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西川満﹁ちょぷらん島漂流記﹂論

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(1)

︵一七︶

西川満﹁ちょぷらん島漂流記﹂論

勝   倉   壽   一

一  はじめに   享和二年︵一八〇二︶十一月に北海道の箱館から出航した商船順吉丸︵三百二十石積︑九人乗り︑沖船頭文助︶が江戸へ航行中に仙台沖で嵐のために漂流し︑台湾東海岸北部の宜蘭に漂着したが︑剽悍な現地人の略奪にあって逃走し︑翌年正月二十八日に南部のチョプラン島︵現在の花蓮秀姑巒渓口付近︶に漂着した︒船員たちは現地アミ族の頭人︵ツーレン︶のもとで暮らしたが相次いで病死し︑文助だけがその地で働き︑文化四年︵一八〇七︶まで四年間を暮らした︒その年十二月には薩摩船永柳丸︵千八百石積︑二十三人乗り︶が漂着し︑一人が病死︒文助を含めた二十三人は台湾府城︑厦 門︑福州︑抗州を経て乍 浦に送られ︑二隻の清国船に分乗して日本を目指した︒文助の船は文化五年︵一八〇八︶十一月に長崎に入港し︑文助は奉行所の取り調べを経て︑翌年八月に松前に帰郷した︒

  西川満の漂流記ものの歴史小説﹁ちょぷらん島漂流記﹂は︑文助に同行した松前奉行所役人秦貞廉︵村上貞助︶が記録した﹃享和三年癸亥漂流台湾チョプラン島之記 1

﹄︵以下︑﹃チョプラン島之記﹄と略称︶を典拠として書かれたものである︒

  作者西川満は明治四十一年︵一九〇八︶会津若松市の生まれで︑三歳で台湾に渡り︑台北一中︑早稲田大学仏文科を卒業︒炭鉱社長・台北市会議員の父親のもとで︑出版社の経営︑﹃愛書﹄﹃媽祖﹄﹃文芸台湾﹄などの編輯兼発行の仕事に従事するとともに︑﹃媽祖祭﹄﹃楚々公主﹄﹃華 麗島民話集﹄﹃桃園の客﹄などの作品を発表して︑台湾文壇の中心として活躍した︒敗戦による引き揚げ後は東京阿佐ヶ谷に住み︑長谷川伸との縁で大衆文芸雑誌﹃大衆文芸﹄を中心に活動した 2

︒台湾を題材とした作品に﹃七宝の手筺﹄﹃台湾脱出﹄﹃天上聖母物語﹄﹃稲江冶春詞﹄﹃会真記﹄﹃台湾縦貫鉄道﹄﹃神々の祭典﹄などがある 3

  ﹁ちょぷらん島漂流記﹂も﹃大衆文芸﹄の第十一巻一号︵一九四九年

一月︶から第十二巻一号︵一九五〇年一月︶まで十二回にわたって連載され︑昭和二十七年︵一九五二︶に湊書房から単行本﹃ちょぷらん島漂流記﹄として出版されたのち︑昭和六十一年︵一九八六︶に中公文庫に収められた︒中公文庫には初出︑湊書房版に関わる書誌の記載は見られない︒

二  典拠   この小説の執筆動機と典拠について︑西川は中公文庫の﹁あとがき﹂に次のように記している︒

  このロマンは︑本文中の﹁秀 シユウオラヌ﹂考で述べたように︑順吉丸の船頭︑文助の口述を︑文化七年︵西暦一八一〇︶︑備中の人秦 貞廉が編纂せる︑写本︑﹃享和三年癸亥漂流台湾チョプラン島  之記﹄にもとづいて︑前後九年にわたる波瀾に満ちた文助の漂流顚末を経とし︑蕃人アミ族の宗教︑産業︑交易︑生活︑戦闘など︑興味ある習俗を緯とし︑これにわたくしの夢と空想とを自在奔放

(2)

︵一八︶

に加えて︑つくりあげたものである︒

  ちなみに︑この写本は︑本文五十三枚からなる︑旧台湾総督府図書館蔵の稀覯本である︒が︑これの小説化を発願したのは︑実に昭和十五年の元旦であった︒

  けれども︑在台中は︑遂に︑その期を得ず︑はからずも引き揚げ後︑東都においてこれをはたす仕儀となった︒この門外不出の写本を︑当時こころよく貸与してくださった︑図書館長︑山中樵氏は︑引き揚げ時の心労で︑不幸︑病死し︑また写本そのものは︑永久に台湾の所有に帰して︑二度と手にすることができなくなってしまった︒多少の感慨なきにしも非ざるゆえんである︒

  典拠とされた﹃チョプラン島之記﹄は︑長崎から江戸霊厳島の蝦夷会所に送られた文助が箱館に送還される旅の途上で物語った内容を︑同行した松前奉行所の同心秦貞廉が記録した編纂ものの漂流記である︒秦貞廉は蝦夷研究で知られる村上島之允︵丞︶の養子で︑﹃蝦夷生計図説﹄を完成させた学究肌の篤実な性格の人物であったという 4

︒文助の体験や見聞内容を時系列に従って整理し︑客観的な記述を旨として割注などの考証も加え︑時に自らの知識に基づく批正も施している︒

  この写本は台湾総督府図書館長山中樵︑台北大学教授植松安の編纂校訂により︑台湾愛書会誌﹃愛書﹄第十二輯︵昭和一五年︹一九四〇︺一月︶に翻刻・紹介された︒﹃愛書﹄への翻刻・頒布を主唱したのが西川満であり 5

︑その編集も担当している︒この翻刻・紹介の時期は︑西川が小説化を発願したとする昭和十五年元旦とも符合する︒中公文庫の﹁あとがき﹂では旧台湾総督府図書館蔵の写本を山中樵から貸与されたことのみが強調されているが︑﹃愛書﹄掲載の翻刻文を利用したことは︑その末尾に付せられた山中の註を多用していることでも知られる︒

  一例を挙げれば︑作品中の悪役ツーレンの名﹁アンドー﹂は典拠﹃チョプラン島之記﹄の本文には見られず︑山中の註に︑    ツーレンは台湾語タウラン即ち頭人にして頭立ちたる者の義︑順吉丸漂流記に﹁私儀はアミサンと申し村内にて頭立候者の方え連行申候︑其者の名は□アンドと ︵傍線引用者︑以下同じ︶申す者の由﹂とあり︑□は﹁こ﹂とも見られる︒とあるのに拠る︒また︑典拠では順吉丸の乗組員九名のうち文助︑茂兵衛︑安兵衛の三名︑永柳丸の乗組員二十三名のうち郡山次郎八︑船頭源五郎の二名の名が記されているが︑作品では両船の乗組員全員の名が出る︒これも山中の註に従ったものであると思われる︒  山中の註に記された﹃順吉丸漂流記﹄は長崎奉行所における文助の口上書で︑内閣文庫蔵本の影写本が総督府図書館に収蔵されていた︒薩摩永柳丸関係の註は︑石井研堂蔵﹁文化五辰年当十一月入津之辰七番唐船より送来候外国漂流日本人申口書抜﹂の謄写版に拠っている

︶6

  ﹃チョプラン島之記﹄を掲載した﹃愛書﹄は戦時中の台湾で会員宛に

発行されたために︑戦後の日本国内で披見される機会は乏しかったと思われる︒西川の﹁感慨﹂には︑戦後急速に進行する国民一般の台湾認識の低下に直面した西川が︑台湾原住民社会の宗教︑産業︑交易︑生活︑戦闘などの習俗を克明に描くことで国民の台湾への関心を喚起しようとする意図と︑西川自身の作家的資質であるロマンチシズムとエキゾチシズムの横溢した作品を発表しえたことへの満足感も含まれていたであろう︒西川が﹃中央公論﹄や﹃改造﹄などの硬質な文芸雑誌ではなく︑娯楽性を主とした﹃大衆文芸﹄を発表の場としたところにも︑その意図は窺われる︒

三  構成   まず︑作品全体の構成について見ると︑西川が中公文庫の﹁あとがき﹂に﹁前後九年にわたる波瀾に満ちた文助の漂流顚末を経とし﹂たと記しているように︑順吉丸の漂流から台湾チョプラン島への漂着︑薩摩

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︵一九︶ 永柳丸の漂着︑中国大陸を経て長崎に帰着︑奉行所の取調べ︑郷里への帰還に至る顚末について︑それぞれの年月日はすべて典拠﹃チョプラン島之記﹄に準拠している︒また︑同じく﹁あとがき﹂に記されたように︑漂流の顚末とチョプラン島原住民社会の習俗を巧みに組み合わせて一篇を構成していることがわかる︒  一方︑小説の中心は︑頭人︵ツーレン︶の漢人アンドーと︑アンドーにツーレンの父親を殺されてその座を奪われ︑憎悪と復讐の念に燃える原住民の女カアネとの争闘を中心に︑複雑な宗教習俗が組み合わされ︑否応なく日本人漂流民がその争闘に巻き込まれるという構図をなしている︒  作品の全体は﹁憧れの江戸へ﹂から﹁大団円﹂まで五十三の段︵小見出し︶に分けて一定のまとまりがつけられており︑典拠に付せられた十五枚の挿絵のうち十三枚を使い︑台湾地図一枚とアミ族の舞踊の楽譜一枚︑作品末尾に典拠の写本写真一葉を加えている︒さらに作品中に数度作者自身が登場して読者の理解を助けるために必要な説明を行うという︑複雑で周到な配慮がなされている︒  そこでまず︑小説に現れる主要な登場人物名とその用例数を挙げると︑以下のようになる︵ゴチックは典拠・同註に記名あるもの︒以下同じ︶︒◇順吉丸関係  九名    船頭文助        三四七例

    ブンシ⁝⁝⁝文助への原住民の呼び名          一四例    三之助⁝⁝⁝⁝水夫︒原住民の女カアネと相愛      九九例     サンノシ⁝⁝三之助への原住民の呼び名         八例    源八⁝⁝⁝⁝⁝水夫        八二例    茂兵衛⁝⁝⁝⁝持船店の手代        六五例    安兵衛⁝⁝⁝⁝水夫        六一例

   三太郎⁝⁝⁝⁝水夫︒初航海        四六例    弥五郎⁝⁝⁝⁝舵取り       四〇例

   長太⁝⁝⁝⁝⁝賄い        三二例    清三郎⁝⁝⁝⁝水夫        二一例◇チョプラン関係  八名    アンドー⁝⁝⁝漢人の商人︒アミ族の頭人︵ツーレン︶ 二〇二例    カアネ⁝⁝⁝⁝前ツーレンの娘        一七四例    馬安︵マアン︶⁝  漢人︒瑯 ロンタオの商人         一二三例    司祭チサボンアタン       一〇四例    アゴト爺       二四例    マリケン・パナパナヤン⁝パイワン族の大酋長       七例◇永柳丸関係  二十三名    郡山次郎八⁝⁝薩摩藩の監送役人        四三例    伊勢貞右衛門⁝同       二七例    船頭源五郎        一九例    袈裟太郎⁝⁝⁝水夫        一〇例   典拠﹃チョプラン島之記﹄の本文では︑順吉丸乗組員のうち﹁船師文助﹂とチョプラン漂着時にツーレンに対応した﹁手代茂兵衛﹂︑および﹁安兵衛﹂以外の名は記されず︑独立した言動の記載もない︒

   文助が族も皆其余殃に罹り︑腫病の上の熱病に二月六日船方の者  とも壱人死してより︑続て三月下旬まてに七人死亡す︒只船子安  兵衛なるもの文助と弐人生活する事を得たり︒然といへとも此安  兵衛も三年を経て痰を煩ひ丑の年四月十五日死す︒

  文助︑安兵衛以外の漂流者は︑享和三年三月下旬までのチョプラン滞在二ヵ月以内に死去した︒原因は水腫病︵脚気か 7

︶と熱病による︒二月六日の死者名は不明である︒安兵衛は文化二年四月十五日に痰︵肺結核か︶で死去した︒永柳丸乗組員二十三名のうち︑﹁船師源五郎﹂﹁郡山五郎八﹂︵文化五年四月十八日︑鳳山県で病死︶以外に記名はない︒

  作品では登場人物を大幅に増やすとともに︑それぞれに個性を与え︑

(4)

︵二〇︶

原住民たちと有機的に関わらせることにより︑その複雑な生活形態と宗教習俗︑および事件の展開の生彩ある叙述・描写に成功している︒したがって︑漂流者たちの死去の事由についても大幅な虚構が施されている︒

  次に︑小説における原住民族の種族名とその用例を挙げると︑以下のようになる︒

   アミ族       二例    カバラン︵族︶       

        

二例

    カバラ⁝⁝⁝カバラン族          一六例    チョーガワ⁝⁝  タイヤル族          二四例    イワタン︵ブヌン族︶       一例    パイワン族       六例    瑯族       二例   典拠﹃チョプラン島之記﹄の文助の口述本文には︑台湾原住民族の種族名は出てこない︒また︑典拠の山中の註には以下のように記されている︒

  ・チョーガワはタイヤル族の一部木瓜蕃にして奇美音田浦音共にツオガウ︒

  ・イワタニはイワタンの誤︑奇美音田浦音共にイワタン︑ブヌン族に属す︒

  ・ガバラはカバラの誤︑カバラは宜蘭地方のカバラン族なり︒

  この註は西川も披見したであろうし︑台湾滞在三十年余に及んだ西川自身も十分な知識を有していたと思われる︒

  藤崎貞之助著﹃台湾の蕃族﹄によれば︑台湾の原住民族のうち﹁未だ教化に就かずして原始的な生活を為している蕃人を生蕃と称し﹂︑﹁タイヤル・サイセツト・ブヌン・ツオワ・パイワン・アミ・ヤミ﹂の七種族に分類されるという 8

︒西川は小説にアミ︑タイヤル︑ブヌン︑パイワンの四種族を登場させて︑その生活形態の違いを書き分けている︒ とくに︑高地狩猟民であるパイワン族の剽悍な生態を大酋長マリケン・パナパナヤンの残虐な行為で印象づけるとともに︑瑯に住む﹁瑯族﹂について﹁往古︑沖縄島から台湾のこの地方に移住した特殊な民族﹂であると紹介している︒  次に︑小説に取り上げられた台湾の習俗について︑その用例を挙げると以下のようになる︒   カワス        一九例

   マラタウ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝男神︑善の神         一四例    首狩り︵出草︶      

        

一〇例

   アリブサオ・カニウ⁝⁝⁝聖なる女神       八例    福徳正神︵土地公︶        八例    童乩︵タンキイ︶       三例    洗骨︵式︶ 二例    サワラン・ニ・バッサイ⁝竹藤の神霊       二例    ドギ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝女神︑善の神          一例   このうち︑﹁首狩り﹂﹁福徳正神﹂﹁童乩﹂﹁洗骨﹂以外の用語は︑すべてアミ族の信仰する神を指す︒山路勝彦氏は次のように説いている︒

   アミ族の神観念は複雑であり︑霊魂︑精霊︑祖霊︑悪霊など︑おおよそ超自然的存在は一括してカワスと称されている︒この神霊の世界のなかでも︑マラタウとドゲはもっともたいせつな神である︒マラタウとは男神で︑人間の頭上よりも高く︑あるいは天空にいると言われ︑各種の儀礼で最初に拝まれる神である 9

  カワスのうち︑男子に関係する狩猟・漁撈・戦争に関わるカワスを﹁マラタウ﹂と称する 10

︒一方︑異民族の神や妖怪などもカワスと言うのであるという 11

  作品世界では賄いの長太が神霊カワスのために死の世界に飛び立ち︑その葬儀のさまと︑長太の霊が悪霊と化して戻ることを防ぐ行為が詳述される︒また︑折からの熱病による原住民多数の死が悪霊カワスの

(5)

︵二一︶ 跳梁によるものとされ︑三太郎も命を落とすことになる︒  これに対して︑﹁福徳正神︵土地公︶﹂は台湾で最も普遍化している民間信仰の神であり︑住む土地を守る道教の最上級の神であるとされる︒また︑﹁童乩︵タンキー︶﹂は漢人宗教におけるシャーマンであり︑漢人神を憑依させて童乩になり︑予言・託宣がなされる︒童乩の憑依の神威を現すために︑刃物などで身体を傷つけ出血させる行為がなされる 12

  作品世界では︑アミ族の聖なる女神アリブサオ・カニウに扮してアンドーの打倒を図るカアネ・司祭チサボンアタンと︑福徳正神を信じ︑童乩に扮して憑依を演じつつ腕を出血させて住民を威圧し︑反抗を制圧するアンドーとの争闘が物語の中心に位置づけられる︒﹁首狩り﹂﹁洗骨﹂を含めて︑典拠﹃チョプラン島之記﹄にアミ族の習俗の具体的な用語例は見られない︒

  ところで︑台湾住民社会の習俗を代表するものとして研究者が注目してきたのは︑首狩りと洗骨である︒西川は小説において︑日本人には奇異に思われる首狩りの習俗を︑原住民社会の日常的な習俗として︑また漢人のアンドーからツーレンの地位を奪われた前ツーレンの娘カアネの復讐の物語として描いた︒一方︑洗骨は文助を保護した瑯の商人馬安の亡母の五年目の副葬習俗として︑その全体像を具体的に描いている︒

四  首狩りと洗骨   ﹁首狩り﹂とは︑台湾の原住民社会において異種族を襲い︑その首を

取って祭る宗教的行為であり︑﹁出草﹂とも言われる︒首狩りは台湾原住民のほかにも︑東南アジア︑フィリピン︑南北アメリカなどの農耕民︑半農耕民に広く分布していたとされるが︑台湾の習俗に関する論著で強調されるのは︑それが各種族間の領地争いや財産の収奪︑または種 族間の怨恨や復讐を目的としたものではなく︑あくまで各種族内部の要請に基づく呪術的・宗教的行為であるということである 13

︒その習俗について︑大杉太郎氏は次のように説いている︒

  その行為は﹁首のもつ呪術宗教的な力を信ずることから出発した頭艫崇拝行為﹂であり︑﹁至上最高の道徳であつて︑これを神聖視し︑祖先の遺訓を守る行為であると信じ﹂られていた︒首狩りが最も盛んだったのはタイヤル族であり︑ブヌン︑パイワンの二族がこれに次ぎ︑ツオウ︑アミ︑サイセットの諸族は早くからこの習俗をやめており︑ヤミ族はこの習俗を持った形跡がないという︒

   彼等が首狩のために家を出ると︑あとに残つた家族一同は謹慎して其の成功を祈り︑目的を達して帰社すると︑神霊の加護によるものであるとして首狩祭を行ふ︒此の祭は盛大なものであつて︑宴を張ること二日︑三日にも及び︑舞ひ︑踊り︑謡ひ︑歓楽の限りを尽すのを普通とする︒

  典拠﹃チョプラン島之記﹄には︑タイヤル族の支族であるチョーガワとの闘いの様相について︑次のように記されている︒

   此地の者山猟に出て︑時として﹁チョーガワ﹂夷と闘諍する事あり︒互に人数を率ひたる事なれは相戦て多く死傷す︒若し敵の首或は生捕して帰る事有時は︑地夷悉く集りて酒を酌み肴を設け︑二三日の間生捕のものを饗し置て︑其後其者の首・両手・両足を切り落し︑人々是を持出て﹁チョーガワ﹂〳〵なと高々呼て三村中を廻りあるく事をなす︒文助此地在留中数度是を見るといふ︒

  典拠には﹁馘首後村内を持廻るの図﹂も添えられて︑馘首した首を抱えて村内を練り歩くアミ族の興奮の様が描かれている︒一方︑﹁チョーガワ夷時々此地に来りて交易す﹂として︑アミ族からは﹁チャーガヲ﹂という貝製の衣服飾り︑チョーガワからは弓・槍・刀などの武器︑虎︑豹の肉などが交易されていた︒文助はチョプランに滞在した四年間に数度アミ族の首狩りに遭遇したとある︒平穏な船乗り生活を営んでい

(6)

︵二二︶

た文助に︑この残虐な宗教的営為は理解の外にあったと思われる︒

  作品では﹁虹の出る河﹂﹁首刈りの歌﹂の二段を用いて︑その習俗の全体を具体的に詳述している︒山に登ったアミ族の者たちが武装したチョーガワに襲われる︒安兵衛の報知に混乱と喧噪を来した部落の中で︑断崖に隠れているカアネの身を気遣った三之助は悪霊に取り憑かれた身で岩間を走り︑力尽きて死ぬ︒また︑アミ族とともにチョーガワと戦った弥五郎も︑凱歌と村落を挙げた高揚する儀式のかげで死ぬ︒

  一方︑﹁洗骨﹂という習俗について︑合田濤氏は次のように説いている︒

    洗骨とは︑死者を一時的に台上葬や風葬︑洞窟葬︑土葬などで弔ったあと︑肉体軟部の腐敗をまって︑あらためて遺骨を洗浄しそれを保存︑あるいは再埋葬する習俗をいう︒このような習俗は︑北米インディアンやアフリカ︑オセアニア︑中国︑沖縄などに広く分布している︒︵略︶洗骨を伴う葬礼は︑二種類以上の葬法が組み合わされるため複葬と呼ばれる︒東アジアでは︑洗骨は︑死霊を子孫に良い影響力を行使する祖霊に変えるための儀礼と考えられている 14

  洗骨という複葬の習俗は︑死者を一時的に埋葬しただけでは死霊のままで︑子孫に役立たないのみならず病や死をもたらす危険な存在であるが︑洗骨して第二の葬儀をすることにより子孫に幸福をもたらす祖霊となるとする考え方のもとに執り行われてきた︒

  典拠の﹃チョプラン島之記﹄では︑文助をチョプランのツーレンから引き取った﹁マアン﹂の住む﹁ドンケヤウ﹂︵瑯︶の習俗として記されている︒

   人死する時は一旦土中に埋葬し︑一周期に至て︑墳を開き棺を出し︑棺は唐山の如く臥棺也是を焚し︑骨を拾採して木綿の囊に盛︑囊面に死者の姓名を記し︑野外に是を収る倉あり︒貴賤男女の分なく悉く倉中に蔵する事なれは能々囊口を密封し其骨をして錯乱せさ らん︵以下略︶

  ここに言う﹁一周期﹂とは﹁ひとまわりに要する期間﹂の意で︑その期間は明示されていないが︑沖縄では﹁死後三年若しくは七年とか十三年が経過した人たちの改葬をするならわしとなっていた 15

﹂という︒典拠では掘り出した棺ごと焚焼し︑その白骨を拾い集めて袋に記名して収蔵する倉に収める習俗が記されている︒しかし︑﹁洗骨﹂という用語︑またそれを示す具体的な記述は見られない︒この奇異な習俗は見聞した文助にとっても︑その口述を記録した秦貞廉にも十分な理解は得られなかったようである︒典拠には次のような断り書きが記されている︒

   此処は冠婚葬祭の礼又神仏の祭事等種々の俗習ありと云︒然れ共文助僅に寅年九月より明年三月迄寓居せしのみなるに︑大抵家に居せす船のみに有りて其事状詳にせされば︑図説を出す事あたはす︒

  これに対して︑小説では﹁洗骨の日﹂という一段を設け︑文助が頼った商人﹁馬安﹂の母親の満五年目の洗骨式の運びを具体的に描いている︒墓に向かう道中︑墓前の供え︑死者への讃慕の言葉︑白骨の洗骨と日干しの様子︑袋中への収蔵︑さらに家族の女たちの哭泣のさままで克明に記されている︒これは︑作者の有する知識︑見聞に基づく描写であったかと思われる︒

五  まとめ   この作品の評価について︑土屋忍氏は次のように説いている︒

    西川満は︑漂流記の小説化を通じて︑近代日本においても清国においても中華民国においても中華人民共和国においても長らく沈黙化されてきた先住少数民族としての台湾原住民の存在を歴史化し︑その民俗習慣を文学的に記述し︑物語の上では先住民の勝

(7)

︵二三︶ 利を描いた︒﹁蝦夷﹂の地を出発した無名の民が偶然流れ着いた先で︑台湾の漢人と少数民族とに出会い︑貧・病・争を経験し︑助けられたり使役されたりしながら命を賭けて交流する場面を描いた﹃ちょぷらん島漂流記﹄は︑﹁原住民﹂の沈黙化されてきた歴史にかかわったであろう日本人の祖先の存在を︑みずからの体験を追憶しながら書いた小説である︒その沈黙化された歴史の中には︑カアネによるクーデターのようなこともあったかもしれない︒そこに小さな小さな独立運動をみて︑無名の日本人の寄与を夢想したのである 16

  管見によれば︑土屋氏の所論は小説﹁ちょぷらん島漂流記﹂に対する最初の本格的な論説であると思われる︒その所説を踏まえながら︑﹁ちょぷらん島漂流記﹂において︑漢人のツーレンと原住民族とのツーレンの座をめぐる争いを小説の中核に据えたことを中心に︑別角度からいささかの私見を述べておきたい︒

  まず︑最初に確認しておかなければならないことは︑典拠の﹃チョプラン島之記﹄の本文には︑漢人のアンドがツーレンの座にあったことは明記されているが︑アンドがツーレンの地位を原住民から奪ったという記述や︑アンドに対する原住民の反抗を窺わせる記述は認められないということである︒一方︑殷允芃氏によれば︑﹁台湾移民史の書物の中には︑漢人と先住民の衝突・融合の記録そのままのものがあ﹂り︑﹁漢民族との同化が進行する過程で台湾に移民した漢人はよく首狩りの対象にされた﹂という 17

︒   このことを踏まえて見れば︑小説におけるツーレンアンドーの原住民に対する対応は︑大陸から移住した漢人の原住少数民族に対する支配の方策を具体化したものであると解することができる︒その方式は漢人社会や他種族との交易を生活基盤に据えるとともに︑首狩りという原住民族間の武力行使を禁じ︑種族意識の高揚を抑制することが意図されたことである︒その手段として銃器による超越力の誇示と威嚇 がなされる︒  作品中においては︑アンドーは漢人の神の憑依した童乩というシャーマンを演じ︑火を噴く﹁不思議な咒法の棒﹂により原住民を威圧する︒これに対して︑前ツーレンの娘カアネと司祭チサボンアタンの扇動による原住民の蜂起は︑伝統的な原始宗教的な手続きに基づく同族意識の確認と高揚による︑漢人支配以前の種族社会への回帰願望の現れと捉えることができよう︒  一方︑チョプランに漂着した漂流民たちは︑奴隷として原住民社会に配分されたことから︑被支配者として原住民と同化の道を選ぶことになる︒原住民の女カアネと三之助の交情︑源八の耳飾り︑チョーガワの襲撃に住民たちとともに戦った弥五郎の死︑そして支配者アンドーとの対決の場における原住民側への協力の構図がそれである︒現実にはアンドーの所持する三丁の銃に対して︑永柳丸に積まれていた五丁の火縄銃の火力の差がアンドーを追い詰め︑永柳丸の監送役人郡山次郎八の刃に倒れたアンドーの首をカアネが切る︒  この争闘の設定と結末に︑明治二十八年︵一八九五︶の下関条約による台湾割譲・総督府設置以来の日本の統治支配と︑それに対する原住民族による漢人・日本人襲撃︑﹁討伐﹂の名目による総督府の武力攻撃という史実に寄せる西川満の思いを重ねる意図が存在したとは断言しえないが︑この構図を単純なロマンチシズムの現れと評することでは得心しえないであろう 18

︒首狩りの習俗は︑一八九五年の日本統治にあたり私斗として禁止された︒

  また︑これを漂流記ものの歴史小説という観点から見れば︑典拠の﹃チョプラン島之記﹄に台湾原住民社会にすでに鉄砲が普及していたことを示す記述が見られることも見逃すことはできない︒他部族との戦闘に使用されたという記述はない︒

   鉄砲又台湾より来る者を用ゆ︒其丸或は焰硝を入るゝの器︑火縄の類は︑皆夷の自製する所なり︒

(8)

︵二四︶   典拠では﹁ドンケヤウ﹂から日本に向けて出航の途中︑飲料水の補給のために立ち寄った海岸でチョーガワと考えられる原住民に襲われた場面にも︑

   暫時して男夷三人皆弓・鉄砲を携来て文助が輩が衣服を請ふ︒廿四人是を辞しければ︑既に弓を射鉄砲を放んとす︒という記述が見られる︒作品では鉄砲という近代的武器を移住漢人の呪法の用具と捉える︑原住民の未開性をことさら強調する構図となっていることにも留意しておく必要があるであろう︒︵令和二年九月三日受理︶

︹注︺

1

について│﹂︵﹃熊本大学総合科目研究報告﹄六号︑二〇〇三年三月︶を参照した︒ と﹃│﹃ る︒子﹁   ﹃は︑

文研究﹄九四号︑二〇〇八年六月︶ 2和泉司﹁︿引揚﹀後の植民地文学│一九四〇年代後半の西川満を中心に│﹂︵﹃芸

3

戦前雑誌之部﹄を参照した︒ 張良沢著﹃西川満先生著作書誌単行本之部﹄︵一九八〇年︑人間の星社︶︑﹃同

4

六一号︑二〇〇三年四月︶ 春日徹﹁近世日本船の台湾漂着│﹃ちょぷらん島漂流﹄を中心に﹂︵﹃南方史学﹄

5

月︶ 樵﹁﹂︵輯︑

6   ︵

5︶に同じ︒

7

清野謙次著﹃太平洋に於ける民族文化の交流﹄︵一九四四年︑創元社︶に拠る︒

8藤崎貞之助著﹃台湾の蕃族﹄︵一九三〇年︑国史刊行会︶三頁︒

一一一号︑二〇一一年三月︶ 9彦﹁﹂︵西

一九六八年一月︶ 10 治﹁ミ︵﹂︵号︑

11

原英子著﹃台湾アミ族の宗教世界﹄︵二〇〇〇年︑九州大学出版会︶二六〇頁︒

12

明﹁﹂︵学﹃号︑ 二〇一八年三月︶

13

著﹃﹄︵年︑︶﹁﹂﹁追記﹂

    に︑

巻四号︑二〇〇〇年三月︶などを参照した︒ 治・﹂︵集・ ﹂︵号︑︶︑満﹁ 一九六〇年︑角川書店︶︑田中梓都美﹁伊能嘉矩の台湾認識と原住民の﹃首狩り﹄ ﹂︑治﹁﹂︵系・ 西著﹃﹄︵年︑︶﹁草︵ 寺澤芳一郎﹁ブヌン族の出草と狩猟﹂︵﹃南方土俗﹄三巻四号︑一九三五年九月︶ ︶﹁﹂︑著﹃﹄︵年︑︶︑ ︶﹁﹂︑著﹃﹄︵年︑ 8著︑著﹃宿﹄︵年︑

14

濤﹁﹂︵と死者祭祀﹄一九九七年︑早稲田大学出版部︶

15

島尾ミホ著﹃海辺の生と死﹄︵一九七四年︑創樹社︶﹁洗骨﹂

    ほかに︑河村只雄著﹃南方文化の探究﹄︵一九三九年︑創元社︶﹁洗骨の慣習﹂子﹁﹂︵年︑︶︑著﹃﹄︵年︑田書院︶などを参照した︒

をめぐって﹂︵﹃アジア遊学﹄一六七号︑二〇一三年八月︶ 16 忍﹁吾・代・西

17

編・訳﹃ ﹄︵年︑書店︶﹁最初の台湾人﹂

18

銘﹁画﹃ティティ﹂︵﹃立命館産業社会論集﹄四三巻一号︑二〇〇七年六月︶

は︑年︑増修条文に﹁原住民族﹂という名称が明記された︒本稿ではそれに従い﹁原住民族﹂または﹁原住民﹂という用語を用いることにする︒

18︶の張原銘論文を参照した︒

(9)

︵二五︶

A study of Chopuran to¯ hyo¯ryu¯ki by NISHIKAWA Mitsuru KATSUKURA Toshikazu

contents 1. At the outset 2. The source 3. Constitution

4. Kubikari(首狩)and senkotsu(洗骨)

5. Conclusion

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