• 検索結果がありません。

Microsoft Word - G10「楽苑会」のオペラ活動について(伊藤直子).doc

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Microsoft Word - G10「楽苑会」のオペラ活動について(伊藤直子).doc"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

「樂苑會」のオペラ活動について 伊藤直子 はじめに 1906(明治 39)年 5 月、日本初の私立音楽学校である女子音楽学校の校長を務める山 田源一郎、東京音楽大学本科の卒業を間近に控えた作曲家志望の小松耕輔、東京帝国大学 で英文学を学ぶ小林愛雄の3 人は、日本語によるオペラ創作などを目的とした音楽団体「樂 苑會」を立ち上げた。樂苑會は結成後、1906(明治 39)年 6 月 12 日と翌 1907(明治 40) 年4 月 12、13 日両日の合わせて二度にわたり、創作オペラを中心とした演奏会を主催す る。演奏会は都合2 回だけで終わってしまうが、そこで演じられた作品はそれぞれ重要な 意味をもち、演奏会の果した役割は日本のオペラ受容史上決して小さなものではなかった。 演奏会のプログラムは当時のオペラ受容のあり方をストレートに反映するものであり、ま た樂苑會を組織した3 人のメンバーはその後長きにわたり日本の音楽界をリードしていく ことになる。本稿の目的は、日本のオペラ受容史においてこれまで顧みられることの少な かった樂苑會主催の演奏会の内容を出来る限り明らかにし、オペラ受容史における位置づ けを図ることにある。その過程において、日本のオペラ受容における特殊性や問題点など も浮き彫りにされることだろう。 1.樂苑會の頃−社会的・文化的状況(1) 樂苑會が結成された1906(明治 39)年頃の日本は、1904(明治 37)年から 1905(明 治38)年にかけて繰り広げられた日露戦争が終結したばかりで、日清・日露戦争と続く戦 勝気分の中にあったといえる。両戦争によって日本国民の眼は外国に向けられ、列強の仲 間入りを果したとの意識も高まっていった。戦争景気に沸き返る一方で、株の大暴落から 戦後恐慌も始まり、東北地方は1906(明治 39)年 2 月大規模な飢饉に見舞われ、足尾銅 山では 1907(明治 40)年暴動が発生する。日露戦争はポーツマス講和条約をもって終わ ったが、以後1910(明治 43)年の日韓併合までの間、帝国主義的色彩はいっそう濃くな っていったのである。 日露戦争はジャーナリズムの隆盛を促したとされる。新聞の購読者数増加は、人々が戦 況を刻々と伝える記事を求めたためである。雑誌の創刊も相次いだ。その結果、新聞・雑 誌を舞台に小説や詩の発表が活発になされるようになった。文壇では田山花袋、国木田独 歩、島崎藤村らの自然主義文学が主流となり、詩壇では蒲原有明『春鳥集』(1905〈明治

(2)

38〉年)、伊良子清白『孔雀船』(1906〈明治 39〉年)、薄田泣菫『白羊宮』(1906 年)に 代表されるように、新体詩風の文体による象徴主義的あるいは耽美的な作品が流行した。 詩の翻訳も活発に行われ、そのうち最も豊かな収穫とされたのは1905(明治 38)年刊行 の上田敏の訳詩集『海潮音』である。明治の言語状況全般について見ると、樂苑會の頃は、 明治 10 年代末に提唱された言文一致運動がピークを迎えた時期に相当する。明治期は社 会的変動の大きさもさることながら、言葉の世界においてもその変遷はダイナミックなも のであった。種々の新しい動向に揺れたのは演劇界も同様で、1904(明治 37)年の坪内 逍遙による「新楽劇論」発表、1905(明治 38)年 9 月に欧州から帰国した島村抱月と坪 内逍遙による1906(明治 39)年の文芸協会発足など、重要な動きが見られ、翻訳劇の上 演も活発化していく。美術界においてもこの時期は創作の高揚期とされ、洋画の「白馬会」 の活動は目覚しく、また1907(明治 40)年には第 1 回文展が開催されている。そして同 時代の西欧における総合芸術の思潮に影響を受けて、文芸誌『明星』(1900〈明治 33〉年) や美術文芸誌『方寸』(1907〈明治 40〉年)といった雑誌が創刊されたことも特筆すべき ことである。 音楽の世界に眼を転ずれば、世紀転換期の日本において、音楽といえば唱歌が真っ先に 挙げられるほど、学校教育の現場では唱歌教育が盛んとなり、続々と唱歌集が編まれた。 1905(明治 38)年には日比谷公園内に音楽堂が完成し、以降陸海両軍軍楽隊が交代で月 2 回演奏会を開き、東京市民に音楽を提供することになる。それによって、従来東京音楽学 校によって主に営まれ、一部の文化人だけが享受していた洋楽が、編曲された形とはいえ、 一般市民の耳にも届くようになったのである。音楽熱の高まりもあって、音楽鑑賞団体が 多く結成され、演奏会が開かれるようになったのも明治末期の音楽界の特徴である。1903 (明治36)年東京音楽学校生によってグルックの《オルフォイス》が日本語訳によって上 演されたが、これは日本人による初の本格的なオペラ上演としてオペラ受容史に残る画期 的な出来事であった。ヴァーグナー賛美を背景として、日本人の手によって音楽劇が創作 されるようになったのもこの頃である。日露戦争下の1904(明治 37)年に発表された北 村季晴の《露営の夢》、日本神話に材をとった坪内逍遙台本・東儀鉄笛作曲による1906(明 治39)年の《常闇》である。1906 年には、日本のオペレッタ受容に大きな影響を与える ことになるバンドマン喜歌劇団が初来日している。 2.樂苑會の成立

(3)

樂苑會の成立を知るためには、その母体である「音楽新報社」についてまず触れなけれ ばならない。音楽新報社は1904(明治 37)年 2 月、山田源一郎(1869−1927)とキリス ト教伝道師で賛美歌と唱歌の普及を目指す酒井勝軍(1874−1940)によって創業され、2 月 23 日に月刊誌『音楽新報』を創刊した。雑誌発行に際して小松耕輔が編集人として呼 ばれ、その後すぐに小林愛雄も同人として参加するようになった。『音楽新報』創刊号の巻 頭言は同誌発刊の主旨として、「理想的社会の要因たる音楽」の社会的地位および発言権の 欠如に鑑みて、音楽活動の活発な推進を図るよう唱っている(2。『音楽新報』は明治・大 正期の音楽雑誌と同様に、紙面は論文、楽典、西洋音楽の紹介、音楽エッセー、音楽会評、 音楽会案内、人物動向、新曲紹介などから構成され、洋楽、邦楽を問わず様々なテーマが 扱われている。創刊号の表紙にはDie Musik の文字とともに、竪琴を弾く女性が描かれ、 それ以降も毎号ユーゲントシュティール風のデザインによる楽器をもつ女性像が表紙を飾 っている。音楽新報社は雑誌の発行だけでなく、1906(明治 39)年 5 月に樂苑會を興し、 また同年8 月には上田敏、東儀季治らを招いて音楽講演会を開催するなど多彩な活動を展 開した。 中でも樂苑會の活動に音楽新報社の事業の重点が置かれた。1906(明治 39)年の『音 楽新報』第3 巻 6 号の巻頭には樂苑子の筆により、会の抱負として、従来の俗受けする音 楽会を打破するために趣味高尚なる曲目を選び、その選択に当たっては音楽的価値を第一 とすること、会費は低額に抑えて若者の参加を希望すること、オペラ上演は訳詞による西 洋オペラと日本語による創作オペラの2本立てとすること、日本古楽の保存および新楽の 創作を行うこと、などが記されている(3。樂苑會成立には、当時のヴァーグナー熱、坪内 逍遙の「新樂劇論」発表、東京音楽学校による《オルフォイス》公演、《露営の夢》の創作 などが少なからず影響を及ぼしたことだろう。 『音楽新報』は1908(明治 41)年になると、山本正夫主宰の『音楽』誌と合併し、『音 楽界』と改称して刊行が続けられた。 ここで3 人の発起人のプロフィールを簡単に記しておきたい。 山田源一郎(41869(明治 2)年東京に生まれ、1884(明治 17)年音楽取調掛に入学 して音楽を学んだ。1887(明治 20)年に本邦初の弦楽四重奏団が編成された際には第 2 ヴァイオリンを務めている(第1 ヴァイオリンは幸田延子)。1889(明治 22)年東京音楽 学校本科専修部を卒業すると、師範学校を初めとして様々な教育機関でとくに唱歌、音楽 教育の教鞭をとり、1903(明治 36)年に音楽指導と幼稚園教員養成機関である「音楽遊

(4)

戯協会」を創立、1906(明治 39)年には日本初の私立の音楽学校である「女子音楽学校」 を設立して校長となった。その間多くの唱歌集が山田の手によって編まれている。1898(明 治31)年には本邦初の民間管弦楽団体「明治音楽会」の設立メンバーにもなった。音楽教 育と音楽普及に捧げた人生は1927(昭和 2)年終わりを迎えた。 小松耕輔(51884(明治 17)年秋田に生まれ、1901(明治 34)年東京音楽学校に入 学しピアノと作曲を主に学んだ。1906(明治 39)年本科卒業後は研究科で学びながら、 学習院で教鞭をとり、その傍ら作曲・評論・翻訳活動を行った。作曲では樂苑會用に《羽 衣》と《靈鐘》のオペラを手掛けたほか、数多くの唱歌、童謡、校歌を残している。《椿姫》 《フラ・ディアボロ》《ファウスト》などのオペラの訳詞もある。1920(大正 9)年 9 月、 小松は学習院在職のまま欧米遊学に赴いた。1923(大正 12)年 3 月に帰国、その後 1927 (昭和 2)年には理事長を務める「国民音楽協会」により日本初の合唱コンクールが開催 され、現在でも続いている。小松は合唱運動を中心とした音楽教育に尽力するとともに、 フランス音楽史や作曲技法、楽典、民衆音楽論など数々の書籍を著し、1966(昭和 41) 年亡くなった。 小林愛雄(61881(明治 14)年東京で生まれ、東京帝国大学英文科に学んだ。在学中 から上田敏主宰の『芸苑』同人になり編集を担当したり、1907(明治 40)年に卒業した 後は『帝国文学』の編集委員も務めている。西洋の詩の翻訳を数多く手掛けたほか、帝劇 やローシー館におけるオペラ・オペレッタ上演に際してはそのほとんどの作品の訳詞を行 い、日本におけるオペラ普及に大きな貢献を果した。その後一時、女学生や工場労働者の ためにオペラを書いた時期もあったが、生涯にわたり書き続けたのは唱歌、童謡、校歌・ 社歌などの作詞である。その一方で英語教師としていくつかの学校で教鞭をとり、早稲田 実業学校などの校長を務めながら、オペラ、演劇、英文学、英語教育など多岐にわたる著 作を世に問うている。また著作権保護運動の推進者としても知られ、1925(大正 14)年 には著作権擁護のために「日本作歌者協会」を設立した。1945(昭和 20)年疎開先の箱 根で死去した。 以上、樂苑會のメンバー3 人のプロフィールを簡単に挙げたが、それぞれ活動の場は広 く、作品数も少なくない。3 人の共通項を挙げるならば、教育者の顔をもっていることで、 唱歌をベースにしていることからも分かるとおり、音楽の啓蒙や普及が常に念頭にあった。 個による芸術の追求以上に、社会の要請に即して音楽活動を遂行したという印象が強い。 換言すれば、それは欧米列強と並ぶために洋楽の摂取を必要とした明治国家の要請でもあ

(5)

った。彼らに何が求められていたかについては、山田が1894(明治 27)年から 1901(明 治 34)年にかけて軍歌集を数多く編纂したことや、小松の《乃木大将の歌》作曲(1912 〈大正元〉年)、小林が理事長を務める「日本作歌者協会」による『皇紀二千六百年奉祝歌 謡集』発行(1940〈昭和 15 年〉年)といった事柄のうちに端的に窺えよう。 3.演奏会のプログラムと上演の実際 ここでは樂苑會が主催した2 度の演奏会について、プログラム、出演者、上演状況、音 楽会評などを通して上演の実態の把握に努めたい(7。なお「玉慶」などは芸名である。 1)第 1 回−1906(明治 39)年 6 月 2 日、神田基督教会館、19 時開演、入場料 25 銭(8) ・開演の挨拶−小林愛雄 ①《都良香》−平木白星台本、山田源一郎作曲、二部合唱 ②ベートーヴェン《月光ソナタ》−ピアノ・小林禮 ③《御山獅子》−尺八・鎗田倉之助、伴奏三絃・川瀬さと子 ④《ヰゲンリイド(Wiegenlied 子守唄、と思われる)》他1 曲−歌・鈴木のぶ子 ⑤《おぼろ夜》−琴・加藤五十和、松川一和 ⑥マンドリン演奏の予定であったが、楽器故障のため中止 −休憩− ⑦ショパンの作品−ピアノ・天野愛子 ⑧ベートーヴェン《ヴァイオリン・ソナタ》−ヴァイオリン・東儀哲三郎 ⑨《けしの花》−尺八・鎗田倉之助 ⑩《ラルゴ》−歌・鈴木のぶ子 ⑪《夕顔》−琴・加藤五十和、松川一和 ⑫《羽衣》(全1 幕)−小松玉巖(耕輔)台本・作曲 配役−天女・朝比奈とく(ソプラノ)、伯良・斎藤佳三(テノール) 合唱−女子音楽学校、東京高等師範学校、日本音楽協会の学生ら 管弦楽−10 余名 振付−市川團子(後の市川猿之助) 背景−平井武雄 この日のプログラムは器楽、独唱、合唱、そしてオペラと多彩な演目によって組まれて いる。しかも楽器演奏は洋楽と邦楽双方である。最初に演じられた《都良香》の台本を書

(6)

いた平木白星(1876−1915)は逓信省職員として務めながら『明星』などに新体詩を発表 していた詩人で、劇詩にも関心を抱いていた。 プログラムのメインである《羽衣》は台本、作曲とも小松耕輔による作品で、小松自身 の解説(9によると、謡曲の『羽衣』に材をとり、オリジナルの内容に違えるところはな いが、舞台上・音楽上わずかに工夫を凝らしたという。台詞はいっさい含まれず、独唱、 重唱、合唱によって舞台は進行する。前奏は第1・第 2 ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、 フルートによる編成とされ、その後の歌唱部分ではピアノまたはオルガンの伴奏付きとな り、合唱は舞台外でナレーションを受け持つ。全体はハ長調、四分の4拍子で、同一の旋 律が繰り返されるなど、単調に感じられるのは当時としては仕方のないことかもしれない。 台本の表現を謡のそれと比べてみれば、冒頭の情景描写の後で、謡では「われ三保の松原 に上り。浦の景色を眺むる處に。虚空に花振り音樂聞え。靈香四方に薰ず。これただこと と思はぬ處に」(シテ)(10とあり、小松の台本では伯良の独唱で「あやしやな。虚空に花 ふり、音楽聞え、靈香四方にみちわたる」(11と歌われる。双方の間に大きな相違のないこ とが分かるが、その反面七五調の台本に付曲する際の困難が想像されるのである。 天女役の朝比奈とくは山田源一郎が当時校長を務めていた女子音楽学校の生徒であっ た。伯良役の斎藤佳三(1887−1955)(12は小松耕輔と同郷で、東京音楽学校と東京美術 学校双方で学び、テノール歌手として舞台に立つとともに、ローヤル館のオペラ上演では 装置を担当した。その後ベルリン留学を経て、商業・インテリア・服飾デザイナーとして 幅広く活動した。 「毎日新聞」の評(13によると、当夜の座席は立錐の余地なく、《羽衣》に対する聴衆の 期待は非常に大きかったらしい。歌詞は謡曲に沿っていたために整って聞こえたが、あと 一息と思う箇所も少なからずあり、音楽については平板であるために「エキスプレッショ ンが充分でなくなり」、聴衆の心を動かすことができなかったという。合唱と伴奏は余り調 和しておらず、独唱に対して強過ぎ、歌詞も良く聞き取れなかったらしいが、独唱の2人 に対しては欠点を指摘しつつも激励の言葉を向けている。《羽衣》においては舞が重要な要 素であるが、『音楽新報』の評(14によれば、「些かのよどみもみとめざりし」と、振付の 市川團子の功績を讃えている。日本人は元来耳よりも目に慣れやすいため、振事がオペラ にあっても留意の中心となる傾向にあると、評者は指摘する。 2)第 2 回−1907(明治 40)年 4 月 13・14 日、牛込高等演芸館、午後 7 時開演、入場料

(7)

15) ・開演の挨拶−山田源一郎 ①グノー《ミレイユ》序曲−吹奏楽・陸軍戸山学校軍楽隊(指揮・山本銃三郎楽長) ②歌劇《靈鐘》(第2 幕のみ)−小林愛雄台本、小松玉巖(耕輔)作曲 配役−旅僧妙海・玉響(斎藤佳三、テノール)、花の江・初音子(朝比奈とく、ソプラ ノ)、主僧・曲陽(バス)、寺僧2人・桂城と澤泉(澤崎定之)(テノールとバス) 合唱−女子音楽学校、東京高等師範学校音楽部有志ら50 余名 管弦楽−陸軍戸山学校軍楽隊と有志ら 振付−市川團子 背景−岡吉技 ③パントマイム『影法師』(全1 幕)−小林愛雄作、澤田柳吉作曲 配役−漁夫の娘・藤花、漁夫・奥洲、牡蠣売り・筑紫 ④グノー《ファヴォリット》抜粋−吹奏楽・陸軍戸山学校軍楽隊 ⑤グノー《ファウスト》第1 幕〈書斎の場〉−永井建子編曲、小林愛雄訳詞 配役−ファウスト・永井人籟(永井建子)、メフィストフェレス・露山(春日嘉藤治)、 マルガレーテ・愛子(マリー・イーストレーキ) 合唱−女子音楽学校生、東京高等師範学校音楽部有志ら 管弦楽−陸軍戸山学校軍楽隊 ⑥邦舞『浦島』−13 日は市川團子が歌舞伎座出演の都合で出演できず長唄の演奏のみ、 14 日は藤間勘右衛門が上演。 これらの演目のうち、まず目を引くのはパントマイムの上演である。『影法師』は漁夫 の娘と牡蠣売りが川を隔てつつも心を通わせ、厳格な父親の目を忍んで両岸から泳ぎ寄ろ うとしているうちに2 人とも水に溺れて死んでしまうという話で、海底を幻灯で見せたり 工夫を凝らした影絵による舞台で、日本における最初のパントマイム上演とされている。 これは、帝国劇場の招聘でイタリア人振付師ローシー(1867−?)が 1912(大正元)年 に来日し、1914(大正 3)年 6 月興行で黙劇『金色鬼』を演じる以前のことである。『影 法師』の音楽を作曲した澤田柳吉(1886−1936)は東京音楽学校でピアノを学び、ショパ ンを得意とした。彼が1912(大正 2)年 2 月に「音楽奨励会」で行ったショパン演奏は個 人リサイタルの最初とされ、また浅草オペラが始まった頃の1918(大正 7)年 2 月には浅 草日本館においてハッピ姿でベートーヴェンの《月光ソナタ》を演奏したとのエピソード が伝えられている(16

(8)

《ファウスト》は日本語による訳詞上演で、小林愛雄が初めて手掛けたオペラの訳詞で ある。本上演に際しては、東京音楽学校における1903(明治 36)年の《オルフォイス》 の訳詞上演が先例として大きな刺激となったことだろう。さらに《ファウスト》に関して は、1894(明治 27)年に東京音楽学校奏楽堂で在日外国人を中心とした赤十字慈善音楽 会が開催された折、〈書斎の場〉が上演されている。グノーの音楽は東京音楽学校の定期演 奏会でも器楽曲を中心に何度か演奏されているが、この樂苑會の公演後になると、抜粋で はあるが《ファウスト》がプログラムに散見されるようになる(17。ゲーテの『ファウス ト』については森 鷗外 訳(1913〈大正 2〉年)以前すでに何度か文芸雑誌に翻訳が掲載さ れたり、単行本として出版されたりしており(18、ある程度人口に膾炙していたと思われ、 オペラの《ファウスト》に対してもそれほど抵抗感がなかったのではないかと推測される。 小林によると、訳詞はフランス語とドイツ語を参照しながら楽譜に合わせて行ったという (19。冒頭のファウストの独唱は「ああ、無益む だなれや、懶ものうき夜に神を呼べど、わが耳に慰藉なぐさめ の、響だになし。などて、われ、幾いく日ひ夢にああ求めし? 苦にがき憂悩な や み光おほひぬ、愚かやな。 何見し、何知る。ああ、ああ」(20と始まり、当時流行していた新体詩風の表現の影響を強 く受けていることが分かる。 当日の上演は、ファウストとメフィストフェレスを演じるはずの2 人がそれぞれ咽喉カ タルとインフルエンザのために出演できず、急遽永井、春日両氏の出演が決まった。非常 に急なことだったため、2 人は前半部分だけを演じて、後半は活人画に移行した。マルガ レーテ役のマリー・イーストレーキは、日本に永住したアメリカ人の言語学者にして英語 教師の F.W.イーストレーキ(1858−1905)と日本人の妻との間の娘である。彼は松居松 葉や二葉亭四迷などを指導したことでも知られている。《ファウスト》上演については歌手 のことだけなく、13 日の公演では強風のために背景が倒れて演奏が一時中断するなどアク シデントが多かったため、批評は芳しくなかったが、満場の喝采に湧いたという。 《靈鐘》については次項でやや詳細に紹介をしたいと思う。 なお開場となった牛込高等演芸館は当時唯一の洋風劇場で、地下室にはバーも設けられ ていた。第2 回公演では 1 階席が満席で、2 階席は全員立ち見での視聴となった。盛況の うちに終了した樂苑會演奏会であるが、経済的な理由と世話人たちの極度の疲労により、 第3 回目の演奏会はついぞ開かれることはなかった。 4.《靈鐘》について

(9)

小林愛雄が台本を書いた《靈鐘》(21 2 幕から成るオペラで、小林や小松耕輔22 よれば、道成寺物ともいえるこの物語は琉球あるいはインドの古劇に由来するという。登 場人物は旅の僧である妙海(テノール)、彼を慕う花江(ソプラノ)、花江の父の磯秋(バ ス)、主僧(バス)、寺僧(テノールとバス)、そして天使数人(ソプラノ)である。第 1 幕「磯回の夢」は春の浜辺が舞台である。深山に通じる洞門が近くにそびえる浜辺に横た わる花江の前に昔知る妙海が修業中道に迷い現れ、2 人は心惹かれる思いがするものの、 妙海は仏門に帰依する身ゆえに立ち去ろうとする。花江は狂ったように彼を追いかけるが、 一瞬のうちに姿を見失ってしまう。第2 幕「鐘塔の魔」は険しい山中にそびえる寺院の境 内を舞台とし、時はあたかも夜、2 人の僧が鐘をつき終わったところに妙海が走ってやっ て来る。花江の気配を感じると、妙海は鐘楼の中へ逃げ隠れ、花江も父が来たのを察して 鐘の中へと身を隠す。嵐は激しくなり、僧侶たちの読経の響きが鳴り渡る中、形相を変え た花江は妙海を摑 み上げると、2 人は昇天する。樂苑會の公演では第 2 幕のみ舞台に掛け られた。 歌詞の表現について、上演された第2 幕から一例を挙げてみよう、花江に追われて山寺 に逃げ込んだ妙海は「さればよ、彼方の濱にゆきくれ、憩ひし浦屋のわかき女めは、往昔そのかみ故郷さ と に稚兒の友、驚き喜びわれを止め、はからず夢路たどりしが」(23と歌う。七五調を基本と した歌詞である。上演の見送られた第1 幕には同様の比較的長い歌詞が数多く登場するが、 第2 幕においては劇的効果を高めるためか、全般に歌詞は短く、やがて僧侶たちによって 「南無大菩薩!」と何度か繰り返されたあと、「東方に降かう三さん世ぜみょうおう明 王」「南方に軍ぐん茶使だ り夜叉や し ゃ 明 王 みょうおう 」など各方位の神々への祈りが続き、最後に「曩な謨まく三さ曼まん多だ囀ば日さ羅ら南だ…」(24と合唱が 響き、幕となる。 小松耕輔がこの第2 幕に作曲を行った。楽譜は出版を予定していたが、原稿を共益商社 に渡してそのままになっていたところ、恐らく関東大震災で焼失したらしく、小松の手許 に控えがなかったこともあり、楽譜は残念ながら残っていない。『音楽新報』に小松自身に よる《靈鐘》の音楽解説(25が掲載されているので、それを参考に音楽の流れを見てみた い。序奏は変ホ長調、四分の4拍子、モティーフを畳み掛けるようにして幽玄な春の夜を 表した音楽で、弦四部によって演奏され、序奏が終わる頃に幕が開く。その後は調も拍子 もテンポも変化に富んだ進行となり、最後の読誦の部分では初めはト長調、四分の3 拍子 で厳格に歌われるものの、「曩謨三曼多囀日羅南」の部分でテンポは急転加速し、伴奏も狂 奔するごとくに響き、コーダでは高音の強い旋律に対して、低音部はワルツのテンポが用

(10)

いられ、豪宕な趣のうちに終幕となる。台詞は一切ないが、《羽衣》とは異なり、多少レチ タティーヴォを加えたという。音楽全体も《羽衣》の穏やかさとは異なり、変化に富んで いるように想像される。 《靈鐘》に対しては様々な批評が寄せられた。『音楽新報』に転載された各批評(26によ ると、発声、衣裳、動作、背景などへの批判・注文とともに、「全局の趣向凡て国劇式にし て一般の会得に協ふは尤も嬉し」(東京毎日新聞)、「音楽の方は洋楽を聴きなれぬ人々に 対すのだからと思て聊か心配して居たが却てよく調和がとれて少も異様の感がせなかつた 手際は賛めたい」(日本新聞)、「芸術として未成である代りに何等か新意を求めようとして 居る富来の劇の芽生えである」(都新聞)など好意的なものから、「愚劣極まれるものにし て、其音楽上の価値は勿論科白とともに何の感興をも惹かず」(東京日日新聞)といった手 厳しい批評まで様々である。また、花江役の朝比奈とくに対しては概ね賛辞が寄せられた。 《靈鐘》は『道成寺』の系譜に連なる作品であるが、台本の細部に目をやれば、同時代 のヨーロッパ世紀末芸術のイメージを髣髴させる箇所にしばしば出会うことになる。主人 公の花江は第1 幕冒頭、春爛漫の桜の枝の下に長い髪をなびかせながら夢見がちに横たわ っているが、ここにまずラファエル前派の絵画に典型的な女性像を重ねることができる。 花江の周りでは花環をもった天使たち数人が舞い踊っているが、純日本的な山海の風景の 中に天使が登場すること自体、思えば奇妙な光景である。そして花江が狂乱のうちに髪振 り乱して妙海を追い詰め、命を奪うところは、さながら「宿命の女」「魔性の女」そのもの である。背景にはインドの仏塔が描かれていたというが、仏教的要素もここではエキゾテ ィシズムの趣をもち、寺院の佇まいも神秘的に見える。その他、風景や人物の耽美的な描 き方、花の装飾性など、西欧芸術との同時代性は明らかである。小林は英文学徒として、 世紀末の文学を知悉していたことはもちろんのこと、当時文学と不可分の関係にあった美 術についても造詣が深かったのではないだろうか。そうした芸術理解が《靈鐘》の台本執 筆の際にも影響を及ぼしていたのではないかと推測される。 樂苑會で上演された演目には不思議な共通点がある。《靈鐘》の第 1 幕、《羽衣》、パン トマイムの《影法師》、邦舞の《浦島》が海を舞台としたり、漁師を主人公にしたりしてい ることである。海の浪漫性や神秘性、水のせせらぎ、波の文様、異界としての海、この世 ならぬ女性像、そうした要素もまた西欧の世紀末芸術に散見される特徴である。さらに『音 楽新報』は1905(明治 38)年 8 月に別冊盛夏号を「 海うみの音ね」と題して発行し、上田敏、薄 田泣菫、岩野泡鳴、蒲原有明らの詩歌を掲載した。同じ頃、青木繁が海を題材として「海

(11)

の幸」(1904〈明治 37〉年)や「わだつみのいろこの宮」(1907〈明治 40〉年)を描き上 げたことも興味深い事実である。 5.創作オペラと訳詞オペラ 以上見てきたように、樂苑會の設立当初の目的である日本語による創作オペラと訳詞に よる西洋オペラの上演は何とか実現をみた。両者は日本のオペラ受容において欠くことの できない要素であり、その先駆となった点で意味のある公演であったと思われる。そして そこには樂苑會メンバーのオペラ観が当然のことながら反映され、さらにまた日本独自の オペラ受容のあり方、問題点も浮かび上がってこよう。 まず第一に創作オペラの題材であるが、樂苑會においては日本古来の能、歌舞伎、舞踊 でよく知られた『羽衣』と『道成寺』に依拠して《羽衣》と《靈鐘》の台本が書かれ、邦 舞『浦島』も同時に演じられた。台本を担当した小松耕輔と小林愛雄がなぜこれらの素材 を用いたかについては具体的に明らかにしていない。小林は後にヴァーグナーを例に、オ ペラの題材を「神話や伝説や物語や童話等」から取ると、今日的なテーマを用いた場合に 陥りがちな普通の劇化への恐れや、散文的なものへの傾斜から比較的容易に脱することが できると述べている。さらに伝説や物語から題材をとる場合、そこに「芸術上の余韻余情」、 そして連想が生じるので聴衆の興味を引きやすいと強調している(27。散文的要素の排除 が求められるのも、小林が詩と音楽の融合をオペラ製作の要に据えていたためであろう。 さらに『浦島』とパントマイムを同時に上演したことについては、坪内逍遙の「新楽劇論」 の影響を強く感じる。逍遙はヴァーグナー受容を背景に国劇刷新の必要性を訴え、とくに 「振事」を基礎として新しい国劇を起こすよう求めている(28からである。 さらにヴァーグナー熱の醒めやらぬ時代にあって、オペラ製作者らを駆り立てていたの は総合芸術への夢であり、日本の古典芸能のうちに総合芸術の跡を辿るとすれば、謡、舞、 囃子を見事に一体化した能楽に行き着くのは当然のことのように思われる。その後の帝国 劇場において《熊野》がオペラ化されたのも同様の思いがあってのことだろう。ただし小 松は、能を焼き直してオペラ化すべきであるとの意見には苦言を呈し、あくまでも西洋オ ペラを範として日本のオペラを組織し、その後取捨選択をしていく中で、作者の手腕によ り国民性も発揮できようと述べている(29。山田源一郎もまた、明治の国民性に相応しい 音楽は従来の三絃楽ではなく、「欧洲楽を玩味し、咀嚼し、醇化し、善導して」自分のもの とした音楽であると強調する(30

(12)

第二に従って、音楽の問題が挙げられる。古典をモティーフとして、当時の詩壇の主流 であった新体詩風の言葉によって織り上げられた台本、それ自体は文学的にも芸術的にも 豊かな財産と見なされよう。西欧の世紀末芸術と連動している点も見逃せない。それでは そうした台本にはどのような音楽が果して相応しいのだろうか。山田がいう「欧洲楽を醇 化したもの」であろうか。小松は洋楽風に付曲したが、音楽と言葉が一体となって聴衆の 耳にすんなり届いたのだろうか。歌詞の流麗さに対して、音楽は非常に素朴な印象を受け るのだが、オーケストレーションを施したとしても簡素さは解消されることはないだろう。 樂苑會のオペラ活動におけるもう一つの柱であった訳詞によるオペラ上演は、その後も 帝劇、ローヤル館において小林愛雄を中心に展開された。西洋の芸術を理解するに当たり、 翻訳はとくに明治から大正期にかけて不可欠の作業であり、文語から口語に至る明治期の 言語政策とも関連する重要な事業である。そういう意味において、東京音楽学校における 《オルフォイス》に引き続いて、オペラの訳詞上演に端緒を開いた《ファウスト》公演は 非常に意義深い出来事であったと思われる。 終わりに 樂苑會の公演プログラムの内容は2 回とも現在の私たちの目には雑然としたものとして 映る。しかしそこで展開された西洋のオペラと日本のオペラ、日舞と洋舞、軍楽隊による 吹奏楽と管弦楽、邦楽と洋楽といった異なるジャンル・演奏形態の並存自体、当時の日本 の音楽状況を如実に反映しているように思われる。翻って現在の音楽状況を見れば、演奏 会はほとんどの場合ジャンルごとにすみ分けがされているものの、洋楽と邦楽が並存して いる事実に変わりはない。そうした音楽の二面的構造あるいは重層性こそが明治以来の日 本の音楽シーンを決定づけてきた特徴であり、宿命ではないだろうか。 音楽の二面的構造が孕む矛盾をもっとも明瞭に浮き彫りにするのが、日本語による創作 オペラの領域であり、樂苑會の時代から現在に至るまで、それは根本的に変わらないよう に思われる。とくに明治期の初期オペラの創作においては、古典芸能の影響の未だ強い時 代にあって、洋楽受容は時代の要請でもあり、本来創作の根底にあるはずの芸術性の追求 以前に啓蒙や普及など多くのことが求められた。西洋と日本、芸術と制度などの狭間で、 オペラ製作者たちは困難を窮めたことだろう。樂苑會の公演後、小松耕輔と小林愛雄が創 作オペラの分野から離れていった背景にも同様の煩悶があったに違いない。

(13)

註 旧漢字・旧仮名遣いは原則として固有名詞および作品の引用の際使用した。楽曲名は原 則として当時の表記に従ったが、作曲者名については現在の表記とした。 (1)当時の社会・文化状況については主に以下を参照。 『近代日本総合年表 第二版』岩波書店、1984 年。 増井敬二『日本オペラ史∼1952』水曜社、2003 年。 井口和起『日露戦争の時代』吉川弘文館、1998 年。 山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、2005 年。 (2)『音楽新報』第 1 巻第 1 号、1904 年、1−2 頁。 (3)樂苑子「樂苑の新音」『音楽新報』3 巻 6 号(1906 年)所収、3−5 頁。 (4)山田源一郎の伝記的事項については、日本音楽学校編『音楽教育への挑戦−日本最 初の私立音楽学校誕生物語』(2003 年)を参照。 (5)小松耕輔の伝記的事項については以下を参照。 小松耕輔『音樂の花ひらく頃』音楽之友社、1952 年。 小松耕輔『わが思い出の楽壇』音楽之友社、1961 年。 山口篤子「国民音楽協会と合唱音楽祭の初期事情−小松耕輔の民衆音楽観を中心に」『阪 大音楽学報』第3 号(2005 年)所収、1−16 頁。 (6)小林愛雄の伝記的事項については以下を参照。 中村喜久子「小林愛雄評伝」『學苑』1964 年 2 月号所収、28−39 頁。 平井法「小林愛雄」『近代文学研究叢書』第56 巻所収、昭和女子大学近代文化研究所、 1984 年、336−399 頁。 中林良雄「訳詩家小林愛雄のこと」『明治翻訳文学全集《新聞雑誌編》10 ワイルド集』 所収、大空社、1996 年、353−378 頁。 (7)演奏会のプログラム、出演者、上演の実際については主に以下を参照。 小林愛雄『現代の歌劇』學藝書院、1919 年、97−99 頁。 遠藤宏『明治音楽史考』有明堂、1948 年、348−350 頁。 小松耕輔『音樂の花ひらく頃』46−49 頁、58−61 頁。 小松耕輔「劇音楽の胎動」『音楽芸術』1956 年 8 月号所収、24−28 頁。 増井敬二『日本オペラ史∼1952』

(14)

樂子「樂苑會第1 回演奏会聴聞記」『音楽新報』第 3 巻第 6 号(1906 年)所収、32−33 頁。 つゆまろ「樂苑會第2 回歌劇大会記事」、樂苑子「歌劇大会雑話」『音楽新報』第 4 巻第 5 号(1907 年)所収、5−8 頁。 (8)当時の物価はたとえば、食パン 1 斤 10 銭、とんかつ 12 銭、映画館入場料 20 銭、1927 (昭和2)年創刊の「岩波文庫」20 銭で、1911(明治 44)年開場の帝国劇場の入場料は 5 円から 20 銭の間で設定されていた(週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史』朝日 新聞社、1981 年)。 (9)小松耕輔「例言」『歌劇羽衣』修文館、1906 年。 (10)『羽衣』佐成謙太郎『謡曲大観第 4 巻』所収、明治書院、1954 年、2487 頁。 (11)小松耕輔『歌劇羽衣』1 頁。 (12)斎藤佳三の伝記的事項については以下を参照。 『「総合芸術」の夢 斎藤佳三展』図録、有楽町朝日ギャラリー、1990 年。 『斎藤佳三の軌跡−大正・昭和の総合芸術の試み−』図録、東京藝術大学大学美術館、 2006 年。 (13)『毎日新聞』1906 年 6 月 4 日付け。 (14)樂子「樂苑會第 1 回演奏会聴聞記」『音楽新報』第 3 巻第 6 号(1906 年)所収、33 頁。 (15)第 2 回公演の入場料および公演の休憩時間については不明。 (16)増井敬二『日本オペラ史∼1952』118、139 頁。 (17)1907(明治 40)年以前に東京音楽学校で演奏されたグノーの作品は以下の通り(東 京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 演奏会篇第1 巻』音楽之友社、1990 年)。

《ヲ、レヂナ、デヰ、サバ (La reine de Saba シバの女王?)》歌劇中の緩徐進行曲−ピアノ 4 人連弾(1893 年 12 月 27 日、1896 年 7 月 11 日)、《人形挽歌進行曲(Marche funèbre d‘une marionette 操り人形の葬送行進曲))−ピアノ6 手連弾(1894 年 7 月 7 日)、《セレナーデ》− 唱歌(1896 年 7 月 4 日)、《アヴェマリア》−唱歌(1896 年 11 月 8 日)、《ヒムネ(Hymne à Sainte Cécile 聖チェチリアへの賛歌)》−ヴァイオリン独奏(1902 年 11 月 16 日)、《イントロ ダクション》−オルガン独奏(1903 年 12 月)

(15)

音楽学校の演奏会のプログラムを飾り、《ロミオとジュリエット》など他のオペラのアリア も歌われるようになった。大正末期までに歌われた《ファウスト》中の音楽には、二重唱・ 四重唱(1912 年 8 月 6 日)、〈兵士の合唱〉(1915 年 2 月 13 日)、〈メフィストフェレスの セレナード〉(1915 年 2 月 13 日、1918 年 2 月 23 日)、〈決闘の三重唱〉(1915 年 11 月 21 日・27 日、1924 年 10 月 25・26 日)、合唱〈舞踏の歌〉(1917 年 7 月 7 日)、〈花の歌〉 (1924 年 11 月 22 日、1925 年 5 月 3 日)、〈宝石の歌〉(1925 年 11 月 12 日)がある (18)森 鷗外 訳(1913 年、冨山房)以前に発表・刊行されたゲーテ『ファウスト』の翻 訳は以下の通り(川戸道昭・榊原貴教編『明治翻訳文学全集《新聞雑誌編》34 ゲーテ、 ハイネ集』大空社、1998 年)。 悲劇「ファウスト」大野洒竹訳、『国民之友』掲載、1897 年 6 月 「フワウスト」(プーシキン訳)山田枯柳訳、『裏錦』掲載、1990 年 12 月 『ファウスト』高橋五郎訳、文栄閣、1904 年 8 月 「雲の歌」(ファウスト)天壇訳、『白百合』掲載、1905 年 8 月 『ファウスト物語』新渡戸稲造訳、六盟館、1910 年 3 月 『フアウスト』町井正路訳、東京堂、1912 年 7 月 (19)(20)小林愛雄訳《ファウスト》小林訳・編『近代詞華集』所収、春陽堂、1912 年、 200−215 頁。同詩集には《ファウスト》のほか、イェーツ、オスカー・ワイルドら英語 圏の詩人を中心に、ラフカディオ・ハーン、ゲオルゲ、ホーフマンスタール、ユゴー、サ ッフォーら40 人余りの詩人の作品が収められている。 (21)小林愛雄《靈鐘》『管絃』所収、彩雲閣、1907 年、134−163 頁。同書には《霊鐘》 のほか、小林の抒情詩が53 篇収められている。 (22)《靈鐘》の素材について、「インドにとったもの」(小林)、「琉球の古伝説」「インド の古劇〈鐘魔〉」(小松耕輔)と様々に記されているが、〈鐘魔〉は琉球の伝説である。 (23)小林愛雄《靈鐘》155−156 頁。 (24)同前、160−163 頁。 (25)小松玉巖「歌劇靈鐘の曲譜」『音楽新報』第 4 巻第 4 号(1907 年)所収、7−10 頁。 (26)『音楽新報』第 4 巻第 5 号(1907 年)所収、10−17 頁。 (27)小林愛雄『歌劇の研究』京文社、1925 年、102−103 頁。 (28)坪内逍遙「新楽劇論」『逍遙選集第 3 巻』所収、第一書房、1977 年、552−553 頁。 (29)小松玉巖「我國歌劇の根據」『音楽新報』第 4 巻第 5 号(1907 年)所収、18−21

(16)

頁。

(30)山田源一郎「国民樂の将来」『音楽新報』第 2 巻第 1 号(1905 年)所収(秋山龍英 『日本の洋楽百年史』第一法規出版、1966 年、138−139 頁)。

参照

関連したドキュメント

関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

駐車場  平日  昼間  少ない  平日の昼間、車輌の入れ替わりは少ないが、常に車輌が駐車している

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

長期入院されている方など、病院という枠組みにいること自体が適切な治療とはいえないと思う。福祉サービスが整備されていれば

2) ‘disorder’が「ordinary ではない / 不調 」を意味するのに対して、‘disability’には「able ではない」すなわち