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~川根本町の満洲移民の語りから~ 日本人農民の記憶の中の満洲

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日本人農民の記憶の中の満洲

~川根本町の満洲移民の語りから~

ダリンバヤル まえがき

1 満洲とはなにか 1.1 民族名としての満洲 1.2 地域名としての満洲 2 満洲事変と「満洲国」

2.1 満洲事変

2.2 「満洲国」の建国と背景 3 満洲農業移民の概要

3.1 満洲移民送出の契機と背景 3.2 移民の時期と満洲開拓五ヵ年計画 3.3 分村計量

4 中川根村における満洲農業移民 4.1 満洲移民送出の契機

4.2 満洲に渡ってからの人それぞれの体験 4.2.1 Aさんと果てしない満洲の大地 4.2.2 Bさんと「平和」な満洲

4.2.3 Cさんの記憶の中の「遅れた」満洲 4.2.4 Dさんと満洲での少年時代

4.3 終戦と避難生活 4.3.1 方向は北極星 4.3.2 辛い伝染病の流行

4.3.3 恐怖にかられた子供の記憶 4.3.4 Fさんと終戦

5 「罪」のない加害者たち あとがき

まえがき

平成20(2008)年64日の午後、私は初めてのフィールドワークに参加するため静岡県榛

原郡川根本町藤川区に到着した。上を眺めると高い山々が連なり、下を眺めるとお茶畑が続い たまさにお茶の産地である(写真1,2)

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写真1 お茶畑

写真2 山上からみる村の風景

私の調査テーマは満洲移民についてであった。旧満洲のとき日本の各地から大勢の移民が 様々な理由で満洲(現在の中国東北部)に送られた。この川根本町からも家族や単身も含めて たくさんの人たちが満洲に渡った。昭和20(1945)年日本は敗戦を迎える。数多くの日本人移民 が満洲から母国日本へ引き揚げる。ところで、それはすぐに引揚げられることではなかった。

彼らは満洲において「夢」と「誇り」または「人生の苦しさ」を体験した。実に今を生きる我々 はそのことについて正直にいって想像できないのである。その体験者たちは現在超高齢化を迎 え、人数も減りつつある。私が到着した次の日にも満洲について詳しい方が亡くなっていた。

文化も国も違う外国人で、その上に初めてのフィールドワークは私にとって簡単な仕事では なかった。それでもインフォーマントたちは満洲での経験を記憶の限り語ってくれた。彼らは 生きた歴史の証人であった。

第二次世界大戦の終結から60数年過ぎた現在において平和はますます大切になってきてい る。ところで、この間の地球が平和になったといえばそうではない。世界各地に現在でも紛争 や民族間の衝突や宗教問題が毎日のように起こっている、そしてたくさんの無実の人々が犠牲 になっている。

この地球に生きているあらゆる人間が平和で幸せに生きるためにはどうすればよいのか。一言 で言えばお互いの習慣と文化を尊敬し、大切にするしかない。さらに戦争を知らない我々の世 代が、その苦しさ、残虐さを知る必要がある。

以上のような背景の下で、私は彼らの経験を記すことを通じて平和の大切さを知らせるため

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に、この報告書を執筆した。

地名としての満洲は現在どこにもない。ここでいう満洲とは1932年に日本軍が現在の中国 東北部で建国した「満洲国」である。この報告書では、はじめに満洲という名称について述べ る。満洲は、現代中国では少数民族の名称として生きているのだが、日本では「地名」として 使われている。それをまず使い分ける必要があろう。なぜならば、日本の指す「満洲」は、単 なる満洲人の故郷ではなくモンゴル高原の一部も含まれているからである。

小論では満洲の由来から日本の満洲国の建国、それにおける日本人満洲移民の諸体験を述べる ことにしたい。

1 満洲とは何か

1.1 民族名としての満洲

満洲とは何か。その定義は実に人それぞれであるし、明確な定義はほとんど見当たらない。

国としての満洲は、日本が作り上げた「満洲国」を別とすれば満洲という国は歴史上存在しな い(小峰1991:1)。

小峰和夫によると「満洲の起源は、清朝の太祖であるヌルハチが女真人のひとつのグループ である建州女真を統一して、自らを満珠国(マンジュ・グルン)と称したからだ」と述べてい る(小峰199121)。この説はかなり要を得ているが、しかしそれは完全な独立国ではなかった。

当時の明は、力を増し始めた女真人に対して危機感を感じることになり、女真人の経済の源で あった朝貢貿易を断じることになる。最大の危機を迎えたヌルハチはついに満洲独立を図って、

1616年に自ら汗位につき「大金」の建国を公式に宣言した。第二代のホンタイジの時になっ てから「大金」の勢力はさらに強まり、漢・モンゴルなど複数の民族を支配下におさめる。そ の上、女真人の軍事制度であった「八旗」も民族別に編成されることになり、大金の国号も大 金から大清へと改称された。1644年、中華を支配していた明を滅ぼして、北京に清朝の樹立 を宣言した。

清朝の母体とも言える満珠国の満珠は、後に、専らその勢力であった女真人の呼び名を代替 することになった。

1.2 地域名としての満洲

満洲人の間で「満洲」は地名として使われていたか。これについて中見氏は次のように述べ ている。

モンゴル人や「満洲人」のような北方遊牧系民族のあいだでは、自分たちが生活し活動する 空間について、身近の小さな「地名」は存在するものの、それを越えた大きな地域や領域の 名を呼ぶときには「○○族の土地」といったかたちで、おもに、部族・民族集団の名称を転 用していた(中見2002:19)。

そもそも、満洲という地名は他称であって、自称ではなかった。「満洲」が地域名として使 われるようになったのは、日本人とヨーロッパ人に由来する。一枚の地図がそのきっかけとな った。それが18世紀末ころから日本で作成された日本の「辺図」及びそれを翻訳・紹介した

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シーボルトの『日本』所載図をへて、1830年代以降のヨーロッパで出版された東北アジアに 関する地図に「満洲」が地域名として表示されたからである(中見2002:18-19)。

後になって、日本がこの地域で「満洲国」を建国することになる。それによって「満洲」が 地名として日本人の中で完全に定着したのであろう。

2. 満洲事変と「満洲国」の建国

2.1. 満洲事変

満洲事件を述べる前に、はじめに知らなければならないのは関東軍についてである。関東軍を 抜きにして満洲国あるいは満洲移民について語ることは不可能である。それは、これらの背景 には関東軍が大きく関わっているからだ。

関東軍とは日露戦争から太平洋戦争終結まで満洲に駐屯していた日本軍の通称である。関東軍 の「関東」とは中国の山海関以東の奉天(現在の瀋陽)、吉林、黒竜江省に対する名称である(島 田2005:4)。

昭和6(1931)年918日、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条溝での南満洲鉄道が爆破された。

関東軍は鉄道が中国軍に爆発されたといい、攻撃を開始させた。これを日本では「満洲事変」

と称し、中国では「9・18事変」と呼ぶ。しかし、鉄道を爆発したのは中華民国軍ではなく、

関東軍が自分でやった謀略事件であった。関東軍と軍中央はこの事件を最大限に利用し、満洲 全土を占領するため戦闘をさらに拡大させた。翌、昭和7(1932)年2月、ソ連の動向を気にし ながら日本軍はハルビンを占領して、満洲全土を制圧するに至った。

2.2 満洲国の建国と背景

昭和7(1932)年31日、関東軍は「満洲国」の建国を宣言して、清朝の最後の皇帝である

愛親覚羅溥儀を擁して「王朝復活」を図った。国号は満洲国、国旗は新五色旗、年号は大同、

首都は新京である。満洲国の領域としては遼寧省(後に奉天省となる)、吉林省、黒竜江省の 東三省を中心に設定され、翌年熱河省が加えられた(中川根町史編さん委員会2005:130)(写3)。この満洲国は名目上の独立国に過ぎず、事実上当時の大日本帝国の傀儡国であった。例 えば

(1)皇帝である溥儀には政治的実権はいっさい与えられなかった。

(2)19329月に日本政府は満洲国を承認して「日満議定書」を締結した。その議定書には、

満洲における日本の既得権益を尊重すること。日満両国の防衛のため日本軍が満洲駐屯するこ となどが記されていた

(3)溥儀と関東軍司令官との秘密協定(満洲国の国防、治安維持は日本軍が担当すること、達識 名望ある日本人を中央、地方官署に任用し、その任用にまた関東軍司令官の推薦と同意が必要 であることが記されている。

(4)国民がいない。

大日本帝国の臣民は傀儡国であった「満洲国」を関東軍という軍事力を背景にして「王道楽土」、

「五族協和(漢人、日本人、満洲人、朝鮮人、蒙古人)」の理想の国家であるというスローガ ンのもとで、そこに全ての希望を託した(中川根町史編さん委員会2005:129-133)。

日本国臣民が国策であった移民政策に応じて、次々と満洲に渡った。川根本町のAさん(84

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歳 男性)は19才の時満洲に渡り、そこで2年間過ごしたという。Aさんの話によると満洲 に渡る経費のため、住んでいた家や農地まで売った人がいたそうである。この話は当時の人た ちが満洲という地にどれほど憧れていたかを裏づけている。

「満洲国」は昭和20(1945)年の日本敗戦と並びにその幕を閉じ、成立から滅ぶまで、僅か 14年間という幻の国に終わった。

写真3 「満洲国」とその周辺図(帝国地圖學館編:1938)

3 満洲農業移民の概要

3.1 満洲移民送出の契機と背景

日本の満洲移民政策は満洲事件以後から始まったことではない。実に日露戦争直後から始まっ ていた。その代表として日本初の国策的移民で、日本の政府機関が国策的意図のもとに実施し た関東州庁の移民で、通称「愛川村」である (満洲開拓史復刊委員会1966:11)。

戦前の日本の移民先について大きく分けて南北アメリカとアジアの植民地圏がある。一時的 な出稼ぎの要素が強く、金を儲かって故郷に帰るという目標をもつ、南北アメリカにおける日 本人移民に対して、アジアの植民地圏への日本人移民は国家権力を背景にした国策的移民であ るという性格が強い(移民研究会1997:175)。満洲への農業移民はまさに日本の国策的移民で あった。

満洲事件をきっかけに日本はついに満洲国の建国を宣言した。その翌年の915日に「日 満議定書」が締結され、それによって満洲における日本の諸権益は完全に承認された(満洲開拓 史復刊委員会1966:32)。満洲における日本の諸権益が承認されたことをきっかけに日本内地 における渡満の熱が一気にあがった(満洲開拓史復刊委員会1966:33)。

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当時の日本は人口増加または経済不況など様々問題を抱えていた。特に農村ではそれが一層 深刻だったそうだ。昭和14(1939)年8月号の『拓け満蒙』に掲載されてある「農村問題の常識」

という記事ではこれらの問題について次のように述べている。

わが国の農民にとって一番大きな悩みの種は農耕地が狭すぎることであります。猫の額 のような狭い土地を耕してたくさんの農家が生活して行かなければならないので、自然暮 らし向きも楽ではなくまたお互いに土地を争いあうような悲劇も起こるわけで

す・・・・・・・・(満州移民関係資料集成1998:139)。

農地の狭さに対して人口の増加という矛盾がこの記事から覗える。このことについて『満洲 開拓史』には次のように述べている。

当時日本内地における人口は依然飽和状態であり、海外移住を必要とした。己を救い彼 を救い、過剰人口を満洲に移植することによって得られるものは日本における農山漁村の 経済的困窮を取り除くとともに都市における失業問題を緩和するのみならず、満洲国の産 業開発、文化の向上、国防の充実、民族協和にもっとも効果的であると考えられた(満洲開 拓史復刊委員会1966:895)。

以上から、当時の日本は人口問題を前提にして、それに伴う農村の土地問題、都市の失業問 題に頭を悩ませていた。建国したばかりの「満洲国」に過剰人口を送り込むことはこれらの問 題を解決するだけではなく、事実上、「満洲国」を経営していた日本国にとって最も良い策で あった。

満洲への移民送出のもう一つのきっかけは軍事的理由である。建国したばかりの「満洲国」

は地理的にも、人種的にも非常に複雑だった。漢人をはじめ満洲人、モンゴル人、朝鮮人とい ったに様々な民族がそこに暮らしていた。または「満洲国」の建国を契機に日本と中華民国の 関係の悪化、ソ連の南進など軍事衝突の危機も迫っていた。このような満洲内外の治安維持の ために多数の人手が必要された。軍事的な理由から見ても、満洲移民計画は国策的特徴が強い。

3.2 移民の時期と満洲開拓二十年計画

満洲移民は時期的に区分すれば次の三期である。第一期は1932年から1935年までの「試 験移民期」。第二期は「本格的移民期」。第三期は「崩壊期」である。「試験移民期」とは日本 人移民にとって満洲での生活は可能かを試すための時期である。「本格的移民期」とは1937 年から1941年までの日本政府によって移民政策が本格的に始まった時期である。「崩壊期」と は1942年から終戦までで、太平洋戦争の勃発、日中戦争の長期化により軍事産業への労働者 の需要増大などの要因から満洲への農業移民の送出はますます困難な状況になった時期であ った(中川根町史編さん委員会2005:134-138)。

関東軍は1936年から二十年計画で百万の日本人農民を満洲に移民させる案を決定している

(合田1978:52)。二十年計画は「第一期五ヵ年計画」、「第二期五カ年計画」、「第三期五カ年計

画」、「第四期五ヵ年計画」といった四期に分けられ、百万戸を満洲に入植させる計画であった。

四回にわたって送出した「試験移民」が少しは障害に会ったものの、その成績は実に良かった。

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それをきっかけに「試験移民」の名称は「集団移民」と改称され、満洲開拓「第一期五ヵ年計 画」が始まり、移民送出は本格化した(満洲開拓史復刊委員会1966:171)。

「第一期五ヵ年計画」は驚嘆すべき成績をあげ、1941年をもって終了した。1942年度から はいよいよ「第二期五ヵ年計画」の実行に移ったが、その進展は上述のように困難な状況に陥 っていた(満洲開拓史復刊委員会1966:431)。

3.3 分村計量

分村とは一つの村から何百戸、何十戸と分けて、送出することである(満洲移民資料集成 1998:42)。つまり、日本内地の農村から多数の農家を満洲に分村移住させる計画である。満 洲に送出された開拓移民は母村とひとつの連絡関係にあって、満洲建国農民としての役割を果 たすと同時に内地農村、すなわち母村の経済更正を支える目的であった。

分村計量は日本の農村における当事の諸問題の解決または満洲開拓移民という事業を支え る唯一の政策であったに違いはない。農民らは満洲に移住したとしても母村とは一体の関係を それによって保ってからである。

4 中川根村における満洲農業移民

中川根村(現川根本町)は日本が敗戦する1945年より3年前の1942年に「分村移民」と して村民を満洲に送り込んだ。通称「川根開拓団」である。中川根村の満洲移民はちょうど移 民送出が進まなかった時期にあたる。つまり移民送出の「崩壊期」である。彼らはこの時から はじめて満洲の地に足を踏み「王道楽土」「民族協和の中核」になった。入植地は竜江省鎮東 県套保村周家地区である。位置は竜江省南部の鎮東県地区で、スンガリ川に合流するネン川の 支流、トウルホ川に東南を画して安広県に対し、西は小丘をもって白城県と境をしていた(中川 根町史編さん委員会1975:101)。

4.1 満洲移民送出の契機

私は川根本町藤川区の集会所(写真4)でAさんから中川根町の満洲移民送出についてイン タビューした。氏によると、当事の中川根村は財政的には非常に苦しく個人的にも現金収入を 得る道はなかったという。これらのことを解決するため村自体が様々な政策を考えたのだが、

いい案はでてこなかった。ちょうどそんな時、政府が満洲移民政策を進めていた。村の役所に は村長の助役をしていた若くて有能な青年がいた。彼は満洲を第二の故郷にするという熱心な 案を打出して、自ら満洲に渡って視察するなど様々な活動を展開した。その後自ら団長を務め て、先衛隊30余家族をつれ、満洲に入植した。

山に囲まれた中川根村は、農業に適した土地ではなかった。その上、当事の村の人口問題や 国の事情などと重なり、財政的には困難であった。農民の人口に対して農地の狭さという事情、

そしてそれをどう解決するかという課題と直面しているとき、「満洲開拓移民」という国の政 策に人々が夢を託したのである。

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写真4 藤川区集会所

4.2 満洲に渡ってからの人それぞれの体験

4.2.1 Aさんと果てしない満洲の大地

日本と比較すると、言うまでもなく満洲は日本より広いところであった。川根本町のインフ ォーマントたちから満洲についてインタビューしたところ、最初に人々の口から出てきたのは

「果てしない満洲の大地」であった。

Aさんが満洲に着いたのは冬だった。満洲の冬はマイナス30度が普通であるが、暖かい日 本からはじめて行った人にとっては厳しい環境だったらしい。鼻水をすするとすぐに凍ってし まう程度に寒かったという。冬に渡った満洲の大地はAさんにとって初めのころはとにかく不 安が募る毎日だった。近くに故郷のような山もないし、大きな建物もなかった。もちろん目標 にするものもなかった。

4月になってから気温も上昇し始め、草の芽が出て草原も緑色に染めたように美しくなり、

農業の仕事も始まり少しは落ち着いたという。

満洲で作った作物は高梁、トウモロコシ、小麦、馬鈴薯で、果物は主にスイカだった。夕方 にはと小さかったスイカが朝になると大きくなっていた。成長の早さにびっくりしたという。

Aさんは分村の役場で事務の仕事を担当していた。彼は最初、満洲に行きたくなかったとい う。家族が先に満洲に渡ったこと、さらに役場で事務の人が足りないなどの理由から仕方なく 渡ったそうである。

Aさんの満洲での夢は農業をやることだった。けれど残念なことに夢は叶わなかった。

4.2.2 Bさんと「平和」な満洲

川根本町藤川に在住のBさんは今年75歳だ。昭和18(1943)年に満洲に渡る。当事は13才 の子供で小学校6年生だった。

満洲に行く時、大東亜戦争(太平洋戦争)の最中であったため、途中の船の中で避難訓練を した。向かう船の中でみんな踊ったり、歌ったりしていたという。

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Bさんは満洲に着いてから「在満国民学校」に入学した。学校ではみんな日本人の子供で、

満人の子供は別に学校があったという。地元の子供とはあまり触れ合いがなかったが時に満人 の子供をいじめて先生に怒られたそうだ。

村に3戸ぐらいの満人がいたらしい。当事満人には布が不足していて日本の布を欲しがって いた。満人はおとなしかったという。

Bさんはとにかく満洲の生活に満足していた。彼女は次のように満洲の生活について述べる。

親はどう考えたいたかは分からないが子供の私にとっては満洲での生活は良かったと思う。ス イカ、トウモロコシなど様々な農作物も出来て、生活も良く、平和だったという。

4.2.3 Cさんの記憶の中の「遅れた」満洲

川根本町徳山在住のCさん(80歳 男性)は昭和18(1943)年に満洲に渡った。父親は建築 の仕事をしていたため、自分も後を継ぎ建築の仕事に就いた。

Cさんは満洲について次のように語っている。満洲は中国と言葉も習慣も全く違っていたし、

日本より非常に遅れていた。住まいも日本と違った土の建物であって、住み慣れなかった。最 初のころ水が合わず腹を壊した。畑は満洲の在来法であり、日本人もそれを習った。

4.2.4 Dさんと満洲での少年時代

「川根開拓団」の団長の息子であるDさんは昭和18(1943)年に満洲に渡ったという。当時は 12才の子供だったDさんは満洲での思い出を次のように述べている。

自分は幼かったため地元の村長にかわいがられた。村長は片言の日本語は話すことが出来る が、日本に行ったことがなかった。満洲には当時民族区別はなかったため、日本人は満洲にい るすべての人を満人と呼んでいた。満人はおとなしく日本人のいうことを聞いていた。子供な 上に、言葉も通じなかったので地元の子供とあまり交流はなかったが、雑業をしていた地元の 子供と小鳥を捕まえたり、ネズミを捕まえたり遊んだことはある。また、野原に放牧していた ロバに乗っていて、何回も地面に落ちた。

飯は米、大豆、高梁を混ぜて炊いて食べた。肉はあまりにも少なく、蛋白質を補うため政府 が人数あたりに魚を配給していた。

4.3 終戦と避難生活

昭和20(1945)814日、日本はアメリカによる日本本土の空襲や原爆投下とソ連参戦な

どの理由から連合軍のポツダム宣言を受諾し、9月2日に無条件降伏文書に調印した。これは 太平洋戦争ないし第二次世界大戦の終結である。そして「満洲国」の終わりでもある。

日本は満洲だけではなくアジアの植民地圏へ数多くの移民を送り込んだ。敗戦と伴い日本人 移民は長い避難生活を余儀なくされた。

満洲に渡った移民たちも例外ではなく、長くて苦しい避難生活をせざるをえなかった。地元 人の憎しみとソ連軍の恐怖、生活の苦しさ、生きていくための闘いについて川根本町の満洲体 験者らが私に語ってくれた。

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4.3.1 方向は北極星

昭和20(1945)年6月、ハルビン訓練所で開拓について習っていたCさんは、アルシャンへ派

遣された。彼は何のために派遣されていることさえ知らなかったという。同行者はみんなで6 人だったが、一晩中に2人が突然消えたそうだ。当時の日本人は柿色の服を着るのだが、あの 2人は青い服を着ていたのだった。Cさんは後になってから、実はその2人は日本のスパイと してソ連に入っていたことを知ったという。

Cさんは話を続ける。当時の新聞ではソ連軍が満洲に入ってきたことを86日と書いてあ ったが、実は7月末にソ連軍が満洲に入ってきていたのだ。ハルビンには7月末には早く逃げ るようという命令が出された。方向すらわからないので、夜は北極星を見ながら南へと逃げた。

逃げている途中で凄い戦車を見て、日本にはこんな戦車があるかなと疑いながら近づいて眺め たらソ連の戦車だったのでまた逃げ続けた。時計はなかったので時間も分からない。朝になっ てようやく日本の兵隊に会い、彼らの戦車に乗せられ85日に白城子に辿り着いた。

白城子には日本人が一人もいなかった。「満人」から日本人の行方を聞いたら、きれいな日 本語で「日本人はみんな帰っちゃったよ」という答えだったそうだ。それから奉天へ向かった という。

4.3.2 辛い伝染病の流行

Aさんは終戦後、新京で一年間ぐらい避難生活を過ごしたという。仕事もなかったので生き ていくために鉄道の石炭を盗んで売っていた。または日本軍の住宅から木材を取り満人の市場 で売り生活を続けた。一番危ない目に遭ったことは、ある日の夜、ソ連軍が片手にピストルを 持ち、肩に銃をかけて入ってきたことである。軍は衣類から子供のおむつまで持っていった。

そして腕時計も全部取られてしまった。ソ連軍は腕時計の操作すらできず、時計が止まるとそ のまま捨てていたという。それを見たAさんは時代遅れだなと思ったそうである。

避難所では「日本人会」という組織があり、終戦からずっと食料の配給などの面倒を見てく れていた。一番辛かったことは伝染病であった。発疹チフスが避難所に大流行して、一ヶ月で 1000人も亡くなったという。

Aさんは新京の避難所で一年あまり過ごして、奉天へ移りそこで一ヶ月程避難してから、昭 和21(1946) 9月に日本へ引き揚げた。

4.3.3 恐怖にかられた子供の記憶

当時13才の少女だったBさんはソ連軍の攻めから避難するために大人たちと一緒に開拓村 から逃げることになった。もし逃げられなかった場合自殺するようにと鎌を渡されたそうだ。

汽車に乗って逃避する途中、突然飛行機から照明弾が光った。照明弾が光ると爆弾落ちると聞 いていた人々は忽ちと汽車から降りて避難したのである。結局、爆弾は落ちることなく、その 場は混乱した状態になり、親子は一時離れ離れになった。再び汽車に乗り、親たちが一人ひと りの子供の名前も呼び続けた。危険な光景はこの後も絶えずに続いた。混乱状態になった当時 は、人々はほんの少しのデマにも恐怖感を抱いていた。

恐怖にあふれた道を辿り着いて、ついに新京に到着した。とはいえ、新京は安全なところで はなかった。ソ連軍の略奪行為から始まり、深い憎しみを抱く地元の人たちの様々な行為と並 びに生活の苦しさ等があって不安な日々が続いたそうである。

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避難所には学校もなかったので、生計を助けるためにBさんはタバコを売っていたという。

当時、新京には日本人は多くいたらしい。ある日、「満人」の警察官がと突然Cさんの売って いたタバコを奪って逃げたのだった。タバコを奪われたBさんは何も出来ないままだったとい う。

一番恐ろしいのはソ連軍と八路軍だったという。軍人の乱暴を防ぐために女の子はみんな髪 の毛を丸坊主にしたそうだ。軍人らは彼らの財産を一つも残さずに全部奪い去ったが、殺人は しなかったという。

昭和21(1946)年9月、ようやく帰国を果たした。船の上で伝染病が流行していたので、陸に

下りず、一週間ぐらい日本本土を眺めながら船の上で過ごすことになる。それでもBさんはほ っとしたという。

4.3.4 Fさんと終戦

町会議員の娘だったFさん当時の国民学校を卒業してから、名古屋の陸軍省に就職していた。

その時、Fさんの父親が満洲へ視察しに行った。満洲の魅力に憧れた父が戻って来て一家を連 れて渡満することになる。Cさんも名古屋での仕事をやめて、家族で一緒に満洲へ行った。

昭和20(1945)年5月、終戦より僅か3ヶ月前、妹2人、弟2人、両親と叔母さんと自分を

合わせて8人で満洲に渡ったという。着いてからすぐに終戦を迎えることとなり、苦しい避難 生活を余儀なくされる。

避難所がある新京へ向かう途中、飲み水がなくてトール川の泥水を飲みながら逃避を続けた。

日本から持っていたものなど全部捨てざるを得なかった。新京にはCさんの母の従兄が戦前か ら店を経営していたそうだ。終戦に伴いその経営も難しくなり、結局地元の人に店を渡すこと になった。その母の従兄が現在は藤枝に住んでいるという。

避難所では食料不足に陥っていた。生きるためCさんは石炭殻を拾って売り、高梁を買って 食べていた。恐ろしかったのは、ある日の夜、ソ連軍が入ってきたことだった。自分もとても 怖かったし、母は妹をずっと抱き続けたという。

5 「罪」のない加害者たち

「満洲」への農業移民は、悲惨な被害者の一面と移民自身の主体的な認識の有無に関わらず アジア侵略を行なった日本国家の一員として、移住地の人々に対する加害者の面との両面をも っている(移民研究編1997175)。中川根村の満洲移民もこれに当てはまるだろう。

彼らは当時の国策に応じて満洲開拓に積極的に参加した。それによって一番被害を受けたの はいうまでもなく、土地を奪われた地元の人たちだった。川根本町に調査したところ、何人か が、戦争終結前の「満洲」は平和だったという。これについて、私の平和感覚ではどうしても 理解しがたい。

日本が敗戦した後、移民たちは想像したこともない被害を蒙った。上述の避難所での諸体験 はこれを物語っている。これらのことについて、彼らは涙をしながら私に語ってくれた。けれ ど、個人的にどう考えるのかは関係なく、いくら被害者であっても日本帝国の一員として加害 者でもあった。私はここで彼らのことを「罪」のない加害者たちと呼ぶことにした。苦しい時 代を体験した彼らが現在は誰よりも平和を愛しているに違いない(写真5,6)

(12)

写真5 藤川区集会所の前に建てられた碑文

写真6 徳山区防災センターに建てられている平和の石碑

あとがき

日本に来てから4年の間、日本人の高齢の方から「満洲」という話を何度も聞いたことがあ る。最初ははっきりと意味が分からなかったのだが、後になってからそれに気づいた。日本の 建国した「満洲国」は我がモンゴル人にとって密接に関連していたからである。彼らはモンゴ ルと聞くと満洲についての思い出が浮かんでくるようである。

戦前の日本は西洋の国々を真似してアジア各国に植民地を作り、その支配力を強めるために 傀儡国まで作った。その代表としては「満洲国」があげられる。「満洲国」の建国からまもな く日本からの移民送出が始まった。国を信じ込んだ数多くの日本国臣民は満洲の大地に最大の 夢を託した。その数は27万人にものぼると言われている。

中川根村の人たちも村の財政状況などをきっかけに国策に協力しながら満洲へ渡ったので ある。しかし、2年間と短い間で終戦となり、彼らは避難生活を余儀なくされる。食物の不足、

軍隊の乱暴、伝染病等々があって、一生忘れることの出来ない心の傷になったには違いない。

これだけではなく、戦争の残した傷跡は今でも続いている。例として、日本人残留孤児の問題 などがあげられる。

平和で幸せな時代を生きる我々はその大切を知り、平和を保ち続けることは何よりである。

最後に、私に満洲での貴重な体験や思い出を隠さずに語ってくれた川根本町の方々と満洲体験 者を紹介してくれた藤川区の区長落合氏に、こころから感謝申し上げたい。

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参考文献 合田一道

1978『満州開拓団27万人「死の逃避行」』 冨士書苑

移民研究会編

1997『戦争と日本人移民』 東洋書林 小峰和夫

1991『満洲-起源・植民・覇権』 御茶の水書房 島田俊彦

2005『関東軍』 講談社 中川根町拓友会

1974『ああ拓魂』 長田文化堂 中川根町史編さん委員会編

2005『中川根村の満洲移民(中川根町史近代資料編 付録)』 長田文化堂

中見和夫=編

2002『境界を越えて-東アジアの周縁から』 山川出版社 満州移民関係資料集成 第Ⅱ期

1998『新満洲(第5巻,第6巻,第7巻)』 不二出版

満洲開拓史復刊委員会編 1966『満洲開拓史』 拓新社

参照

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兎亜勧業株式合祀は拍東洲及び備鋳租借地以外の地方に於て農薬控螢・移民の募集・農産物の加工等の啓発を

例えば,2003年から2012年にかけて刊行された『下伊那のなかの満洲』

国と地獄」前掲『満洲とは何であったのか』 455 ページ

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勘領実施開拓民は, 旧地勘領, 換地勘領, 移 転勘領という3つの種類に分けられる。 旧地勘 領とは土地家屋とも原状のまま勘領する場合で

1954 年 6 月 19 日の第 1 次移民から 1964 年 4 月 19 日の第 19 次移民ま での家族世帯は 555 世帯、 3,106 人、 単身世帯は 123 世帯、 合計 678 世帯、

⒁ 満洲国期における延寿人口の減少は,1934 年から 1935 年までに 137106 人から 106477 人 となり,そして 1944 年から 1945 年までに 161860

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