字に
執着してなんのふしぎはない︒素龍板下の﹃炭俵﹄で︑すべて﹁誹
諧﹂と表記されていることと整合する︒素龍書込み説を認めるか否
炉にかかっている︑と思う︒これを裏からいえば︑曾良本の素龍墨訂
説を補強する事実であるということになるだろう︒
﹃ お く の ほ そ 道 ﹄ 集 中 研 究 の 射 程
宮 脇 真 彦
集中研究は︑﹃おくのほそ道﹄関連の五本の発表と︑それらを踏
まえて﹃おくのほそ道﹄の問題点を︑中尾本の資料的価値をめぐる
問題︑曾良本に関しての問題︑本文推敲の問題の三点に絞って︑発
表者を交えての全体討議という形で進められた︒以下︑それぞれの
問題点ごとにまとめて感想を述べてみたい︒
第一の中尾本の資料的価値をめぐる問題は︑それが自筆か否かの
議論に集約される︒つまり︑﹃おくのほそ道﹄諸本の中で︑中尾本
が曾良本の親本と認定しうるか否かということであり︑また中尾本
の貼紙の下書きや墨訂部分が芭蕉の推敲を反映するものと認めうる
か否かという問題である︒この議論は︑︿中尾本は芭蕉自筆ではな
く︑芭蕉の筆跡に似せて芭蕉の草稿本を写したもの﹀という趣旨の
発表をされた山本唯一氏への質議が中心となったが︑その中で山本
説は︑中尾本が元禄五︑六年頃︑筆写者・目的は今後の課題ながら︑
芭蕉の推敲途中の草稿をもとに写されたもので︑その貼紙訂正は芭 60
蕉の推敲結果を反映するものであり︑かつ曾良本の親本として認め
うる︑という説であることが確認されたことは印象的だった︒芭蕉
の自筆か否かの問題は今後なお議論されるだろうが︑少なくとも中
尾本の貼紙の下書き・墨訂を含めた本文の︑﹃おくのほそ道﹄諸本
中の位置づけについては︑ほぼ共通の見解に立つことが了解された
ことになるという印象を受けた︒
第二の︑曾良本についての問題は︑曾良本の墨訂に素龍が積極的
に関わるとする小林孔氏の発表と︑中尾本と曾良本との間に芭蕉の
第二次草稿本を想定する復本一郎氏の発表︑曾良本の本文の筆写者
を芭蕉と想定する村松友次氏の発表があった︒
復本氏の発表は︑曾良本の﹁俳諧﹂﹁誹諧﹂の用字の不統一が︑﹁俳諧﹂から﹁誹諧﹂へと意図的に訂正されていった経緯を反映し
たものとの見方を示したものである︒が︑曾良本筆写の際の用字の
不統一を素龍の判断で﹁誹諧﹂に統一的に直したものと見ても納得
がいく︒﹁俳﹂から﹁誹﹂への移行を示す第二次草稿本の存在を想
定するには︑他にも同様の例をあげるべきだろう︒村松氏の発表は︑
曾良本本文の字体が芭蕉の書き癖をよく反映し︑かつ中尾本の誤
字・脱字を訂正する部分があることから︑曾良本本文の筆者を芭蕉
と想定するものだが︑これは支持されなかった︒字体を含めて中尾
本に忠実に書写した結果とみる従来の曾良本への理解で問題はない︒
小林氏の説は︑﹃奥の細道﹄の展開︱曾良本墨訂前後︱﹂(﹃文
学﹄第九巻二号)で提起した自説に基づき︑曾良本本文への素龍添
削の状況をより明らかにしたもの︒曾良本本文が書写された上で素
龍が添削の筆を入れ︑さらに芭蕉が朱・墨両筆で︑その採否につい
ての最終判断を下す︑という曾良本の成り立ちを浮かび上がらせた この発表は︑曾良本の理解として首肯すべき見解だと思った︒
集中研究最後の話題は︑本文の推敲の問題︒谷地快一氏から︑
﹃おくのほそ道﹄冒頭の解釈が発表された︒氏の主張は︑中尾本に
よって窺われる﹁過客として立帰年﹂から﹁過客にして行かふ年﹂
への推敲は︑﹁行かふ﹂ものとしての﹁月(太陰)﹂と﹁日(太
陽)﹂との意を前面に押し出したというものだが︑議論が煮詰まら
なかった︒私としては︑﹁月日﹂は﹁行かふ年﹂と対応して﹁光
陰﹂を翻したものとする従来の解釈に従い︑﹁月日﹂は﹁光陰ハ日
月ノヒカリカゲ也﹂(古文真宝後集諺解大成)といった初源的意味
合いを読者に喚起するという程度の意にとどめたい︒
*
以上︑集中研究を終えて︑私の印象に残ったのは︑小林説に対す
る質議の中で︑光堂の句の添削が素龍によってなされたと解する小
林説への抵抗感が︑発表者の一部からも会場からも表明されたこと
だった︒それほどに︑小林説は従来の﹃おくのほそ道﹄への理解に
訂正を迫るものなのだ︒だが︑蛇足ながら注意したいのは︑だから
といって︑例えばこの光堂の句は紛れもなく芭蕉の﹃おくのほそ
道﹄の句であって︑素龍の句ということにはならないということだ︒
むしろ︑そのような形で生まれ出た﹃おくのほそ道﹄とは何か︑
﹃おくのほそ道﹄の作者芭蕉とは何か︑を改めて考えてみなくては
ならない︑ということなのではなかろうか︒小林説の驥尾に付して
言うならば︑近代的な作者観に基づいて理解しようとしてきた私た
ちに対して︑作品と作者の関わりに再考を促す作品として︑今︑私
たちの前に︑﹃おくのほそ道﹄はある︑ということになろうか︒そ
うしたことを含めて様々に考えさせられた集中研究は︑私にとって︑
61
司会者が﹁起爆剤としての集中研究﹂とまとめたのにふさわしい射
程の長い集中研究であったと思う︒
︿ 奥 の 細 道 ﹀ 集 中 討 議 を 聞 い て
母 利 司 朗
平成八年十一月下旬︑冬の夜︑テレビの画面を通じて︑いわゆる
中尾本﹃奥の細道﹄が︑瞬時に人々の目にとらえられてから︑はや
くも二年近くがたつのだという︒
以来︑ほとんど傍観者的な気分ながらも︑﹃奥の細道﹄研究の進
行如何になるたけ注意をはらってきたつもりであるが︑それにして
も︑新出資料の疑うべくもない画期性を思うとき︑﹃おくの細道﹄
をめぐる新しい研究の動きが意外なほど慎重に過ぎるとしか考えら
れないのは︑すこし不思議なことといわざるをえない︒
口頭発表五件すべてにわたる個別の感想については︑他の評者の
方の論旨とも重なることと思われるので︑ここでは︑筆者なりの興
味から私なりに感じたことを率直に記してみたい︒
今回の集中討議一時間半︑堀信夫・堀切実両司会者の示された論
点三点のうち︑結果的に一時間もの時間をあて意見が交わされたの
は︑新出のいわゆる中尾本が︑芭蕉の自筆本であるのか︑それもか
の︿野坡本﹀なのかどうか︑という周知の問題であった︒
中尾本を学会に︑というよりはマスメディアを通じ︑広く江湖に
紹介された桜井武次郎・上野洋三氏の自筆本説と︑少し遅れて出さ
れた山本唯一氏他の模写本説は︑その対立の構図がはっきりとして
おり︑その後の反響を取り込んだかたちで︑それぞれの立場からそ れそれの方が単著のかたちで論旨を明快に︑縷々論じられておられ
る︒そしてそれが︑いわゆる偽書であるかないかの論争でないこと
は︑中森康之氏が︑﹁新出本﹃奥の細道﹄の性格﹂(﹃国文論叢﹄
26)で︑述べられたとおりである︒
その点は︑今回の討議において︑はっきり確認できたのではない
かと思われる︒
﹃奥の細道﹄の︑従来知られていなかった本文が出現したこと︒
井口氏のいわゆる︿異本﹀ともいうべきものが出現したことは︑乱
暴な言い方ながら︑それがたとえ芭蕉自筆であれ︑その忠実な模写
であれ︑﹃奥の細道﹄という作品の︑どこが新しく生まれ︑どこが
捨てられていったのか︑という﹃奥の細道﹄生成の時間的・空間的
な奥行きを︑縦にも横にも広げてくれた︑という意味で︑従来の研
究を格段に豊かにするものとこそなれ︑けっして無駄にするもので
はないこと︑いうまでもあるまい︒
その意味で︑小林孔氏の﹁曽良本の墨訂に関する私見﹂(今春
﹃文学﹄誌上に発表された﹁﹃奥の細道﹄の展開︱曽良本墨訂前後
︱﹂の論旨を︑さらに思い切りよく前に進められたもの)は︑こ
こ十年余り︑素龍清書本をもととした﹃奥の細道﹄研究に魅力的な
幅を与えてきた曽良本への注視の流れを︑結果的に︑一見意外なか
たちで押し進めるものとなるのではないか︑という思いで聞き︑受
け取った︒曽良本の書き入れがすべて素龍の手になるとしても︑最
終的なチェックがやはり芭蕉の手になるものであるとすれば︑曽良
本の意義に根本的な変わりはないと思われるからである︒むしろ︑
中尾本ともども︑﹃奥の細道﹄研究の裾野がどんどん拡がっていく
楽しささえ感じられるのではなかろうか︒
62
新出本については︑論文誌上でのやりとりではない︑いわゆる︿噂﹀のかたちで︑中尾本についてのやりとりがさらに︿噂﹀され
る︑という側面がなかったわけではない︑と私にも思われる点が
あった︒それは否定できないであろう︒今回の集中討議は︑それぞ
れの立場の研究者が︑学会発表の場に一同に会し︑とにもかくにも
直接のやりとりを︑公開の場で︑時間差なくおこなったという意味
でも︑たいへん大きなインパクトがあったと思われるのである︒他
人事のような言い方ながら︑資料的には衆人一致して文句なしの画
期的な資料であると認めている中尾本をテコに︑﹁そうかそうか︑
﹃奥の細道﹄というのはやっぱりこんなにおもしろかったのか﹂︑と
いうことをあきらかにする︑本来の﹃奥の細道﹄研究が︑よりふく
らみをもって︑そろそろ続出してくるのではないか︒そんな予感が
する︒
63