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日清戦争後恐慌期における 山梨県の製糸産業と

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(1)

日清戦争後恐慌期における 山梨県の製糸産業と

絹織物産業の状況

深澤 竜人

【要旨】

本稿は日清戦争後恐慌に関して,一地方・地域の詳細を確認すべく,山梨県に おける状況を追究した.具体的には,当県では特に生糸産業と絹織物産業が本恐 慌の影響を被り,その詳細状況を追究している.また先行研究では触れられてな かった本恐慌期における物価上昇に関して,その要因と影響に関しても追究して いる.

【キーワード】

 日清戦争後恐慌,山梨県,生糸,絹織物,甲斐絹

はじめに

本稿では日本の近代史において生じた日清戦争後恐慌

(第一次恐慌 : 1897–98

年,第二次恐慌

1900–01

年)に関して,全国的な通史把握ではなく,一地方・地 域の詳細を確認すべく,山梨県における状況を追究していくこととする.

この課題対象に関して,筆者はかつて深澤

( 2017 )

において,主として『山梨 県統計書』などによる統計資料に依拠して,当県における当時期の概括的な状況 を論じたことがある.まずそこで示した主要な点を確認しておくとすれば,次の

(2)

とおりであった.通史的な理解把握では日清戦争後恐慌は全国的に紡績業と銀行 に倒産他甚大な影響を与えたとされているが,山梨県経済の統計把握で見ていく と,紡績業ではなくて製糸業とそして中小の金融業に対して倒産と数的減少・淘 汰等々の影響を与えたわけである.ただこれらの点は主として統計資料からの数 値的把握であった.そこでは紙幅の関係などから,各種史料による検証等々は省 略せざるを得なかった.

本稿は深澤

( 2017 )

をブラッシュ・アップさせるべく,深澤

( 2017 )

で言及でき なかった対象に関して追究し示していくこととしたい.例えばそれは,今回の史 料探索と研究で新たに判明したことでもあるのだが,山梨県における本恐慌の影 響は上記製糸業と金融業だけではなくて,その他に県内のもう一つ重要な産業で あった絹織物産業に関して甚大な影響を与えていたこと,またこうした各産業に 与えた影響とは別に,当時期における物価の上昇も重要な問題であって,これは 今までの当県における当時期の先行研究ではほとんど触れられていないものであ る.

本稿ではこうした新たな史料とデータでもって,日清戦争後恐慌の山梨県経済 での状況,そのさらなる詳細に迫っていきたいと考える.

1. 製糸業関連の製品製造工程と流通ルート

まず日清戦争後恐慌時における山梨県経済の問題点に関して,その内実と状況 を解りやすくしていくため,この時期当県の製糸業関連での原材料の仕入れ先・

製品の製造・販売先,これらの工程とルート等々を確認しておくとよい.それは 以下のように把握できる1

1 これらに関しては,「山梨県機業調査報告

( 1902

年)」,中村

( 1964 ),石井 ( 1966 ),山

梨県

( 1978 (特に 403

頁)の他,『山梨日日新聞』紙上では主として

1896

12

23

日,

1897

8

8

日,

1898

1

27

日,

5

6

日,

1899

5

24

日,

1900

9

21

日など,これらの記事からの理解である.

(3)

繭・生糸,絹織物の製品工程と流通ルートの図

【製品 :

繭・生糸】

【製品 :

生糸・絹織物】

養蚕

(蠶)

家・蚕

(蠶)

業家 同左  ↓【繭】

繭商人       山梨県内 同左        山梨県内  ↓【繭】

製糸

(絲)

家・製糸

(絲)

製糸家・製糸業

 ↓【生糸】  ↓【生糸】

横浜生糸問屋

(横浜生糸売込商)

織物業者

 ↓【生糸】      山梨県外  ↓【絹織物・甲斐絹】  山梨県外 外商

(横浜貿易商人)

織物問屋・仲買商

 ↓【生糸】  ↓【絹織物・甲斐絹】

国外へ輸出 県外・海外へ

上の図を基に説明を加えていくと,次のとおりである.山梨県内ではこの時期 主に農家が養蚕を兼業していたため,まずこの養蚕農家から繭が製品として出荷 される.これは言わずと知れた蚕を飼育して,それから繭を作り出し,それを出 荷するわけである.この時季と回数は地域によって違いはあるが,主として春・

夏・秋の中で三回〜五回であった2

.その繭を繭商人が買い取り,製糸家・製糸業

へと出荷する.繭を仕入れたその製糸家・製糸業は,この繭から製糸としての生 糸を取って

(製造し),それを生糸問屋 (横浜生糸問屋,

横浜生糸売込商,図の左)

へと出荷する.この後,生糸は国外に,主としてアメリカに輸出されていく.

この生糸・製糸とは別に,「甲斐絹」

(海気とも)

呼ばれた絹織物も山梨県

(特

に南・北都留,二郡)の特産品で,これは上図の右のとおりである.図の右と同 じく製糸家・製糸業から製造された生糸を,今度は織物業者がそれを買い取り,

そこで絹織物・甲斐絹が製造される.その絹織物・甲斐絹が織物問屋・仲買商を

2 山梨県

( 1998 110

頁.

(4)

経て販売されていくわけである.この販路先の多くは八王子・大阪・名古屋・京 都・横浜そして海外

(主にアメリカ)

であった

(『山梨日日新聞』 1897

8

8

日).

このように一口に生糸・製糸そして絹織物と言っても,県内での製品製造とそ の販売ルート,他県への出荷取引関係,そして輸出と,これだけの製品工程と流 通経路を経ることとなっていた.

2. 製糸業における問題点と恐慌との因果関係 2‒1. 製糸業における購繭資金の問題

そこで最初に,生糸を産出する製糸家・製糸業の詳細からあたっていくとして,

ここまででまず重要な点は,山梨県の上記の製糸家の多くは資力が少なく,原料 としての繭を買い取る時,多額の「購繭資金」(広く「運転資金」と呼ばれる場合 もある),これが必要であって,製糸家はその資金を各種の金融業他から仰ぐこと になっていたという点である3

.仰ぐ金融業は当然いくつかあり,県内の (主に中

小の)銀行あるいはそれに類した機関等々である.が,着目すべきは,上記の横 浜生糸問屋が横浜からわざわざ各地へ赴き,その地の製糸家に資金を貸し出すと いう形態が一般的に行なわれていたことである.それは山梨県においても同様で あった4

この時期山梨県の製糸家がこの横浜生糸問屋から借りる

(あるいは横浜生糸問

屋が当県の製糸家に貸し与える)額としては,無論製糸家・製糸業の規模と年度 によって様々だが,一例として当時の山梨県で比較的大規模な「草薙社」の場合,

「昨 [ 1900

年は拾萬円を

[横浜の生糸問屋より]

借入れたる」とある5

.(『山梨日

3 この点に関しては,石井

( 1966, 1972 ),山梨県 1978 433

頁以降にて詳細が示されて いる.

4 この時期本県における横浜売込問屋と製糸業との金融的な詳細一例としては,石井

( 1972 ) 137

–147

頁を参照.

5 ちなみに当時期の物価に関しては,深澤

( 2019

を参照.

(5)

日新聞』

1901

5

17

日.)

2‒2. 生糸取引の投機的性格

次に重要な点は,この生糸の価格が非常に乱高下するという点である.次頁の

1 2

で各年の繭と生糸の相場価格を示したが,その乱高下・変動振りが凄ま じい.生糸相場は器械・座繰りの両者とも

1891

年から

1897

年にかけて

2 〜 3

くらい高騰し,その後

1901

年にかけて両者とも今度は

6

割くらいまで落ち込ん でいる.繭相場はそれとは別な傾向で上昇しているものの激しい乱高下を示して おり,趨勢は見定めがたいところがある.年にしてこれだけの変化であるから,

月ごとなどさらに細分化すればさらに著しい変化があったわけである6

6 その具体例としては,山梨県

( 1978 425

頁を参照.

1

 山梨県における生糸・繭相場他 製糸

工場

(一斤,

生糸相場円) 繭相場

(一石,

円) 卸売商数 仲買商数 器械 座繰 蚕種,繭 生糸 綿,真綿 蚕種,繭 生糸 綿,真綿

1891 241 5.150 3.958 34.250 1,324 445 13 179 28 2

1892 217 6.950 5.213 45.000 873 102 11 2

1893 248 7.050 5.740 37.750 1,041 225 251

1894 230 7.350 6.775 32.500 1,329 20 209 210 24 8 1895 219 7.688 6.970 35.875 1,495 20 201 257 24 20 1896 201 11.750 8.845 41.000 1,173 176 106 402 125 18 1897 221 13.575 10.220 49.275 1,344 180 78 335 133 8 1898 134 9.020 6.650 43.000 1,190 142 60 509 151 6 1899 102 11.270 7.250 58.000 1,064 157 63 598 126 8 1900 100 8.450 7.049 47.200 1,013 202 99 772 213 20 1901 104 8.300 6.800 45.000 972 211 114 1,061 237 55 1902 98 8.700 47.500 931 211 130 1,088 223 103

1903 96 10.400 66.000 559 101 59 794 156 18

(資料出所 :『山梨県統計書』各年版.「生糸相場・繭相場」の欄は甲府市の平均値.年によって数値に異

同があるが,新しく出版されたもの年の値を記載した.空欄は記載なし.以下同じ.)

(6)

こうした繭・生糸の価格上昇と低下,また激しい乱高下,さらに上記

1

の各種 様々な流通取引などから,これらの製品は極めて投機的な側面を有することとなっ た.しかし逆にそれを見込みながら,資金力のない山梨県内の製糸家に横浜売込 商が資金を融通していき,それが県内の製糸家の財源となったのは既述のとおり である.

だとしても,ただこうした資金融通の関係と取引は次第に増長していき,例え ば県内製糸家で無資力でありながら,投機心を併存させながら,横浜売込商から 資金を競って借り受け,それもさらに自家や自己の責任以上に巨額な資金を借り 受けるという事態へとも進行していたのである.そしてそれは,何もこの時期に 限ったことだけではなくて,多年の因習としての旧来からの悪弊でもあった.こ

2

 山梨県における養蚕家・製糸戸数,生糸・繭の生産・価額 年 養蚕家数

(戸)

生糸産額

(貫)

生糸価額

(円)

繭産額

(石)

繭価額

(円)

1891 41,818 64,992 2,009,678 49,117.2 1,244,277 1892 44,249 63,210 2,496,255 51,718.6 1,523,852 1893 44,850 69,202 2,629,371 55,995.0 1,681,605

養蚕家数

(戸)

製糸戸数 生糸

(器械取)

生糸

(その他)

繭産額

(石)

繭価額 製造

(円)

自宅 量目

(貫)

価金

(円)

量目

(貫)

価金

(円)

1894 44,671 246 11,813 52,434 2,394,094 13,132 504,089 68,425 1,939,251 1895 69,387 190 11,889 62,542 3,048,707 15,170 696,212 78,427 2,362,864 1896 48,550 214 11,767 55,680 2,292,851 15,180 522,239 62,956 1,951,052 1897 47,193 180 11,776 55,729 1,608,721 14,639 546,382 66,394 2,299,966 1898 46,268 159 13,166 49,737 2,388,989 61,202 581,173 65,173 2,310,517 1899 45,103 149 12,721 57,987 3,968,654 63,492 3,323,388 70,721 3,164,348 1900 74,193 139 12,027 57,458 3,090,096 24,234 1,159,721 83,856 3,843,691 1901 76,448 135 12,163 57,885 3,273,651 20,758 927,303 76,255 3,478,399 1902 77,752 105 13,616 68,115 4,165,099 26,090 1,260,366 71,615 3,574,964 1903 80,733 113 12,822 73,981 4,450,097 33,134 1,714,926 85,843 4,086,545

(資料出所 :

1

と同じ.

1891

年からの「生糸産額」「生糸価額」は,同書「繭糸産額ノ上」の値.

1994

年からの「製糸戸数」「生糸

(器械取・その他)」は,同書「蚕糸真綿及蚕卵紙ノ上」の値.同欄の数値で 1899

年頃に大きな変動が見られるが,原資料のままの数値とした.こうした点に関しては以下同じで,

断りのない限り原資料のままの数値である.)

(7)

うした関係と状況によっても,生糸取引で投機的側面がさらにまた増長していっ たのである.

以上,生糸取引の投機的側面,それを狙っての製糸家・製糸業の投機心,そし て彼らへの資金融通,これらに関して上記

2–1 2

で示した状況を,具体的な史 料で確認していくとすれば,以下のとおりである.

●本県製糸家の現状 (一)

  

[略]

刻下製糸家の状態を見るに其の過半は無資力にして 唯年来就業せるの故を 以て幾分の信用を利用し依然就業し得らる

[る]

もの多しとす 此輩は斯業の 発達改良進捗と是れに伴ふ利益を望まざるにあらず 然かも

[それ]

は他人に 対する口実に過ぎずして 実は他人の資本を目当てに自家の財政を幾分にて も肥やさんとするに他念なきものヽ如し

県下製糸家の多数をして今日の状態に陥らしめたるは実に独り県下製糸家の 罪のみにはあらず 横浜生糸売込商も亦其罪を分たずんばあらず 元来売込 商の目的とする所は製糸家と外商の間に立て 其の取引を媒介し手数料を収 むるにあるのみ 故に自家扱荷の多きを望むは勢避べからず 而して製糸家 にして金融に窮するに際し融通を売込商に求めんか 売込商は扱荷の多数を 望むより之れに融通を与ふるを辞せず 是に於てか機を見るに敏なるの売込 商は各地方製糸家の財源となり益々貸出しを競ふに至れり 斯く強大の後援 を得たる製糸家は投機心を増長し自家財嚢に不均衡の規模拡張をなす者比々 皆是なり 今日の状態にして持続

[□]

商会に波瀾なきを得ざれば可なるも  他日狂濤澎湃巨艦を沈澱せしむるの機至らんか 彼等は自己の信用に対し到 底責任を尽す能はざるは論なく 遂には糸荷の権利を全

[て・くカ]

売込商に 委ね投売するの止を得ざる勢をなさずんばあらず 此の如き弊害は彼等売込 商も今日にては大ひに悟るところなきにあらず 危殆の趨勢を挽回せんとす るも多年因習の弊之れを如何ともすべからず 

[以下略]

(『山梨日日新聞』

1896

12

23

日.原文には傍点による強調,振り仮名があるが,引用で は省略した.なお史料の引用においては旧漢字を当用漢字に改め,また読み やすくするため必要において空欄を入れてある.また送り仮名も現在と違う

(8)

が,原文のとおりとしてある.以下同じ.)

●本県製糸家の現状 (二)

  

[略]

 地方の製糸家は金の得たさに利害を考ふ る暇なく横浜へ向け荷物の発送を急ぐより 

[中略]

 地方在荷の如何に気付 かず単に横浜の在荷にのみ着目し往日と異なりたる事情あるを悟らず狼狽す るは笑うべきにあらずや 而して横浜相場下落すれば荷為替換金に対して差 金の請求に遇ふべく差金に苦むより投売を為し 相場をして益々下落せしむ るに至りては其状の軟弱なる慨嘆しつべし 是れが改善をは謀らんには 先 ず売込商は大に資金の濫発を戒しめ能く地方製糸家の状態を視察し信用程度 に応じて資金の融通を与ふべし 

[以下略]

(同上, 1896

12

24

日.)

▲甲州製糸家の投機心  甲州人士は投機心の比較的に熾なる人民なり 同

県下の製糸業家も亦然り,元来目下の製糸業者は純然たる工業家にあらず 自 ら商業を兼ね居れば随つて投機心盛ならざるべからざるべきも 而も亦製糸 紡績を以て投機の商業なりとは云ふべからず,或は既往の歴史に徴して純粋 なる投機の商業なりと為す者あるべしと雖も 既往の歴史の斯の如くなりし は生糸貿易の性質上然らざるべからざりしにあらずして 寧ろ其商人が投機 の心を以て常に奇利を博せんとせるか為に外ならず,其商人か生糸貿易をし て此の如く投機的商業たらしめ自ら損失せる

[こ]

と実に少々にあらず,今後 全国の製糸業者は大に此弊を矯正せざるべからざると共に 甲州製糸家に於 て更に一層慎まざるべからざるとなるべし 

(同上, 1897

8

8

日.)

このように横浜生糸売込商と山梨県内の製糸家との資金融通,そして生糸を基 にした投機的側面の内実を読み取ることができる.こうした状況と関係は,景気 が好況の時は利益を得て良いとしても,以下見るような恐慌時には全く事態が一 変し,生糸の投売りと,そしてそれがまた生糸相場の低下と乱高下を生じさせ,

あるいはさらに製糸家の損失以上に倒産,これらの悪循環・悪影響を生じさせた のである.

この点こそが日清戦争後恐慌の県内の製糸家と横浜生糸売込商などの金融業と において,前提的に内包されていた問題点の内実であって,同時にそれは恐慌へ とつながる危険的な要素・要因でもあったのである.(マルクス経済学的な表現を

(9)

用いるとすれば,「矛盾」と言ってもよい.)そしてさらに,この危険要素から生 じてくる上記示した悪循環・悪影響が,本恐慌時にまさしく如実に表れたわけで ある.

それらの具体的状況とさらなる詳細を,以下で確認していく.

3. 恐慌発生による危険要素の顕現

(生糸業と金融業の破産・倒産)

日清戦争の勝利と賠償金の獲得,そしてそれを基にした政府による戦後経営,

また民間での企業勃興,これらによって日清戦争後の景気は好況となった.

1897

年の

8

月には,そうした戦勝の結果からする好景気,企業勃興,出資の要請,こ れらが山梨県下にも「侵入」してきたと『山梨日日新聞』は伝え,すでに事前の 警戒を峡中企業家に対して喚起していた.

しかし,そうした警告とは全く別に,繭と生糸は高値での相場と取引が行なわ れ,好況ムードが伺われる

(『山梨日日新聞』 1897

8

11 ・ 12

日).同年の

8

月にはすでに金融逼迫から日本銀行の利子引上げが行なわれていたが,しかし山 梨県内の銀行は利子の引上げは見合わせていた.好景気が衰えていかなかったた めである.こうした状況に関して,

前日以来の好気配未だ全く衰へざる為め 原料たる生糸はドシ

[ドシ]

県下よ り出で

[て]

正金となり 製糸家資本家に向つて還り来るに原由する者なれば  従つて金融も先ず容易には逼迫の場合に至るまじけれ

とある

(同上, 1897

10

24

日).また,これらを背景に製糸家が利益を博す る中で,さらに原料の繭の買付けも盛んに行われ,繭も払底していった.例えば,

仲買連は過般来諸処へ手を廻して

[繭荷]

を買ひ集めたるものと見へ 郡村の 坪方には品物皆無と云ふまでに買ひ浚ひ 目下は買置屋,製糸家,銀行家の 倉庫ならでは製糸の原料を見る能はざるに及びたり

(10)

という状況にまでなっていた

(同上, 1897

10

24

日).

こうした生糸の活況は当時としては望外の状況であって,数年来なかったこと でもあるという好況感が,この活況をさらに後押ししていた.好況・活況の原因 は,アメリカの景気回復,イタリア・フランス・清の減作,そして日本において 貨幣制度が整い,それによって為替相場の変動がなくなり,逆に思惑買いが行な いやすくなったとの指摘がなされている

(『山梨日日新聞』 1897

10

26

日).

しかし,これらは逆に,まさしく本稿上記

2

で指摘した危険要素の増長でもあっ たのである.

1897

年の

11

月になると徐々に反動的な恐慌現象がまず全国的に顕になってき た.先に見た金融逼迫による銀行の警戒,そして不景気ムード,それによって

12

月になると紡績業の需要減少と物品

(製品?)

の堆積が始まった

(『山梨日日新聞』

1897

11

20

日,

12

18

日).翌

98

年の

1

月になると,まず横浜市場にて 各商館の手控えから繭相場が沈静し出し,生糸の価格も下落ムードとなった.

しかし逆に,山梨県下の繭商人等々は上記のような強気の構えであったのであ

(『山梨日日新聞』 1898

1

27

日).これらは今から見ればのことではある が,好況の末期につきものの状況である.

1898

年の

2

月になると,いよいよ横浜生糸相場での不振が日に日に甚だしいも のとなり,さらにアメリカからの新規注文を見合わすべきとの電報が入っている.

『山梨日日新聞』は「恐慌」という語句をこの時から用い出している (『山梨日日

新聞』

1898

2

1

日,後に「恐惶」とも).そしてこの後ついに,本稿で既述 のとおり指摘した危険要素からの悪影響・悪循環が顕となっていったのである.

その具体的状況を捉えてみると,

●生糸の不捌  数月来引続きて横浜糸況不味なりしため 当地草薙社等よ

り出荷したる分も手合皆無にて 何れも売込問屋の倉庫に堆積し居るよし 

(『山梨日日新聞』 1898

4

17

日.)

●矢島組の春挽閉業  本年は糸況一方ならず沈静なりしに反し原料頗る高

値にて一般製糸家は多少の損害を免れず 殊に昨今は金融異常に逼迫を告げ 近来繭の売買等は更に行なはれず 当地矢島組の如き何れも持繭終了次第

(11)

夫々春挽仕舞ひをなす由 

[中略]

 来月上旬にて春挽を終り それにて全く 仝組合一同春挽閉業のはずなりと 

(同上, 1898

4

17

日.)

と,このように在庫の累積,製糸家の損害,生糸生産の早期停止という事態となっ た.また同年

4

月の下旬頃にはアメリカ・スペイン戦争の影響もあって,生糸・

羽二重の輸出はほとんど取引皆無となった

(同上, 1898

4

28

日).

5

月頃に はこうした恐慌に加えて,米価を始めとした物価の高騰が著しく,一般市民特に 細民・貧民にとっては悲惨な状況となった7

1899

年になると一旦生糸相場が騰貴したため,製糸家は逆にそれを好材料とし て,さらに生糸売込問屋から借入れを仰ぐ状況も見られた.このような価格変動 に製糸家はいかに翻弄されていたか,その諸相は以下のとおりである.

本年は尚ほ糸価騰貴し居ると且つ伊清仏各国に於ける先物約定等により一般 に意気込み強く 随て昨年二千円を引出さんとし 五千円のものなれば七八 千円と云ふが如き総じて多額の申込みなるも 問屋は製糸家の云ふが儘に貸 出を為さんか 或は新繭競争買の弊を生じ 以て高値の原料を製するに於て は前途如何なる不幸を見んも計られず 況や今日の生糸市場は海外市況の不 味を受けて人気日一日阻喪し新糸の取引を見るにあらざれば 

[中略]

 製糸 家に対し具に利害を説き余分の貸出を謝絶せんとするも 製糸家の中には之 を以て潔しとせず所望の融通が出来ざれば止むを得ず他店へ荷を出して是非 共調達を期せんとの意向を示し 暗に問屋に競争せしめんとする処 

[以下

略]

(『山梨日日新聞』 1899

5

24

日.)

しかし

1900

年になると再び状況は一段と悪化していき8

7 この点に関しては,深澤

( 2019

を参照.

8

1900

年に生糸価格が下落した要因に関しては,欧米の物価下落,商工業の不景気から 放資見合わせ,アメリカ大統領選挙での競争,前年来の糸価格暴騰の反動,欧米におけ る前年の生糸大量輸入からの市場での堆積,日本での金融逼迫による日歩騰貴と投機の 相場下落,などが指摘されている

(『山梨日日新聞』 1900

9

18

日).

(12)

●生糸と本県製糸家  本年生糸の安値なることは当業界の予想より一層甚

しきことにて 概して一梱に付き七八十円の損害を免るべからざることなる が 関西其他各地の製糸業者中には前途の商勢回復を気構へ 兎角売惜みの 姿ある模様なれども 右に付当地製糸家の意向を聞くに 本年は一方に於て は問屋より借入

[□]

ある運転資金の利子は日歩三銭五六厘と云へる 地方に おける於る普通の金利よりも高き金利を払ひ 且つ北清事変の如き何時終局 を告ぐるやも知る能はざる次第なれば 目前商勢回復のことは見込なきを以 て売惜むの必要なきを以て 何れも直頃の商談には応する模様なりと云ふ 

(『山梨日日新聞』 1900

9

1

日.)

●本年製糸の閉業期  当地方の製糸家は例年十二月末旬即ち年末に至りて

閉業することになり居れとも 本年は糸況非常の不振にしてその損害莫大な るゆへ 多くは現に所持せる繭だけの製糸を終り次第閉業するを以て十一月 中位にて閉業する製糸家も多かるべしと云ふ 

(同上, 1900

9

8

日.)

●繭商の損害  本年は案外糸況不振にして 当地方の如き製糸家は勿論其

他一般糸繭業者は何れも損失を免れざることとなるか 殊に市内繭商の如き 去る六七月頃十一円

(二斗枡)

位いの標準を以て買入れに着手したる処 漸次 下落して昨今は八円位になりたるを以て非常なる失敗を来たしたることなる が 右につき最初二割位にて資金の供給をなしたる大商人も莫大なる損害を 被らざるものなしと云ふ 

(同上, 1900

9

8

日.)

と,このように結局,製糸家と繭商人の甚大な損害・損失,早期閉業,これらの 事態となったわけである.

さらにその損失の程について,彼らに資金を貸し与えていた横浜生糸問屋と合 わせて見るに,

●製糸家困難の現状  目下製糸家及び生糸問屋の困難は一方ならず  [中

略] 新繭時期に於て横浜の各問屋より融通せられたる資本も損失の補填に入

[る]

も 尚且損失の埋らざるものもあれば 愈々売上ぐるも生糸資金の返 済金は消へて無くなるに至らん 然るに横浜市の各問屋より本年各地方へ流

(13)

出せし生糸資金は六百五十万円以上に達し 今日迄売却によりて各問屋に回 収せしものは僅に百万円に過ぎざれば残額は五百五十万円の巨額なれど 昨 今の在荷二万六千余個の荷物は為替切れとて売却せるも回収の付かざるのみ ならずして 貸金の上塗りを為すに過ぎざれば 今後入り来る荷物に依りて 回収せんとて横浜問屋は曩きに荷為替の励行を為したる次第なるが 其結果 は荷主の手元をして益

[々]

苦しましむるのみなれば 愈

[々]

投売の度を早 め問屋の持荷をして為替を高らしめ 荷主も破産すれば問屋も困難に陥るこ となるべし 

[以下略]

(『山梨日日新聞』 1900

9

18

日.)

●横浜糸況と本県製糸家  本年は横浜糸況は案外不振なる為め 当業者は

何れも非常の損害を来たし 遂には倒産の不幸に陥るものさへ生ずるの虞あ り 

(同上, 1900

9

23

日.)

●製糸家と運転資金  例年春晩に至れば横浜の各生糸問屋より店員来峡し 

進物等を携へて各製紙家を廻り 成るべく資金の貸付等を便利になし 只管 自店へ生糸を多量に送荷されことを請求するの例なれども 本年は各製紙家 が待てども

[待てども]

問屋より来らざるを以て 據ろなく製糸家は先頃来踵 を接して横浜へ押掛け種々交渉する処ありしが 生糸の前途面白からざるに 加へて金融の逼迫其極に達し居り 各問屋とも非常に困難を感じ居ることゆ へ 却々製糸家の請求するが如く資金の貸付をなし得る力なく 協議の結果 例年の三分の一位を借受くること

[と]

し 製糸家は夫々帰峡したる由なるが  草薙社の如き昨年は拾萬円許を借入れたるも 本年は僅かに三萬余円にして 経営上大に困難を感ずべく 随つて本年は小製糸家中には製糸を為し得ざる もの多かるべしと云ふ 

(同上, 1901

5

17

日.)

と,このように,本稿の

2

で指摘したような,製糸家と横浜生糸問屋とに内包さ れていた危険要素が,まさにこの恐慌時に一気にそして連続的に噴出した.結局 生糸の投売りと,関連業者の非常な損失そして破産・倒産,さらにまたその後の 経営難,弱小資本の苦境・廃業,これらの悪循環・悪影響を生じさせたのである.

統計的には本恐慌時において表

1 2

で見たような,山梨県下で製糸工場数・

製糸戸数の著しい減少,そしてまた卸売商と仲買商の恐慌前後で著しい数の増加

(14)

と減少,これらが見られるのは,以上の要因と背景があったためと考えられる.

さらに県内の製糸家は既述のような横浜売込問屋の以外に,県内の小銀行または 質屋から購繭資金を融資していたわけであり,製糸家が上記恐慌に呻吟し倒産と なることは,それら小銀行・質屋の営業に直結したわけである.これを次に確認 していこう.

3

 山梨県における銀行・質屋関連指標 年 銀行数

(行)

最近損益額

(円)

質屋

店数 年間の流れ 銀行の金利

(円)

質屋の金利

(厘)

金高

(円)

口数 対千円 対百円 対十円 対一円

1896 34 561 22,181.870 26,595 114.220 13.010 189 29 1897 37 1,383 28,605.181 26,278 131.520 17.310 204 31 1898 48 1,330 43,822.605 117,380 123.170 14.300 208 24 1899 52 45,833 161,820 499 40,064.289 37,653 111.300 16.640 179 23 1900 56 8 70,047 395,003 517 40,555.459 35,576 131.260 18.400 204 23 1901 69 8 314,003 278,878 513 49,766.226 55,873 117.890 13.640 214 24 1902 71 0 662,954 1,186,204 510 68,903.638 89,363 130.380 14.890 204 24 1903 72 45,833 161,820 483 65,286.031 44,589 115.950 12.550 210 26 1904 72 70,047 395,003 485 45,480.000 64,753 110.100 12.690 203 25

(資料出所 :

1

と同じ.括弧内は当年新設のもの.「資本金の総額」において位取り・小数点に異同が あると思われるため,統一して記載した.「年間の流れ口数」の位取りは修正したものを記載した.「金 利」は平均値.)

3

に銀行・質屋の工数・店数他を示した.それを伺うと,質屋の店数が

1897-98

年だけ異常に高く,この点幾分訝しいが,銀行と比較した場合の質屋の

金利の高さ,その高騰ぶり,そして何よりも銀行の損額と質流れの金額と口数が 本恐慌期において凄まじく増加している.既述の横浜売込問屋以外に,こうした 県内の金融機関と製糸家との共倒れや連鎖倒産を明確にする史料は今回豊富には 得られなかったが,しかし本稿今までの内容と上記の統計資料をもってすれば,

そうした状況はおよそ明らかであろう9

(15)

4. 絹織物・甲斐絹と金融機関の状況

山梨県において本恐慌で打撃を受けたのは,上記の製糸家と横浜生糸問屋の他 に,県のもう一つの特産品であった絹織物・甲斐絹産業であった.ここからこの 絹織物・甲斐絹産業の状況に関して確認していきたい.

製糸家においては上記のように,資金融通を仲介とした横浜売込問屋等の金融 業とのつながり・因果関係から,山梨県の恐慌現象を詳解してきたが,絹織物・

甲斐絹に関しては幾分状況が違っている.本稿

2

頁の図の右で示したとおりであっ て,甲斐絹に関しては横浜売込問屋との関係は皆無だとは言い切れないが,しか し甲斐絹においては横浜売込問屋とは別に,山梨県内の中小の金融業と非常に緊 密な取引関係があったことが,以下の資料からやはり明確である.その絹織物・

甲斐絹と関連が深かった金融業の状況を確認していくと,「山梨県機業調査報告」

( 1902

5

月)に次のようにある.

金融機関トシテハ銀行,質屋,金貸業者アリトス.之等ハ皆甲斐絹業ノ影響 ヲ蒙ルコト大ナリ.否,甲斐絹ト盛衰をヲ共ニスルナリ.

[中略]

銀行ハ右十一行ニシテ其営業報告ニハ皆甲斐期ノ状況ヲ云々セザルナシ.

[以下略]

(山梨県 ( 1998 ) 276

頁.)

質屋ハ銀行ヨリモ却ツテ利用セラルヽ場合多ク其統計ノ示ス所ニヨレバ 

[中

略]ノ如シ.此利用者ハ悉ク甲斐絹関係者ノミニハ非ザルモ,大部分然リト 見ルヲ得ベシ.

(同上, 279

頁.)

と,このように金融業の中でも特に質屋,これと甲斐絹業者との関係が濃厚で あったことがはっきりと解るのである.となると,こうした資金融通の関係を背 景かつ要因として,本稿

2 ・ 3

で示したような製糸家と金融業との恐慌時におけ る連鎖倒産,それと同様な構図が,甲斐絹と上記の金融業にも容易に想定できる.

9 この時期の金融機関と製糸家との詳細と製糸家の倒産状況を明確に示した一史料として は,石井

( 1972 146

–147

頁,

199

–209

頁を参照.

(16)

その状況を以下確認していくとして,まず甲斐絹が販売不振へと陥っていく状 況から見てみよう.既述の製糸業の状況と同様に,年次的には特に

1900

年になっ て甲斐絹も状況が悪くなっていった.前

1899

年の盛況とは一変して,海外から の注文が途切れ・取り消されたことから,状況は相場価格の下落とともに惨憺た るものとなっていく.その具体的な状況を史料で確認していくと,以下のとおり である.

●甲斐絹の頓挫  昨夏以来羽二重白地の好況に連れて甲斐絹は近年稀有の

大注文ありて 産地たる本県 

[中略]

 の機業家は何れも先約定の注文を受 け 熾んに織出し相場の如きも絹紅梅の四十五六銭と云ふ一時の相場よりは 七八銭高を見るに至り 随つて半瓦斯交織の如きも二十七八銭高に是又同様 の上値を見るに至りしかば その後注文漸く薄らき白地の行悩みに連れ 人 気概して弱含みとなり 新年に入りては注文は更に達せざるのみならず 前 注文を取消し 甚たしきは目下機業中のものに対しても中止を申込という有 様にて 人気大に阻喪し相場は区区に流れ取止めなき姿なり 是れ旧臘月多 額の需要ありし米国が荷嵩みの結果景気の引立たぬ為なるべきか 

(『山梨日

日新聞』

1900

1

9

日.)

●甲斐絹の取引は中絶の姿  一時は白地羽二重の好況に連れて昨秋の如き

は注文も目切り増加して相場は随て高歩みとなり 何れの機業家も当年に繰 越すべき程の多数約定を握りたる等近年稀有の好況として当時の紙上に記す る処ありしが 石は旧冬に当たりて白地物の不勢より人気も大に沈み 折柄 海外の注文途切れたるのみならず 目下機台にあるものさへも取消しの電報 を寄せるに至りし杯 忽ちにして頓挫の声を以て埋めたる横浜に於ける甲斐 絹の取引は僅かに一陽来復と共に一縷の望みを繋きたるも 更にその甲斐な く注文の達せざるのみならず 海外よりの報知は入電毎に益々面白からぬ成 行なるより 商館は連れて見送り頓と約定談を始めざるために 市場殆ど火 の消へたるが如く

[□]

許取中絶の姿にて 相場も一時の高値より見れば概し て七八銭方の下落を告げ頓と引立つべき模様なきのみならず 此分に推し行 かば前途尚不味を来すべきか 目下の成行相場は絹紅梅織三十四五銭位半瓦

(17)

斯織二十一二銭検討なりと云ふ 

(同上, 1900

1

26

日.)

このようにまず

1900

年の年明けから,海外からの注文が取り消され消失した ことから,甲斐絹の販売不振と価格の低下が生じたわけである.その後さらに海 外からの注文が取り消され消失しただけではなく,

1901

年になると

9

月から,甲 斐絹は全国的な恐慌

(恐惶)

の影響を受けるようになってくる.その具他的状況を 把握すると,

●郡内甲斐絹の不捌  目下仝品は裏地用需要の季節に迫り居ることなるが 

今春来関西地方経済界の恐惶甚しく 続出として銀行の破綻を見るが如き有 様なるを以て 仝地方への売行きは例年の半数にも至らざるよし 

(『山梨日

日新聞』

1901

9

22

日.)

●甲斐絹の不捌  近来兎角甲斐絹の売行捗々しからざることなるが 殊に

先頃中より売行宜しからず 郡内の機屋は何れも困却し居るよし 右は仝品 第一の需要地たる関西地方に於ける経済界の恐惶は東京地方に比して一層甚 だしかりしを以て 自然甲斐絹の如き其の需要を大に減少したる為めなりと 云ふ 

(同上, 1901

11

12

日.)

という状況で,詳しくは本恐慌において特に関西地方の打撃が大きく,そこから の需要が大きく減退したことが解る.

4

では当該期の絹織物その他の生産量と価額を示した.絹織物である甲斐絹 の状況を見ると,生産量の増加に対して価額が低下していること,あるいは両者 の同時低下などが見て取れる.甲斐絹の価格

(相場)

は明らかに

1898–99

年をピー クに

6 7

割くらいにまで落ち込んでいる.これらは明らかに上記の影響であろ う.

(18)

4

 各種織物の量・価額 年 甲斐絹相場

(一匹,円)

絹織物 絹綿交織物 綿織物

価額

(円)

価額

(円)

価額

(円)

(反) (本) (反)(本) (反)(本)

1896 6.600 761,797 373 2,280,045 1,341 949 21,929 37,701 408 34,837 1897 7.165 651,259 191 2,138,491 6,571 745 10,731 41,989 753 33,095 1898 10.443 485,068 233 2,355,049 8,241 963 13,640 38,982 213 29,904 1899 10.750 711,749 130 2,783,225 2,279 175 4,467 20,248 120 16,657 1900 8.080 727,700 135 5,035,932 2,464 798 4,818 23,586 256 19,167 1901 7.500 748,204 140 2,498,140 3,029 695 6,041 17,995 269 12,610 1902 6.100 510,359 217 1,763,994 2,395 232 4,955 9,413 45 8,536 1903 7.500 760,616 120 2,584,571 2,545 600 5,063 12,237 80 11,360 1904 659,111 116 2,277,961 670 35 1,751 11,965 9,211

(資料出所 :表 1

と同じ.「甲斐絹相場」は猿橋の平均値.「絹織物」他は「織物産額ノ上」から抜粋した.

1896

年の「絹織物量」の本数に関しては,原資料には

1,166

とあるが,集計の誤りと考えられ,修正し た数値とした.)

既に

46

頁の表

3

で,当期における銀行の損額増加,質屋の数の減少,質流れ の額と口数の増加,これらを確認・把握した.その要因としては,本稿の

3

で見 た製糸家の苦境と金融機関とのつながりがあったことを示したが,この他にも,

本稿の

4

で上記示した絹織物・甲斐絹産業の苦境と金融機関とのつながり,これ が存在したわけである.表

3

で確認した銀行の損額の増加,質流れの額と口数の 増加,これらは恐慌後の

1902–03

年でも比較的高い.その要因は上記の指摘から して

(また以下本稿の 5

での指摘とも合わせて),本恐慌時における製糸家の苦境 と金融機関とのつながりだけでなくて,同時に本稿の

4

で示した絹織物・甲斐絹 産業の苦境からでもあったものと考えられるのである.本恐慌

(第一次恐慌 : 1897–98

年,第二次恐慌

1900–01

年)の山梨県における状況は,上記二つの産業 の苦境と金融機関とのつながりによって現されたものでものであると,このよう に捉えることができると考える.

そしてさらに絹織物・甲斐絹業者を苦しめた恐慌後の要因がある.章を改めて それを確認しておく.

(19)

5. 物価の上昇に関して

本恐慌の山梨県経済に関する意義に関しては,いくつかの研究・文献で明らか にされているので,その再論は避け,先行研究に譲りたい10

.ただしかし管見か

らして,従来の諸研究ではあまり触れられてないと思われることを,以下加えて 提起し,それを追究しながら結んでいくこととする.

この恐慌期

(またその後の不況時においても),恐慌・不況もかかわらず物価が

全般的に上昇して,それによって山梨県民が苦慮していたという問題がある.例 えば上記取り上げてきた甲斐絹の産地としての都留市では,「谷村町事務報告」に おいて,この時期

( 1898 〜 1901

年)の物価の高騰を毎年憂いている11

.そこには

恐慌期においては「物価ノ騰貴」,そしてその後の不況期には「一般経済界ノ不 振」を嘆いており,統計的に見ても恐慌後の不況期にも物価は山梨県下において 全般的に上昇している12

本恐慌期における物価上昇の問題については,深澤

( 2019 )

において提示し, 定程度の解明を試みた.本稿との関連で必要な論点を確認しておくとすれば,以 下のとおりである.山梨県下の物価の趨勢に関して,地域を絞って追究すべく甲 府市の物価に代表させて趨勢を確認してみると,米・麦・酒・醤油・味噌・塩・

菜種・薪・炭,これら日用の生活必需品がこの時期

(そしてまた長期的な趨勢で

も)上昇しているのである.このような物価の上昇によってこの時期山梨県民が 苦慮していた様子は,上記「谷村町事務報告」でも示されているとおりでもある し,また特に貧民としての「細民」が非常に苛酷な状況に陥った.こうした物価

10 本恐慌が本県の特に製糸業に与えた歴史的な意義に関しては,器械製糸工場の原動力に 関して蒸気力の進展,同時に水力・人力の低下と消滅,また製糸工場の規模の大型化,

これらがこの恐慌後において展開していったという指摘と評価がなされている.これら に関しての先行研究としては,永原ほか

( 1972 ) 523

–524

頁,柳沢

( 2017 ) 260

–261

頁を参照.

11 都留市史編纂委員会

( 1993 ) 387

–390

頁.

12 その具体的統計としては,深澤

( 2018

の表

6

を参照.

(20)

上昇の原因については無論いくつかあろうが,その一因として,当時の資本主義 化による特に都市での日用生活必需品の消費需要の拡大,それに伴う山梨県から の供給搬入という物流の側面からの要因があったと考えられる13

そこでこれらを基に本恐慌との関連を考えてみると,この恐慌と物価の上昇と の直接的な連関性を示し上げることはできない.本来,恐慌・不況時には一般的 に物価は低下するのが傾向的な姿であるから.ただしかし,本稿の

4

で見た絹織 物・甲斐絹産業では,恐慌後の不況時

(特には 1902

年頃)においても原料である 生糸の価格が低下せずに苦しんでいる状況を,以下のように確認することができ る.ここに本恐慌が絹織物・甲斐絹産業に与えたさらなる影響を指摘できるので ある.統計資料を以てしても,確かに前掲の表

1 ・ 2

を見れば,恐慌後の

1901

から

1902

年にかけて絹織物の原料としての繭や生糸の価格の上昇が見て取れる.

このような長期的な物価の上昇に,やがて山梨県民は苦慮していくことは深澤

( 2018

で示したとおりであり,またこの恐慌期においても県内の県民と細民は苦 慮していたことは深澤

( 2019 )

で示したとおりである.そしてさらに彼らのみな らず,本恐慌時に苦境に立った織物産業・甲斐絹業者においても,恐慌後の不況 期における物価騰貴,彼らにとっては特に生糸という原料の高騰で苦慮していた わけである.

その例証としては,以下の史料より明確である.

●甲府市と織物業 …某実業家の談…  私は織物に就いて失敗に終つたと

も信じませんが 何分利益を見る事の出来ないのを認めて 遂に之れを中止 するの已むを得ざることに立至りました ソコで私は斯う考へました 当市 は織物工業を地として不適当ではありますまいかと,何故と申すに 当地は 生糸の生産地でありながら横浜へ往かなければ買込むことができないのです  若し強いて此方で買はふとしますますれば 横浜よりも却つて高価なるもの を押付けられる弊があります 之れが第一の理由で第二の理由は工女を得る ことの困難であります 

[以下略]

(『山梨日日新聞』 1902

8

23

日.)

13 以上,深澤

( 2019

を参照.

(21)

本年は兎角原料生糸の高きに 商館への注文値段は何れも安きより 取引 捗々しからずして 今日の處にては約定高の如きも例年の半数に達せざる姿 なる 

[以下略]

(同上.)

このように明らかに絹織物業者は原料としての生糸の価格高に苦慮していたこ とが解る.ここに本恐慌が絹織物・甲斐絹産業に与えたさらなる影響が看取でき よう14

.つまり,

本恐慌時そしてその後の不況時においてさえ,物価が高騰し, れがこのように山梨県下の様々な方面で,それも多様な形で影響を与えていたわ けである.こうした点も本恐慌の意義や影響として見落とすことはできないもの として提示しておきたい.

以上,本恐慌期における山梨県下の状況の詳細は,本稿で示した諸点にあると 考え,本論を提示するところである.

【参照文献】

石井寛治

( 1966 )「山梨県の製糸金融」(山口和雄編著 〔 1966 〕『日本産業金融研究 製

糸金融篇』東京大学出版会,第三章).

̶( 1972 )『日本蚕糸業史分析』東京大学出版会.

都留市史編纂委員会

( 1993 )『都留市史 資料編 近現代』都留市.

14 なお,「山梨県機業調査報告

( 1902

年)」の結論の四に,甲斐絹の美点として「恐慌ノ 害ヲ被ルコト少キコト」を挙げ,以下の指摘がなされている.

元来海気ハ農事ノ副産物トシテ生レタルモノニテ,特ニ企業トシテノ機業ニ乏シ キガ故ニ桐生,足利ニ於ケルガ如ク商況不振等ノタメ恐慌ノ惨毒ニ浸サルヽコトナ シ.海気ノ景気悪シケレバ農事ヲ励ミテ其欠損ヲ補填ス.之レ一方ヨリスレバ幸福 ナルガ如クナレドモ一方ヨリスレバ海気業ノ進歩セザル重要ナル原因ノ一ハ此ニア リ.余ハ今仮リニ之レヲ美点トシテ数ヘタリ.(山梨県

〔 1998 291

–293

頁.)

 このように,県下の甲斐絹

(海気)

について,恐慌の惨毒に浸されることはなく,そ の要因として農事の副産物であるという指摘がなされている.ただこの指摘は明らかに 農業の副業としての絹織物に関して伝えているものと見るべきであろう.当恐慌期にお ける甲斐絹産業の数々の苦境は本文で示してきたとおりである.

(22)

中村政則

( 1964 )「器械製糸の発展と殖産興業政策」『歴史学研究』青木書店,第 290

号.

永原慶二ほか

( 1972 )『日本地主制の構成と段階』東京大学出版会.

深澤竜人

( 2017 )「近代山梨県経済における日清戦争後恐慌 ( 1897–1901

年)の状況」

『地域と社会』佐藤弘編集・発行, No. 2

̶( 2018 )「近代山梨県経済における日露戦争後恐慌 ( 1907

年〜)後の農村不況の 状況」同上,

No. 4

̶( 2019 )「明治期における山梨県の細民生活の状態― 1898 (明治 31

年の調査 を基に―」同上,

No. 6

柳沢幸治

( 2017 )「山梨県製糸業の盛衰に関する一考察―明治 20

年代から大正元年 を中心として―」『政経論叢』明治大学政治経済学部,第

85

巻 第

3 4

号.

『山梨県統計書』山梨県立図書館蔵,各年版.

「山梨県機業調査報告 ( 1902

年)」(山梨県編集

1998 〕『山梨県史 資料編 16

 近現代

3 』山梨県,に所収).

「山梨県視察報告書 ( 1894

年)」(同上).

山梨県編集

( 1978 )『山梨県政百年史』山梨県.

表 4  各種織物の量・価額 年 甲斐絹相場 (一匹,円) 絹織物 絹綿交織物 綿織物量 価額 (円) 量 価額 (円) 量 価額 (円) (反) (本) (反)(本) (反)(本) 1896 6.600 761,797 373 2,280,045 1,341 949 21,929 37,701 408 34,837 1897 7.165 651,259 191 2,138,491 6,571 745 10,731 41,989 753 33,095 1898 10.443 485,068 233 2,35

参照

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