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マント,ノートル ダム 修 道 院 聖 堂 西 正 面 扉 口 (1180 年 頃 完 成 )

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 私は,「初期ゴシックからパリの大聖堂までにおけ る『美徳と悪徳』の図像学的変遷について──サンス 大聖堂を中心に──」というテーマで,2007年2月 27日から3月14日までフランスにて調査を行った。 私が知る限り,サンス・サンテティエンヌ大聖堂西正 面左側扉口(通称,洗礼者ヨハネの扉口,以下,ヨハ ネの扉口)の最下部の表現スペースである基壇に描か れた初めての「美徳と悪徳」である。また,この作例 は13世紀前半に制作された,パリ・ノートル・ダム 大聖堂西正面扉口中央扉口の基壇の12組の「美徳と 悪徳」の表現に直接的な影響を与えたといわれてい る。サンス以前の「美徳と悪徳」は,多くが扉口最上 部を占めるアーチ状のヴシュールに表現されていた。 サンスのヨハネの扉口,とくに「美徳と悪徳」に関す る研究は,現在まで「Avaritia・貪欲」と「Largitas・ 寛容」という同定,概説や簡単な描写をとどめるに過 ぎない。サンス建設直前に現れた基壇という表現スペ ースに着目してサンスの「美徳と悪徳」を考察するこ とによって,現在までなされてこなかったヨハネの扉 口の「美徳と悪徳」に対する新しい解釈が提示できる と考え,調査に臨んだ。題名のように,「美徳と悪徳」 の変遷を調査の中心に据えるつもりであったが,実際 調査を行ってみると,修復中の教会堂も多く,十分な データを入手することができなかったこともあり,今 回の調査は基壇に表現されたテーマの変遷に着目し, その中でのサンスの「美徳と悪徳」の表現の位置づけ を試みることにした。現在日本で入手可能なゴシック の教会堂の写真資料は大変限られており,それもタン パン(扉口の上部の半円または尖塔型をした表現スペ ース)などの扉口の中心となるテーマが描かれた部分 が多いため,基壇という最下部を,しかも細部に至る まで観察・考察することはほぼ不可能に近い。よっ て,今回のプロジェクトを貴重な経験と捉え,できる 限り多くの教会堂に関する写真資料を収集することを 目的に調査を行った。 ゴーニュ地方を中心に行った。また,教会堂調査と平 行し,フランス国会図書館やオーセールの図書館で文 献収集を行った。行程は以下のとおりである。  3月1日  パリ・ノートル・ダム大聖堂北トランセ プト扉口,ポルト・ルージュ撮影,中世 美術館見学  3月2日  アミアン大聖堂西正面右側扉口・中央扉 口撮影  3月3日 サンリス大聖堂訪問  3月4日  アミアン大聖堂西正面中央扉口,左側扉 口撮影  3月5日  パリ・ノートル・ダム大聖堂西正面左側 扉口撮影  3月6日 マント修道院聖堂西正面撮影  3月8日 サンス大聖堂撮影,宝物館見学  3月9日 オーセール図書館で資料収集  3月10日 フランス国立図書館で資料収集  3月11日 ラン大聖堂撮影 以上のように,6つの教会堂を計9回訪ね,主に詳細 な写真撮影という方法で調査を行った。

2 調査報告

 以下では,調査を行った教会堂のうち,基壇を中心 に扉口全体を撮影資料(付録)も交えながら制作年代 の早い順に報告したい。 ① サンリス,ノートル・ダム大聖堂西正面中央扉口 (1170年完成)1)  サンリスはパリ北駅から電車で30分,シャンティ イ・グーヴュー駅で下車した後バスで25分程行った ところに位置し,イル・ド・フランス地方に属する中 世の面影を残す都市である。サンリス,ノートル・ダ ム大聖堂(以下,サンリス)は1153年に建設が始ま り,1191年に奉献された。西正面扉口は1170年に制

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写真1 サンリス,西正面 写真2 マント,西正面 作されたとされる。西正面扉口は3つの扉口から構成 されるが(写真1),タンパン,基壇に表現がある扉 口は中央扉口のみである。残念ながら現在中央扉口は 修復工事中ということで,完全に覆われて何も見るこ とはできない状態であった。修復期間は2005∼2006 年ということだったが,サンリスに隣接する博物館の 職員の方に聞いてみると,今年の5月か6月には修復 が完了するのではないか,ということであった。中央 扉口のタンパンには「聖母戴冠」が表現されている。 左のまぐさ(タンパン下の帯状の表現スペース)には 「聖母の死」と「聖母の埋葬」がひとつの場面として 描かれ,その右側には「聖母被昇天」が表現されてい る。サンリスの扉口プログラムはサン・ドニ修道院聖 堂やシャルトル大聖堂などのゴシック最初期の旧約聖 書の影響を受けた扉口プログラムとは一線を画すもの となっており,さらにサンリス後に制作される教会堂 の扉口の表現のモデルとなる作例である。扉口は 1793年に破壊された。図版によれば基壇には,「暦」 がひと月ごとに農作業をする様子で表現されている。 この部分に関しては,サンリスに隣接する博物館にお いて映像を見せてもらい,「暦」の表現を確認するこ とができた。フィルムの状態があまりよくなかったこ と,また段差になっている基壇の構成上,正面からの 撮影では基壇のすべての部分を見ることができなかっ たため,詳細まで「暦」の表現を観察することができ なかった。修復中で写真撮影ができなかったことも合 わせて納得のいく調査はできなかったので,次回への 課題としたい。 ② マント,ノートル・ダム修道院聖堂西正面扉口 (1180年頃完成)2)  マントは,パリ・サン・ラザール駅より鉄道で北西 に30分ほどの,セーヌ川沿いに位置する小さな町で ある。サンリスと同様にイル・ド・フランス地方に属 する。マント,ノートル・ダム修道院聖堂(以下,マ ント)は,王家と深い関係において誕生した。ルイ7 世(1137‒80) フ ィ リ ッ プ・ オ ー ギ ュ ス ト(1180‒ 1223)が修道院長を務めたこともある。決定的な完成 時期を特定する文献資料は存在しないが,おそらく 12世紀後半から建設が始まり,サンリスよりも少し 後に完成したと推測される。中央扉口(写真2)の扉 口プログラムはサンリスと酷似している。タンパンに は「聖母戴冠」が表現され,まぐさにはサンリスのよ うに中央部に仕切りこそないが,左に「聖母の死」と 「聖母の埋葬」がひとつの場面として表現され,右に 「聖母被昇天」が描かれている。タンパンには,表現 されていたキリストと聖母は破壊されてはいるが,玉 座に座している姿を明確に識別できる。キリストと聖 母の左右には2人ずつ人物が配置されている。タンパ ン・まぐさに関してはサンリスをモデルとして制作さ れたと言えるであろう。基壇の存在もサンリスの影響 を示唆する。(写真3)しかしながらサンリスよりも 隅切(扉口側面,ヴシュールと基壇の間)が長いため 基壇の位置は低く,表現されているテーマは,サンリ スの「暦」のような具体的なものではない。左側基壇 は,上下2段に分かれている。上部基壇は,背景に数 枚の花弁のような浮き彫りの中に中央扉口右脇柱(写 真4)の花模様に似た表現が見られる。(写真5)ま た,正面から見える表現と横から見える表現は,花の 形・背景の浮き彫りの花弁の数等が微妙に違ってお り,大変興味深い。下部基壇には,ゴシック最初期に 制作されたシャルトル大聖堂西正面左側扉口最下部や

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写真3 マント,中央扉口左側基壇 写真4 マント,中央扉口右脇柱 写真5 基壇 写真6 中央扉口右脇柱最下部・根腐れした花 写真7 マント,中央扉口ヴシュール ランピヨン・ノートル・ダム聖堂の円柱人像の台座に 見られるような細長いビスケット状の装飾が施されて いる。また右側基壇は,上下2段に分かれている点で は同じであったが,表現はまったく違うものとなって いる。教会堂のような建築物を柱で2等分した表現が 並んでいる。左に比べてひとつひとつに際立った差異 は見られなかった。なお,基壇は左側扉口にも確認す ることができた。さらに扉口の左右に立つ脇柱に関し ては,左脇柱は,最下部に表現されている壺から伸び た蔓が人間や動物の頭部とともに表現されている。一 方,右脇柱はやはり最下部から蔓草が伸びている。し かし表現されているのは人間や動物の頭部ではなく, 花模様であり,しかも最下部は根もとが腐ったような 表現が見られる。(写真6)サン・ドニ修道院聖堂や パリのノートル・ダム大聖堂扉口の脇柱には「賢い乙 女と愚かな乙女」が表現され,タンパンの審判図の意 味を強調する象徴的役割を果たしているが,マントの 脇柱も「善」と「悪」の選別の寓意と考えることがで きるのではないか。  タンパンは破壊されていたが,ヴシュールなど上部 には水色の彩色の跡を確認することができた。(写真 7

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写真8 サンス,西正面 写真9 サンス,中央扉口 写真10 中央扉口左側基壇 写真11 サンス,中央扉口右側基壇 ③ サンス,サンテティエンヌ大聖堂西正面扉口 (1184年後に完成)  サンスは,パリ・リヨン駅から鉄道で1時間半ほど に位置する都市である。フランス中部ブルゴーニュ地 方に属する。ゴシックの教会堂は比較的パリ近郊のイ ル・ド・フランス以北に見られることが多いが,パリ から離れたブルゴーニュ地方にもサンス・サンテティ エンヌ大聖堂(以下,サンス・写真8),オーセール・ サンテティエンヌ大聖堂など,いくつかのゴシック教 会堂が存在する。サンスは,当時の大司教アンリ・サ ングリエ(Henri Sanglier)が1124∼40年の間に建築 に着手したということが明らかになっている。西正面 は,左側のヨハネの扉口が1184年,中央扉口が1200 年頃3),右側扉口が1268年以降に完成したとされる。 中央扉口(写真9)は,タンパンに「サンテティエン ヌの生涯」が表現されている。隅切の円柱人像は完全 に破壊されているため,存在しない。その下の基壇は 扉を挟み左右ともに上下3段ずつ配されている。左側 基壇(写真10)最上部には,シャルトル大聖堂など にも見られる「自由七学芸(リベラルアーツ)」,2段 目には「白鳥」,「ライオン」,「熊」,「ラクダ」,「ツル と戦うピグミー族」,「大きな足で日よけをするスキア ポッド」など,東方の動物や伝説上の人種などの表現 が見られる。右側基壇(写真11)最上部には,サン リスにみられた,人々が農作業をする姿で描かれた 「暦」,2段目は汚れと破壊により識別が難しいが, 「イルカに乗った人物」,「シレーヌ」,「大地の神(?)」 などの表現が見られる。左側基壇2段目とは関連のあ るテーマと考えられ,合わせて「宇宙的世界観」を表 現していると考えられている。このような,伝説上の 生物,ヨーロッパには生息しない動物の表現はゴシッ クよりも以前,ロマネスクの教会堂の装飾に見られた

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写真12 ヨハネの扉口全体 写真13 ヨハネの扉口,タンパン・ヴシュール 写真14 Largitas・寛容 銘 写真15 Avaritia・貪欲 銘 写真16 Avaritia・貪欲 が,ゴシックの教会堂においてはまれで,その点でサ ンスの作例は特筆すべきものである。左右の基壇とも に最下部は,円形と四角形を組み合わせた模様で構成 されている。背景に花模様,その上に花が表現されて いるマントの作例を単純化したような表現である。  左側のヨハネの扉口(写真12)は,1996∼1998年 にかけて修復工事が行われ,汚れも少ないため,比較 的表現の識別が容易である。また,彩色も見られる。 (写真13)タンパンとヴシュールには,この扉が捧げ られた,洗礼者ヨハネの誕生から始まり,サロメによ る斬首,背教者ユリアヌスの命によりヨハネの墓を暴 く場面,そしてヨハネをはじめとする聖人たちへ捧げ る教会堂の建設までが表現されている。隅切の円柱人 像はやはり破壊されて存在せず,台座のみ復元されて いる。基壇には「美徳と悪徳」が1組,向かい合う形 で表現されている。この「美徳と悪徳」は,「Largitas・ 寛容」と「Avaritia・貪欲」とされており,上部に刻 まれた銘により識別できる。(写真14・15)扉口左側 基壇に「Avaritia・貪欲」(写真16)が表現されている。 磨耗等が進み,細かい表現は判別できない部分もあ る。シナゴーガ(キリスト教会に対するユダヤ教)の ように目隠しのようなものをした性別不明な人物が大 きな箱の上に全体重をかけるような姿勢で座してい る。この大きな箱の中には大金でも入っているのか, それを死守するような格好である。一方,右側基壇に

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写真17 Largitas・寛容 写真18 ラン,西正面 写真19 ラン,中央扉口 写真20 ラン,中央扉口基壇 は「Avaritia・貪欲」に対応する美徳である「Largitas・ 寛容」(写真17)が表現されている。女性と思われる 人物が両手を開いて座している。両側には金が山のよ うに入った宝箱が開いた状態で表現されている。人物 像の顔の左右には冠状のもの,足下には花瓶に入った 花らしきものがシンメトリーに配置されている。両表 現の共通点として,花弁状に配された枠の中に人物像 が描かれている点,その外側に柱頭を伴った柱を表現 している点である。また,この「美徳と悪徳」は凹凸 の関係になっており,重ね合わせると符合するように なっている点も特徴である。  なお,右側扉口は現在修復工事中で調査を行うこと はできなかった。 ④ ラン,ノートル・ダム大聖堂西正面扉口(1195‒ 1205完成)  ランは,パリ北駅から鉄道で2時間近く北上した, ピカルディ地方に位置する都市である。ラン・ノート ル・ダム大聖堂(以下,ラン)は駅前の通りからまっ すぐにのびる長い階段を上りきった小高い丘の上に建 っている。(写真18) ランの建設は13世紀になって からだが,ゴシックの初期を思わせる表現がみられ る。西正面は,多くの大聖堂と同様に,3つの扉口か ら構成されているが,調査時には,ヴシュールに「美 徳と悪徳」の表現がある左側扉口は修復工事中であっ たたため,撮影はできなかった。  中央扉口のタンパンには,サンリス,マントと同様 に「聖母戴冠」が表現されている。場面構成もサンリ スをモデルにしていることがわかる。(写真19)まぐ さ部分に「聖母の死」と「聖母の埋葬」,「聖母被昇 天」が表現されている点,タンパンの,キリストと並 んで座す聖母や上部にあるアーチ状の枠などはサンリ スの「聖母戴冠」の構成とほぼ同じである。ヴシュー ルには「エッサイの木」と旧約聖書に登場する人物が みられる。基壇自体は存在し,扉口から階段状に外側 へ開かれている。(写真20)この基壇の形態は,サン リス,マント,サンス中央扉口と類似している。しか

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写真21 ラン,右側扉口 写真22 ラン,右側扉口タンパン 写真23 ラン,右側扉口基壇 写真24 パリ,西正面左側扉口 し,前述の教会堂の基壇のように表現スペースとして の役割は果たしていない。  右側扉口(写真21)は,タンパンには「最後の審 判」が表現されている。13世紀になると,このテー マは盛んに教会堂の扉口に登場するようになる。パリ やアミアン大聖堂では中央扉口に表現されている。タ ンパン中央には巨大なキリストが両手をあげて右わき 腹の傷を示している。その上を天使たちが磔刑の道具 である十字架などを捧げ持ち,飛んでいる。キリスト の左右には使徒たちが集い,その下には復活した人々 が棺のふたを持ち上げている。(写真22)表現手法は まだ盛期ゴシックのそれとは違い,ロマネスク的であ る。キリストが他の人々と比較しても格段に大きく描 かれている点も特徴的である。ヴシュールには,天使 たち,棕櫚の枝を持つ殉教者たち,聖人たちが描かれ ている。最も外側のアーチには「賢い乙女と愚かな乙 女」が表現されている。左に賢い乙女たち,右に愚か な乙女たちという選別がすでになされているのであ る。基壇(写真23)は,中央扉口と同様存在はする が,表現はみられない。 ⑤ パリ,ノートル・ダム西正面左側扉口(1210‒20 完成)  パリ・ノートル・ダム大聖堂(以下,パリ)はパリ の中心,シテ島に13世紀頃に建てられた大聖堂であ る。西正面中央扉口の基壇には,12組の「美徳と悪 徳」の表現があるが,左側扉口(写真24)にも基壇 に表現がみられた。タンパンには「聖母戴冠」の一連 の物語が表現されている。隅切の下には,三角形の切 妻の下の正方形の枠の中に,主に聖人たちの殉教の場 面などが描かれている。左側基壇(写真25)には,

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写真25 パリ,左側扉口左側基壇 写真26 パリ,左側扉口右側基壇 写真27 アミアン,西正面 写真28 アミアン,右側扉口 「聖ディオニシウスの殉教」,「転落した天使」,「大天 使ミカエルの悪魔退治」の場面が見える。また,右側 基壇(写真26)には,サロメに斬首されている「洗 礼者ヨハネの殉教」,石を投げつけられているステパ ノが描かれる「聖ステパノの殉教」がある。基壇発生 初期には,聖人に関するテーマの表現はみられなかっ たが,13世紀を過ぎると,基壇にはそれまでみられ なかったような表現が出現してきたといえるのではな いか。その点に関して,基壇研究においては看過でき ない重要な作例だと思われる。 ⑥ アミアン,ノートル・ダム大聖堂西正面扉口 (1220‒35年完成)4)  アミアンは,パリから鉄道で1時間半ほどのピカル ディ地方に位置する,ソンム県の県庁所在地である。 駅から徒歩で1キロ程度の中心部にアミアン,ノート ル・ダム大聖堂(以下,アミアン)がそびえたつ。ア ミアン(写真27)は,フランスでも最大規模を誇る 大聖堂である。右側扉口(写真28)はタンパンに「聖 母戴冠」が表されている。アミアンの作例は,パリの ものと似ているが,2段目のまぐさの左側に「聖母の 死」と「聖母の埋葬」,右側に「聖母被昇天」が表現 されている点では,サンリスの影響が大きいといえ る。基壇はどの扉口も上下2段で構成されており,上 下の順に物語が進む。右側基壇には「聖母誕生」,「洗 礼者ヨハネの誕生」,「キリストの幼年時代」の順で物 語が表現されている。(写真29・30,別表①参照)左 側基壇には「東方三博士の歴史」,「ヘロデ王の治世」, 「ソロモン王とシバの女王の治世」が表現されている。 (写真31,32,別表①参照)中央扉口は「最後の審判」 の扉口と呼ばれ,文字通り「最後の審判」が描かれて いる。巨大なキリストがタンパン中央に座し,他の

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写真29 アミアン,右扉口右側基壇① 写真30 アミアン,右扉口右側基壇② 写真31 アミアン,右側扉口左側基壇① 写真32 アミアン,右側扉口左側基壇② 写真33 アミアン,中央扉口,右側基壇 写真34 アミアン,中央扉口,左側基壇 人々が小さく表現されている点はランと共通している といえるが,復活する人々とタンパンの間に,天国行 きか地獄行きかで,人々を選別している場面表現が盛 期ゴシックの審判図の特徴である。左右基壇とも12 組の「美徳と悪徳」が表現されている。(写真33, 34,別表②参照)同様の表現がパリの中央扉口左右基 壇にみられるが,アミアンはパリの作例をそのまま模 倣したといわれている。左側扉口は,通称「サン・フ ィルマンの扉口」と呼ばれ,アミアンの大司教聖フィ ルマンに捧げられている。(写真35)タンパンには聖 フィルマンの聖遺物の物語など,アミアンにまつわる 物語が表現されている。左右の基壇には,人々の労働 によって表現されている「暦」とその上には,その月 のシンボルを表す「黄道十二宮」が描かれている。 (写真36,37別表③参照)  アミアンなど,13世紀の扉口においては,基壇に 具体的なテーマが表現されることはもはや当たり前の ことになった。また,サンリスやサンスにみられたよ

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写真35 アミアン,左側扉口 写真36 アミアン,左側扉口右側基壇 写真37 アミアン左側扉口左側基壇 うな「暦」や「美徳と悪徳」だけでなく,聖母や聖人 の物語など,連続性をもつ表現の出現が特筆すべき点 だと思われる。  なお,アミアンも近年修復工事をした際,当時施さ 前にはみられない。しかし,マントの中央扉口の基壇 の調査によって,左側基壇に施されている花模様の浮 き彫りとサンスの「美徳と悪徳」の縁取りが酷似して いることを発見できた。(写真38,39)両作例とも花 形浮き彫りは8葉の花弁をもっており,それを枠とし て中に表現がみられる点である。扉口から階段状に外 側に向かって広がり,上下に分かれている基壇をもつ サンスの中央扉口がマントの影響のもとで製作された ことはすでに定説となっている。サンスのヨハネの扉 口の基壇にもまた,マントの影響が確認できたことは 大変意義深いことである。  また,サンリス以後に出現した基壇に表現されたテ ーマは13世紀を過ぎる頃になると除々に変化,多様 化していったことがわかった。基壇が出現した12世 紀半ばから後半にかけての表現は,「暦」や象徴的な 花模様,「自由七学芸」,伝説的な動物などのコスモロ ジカルなテーマ,「美徳と悪徳」などの,キリスト教 会も含めて社会全体において高い関心があったと思わ れるテーマが表現されていると考えられる。例として 農作業をする農民の姿で表現されている「暦」につい て考えてみたい。11世紀以前,キリスト教会はアダ ムとエヴァが楽園を追放され,労働をしなくては自分 たちを養うことができなくなった,という聖書の内容 に依拠して,労働を人間に下された天罰とみなしてお り,魂の救済や瞑想的な生活を肉体労働よりも尊いと みなしてきた。その価値観に変化がみられるようにな ったのは,修道院が人里離れた山奥に建てられるよう になってからである。山奥に住む修道士たちは自ら畑 を耕し,自給自足の生活は欠かせないものとなった。 このような労働への価値の高まりは,ゴシックの教会 堂の扉口に「暦」が農作業をしている人々の姿で表現 されていることからもわかるのである。また,12世 紀半ばには教会を中心として哲学や修辞学等の学問が 盛んになった。これも「自由七学芸」として表現され る。さらに「美徳と悪徳」は中世を通して登場するテ ーマであり,教会堂の扉口だけではなく,ステンドグ

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写真38 マント,中央扉口基壇部分 写真39 サンス,ヨハネの扉口,Largitas・寛容 ラス,写本挿絵等にも数多く登場する。特に13世紀 になると,終末思想5)の広まりにより,審判図と結び つけて扉口に表現されるようになる。このように,基 壇発生初期にはキリスト教会も含めた社会的な動き, 関心を反映した表現が多いということがいえるのでは ないだろうか。  13世紀過ぎに制作されたパリの左側扉口基壇やア ミアンの基壇には別の特徴がうかがえる。パリの基壇 には聖人たちの殉教の場面が表現され,アミアンの右 扉口に描かれているのは聖母や洗礼者ヨハネ,キリス トの誕生の物語である。この2つの作例からわかるこ とは,12世紀末までの基壇のテーマとは違い,聖人 の生涯や殉教の場面が描かれるようになったことであ る。この傾向は13世紀半ばになるとさらに進み,サ ンスと同じブルゴーニュ地方にあるオーセール・サン テティエンヌ大聖堂の扉口にはダビデの妻になり,ソ ロモンの母であるバテシバの物語が表現されている。 また,アミアンの基壇は上下に進む物語形式でテーマ が表現されているのも新しい特徴である。  このように基壇に表現されるテーマ,表現方法は 13世紀に入ると変化をみせる。一方で,扉口の上部 に表現されているテーマにはそれほど変化はみられな い。サンリスの「聖母戴冠」の影響は,今回調査した 教会堂の中で最も制作年が後のアミアンにも色濃く残 るし,テーマ自体に変化はない。調査を通して,タン パンなどの扉口上部と比較すると,基壇に表現される テーマは流動的で,誤解を恐れずにいえば,各教会堂 がそれぞれ自由な(程度にもよるが)テーマを設定 し,表現できたのではないか,という仮説が成り立つ と思われる。

4 修士論文における今回の調査の位置づけ,

課題

 報告書冒頭でも述べたが,私は今後,サンス・サン テティエンヌ大聖堂のヨハネの扉口の「美徳と悪徳」 の表現を中心に研究を進め,最終的には修士論文を書 くつもりである。サンスの「美徳と悪徳」に関して は,その同定や簡単な描写程度しか研究が進んでいな い。ここ数年で新たな説も唱えられているが6),サン スの「美徳と悪徳」の図像モティーフやいくつもある 「美徳と悪徳」の組み合わせから,なぜ「Avaritia・貪 欲」と「Largitas・寛容」が選択されたのか,等さま ざまな疑問が解明できたわけではない。よって,修士 論文では,サンスの「美徳と悪徳」の表現とは何か, ということを包括的に考えていきたい。マントの基壇 の影響を指摘はできるものの,サンスの表現の独自性 は近隣,同時代の教会堂のそれと比べても疑問の余地 はない。私は,その点に関しては,イギリスのカンタ ベリー大聖堂となんらかの関わりが指摘できるのでは ないかと考えている。カンタベリー大聖堂とサンスは 関わりが深く,カンタベリー大聖堂とサンスは同じ芸 術家の手によるものである。また,カンタベリーの北 部に位置するスタントン・フィッツワーレンという町 の教会堂の洗礼盤には「美徳と悪徳」の表現がみられ る。この作例が意味するところは,「洗礼」が人の罪 を清め,再生をもたらす,ということである。「洗礼」 と「美徳と悪徳」が結びついた作例がイギリスには存 在することより,カンタベリーやその周辺の教会堂の 扉口などの調査,研究も必要と考える。  また,サンスの「美徳と悪徳」の表現が基壇にある ことは,研究を進める上で大変重要なポイントだと考 えている。先ほど述べた,基壇が「テーマ設定が割合 自由なスペースであった」という仮説を裏付けるに

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おける「美徳と悪徳」のヒエラルキーを調べることが 急務である。同時に中世の社会情勢,当時説教師たち が民衆に対して盛んに行っていた例話を詳細に調査し たいと考えている。例話は民衆に,具体的な話を使い 道徳的教育を施すという役割を果たしていた。その中 にも「美徳と悪徳」について語られている余地はある と考えている。これらをまとめ,分析・考察をし,修 士論文につなげたいと考えている。それにより,今ま で十分になされてこなかったサンスの「美徳と悪徳」 により深い解釈を与えることができると期待してい る。  最後にこの場を借りて,このように貴重な調査の機 会を与えてくださった先生方,調査に関してアドバイ ス・機材等を貸してくださった指導教官の木俣先生に お礼を申し上げたいと思う。 注 1) ここに記した制作年代は,すべて W., Sauerländer, Gothic

sculpture in France 1140–1270, London, 1972年による。しかし

制作年代に関しては諸説あり,エミール・マールは1191年に 献堂されたと定義している。E. MALE, « Le portail de Senlis et son influence », La Revue de l’art ancien et moderne, 1911, p. 161. 2) マ ー ル に よ れ ば,1191年 よ り 少 し 後 に 完 成 し た。Ibid.,

p. 166.

3) 中央扉口の上部(タンパン・ヴシュール)が1268年よりも

kedarは述べている。N., Kenaan-kedar, « Aspects des relations entre « centre » et périphérie » : les cathédrale de Saint-Etienne de Sens et Saint-Jean de Sébaste», Pèlerinages et croisades, Actes du 118e congrès national des sociétés historiques scientifiques, Pau,

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エミール・マール,田中仁彦ら訳『ゴシックの図像学上』,国 書刊行会,1998年.

(13)

(聖母の処女性を表す表現) 1 ネブカドネザルの夢 2 モーセと燃える茨 3 ギデオンの羊 4 アーロンの杖 (洗礼者ヨハネの誕生) 5 ザカリヤの前に天使が現れる 6 洗礼者ヨハネの誕生 7 ザカリヤは話すことができなくなる 8  ザカリヤが板に自分の息子を「ヨハネ」と名づける, と書く (キリストの幼年時代) 9 エジプトへの逃避 10 博士たちに囲まれるキリスト 11 エジプトにおける異教の神々の像が地面に落ちる 12 ナザレへの帰還 (東方三博士たちの物語) 13 ヘロデ王がキリストの誕生の地を尋ねる 14 バラムの星(バラムの予言) 15 夢のお告げにより別の道を通って帰る博士たち 16 ベツレヘムの前に座す人(イザヤの予言) 17 タルシスの住民の船に乗る博士たち 18 ヘロデ王が背水の陣をしく (ヘロデ王の治世) 19 嬰児虐殺 20 船の破壊 (ソロモン王とシバの女王) 21 玉座に座すソロモン 22 寺院の前で祈るソロモン 23 テーブルの前に座るソロモン 24 シバの女王の接見 (美徳と悪徳) 1 剛毅と臆病      7 信仰と偶像崇拝 2 忍耐と怒り      8 希望と絶望 3 穏和と冷酷      9 慈悲と貪欲 4 調和と不和      10 節制と淫欲 5 従順と反抗      11 賢明と狂気 6 堅忍不抜と移り気   12 謙遜と傲慢

(Egger, A., Amiens La Cathédrale peinte, Paris, 2000. pp. 200‒202から転載)

(14)

1 山羊座と12月(豚の屠殺) 2 水瓶座と1月(テーブルについたヤヌス) 3 うお座と2月(魚を焼いて暖をとる人) 4 おひつじ座と3月(二つのぶどうの株の間の地面を耕す人) 5 おうし座と4月(鳥に食べ物を与える若い人) 6 ふたご座と5月( 花を咲かせたバラの樹と洋梨の樹の間に 座る人) 7 かに座と6月(干草刈り) 8 しし座と7月(収穫) 9 おとめ座と8月(小麦の脱穀) 10 天秤座と9月(果物の収穫) 11 さそり座と10月(ワインの醸造) 12 いて座と11月(種まき)

参照

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