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新しい安全保障概念の生成―脅威の多様化・複雑化

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新しい安全保障概念の生成―脅威の多様化・複雑化

人間の安全保障は、人びと一人ひとりに焦点を当て、その安全を最優先するとと もに、人びと自らが安全と発展を推進することを重視する考え方である。従来の安 全保障論は、国家間の対立・紛争が最大の脅威であったこともあり、国家が一義的 に国民の安全を確保するという「国家の安全保障」論が中心であった。しかしなが ら、1990年代以降の国際情勢においては、国家の安全と人びとの安全が必ずしも直 結せず、また、国家以外の主体も人びとの安全に大きく影響を及ぼす状況が現われ た。このため、「国家」ではなく、その先にある「人びと」に焦点を当てた新たな安 全保障論の探求が始まり、そして、実社会におけるさまざまな脅威への適用・実践 を通じ、人間の安全保障の概念が発展・普及してきたのである。

1991年から10年間にわたった私の国際連合難民高等弁務官時代は、難民や国内避 難民等、まさに国家の保護を受けられない人びとへの対応であった。1990年代は、

東西冷戦の終焉によって国家間の紛争が減少し、代わって地域・国内紛争が多発し た時代である。ソビエト連邦やユーゴスラビア社会主義連邦共和国等連邦国家の解 体による民族対立や、アフリカ各国の独立から国づくりのプロセスにおける国内の 権力争いが激化した。地域・国内紛争においては、自国民を守るべき政府がむしろ 人びとの抑圧を扇動することも多い。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、「同 じ人間としてすべての人びとの安全を保障する責任」(『世界難民白書1997/98年』) を果たそうと、国連児童基金(UNICEF)や赤十字国際委員会等の人道援助機関はも とより、国連、主要国政府、多国籍軍等と協力して紛争犠牲者の救援・保護に尽力 した。同時に、このような人道危機に対して各国政府や国連が介入にためらう場面 にも多々直面し、国際社会が取り組みを強化するための方策にも思いを巡らせたの である。この経験は、後に人間の安全保障を概念化し、追求する原動力となった。

同じく1990年代、開発援助の世界においても、経済から人間中心の開発をより重 視する動きが出てきた。1970年代以降、「南北問題」への対応として政府開発援助

(ODA)が拡充され、開発途上国の経済・社会インフラ整備や制度改革等が図られて

国際問題 No. 603(2011年78月)1

◎ 巻 頭 エ ッ セ イ ◎

Ogata Sadako

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きたが、必ずしも人びとの生活に目覚ましい改善がみられなかったことが背景にあ ったと思われる。国連開発計画(UNDP)は、「開発の目的は、あくまでも人間中心 である」とし、特に1994年の『人間開発報告書』において「人間の安全保障」を提 唱して「飢饉や病気、抑圧など慢性的な脅威からの脱却」と「家庭、職場、地域社 会などの日常の生活様式が突然に破壊されても困らないように保護」するための取 り組みの重要性を強調した。このような提言があったにもかかわらず、1997年、順 調に発展していたかにみえたアジア各国において、経済・金融危機が生じるととも に、社会の脆弱性が露呈し、人びとの生命と生活が危険に晒された。小渕恵三首相 は、このような事態に鑑み、「人間の安全保障」の観点から社会的弱者に配慮した開 発への対応を求め、長期的に安定した発展を実現するためには「人間の安全保障」

を重視した新しい戦略が必要であると提案した。

2000年の国連総会、ミレニアム・サミットにおいてコフィ・アナン国連事務総長 が強調した「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」は、1990年代におけるこのよ うな平和と開発、双方の現場からの問題提起に基づくものであった。アナン事務総 長に呼応した森喜朗首相の提案によって2001年に「人間の安全保障委員会」が設置 されると、私は、共同議長の1人として人間の安全保障概念の形成と普及に取り組 むことになった。

人間の安全保障委員会による調査・研究は、「恐怖(紛争)」と「欠乏(貧困)」へ の対応を中心に始まったものの、世界各地で開催した公聴会を通じ、世界の人びと が直面する脅威は、より多様で、より複雑であることが明らかとなった。2001年9 月11日の同時多発テロの直後にあった米国においては、当然のように最大の脅威と してテロが挙げられた。アフリカにおいては、貧困と社会的不平等が最大の脅威で あり、日々の食料調達にも困難が伴い、病気、劣悪な教育事情等が人間の存在その ものを脅かしているとのことであった。また、中央アジアの人びとは、独立から10 年のうちに市場経済と民主政治制度への移行等、急激で大規模な変革と混乱を経験 し、母国語の使用を含む自らのアイデンティティーの問題に直面していた。

人間の安全保障委員会は、2003年の最終報告書『安全保障の今日的課題』におい て、このような多様な脅威に包括的に対応し、人間の安全保障を実現するために、

人びとの「保護」と「能力向上」の2つのアプローチを提案している。人びとの

「保護」とは、すなわち「統治」の強化であり、人びとの基本的な権利と自由、尊厳 を守るために、司法や行政制度の整備、政府機関の能力向上を図るものである。他 方、人びとの「能力向上」とは、すなわち「自治」の強化であり、人びとによる政 治・行政の監視・参画も含め、人びと自身が教育や自助努力で脅威に立ち向かうこ とができるように能力を身に付けるものである。人間の安全保障は、これら「統治」

と「自治」の双方を一体的に強化することによって初めて実現可能となる。

巻頭エッセイ人びとを取り巻く脅威と人間の安全保障の発展

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人間の安全保障委員会による最終報告書発表以降の概念普及は、実社会における さまざまな脅威への概念の適用と実践を通じて行なわれてきた。特に、日本政府の 主導によって設置された国連人間の安全保障基金は、2009年末までに約60ヵ国で 187件、総額約300億円のモデル事業の実施を通じ、人びとを取り巻くさまざまな脅 威に対する人間の安全保障概念の有効性を提示することによって世界各地における 概念普及に大きく貢献している。例えば、コンゴ民主共和国イツリ県における平和 構築・復興開発プロジェクトでは、平和維持活動を行なう国連コンゴ民主共和国ミ ッション(MONUC)からUNHCR、UNICEF等の人道援助機関、UNDP等の開発援助 機関が協働し、共通の目的と調整のもとに治安、保健、教育、農業、生計向上等さ まざまな分野の事業を行ない、地域の和解と復興を促進している。紛争問題につい ては、歴史背景や当事者および関係者の政治的意思等にも複雑な配慮が必要であり、

関係者間の調整にも困難が伴うなか、この事業は、平和維持から平和構築・復興開 発への移行期に対応する国際協力のモデルとして注目を集めている。

また、開発援助においても、人間の安全保障の考え方が定着してきている。日本 の事例を挙げれば、2003年10月に改訂されたODA大綱において人間の安全保障が基 本方針として採用され、国際協力機構(JICA)の開発援助事業にもその考え方が強 く反映されている。第1に、平和構築・復興開発支援の強化である。スーダン、シ エラレオネ、イラク、アフガニスタン等、紛争終了から間もない国々は、治安上の 問題や政府が脆弱であるが故に援助受け入れの体制が整わず、従来、開発援助の実 施が遅れてきた。しかし、このような国々の人びとこそ、開発途上国のなかでも最 も脅威に晒されている。JICAでは、人道援助機関との緊密な連携や、政府の機能強 化と人びとの生活改善事業を組み合わせる等の工夫によって、より早期の段階から 事業を始めるようになった。他の開発途上国においても、現地の事務所体制を強化 して人びとの支援ニーズを迅速、かつ、正確に把握し、人びとが直面する脅威・課 題の複雑な背景も考慮しながら包括的に対応している。スローガンとして掲げた

「Inclusive and Dynamic Development」のとおり、経済・社会インフラ開発、制度改革、

政府機関・職員の能力向上等と同時に、最終裨益者となる人びとやコミュニティー の能力向上にも取り組むことによって、援助効果が人びとに確実に行き渡り、かつ 持続するように努めている。JICAによるこのような取り組みは、国際社会からも評 価され、世界銀行等も「Civil Society」を重視する等、同様の取り組みを進めている。

求められる新しい統治と国際協力の形―「人間の安全保障」への期待

昨年末から今年にかけてチュニジアで起きた「ジャスミン革命」は、開発プロセ スにおける「Inclusiveness」の重要性を再認識させられる出来事であった。チュニジ アでは、経済発展にあわせて高等教育就学者が増加したものの、高い若年失業率が

巻頭エッセイ人びとを取り巻く脅威と人間の安全保障の発展

国際問題 No. 603(2011年78月)3

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示すように、教育修了者を吸収する経済構造を作り出すことができず、政府の経済 運営に対する不満が高まったと指摘されている。換言すれば、経済発展のプロセス に人びとを取り込み、恩恵を行き渡らせる発想や取り組みが十分ではなかった、あ るいは不在であったことに原因があったとも言えよう。経済運営に対する不満は、

長年にわたって大統領に権力を集中し、人びとの参画を拒んできた政治体制へと即 座に向けられた。タイで頻繁に繰り返される政治的混乱も、経済成長の一方で拡大 する都市部と地方部の経済格差に起因するとの指摘もある。人間の安全保障の考え 方が実践され、政治・経済プロセスへの人びとの参加に少なからず配慮がなされて いたのであれば、このような社会不安、政治動乱、経済格差の拡大は抑制されえた のではないだろうか。

この10年間、人間の安全保障の考え方に基づく取り組みが強化される一方で、世 界が直面する課題もよりいっそう複雑化し、多様化している。運輸交通・情報通信 技術の発展によってグローバル化が進展し、ヒト、モノ、カネ、情報がかつてない スピードと規模で国境を越えて移動する時代となった。資源の流動化によって世界 各地で経済発展が促されるとともに、エイズや新型インフルエンザ等の感染症、環 境汚染・破壊、犯罪・テロ等、一国のみでは対応できないばかりか、一国のみの問 題として国際社会が放置すればたちまち世界的な危機へとつながる新たな脅威が発 生している。情報通信技術の発達による影響は特に著しく、チュニジアの「ジャス ミン革命」では、ソーシャルメディアを通じた情報の伝播・共有が瞬く間に政治体 制を変革させるまでの運動を作り上げた。そして、さらに、同様の運動が国境を越 えてエジプト、リビア、シリア等地域一帯に広がったのである。国家による情報の 統制・制御はもはや困難であり、むしろこのような現実に対応した新たな統治や国 際協力の仕組みを構築する必要に迫られている。

人間の安全保障は、この20年間、人びとを取り巻き、相互に関係するさまざまな 脅威・課題に対する実践的なアプローチとして、実社会に受け入れられ、適用され ながら概念をいっそう発展させてきた。人間の安全保障は、人びとの安全と繁栄を 最優先する普遍的な価値観のもとに、国や民族、組織等のいかなる枠組みや関係性 を超えて多様な実施主体の動員と協力を可能とする考え方であり、グローバル化に 対応した新たな統治や国際協力のメカニズムの模索においても、大きな示唆を与え るのではないだろうか。こうした時代にあって、人間の安全保障の考え方が今後い ったいどのように活用され、そして、さらにいったいどのような発展をみせていく のか、期待は大きいと言えよう。

巻頭エッセイ人びとを取り巻く脅威と人間の安全保障の発展

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おがた・さだこ 国際協力機構(JICA)理事長

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