フランス王政復古期における初等教育を
めぐる「教育の自由」について 一新自由主義者の自由論を中心として一
荻 路 貫 司
序
19世紀初めの王政復古期,教育をめぐっては,
「教会に対するいくつかの譲歩を含みながらも」〔1」
第一帝政期に確立された帝国大学の教育独占とい う「ナポレオンの行政が大筋で維持された調しか し,この「1814年から1830年までの間,国家によ って初等教育段階の学校が設置されることも組織 されることもなく,その全てが私立学校であった。
全段階で国家の独占体制が守られたが,初等教育 のそれは他の教育の場合と異なっていた」131といえ
る。ブルジョワを対象とする中等,並びに高等の 教育が厳密に帝国大学という中央教育行政機関の 監督下にあり,公立学校中心の公教育体制のもと に置かれていたのに対して,民衆教育である初等 教育は,国家の直接監督下になくボランタリズム としての私立学校の教育に託されていたのである。
この初等教育に従事したのが,主として,基礎 教育協会14トとキリスト教学校教団151という二つの 団体であった。それらは,1814年憲章のもと自由 主義的かつカトリッタ的な,いわゆる両義的性格 の復古王政のもとで,その二大勢力である自由主 義者(貨幣王朝支持の大ブルジョワ=プロテスタ ント連合)と,カトリック主義者(土地王政支持 の貴族=カトリック連合)とにそれぞれ支援され ていた。したがって,「初等,中等,高等の各教育 が政治的変化の影響を受ける」⑥が,なかでも「と りわけ,初等教育は大きな影響を蒙るゴのことにな るのである。
ところで,この時期は社会の発展に伴い,民衆 の教育である初等教育に対する人々の期待と関心 が高まった時代であった。それについて,シュバ リエとポンテイユは次のように語っている。まず 前者は,「この混乱した政治状況下,フランス社会
は変化する。 民衆教育の必要性が感じられ るようになる。自由王政は啓蒙された市民をそし て技術の進歩を要求し,資本主義の発展は社会の 裾野の教育を必要とする」侶1と。次に,後者は,「議 会制の成功は初等教育の成功と結びついている。
それ(初等教育)の成功は政府の利益,そして地 方政府の人員補充,生産の改善,下層民の富裕化 などに係る。初等教育は(国家)再興の手段であ
る」凹と。
こうした教育要求の高まりに応じて,初等教育 では,「1815年,20,500校に865,000名の児童が在籍 していたのが1821年には,27,581校に1,122,700名 の児童が」Ilm更に,「1829年には,30,996校に 1,372,000名の児童が」lulといったように,その量 的発展を実現していく。そして,その結果,初等 教育は国家にとって放置できない関心事となる。
こうした状況下,初等教育をめぐる「教育の自 由」論争は,国家からの自由という近代的自由論 の装いを帯び,政治的変化の影響下に置かれる私 的団体と国家との間の関係を軸に展開されていく ことになる。ここで予め述べておけば,そこには,
フランス教育に伝統的な,公立学校との併存体制 下での私立学校における自由を内容としたものだ けではなく,公立学校の存在自身を否定し私立学 校だけの体制下での自由を主張する新自由主義者 の自由論までも見い出されるのである。その結果,
多彩な「教育の自由」論争が展開されていくこと
になる。
ところで,「教育の自由」について考える場合,
次の点が問題となろう。それが何からの自由であ るかということ,またいかなる活動内容の自由で あるかということ,そして誰にとっての自由であ るかということである。例えば,それが,国家か らの,そして教えるないしは学ぶという活動に関
わっての,更に民衆にとっての自由だといったよ うにである。
本論文は,以上の点に留意しながら,近代公教 育の中心原理の一つである「教育の自由」がいか なる性質をもつものとして主張され,またそれに 対していかなる機能を果たすことが求められてき たかを,これまで我が国では殆ど明らかにされて こなかった王政復古期の自由論を対象に解明しよ うとするものである。
1
ここで,近代における「教育の自由」問題の構 造とその歴史的位置付けについて概観しておこう。
旧体制下における状況はどのようなものであっ たろうか。それから見ていく。
絶対主義国家のもとで,国家と教会の二重支配 が敷かれ,教育は教会支配のもとに置かれた口鱒。
そして,宗教的イデオロギーに基づく宗教教育に よって,人々の精神的自由は束縛されることにな る。そうした状況下,人間を,自由な存在と措定 し,思想の,そしてまた信仰の自由の存在を信じ る,いわゆる近代(教育)思想家たちは,人間の 自由な感覚や経験を通して得られる知識のみを信 頼し,それらに根拠を置かない宗教的知識を,人 間に無知と偏見をもたらすものと判断した臼田。そ
して,そうした宗教教育からの,更には教会の教 育支配からの自由を主張したのである。
革命によって成立した近代市民国家においては 例えば,コンドルセのような自由論者は,自由な 存在として生れた人間が社会において市民として 自由を行使できるようになるためには批判的精神 を身につけなければならずllO,そのため自由な市民 より構成される市民社会,そして市民的国家は,
その自由行使条件の実現をめざし知育を内容とす る公教育を実施する義務があると〔1嚇,考えた。更に そして,そこで行なわれる知育の内容は,経験を 出発とし客観的手続きによって導き出される科学 技術などの知識と,市民社会を支配する世論や
国家の法律などの政治的知識だとした。
ここで注目すべきことは,「教育の自由」を守る ために,公教育の実施という形で国家が関与し,
市民のなかに「意見の革命」を引き起こすことが 必要だと考えられたということである。
この国家の関与が「教育の自由」,つまり「教え る自由」と「学ぶ自由」とを侵す可能性があるか
否かが問題となる。
もちろん,コンドルセもその危険性に気づき,
特定の政治的信条に従う政府による公権力行使か ら公教育を守るために,公教育の対象を,真理を 内容とする知育に限った1),その知育を義務づけ ることなく任意なものとして行なおうとしたりす る方策を考えたわけである。だが,国家による真 理の特定とその公認化,またその真理だけを内容
とする公教育の実施が,フーコーの言を待つまで もなく,人間の自由そのものに制限を加える危険 性を有していたことは明らかであった。
ただ,当時の自由論者にとって,最大の敵は教 会による教育支配であり,また人々の精神に対す
る宗教的知識の支配であった。そしてそのために,
国家による公教育の実施も主張されたわけである。
したがって,公教育に対する国家の関与と「教育 の自由」の主張との間に生じる諸問題については 当時それほど重要な事柄として感じられてはいな かったといえる。
それらの諸問題が具体性を帯び人々に感じられ るようになるのは,反革命の動きに抗して強権的 国家のもとで資本主義化の基礎固めが押し進めら れていく帝政期に入ってからである。この時期に,
政府からの相対的自律性の保持に留意しながら,
いわゆる教育国家といわれる帝国大学が設けられ,
それによる教育の独占が実現された。これによっ て,ブルジョワを中心とする当時の自由主義者の 内部に,公教育論者と「教育の自由」論者の対立 が見られることになるのである。
ここにおいて,「教育の自由」問題は,それまで のく教会支配からの自由>を内容とするものから,
近代的な〈国家からの自由〉を内容とするものへ とその重心を移動させる。そして教会自身もそれ までの攻撃される側から,自由という言葉に抵抗 を感じながらも自由論者へとその立場を変えてい くことになる。その結果,次のように語られる状 況が生れるのである。「フランスでは,教育の自由 は,とりわけ自由一自治と理解された。つまり,
権力と対峙した個人の一自治を保証するために教育 の自由は,この権力に対して自己を主張するので ある。 いく人かの自由主義者が,またとり わけ教会と聖職者とが学校に関する事柄において 国家権力の力を減少させようと,また個人が国家 権力との対決においてより大きな自治を獲得しよ
うと,国家と戦うのである」。田と。
本論文で扱う王政復古期は,こうした「教育の 自由」問題の転換期にあり,しかも政治的に不安 定な状況にあったため却って種々の立場から自由 論争が展開された時代であった。
II
ところで,この時期,「教育の自由」論争が展開 されたのは主として初等教育に関わってであった。
その理由は,それが,当時,私的団体に委ねられ ていたため,「教育の自由」の主張が最も実現され やすい状態にあったこと,また,政治的変化の影 響を受けやすい状況のもと各団体が自らの活動を 守るためにその主張を行なう必要性があったこと などが考えられよう。
もちろん,自由論者であるブルジョワにとって,
初等教育をめぐる問題が最大の教育的課題であっ たかといえばそうではない。ブルジョワの自己教 育である中等,高等の教育の方がより重要であっ た。ただ,現実との関わ1)をもち,そしてそれに 直接影響を与えうる初等教育をめぐる主張は,他 の教育の自由論争にも適用しうるものであり,い わば「教育の自由」論争における橋頭ほ的立場に あったといえよう。
ここで,当時,指導的立場にあった人々の初等 教育に対する考えをざっと見てみよう。
まず,「民衆が容易に指導されるためには無知の 状態に留まっていなければならないとの考え」〔1η
を抱く人々が存在していた。初等教育有害論者た ちである。
次に,「限られた内容の基礎教育は民衆にとって 良いものであると評価し,行き過ぎた革命を民衆 の無知によるものと見なす人々」〔1圃がいた。彼らは 資本主義の発展のために初等教育の必要性を説く,
いわゆる初等教育有用論者であった。
更に,「真面目なクリスチャンと素直な市民を育 成し,宗教と社会の安全を保つために民衆を教育 するという主張」09をもつ人々がいた。彼らも,そ の理由こそ違え初等教育有用論者であった。
この初等教育有用論を唱える後者のニグループ の代表が基礎教育協会とキリスト教学校教団のメ ンバーである。彼らは,教育目的として,それぞ れ「市民」ないしは「キリスト者」という異なる 人間像を掲げていた。しかし,共に,国家並びに 地方の補助金を得て無償教育を実施し,初等教育 における自らの主導権を確保しようとしたため競
合関係にあり,それぞれの支援者である自由主義 者とカトリックが政治の場面でそうであったよう に敵対関係のもとに置かれていた。
ところで,これらのグループ以外に,教育に深 い関心を抱くいま一つのグループが存在した。そ れは,国民的統一のために帝国大学の教育独占を 強化し,初等教育も公営化しなければならないと 考える人々である。大学人を中心に主として自由 主義者からなるこのグループは1816年の初等教育 オルドナンス(令)において既に公立学校設置の条 文化に成功していたが⑳,その実施は見送られ,そ れ以後も公営化の実現要求を行ない続けていたの
である。
以上,初等教育の必要性を主張する三グループ を中心に王政復古期の「教育の自由」論争は展開 されていくことになる。この時期の論争の展開に ついて,シュバリエは次のように述べている。
「1814年の憲章によって認められた自由によ1),
(教育)独占の賛成者と反対者が対立し合うこと になり,その結果,国民教育体制に対して政治的 事件が与える影響に人々が気付くようになる。そ れ以降,教育の歴史はその時代その時代の政治的 争いと絡み合うのである。こうした戦いは王政復 古期の間,止むことはなかった。自由王政の時期
(1814−1820),王党派支配の時期(1820−1827),
穏健政府への復帰の時期(1828−1830)の各時期が 教育の運命に深く関わっていくのである」哩1堵。
このように,王政復古期を通して政治的変化に 応じた形で教育独占賛成,反対両論者が対立し合
うが,その対立の様相は,すでに述べた初等教育 有用論者である三グループを軸に展開されていく ことになる。ただ,注意しなければならないこと は,政治的変化の影響を最も受けるのが,独占反 対陣営内部での,自由主義者に支援された基礎教 育教会と,カトリックに支援されたキリスト教学 校教団との間の対立だということである。そして,
更に述べておけば,それらの団体に加えて,自由 主義者から分離独立する新自由主義者が論争に参 加し,反対陣営内部での三つ巴の対立が誕生する
と共に,その対立を軸に論争が展開されていくの
である。
III
ここで,論争の背景となる,当時の政治情勢と 初等教育をめぐる状況について先行研究を手掛か
りとして見ておこう。
第一期(1815−1820)
カトリック的傾向のウルトラ王党派と,自由主 義的傾向の立憲王党派との対立のもと,1815年の 選挙では,貴族を中心としたウルトラ王党右派が 勝利する。しかし,すぐに,1816年の選挙によっ て大ブルジョワ中心の立憲王党派が政権を握る殴1。
そして,「1820年までウルトラの退潮は続き,立憲 王党勢力の全面的支配期が成立する」臼1のである。
ただし,この時期,立憲王党内部での対立の表面 化という状況もあり,妥協的政策が取られていく。
こうした政治情勢のもと,初等教育をめぐって は次のような状況にあった。つまり,「復古王政は 聖職者と良い関係を保ちながらでしか存続を願う
ことはできなかった。したがって,1816年オルド ナンスは,初等教育を大学の権限下に置きながら,
しかも教会の代表に自らの内に席を与えることを 行なおうとした」⑳のである。だが,「教会はそれが 旧体制での自らの状態と余「)にも違っていると考 えたため,それらの扱いに余1)満足することはなか
ったq」凶
他方,教育活動自体についてみると,基礎教育 協会の「相互教授法が県によって奨励され,その 方法の導入が公教育委員会によってアカデミー総 長に認可された。1817年には,相互教授法教育の モデル学校が12のアカデミー中心地に設立され,
政府はそれらに補助金を認める」円田ことになる。
それに対して,「教会は相互教授法の共和主義的 かつプロテスタント的傾向を非難する。公権力と 基礎教育協会は,カトリッタの教義しか教えてい ないこと,カトリッタの教員しか居ないこと,相 互教授法学校が少しも教団学校を侵害していない ことなどを応酬するが,教会はそれを容易には認 めようとしない」餉のである。
そして,次のような状態が生れる。「教会は司祭,
県会,市会,教団等を使って相互教授法学校の設 置を妨害し,それらの財政的基盤を取1)上げよう と試み,ここに,フランス全体が二つの陣営に分 裂してしまう」㈱ことになる。だが,ゴンタールに
よれば,結局のところ,「相互教授法が成功を収め,
補助金によって自らの学校を無償にする。その結 果,それは至る所に浸透し,勝利を手にすること ができるゴ圏1のである。
第二期(1820−1827)
すでに1817年には立憲王党派内部で同派左翼か
ら,自由主義ブルジョワを中心とする独立派が分 離していたが1351,1820年になると更に次のような 状況が生れる。「立憲王党派は中央右派と中央左派 とに分裂し,前者(大土地所有貴族基盤)はウル トラ左派に接近し,後者(純理派中心)は独立派
(野党)と提携して自由(主義)派を形成し,こ こに二大ブロックヘの再編成が行なわれる」 1ヒと になる。ウルトラ左派主導の王党右派と純理派主 導の自由主義派の二大陣営の成立である。そして,
1820年選挙の結果,王党右派の支配期に入り,24 年選挙で更にその支配を強化していく。
ところで,教育をめぐっては,すでに「1819年 3月16日のオルドナンスによってその対立は調停 され,教団は大学の一員となっていた」働のである が,王党右派が政権の座につくと,「教会は相互教 授法学校から資金と顧客(児童),教員等を奪うこ とに努めた。それらの学校の大部分は補助金で活 動を行なっていたが,ウルトラの権力奪取によっ
て次第に補助金を得ることができなくなる」鮒ので ある。特にウルトラがその勢力を強めた「1824年 以降,相互教授法教育を追い払おうとの教会の主 張の採用によって政府補助金は止められてしまい,
また県や市の補助金も停止されることになった誰 それに引き替え,「教団教育は発展する。地方政 権によってその教育は支持され,教団学校は補助 金を獲得する司1罰そして,その数が増えていくので ある㈲。「多くの親たちが自らの子供を相互教授法 学校から引き上げ,県,市の補助金でその門を開 いている男子及び女子の教団の学校へ彼らを移す」⑳ という状況も生み出されていく。これは教会の完 全勝利といえるが,教会はそれに満足せず,更に,
「聖職者が学校を支配することを求め,1824年4 月8日のオルドナンスによって,内務省所管のプ ロテスタント学校を除き,その要求が満たされる。漕 その結果,「教会は世俗教員の監督権を手に入れ,
世俗教育を支配する」 91ことになる。
ところで,注目すべきことには,こうした教会 支配の強まる状況下の「1825年から1827年までの 間に自由主義の内部に新しい動きが誕生するゴ鋤の である。後に述べる新自由主義者の誕生である。
第三期(1828−1830)
1827年の選挙によって,左右の反政府勢力が過 半数を制しウルトラの政権は崩壊する。それに代 わって自由主義派が政権の座につく。しかし,国 王が政権奪還のために介入して,政治状況は混迷
していく。
この時期,教育をめぐっては,まず,その所管 に関わって次のような変化が生ずる。「1827年の選 挙でウルトラが破れたことによって1828年1月16
日に公教育が宗務から引き離されて暫定的に内務
省に託される。そして,2月3日,バンセムスニ
ュが大学総長に,更に数日後に公教育大臣となるdI 1 これによって,公教育に関する事柄は宗務から引 き離されて大学の手に完全に取1)返されることに なるのである。そして,遂に,「1828年4月21日の オルドナンスにおいて1824年オルドナンスは廃止 され,初等教育は再び大学の支配下に入る」 !1こと になる。しかし,これは,「大学,教会,地方名望 家を協調させるための企てであった。(結局)
1828年4月21日オルドナンスによって 大学 が再びその優位を取1)戻し,総長は1816年に彼が 保持していた権限を回復するが,しかし教団も自
らの権限を持ち続けていく」㈱のである。そして,
これを契機に,「激しい対立が生れ,聖職者はそれ
(1828年オルドナンス)を不当なものと判断して 抵抗の構えを取る。政府はローマに働きかけるこ とによってやっと聖職者を従わせることができた」1鋤 のである。
次に,当時の初等教育の状態を見ると,一方で 次のような状況がある。「師範学校の創設が奨励さ れ,総長名で学校のない市の名が公表される。議 会の圧力によって補助金が増額され,基礎教育教 会はその活発さを取り戻すと共に,相互教授法学 校はパリでその数を増やすだけでなく,地方でも 設立されていくことになる。地方も補助金を出し 始める。『451またもう一方では,「1830年段階で,そ の殆どが都会にあった320校の学校に1,420名のキ リスト教学校教団教師が存在し,また田舎を中心
に281校に13の男子及び女子教団の教師950名が
活躍していたゴ4印のである。
このような第三期における状況は次のような解 釈を可能にするものであったといえよう。つまり,
「初等教育はこの二つの教育の敵対関係を利用し て」〔切発展し,「復古王政は道を開くことによって,
1833年法(ギゾー法)を準備した」「4由のであると の解釈を可能にする。
w
では次に,「教育の自由」論争について先行研究 に基づいて見てみよう。
第一期
教育独占賛成を表明しているのは,大学人であ るランデュや純理派のロジェ・コラール,ギゾー などである。
ここでギゾーの考えについてグリモーの研究に 基づいて見てみると,彼の教育的中心テーマは,
「国民的統一」1491であ1),その観点から帝国大学の 維持が必要との結論を導き出している測。ただ,そ れとは反対の主張も指摘されており,結局,彼の 考えの中には,「二つの公教育のシステム,すなわ
ち自由のシステムと独占のシステムとがそれぞれ はっきりと存在し合っている」151」といえる。そして,
「教育の自由」に関しては,「個人立学校が単にいく つかの原則の適用を条件に開設されることを,ま た,学校が監督のもとに置かれる必要性があるこ
とを,主張しているゴ謝のである。
それに対して,独占反対者としては,自由主義 者であるコスタンや,自由主義派の機関紙である
℃enseur を出版するデュノワイェを,更にまた カトリック主義者たちをあげることができる。
「自由主義派の機関紙℃enseur は1815年に独 占を批判し,教育の自由を理論的観点から正統づ けた」〔約し,また,「独占の反対者はコスタンやデュ ノワイェのような理論的自由主義者たちの間だけ でなく,この党派と結び付いた議会のメンバーの 中にも見い出された」劇1ということが指摘されて いる。だが,具体的な内容は明らかにされておら ず,理論的な主張に留まっていて,ギゾーの考え
とどこが異なるかも明らかではない。
また,カトリッタについては,「1816年から1819 年までの間,独占の問題が彼ら全体を捉えること はなかった。大部分のカトリック主義者はこの点 については完全に沈黙を守っていた。 全段 階の公立学校で宗教は優位を保持していたのであ る。 そして更に自由という言葉はきわめて 良くない言葉として理解されていた」65ということ である。
このように,第一期,「教育の自由」論争が激し く展開されるという状況はなかったといえる。
第二期
カトリック的な王党右派が政権の座についた,
「1820年以降,世論は教育や教育の自由に関わる 問題に完全に無関心でいることはできなくなり,
実際にこれらの問題解決に専念したり,そのため に努力したりするようになる」1弱1のであって,その
原因としては,機関紙等を通して「自由主議者た ちが幾度となく教育の自由に対して好意的感情を 表明した」5ηことなどが考えられる。
当時,「教育の領域で宗教の考えに反対する自由 主義者は,プチ・ゼミナールや聖職者の学校に対 する親たちの好意に対して苛立ちを感じた」聞ので
あり,それは,「彼らが,法により認められた教育 の自由を自由思想の最大の特徴として,非宗教的 ないしは少なくとも宗教的に中立な学校を設ける ことを可能にするものと考えた」5出ためであるとさ れている。自由主義者の主張は,認められるべき
「教育の自由」が侵害されていると判断したこ の時期,具体的内容を持ったものになったのであ る。他方,カトリッタはといえば,次のようであ る。「なお,態度を保留していた。その理由は,教 えそして学ぶところの権利の行使により満たされ るべき要求を持ち合わせていなかったからである」馴 とされる。王党右派政権のもと,彼らが帝国大学 全体を支配下に入れた状況のなかでは当然なこと といえる。そして「いく人かのカトリック主義者 が,教えそして学ぶ権利の存在に対して反対さえ 表明する」価llような状況が生れたのである。第二 期において注目すべきことはすでに述べたように
自由主義の中に次のような動きが誕生したことで
ある。
「1825年から1827年までの間に自由主義のなか に新しい傾向が生れた。ジェジュイットと反革命 に対して恐怖心を抱き続けている℃ourrier や
Constitutione11 などの伝統的自由主義者に対して,
若いチームが,新しい世代が,すなわちヴィルマ ン・クーザン,デュボワ,デュシャテル,ルヌア ール等の Globe や Jounal de Commerce の若 い世代が,次第に対峙していった。確かに,(自由 主義者)全員が当時の学校体制と,そして自由主 義的教師や相互教授法教育がその犠牲になってい
る迫害を非難していた。だが,若い自由主義者は,
自由の価値自体を理解していたので自らの勝利の 後,その勝利を,更に,打ち負かした敵を苦しめ るために用いることなど望まなかった」6⇒と。
その主張の特徴については更に次のような指摘 がある。「新自由主義者の戦列に息づいている新し い精神は,それが初等教育に割り当けることを望 んでいる目的と教育課程の中に見いだされる。人 間を古い鋳型や偏見から開放するという自由主義 のスローガンや,人間を真面目なクリスチャンや
正直な市民にし,宗教と社会の安寧を保証しよう とするカトリックのスローガン,等の伝統的なス ローガンに代わって,次のような第三のスローガ ンが,フィロゾーフであるよりエコノミストであ る新自由主義者によって提出されたのである。そ れは,人間を至高の仕事へと準備すること,つま ケ)彼らが人生の戦いにおいて勝利するために必要 とする道具を,学校が与える知識を通して手に入 れさせること,そしてまた,国民的生産の向上に よってかような個人的満足と公的富の増加を確か なものにすることなどである」樋とされる。このよ うな新自由主義者の論争参加は政治における独立 派の勢力拡大を受けたものといえるが,これによ って,論争は自由主義ブルジョワの自由観を軸に 回転させられることになる。そして,教育独占賛 成,反対の二大陣営間の対立は,伝統的自由主義 内部における機会主義的対立から,内容のある本 質的対立へとその姿を変えていくのである。
第三期
この時期の論争の主役は,独占賛成の大学人の 機関紙である Lyc6e と新自由主義者の機関紙で ある Globe であった。
Lyc6e は,「子供の市民的自由の一部が法によ って奪い取られるのは,親権のもとに置かれてい る子供を保護するためである」帖心との理由によって,
教育に対する国家の関与の正当性を主張し,そし てr Globe の考えに対して反対する」鯛のである。
一方,℃lobe 噛は,「それにより,教師が競争心,
対抗心,完成欲求等を抱くのを妨げられ,更に,
国家が対立する意見を抑制し自らの考えを勝利さ せるのを許されるからとの理由で,独占を非難し ている」轄ηとされる。そして℃10be の自由に対す る態度については次のような指摘がある。「ジェズ イットに対してさえ教える権利を認める℃lobe は,また,学ぶ自由の支持者でもある。教える自 由は思想の自由に由来し学ぶ自由は親権に由来し ている。それらは自由競争のために必要である」6魯
と。だが℃10be の主張内容については,「それは ある点では我々を失望されるに違いない。理論的 には教育の自由の支持者であることを表明し続け る自由主義者がジェズイットに対して教える権利 を拒否することが見受けられる」69との対立する指 摘もなされている。このように, Globe について は評価が完全に定まっているとは言い難いのであ
る。
ところで,この時代に新しく論争に参加したの がカトリックであった。その状況については,次 のようである。
「教会は戦術を変える。 大学が教会とは っきりと手を切ったために,新しい言葉が姿を現 わすのである。それは教育の自由という言葉であ る。若いカトリックの力溢れたグループがそれを 広めていく司σαそして,カトリックの機関紙である
「℃orrespondante は,教育の自由の支持者を力 づけるように努め,独占に抵抗することを進めて いく」σ11のである。そこでの主張内容について見れ ば次のようだとされる。「父親のみが子供を育てる 権利を有している。この権利は憲章のなかで規定
されている。それは,宗教の自由と信仰の自由と が基本法のなかに規定されていることに基づく。
国家が有するのは監督権だけであってそれ 以降,独占はいかなる正当性にも基づいておらず,
消滅する運命にある」㈱というわけである。「カトリ ック教にとって必要な教育の自由はカトリック自 身にも必要であって,教育の自由は,信仰の自由 や出版の自由と並んで憲章のなかに明記されたも のである」㈹との考えのうえに立った主張といえよ
う。
こうして,「この(カトリッタの)立場は自由主 義のそれと一致し, (そして遂には)1830 年憲章の中に教育の自由の原理が明記される」百Oこ
とになるわけである。
このように,第三期になって,「教育の自由」論 争の全ての主張が出揃い,しかもそこでは新自由 主義の自由論もカトリッタの自由論も国家の関与 に対する主張という近代的自由論としての性格を 持つものとして展開される。
V
王政復古期に展開される「教育の自由」論争の 各主張を整理しておこう。
まず, Lyc6e を中心に大学人の主張する教育 独占賛成論。
すでに見たように,そこでは,子供の「学ぶ自 由」の行使を託された親たちに対する不信が存在 していた。そして,子供の市民的自由の一部を奪 う国家の教育独占は,そうした信用されない親た ちの親権行使から子供を保護するという名目で正 当化されている。「学ぶ自由」を守るために国家が 関与するという理論である。そしてまた,「教える
自由」についても,その自由を行使する人々に対 する信頼が持たれていないために,国家の監督下 に置くことが主張されるのである。
初等教育の場合,「学ぶ自由」の行使者は,民衆,
それも教育を受ける当人である子供でなく,親権 を保持している親たちとされた。そして子供自身 についてはいうまでもなく,親権に基づいてその 権利を有する親たち,つまり民衆の成人について も,その自由な選択は信用出来ないとされたわけ である。また,「教える自由」の行使者である私的 団体に対しても,特に宗教団体関わって完全な信 頼を寄せていなかったわけである。
それについてみると,独占賛成論者である大学 人は,自由主義者に属していたが,彼らは共和主 義者による過激な革命に対しても貴族を中心とす る反革命に対しても警戒心を抱いていた。また,
そうした動きに巻き込まれる可能性を有する民衆 も信頼していなかった。したがって,民衆による
「学ぶ自由」の行使も,私的団体,特にカトリッ タによる「教える自由」の行使も,その誤1)を是 正する帝国大学,つま1)は自分たち自由主義者の
もとで正しく指導されることによって初めて行使 できるものと考えたのだった。
次に,℃ourrier francais を中心に展開される 純理派の折衷的自由論。
その主張の中心は「秩序のなかの自由」の承認 である。「国民の道徳的統一」の実現を目指す彼ら は,自由は認めるが,その自由の行使が諸勢力の 均衡のうえに成立する秩序を崩し,その結果社会 が解体の危機に立たされることを一番恐れていた。
したがって,秩序を守るための国家の関与とそれ が許す範囲での自由の行使の承認とを同時に主張 したのである。具体的には,一定の条件のもとで の学校設置の自由と,監督のもとでの教育活動の 自由である。つまり,国家によって定められた制 限のもとでの「教える自由」の承認である。
ところで,こうした主張を行なうギゾーに代表 される純理派は,立憲王党左翼を構成するオート
・バンクや金融貴族などの人々であり,その中心 は銀行家,株式王,鉄道王,炭鉱所有者などの,
いわゆる大ブルジョワであった。彼らもまた過激 な革命に対しても反革命に対しても恐れを抱いて いた。彼らにとって当時の秩序の崩壊は重大な問 題だったのである。そして理論的には自由論者で あるが,実際には大学人と同じ様にその自由の行
使は国家の関与のもとで秩序を犯すことなく行な われなければならないと考えていたわけである。
ただ,彼らにとって,土地王政といわれる復古王 政における秩序は自由を制限し過ぎたものであり,
貨幣王朝といわれる次の七月王政のもとで実現さ れる,より自由な,すなわち大ブルジョワ的な秩 序の樹立を求めていた。彼らの主張する自由は,
この新しい秩序のもとでの制限された自由であ1),
彼らは大学人よ1)も自由の拡大に積極的であった といえよう。
次に,主として℃orrespondante において展 開されるカトリックの,いわゆる戦略的自由論の
主張。
旧体制の再現と,国家による財政的援助の実現 が不可能となった状況のもとでそれに代わる次善 の策として主張された「教育の自由」は,個人の 権利としての「教える自由」と「学ぶ自由」に論 拠を置くが,個人そのものの自由の承認と拡大と
を目指したものだというよ1)は,教権の独立とい う目的達成のための戦略的便法としての色彩が強 いものであったといえよう。そのため,七月王政 期には,純理派との妥協のなかで,教団の活動の 保障のためには自由の制限を認めるというように 主張を変えることも可能だったわけである。
こうした戦略自由論の主張を展開するカトリッ タは,ウルトラ王党派の中小貴族を中心に,立憲 王党右翼の大貴族や大地主等よ1)構成される王党 右派に政治的には属した人々であった。そうした 人々は,次第に自らの地盤を失いつつあって,当 時の状況のもとでは守勢に立たされていたといえ よう。そのことは,彼らが国家から分離され,国 家からの自由を要求しなければならなかったこと,
また,国家との妥協のためにく限られた自由のも とでの教権の独立〉で満足しなければならない状 況に置かれてことなどに表わされている。戦略的 に自由を主張しだしたこの王政復古期以降,カト リックは単に自らの活動の現状を守るために「教 育の自由」を口にしそれを求め続けていくことに なるのである。フランス教育にとって伝統的かつ 特有な「教育の自由」の構図がこの時代に誕生し たといえよつ。
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ところで, Globe におけて展開される新自由主 義者の自由論はいかなる内容であろうか。
それは,今まで述べた主張とは異なる近代的な
「教育の自由」論であるとされる。自らの敵に対 してさえも自由を認め,自由競争のもとでの教育 を内容とする自由主義ブルジョワの主張であると。
ところが,そうした新自由主義の自由論はその 後,姿を消し彼ら自身によっても主張されなくな る。その原因については,先行研究においても明 らかにされていない。原因が主張そのもののなか にあるか否かについて,ここでは℃10be の記事 を中心に検討しようと考える。
℃lobe には,1828年5月17日から同年9月6
日にかけて教育に関する五の記事が載っている。その中でも,「教育の自由」と題する5月17日と6 月5日の記事を中心にここでは見ていこう。
℃lobe は語る,「初等教育に関する良い法とは,
〈教育は自由である〉という規定で始まるもので なければならない。教育を自由にすること,それ が教育を活発にし,教育が投げ込まれている隷属 の低みからそれを救い出す唯一の手段であるゴ7糖。
そして,「思想と出版の自由」〔丁萄に基礎づけられたそ の自由の具体的内容は,「教育の長い間の監視から の開放,教師の隷属状態からの開放であ1),
そして,世俗人であろうと聖職者であろうと,カ トリッタであろうとプロテスタントであろうと,
ただ法延における信条告白だけを条件として証明 書無しに学校開設の資格をもつこと」㎝であると主 張される。
このことから,「教育の自由」が,まず「教える 自由」として考えられていることが分かる。学校 開設の自由と教育活動の自由である。
ただ,その主張には,「自由体制のもとでは親た ちが,あるいは言うなれば社会全体が教育の最高 の審判であ1)」⑱,したがって「教師も,親たちに よってそのライバルより好まれるのでなければ学 校を維持していくことはできない」㈹との発言があ
る。そして更に次のように続けられている。
「教師は自らが教える子供の全ての家庭の注意 深い監督と絶えざる監視のもとに置かれている。
人間の制度によって,また道徳的秩序によって,
親たちに義務づけられているこの役割を彼らから 奪わないことを願おう,そうすれば,親たちによ る配慮以上に教育の優秀性を保障するものはない ことが分かるだろう」鴎と。
新自由主義者たちが,「教える自由」と並んで,
「学ぶ自由」の承認を教育の発展のための必要条
件と考えていることが,これから理解できる。
そしてそうした立場から,「政治に従う教育」召P に対しては,「教師の選択が行政によって命じられ,
教師の任免,支援が行政の手で行なわれる」剛と指 摘し,「そうした国民全体の教育のような広範な事 柄に対する行政の監督は無駄かつ不十分なもので
しかない」側と批判するのである。
ところで,彼らの自由に対する信頼はそれに留 まらず,次のように発言している。
「教育が自由な時には,親たちの監督に教師た ちの競争が結び付く。競争は教育にとって,それ が産業にとってと同じものである。独占が教育を 不振にするのと同じ様に競争はそれを活発にする。
ここで,(教師が競争において抱く)物質的利害関 心が社会により高いレベルの利益をもたらすのに 協力する。 だが,自由によって教育には更
にいま一つの競争が生じさせられることになる。
(すでに述べた)損得計算に幸福の感情が結び付 くのである。つまり,博愛が何の障害もなく下層 民に教育を広めるために働く。それは新しい方法 を宣伝し学校の中によ「)多様なそしてよ虻)広範な 教育を導入することを可能にする。かように,公 教育を競争させ,その競争の判定者として親たち
を定めることによって,自由の体系は人間の弱さ のもとでの最良の体系として確立されるのである。
その(体系の),いわゆる無秩序状態は実に良く秩 序づけられた統治でしかないのである」㈱と。
以上のことから,自由体系にあっては,「学ぶ自 由」に基づく親たちの監督のもとで,「教える自由」
に基づく教師の競争,更には博愛に基づく団体間 の競争が展開され,その結果,そこには教育を発 展へと導く秩序が自然と生み出されてくることに なると,彼らが考えていたことが分かる。自由放 任,自由な競争による予定調和的教育論の主張で
ある。
ところで,こうした主張を行なう新自由主義者 は,つまり自由主義ブルジョワは,立憲王党左翼 から分離独立した独立派の人々であり,その中心 はオルレアン派,それ.も銀行家ラファイエット派 と自由貿易派とから構成されていた。彼らはエコ ノミスト的性格を有し,経済的急進主義者といえ る人々であった。ただし,政治的には急進的では なく貨幣王朝支持者としての妥協的性格を備えて いたことは注意を要する。
このようにエコノミストとしての性格を有する
新自由主義者が自らの「教育の自由」論を経済的 自由論の影響のもとで展開したとしても少しも不 思議ではないといえる。
ただ,果して,「教育の自由」論の,経済的自由 論からのアナロジーが行なわれうるものか否かが 問題となろう。
第一点として,経済的自由論では,商品売買に おける売1)手と買い手の関係が交換可能なものと 措定されている。この立場の交換によって,各人 はその場その場での目先の損得計算に基づき行動 するのでなく,長い目で見て自らの利益になるよ う行動するものと考え.られている。その結果,そ こには各人の自発的行動によって生み出された市 場的秩序が存在し,公正な売買関係が成立するこ
とになる,とされる。
ところで,こうした想定が次のような前提のも とで考えられていることに注意しなければならな い。つま1),全ての人が売るための商品をもち,
それを買うためのお金も持っているとの前提であ る。あるいは,そういった可能性を有するかそれ ともその可能性を将来有すると信じているとの前 提である。
それに対して,教育自由論においては同様の前 提が立てられるであろうか。教える人と学ぶ人は 交換可能な存在と見ることができるであろうか。
第二に,経済的自由論においては経済的活動が 利益追求という一点からのみ捉えられているが,
教育自由論では教育の活動を,教える人と学ぶ人,
つまり教師たちと学ぶ子供たちの家庭の親たちが 同様な一点から捉え,行動をすることが前提でき るのであろうか。
第二の点から見ていくと,経済的自由論におい ては,同質の経済的社会の存在が措定されており,
そのもとでの予定調和的行動という図式の存在が 仮定されているといえるが,教育的自由論の場合 は,政治的・宗教的対立が現実に存在し,そうし た図式を描くことは難しい。図式の成立のために は,対立を解消し,価値の一元化を実現するため の方策ないしは装置の存在が必要とされよう。求 められる選択なり行動なりを行なえるように指導 する「社会」の存在,つまり均質的社会とでも言 えるものの存在が必要とされよう。
そうした「社会」の想定は,現実の社会な1)集 団な1)が,同様の価値を所有する人々より構成さ れている時には容易であるかもしれない。例えば
ブルジョワのみで構成された社会では,彼らが社 会の世論を共有しているために自発的にそこでの 価値なり規範な1)を受け入れ,自由にしてしかも 秩序を犯すことがないといったように行動できる かもしれない。しかし,教える側のことだけを考 えたとしても,当時の社会には,すでに見たよう に,政治的ないし宗教的信条を異にする人々が存 在していたのである。したがって,強制的に均質 的社会が作り出されない限「)は,予定調和的な自 由教育論の実現は困難であった。
初等教育をめぐっては,更に難しい問題が存在 していた。それは,教える者と学ぶ者が異なる階 級に属していたことである。「教える自由」の行使 者と「学ぶ自由」の行使者とは全く利害を異にす
る人々であって,両者が入れ替わる可能性は存在 しなかったのである。これは第一番目の問題であ
る。
「学ぶ自由」の行使者たち,つまり「学ぶ自由」
が子供たち自身には認められず親権に基づき家庭 の親たちに託されるので民衆家庭の親たちは,「教 える自由」を行使することはなく,他の人々が提 供するものを受け取るだけの存在であった。つま り「学ぶ自由」は,提供される教育の中から選択 する自由でしがなかった。そして,その提供され
る教育が,民衆の子供たち自身については言うま でもなく親たちの選択するものと一致する保障は なかった。したがって,民衆の「学ぶ自由」の行 使は自らの判断する最適の選択を保障しない可能 性を有している,いわば限られた自由でしがなか
ったのである。付言すれば,特に民衆の子供たち にとっては「学ぶ自由」が個人の自由というよ「)
はいわば家庭の自由だったので二重の意味での限 られた自由であった。
そして,その限られた自由の行使についてすら 次のように民衆は信頼されていなかったのである。
「まず,第一に,親たちが問題となる時には,貧 しい,無知な家庭の親たちだけを取り上げ,彼ら を聡明で経験豊かな官吏と比較しないようにしな ければならない,もしそれを行なえば誤りを犯す ことになろう。社会の中心に位置している家庭の 親たち,つまり見識ある隣人の助言に取り囲まれ ており,そして更に自由な国の中で彼自身も隣人 も知識の公開から生れる絶えなきコミニュケーシ ョンによって与えられた情報に取り囲まれている,
そうした親たちを,考えてみる必要がある。また,
学校が,多数を占める親たちだけに支援されてい るのではないことに思いをめぐらせておく必要が ある。比較しなければならないのは,社会と行政 とである」鮒と述べている。「多数を占める親たち」
すなわち民衆の家庭の親たちは信頼に足る存在で はなく,彼らの「学ぶ自由」の行使が語られる場 合には,その背後に「社会」の存在が,そして更 にその「社会」を導く世論,つまり「公論」㈲と,
その「公論」に従う「公衆」轄ηの存在が前提されて いるのである。
民衆は,「社会」の中で,それを支配している,
「公論」の指導のもと自らの「意見の革命」を引 き起こして「公衆」になることによって初めて,
「学ぶ自由」を行使するに価する存在になること ができるとされるわけである。そして,この「公 論」の内容を形成するのは社会の中央に位置する とされる家庭の親たち,すなわち新自由主義者で ある自由主義ブルジョワであった。
したがって,民衆には,ブルジョワが提供する 教育の中からの選択しか許されず,例え「公論」
に従って「学ぶ自由」を行使することができたと しても自らにとって最善の選択を行なえることは 稀であった。新自由主義者が言うように,彼らが
「公論」に従わないことがあポ),またその理由で その選択が信用できないとされたとしても,それ は彼らの置かれた状況からして当然なことだった といえよう。新自由主義者による,初等教育をめ ぐっての「教育の自由」の主張は,教育対象であ る民衆を中心に据えた教育実現のために,「教える 自由」と「学ぶ自由」とを求めたものではなかっ た。新自由主義者にとってどこまでも民衆教育は 慈善の対象であるか,あるいは利益追求のための 活動でしかなく,決して,民衆の教育権を保障す るためのものではなかったのである。
したがって,教育権保障のために国家が関与す るというような主張はそこに見いだすことができ ないのはもちろんである。また,財政的観点から も「無駄で費用が掛かりすぎると告発されるそう した多額の支出は独占の不可避的結果でしかなく,
もし支出から外すことのできる活動を予算に盛り 込むことができれば費用はごく僅かしか掛からな いだろう」鮒との認識を持つ新自由主義者が,慈善 とか利益追求とかの私的活動のために公的支出に よって独占体制を樹立することを主張するとは考 えられないことであった。
しかし,信用していない民衆が「社会」の「公 論」に反した行動を公然とと1),「社会」自体の解 体を実行するような可能性が生じた時には,つま
廿)共和主義のもとで民衆の台頭がブルジョワにと って脅威になった時には,初等教育の実施はもは や私的活動ではなく,彼らにとっても国家の関与 が正当化されることになる。そのことは,七月王 政期に入ると,彼らが反共和主義の立場から大ブ ルジョワの保護主義と手を結び,自由放任,自由 競争の主張を投げ捨てるのを見れば分かることで
ある。新自由主義による自由の主張は,「社会」す なわち自由主義ブルジョワの求める社会体制を誕 生させるための手段であって,それらの目的が達 成された時ないしはその達成の可能性が危うくさ れる時には自由の主張そのものが放棄されること もあるという性質のものだったのである。
ところで、新自由主義者の主張は時論としての性 格を持っていた。
「自由化は市民的秩序と宗教的秩序の間の永遠 の葛藤から抜け出すための最も簡単な方法であろ う」四との発言からも分かるように,初等教育をめ ぐる〈自由主義者=基礎教育協会〉対〈カトリッ クニキリスト教学校教団〉の間の競合関係の調整 と,そのもとでの初等教育の発展が自由化の大き な課題であった。教える者の間に存在する対立の 調整が目的であった。
彼らは次のように語っている,「貧乏人は今日殆 どパンと同じ様に教育を必要としている。それが 国家の敵であるとの理由で施しを配る手を制止す るようなことを我々はしないだろう。したがって,
貧乏人の子供を探し求めている慈善の主をあらゆ る方法で行なうがままにしておけ,そうすれば,
競争の,また多分敵対の目的で(基礎教育協会の)
ランカスター学校のそばに教団学校が設けられる かもしれない,しかし構わない。 こうした 競争によってさえ,全ての人が自らの軽率な行動 に注意するので,とりわけ中立的で注意深い思慮 によって子供の教育への党派性の流入を防ぐので,
両学校を開設するがままに任せておけ,放ってお け」醐と。「公論」が支配しているところでは,つま り「公論」に指導された民衆が「教育の自由」を 行使しているところでは,「種々の聖職者のメンバ ーが他の市民と同じ様に学校を設けることができ
る」酬というわけである。彼ら新自由主義者は,「自 由の体系が,熱意,能力,教育の広さ,方法の優
秀性などにおいても,また教師の道徳性において も,あらゆる検証において勝利する」働との確信を 抱いていた。したがって,彼らにとって「自由の 体系は公教育と,憲章によって認められた宗教の 自由とを調和させる唯一のものであった」鮒のであ
る。
こうした時論としての自由の主張こそが,新自 由主義者にとって一番念頭にあったことといえよ う。〈宗教からの自由〉を問題にした点で,彼らは 転換期の思想家であった。ただ,ブルジョワ的な
「社会」の存在を措定し,自由放任を表明したと いう点では当時において新しいタイプの思想家で あったことも確かである。
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17)De mδme,Instruction publique(2e article).De quelques mesures projet6es par le ministre〔ie rinstruction pubhque,et du manifeste publie par le Moniteur en d6fense du monopole,〈Le Globe,
Tome6,1828.9、6〉
18)中木康夫,フランス政治史(上),1975 19)岩波講座「世界歴史19」,1971
〈注〉
(1)12−P.460
(2)12−P.460
(3) 2−p.191
(4)基礎教育協会は,イギリスの「英国及ぴ海外学 校協会」をモデルとして1815年にカルーノらによ って設立された。ランカスター法(助教法)であ る相互教授法の普及を目的とする。
(5)キリスト教学校教団は,フランスに1802年に設 立された。1808年のデクレによって再認可され,
更に1810年4月4日のアレテにおいてキリスト教 学校教団として認可される。
(6)4−P.63
(7) 4−p.63
(8)4−P.57
⑨8−P.125
(10) 8−p.127
(11) 8−p.130
(12)拙稿,コンドルセ公教育論に関する一考察 教育の「知育」・「訓育」二分論の機能を中心 として一1973,p.2
(13)拙稿,「近代フランス教育思想」の平等原理,
1978, p.95
(14)拙稿,コンドルセの道徳教育における「哀れみ の情」と「理性」について,1974,p.25
(1励 Condoroet,OEuvres de Condorcet, Tome孤,
1847,p.169
個︒η㈱⑬⑳⑳㈱㈲⑳㈲㈲⑳㈱㈲G①⑳圃倒㈱駒⑬⑤⑳㈱㎝㈹㈲働㈹働㈲㈹㈹㈹㈹㈲㈹働働働㈲圃㈱鯛翻
6−p.1214−p.57 4−p.57 3−p.396 1−p.242 4−p.57 19−p.42 18−p.49 5−p.41 4−P.59 8−p.126 8−p.127 8−p.127 3−p.293 18−p.48 18−p.50 8−p.127 3−p.p.374−375 7−p.194 7−p、194 8−p.128 3−p.376 8−p.127 3−p.388 3−p.395 3−P.399 5−p.43 8−p.128 9−p.165 8−p.130 11−p.22
8−p.130 8−p.131 2−p.279 2−p.279 2−p.278 2−p.278 2−p.275 2−p.p.300−301 2−p.286 2−p.302 2−p.303 2−p.303 2−p.p.303−304
O123﹂怯︻﹂直U 6俗厘Ψ⑯俊Ψ6依Ψ の鋤窃①D勃勃の⑤⑤ 666σσσσσσσ
2−p.306 2−p.306 3−p.395 3−p.396 2−p.314 2−p、314
Globe は,Dubois,P.F.
刊された独立派の機関紙である。
以後買収されてサンシモン主義の機関紙となり,
1832年まで公刊される。
2−p.312 2−p.314 2−p.313 9−p.166
2−p325
2−p.323 2−p.326 9−p.166 13−p.411 13−p.410
によって1824年に創 しかし,1830年
り鋤田①D助田の萄⑤の鋤勃①Dの鋤 σσσ毬綿綿侶侶侮侮⑱侶侶⑲⑲⑲⑲
(なお, すでに参考文献として掲げた ものについてはその番号を記してある。)
13−p.410 13−p、410 13−p.410 13−p.410 13−p.410 13−p.410 13−p.411 13−p.411 13−p.410 13−p.411 13−p.410 16−p.522 14−p.460 16−p.521 14−p.459 14−p.460 14−p.459 引用文献で,
関連年表
1801. 7.16
「コンコルダ」(国家と教会の協力関係の樹立。〈カ トリック教は大多数のフランス人の宗教である>と して一定の限度内でのカトリックの活動を承認。こ れにより聖職者は国家における統一と秩序維持のた めの一要素となり,宗教教育は公立学校の中に取1)
込まれる。)
1802. 5. 1
「公教育一般法」〈1−p.178>(市による初等学校 の設立を規定する。)
1804
キリスト教学校教団(この年フランスには250名 の教団員がいた。)
1808. 3.17
「大学組織関係デクレ」〈1−p.196〉(帝国大学に よる教育独占の誕生。教員は中央行政機関,県知事,
副知事,市長の監督下に置かれ,その任命権は大学 に属する。)3Rsを教える初等学校については,総長 によって認可され大学の一員になったキリスト教学 校教団によって運営されることになる。1808年,教 団経営の学校に与えられた初等教育予算の額は,
4,250Fである。
1808、 11. 15
「大学の規則に関するデクレ」〈1−p.199〉(小学 校を知事,副知事,市町村長の監督下に入る。)
1810.8.4
「キリスト教学校教団憲章」<1−p.211〉(教団の 使命は,学校を無償で維持することと規定される。)
1814. 6. 4
「憲章」(イギリスをモデルとした制限王政。思想 の,そして出版の自由を承認する。)なお,宗教につ いては,カトリック教を国家の宗教としながらも,
信仰の自由を認める。国家は,自由主義的であると 同時にカトリック的でもある両義的性格を備えるこ
とになる。
1814. 6 . 22
「オルドナンス(令)」〈1−p.226>(それまでの大 学の規則を暫定的に維持することを定める。)
1815. 2. 17
「公教育の規定に関するオルドナンス(令)」〈1−
p.228〉(公教育は王立公教育委員会によって支配さ れ,監督される。11名の委員中,2名は聖職者によ って構成される。)
1815. 3.30
「デクレ」〈1−p.237〉(帝国大学が再興される。)
1815.6
基礎教育協会の創設(1815.3.22に内務大臣に就 任したカルーノが汎愛主義者の援助のもと創設し,
1815.6.16−6.18に大会が開かれる)。カルーノに よって「産業と慈善の篤志委員会」が創設される
(8−P.126)。
1815. 8. 15
「オルドナンス(令)」〈1−p.238〉(それまでの大 学委員会に変わる公教育委員会の設置とアカデミー 組織の維持を定める。)
1816. 2. 29
「公教育関係オルドナンス(令)」〈1−p.240〉(初 等教育の監督,奨励のための無償,慈善委員会の設 置。〈アカデミー総長,視学官による私立学校視察を 定めると共に,司教は宗教教育の監督を行なうこと になる。>私立学校開設に必要な教員免許の規定を定 める。また,私的団体の活動を奨励するだけでは満 足せず,市による〈貧民のための,義務ではない〉
学校の設置を規定する。)この法令は,国家による初 めての初等教育の組織化を規定したものであった
(7−p.192)が,公立学校の設置に関しては完全に 実施はなされなかった(10−p.p.309−310)。また女 子教育は無視されていた(8−p、127)。初等教育国家 予算は35条の規定により50,000Fに定められた。
(1827年において50,000F,しかし1829年には,
100,000Fに,1830年には300,000Fに増額される。)
1816. 6 . 27
「訓令」〈1−p.236〉(初等学校での相互教授法の
公認。)
1817. 7. 22
「アレテ」〈1−p、264〉(12の県に相互教授法のモ デル校の設置を定める。)
1818
相互教授法の軍隊への導入(8−p.126)。なお,
「1818年3月10日徴兵法は教授,そして相互教授法 学校のための師範講座の生徒,また少なくとも第二 種免状を所持した正教諭,更に教団員などの徴兵を 免除している 8−p.127)
18ユ8. 8.8
「通達」〈1−p.269〉(基礎教育協会が相互教授法 のための師範講座の終了者に免状を交付することを
定める。)