• 検索結果がありません。

南船北馬集 : 第四編 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "南船北馬集 : 第四編 利用統計を見る"

Copied!
114
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

南船北馬集 : 第四編

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

13

ページ

9-119

発行年

1997-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002949/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)
(3)

1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   188×127m 3.ページ   総数:104   本文:104 (巻頭) 4.刊行年月日   底本:初版 明治43年1月30日 5.発行所   修身教会拡張事務所

(4)

南船北馬集 第四編

愛媛県紀行第一

 明治四十二年一月二十九日夕、東京を発して神戸に向かう。車中、雑踏を極む。たまたま嘉納治五郎氏と相会 す。京阪地方降雪、深さ尺余に及ぶ。近年稀有の大雪なりという。三十日午時、神戸︿現在兵庫県神戸市﹀三之宮駅 に着し、伊藤長次郎氏︵貴族院議員︶の控邸に入りて宿す。寒気はなはだし。主人不在なるも、令弟長蔵氏代わ りて接待の労をとらる。当夜、兵庫尋常高等小学校に至りて講話をなす。兵庫教育協会の依頼に応ずるなり。池 永通氏、藤沢道夫氏等、その主幹たり。  三十一日︵日曜︶ 晴れ。午前、伊藤氏宅において高等商業学校内仏教青年会のために座談をなす。午後、更に 善照寺において公開演説をなす。聴衆、堂に満つ。東洋大学同窓会の・王催なり。当夕、改良亭において同窓諸氏 と会食す。会するもの左の諸氏なり。   竜野元四、二階堂正信、潮田玄丞、松本雪城、青樹了栄、伊賀駒吉郎、西垣尭則、岡田英定、佐々木祐玄、   松井亀蔵、野崎行満、今井豊稚、間人一郎、沖田虎一、横尾照之。  竜野氏は旧哲学館講師なり。しかして岡田、佐々木両氏、もっぱら幹事の任に当たられたり。  二月一日 晴れ。午前、播州明石町︿現在兵庫県明石市﹀西林寺に移る。二階堂正信氏これに住す。随行は横尾照 之氏なり。昼夜二回、朝顔光明寺において開演す。仏教各宗の発起なり。二階堂氏および朝顔助超氏、ともに尽 力あり。

(5)

 二日 晴れ。明石郡垂水村︿現在兵庫県神戸市垂水区﹀小学校に至りて開演す。教育義会の主催にして、村長安井 保太郎氏その会長たり。当夕、更に明石町第二尋常小学校において開演す。  三日 雨。昼間は平野村︿現在兵庫県神戸市西区﹀宝珠寺に至りて開会す。主催は住職岡本徳仙氏等なり。夜間は 明石町第三小学校において演述す。明石町開会は明石教育会の主催にして、郡長三輪信一郎氏の発意に出ず。郡 内開会中は西林寺に止宿し、二階堂氏の歓待をかたじけのうす。楼上の風光、旧によりて明媚なり。望中、一絶 を得たり。   明々明石海、淡々淡州山、対此海山酌、風光照酔顔、   ︵あかるくかがやくような明石の海に、すっきりした姿を見せている淡路島の山波。この海と山にたいして   酒を酌めば、風光の美はわが酔顔をてらすのであった。︶  四日 晴れ。風つよく寒ひどし。加古郡視学正司梅吉氏とともに加古川町︿現在兵庫県加古川市﹀に移り、公会堂 において開演す。堂新たにしてかつひろく、千人以上をいるるべし。主催は郡教育会および別府天声社なり。郡 長山田知秀氏に面会す。また、大内青轡居士と晩餐をともにす。夜に入り、月をいただき霜を踏みて乗車し、急 行伊予に向かう。  五日 晴れ。朝七時半ごろ広島に着す。途上所見一首あり。   坦々山陽路、鉄車終夕奔、暁天雲断処、遥認予州村、   ︵平らな地の続く山陽の道を、汽車は夜もすがら疾走する。あかつきの空に雲のとぎれるあたりにこそ、は   るかに伊予愛媛の村をみとめたのであった。︶ 10

(6)

南船北馬集 第四編  これより宇品駅に転じ、更に汽船に駕して愛媛県高浜港に着す。県視学露口悦次郎氏、市役所書記内藤丈太郎 氏、僧侶加藤法梁氏、校長清水則備氏等の出迎えあり。午後一時、松山市︿現在愛媛県松山市﹀城戸屋に入宿し、当 日、勧善社において開演す。  六日 晴れ。午前、午後ともに、公会堂において講話をなす。聴衆は各学校生徒なり。中学校長広田一乗氏︵旧 知︶、師範校長伊野宮茂氏、高等女学校長渡部朋綱氏等と相会す。哲学館出身者丹生屋隆道、吉川昌堂、加藤三雄、 陸軍少佐山田元吉、有志家藤岡勘左衛門等諸氏の来訪あり。  七日︵日曜︶ 晴れ。寒威凛烈。午前、公会堂にて開演す。市長長井政光氏、紹介の労をとらる。当地開会は主 として松山教育協会および各宗共立会の発起に出ず。知事安藤謙介氏を訪うに不在なり。事務官竹井貞太郎氏を 問うに病臥中なり。松山客中所見一首あり。   欝々林丘鎖一辺、楼台魏立欲衝天、予州風月人知否、集在金亀城下肝、    ︵こんもりしげる林と丘が一方にたちふさがり、楼閣はそそり立って天をもつかんばかりに高い。伊予の国   の風月について人々は知っているのであろうか。風月の美はすべて金亀城下の道に集まっているのである。︶  松山の名物はカブラにして、その色朱よりも赤し。けだし全国無類なり。  八日 晴れ。暁天、霜気をおかして旅館を発し、車行三里にして三坂嶺下に至る。これより草鮭をうがちて険 路を肇じ、行くこと二里ばかりにして嶺頭に達す。上浮穴郡視学三好善太郎氏とともに、車を連ねて久万町︿現在 愛媛県上浮穴郡久万町﹀に入る。ときまさに一時なり。会場は法然寺にして、旅館は橋長なり。四山白雪を冠し、澄 水氷を結ぶ。ところどころ氷柱かかりて数十尺に及ぶあり、すこぶる奇観を呈す。三坂嶺頭の風光と久万山中の

(7)

車道とは、これまた予想の外に出ず。   久万山中駅路平、腕車如矢載風行、巌頭怪見玲瀧色、氷柱懸成白玉城、   ︵久万の山中の道は意外にも平坦で、人力車は矢のように風をきって行く。岩場の上にあやしく玉のように   光るものが見えたが、それは氷の柱が白玉の城をつくり上げているのであった。︶  郡長松田虎次郎氏、町長船田源松氏等、大いに尽力あり。  九日 晴れ。橋に駕して小嶺をこえ、川瀬村︿現在愛媛県上浮穴郡久万町﹀に至り畑野川小学校において開演す。坂 路雪を踏む。山々みな白し。   風雪夜来侵翠屏、四山皆白一渓青、寒禽不語仙源寂、唯有水声随処聴、   ︵風と雪が昨夜からしきりに青い山波をおおい、川瀬村をとりかこむ山々はすべて白く、一本の谷川のみが   青味をおびて流れている。寒さにこごえる小鳥もさえずることなく、この仙人の住むような地はさびしく、   ただ流水の音がところどころで聞かれるのみである。︶  川瀬村長は稲田五郎氏なり。当夕、久万町に帰宿す。  十日 快晴。早朝、車を駆り、渓行五、六里にして柳谷村︿現在愛媛県上浮穴郡柳谷村﹀に至る。途上の所見、詩中 に入るる。   満山霜雪暁如銀、峡路蛇行屈又伸、禍底纏留松竹色、青々自作武陵春、   ︵山はすべて霜と雪におおわれて、早朝の光に銀色に輝き、谷あいの道は蛇のごとくまがりくねって行く。   谷そこにわずかに松と竹が残されて、青々とした色はおのずから武陵桃源境の春をおもわせるのである。︶ 12

(8)

南船北馬集 第四編  柳谷は大野ケ原の山麓にして、土佐の国境に接続す。山すこぶる瞼峻、渓また狭陰、ただわずかに車路を通ず るの余地を存するのみ。人家は山腹に点在するも、隣家の来往、なお峻坂を上下せざるを得ず。実に仙洞の趣あ り。その地、米穀を産せず、トウモロコシを常食とするは、日向高千穂地方に同じ。午後、小学校において開演 す。村長は大窪伝次氏なり。  十一日︵紀元節︶ 雪。弘形村︿現在愛媛県上浮穴郡美川村﹀に移りて開演す。その地、柳谷と久万との中間にあり。 会場は小学校なり。この日は紀元節に当たれるをもって、戊申証書拝読の拙作三首を掲げ、その意を敷術して講 述す。   人文日就月将時、聖徳如天宣有涯、拝詔臣民何以答、只当埣礪護皇基、   ︵文化は日々に成就し月々に進歩するときにあたり、天子の仁徳は天のごとく大きくかぎりない。この詔書   を拝受して、いったい臣下たる民はなにをもってお答えすべきであろうか。ただただ修養に努めて、皇国の   基礎をまもるばかりである。︶   大詔何人不服膚、万邦今日悉同朋、此身幸浴文明沢、又仰祖宗遺訓灯、   ︵戊申詔書はなにびともよく心に刻んで忘れないであろう。すべての国は今日においてはみな同朋である。   この身は幸いにして文明の恩沢を受け、いまここに代々の君主によって残されたおしえをともしびと仰ぐの   である。︶   聖言錐短意深長、恪守輸誠請自彊、戦後経営日猶浅、百般庶政要更張、   ︵天子のお言葉は短いが、その意味はまことに深く、つつしんで守り、まこころをささげて、自分の身心を

(9)

  つとめはげまさんと願う。日露戦が終結して、国家経営の日はなお浅く、さまざま多様なまつりごとを改め   てさかんにせねばならぬと思う。︶  村長は藤田信三郎氏なり。当夕、夜陰をおかし風雪をつきて久万町客舎に帰る。寒威肌に徹し、四肢まさに凍 らんとす。   講罷遥尋駅舎帰、予山日落夜陰囲、凍風醸霰大於豆、粒々衝車撲客衣、   ︵講演を終わって、はるかな道のりを旅館をさがすようにして帰った。伊予の山に日が沈めば、夜のやみが   とりかこむ。いてつく風は霰をもよおして豆粒よりも大きく、ばらばらと車をうち、旅人の衣をうつのであ   った。︶  十二日 風雪。早暁、軽輿に駕し、四人これをかつぎ、峻坂を肇じ、深雪をうがち、山行五里、午後二時、小 田町村︿現在愛媛県上浮穴郡小田町﹀に着す。途上の所見、左のごとし。   朔風吹雪暁紛々、山影模糊望不分、下嶺漸知流水近、渥援声破白姻聞、   ︵北風がふき吹雪があかつきに紛々と舞い、山の姿もぼんやりとして、望み見るもはっきりとしない。峰を   下ってようやく流れに近づけば、さらさらと流れる水音が白くけぶりたつ吹雪のなかから聞こえてきたので   ある。︶  小田町会場は寺村清盛寺にして、宿所は島田愛衛氏宅なり。発起は村長高井直武氏、住職中本大棟氏、校長河 野鹿造氏、および隣村の連合より成る。その地、四面連山をめぐらし、山また山、渓また渓の間に偏在す。聴衆 は近郷四、五里の距離より、遠く白雲を破り、積雪を踏みて来集すという。郡内各所の開会に関し、松田郡長の 14

(10)

南船北馬集 第四編 配意一方ならず、三好郡視学および郡吏二名をして随伴せしめられたるは、大いに謝するところなり。  十三日 晴れ。内子町長佐伯敬二郎氏とともに一条の渓流に沿い、上浮穴郡を去りて喜多郡に入る。橋行里許 にして雪ようやく減じ、山ようやく青く、野梅の笑みを含むありて、やや春暖を覚ゆ。   渓山一色白無涯、荷輪人穿積雪之、路入喜多青始見、松間又認早梅枝、   ︵谷も山も白雪一色におおわれてはてなく、かごをになう人々は深い雪をうがつようにして行く。道は喜多   郡に入ってようやく青味をおびた山が見え、松の木々の間に早くも梅枝の花を見たのであった。︶  内子︹町︺︿現在愛媛県喜多郡内子町﹀会場は小学校にして、宿所は大森旅館なり。発起は佐伯町長の外に林正道、 河野智清、中野雅夫等の諸氏とす。  十四日︵日曜︶ 晴れ。臨時︹に︺五城村︿現在愛媛県喜多郡内子町﹀高昌寺において講話をなす。住職浅野祖田氏、 村長奥村助二郎氏のもとめに応ずるなり。これより新谷村︿現在愛媛県大洲市﹀に至るの間は道路平坦にして、腕車 を通ず。有志の歓迎あり。新谷会場は小学校にして、宿所は旅館なり。発起は松尾太綾氏︵善安寺住職︶、香渡真 認氏︵哲学館館友︶、大野虎三郎氏︵助役︶、河内宇十郎氏︵銀行頭取︶、佐枝政衛氏︵校長︶等の有志とす。当地 に日曜学校あり。松尾氏の経営するところにして、勅語の聖旨を普及するを目的とす。その生徒、整列してわが 行を迎えり。  十五日 晴れ。車上、路傍の梅花に応接しつつ大洲町︿現在愛媛県大洲市﹀に至る。肱川を渡りて旅館油屋に入る。 午前、中学校、午後、小学校において開演す。主催は喜多郡教育部会、大洲地方仏教会にして、郡長植田延太郎 氏、郡視学藤崎清三郎氏、中学校長村越銃之輔氏、高等女学校長長井音次郎氏、大洲町長松原綱倫氏、大洲村長

(11)

井林純一郎氏、小学校長小森経夫氏、大禅寺住職河野玄要氏、法華寺住職谷口活宗氏等、みな尽力あり。  十六日 晴れ。朝、旧哲学館出身者谷口活宗氏、江眠竜氏、久保竜海氏とともに撮影す。県属足達儀国氏、松 山より来訪あり。午前、小学校において、夜分、公会堂において開会す。公会堂の聴衆、その数約二千人と称す。 希有の盛会なり。その主催は前日のごとし。当地は近江聖人中江藤樹翁の事蹟ありしをもって、藤樹会を組織せ られ、銅像を鋳造し、これを仮に中学校に安置す。拝像の詩、左のごとし。   江西儒日有余明、三百年来照大瀬、宣料予山雲冷処、読書堂裏拝先生、   ︵近江聖人中江藤樹翁の学はなお恩沢あり、三百年も長きにわたって大海を照らしてきた。思いもよらず、   伊予の山と雲の冷たいところ、中学校で先生の像を拝したのであった。︶  また、大洲客中の作二首あり。   大洲城下路、一望四山青、藤樹先生跡、徳風今尚馨、   ︵大洲城下の道にたたずみ、一望すれば四面の山々が青い。藤樹先生の事跡と、その感化影響はいまもなお   かおり高く残っている。︶   山立直如法、水奔曲似肱、油楼高処望、姻景晩来凝、   ︵山の立つこと如法のごとくすなおに、水のほとばしること曲がるには肱のように、旅館油屋の楼上より一   望すれば、かすみたなびく景色は夜になってこおるのである。︶  山は如法寺山といい、川は肱川という。けだし大洲の風致はこの山と川との間にあり。故にこれを詩中に入る る。夜に入りて、郡長、県属、町長等と会食す。 16

(12)

南船北馬集 第四編  十七日 晴れ。早朝、藤崎郡視学とともに腕車を飛ばし、神南山下を一周し、渓流相合する所に出ず。   海南二月在仙郷、数里駆車破暁霜、春暖神南山下路、軽風習々送梅香、   ︵四国の二月は仙人の住む里のごとく、数里の間、人力車を駆って夜明けの霜をふみ破った。春の暖かみあ   る神南山のふもとの道には、かろやかに吹く風がそよそよと梅の香りをはこんでくるのであった。︶  成能より小舟に駕し、渓流にさかのぼる。水急にして舟行遅々たるも、酒毅の興を助くるありて、あたかも嵐 峡の春遊を演ずるがごとく、快またはなはだし。午後二時、宇和川村︿現在愛媛県喜多郡肱川町、大洲市﹀に着し、小 学校にて開演し、竜雲館に入宿す。鉱泉あり、竜身泉という。単酸泉なり。その境、幽遼閑雅おのずから桃源の 風致あり。   孤舟載酒源渓流、晩宿竜身泉上楼、浴後更傾↓杯臥、水声入夢浸閑愁、   ︵]そうの舟に酒をたずさえて渓流をさかのぼり、日暮れて竜身泉なる鉱泉のほとりにたつ竜雲館階上に宿   泊した。沐浴ののちに更に杯をかたむけてやすんだものであるが、水音が夢の中にまで入りこんで、ものし   ずかな旅愁にしみいるのであった。︶  主催は川上教務研究会にして、和気郁太郎氏、福山安逸氏︵鉱泉主︶等の発意にかかる。  十八日 晴れ。東宇和郡視学岩口重良氏、本日より藤崎郡視学に代わりて案内の労をとらる。軽輿に乗じて峻 坂を上下し、貝吹を経て野村︿現在愛媛県東宇和郡野村町﹀に至る。行程三里余あり。この辺りの山地にて輻を用うる ものは医者に限る。故に田農野婦は問うに、いずれの所より医を迎えきたるかというをもってす。また、笑うべ きなり。

(13)

  橋行数里度崔蒐、穿尽予山雲幾堆、野婦不知壮遊事、問従何処膀医来、   ︵かごにのって行くこと数里、石や岩のあるけわしい山をすぎ、伊予の山と雲のいく層にもつみかさなる地   をうがつようにすすんだ。このいなかの婦人は私の意気ごんでの講演の旅であることを知らずに、かごにの   る人は医者と心得えて、一体、どこからまねかれてやってきた医者かと問う。︶  野村会場は小学校にして、宿所は清家旅館なり。開会は校長薬師寺恭吉氏、安楽寺住職能仁徳成氏、助役坂上 亀三郎氏等の主動にかかる。会後、能仁氏の嘱に応じ、修身教会発起人に対し一言を述ぶ。  十九日 風雨。橋輿に駕し、泥坂険路を上下して土居村︿現在愛媛県東宇和郡城川町﹀に移る。行程三里あり。   予山深処駕軽輿、樵路如糸巻又野、半日斜風吹不歌、客衣帯雨入茅盧、   ︵伊予の山中深いところをかごにのって行けば、きこり道は糸の巻いたりのびたりするような形でつらなる。   半日ほどは斜めに吹きつける風はやまず、旅人の衣服は雨にぬれそぼつままにかやぶきの宿に入ったのであ   った。︶  宿所は旅館たるも、会場は報恩寺にして山腰にあり。発起は村長武石竜太郎氏、校長宇都宮和氏等なり。報恩 寺住職は哲学館出身なりという。  二十日晴れ。輪行三里、山坂を上下すること数次にして貝吹村︿現在愛媛県東宇和郡野村町・肱川町﹀に入る。宿 所および会場は西岸寺にして、発起は村長上田直太郎氏、宿寺の村上重光氏等なり。聴衆満堂、大洲以来の盛会 を得たり。  二十一日︵日曜︶ 風雪。貝吹より野村まで縞行、野村より車行して宇和町︿現在愛媛県東宇和郡宇和町﹀に移る。北 18

(14)

南船北馬集 第四編 風、雪を巻きて面をつき去り、全身戦懐、膚粟を生ずるの寒気なり。郡長深田覚助氏、町長二宮照敏氏等数名の 出迎えあり。大気旅館に入る。ときすでに三時にならんとす。一休ののち会場蚕病予防室に至るに、聴衆、場に あふるるの盛会なり。開題に凝然大徳の事跡を述べ、これを東京なる哲学堂に奉崇せるゆえんを説き、その人は 予州の産なるに県民のこれを知るものなきを慨し、左の詩を賦して壁上に掲ぐ。   海南風月明且美、凝然大徳生於弦、該覧博識誰能敵、内典外書無不窺、著作一千二百巻、文章雅麗如古詩、   資性温良行篤敬、仏祖遺戒常堅持、不尊人爵重天爵、身潜顔巷下董帷、東大寺畔学林茂、戒壇院上徳華披、   古徳又有長寿福、一代八十二春移、予州出此大人物、我来間人皆不知、只言藤樹先生在、恰似灯台不照基、   従今願明其事跡、百世永崇此国師、   ︵四国の風月は明るくかつ美しく、凝然上人はここに生をうく。その学問知識の広いことはなにびともかな   わず、内外の典籍で目を通さないものはない。著作は一千二百余巻、その文章は典雅華麗で古詩かと思わせ   る。天性温良で、その行為は誠実でつつしみ深く、み仏の残された戒律を常に堅持している。人の与える尊   位などを問題にせず、天より与えられる徳性などを重んじ、身を孔子の弟子顔回が住んだというようなむさ   くるしいところにひそめるようにおいて、仏法をただす塾を設けて人々を教えた。東大寺のほとりに学問が   盛んに、戒壇院の上に徳の華がひらく。高い徳の僧にはまた長寿の福があり、一代八十二年の生をうけたの   である。伊予の国にこのように大人物がでたのであるが、私が来てこの人のことをたずねてみるとだれもが   知らぬという。ただ中江藤樹先生がおられたというのみで、あたかも灯台もと暗しのたとえにも似てかえっ   て知らぬのであろう。しかし今からは凝念上人の事跡を明らかにして、百世の後までもながく国家の師とし

(15)

  ての高僧をあがめん。︶  第十七句中の藤樹先生の四字は、一遍上人に改めたる方あるいは可ならん。なんとなれば、藤樹先生は本州出 身にあらざればなり。開会発起は各町村長および有志者にして、なかんずく深田郡長、岩口視学、二宮町長、光 教寺住職森賢外氏、高等校長宇都宮忠吉氏等の尽力に出ず。終日終夕風雪やまず、戸隙より雪粉室内に入る。夜 に入りて、寒ことにはなはだし。深更、郡長、町長、農学士、議員諸氏と会談す。  二十二日 雪。東宇和郡を去りて北宇和郡に入る。郡境、法華津嶺頭まで宇和町発起者の送行あり。嶺頭一望 するに、積雪鎧々の間に白煙の断続浮動せるを見るも、また吟賞するに足る。   嶺頭雪径曲如弓、四望荘々城霧籠、予海豊山看不見、風光都在有無中、   ︵法華津峠の頂上に立てば、雪の小道は弓のように曲がり、四方を見渡せば果てしなくひらけて白い霧が立   ちこめている。伊予の海と豊かな山は見ることもかなわず、風光はすべてあるようなないようななかにある   のである。︶  岩口視学と吉田町校長赤松三代吉氏とともに、車を連ねて吉田町く現在愛媛県北宇和郡吉田町∨に入る。岩口氏、連 日各所案内の労をとられたるは謝するところなり。会場は劇場にして、主催は吉田有為会すなわち青年団体なり。 その団体は陸軍少将奥山義章氏の指導の下にありという。しかして開会の原動者は町長八島伯豪氏、校長赤松氏、 明淵寺住職太田正道氏なり。北宇和郡視学清家吉次郎氏ここに来会せらる。宿所左海旅館はすべて茶人めきてお もしろし。  二十三日 晴れ。車行して愛治村︿現在愛媛県北宇和郡広見町﹀に向かうに、車の通ぜざる所あれば、更に馬背に転 20

(16)

南船北馬集 第四編 乗して村に入る。途上、菜花を見る。会場は小学校にして、宿所は造酒家玉井卓↓氏の宅なり。開会は村長古谷 義正氏、校長長谷川直養氏、有志者鈴木庄治氏、および宗教家岡野、松本、三輪諸氏の発起にかかる。  二十四日 雪。臨時︹に︺三間村︿現在愛媛県北宇和郡三間町﹀小学校に立ち寄りて開演す。村長岡本景光氏、校長清 家長太郎氏の発起なり。雪降ることはなはだし。三問を去りて宇和島町︿現在愛媛県宇和島市﹀に近づくに従い、雪 ようやく変じて雨となる。宇和島旅館は居村屋なり。午後三時、公会堂に至りて演説を始む。聴衆、雨中をおか して雲集するもの大約一千人に及ぶ。宇和島町および隣村の発起なり。夜に入りて、更に開演す。各宗寺院の所 望による。郡長土居弁次郎氏および町長中原少将、ともに病中なり。清家郡視学および助役桑山吉輝氏、諸事を 斡旋せらる。  二十五日 晴れ。清家、桑山両氏とともに、一半車行、一半歩行して岩松村く現在愛媛県北宇和郡津島町vに移る。 峰頂なお雪をとどめ、山風ために寒きを覚ゆるも、梅花すでに落ち尽くして、菜花香を送りきたる。   地暖風寒南国春、梅花落尽菜花新、宇和城外暁回首、夜雪未消山似銀、   ︵大地は暖かみを帯びるも、風はまだ寒さをともなっている南国の春景色である。梅の花はすでに落ちはて   て、菜の花の香りがあらたにただよう。宇和島町の外で、あかつきのなか見まわせば、夜にふった雪はまだ   消えもせず、山はそのために銀色にかがやいている。︶  宇和島地方の人家は多く柱壁を赤く塗る風ありて、一見稲荷社のごとし。また、牛闘は古来より流行すという。 これを牛相撲と称す。土佐の闘犬と同じく、これに熱中するもの多し。岩松の会場は公会堂にして、宿所は三好 別邸なり。しかして主催は近郷七力村の連合なり。岩松村長江口守夫氏、有志家居村富士助氏、臨江寺住職東文

(17)

海氏等、斡旋の労をとらる。清家視学は快活にして、よく酒をたしなむ。よってコ酔呑東西、一読呑古今、一 喝呑天地﹂︵一酔して東西をのみ、一読して古今をのみ、一喝して天地をのむ︶の句を書してこれに贈る。  二十六日 晴れ。輻に乗じて岩松を発し、山行四里、内海村に至る。山高く道険なるも、風光の明かつ美なる は、人をして疲労を忘れしむ。峰轡湾を擁し、青松白浪相映ずる所、漁舟片々、木の葉を散ずるがごときは、実 に対画の観あり。   嶺頭一望景何奇、幾曲碧湾轡影歌、点々漁舟散還集、看疑木葉淀盆池、   ︵嶺の上から一望すれば、その景色はなんとすぐれたものであることか、いくえにも曲がりめぐるみどりの   海と山影がそばだつ。点々と海上の漁舟が散ったかと思えばまた集まるように、まるで木の葉がはちのよう   な小さな池にうかんでいるようにみえるのであった。︶  内海村に少憩し、更に小舟に駕して御荘村︿現在愛媛県南宇和郡御荘町﹀字平城に向かう。疾風帆を送り、一時間に て三里を走る。平城会場は神宮奉斎所にして、宿所は鹿島屋なり。郡長篠田藤信氏は病臥中にて会するを得ず、 郡視学安藤為継氏代わりて諸事を斡旋せらる。しかして主催は御荘村長宮川喜太郎氏、および各村長と各宗寺院 なり。  二十七日 雨。行くこと二里、一本松村︵現在愛媛県南宇和郡一本松町﹀に至りて開会す。会場は小学校なり。中尾 正忠氏その村長たり。教育家、宗教家等連合の発起にかかる。  二十八日︵日曜︶ 晴れ。車行して深浦に至り、汽船宇和島丸に投ず。南宇和は県下の最小郡にして、土佐に接 続す。故に眼に入る高峰の多くは土州の山なり。郡内山岳の横断するなく、ただ丘陵の起伏するを見るのみ。そ 22

(18)

南船北馬集 第四編 の特産は牧牛にして、牛の大なると肉のよきは天下第一と称す。気候と風景はともに他に誇るに足るも、地僻に して人朴なるを免れず。   朝駕田車夕釣舟、雲姻断処好凝眸、予南一路山将尽、湾外青轡是土州、   ︵あしたには田をゆく車にのり、夕べには舟に釣るといったこの地の、雲ともやのきれるあたりはひとみを   こらしてながめるによい。伊予の南の一路をたどれば、山波のつきるところには、湾外に青々とした山峰が   見える。その峰々こそ土佐の山なのである。︶  郡吏清家舎氏は内海村より宇和島まで案内の労をとられたり。午後七時、宇和島に入港す。宿所は居村旅館な り。桑山助役、諸事を斡旋せらるること前日のごとし。  三月一日 晴れ。午前、中学校に至り、中学生および高等女学生のために講話をなす。中学校長は松村伝氏に して、高等女学校長は田中義之氏なり。中学教員及川栄四郎氏は、もと京北中学校よりここに転任せられ旧知た り。午時、乗船。三時、西宇和郡八幡浜︹町︺︿現在愛媛県八幡浜市﹀に着岸す。沿岸の風光、いたるところとして詩 思を催さしめざるはなし。午後、小学校に至り、特に生徒のために講話をなす。宿所は川一旅店なり。  二日 晴れ。午後、八幡浜町役場の主催にて、会場は吉蔵寺なり。郡長渡辺綱道、町長菊池虎太郎、有志家中 臣近太郎︵哲学館館友︶、宗教家天羽宗一、教育家新谷信太郎等の諸氏、大いに尽力せらる。当地は県下有数の商 業地にして、その勢い今治町と伯仲の間におる。県立商業学校あり、山中安躬氏これに長たり。哲学館出身三好 義利氏ここに教鞭をとる。夜中、発起諸氏と晩餐をともにす。おのおの得意の芸を演ぜら︹れ︺しは大いに興味を 添えたり。

(19)

 三日 晴れ。未明、暗を破りて乗船す。県視学赤松和江氏不在なれば、郡書記猪原常次郎氏同行せらる。浦上 一望、暁光の清新なるや睡眼を一洗するに足る。湾曲出没峰轡起伏し、山頂に至るまで麦色青々たるを見る。   八幡浜外駕軽船、浦上風光入眼鮮、西予農家能力食、山顛無処不耕田、   ︵八幡浜から軽やかな船に乗って行けば、海べのあたりの風光があざやかに目にうつる。西伊予の農家はよ   く食糧生産に努力していて、山の頂きまで田畑にしているのである。︶  午前九時、三瓶村︿現在愛媛県西宇和郡三瓶町﹀津布理に着す。宿所は有志家和田清治氏宅なり。午前は小学校にお いて生徒のために修身上の講話をなし、午後は高福寺において公衆のために演説をなす。主催は三瓶講話会にし て、村長三好甚三郎氏、校長是沢新三郎氏、高福寺住職日下対岳氏、海福寺住職久瀬訓導氏、収入役宮内誠一氏 等、みな多大の尽力あり。諸般の準備よく整頓し、意外の盛会を得。過分の厚遇に接したるは、発起諸氏に対し 特に深謝せざるを得ず。日下氏は哲学館館友にして旧知たり。妖怪学においては氏のすでに精究せるところなり。 故に詩をもってその意を寓す。   法輪今日転三瓶、高福寺中人満庭、此地何須説妖怪、岳師已解我幽霊、   ︵仏法の輪をめぐらして今日は三瓶にいたる。会場の高福寺の庭は人で満ちあふれた。この地はもはや妖怪   について説く必要はない。なぜならば、対岳師はすでに私の幽霊についての見解をよく理解しているのだか   ら。︶  四日 曇り。朝七時、三瓶を出帆し、十一時、川之石村︿現在愛媛県西宇和郡保内町﹀に着岸す。宿所および会場と もに竜潭寺なり。堂宇宏闊、眺望殊絶、県下屈指の巨刹なり。住職鷲嶺瑚山氏は哲学館出身たり。今回の巡遊に 24

(20)

南船北馬集 第四編 つき各所開会に関し、奔走交渉の労をとられたるは大いに謝するところなり。左の一首を賦して氏に贈る。   予山深雪日、堂上弄春晴、鷲嶺花香暖、竜潭月影明、   ︵伊予の山はなお深雪の日々であり、寺院の堂上では春の晴日をあじわっている。鷲嶺のもとに花の香りも   暖かく、竜潭寺にさす月の光はいよいよ明るい。︶  開会は鷲嶺氏および川之石教育会の主催にかかる。村長は宇都宮壮十郎氏、校長は渡辺勘介氏なり。  五日 晴れ。午前、喜須来︿現在愛媛県西宇和郡保内町﹀小学校に至りて開演す。村長は兵藤矩氏、校長は菊池治作 氏なり。郡長渡部氏、警察署長白井友景氏等とともに撮影す。再び竜潭寺に帰り、楼上の風光を詩工をもって写 出す。   一湾碧水静如湖、楼上風光入書図、朝去暮来船不断、川之石是小名都、   ︵湾のみどりの水は静かなること湖のごとく、寺院の階上よりみる風光は画中のごとし。あしたに行き、暮   れにきたる船はひきもきらず、川之石村は小さな都である。︶  午後三時、乗船。終夜、海上にあり。  六日 雨。朝来、風強く波高し。客船、温泉郡高浜に着するときすでに十一時を報ず。三津浜町︿現在愛媛県松山 市﹀より有志諸氏の歓迎あり。丹生屋隆道氏もここにきたりてわが行を待つ。三津浜宿所は泉屋にして、会場は定 秀寺なり。主催は教育分会なり。町長は逸見義一氏にして、校長は近藤東太郎氏および渡部董氏なり。温泉郡視 学野間門三郎氏もここに来会せらる。  七日︵日曜︶ 晴れ。春眠暁を覚えず、汽笛夢を破るときすでに九時なり。

(21)

  春眠未覚日侵軒、汽笛声々敲夢魂、身在三津客窓下、心遊欧米別乾坤、   ︵春の眠りは深く、朝の光が軒端に光るのも知らぬほどであったが、汽笛の響きに夢を破られてさめたので   あった。身は三津浜の旅館の窓べにあるも、心は欧米に遊ぶかのように天と地ほどもかけはなれているので   ある。︶  三津浜の朝市はその名高きも見ることを得ず。この地、某寺に元日桜あり。かつて日清戦役の際、天覧に供え たることありというを聞き、﹁古寺老桜在、年々破雪披、征清連捷日、至聖賞其奇、﹂︵古寺に老いた桜があり、毎 年、雪を破るかのように花ひらく。日清戦役の連勝の一日、天皇はこの桜のめずらしさをめでられたのであった。︶ の詩を賦して贈る。これより腕車にて生石村︿現在愛媛県松山市﹀に移る。会場は小学校、宿所は清水新五郎氏、主 催は青年会なり。関谷良氏その会長となり、垂水彦一氏副会長となる。宿所清水氏家製のブドウ酒を恵まる。そ の味清くしてかつ美なり。よってこれに名付くるに﹁清新﹂の二字をもってし、かつ﹁春風南海夕、仙館養天真、 美酒三杯後、身清心亦新﹂︵春風の吹く南海の夕べに、人界を離れたようなみやびな館で自然の心を養生する。美 酒を傾けたのちは、身も清らかに心もまた新たな思いがしたのである。︶の詩を題す。主人、大いに喜ぶ。  八日 晴れ。生石より垣生村︿現在愛媛県松山市﹀に移る。会場は小学校、宿所は大原良五郎氏宅、主催は教育分 会なり。しかして実業奨励会主として奔走の任に当たる。当村は機織業もっとも盛んなりという。青年会長は西 尾鶴市氏にして、実業奨励会長は村上半太郎氏なり。  九日 雨。午前、余土村︿現在愛媛県松山市﹀において開演す。県下の模範村なり。午後、石井村︿現在愛媛県松山 市﹀に転じて開演す。会場は両所ともに小学校なり。石井村長は相原亀一郎氏といい、高等校長は井上吉利氏とい 26

(22)

南船北馬集 第四編 い、ともに発起者なり。当夕、旅亭に泊す。丹生屋氏もここに同宿す。村内の神社は信者の多き、県下屈指の一 におる。また、本村は最も耕地に富むという。  十日 雨。石井校の生徒に送られて乗車し、松山を経て伊予郡郡中町︿現在愛媛県伊予市﹀に移る。   久万連峰鎖半空、山河一望気何雄、暁来春雨車窓暗、鉄路衝姻入郡中、   ︵久万の連峰は空の半ばをふさぎ、山河を一望すればなんと雄壮な景観であることよ。あけがたよりの春雨   に車窓はうすぐらく、鉄路はけぶるなかを郡中に入ったのであった。︶  午後、郡中町小学校において講話をなす。聴衆はみな生徒なり。ついで、栄養寺において公開演説をなす。一 町四力村の主催にかかる。当夕、旅館門田屋において郡長倉根是翼氏、郡視学下村純忠氏、郡書記藤谷呈三氏、 町長豊川渉氏、校長重松親正氏等と会食す。  十一日 晴れ。朝八時、下村郡視学、藤谷郡書記と同船して上灘村く現在愛媛県伊予郡双海町、伊予市vに移る。会 場は本覚寺、宿所は西村旅館、主催は上下両灘村にして、村長坂内真垣氏、校長井門通修氏、局長奥島友四郎氏 等の発起に出ず。村内に一奇勝あり、その名を本尊山という。巌頭高く天を指して屹立す。  十二日 雨。草鞍をうがちて、渓をわたり嶺を祓す。   本尊山下一渓深、随処只聞流水音、朝雨未晴泥路滑、草鞍穿上白雲琴、   ︵本尊山のもとにひとつの谷が深く入りこみ、いたるところにただ流れる水音をきく。朝からの雨はいまだ   あがらず、泥の道は滑りやすく、そんななか、わらじをはいて白雲たちこめる峰にのぼったのであった。︶  嶺を下る途中、中山村︿現在愛媛県伊予郡中山町﹀有志諸氏の歓迎あり。会場は小学校、宿所は灘岡客舎、主催は

(23)

近村連合なり。村長豊谷大治郎氏、教育家後藤、曾根、吉村三氏、局長玉井浩三氏、有志家大森清幹氏、戊申会 長高野品三郎氏等の尽力により、諸般の準備よく整頓せり。  十三日 晴れ。車行して嶺を下る。その道、蛇のごとく腸のごとく、曲折幾回なるを知らず。一奇観なり。   一路羊膓曲幾回、腕車転々響如雷、山村愛見春光満、菜麦田間交老梅、   ︵ひとすじの道は羊の腸のごとくいくたびとなくめぐり、人力車のわだちの音は山あいに雷のごとくひびく。   中山村に春の光が満ちていたのをいとおしみ、菜の花と麦畑の間に老梅がまじっているのを見たのであっ   た。︶  郡中町に一休して松前村︿現在愛媛県伊予郡松前町﹀に移る。開会は三村合同の主催にかかる。会場は小学校、宿 所は有志家武智雅一氏の宅なり。しかして村長は河本治平氏、校長は橘東太郎氏なり。村内の一部落に、頭上に 桶をいただきて魚を売る婦女あり、これをタタと呼ぶ。甘庶、多くこの村より産出す。停車場あれども、極めて 媛小なり。  十四日︵日曜︶ 晴れ。汽車にて松山を経、森松に至り、更に腕車にて原町村︿現在愛媛県伊予郡砥部町﹀麻生小学 校に入り、ここに開会す。村長は宮脇時行氏、校長は高市慶史氏なり。午後、砥部村︿現在愛媛県伊予郡砥部町﹀小 学校に転じて開会す。発起者は村長日野喜一郎氏、校長安平照市氏、および神官、医師等なり。当夕、日野村長 の宅に宿す。旧家にして、庭内老樹あり。この地、陶器の産地にして、世に砥部焼と称するものを出だす。   今宵何処寄吟身、障子山陰砥水浜、此地曾聞生計暖、化来泥土作黄金、   ︵今宵はいったいいずこに吟詠の身を寄せようか、障子山のかげ砥部川のほとりである。この地はかつて生 28

(24)

南船北馬集 第四編   計が豊かであると聞いたのであるが、それは泥土をもって陶器を作り、黄金にかえたからなのである。︶  伊予郡内開会はすべて郡役所の監督するところとなり、郡吏をしてつねに各所に同行せしめ、多大の配意を与 えられ、藤谷書記すなわちその専任となられたるは、ここにその労を謝するところなり。  十五日 晴れ。午後、砥部を発し、温泉郡荏原村︿現在愛媛県松山市﹀に移りて開会す。会場は小学校にして、主 催は教育分会および荏原各宗共立教会なり。すなわちその主動者は水口頼次郎氏、高須賀重太郎氏、相原佐太郎 氏︵以上みな村長︶、前川俊道氏、正岡宗琢氏、菅慈算氏、八束寿弘氏、芳居竜城氏とす。野間郡視学および丹生 屋氏ここに来会せらる。宿所は有志家渡部綱興氏の宅にして、主人俳句をよくす。その号を箕田というを聞き、 ﹁城南君子宅、一夜酌春風、読得箕田句、塊吾詩不工﹂︵城南の君子の宅で、一夜、春風のなかで酌む。箕田氏の 句を読んで、わが詩のたくみでないことをはじたのであった。︶の一首を賦して、壁上にとどむ。また、共立教会 より毛筆を恵まれたるに対し、﹁多謝毛錐恵、貴於幾万銭、従今荷斯筆、耕尽数千田﹂︵毛筆を贈られて感謝す。 いく万銭よりも貴いと思う。いまからはこの筆をになって、数千田を耕やしつくさん︹筆をもって食を得ん︺。︶の 詩をもって謝意を述ぶ。  十六日 雨。午後、久米村︿現在愛媛県松山市﹀小学校に移りて開会す。主催は村役場、教育分会および仏教伝 道組合なり。しかしてその主唱者は浅井伍郎、千葉勝太郎︵校長︶、井上吉利、加藤収蔵、林近隆、加藤宥盛、乃 万政次郎︵村長︶等の諸氏なり。当夕、村書記塩見政市氏の宅に宿す。ときようやく遍路の期節となり、巡礼の 来往多し。  十七日 晴れ。丹生屋氏に導かれ、歩して桑原村畑寺繁多寺によぎる。氏は実にその住職たり。境内、歓喜天

(25)

を祭る。山に鋸し池に面し、清閑水のごとく、もって俗腸を洗うに足る。   繁多寺却不繁多、終日門庭無客過、隆道法師此留錫、汲来法水洗心魔、   ︵繁多寺はその名と違って繁多ではなく、一日中、寺門や庭に来客の通ることはない。隆道法師はここに錫   杖をとめて、仏法の水をくんで邪道に導く心の鬼を洗い流したのであった。︶  これより行くこと十丁ばかりにして、石手寺に至る。旧知にして先輩たる故僧正高志大了師、ここに住せしこ とあり。現住は直樹大本氏なり。堂宇は古色を帯ぶ。みな国宝に編せらる。門前に老松あり、臥竜に似たり。   石手寺臨石手川、老松何意擁橋眠、山門堂塔嚴然在、古色蒼々六百年、   ︵石手寺は石手川に臨んでたち、老いた松はどういうわけか橋をいだいて眠るかのようである。山門も堂塔   もいかめしくたち並び、古色蒼然として六百年の歴史を示している。︶   雨晴一路暁鐘聞、認得林端塔影分、壇上焚香人不絶、余姻凝作半山雲、   ︵雨のはれあがった道にあかつきの鐘が聞こえ、林の端に寺塔がすっきりとした姿でみえる。壇上にたかれ   る香と人の絶えることなく、これよりたちのぼる香煙の残りはかたまって、山を半ばおおう雲となっている。︶  古宝を拝観して道後温泉に至る。途上、泥打地蔵、粉付地蔵を見たり。迷信者の多きを推測するに足る。午後、 道後︿現在愛媛県松山市﹀高等小学校にて開演後、入浴を試む。浴室の壮大なるや全国無比と称す。宿所は茶金亭な り。公爵伊藤統監の旅館はその前街にあり。よって戯れに﹁神様の前に天狗か宿を占め﹂とうそぶき、かつ一絶 を賦す。   伊藤統監勢如雷、所過寒郷忽湧春、一夕館前天狗伏、鼻頭何事縮難伸、 30

(26)

南船北馬集 第四編   ︵伊藤博文韓国統監の勢威はいかずちのごとく、よぎるところの寒い里もたちまち春の気配が湧き起こる。   ある夕方、伊藤公爵の旅館の前に天狗が伏して挨拶をしたのであるが、鼻の頭はなんということか縮んで伸   びようとしないのである。︶  松山人武市義道氏、不幸にして明を失う。その恵詩に和韻して、﹁詩与墨跡両清新、字々看来妙入神、心眼却能 照天地、失明人勝有明人﹂︵詩と墨跡とはふたつながら清新の気にあふれ、一字一字をみればまさに絶妙入神の技 といえよう。不幸にして盲目とはいえ、その心眼はかえって天地を照覧し、この人は目明きの人よりもすぐれて いるのだ。︶を答詞となす。  十八日 晴れ。朝、来迎寺︹御幸村︿現在愛媛県松山市﹀︺によぎりて開演す。住職吉川昌堂氏は哲学館出身たるの 故をもってなり。庭前の眺望すこぶるよし。天覧の桜花および露兵の墳墓を巡覧し、観桜の一作をとどむ。   曳節何処好、竜穏寺中桜、天覧及斯樹、残花亦有栄、   ︵杖をついていずれかによいところを求めて、竜穏寺の桜をみる。天子はこの桜もご覧になったそうな、残   りの花にもまだほこらしさがとどまる。︶  午後、潮見村く現在愛媛県松山市v鴨川高等校にて開演す。村長は白石熊太郎氏にして、校長は大野鬼千代氏なり。 当夕、堀江村岩見旅館に至りて泊す。  十九日 晴れ。河野村︿現在愛媛県北条市﹀に移りて開演す。会場は小学校にして、主催は風早郷八力町村なり。 村長田中虎次郎氏、高等校長得居一郎氏、善応寺住職高縄泰応氏等、斡旋せらる。  二十日 雨。北条町︵現在愛媛県北条市﹀に移り、劇場にて演説をなす。寒風雨を吹きて場内に入るにもかかわら

(27)

ず、聴衆群聚せり。久米以来、郡書記豊島久太郎氏、連日案内の労をとられたり。酒造家沼田覚太郎氏の名酒﹁沼 鶴﹂一瓶を贈られたるに対して、﹁沼鶴一瓶酒、遠従天外来、幽人時酔臥、夢影見蓬莱﹂︵﹁沼鶴﹂なる一本の銘酒 は、遠く天の外からもたらされたかと思われ、人里はなれて静かに住みなす人も、ときには酔ってふし、夢に神 仙が住むという蓬莱をみるのである。︶の詩を録す。  二十一日︵日曜兼春期皇霊祭︶ 晴れ。汽船相生丸に駕して越智郡菊間町︿現在愛媛県越智郡菊間町﹀に移る。舟中 の一作あり。   浦上晴風帆影斜、岸頭点々見春花、一抹炭煙黒於墨、認得林間焼瓦家、   ︵海のはいりこんだあたりに晴れた風を受けた帆が斜めにはしり、岸辺には点々と春の花がみえる。わずか   にのぼる炭煙は墨よりも黒く、それは林のあいだに瓦を焼く家よりあがる煙なのであった。︶  菊間町は瓦の産地なり。会場は名刹遍照院にして、聴衆、堂にあふる。宿所は酒造家寺尾栄二郎氏の宅にして、 新築は茶室に擬し、清くしてかつ美なり。住職河原田治世氏、町長清水改三氏、校長中矢清七郎氏、神職池内不 加之氏等、みな尽力せらる。  二十二日 晴れ。大井村く現在愛媛県越智郡大西町∨に移る。会場および宿所は天理教会場なり。教会長越智久八 氏、特に晩餐を設けて饗応せらる。発起は大井村長大成哲則氏、小西村長井手弥市氏、乃万村長神野謙二郎氏な り。本郡に入りて、凝然大徳の遺跡明らかならざるを見て所感を述ぶ。   凝然大徳跡如何、探尽予州山又川、物換星移人不識、只看流水白雲過、   ︵凝然法師の事跡はいかがなものであろうかと、伊予の山や川にたずねた。物も歳月もうつりかわって人々 32

(28)

南船北馬集 第四編   は知らず、ただ流れる水と白い雲のすぎてゆくのを見るのみだった。︶  二十三日 雨。今治町吉忠回漕店に少憩して孤舟に駕し、潮流に乗じて関前村︿現在愛媛県越智郡関前村﹀に至る。 天すでに暮るる。   潮流一帯急如川、今治湾頭駕客船、細雨斜風天欲暮、樟声破浪入関前、   ︵潮流があるあたりは川のごとき急な流れがあり、今治湾のほとりで客船にのる。細い雨と斜めに吹く風の   なか夕暮れがせまり、擢の音が波を破るように響くうちに関前村に入ったのであった。︶  当夕善照寺に宿す。住職は真城憲雄氏にして、村長は檜垣信庸氏なり。その地、石灰を産出す。  二十四日 晴れ。風強く波高し。午後、開会す。聴衆、堂にあふる。主催は住職、村長、および山岡長兵衛氏 なり。当夕また善照寺に宿す。  二十五日 晴れ。岡山村︿現在愛媛県越智郡大三島町﹀に渡りて開会す。会場は万福寺、休憩所は木村三郎氏宅な り。村上友次郎氏その村長たり。夜に入り歩して宮浦村︿現在愛媛県越智郡大三島町﹀に移り、松浦回漕店に泊す。  二十六日 曇り。ときどき飛雪天に舞う。その寒気厳冬のごとし。午前、国幣中社に参拝す。象形山根にあり。 社前は老樟の肉落ち骨出ずるを見る。よって吟詠す。   宮湾風月歩堪移、試向鷲形山下之、千古遺縦共誰語、社頭只有老樟知、   ︵宮浦湾の風月は歩むにつれて移り、こころみに鷲形山のふもとに向かって行く。千年を経た古い遺跡につ   いて一体だれとともに語ろうか。国幣中社の前に残る老いたくすのきだけが知っているのだ。︶   街路一条将尽頭、祠林深鎖午陰稠、誰疑樟樹持忠節、枯骨千年護社邸、

(29)

  ︵ひとすじの街路の行きつくあたりに、神社の林が深く日中のかげをとざすようにしげっている。いったい   だれがくすのきに忠節あるを疑おうか、枯骨をさらしたようなくすのきが千年もこの神社のたつ丘をまもっ   ている。︶  午後、大通寺にて開演す。住職三島春洞氏は能書をもって名あり。主催は各村長なり。晩に助役菅芳二郎氏、 農学士菅菊太郎氏、郵便局長渡辺真一氏、教育家、宗教家等と会食して相わかれ、汽船横須賀丸に投じて今治町 に移り、順成舎に入宿す。  二十七日 晴れ。今治より車行して上朝倉村︿現在愛媛県越智郡朝倉村﹀に至る。会場は小学校にして、宿坊は無 量寺なり。   野径尋粛寺、境清絶俗埃、閑居仏為友、無量寿如来、   ︵野の小道をゆき、こざっぱりとした寺をたずねた。境内は清らかにたもたれて俗塵を絶つおもいがする。   しずかに住まいなして、み仏は友となる、阿弥陀仏。︶  当日、修身教会の発会式を挙行す。発起者は宿寺住職竜田宥量氏および渡辺洋太郎、菅秀円、田窪八束、小沢 庫一等の諸氏なり。哲学館出身者中野堅照氏来訪あり。  二十八日︵日曜︶ 曇りのち雨。今治町︿現在愛媛県今治市﹀に帰りて開会す。会場は黒住教会所なり。堂内広闊、 千人以上をいるるべし。昼夜両度開演す。夜会のごときは聴衆、堂にあふるるに至る。発起者は町長石原信文氏、 高等校長吉田春雄氏、尋常校長矢野定彦氏、正福寺住職谷本忍雅氏、大雄寺住職台俊俊道氏、円光寺住職藤原画 鏡氏、神供寺住職古市正運氏等なり。友人吉村善吉氏、丸亀より来訪あり。郡役所にては郡視学渡辺源一郎氏多 34

(30)

忙なれば、郡書記原田文太氏をして郡内各所の開会に同行せしめ、大いに便宜を与えられたり。

 二十九日 雨。今治順成舎を辞し、上船して尾道市に向かう。幡勝寺住職武田至誠氏および吉村氏、

送りて同市にきたる。鶴水楼に休憩して午後五時、乗車。翌日二時、帰京す。

わが行を

(31)

36

愛媛県紀行第二

 明治四十二年四月六日午後、再び東京を発し、七日午前、摂州神崎駅、三田駅を経て、有馬温泉に入浴す。旧 痢を治せんがためなり。池の坊に滞留する四日間にて、十一日午後出発して神戸に向かう。このとき有馬は気候 なお寒く、浴客いまだ集まらず。連楼寂蓼たるありさまなれば、左の一詩を賦す。   六甲山陰有馬郷、春風一夜臥池坊、浴期未至連楼寂、唯有鼠軍襲客躰、   ︵六甲山のかげに有馬温泉郷があり、春風の吹く一夜、池の坊に休息す。時節がまだ寒いため、温泉を利用   するにはなお早く、軒を連ねる温泉宿はさびしく、ただ、鼠の群れが浴客のねどこを襲うかのようにかけ回   るのみである。︶  その温泉は黄赤色を帯びて泥のごとし。よって更に一詠す。   馬山扶病遠撃癖、鷲見霊泉色似泥、一浴忽知仙薬混、忘節日々歩深渓、   ︵有馬の山に病いの身をささえてよじのぼる。なんとこの霊妙な温泉は泥に似た黄赤色なのだ。ひとたび浴   びればただちに仙薬の混じっていることがわかる。それ故に杖を忘れて日々深いたにを歩きまわったのであ   った。︶  三田駅より有馬に至る。途上の風光、また詩中に入るる。   半山皆竹半山松、万緑叢中一白縫、近見漸知梅点々、仙家散在暖雲峰、

(32)

南船北馬集 第四編   ︵山のなかばは竹、半ばは松におおわれ、すべて緑のくさむらに見えるなかに白いものが縫うように見える。   近づいて見てようやく梅が点々と咲いているのがわかった。仙人が住むような家が暖かに雲のわく峰に散在   しているのである。︶  また、有馬滞浴中つづりたる狂歌数首あり。   温泉の中で天狗の有馬なる、宿は何坊々々とよぶ、   有馬にて酒呑坊となつたなら、酔天狗︵水天宮︶と人やいふらん、   有馬とは申せど馬はありません、ありますものは湯筆染物、   馬のなき里も有馬といふからは、池なき宿も池の坊なり、  十一日 晴れ。神戸行途上、村落の春色おのずから吟情を誘起す。   春晴渓上路、松竹与梅交、無客門常鎖、有風時自敲、   ︵春晴れの谷のほとりの道を行けば、村の景色は松、竹、梅がまじり合っている。訪れる人もなく、門はい   つもとざされて、風吹くときに門をひとりでにたたくのである。︶  神戸にて少憩し、夜行汽車に乗じ、尾道へ向け直行す。車中なお春寒の身にせまるを覚ゆ。暁天五時、尾道に 着す。随行菊池適氏も熊本よりきたりてここに相会す。ともに東予丸に投じて伯方島に向かう。  同月十二日 晴れ。午前八時、愛媛県越智郡東伯方村︿現在愛媛県越智郡伯方町﹀字木浦に着岸す。歓迎者多し。 会場、宿所は禅興寺なり。昼夜二回開会す。ともに盛会を得たり。主催は村内有志にして、村長深見寅之助氏、 住職台俊俊道氏、校長浅海林次郎氏等、みな大いに尽力あり。台俊氏は曹洞宗会議員にして、今治町大雄寺およ

(33)

び禅興寺住職を兼務せらる。この地、薩摩薯の名産地なりという。ときに桜桃ならび開き、春風騎蕩の趣あり。  十三日 晴れ。東予丸にて津倉村︿現在愛媛県越智郡吉海町﹀本庄に渡海して開会す。主催は村役場にして、会場 は高等小学校なり。しかして宿所は有志家野間五恵氏の宅なり。同氏は信仏家にして、ときどき高僧を聰し法話 を開かるという。昼夜二回開会す。この日、四坂島製銅所の鉱煙、風のために吹き寄せられ、全島煙中に浴し、 悪臭人を刺殺せんとす。   汽笛一声船入津、鶯吟花笑満山春、忽然風起林頭暗、煙臭先来刺殺人、   ︵汽笛一声、船は津倉の港に入った。鶯がさえずり、花が咲きみだれて、山すべてが春なのである。そんな   風光にたちまち風が吹きおこり、林のあたりがうす暗くなった。それは四坂島製銅所からあがる煙と臭みが   吹き寄せられて、人々を刺し殺そうとしているのである。︶  また、某氏のもとめに応じて、柑林培養の詩を賦す。   戦後経営百事繁、要開皇国富強源、奉来尊徳先生訓、培養柑林亦報恩、   ︵日露戦争の国家の経営は万事に繁多であり、すめらみ国の発展を願うならば富をもって根源を強くしなけ   ればならぬ。さすれば二宮尊徳先生のおしえに従って、柑橘の林をそだてるのもまた報恩であろう。︶  当地開会発起の主なるものは村長西部宝順、住職佐々木善識、校長檜垣和孝、実業家野間五恵、片山新太郎等 の諸氏なり。本村所在の島を大島という。花寓石を産出す。  十四日 雨。更に乗船して桜井村に向かう。途中、中野堅照氏の出迎えあるに会す。午前十一時、桜井村︿現在 愛媛県今治市﹀に着岸するや、煙火をもって迎えらる。まず縄引天神社に参拝す。崇社めぐらすに青松白砂をもって 38

(34)

南船北馬集 第四編 す。これ菅公の遺縦なり。法華寺に一休す。寺前、眺望すこぶる佳なり。観音堂前に老杉一株あり、これに与う るに大悲杉の名をもってす。昼間の会場は小学校なり。しかして当夕は中野氏所在の寺なる国分寺において更に 開会し、かつこれに宿す。同寺は弘法大師の札所にして、しかも脇屋義助氏の墓碑あり。また、境内に老松の欝 然としてわだかまるあり、これを天皇松と称す。よって一吟す。   山寺春深花落時、尋来脇屋義公祠、南朝千古忠魂色、残在皇松百尺枝、   ︵山里の寺に春は深く、花も散り果てるころに、脇屋義助公の墓所をたずねる。南朝永久の歴史に忠魂の色   は、天皇松の百尺の枝に示されているようだ。︶  発起者は桜井村長曾我部右吉氏、富田村長清水幸太郎氏、国分寺住職中野氏、法花寺住職豊岡敬雄氏、真光寺 住職星野鉄定氏、校長檜垣辰次郎氏なり。当日、修身教会設立の件を議定せり。  十五日 晴れ。哲学館出身者佐々木善親氏、および森井正規氏の前駆にて周桑郡に入る。途中、大館氏明氏戦 死の地を過ぐ。すなわち所感を賦す。   東予一旬寄吾生、世田山下弄春晴、駐車試問忠魂跡、松護孤墳千古清、   ︵東予の地に十日ほどはわが身を寄せて、世田山のふもとに春の晴れ間を楽しみたいものだ。車をとどめて   こころみに大館氏明氏が忠魂のあとはどうなのかとたずねるに、松が孤独にたつ墳墓をまもって、永遠の清   らかさを保っているのだ。︶  会場は三芳村︿現在愛媛県東予市﹀小学校にして、宿所は吉岡村円照寺、すなわち佐々木氏の寺なり。しかして本 郡内の開会主催は周桑教育会および仏教団なり。教育会長は郡長荒田読之助氏、副会長は視学佐藤文雄氏、幹事

(35)

狩野時二氏、真鍋柳治氏、越智浪四郎氏、および森井氏にして、団長は興隆寺住職岸基自昇氏、理事は豊田寛照 氏、向井大貞氏および佐々木氏、評議員は加藤哲宗氏なり。  十六日 晴れ。壬生川町︿現在愛媛県東予市﹀に移る。町長は一色耕平氏なり。会場は公会堂にして、宿所は覚法 寺なり。当所は汽船の出入する地なれども、泥砂脚を没する所、里許も歩行せざるを得ずという。  十七日 晴れ。田野村︿現在愛媛県周桑郡丹原町﹀に移る。村長は戸田徳太郎氏なり。会場は小学校にして、宿所 は福岡村遍照寺なり。郡衙ここにあり。荒田郡長に会見す。ときまさに桜花満開を過ぎ、片々軽風に舞う。野外 の風光ことに佳なり。   風暖周桑一路幽、春田如海望悠々、看疑麦浪深青裏、浮出菜花黄玉洲、   ︵風の暖かな周桑の道はひっそりとして、春の田は海のごとく、望めぽいよいよはるかである。みれば麦は   深い青みのなかに波うつかと思われ、菜の花が黄色く島のように浮き出ているのである。︶  十八日︵日曜︶ 晴れ。小松町︿現在愛媛県周桑郡小松町﹀に移る。旧城市なり。町長を佐伯太郎作氏という。会場 は公会堂にして、宿所は明勝寺なり。市外近く石槌山と相対し、残雪点々半空にかかるを望むところ、すこぶる 壮観なり。随行菊池氏病気のために、郡内は佐々木善親氏代わりて随行せられたり。  十九日 雨。小松町より新居郡氷見町︿現在愛媛県西条市﹀に移る。その距離わずかに十町に過ぎず。会場は小学 校にして、宿所は覚法寺なり。開会は町村連合の発起にかかる。しかして氷見町長は久門信太郎氏にして、校長 は近藤近一郎氏なり。午後、雨ようやく晴るる。   夜来春雨暁濠々、路入落花堆裏通、鳥語報晴山漸見、石槌猶在白雲中、 40

(36)

南船北馬集 第四編   ︵昨夜からふり続いた春雨はあかつきに霧のようにたちこめ、道は落花のつもるなかをよぎる。鳥は晴れを   告げてさえずり、山の姿がようやくあらわれた。しかし、石槌山はなお白雲のなかにあるのである。︶  郡長田中滝三郎氏、視学日浅友次郎氏も来会せらる。  二十日 晴れ。午前、西条く現在愛媛県西条市v中学校に至りて講演をなす。校長は岩田博蔵氏なり。午後の会場 は西条町妙昌寺、旅館は金屋なり。町長伊藤健作氏および各村長、校長の発起にかかる。当町は旧城下にして、 東予三郡中第一の都会とす。  二十一日 晴れ。大生院村︿現在愛媛県新居浜市、西条市﹀に至りて開演す。会場は小学校にして、宿所は中萩村旅 館なり。・王催は三村連合にかかる。会場の校長は伊藤祐吉氏なり。この地に農学校あり、坂江小善太氏その校長 たり。目下まさしく四国遍路の期節にして、回国巡拝の男女老少、隊を結び群れをなす。   四月海南遍路繁、一心欲報大師恩、老男少女各為列、五々三々入寺門、   ︵四月、四国遍路の往来もしげく、一心にみ仏の恩に報ぜんとしているのである。老いた男たちや年端もゆ   かぬ娘がそれぞれ列をなし、三々五々寺院の門に入って行く。︶   行旅幾群来去頻、看過八十八場春、草鮭木杖君休笑、我亦今年遍路人、   ︵旅をゆく人々の群れがしきりと去来し、霊場八十八カ所の春をみる。わらじや木の杖をみて笑うのはよそ   う、私もまた、今年もお遍路の一人なのだから。︶  二十二日 晴れ。泉川村︿現在愛媛県新居浜市﹀浦堂寺にて開会す。村長は石川栄六氏にして、主催は各村連合な り。会後、有志家西原栄一氏の宅に移りてこれに宿す。氏は園芸をもって余楽とし、居宅また雅致あり。

(37)

 二十三日 晴れ。会場は金子村︿現在愛媛県新居浜市﹀小学校の新築校舎なり。主催は町村連合なり。村長は太田 武三郎氏、校長は大西国五郎氏とす。しかして宿所は新居浜町養気楼なり。町長は小野神雄氏とす。郡長またこ こに来会せらる。当地には住友別子銅山事務所あり。  二十四日 晴れ。十町余の河原をわたりて神郷村︿現在愛媛県新居浜市﹀に移る。東予の奇観は水なき河の多き一 事なり。村長は永易三千彦氏にして哲学館出身なり。会場および宿所は明教寺にして、主催は四力村連合なり。 郡内は日浅郡視学が各所案内の労をとられたり。  二十五日︵日曜︶ 晴れ。渓谷の間を縫い、行くこと三里ばかりにして宇摩郡土居村︵現在愛媛県宇摩郡土居町vに 入る。会場および宿所は晩翠館なり。館前に老松一株あり、枝葉の繁茂数十丈に及ぶ。その名を誓松という。   荷筆天涯客予東、誓松樹下酌春風、月如有意来相照、晩翠楼頭躍玉竜、   ︵筆をにないて天の果てのような遠く伊予の東に旅客となり、誓松なる名の樹の下で春風に吹かれつつ酒を   くむ。月も心あるもののごとくのぼってわが身を照らし、晩翠館の階上に月光を受けて輝く松の枝がゆらめ   いている。︶  主催は郡役所にして、村長三宅良治氏、蕪崎五智院住職長智栄氏等、助力あり。宿所の酒も肴も床上の挿花も、 みな難波屋より持ちきたるといえるを聞きて、﹁難波屋に酒や此花冬ごもり今を春べと酒やこの花﹂と書してこれ に贈る。  二十六日 晴れ。三島町く現在愛媛県伊予三島市v興願寺にて開会す。真言宗の大坊なり。聴衆満堂、盛会を得た り。この辺り琴平参詣の本道にして、ところどころ里程標を見る。 42

(38)

南船北馬集 第四編   春風習々客車軽、東予山河忙送迎、休問琴平社何在、道標随処刻行程、   ︵春風のそよそよと吹くなか車も軽快に走り、東伊予の山も河もいそがしげにわれを迎えたり見送ったりし   ている。琴平社がどのあたりにあるかなどとは問うまい、なぜならば、そこに至る道標がいたるところに立   てられて行程を示しているのだから。︶  三島町長は横田正史氏にして、校長は清水佳助氏なり。  二十七日 晴れ。興願寺を去り川之江町︿現在愛媛県川之江市﹀妙蓮寺に移りて開会す。宿所は川路旅館なり。こ の地、讃岐の国境をへだつること一里内外に出でず、土、讃、予三州の山をあわせ見るを得。町助役は薦田円次 郎氏、校長は渡部忠太氏なり。郡内開会はすべて郡役所の主催にかかり、郡長坂井牧之助氏、郡視学白石易太郎 氏、ともに各所に出席して斡旋せられたり。  二十八日 雨。ここに愛媛県巡回を結了し、山陰道島根県に転進せんとす。郡長、郡視学、ともに汽船に同乗 して送行せらる。汽船今治を経、海上十時間にして、午後八時、尾道に着港す。この日、細雨穏波、輪転の声か えって引睡のなかだちとなる。船窓の風光おのずから詩思を動かす。   春雨粛々送客舟、潮時未到水如油、予山芸海 難見、遥隔雲姻認麦洲、   ︵春雨はものさびしくふって客船を見送る。ときに潮は動かず、海は油のごとく静かである。伊予の山波も   芸州の海もぼんやりと見さだめがたく、はるかに雲のけぶるかなたに饗畑を見たのであった。︶  当夕、鶴水館に休憩し、医師を呼びて胸痛の診察を請い、深更一時、尾道発車にて三田尻に向かう。以下は島 根県紀行に譲る。

(39)

 ここに愛媛県の紀行を結ぶに当たり、いささか卑見を述ぶるに、その地の延長七十里にわたり、山岳多く、平 地少なく、したがって道路の険悪にして車道に乏しきは、紀州牟婁郡もしくは和州吉野郡に比すべし。人情、風 俗、言語のごときも各所一様ならず、西南部は土州に類し、東部は讃州に近く、群島に至りては広島県に似たり。 これ地勢上しからざるを得ざるなり。これを要するに、讃州と土州とは両極端にして、予州はその中を得たるも のならん。教育に至りては別に可否の評を下すべき点あると認めずといえども、山岳連接、道路険峻なるにかか わらず、就学児童数の比較的多きは本県の誇るべきところなり。宗教のごときは概して無勢力にして、ただに信 仰心に乏しきのみならず、これを無用視するもの多きがごとし。凝然大徳のごとき名僧をその地より出だしなが ら、そのことを知るものほとんど一人もなきを見れば、一般の人士が宗教に意を注がざるを知るに足る。したが って迷信の多きは勢いの免れざるところなり。その他、公徳心を欠き、忍耐力に乏しく、地方感情の融和し難き、 時間を確守せざるがごときは、決してひとり本県人の短所にあらずして、本邦人の通弊なり。言語は解しやすく、 気候は健康に適し、風景は誇るに足るべきものあり。しかして松山の赤かぶら、久万山の唐きび飯、南予の闘牛、 宇和島在の赤塗りの家屋、松前のおたた、壬生川の泥渡り、東予の水なしの川などは、本県の七不思議ならんか。 愛媛県に対する盲評かくのごとし。 44    兵庫県一部開会一覧表  市郡   町村   会場 神戸市       小学校 席数   聴衆    主催 二席  三百五十人  兵庫教育協会

(40)

同 同 明石郡 同 同 同 加古郡  合計 明石町 同 垂水村 平野村 加古川町 一市、二郡、 寺院   二席 宿所   一席 寺院   三席 小学校  四席  小学校  二席 寺院   一席  公会堂  二席 四町村、八ヵ所、 八百人 三十人 五百人 三百五十人 三百五十人 四百人 三百人 演説十七席、聴衆三千八十人、 哲学館同窓会 高等商業学校内仏教青年会 各宗共授会 明石教育会 垂水教育義会 村内有志 郡教育会      日数六日間 南船北馬集 第四編 愛媛県開会一覧表  市郡 松山市 同 同 上浮穴郡 同 同 町村 久万町 川瀬村 柳谷村  会場 説教場 公会堂 公会堂 寺院 小学校 小学校

ニー二二二二席

席席席席席席数

 聴衆 四百人 一千人 八百人 五百人 五百五十人 四百五十人  主催 松山各宗共立会 各中等学校 松山教育協会 各町村連合 各村連合 各村連合

参照

関連したドキュメント

[r]

 □ 同意する       □ 同意しない (該当箇所に☑ をしてください).  □ 同意する       □ 同意しない

(154kV群馬幹線(金井~群馬)ノンファーム型接続対象エリア25/34 ノンファーム型接続対象エリア 〇群馬県: 沼田市、高崎市、渋川市、 利根郡

項目 浮間 赤羽⻄ 赤羽東 王子⻄ 王子東 滝野川⻄ 滝野川東 指標②ー2 同じ 同じ 同じ 同じ 同じ 同じ 減少. ランク 点数 浮間 赤羽⻄

代表研究者 小川 莞生 共同研究者 岡本 将駒、深津 雪葉、村上

2001 年(平成 13 年)9月に発生したアメリカ 同時多発テロや、同年 12

※1 13市町村とは、飯舘村,いわき市,大熊町,葛尾村, 川内村,川俣町,田村市,富岡町,浪江町,楢葉町, 広野町, 双葉町, 南相馬市.

善良ノ注意ヲ以テ管理スルトキハ空シク消尽 原告ノ生活資料トシテ敢テ寡少ニアラス荀モ