はじめに
東南アジアは政治体制および政治変動プロセスの多様性を語るに最適な地域である。冷 戦時代に西側陣営に属し、かつ経済発展が進んだ東南アジア諸国連合(ASEAN)原加盟
5ヵ
国だけをみても、かつてこれら諸国の政治経済体制を説明する有力な認識枠組みであった 開発体制や開発主義のモデルを、もはや一律に適用することはできない。権威主義体制か ら民主主義体制へと体制移行が明示的に起こった国もあれば、そうでない国もあり、また 体制移行が進んだ国においても民主主義の定着度にはかなりの格差が生じている。本稿で取り上げるマレーシアは、シンガポールと並んで、革命的な民主化過程を経ずに 依然として権威主義的な政治体制が継続している国である。インドネシアと同様に、1997 年に始まるアジア通貨危機とその影響による政治変動を経験したものの、この国では民主 主義体制への決定的な転換は起こらなかった。形式的な要素が強いとはいえ、そもそも民 主主義的な制度が一定程度受容されてきた点、政治システムのなかに埋め込まれた独特の 体制安定化機能が働いた点、また当時の政権や政治指導者が体制維持のために民主化圧力 を跳ね返す有効な手立てを講じえた点などをその要因として挙げることができる。
とはいえ、1998年に起こった「レフォルマシ」(改革)運動を契機として、市民的自由や 政治参加の拡大を求める国民の声は確実に高まり、さまざまなチャンネルを通してそれら が従来になく広範かつ頻繁に表出され、「民主化」がアジェンダとして明確に設定されるよ うになったことは間違いない。これらは一時的な現象としてではなく、一定の継続性と組 織性をもった運動として浸透し、グローバル化の影響をも受けながら活性化してきた。
そして、マレーシア特有の政治制度、つまり完全な公平性は欠くものの高い社会的正統 性を有し、また東南アジア地域においては相対的に競争性が高いこの国の選挙を通して、
これらの声が公式の制度に基づく「民意」として発現されるようになった。2008年
3月の総
選挙において、独立以来一貫して政権を担ってきた与党連合が大きく議席と得票率を減ら す歴史的敗北を喫し、野党勢力が大躍進を遂げたのは、この国の政治体制と国民との関係 の変化を現わす強烈なシグナルであったと言えよう。この傾向は、2013年5
月の総選挙でも 大きな揺れ戻しなく続き、不可逆的とさえ思える流れになりつつある。加えて、従来にない重要な変化は、政府・与党が選挙結果や民意を睨みつつ政策や政治 手法を柔軟化させている点である。つまり、権威主義体制下での選挙の結果が政治・経済
面での規制緩和・自由化を促し、体制自体の弾力化が進んでいるのである。このことは、
フィリピン、タイ、インドネシアのような民主化運動の高揚による革命的な体制転換を経 ずとも、権威主義体制が自ら漸進的に変容し、民主主義的要素が浸透・制度化・定着して いく、いわばソフトランディングの民主化過程が実現する可能性を示唆している。
本稿では、このような観点から、まずマレーシアの権威主義体制の特徴を整理し、その うえで、この体制を支えてきた背景や条件の変化を含めてマレーシア政治の近年における 変容を捉え、その意味と方向性について検討する。
1
マレーシア型権威主義体制―民族別政党システムに基づく競争的権威主義体制近年の政治的変化をみる前に、同国の政治体制の歴史と特徴について整理しておこう。
マレーシアは1957年の独立から
1960
年代にかけて、旧宗主国イギリスから議会制民主主義 の諸制度を比較的忠実に導入し、当時は東南アジアで最も民主的な政治制度をもつ国と評 価されていた。しかし、ブミプトラ(マレー人およびマレー系先住民、65.1%)、華人(26.0%)、 インド系住民(7.7%)という民族構成(2000年の人口センサスによる)からなる典型的な多民 族社会をいかに統合するかというこの国ならではの課題が、民主主義の理念や制度を文字 どおりに実現するうえで大きな障壁となり、やがて同国を権威主義化へと向かわせた。多民族国家における国民統合を議会制と政党政治の枠組みのなかで実現させる方法とし て、脱植民地化の過程で生み出されたのが、民族別政党システムとそのなかで形成された 与党連合であった。これは、各民族集団の主要政党、つまり、統一マレー人国民組織
(UMNO)、マレーシア華人協会(MCA)、マレーシア・インド人会議(MIC)が、各民族集団 の利益を代表する政党として連合を組み、そのなかで民族間の利害を協議・調整する仕組 みである。この3党を核に他の民族諸政党とボルネオ島のサバ、サラワク両州の諸政党を加 えた政党連合「国民戦線」(BN)は、その前身にあたる「連盟」(the Alliance)も含めると、
独立以来、一貫して政権与党の座を保持し、同国の政治に長期安定をもたらしてきた。こ うしてマレーシアでは、この与党連合とやはり民族別に分かれた諸野党が林立して争う政 党政治が維持され、中央および州単位の選挙もほぼ定期的かつ競争的に実施されてきた。
一方、軍は完全に文民統制下に置かれ、政治的影響力をもつことはなかった。
1960年代までのマレーシアの政治体制は多極共存型デモクラシーの一例にも挙げられた
が(1)、1969年の民族暴動(「5・13事件」)を境に権威主義化が急速に進んだ。暴動後に政治 的実権を握ったマレー人改革派は、暴動の原因を華人への経済力偏在に帰したうえで、劣 位にあるマレー人の社会・経済的地位を向上させ、民族間の不均衡を是正することを国家 安定の必須条件と結論づけ、国策としてマレー人優先政策、いわゆる「ブミプトラ政策」を打ち出したのである。これ以降、憲法で定められた公務員職、高等教育機会、事業ライ センスのブミプトラ(主にマレー人)向け優先割当制が積極的に運用され、また新経済政策
(NEP)の下、華人と外資が支配してきた商工業部門でマレー人の資本・雇用比率を大幅に 向上させ、同時にマレー人ビジネスコミュニティーの形成を図る諸策が推し進められた。
しかし、この政策は多数派民族が自らを保護・優遇するために発動するアファーマティ
ブ・アクションであっただけに、少数派の華人やインド系住民からの反発は必至だった。
これに対して政府・与党は、各種規制策を駆使して不満の封じ込めと反対派の締め付けを 強めていった。1980年代以降は、マハティール政権(1981―2003年)下でこの路線がさらに 強化され、権威主義的な開発体制の性格が強まった。同政権は、ブミプトラ政策の徹底と 高度経済成長の実現を最優先に権力の一元化と社会統制の徹底を図り、22年余りのマハテ ィール首相執政期にマレーシア型の権威主義体制が定着したのである。
マハティール首相は、権力の一元化のために、議会や政党内で反対勢力を排除する熾烈 な権力闘争を展開するとともに、従来の権力構造を変えるべく以下のような手段に出た。(1)
多くの既得権益を有し、開発政策の障害とみなされたスルタン(イスラム統治者)、国王など 伝統的政治勢力の権限を縮小するために、憲法改正を含めた抑制策を講じた。(2)独立性が 元来高くしばしば反政府的な判決を下してきた司法府を行政府に従属させるために、圧力 行使や人事介入を行なった。(3)国民からの制度的な信託なく政治制度外で政策決定過程に 介入しているとみなした非政府組織(NGO)などの社会団体やマスメディアを政治過程から 排除するために、制度面および実施面で規制と取り締まりを強化した。
もちろん、このような過程は強い社会統制を伴い、言論・集会・結社などの市民的自由 や国民の政治参加は抑制された。特に、野党、社会運動に携わる社会団体、政府に批判的 な内外のマスメディアなど、反政府的な団体や個人に向けて国内治安法(ISA)などの治安 関連法が頻繁に発動されるなど、厳しい監視と規制がしかれた。また、既存メディアに対 しては、与党連合構成党による経営権の取得などを通して総与党化が図られた。
一方、マハティール政権は、権力の行使を正当化する裏付けとして選挙を重視した。た だし、同政権にとって、選挙とその結果が反映された議会は、国民の政治参加を保障する 制度としてよりも、むしろ政府と与党が一体化した体制の信任獲得と形式的な合意形成の ための手段であった。逆に政府は、選挙で信任を得ていない政治勢力の政策決定への関与 を不当として厳しく規制した。また、同政権は、少なくとも手続き面で法的、制度的枠組 みを完全に無視することはなく、権力や政策を正当化するための根拠を法律や司法判断に 求める姿勢もほぼ一貫していた。その意味では少なくとも形式的には「法治」であり、武 力を用いたクーデターや法を無視した権力奪取といった手段はとらなかった。「選挙」と
「法治」はマレーシア型権威主義体制を支える重要な構成要素だったのである(2)。
マハティール政権期を含め、同国では競争的な選挙が定期的に実施され、野党も活発に 活動してきた。しかし、野党やそれを支持するNGOなど社会団体の活動に対する制約が多 く、選挙は実態として公平とは言えない。また選挙制度の面でも、小選挙区制や極端なゲ リマンダリング(選挙区間の
1
票の格差は最大で10倍程度)
が与党の常勝を保障する仕組みと して機能してきた。このように、形式としては民主主義的な手続きをとりながらも、権威 主義的な政治手法によって制御され、常に与党に有利な状況がもたらされる体制を競争的 権威主義体制として捉える見方があるが、マレーシアはその典型的なケースと言えよう(3)。上述のように、市民的自由や政治参加は制限され、また政治制度の運用において公正さ を欠く状況が続いてきたが、それでも1990年代末までは大規模な民主化運動が起こること
はなかった。その一般的要因としては、経済成長の実績と市民的自由の欠如とのバランス が国民にとって受容可能なレベルにあったこと、民主化運動が沸騰した周辺国に比べて権 力者の腐敗度が低かったことなどが指摘できる。さらにマレーシア特有の多民族性に絡む 要因も大きい。与野党ともに民族縦割型の同国の政党システムの下では、民族を横断する 問題が国家的な争点になりにくく、権威主義か民主主義かの問題も民族間の利害対立にし ばしば置き換えられ、矮小化されてきたのである。このために政府・与党は、長らく「民 主化」というアジェンダを国民的議論の俎上から遠ざけておくことができ、国内外からの 民主化圧力という権威主義体制の「コスト」を最小化できたのである。
2
アジア通貨危機後の政治変動1980年代に確立され、その後同国に順調な経済成長をもたらしたマハティール政権下の
権威主義体制だが、1997年に始まるアジア通貨危機がそれまでの均衡状態を崩し、マレー シア政治は一気に流動化した。未曾有の経済危機に対して同政権は、国際社会の潮流に逆 らって国際通貨基金(IMF)の融資とガイドラインに依存しない自主再建策を打ち出した。経済危機に陥ったアジア諸国が
IMF
の緊急融資を受ける代わりに経済構造改革の厳しいコ ンディショナリティーを突き付けられる現実を前に、同国はIMF
に頼らない自力更生を選 択したのである。政府は、危機の元凶を投資マネーによる通貨・株価の操作とみなし、そ れを阻止するための大胆な投資規制策を実施するとともに、軒並み大打撃を受けたマレー 系企業の救済を行なった。さらにマハティールは、通貨危機の原因論をめぐって欧米の投 機家や彼らを放任する欧米的な価値とシステムを痛烈に批判し、同政府の再建策を時代錯 誤と非難する国際世論に対抗した。その後、マレーシア経済は資本規制下で回復に向かい、国際世論も次第に同国の政策を支持する方向に向かった。
しかし、通貨危機の影響は政治面にも及んだ。危機対応の過程で、アンワール副首相兼 蔵相が、グローバル化への対応を示唆してIMF寄りの姿勢をみせて欧米世論の高い支持を 受けるとともに、インドネシア型のネポティズム(縁故主義)批判を与党内で展開して首相 自身をも射程に含めようとすると、マハティールは彼の電撃的な解任・逮捕に打って出た。
さらに、アンワールがレフォルマシ運動を立ち上げて公然とマハティール批判を始めると、
ISAによって彼を逮捕、さらに職権乱用罪・同性愛罪の容疑で起訴したのである。
このようなマハティールの強硬策は、過去にない激しい権威主義批判を国内外に呼び起 こし、同国でも「民主化」が政治争点化した。同時に、従来の政治構造にもいくつかの変 化が起こった。第
1に、従来一枚岩的であったマレー人保守層の分裂である。マハティール
の強権的手法に反発して代替的なリベラル勢力の登場を求める者、アンワール支持者とし てUMNO内の利益分配構造から排除された者などが結集して1999
年に「国民正義党」を結 成した。同党は、人権、公正、正義、民主化など、それまで特にマレー人の間ではほとん ど議論されなかった点を争点として取り上げ、与党に対する抗議行動を組織・先導した。第2の変化は、1990年代に入って徐々に拡大してきたNGOセクターの活性化と政治的関 与である。元来、同国のNGOセクターはブミプトラ政策による行政サービスの偏在を補う
ために華人やインド系住民の間で発達したもので、人権擁護や民主化を訴えるアドボカシ ー型NGOもほとんどの構成員が非マレー人であった。反面、行政からの手厚い保護を受け るマレー人はNGO活動に対しては概して関心が薄かった。ところが、この時期からマレー 人の都市中間層を中心にNGOのチャンネルを通して政治的な異議申し立てを行なう者が増 え始め、NGOがマレー人の政治的覚醒の受け皿のひとつとなり始めたのである(4)。
第3に、民族横断的な政治的連携の兆しである。民族縦割型の政治的組織化が主流となっ てきた同国であったが、レフォルマシ運動を契機にマレー系
NGO
と非マレー系のアドボカ シー型NGOが連携し、さらにそれが政党レベルにまで及んだ。1999年 12月の総選挙を前に、
マレー系の
3党、すなわち汎マレーシア・イスラム党
(PAS)、国民正義党、マレーシア人民 党(PRM)と非マレー系の民主行動党(DAP)によって野党連合「オルタナティブ戦線」(BA)が結成されたが、有力な
NGOは二大政党制を標榜してこの BA
を積極的に支持した。アンワール事件後のこのような変化は、既存の政党システムのなかで与党連合が築いて きた政治のあり方を大きく変える可能性を含んでいた。加えて、ちょうどこの時期に登場 したニューメディアが、従来型の言論統制に風穴を開けた点も見逃せない。野党、NGO、
学生組織などを中心にインターネットを介した新たな言論形態を普及させ、かつてない政 府・与党批判の世論が形成されるようになったのである(5)。これら変化を背景に、実際に反 政府的言論や街頭での各種抗議行動が従来になく活発化し、インドネシアを直近の先例と する民主化の波がついにマレーシアへも伝播したかと思わせた。
しかし一方で、このような政治的変化が直ちに体制移行へと繋がるわけではないことも 同時に明らかになった。マレーシア独特の政治社会的背景が、この時期の政治的不安定 化・流動化を抑制する方向に機能したからである。具体的には以下の諸点が指摘できる。
第1に、政治的変化を抑制しようとする相殺作用である。1999年総選挙はアンワール事件 後に高まった政権批判を受けての選挙であったが、結局
BN
は連邦下院の193
議席中148議
席、つまり憲法改正に必要な3分の2以上の議席を得て勝利した。その最大の要因は、少数 派である華人とインド系住民の投票行動にあった。彼らの票は、マレー人コミュニティー の分裂による政治的不安定化やイスラム国家建設を標榜するPASの勢力拡大に対する警戒 感、インドネシア型の性急な体制転換がもたらす混乱と無秩序化への恐れなどを要因とし て与党支持へと大きく流れた。この動きが現状維持のバランサーとして働いたのである。第2に、民族横断的な政治的組織化の壁である。1999年の総選挙前に結成された野党連合
BAは、一時は与党連合に対抗する新たな多民族の政党連合の枠組みを提示するかにみえた。
しかし、この野党連合はPASと
DAP
という政治志向において対極にある2つの政党、すなわ
ち、マレー人対象のイスラム原理主義政党と、華人を中心に非マレー人を主たる支持層と して民族間の平等主義を掲げる民主社会主義政党を含んでいたため、結局、選挙後には基 本的な政策合意も結べないまま2001年に分裂してしまった。第3に、民主化アジェンダと多民族社会の現実とのギャップである。野党連合やそれを支 援するNGOは、与党連合が駆使してきた民族政治のアジェンダに代わる民主化アジェンダ、
つまり、民主主義、人権といった「普遍的」価値、さらには経済の自由化、反ネポティズ
ム、イスラム的倫理などを掲げて対抗した。しかしこれらは、1990年代後半に広がったグ ローバルな民主化アジェンダの流用という面を拭えず、マレーシア独自の政治課題、特に 民主主義と多民族社会の政治的安定とをいかにバランスさせるかについての具体的かつ現 実的な策を示せなかったのである。
一方、マハティール政権は、こういった変化に対しても従来どおり反対派を規制と抑圧 で封じ込める方法で対応した。反対派勢力を封じ込める一方で、権力の正統性は選挙の結 果で示すというマハティールの姿勢に変化はなかった。また、海外からの体制や政策への 批判に対しては、首相が先頭に立って先進諸国や国際機関を相手に徹底的に反論し、押し 寄せる外圧を国内政治に反映させないための防波堤となった。インドネシアの延長線上で マレーシアの民主化を議論する欧米の論調が強まったが、マハティールは「アジア的価値」
や「アジア的民主主義」という概念をも動員して反論した(6)。ただし、国際世論の厳しい視 線を意識したのか、アンワールの処遇に表われたように、反対派の摘発にあたっても、裁 判が不要な
ISAによって拘束して長期間にわたり拘留する従来の手法は控え、正式に起訴し
て司法の判断に委ねる方法をとるようになった。このように内外で高まる民主化圧力にさらされながらも維持されてきた権威主義体制だ が、強い政治力でそれを支えてきたマハティール首相が2003年10月に引退すると岐路に立 たされた。後継者のアブドゥラ首相は、政治的な開放度を高め、言論統制や反対派への弾 圧を緩めてコンセンサス重視を強調する独自のソフト路線を打ち出して、前政権の権威主 義的色彩を弱める姿勢をみせた。このようなアブドゥラ政権の当初の改革姿勢は国民から 強く支持され、就任間もない2004年
3
月実施の総選挙では、BNが連邦下院選挙で全体の9 割を越える219議席中198議席を獲得して圧勝した。
実際に、アブドゥラ政権下で野党やアドボカシー型NGOなどへの締め付けが緩み、民主 化要求のシンボルとして選挙制度改革や
ISA廃止などがアジェンダとして取り上げられ、さ
らにそれが街頭でのデモ行進や集会などで声高に叫ばれるようになった。新聞やテレビな ど既成のメディアに対する規制も緩和され、また、この時期にオンライン・メディアが急 速に普及したこととも相まって、同国の情報・言論空間は大きく拡大した。さらに、マハ ティール時代に罷免・起訴されたアンワール元副首相が2004年9月の同性愛裁判の最終審で
無罪判決を得て釈放されたことも、権威主義の緩みと受け取られた。アブドゥラ政権下での社会運動や言論に対する規制緩和は、当然の帰結として政府・与 党批判と脱権威主義の動きを活気づかせ、BNの政治的優位性を相対化させた。しかし、ア ブドゥラ首相は、基本的な統治方法について権威主義に代わる方法を示すことはなく、ま た具体的な改革政策の推進に向けてリーダーシップを発揮することもできないまま、次第 に高まる批判の矢面に立たされるようになった。そして、このような流れは、2008年の総 選挙結果に凝集されることになる。
3 2008
年と2013年の総選挙に表われた民意
2008年 3
月8日に実施された総選挙の結果は、国内外の予想を大きく覆す BN
の歴史的大敗北となった。選挙結果を伝える報道では、「政治的津波」とともに「3分の2割れ」という 言葉が飛び交った。BNの獲得議席は定数222に対して140と全議席数の63%にとどまり、ま さに3分の2割れが起こったのである。得票率でも
BNは 51.5%と過半数をわずかに超えたに
すぎなかった。憲法改正に必要な下院議席の3分の2は、権力の実効性を保持し、また権力
の正統性を主張するためにも、BNにとって不可欠な議席比率とみなされてきた。そのため、従来の総選挙では、過半数ではなく3分の
2
が勝敗ラインとされてきたのである。マレーシア憲法は181条からなり
200ページに及ぶ大部で、国家の基本原則にとどまらず、
細目にわたる規定が盛り込まれた国家運営の実施要項といった側面を含む。それゆえに憲 法改正も頻繁で、2000年代前半までに四十数回、修正箇所は
600
を超える(7)。改正内容は、行政府へ権限を集中させる改正、および社会統制を強化して政府批判や反政府的運動を規 制するための改正が多くを占めた。また、下院選挙の区割りも憲法で規定されており、こ の国のゲリマンダリングも憲法改正を重ねて作り込まれてきたものであった。まさに、権 威主義的な体制を固める手段として憲法改正が使われてきたのである。その意味で2008年 の総選挙結果は、権威主義体制の城壁の一角を崩すものであった。
3分の 2
割れとともに注目すべきは、全13州のうち 5州の州議会議員選挙で、連邦議会の
野党が州議会の多数派となり与党の地位を占めたことである。従来からPASが与党であった クランタン州を含め、ケダ州、ペナン州、ペラ州、スランゴール州でBNは州政権与党の座 を逃した。野党の「人民正義党」(PKR、2003年に国民正義党とPRM
が合併して改名)、DAP、PASは選挙前にほとんどの選挙区で統一候補を擁立する選挙提携を行なったが、選挙後はさ
らにその関係を固めるために政党連合である「人民連盟」(PR)を結成し、これら5州の州 議会で与党として共同歩調をとった(8)。これにより、連邦政府と州政府の間でねじれ現象が 生じる州が増え、中央対地方という対立軸と争点が一気に顕在化したのである。次に、2008年総選挙で与党の敗北と野党の躍進を招いた要因について検討してみよう(9)。 レフォルマシ運動以降の政治的変化が、同選挙の結果を左右する基本的背景となったこと は言うまでもない。それに加え、新たな変化や傾向として以下の諸点が挙げられる。
第1に、民族横断的な野党連合が有効に機能し、従来は与党連合にことごとく分断されて きた野党勢力の間で緊密かつ効果的な協力関係が生まれたことである。PKR、DAP、PASの 野党3党の周到な選挙協力は議席拡大に大きく貢献した。また、PR結成の中心的役割を果 たしたPKRの多民族化も特筆に値する。同党は、当初より多民族政党を標榜してはいたも のの、実際にはマレー人の指導者と支持者に支えられていた。しかし、この総選挙では、
非マレー系候補が同党から多数出馬し、当選者数でも下院と州議会を合わせるとマレー系 に匹敵するまでに増加するなど、PKRが名実ともに多民族政党へと衣替えしたのである。
第2に、野党勢力を支援する
NGO
セクターの影響力拡大と政治化である。従来からアド ボカシー型を中心に二大政党制を目指して野党側を支持するNGO
は多かったが、同選挙で はさらに進んでNGOの幹部が候補者として野党から出馬するケースが増えた。元来NGOセ
クターを担う層には、民族の利益に拘泥せず、また政府の権威主義的な政治手法を批判す るタイプのリベラルな都市中間層が含まれていたが、彼らがNGO
を経由して政治の世界に入ることで、人脈、支持基盤、活動内容などの面で政党政治と社会運動の隔たりが縮まっ た。これは、都市部の選挙区において野党の強さが際立った選挙結果とも符合する。
第3に、非マレー系住民のなかで長年くすぶってきた民族関係についての不満が選挙を通 して噴出・公然化した点である。つまり、ブミプトラ政策などにより社会的資源・機会の 配分や公的サービスの供給がマレー系に大きく偏っているという、非マレー系住民のなか に古くからある不満が表出しやすい政治環境が生まれたのである。華人コミュニティーで は、マハティール政権末期からブミプトラ政策への不満がさまざまなかたちで噴出するよ うになっていたが、2008年の選挙前には、それまで国政に対する異議申し立てには控えめ であった一般のインド系住民が、街頭運動を通して不満を爆発させた。このような非マレ ー系住民の不満を政府や
BN
内で代弁・調整する立場にあるMCAやMIC
がその役目を果た していないとの批判票が、非マレー系野党に流れた面がある。こうして、2008年の総選挙では、これまで政治体制の移行を妨げてきた要因の多くに変 化が起こり、それまでの与党連合の必勝体制が大きく揺らいだ。マレーシアでも権威主義 体制下で抑制されてきた国民の不満や政府批判が組織的に凝集され、公式な政治制度に民 意として反映されるようになったのである。そして、与野党間の政権交代および民主主義 体制への移行がにわかに現実味を帯びてきた。
この選挙の1年後の
2009
年3
月にアブドゥラ首相を引き継いで第6
代首相となったナジブ 首相は、次期総選挙での議席奪還を最優先課題として政権の座に就いた。首相就任後は、後述のように、民意を政策に反映させるべく各種の改革を積極的に進めた。そして臨んだ
2013年 5月の総選挙は、マレーシアにおいて政権交代の可能性がこれまでで最も高い選挙と
して、また前回の総選挙結果が与党連合に対する一時的な警告だったのか、それとも政治 体制の移行に導く地殻変動の端緒だったのかを見極める選挙としても注目された。
結果として、政権交代は起こらなかった。ただし、野党連合
PR
が、連邦議会で222
議席 中89議席と前回総選挙の82議席をさらに 7議席上回り、得票率では 50.9%
と史上初めて与党 連合を上回った。州議会選挙では野党の政権獲得州は前回選挙に比べて2つ減ったものの、
クランタン、ペナン、スランゴールの
3州ではこれまでの執政が信任を得て政権を守った
(10)。1959 64 69 74 78 82 86 90 95 99 2004 08 (年)
59.9 47.4 59.9 47.4
13 100
80
60
40
20
0
第 1 図 下院選挙における与党連合の議席占有率と得票率の推移
(%)
議席占有率(%)
得票率(%)
クー・ブーティック「マレーシア第13回総選挙の概要」(注10参照)。
(出所)
なによりも、前回の総選挙結果に対する揺れ戻しが起こらなかったことは特筆すべき点で ある。第1図のように、従来のマレーシアの総選挙では、下院選挙での与野党の獲得議席数 と得票率はジグザグを描いており、1度の例外を除いて前選挙の揺れ戻しが起こっていた。
2013年の選挙は前回の選挙時と政党自体の状態に大きな変化がなかったにもかかわらず揺
れ戻しは起こらず、むしろ前回現われた投票行動の傾向にさらに拍車がかかった。これは つまり、前回の総選挙結果は、単に与党連合に対する一時的な警告ではなかったというこ とを示している。以下に2008年総選挙との比較で指摘できる点を挙げておこう
(11)。第1に、主要3野党による野党連合
PR
が引き続き得票を伸ばし、政権交代の受け皿として の存在感を定着させた点である。政治思想や支持層の面で対極にあるPASと DAP
を、PKR の顧問アンワールが仲介するかたちで結成されたPRは、再三の分裂の危機を乗り越えてBN
のオルタナティブとしての地位を確立したかにみえる。長い間分断されてきた野党勢力が第 1 表 マレーシア総選挙(連邦下院選挙)政党別獲得議席数・得票率(2004年、2008年、2013年)
与党・国民戦線(BN) 219 198 63.81 222 140 51.50 221 133 47.38 −4 統一マレー人国民組織(UMNO) 117 109 35.61 117 79 29.99 121 88 29.32 −0.67 マレーシア華人協会(MCA) 40 31 15.40 40 15 10.90 38 7 8.17 −2.61 マレーシア・インド人会議(MIC) 9 9 3.16 9 3 2.07 9 4 1.63 −0.45 マレーシア人民運動(グラカン) 12 10 3.77 12 2 2.29 10 1 2.37 0.07 人民進歩党(PPP) 1 1 0.29 1 0 0.21 1 0 0.07 −0.14 サバ統一党(PBS) 4 4 0.38 4 3 0.56 5 4 0.68 0.12 パソモモグン・カダザンドゥスン・ムルット統一組織(UPKO) 4 4 0.78 4 4 0.74 4 3 0.60 −0.14 サバ進歩党(SAPP)(2008年にBNを離脱) 2 2 0.23 2 2 0.39
サバ人民統一党(PBRS) 1 1 0.09 1 1 0.00 1 1 0.09 0.01 自由民主党(LDP) 1 0 0.12 1 1 0.10 1 0 0.12 0.01 サラワク統一ブミプトラ党(PBB) 11 11 1.15 14 14 1.65 14 14 2.10 0.45 サラワク統一人民党(SUPP) 7 6 1.45 7 6 1.50 7 1 1.21 −0.29
サラワク人民党(PRS) 6 6 0.42 6 6 0.54 0.12
サラワク進歩民主党(SPDP) 4 4 0.72 4 4 0.66 4 4 0.50 −0.16 サラワク・ダヤク党(PBDS) 6 6 0.66
野党・無所属 227 21 36.19 258 82 48.50 223 89 50.87 3.44 汎マレーシア・イスラーム党(PAS) 84 7 15.25 67 23 14.61 51 21 15.71 1.89 人民正義党(PKR) 59 1 8.88 96 31 18.75 99 30 20.39 1.14 民主行動党(DAP) 44 12 9.93 47 28 13.95 73 38 14.78 0.42 サラワク国民党(SNAP) 7 0 0.41 4 0 0.11
その他野党 4 0 0.14 4 0 0.25 4 0 0.96 0.6
無所属 29 1 1.58 40 0 0.82 40 0 0.79 0.04
合計 446 219 100.00 480 222 100.00 444 222 100.00
(出所) 2004年、2008年のデータについては、中村正志「データでみる第12回マレーシア総選挙結果の特徴と投票行動の変化」、
山本博之編『「民族の政治」は終わったのか?―2008年マレーシア総選挙の現地報告と分析』(日本マレーシア研究会、
2008年)、2013年のデータについては、中村正志「マレーシア史上もっとも注目された選挙― 何が変わったのか?」、日 本マレーシア学会研究会「二大政党制は定着するのか―2013年マレーシア総選挙の現地報告と分析」(2013年5月19日開 催、報告資料〔近刊予定〕)より引用。
(注) *無投票当選。
候補 者数
獲得 議席数
2013年選挙 得票率
(%)
前回 との差 候補
者数 獲得 議席数 2008年選挙
得票率
(%)
候補 者数
獲得 議席数 2004年選挙
得票率
(%)
― ― ― ―
― ―
―
―
― ― ― ― ― ―
― ― ― ―
*
連立に成功したことに加え、民族横断的なPKRが
NGO
との連携を強めながら多民族政党として
2回の総選挙で30
議席以上を獲得した点も看過できない。第2に、華人とインド系住民の非マレー系票が、2013年総選挙でも
BNからPR
へと流れ続 けたことである。特に華人の与党離れが激しかった。BN内で華人を主たる支持基盤とするMCAおよびマレーシア人民運動
(グラカン)の過去3
回の総選挙における議席獲得数の合計 は、41(2004年)、17(2008年)、8(2013年)と毎回半減しており、一方、華人系野党DAPの
議席数はそれぞれ12、28、38と華人系与党の分を吸収して急増している。また、インド系 住民を支持基盤とするMICの議席数もそれぞれ9、3、4
と2008
年総選挙を境に議席を大幅 に減らした。これは、マレーシアの民族別政党システムのなかで長らく機能してきた安定 化装置がもはや働かなくなっていることを示している。選挙でのこのような結果は、BN本来の民族間の利害調整機関としての役割にも機能不全 をもたらしている。MCAとグラカンは
2013年の総選挙での敗北を受けて閣内の大臣ポスト
を得られず(MCAは辞退)、華人政党の代表がはじめて大臣リストから消えた。また、従来 は政治への関心が低く、政治的なデモや集会への参加度は低いとされてきた一般華人が、2013年の総選挙前後には政権交代を訴えてマレー人やインド系住民とともに積極的に街頭
に繰り出す姿が目立ったのも新たな傾向である(12)。
第3に、ニューメディアの普及によって政府の言論統制が有名無実化したことである。急 速に発展したオンライン・ニュースサイト、ブログ、YouTubeなどのニューメディアは、従 来型の言論統制の網にかからないばかりか、野党の主張やそれを支持する意見を積極的に 取り上げ、実質的に野党側に立った(13)。2013年総選挙では与党側もニューメディアの利用 度を高めたが、野党側はさらにソーシャルメディアなどを通じて都市部の有権者や若者層 の取り込みを活発化させた。これら諸点は、マレーシアの権威主義体制をこれまで支えて きた、いくつかの重要な要素がもはや効力をもちえなくなっていることを示している。
一方、2013年の総選挙では、選挙による体制移行の困難さも露呈した。ひとつは、現職 候補に有利な小選挙区の区割りや極端なゲリマンダリングなど、政権交代を阻む仕掛けが 選挙制度そのものに含まれている点である。ここには、野党が政権交代を実現すべく与党 に有利な選挙区割りを是正するためには、政権交代に必要な過半数を上回る3分の2以上の 下院議席が必要となる、というパラドックスが横たわっている。
もうひとつは、サバ、サラワク両州における圧倒的なBN支持である。両州はマレー半島 部にある諸州と歴史的背景、民族構成、政治構造のいずれにおいても異なっており、2008 年の総選挙以降も半島部のようにBN対
PR
という枠組みを単純に当てはめることができな い。第1表に示したとおり、サバ、サラワク両州独自の政党はほとんどがBNに所属し、総
選挙での議席獲得数でもBNが定数 56
に対して47
(2013年総選挙)と圧倒的に高い占有率を 誇っている。さらに、両州には過重に議員定数が割り振られているため選挙区ごとの有権 者が少なく、選挙でのBNの強さを支えるよう政府・与党によって設計されてきた面がある。過去2回の総選挙を通して、BNの牙城として長らくBN優位体制を支えてきた両州の存在が 浮かび上がり、今後の動向を左右する重要な要素として認識されるようになった。
4
体制内改革の進展これまで述べてきたように、選挙という公式の政治制度を通しての体制転換の可能性が 現実味を帯びてきたが、一方、従来からの政治体制の下でも権威主義の中身が変質してき ている点にも着目すべきであろう。むしろ、これまでの考察を踏まえると、現実的には現 行の権威主義体制内で民主主義的要素が拡大し、漸進的な変革が進む可能性が高いと思わ れる。本稿の最後に、このような変革の動きについて触れておきたい。
権威主義体制下においても選挙の社会的正統性が高いマレーシアでは、与党であっても 次の選挙の行方に危機感をもつ限り、選挙に表われた民意に歩み寄る政策調整が必要にな ってくる。実際に、2008年総選挙での敗北後に就任したナジブ首相は、こういった意識が 高く、野党やアドボカシー型NGOが要求してきたブミプトラ政策の廃止、ISAの撤廃、選 挙制度の改革についてもかなり踏み込んだ対応を行なってきた。
ブミプトラ政策については、マレー人の支持が全体としては依然強いとの判断から根本 原則の撤廃には至っていないが、実質的にはいくつかの部門で規制緩和が進められてきた。
例えば、新政権成立直後に、ブミプトラの商工業部門への参入促進の目的でブミプトラの 出資比率を
30%
以上と定めている分野のなかで、保健・社会関連、ツーリズム関連など27 業種においてその出資条件を撤廃した。また、これに引き続いて上場企業全体に対するブ ミプトラ出資比率の規制も廃止している。これらには周辺アジア諸国との外資誘致合戦を 有利に進めようとする狙いがあるが、従来は国内のマレー人に配慮して政治的に据え置か れてきた面があるだけに、実質的なブミプトラ政策の緩和と言える。またISA問題については、その大幅見直しを首相が言明し、内容をめぐって野党や
NGO
との駆け引きはあったものの、2012年4月に代替法にあたるテロ対策向けの法案が議会で可 決され、それに伴って長年懸案となってきたISAは廃止された。また、野党やNGO
が強く 要求していた選挙制度改革についても一定の進展があった。これは、自由で公平な選挙を 求める「ブルシ2.0」というデモ行進を野党やNGOが企画し、ソーシャルメディアなどを駆
使して反政府的な活動に拡大させてきた面はあるが、ナジブ政権はブルシが要求するいく つかの項目について議会内の超党派の検討特別委員会で検討させるなどの取り組みを行な い、二重投票防止策の導入、選挙人名簿の更新と公開などの実施を決めた。このほかにも、言論の自由を保障する改革として、1984年印刷・出版法の出版ライセン スを毎年更新するよう定めた規定を削除する改正を行ない、集会の自由についても、5人以 上の集会開催に警察の許可取得を義務づけた警察法の一部を廃し、許可取得条件を緩和し た新たな平和集会法を設置した。学生の政党活動を禁止した大学・カレッジ法も緩和して、
21歳以上の学生の政党所属を認める修正を行なった
(14)。このようにナジブ政権は、民意を 汲み取るかたちで比較的スピーディーに政治の規制緩和・自由化を進めたのである。民意を汲み取って政策に反映させるという意味では、2013年の総選挙におけるマニフェ ストの内容も興味深い。同選挙では、与野党ともにマニフェストを示して選挙戦を戦った が、それらによると福祉・社会、教育・宗教、インフラ事業、成長戦略の各分野で与野党
間の政策の相違は小さく、明確かつ本質的な争点がみえにくかった(15)。これは、基本的に は与党が2008年総選挙に表われた民意、つまり野党の主張に同調した国民の声に耳を傾け て政策調整を行なった結果と考えられる。これらは、権威主義体制下の政治制度内ながら も民意を強く意識した与党の姿勢と政策が打ち出され、漸進的に体制内改革が進んでいく 近年の傾向の一端とみることができよう。
むすび―革命的体制転換なき漸進的変革
マレーシアの場合、民主主義体制への革命的な移行を経ておらず、権威主義的な性格を いまだに色濃く残しているが、逆に独立当初より少なくとも形式においては民主主義的な 制度を比較的幅広く受容してきた。このような中間的な性格をもつ体制のなかで主に権威 主義体制の自己正当化のために活用されてきた選挙が、2008年以降、その体制を自己変革 せざるをえない状況へと追い込んできた意味は大きい。国内外の政治経済環境の変化や国 民の意識の変化に対して、政府・与党が単に体制や政策の現状維持に固執するのではなく、
現体制の範囲内でそれらの変化に対応して生き残るための改革を進めきたのである。
その背景には、言論統制にかかりにくいニューメディアの普及や、NGOなど社会団体の 活動の活発化などによって、従来に比べて民意が格段に表出しやすくなり、またそれらが 社会のなかで結合・拡大しやすくなった点が挙げられよう。このような民意の表出・結 合・拡大に対して、政府・与党が敏感かつ素早く反応する傾向が近年現われてきた。換言 すれば、表出・結合・拡大した民意が選挙を通して制度的に表明され、選挙での勝利によ って自らの権力を正当化してきた政府・与党の目を否応なく民意に向けさせるとともに、
次の選挙での勝利のためにそれらに反応する動機を強く与えるようになったのである。
ある意味では、政府・与党の政策や政治姿勢に不満をもつ国民が、選挙で野党に投票す ることで政府・与党に批判や反対の意思表示を行ない、それに対して政府・与党が民意を 反映しつつ政策や政治姿勢を修正・調整していくという、通常の民主主義国家においてご く普通に想定される国民と政府・与党の双方向の関係がマレーシアでも実現するようにな ってきたと言うこともできる(16)。
東南アジア諸国のなかでマレーシアは、「経済では先進国、民主化では後進国」とみられ がちであった。しかし、革命的な民主主義体制への移行を経なくとも、独立以来組み込ま れてきた選挙という制度―それが十分には公正性を確保していないとしても―を通じ て、漸進的な体制内改革による民主主義的要素の浸透、制度化、定着が促される傾向がみ られるようになってきている。民主化革命のための高いコストをかけなくても、このよう な漸進的な変化によって権威主義体制が変質していく可能性もある。民主化の道筋は多様 であり、すべての国に単一の尺度や画一的な工程表を当てはめられないということを、マ レーシアのケースが示唆しているようにも思える。
(
1
)Arend Lijphart, Democracy in Plural Society: A Comparative Exploration, New Haven: Yale University Press, 1977.
(
2
) 金子芳樹「マハティール体制の確立過程―マレーシアにおける政治体制とリーダーシップ」(関根政美・山本信人編『海域アジア』、慶應義塾大学出版会、2004年)参照。
(
3
)Steven Levitsky and Lucan A. Way, Competitive Authoritarianism: Hybrid Regimes After the Cold War, New York: Cambridge University Press, 2010; 中村正志編『東南アジアの比較政治学』
(アジア経済研究所、2012年)参照。
(
4
) マレーシアのNGOについては、金子芳樹「マレーシア―国家・NGO関係における二つの二重 構造」(重富真一編著『アジアの国家とNGO
―15ヵ国の比較研究』
、明石書店、2001年)参照。(
5
) この時期を境に、与党系の放送・新聞メディアと一線を画す独立系ニュース・メディアとしてイ ンターネット配信の「マレーシア・キニ」(Malaysiakini)や野党PASの機関誌『ハラカ』(Harakah)のインターネット姉妹紙「ハラカ・デイリー」(Harakahdaily)などが広く読まれるようになった。
(
6
) マハティールの「アジア的価値論」については、Mahathir Mohamad, “Asian Versus Western Values”(〔15 March 1995〕
, Prime Ministers’ Office of Malaysia, Democracy, Human Rights, EAEC and Asian Values
[Selected Speeches by Dr. Mahathir Mohamad Vol. 1]
, Pelunduk Publications, 1995)にその要点が明確に示
されている。(
7
)Abdul Aziz Bari, Malaysian Constitution: A Critical Introduction, Kuala Lumpur: The Other Press, 2003, p.
171; The Sun
(Malaysia), 1 October 2005.
(
8
) ただし、ペラ州では議員の鞍替えによって2009年にBNが同州政権を奪還した。(
9
)2008年総選挙については、山本博之編『
「民族の政治」は終わったのか?―2008年マレーシア
総選挙の現地報告と分析』(日本マレーシア研究会、2008年)に所収の各論文においてさまざまな 角度から詳しく分析されている。また、中村正志「言論統制は政権維持にいかに寄与するか―
マレーシアにおける競争的権威主義の持続と不安定化のメカニズム」(『アジア経済』第
52
巻第9号〔2011年9月〕)も参考になる。
(10)
2013年の選挙結果と概要については、クー・ブーテック(中村正志訳)
「マレーシア第13回総選挙の概要」(アジア経済研究所、2013年、アジア経済研究所ホームページ内所収の
http://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Region/Asia/Radar/pdf/201305_khoo.pdf)参照。
(11)
2013
年総選挙に関する分析については、日本マレーシア学会研究会「二大政党制は定着するのか―
2013年マレーシア総選挙の現地報告と分析」
(2013年5月19日開催)の報告資料(同学会のディスカッションペーパーとして近刊予定)、中村正志「データから占う第
13回マレーシア総選挙
の行方」(アジア経済研究所ホームページ内所収のhttp://www.ide.go.jp/Japanese/
Research/Region/Asia/Radar/pdf/201304_nakamura.pdf)など参照。
(12) 篠崎香織「華人の政治意識の変化」(日本マレーシア学会研究会、前掲報告資料)参照。
(13) 伊賀司「『オールタナティブ・メディア』―総選挙の裏側で起こっていた地殻変動」、山本編、
前掲書、参照。
(14) これらの改革については、鈴木絢女「2011年のマレーシア―政府主導の漸進的政治改革と高 所得国家入りへの不確かな道程」(アジア経済研究所編『アジア動向年報2012』、アジア経済研究 所、2012年)に詳しい。
(15) 鈴木絢女「2013年マレーシア総選挙―『開発』と『福祉』から考える」(日本マレーシア学会 研究会、前掲報告資料)参照。
(16) 岩崎は近著のなかで、シンガポールの最近の傾向についてこのような指摘をしているが、これは マレーシアにもあてはまる。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史―エリート開発主義国家の200 年』、中公新書、2013年、222ページ。
かねこ・よしき 獨協大学教授 [email protected]