総合討議 井上円了の教育理念
雑誌名
井上円了研究
巻
4
ページ
76-139
発行年
1986-02-28
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006772/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja総合討議
井上円了の教育理念
1985年5月山水三広
(司会者) 木 良 林 生 畑 甫 沢 五十音順 敬称略四清節一清宏民忠信民宗
一
郎之夫雄人夫平秀明雄手
1 教育の目的と目標 高木 さきほどの飯島先生のご報告の中で指摘され た、円了にとって「遠大で活発なものを身につけた人を 育成する」というのが日本人の教育目標であり、それが 「愚民の改良」ほかいろんな面に関わるということを、 まず取り上げてみたいと思います。これはどういう内容 を指すのか、そしてそれが時期によって変わったのか、 変わらなかったのか。これを生活行動の面を含めて取り 上げてみたいと思います。 大川 円了さんがおっし口、っている「活発なもの」と いうのは割とイメージつきやすいんですが、「遠大なも の」というのはどういうものなのか、その辺ちょっとご 説明を……。 飯島 これも『仏教活論』の割に早い場所で、その言 葉で言っているところがありますね。知見ですね、見た り聞いたりする知識、その見聞においてあまりにも卑小 な日本人でしかないと批判します。「海外のことぱ知ら 76ず」云々の表現もありますし、それから後の迷信と迷信 退治の問題にも絡んでくる。様々な迷信にとらわれ、井 の中の蛙的な所があるから、その部分をうんと遠大にし なければいかんと。 大川 ある意味では解放に……。 飯島 解放にもつながってきます。つまりグローバル な知識、それから他に出しても通用する知見こういうも のが考えられているんじゃないですかね。 大川 近代的な言葉でいうと国際性、それから理性尊 重の合理性、合目的性そういったものを、全体を含めて 「遠大なもの」と。時間的な関係では悠久なものとかそ ういう問題への捉え方というのはまだ……。 飯島 それもあると思いますよ。横にも縦にもあらゆ る意味で。とにかく今の日本人は考えることがけち臭 い。それをもっと大きくと。宗教的な関心にしても、芸 術的な評価力に関しても、あらゆる意味でのスケールの 大きさ、それをどうも考えているように思いますね。 山内 前に飯島先生からいただいたメモにあったので すが、どちらが好きかとのアンケート(1夏と冬、2山 と海、3日本画と西洋画、4日本音楽と西洋音楽、5日 本家と西洋館、6日本髪と束髪、7日本料理と西洋料理 -ー『婦人之友』、第六巻第八号、明治四十五年八月) に答えて、「時と場合によりて好不好あるのみ」と円了 は答えています。だから西洋のものがいいとか、東洋の ものがいいとか、そういうもんじゃないんですね。極め て柔軟な精神構造と言うべきでし.軌う。 高木 大川さんは活発というのは分るような気がする とおっし☆、いましたが、明治における活発という概念は 生き生きしたという意味なのか、常識的な意味なのか、 特別な概念があるのか、その辺いかがでしょうか。教育 目標として考えてくると。 飯島 安心立命ということも、普通その言葉だけ聞き ますと、宗教的内面的な心の内側の問題としてだけ安心 立命を考えますけど、円了の場合にはそれは勿論ありま すけれども、それだけでなく、外に向けて社会的な生活を 平和で安全なものにしてそこに生活する、そういう安心 77
±官
飯島 ?5子 立命も同時に考えている んだと、そういう言い方 も円了にはありますね。 ですから、活発なものと いう言い方をする時も、 そういうことに向けて、 それを実現しうるような能力を発揮するということにつ ながるんじめ、ないかと思うんですね。 高木 封建的な社会に育って、未来社会つまり近代国 家をつくろうという時代の帝国大学の教育を受けた円了 の発言ですが、そこにはヨーロッパ的市民社会の市民的 人間像が円了の念頭にあったんでしょうか。 飯島 さてね、そういう概念規定をされた時にそれに うまく当るような……。それよりはむしろ私が感じるの は、今まで環境に対して受け身的なあり方をしているの から、能動的な、積極的に出ていく、そして自分も作り 周りも作りという創造的な活動、これが活性化というこ とにつながるような意味あいで受け止めていましたけ ど。 針生 今のことに絡んでもう少し聞かせてもらいたい ことは、民衆こそが教育の対象であるということが今の プロットのなかでもさきほどの結論めいた形でも出され ましたが、その前におかれる民衆の内容に当るものが 「遠大なものと活発なものを身につけた人を育成する」 ということでした。ところが、さきほど広畑先生の発表 のことにもあったし、飯島先生の教育理念の二のなかに も書かれている。そもそも和魂漢才、和魂洋才というこ と、それから広畑先生から出た士魂洋才ということの底 にあるケルンになるもの。それに対してたとえぽ今言わ れている遠大・活発という形でイメージされて来るもの というのは教育が手段だということを、今日なん人かの 方が強調されているわけですから、そうするとケルンに なるものを包むような、表層的なところが結局改良可能 なところであって、そうしてケルンになるところのいわ ゆる和魂というか、どうも飯島先生の話だと日本の大乗 仏教的なものではないかという話でしたが、そういう風 78にまず基底にあるものと教育可能な表層というように理 解するわけですか。そうすると和魂の部分というのは動 かないんですね。 飯島 動かないけれども、まだ自覚化されてなかった り、必ずしも活性化しているとはかぎらない、持っては いるけど、日本人たるものは。 針生 そうすると遠大なものこそ表層の、いわゆる教 育が手段として用いられて、飯島先生の言葉は改良でし たけど、改良可能なところであって、そして活発なるも のこそ実はケルンの部分である、そしてそれが目覚めて いなければ目覚めさせるという風に理解すべきことなの かどうか。 飯島 分けて理解する
針生清人
よりも相即的な関係にな るような気がしますね。 つまり啓蒙的に知見が拡 がることによって、自分 がもっているものもそれ でないものとのその対比において改めて気がつくとか、 それにょって活性化してくるとか。 針生 そうすると教育は手段ではなくてかえって、目 的として捉えるべきことじゃないんですか。本当に表面 だけの、結局着物の脱ぎ代えみたいな形で改良が、ちょ っと学校へでも行けぽとか、他人の話を聞けばとか、そ ういう形でだけ改良可能な世界であるならば教育という のは手段として十分に意義をもっているし、ある種の有 効性を出すと思います。しかし、その中身というか、和 魂と言われるような、あるいは日本文化のケルンみたい な形で出されてくるものについては改良というよりも、 実は体質改善みたいな形での完全な改善でしょう、これ こそ、教育という場所で考えるならば手段ではなくて、 もはや目的と考えるべきことにならないか、とちょっと 感ずるんですけどね。 飯島 ただ実際問題として教育の現場でなされること は知を媒介にしてなされていくわけね。知を媒介にして ケルンというものを活性化していく。教育というのはあ 79泣“ . ( 麟§ 灘,
小林忠秀
の質問をもう一回繰り返すことになるんですけど、 りヨーロッパの哲学に耐え得るものが日本の仏教である と円了さんが言うときに、僕は一番最初は、仏教がヨー ロッパの哲学で理解できる、一種の合理化可能なものと いっているのじゃないかというふうに感じていた。ある 意味では今もそう思っているわけですけど、そのときヨ ーロッパの理性で捉え得るものと理解すべきなのか、あ るいはヨーロッパの理性的なものに耐え得るようなもの としてのある一種の強さというものを考えると、宗教の 教学の面と考えるべきか、信仰心と考えるべきなのかと 前からちょっとこだわって考えているのですけれど。そ のときにもし円了さんの言うように教育が手段であると くまでも知のレベルでの 営みという理解が円了さ んにあるようですね。 針生 それは結局僕が 前々から気になってい て、これは前の合宿の時 つま いう言い方をしてくるときには、なんと言うか、ヨーロ ッパの哲学というものによっても動かされないなにかが あるということを強調したいのだとすれば、宗教とか、 教義の体系と言うよりは信仰あるいは個人の信仰心、あ るいはまだ目覚めてはいないかも知れないけども、一種 の仏性というようなもので捉える人間の本当の本性に関 わるもの、そういうところで問題を円了という人が出し ていたとすれば、いわゆる宗教、宗教と言っているのは 教義の側の問題じゃないかという気がしてならないんで すけど。だからこそ教義の問題として一種の宗教の合理 化みたいなことも言い出してくるし、信仰と宗教を分け る。だから円了の場合、教育の目的と手段ということも ここできちんと出しておかないと、ちょっと僕として は、筋が混同してくるのですけど。 小林 さきほどの広畑先生の御発表によると、当時の 政府は教育を完全に手段化しているということでした。 つまり、国家目的を達成するための技術として、教育を 位置づけているという主旨のお話しであったかと思いま 80す。そこで円了さんの場合はどうだったのかと考えてみ たのですが、円了さんは大乗仏教の精神を、 いわゆる 「純正哲学」という枠組みで捉えておられるのではない か。こうして大乗仏教的な精神を、知を媒介とする形で 整理しておられるのではなかろうか。だから円了さんは、 ヨーロッパの哲学的批判に耐えうるものを出してきたと いうよりは、大乗仏教の精神を知を媒介にして整理して みると、まさにこれこそは哲学、あるいは世界観・人生 観の根底に座わり得るものだという確信を表明しておら れることにはならないでしょうか。 針生 それは前に僕が仏教というものを宗教ではなく て、いわゆる合理的なものにするのかという質問を前に したことがあるんです。そしたら、いやさにあらずそれ はやはり、一応宗教だと。宗教であれぽ実は一種の合理 化できないものも含んだものでなければならない。時に は神秘体験もあるだろうし、しぽしぼ禅宗の言うように 以心伝心のような媒介の仕方もあるだろうし、時には一 種の祈りというところに没頭していく形だってあるでし ようし。そうすると、もともとの宗教ということを哲学 と同じようなという形での世界観にまでしていくような ものであるならば、確かに教義という形でだけ議論して いくことになりますね。しかし今までみんなが議論して きた経過を振り返ってみると、それだけではなく、どう も信仰心としても大事だということも出てきているわけ で、そうすると必ずしも教義の体系とか、世界観という ことじゃなくて、もうちょっと狭い言い方でもかまわな い。たとえぽ人生観とか。信仰でも、なにがなんでも仏 様とか、あるいは親鷺とか、そういうものに頼りきるい わゆる信心と言われる世界が根底にあるということにな ると、ちょっと話が違ってくるように思います。 飯島 そこのところね、微妙な関係があるように思う んですね。その微妙さはね、’ん、西洋の哲学の理に耐え得 るということで終わっていないのよね。それは「耐え得 るのみならず……」なんです。もうひとつ先があるわ け、仏教の場合は。 針生 その先とは、理の世界より深めるという形での 81
先だろうと僕は思います。それが宗教とか、信心、信仰 と言われる世界だろうと思うんです。それを同じレベル に上げちぬ、う作業でないとすれぽ、一方でこういう形が あるわけでしょう。上下というか、深めるという形で、 今教育という場所でそれが問題になってくるとき、「哲 学のようなものが知というものを媒介にして」と言うと きの媒介が働いていくものというのはここだと思うんで す。つまり日本人の、たとえぽ合理化とか、近代化を目 指すようなところだろうと思うんです。信仰というとこ まで行ってないでしょう。 飯島 教育という現場はだから知なのよ。 小林 その媒介の役目を果たすものが、円了さんの場 合、信の自覚化としての哲学だったのではないかと僕は 考えるのですが。 高木 井上円了は宗教の説明原理として感性をもって きて、哲学の理性に対置しています。さて円了の生活行 動はどうかということになると、感性面がきわめて微99 にしか伝わってこない。そして教育においても感性が当 然あっていいんだけども、ほとんどこれが残されたもの の中にも伝わっていない。学校の経営者としての評価は あっても、教育者として感動を与えつつ教育したという 感性的な面の話はほとんど残っていません。また宗教家 としての礼賛は、亡くなった時の記事にもひとつもな い。それなら、彼に宗教生活や宗教感情がまったくなか ったのかというと、彼の行動自体には、厳密に言うとい ろいろ問題はあるかもしれませんが、宗教家に近い面が あります。修身教会の活動がそれです。また、ただの学 校経営者ではできないこともやっています。字を書きな ぐったと言われるほど「書」を書いて金集めをして、そ れを大学の経営費として教育するというところまでは、 なかなか並の人間では行き得ないんじぬ、ないか。その行 動全体のトータルなところには、なにか円了が熱情を燃 やすような感性的なものがあった。つまり、外部から理 解した範囲はケチソボだとか、それこそ世俗的合理主義 の解釈が、この行為に対して下されていますが、しかし 世俗的合理主義が常にひっくり返されています。たとえ 82
ぽ大学を引き渡すときに、経営費を含め、この利殖で大 学経営はできるという計算書まで他人に渡して、自分は なにもとらずに辞めている。これは「あのケチが大学を 私物化して金をためている」と言ってきた世間の人が、 全部をぽっと出されて解釈に困るという意味ですが、そ ういうような面が一生つきまとっているように思うので す。 生活に合理的に智慧を与えて、社会的に生活する中に 道を開き安心立命を求めていくという生き方、これが富 国強兵、民勢安定その他につながるという意味もふくめ て、円了の目的の一つに入っているという問題、これは さっきの遠大・活発というのがかなり個人的・抽象的と すれば、かなり社会面をもった、そして智慧というのが 理性的な知識なのか、仏教で言うような智慧なのか、そ の辺円了の生活行動の面もふくめて論議していただけれ ぽと思います。 小林 宗教活動の問題で考えたのですが、大乗仏教に は「自利行」「利他行」という実践的理念がありますね。 いま言われた「活発」ということには、大乗仏教のここ ろを体得した人の「利他行」展開の在り方を指して、そ う呼んでいるところはないでしょうか。つまり、円了さ んの「活発」というのは、社会的な局面で生きる安心立 命者の姿を指すことばではないかと思うのですが。禅の 世界では、智慧において悟った者の社会的に拡がった生 き方をする姿がよく描かれていますが、「活発」という ことぽで表される状況には、そういうところがないか。 針生 それはただちにではないと思うんですね。哲学 は役に立たないという人たちがいると、しかしさにあら ず、哲学というのは個人を知的に教化するという人もい る、言葉はちょっと違いますけども、そういう哲学で目 覚めるとか、ある種の知見を身に具えるとか、そういう 形でまず哲学は役に立つじゃないかと。もうひとつ、つ ぎにそれは個人のレベルですね。もうひとつつぎに社会 という、あるいはつぎに国家という、そういう形での利 が他にだんだん及んで行くようなところがでしょうけ ど、一番最初は自利というときの自は個人ですね。そう 83
すると、そのときの民衆ですね。民と言われた人はある 意味ではまだ封建的な束縛といいますか、しがらみから 完全に切り離されていないわけで、そういうことを考え ると突然に近代的な個の自覚、自我の自覚というか、そ れを迫っていくことは方法として直ちに成り立つでしょ うか。その時あまりにもヨーロヅパ的な啓蒙というよう な概念で捉えていくときの少なくとも目覚めさせる働き を円了さんはやっているのか、あるいはもう目覚めた 人、民衆と呼ぼれていても、中等学校を出たとか、円了 さんの対象には限定があったようですから、そういう意 味で若干近代化の洗礼を受けたとか、あるいは自我とい うことに覚醒しつつあるとか、そういう人たちを学校と いう場所で教育の対象としたのか、学校はそうでしょ う。しかし社会教育の場合は……。 飯島 学校教育の場合にも、私は二段三段に同じ趣旨 が重層化してきていると思うんですよね。一番最初の哲 学館を含めて大学に関しては学に志すものという既に自 立的にある自覚をもって学に志すと、しかし条件がな い。これが対象にされるわけ。ところが大学以外の変則 中学にしろなんにしろこっちの方になると、学に志すこ とをまず教える、知識の大きさを教える、そういう道か らはじめなきゃならない。前提の違いですね。 さしあたり円了の私学の自覚というのが官学の補完で あるのか、私学の独自の本領を積極的に生み出したもの であるのか。官とは違う、独自の、これこそあるべき本当 の教育なのだというのが円了の私学だとする考えには、 仏教の問題が絡んでくると思うんです。それ故に在野性 をもたざるを得なくなったという点でもあるんじ烏、ない かと思いますよ。 山内 井上円了については、官を拒否するというとこ ろがある。どうもそういうような気がしてしょうがない んです。 2 哲学・理学と仏教 高木 円了が東大を出た人生の最初の歩きはじめのと ころで、官僚の出世コースを断った点にはっきりした問 84
題があるでしょう。朝敵となった長岡藩の「米百石」の 伝説化した藩たて直しのための教育を、少年期から青年 期に経験したのが円了さんですから、官途につくことに は抵抗があったと考えられます。その辺から私学哲学館 をつくろうとしたのかどうか。学校教育に究極的に何を 期していたのか、その辺にち,^っと戻したいと思いま す。 針生 さきの学に志すものという教育、もちろん学校 教育に限定してひとつの場所を、教育の内容は今はまだ 話題になっていませんけれども、学に志すものを対象に するというのは分りました。ところで学に志すと言う時 の学ですね、結局様々の種類の学が当時ある。法律があ り、経済を学ぶという中でただ学に志すというのでは漠 然としているわけですから、それは学を限定する必要が ありますね。そうするとそこでは哲学とか、少なくとも 仏教という内容の限定がある訳で、それがすべての人々 にできたとは限らないけども、大部分法律に行かない、 経済に行かない形で哲学館というところに集まってくる 人たちの理解している学ですね。 飯島 ただこの言葉が出てくるコンテクストを考える と、学に志を持ちながら条件を得ないものとあるわけ で、条件を得たものが行くところはどこだったかという と、東京帝国大学なんだよね。だから東京帝国大学の学 だから何も法学に限らず、哲学を含む文学系統もあるわ けだし、この学は見た割に漠然としているけども。 針生 ただカリキュラムという言葉が当時ないにして も、一応講義の内容とか、講師の名前とかで論理学やる とか、哲学やるとか書いてありますよね。自ずと哲学館 に集まってくる学生に当る人たちというのは行くところ がないから来ただけではなくて、勿論そういうこともあ るけれども、それプラス哲学館に求めた学ということも あったんじゃないでしょうか。 飯島 求める側にそういう自覚がどれだけあったかよ りも、つくった円了さんの自覚の中に単に東大に行きた くても行けない人を入れてくるというだけではなくて、 東大ではなおかつ与えられないものまでここは与える、 85
山内四郎
学を通じて。こういう意 図が感じられるし、そこ に仏教の介在というのを 僕はみたいわけ。 山内 そう見ざるを得 ない。ただし哲学館の設 立趣意書には出てこない。確かにそこでは東大しかやっ ていないんだと、私立大学でどこでもやってないんだか らうちでやるんだという表現を用いています。 飯島 たとえば当時の官にある人たち、文教行政に責 任ある権力ある人たち、これを含めて、あるいは政教社 や『日本人』の仲間たちを含めて、円了さんの環境はほ んとに宗教、特に仏教に対して、無縁な人たちぽっかり なのよね。その際に至るところで円了さんは違和感をも つ経緯があると思う。政教社から孤立して、初めあんな に一所懸命はじめたのが外れざるを得ないもの、他の人 と違って彼ぱまさに和魂を仏教としてもっているし、出 したいわけなのに、これに同調してくれる空気は毛頭な い。これは同じように東京大学にも、それから官の教育 行政にも見られることで、そこではもう仏教は排撃され こそすれ……。 山内 そういう意味では先生のおっしゃることは同時 に宗学の大学林についても井上円了自身が馴染めるもの をもてなかったと思います。 飯島 宗学は死物化していたから。 山内 そうすると自分のとこしかないわけです。井上 円了が馴染めるものを自分で持つしかなかったんだと思 ます。 大川 それにちょっと関連するわけだけども、とにか く知を媒介という形ですけれども、知の中に技術的なも のともう少し人生観というか、目的意識を持つようなそ ういう知の在り方と二通りありますよね。教育が手段と して使われていく場合でしたら、技術的知識というもの を媒介にして教育をすればいい。ということになると当 時続生していった法律の学校とか、あるいは経済の技術 を与える学校とか、理学系の学校とか、兵学校とか、士 86官学校といったような、そういう側面での形で言えぽま さに教育は手段であるという理念をもって、そこに人間 というものを技術人として確立すればよろしいんだとい う形の非常に単純な理念を打ち立てることは可能だと思 うんです。ところが敢えて哲学というものをもってき て、そして哲学がなんたるか分らない人たちに、学に志 す人という言い方でもって集めてくるというところに、 どうも私は円了さんの裏表という形がないと言い切れな い。裏表と言えば裏の方には今おっしゃった意味での哲 学会をつくっても、どういう集団に所属してみても、あ るところでポイッと放り出していくという、その違和感 みたいなのを発散させていこうとする。要するに学校と
大川信明
いえども教育の一環であ る以上目的があるという ことを明確に出すんじゃ ないでしょうか。 高木 その点につい て、第一部会の森さんの 報告に、西村見暁の話として、清沢満之(当時は徳永満 之)や真宗の僧侶たちで「仏教の大学を作ろう」と相談 していたところが、井上円了はぬけがけして哲学館をつ くったので、清沢満之が設立後すぐ辞めたという報告で す。これは必ずしもすっきりと納得できない点もありま すが、これ以上はわかりません。かりにそうだとする と、仏教活論序論の主旨を実現したいということでしょ う。勝海舟との出会いで、会って話してみて、勝が積極 的に援助するようになったという話の経緯からします と、宗派仏教でないことはもちろん、単なる仏教でもな くて、はっきり教育目標を掲げていたように思います。 大学教育の目的という点には、伝聞ばかり多くて明確な ものがまだつかめていないと思うんです。 山内 海舟日記ですね、勝部真長さんなんかがやって いる、あそこにも理由がなんにも書いてないんですね。 会った時にこういう話があったというだけのことです ね。仏像を渡すとかで、こういう高遽なものがあるから 渡すんだということは何も書いていないです。ただ勝海 87舟の娘が目賀田種太郎の奥さんになるわけですよね。目 賀田夫妻は円了が結婚するときの仲人なんです。井上円 了と吉田敬をめあわせるそういう縁につながる、そうい う密接な関係にあり、そういうつてを通じて行ったこと は間違いないんです。なぜかというと海舟日記に目賀田 種太郎が訪ねて来たというのがいくつもあるわけです。 その後に井上円了が会っているんです。 針生 さきほどからの話を整理して進めてもらいたい んですが、結局円了個人が仏教を知らない仲間に囲まれ ていて、自分の考える日本の文化あるいは伝統、ケル ン、和魂にあたる、そういう自覚のない人たちとの出会 いの中で違和感をもつと同時に、またいま山内さんの言 ったように円了自身が東京大学に対する違和感をもつ、 そういうことは分りました。それに代ってもしそうであ るならば、違和のないところのものということで哲学 館、あるいは学という概念が今出てきたわけですね。仏 教それはすこしバリエーションのあった仏教かどうか問 題ですけれども、そのときたとえば仏教ということを和 魂という形で捉えるということが、特に当時の真宗教団 の中で一度も、あるいは夢にも考えられていないことで あるからこそ哲学館ということになったのか。あるいは 若干の同志のようなものがいて、すくなくともあれだけ の物理的な施設を作ったり、お寺借りたりするわけです から、何か援助がなけれぽならないわけですね。しかも 哲学館に出講する教員というものは飯島先生がさきほど 言われた、仏教に無縁なるものが大部分ですね。だから 仏教に無縁なる違和感をもって、新しい学校を作る、し かも当時考えられてもいなかったような仏教の新しい理 解、こういうもので哲学という枠の中に押し込めて学校 経営ということに乗り出した時にもう一度違和感をもっ ていた人たちの力を借りざるを得ないということです ね。 飯島 西洋的な哲学と理学の知の媒介をやる限りは、 究極に期するものでなくても、役割として期待されるし :::o 針生 そうすると飯島先生がさっきから繰り返してお 88
られる、知の媒介という時の知は円了さん自身が違和感 をもっている人たちの大部分の力とするならば、これは ヨーロヅパ的な知ということになりますね。その意味で は手段という言い方はいいと僕は思います。しかし円了 さんの本音に当る部分ですね、本当に学校を設立した意 図というのがまだ明確でないにしても、違和感として漠 然とした中に出てくる円了さんの本音、本心、これは教 育の目的というところで今後の理念ということに絡んで 出てこなくてはならない方向ですね。 飯島 教育が自己目的ではなく、教育がある目的のた めの手段であって、その手段としてこの場合は西洋的な 知が大きい有効射程をもつようなものと考えられている :::o 針生 そうするともうひとつ、ここで僕の質問の締め 括りですが、西洋的な知性で武装している当時の哲学館 に出講していた教員、円了さんを含めて勉強した東大の 一種の知性というもの、これに対してやはり円了さんの 姿勢は違和感をもっていると言わざるを得ないのでしょ うか。 飯島 あると思う。仏教に対する彼らの無理解につい て。 針生 そして違和感と円了が自覚する知と彼が違和感 をもっていると考えられるであろう東京帝国大学に結集 しているヨーロッパ的知性との断絶、あるいは道筋そう いったものは哲学館の講義録なんかをみて浮かび上がっ てきますか。 飯島 直接は現れないね。つまり知であるかぎりにお いて円了のもっている知も他の人のもっている知も同じ プラットホームにある。 高木 円了は東大の理科学の先生を哲学館に招いて、 ダーウィンの進化論の講義をしてもらっています。その 当時はもっとも進歩的な理論ですから、それで意気軒昂 たるところがあります。そういう意味では知に対する違 和感はむしろ本質的なところというか、自分の生き方の ところにあるのであって、大学での講義には全く違和感 はなかったということでしょう。 89
前にもちょっと出ていた饅頭か団子の食べ方が非常に 贅沢であったというエピソード。当時の宗務総長以上の 金をもらって東大に留学していたからそれができたとい われています。清沢満之も条件は変りません。清沢満之 はこれを一生のご恩として教団のために尽さなけれぽな らないと言って、『教界時言』を中心に教団改革運動を 全国的に展開し、円了も館友はこれに加わるよう一文を 書き、全面協力しています。それに対して井上円了は、 私は仏教界全体の革新と活性化をはかり、そのことによ ってご恩返しするというわけです。だから宗門内と宗門 外という分限を心得た活動のようにみえます。円了の場 合の「宗門外」という意味は、われわれの想像以上に大 問題であったと思います。真宗は代々住職を世襲制の中 で継いでいくことになっていて、そのあとつぎを「候補 衆徒」といいますけれども、円了はそういう身分資格を もっていて、寺も門徒も世襲を当然のこととしていまし たから、辞めるということの問題の重さ、これは地方の 坊さんと門徒しか分らない大変大きい問題だったと思い ます。またさらに、民法上の廃嫡という面倒な問題も起 りました。この二つを敢えてやってまで仏教界の革新を やろうとした。この間の消息を伝える実家宛の手紙は有 名です。これは非常に長い手紙で『井上円了研究五号』 に全文掲載予定ですが。 針生 そうすると仏教界というのは教団内部のことで はないんであって、つまり教団外の民衆……。 山内 仏教総体としての。そういう風に書いてありま す。青松寺に集まって仏教総体のために努力したいと か。 飯島 しかしそれは真宗レベルでさえもない。全仏教 という意味ですね。 高木 円了は真宗のためとは言っていないんです。仏 教界のためと言っています。当時の仏教界には政治的に も大きい危機感がありました。明治維新以後に出された 「上知令」によって、寺の知行をとり上げられて、どの 寺も不安を感じ、神道国教化政策の強行されるような時 代を円了は経験しています。 90
針生 具体的に仏教界の建て直しという内容はどうい う事だったんでし、《う。 高末 それはこれから論じられると思いますが、上知 令は末寺まで徹底しては行われなかったし、円了は円了 でいろいろやっていますね。手段を考えて……。 山内 僕はこういう風に見るんですよね。ひとつは哲 学と仏教の関係もあまり深く裁然とできないような感じ がしているんです、僕自身は。ただ言えることは哲学館 に招かれた人物の中で古い仏教の体質をもった人間、 言ってみれば訓詰注釈の学問をやっていた人、村上専精 とか前田慧雲のような元来はそういう教養の持ち主なわ けです。ところがひとたび井上円了の警咳に接すると忽 ちのうちに、いわゆる体系的文章を書き、しかるべき学 位論文を提出して東大教授になる。そういう点が出てく るんですよ。そこいら辺が彼の自身が果した学問的な役 割の大きなところじゃないかという気がするんですね。 教養は沢山あったでし,《うけど。 飯島 それから針生さんが提起した問題に絡んで、ひ とつこういうことじゃないかと思うのは、仏教を大事に するというのは哲学館創立当時からあったと思うけれど も、大乗仏教を和魂として捉える点、そういう言い方を しだすのは洋行して帰ってきてからですね。日本人の改 造を問題にするとき、そのときに他の様々の日本主義の 人たちがそれぞれに日本的なものを持ち出すところで、 円了はこれを出してくるわけね。 高木 それについて、キリスト教がヨーロッパの文化 を支えていると彼は書いていますね。そういうものがな くてはだめだから、まず教会に行かぜ云々と。これは割 合早くから書いています。だからそういう点からする と、宗教というものをもった文化、それは日本では国教 化していたから仏教ではないかという発想があったのか もしれない。探してみましたが、このように書いたもの はありませんから、推測です。いずれにしても哲学館を 設立する時の趣旨に、彼の言う「表」としては、はっき り仏教というものがあったということは言えると思いま すね。 91
井上民雄
針生 その時は宗派は ないわけですね。 高木ありません。仏 教です。 山内 だから集めてく る人たちは真宗東本願寺 (大谷派)に限らないですね。意識的な集め方をしてい るわけですね。 三浦 前に井上民雄さんにお伺いしたときに、哲学館 設立が結局は本願寺の留学生のなかでやろうという話が 動機だと言われている。この資料は加賀秀一さんの話な んですが……。 井上 ええ、私が名古屋で加賀秀一さんから聞いたの は始め同志と哲学の研究会を開いているうちに啓蒙のた めの学校を作ろうということと、東大でやらないような 哲学の研究をもっと進めた学校が必要だと加藤弘之先生 からすすめられ、かつ自分も応援するからということ で、同志がみんな語らって大学を作ろうということにな ったんじゃないかと思います。 飯島 真宗の奨学生グループですね。 山内 麟祥院でやるときはそのつもりだということを 清沢満之が言〔.てると西村見暁さんは書いています。 高木 それが仏教大学作ろうとしたのに哲学館にした という根拠になっているわけです。 井上 ですから仏教ということを表に出すと悪いとい う意味で哲学館という風にしたと思います。それで棚橋 さん、加賀秀一さん等は、学生時代に研究会や討論会な んかしょっちゅうやっていた仲間なんですね。 山内 郁文館の創立者の棚橋一郎という人はずいぶん 異質な人ですよね。全然仏教と関係ない人ですよ。 井上 加賀さんから聞いたところによると、東洋学を 主にした学校を作れと言われたらしいんです。はじめは 哲学館という名前をつけて、将来東洋大学にするという 考え方をもっていたらしいんです。大学を作るときの三 恩人というのがあるんですよね、一人が加藤弘之博士 で、勝海舟、それに駒込の真浄寺の寺田福寿師、その三 92人の名前が出てくるんです。 山内 日本大学と書いているのもあるんですよ。 水沢 第一回のアメリカへ行った後でしたね、東洋中 心にした大学にしたいというのは。 山内 あれはカリキュラム改正の時ですよ。 休憩中の雑談よりー 針生 純正哲学については『哲学要領』では定義をく だしています。哲学はいわゆる純正哲学、つまり形而上 哲学であると、前から二、三ページのところでいって います。自分が今から説明していく哲学は純正哲学だ と。
水沢清之
飯島 円了が「学術と 宗教」という言い方をす るとき、哲学はどっちに 入るんだろう。 針生学術ですね。少 なくとも哲学という題で 本を書いている段階では、たとえばインドの哲学という 言い方をして、インドの宗教、仏教とは言わないです ね。言うときには釈迦の哲学と言ってますね。 小林 円了さんが言う純正哲学は、学術と宗教を支え るものではないかと思います。 針生 哲学が宗教と学術を支える。そのときの哲学は ヨーロッパ哲学だろうと、そうなると僕から言わせれぽ 宗教は宗教でなくなるじゃないかということです。 小林 哲学が、合理性の立場 自然理性の立場から 宗教に関わる営みであるとするならぽ、確かに針生先生 が言われる面が出てくるとは思います。 高木 そういう宗教と円了の言う宗教は違うんです ね。それが僕の報告のときに一番困ったことなんです。 旧来の概念で言わなくちゃならないから。 小林 円了さんの哲学の位置づけの仕方は、いわゆる スコラ哲学での位置づけの仕方とほぼ一致しているよう に思います。 針生 だから仏教という言い方した時には教学になっ 93広畑一雄
いう観点で捉えているんだけども、 いのかどうか。少し皆さんにその辺を吟味して批判的に 協力してもらいたいんです。 高木 本当に広い意味での教育ですね。学校教育だけ じゃなくてね。 三浦 さきほどの飯島先生の「活発」ですね。明治の 二十年代というと立身出世の野心というものも含むんで すか。単に学に志すというだけではなくて……。 飯島 それもあります。それもこれもすべて能動的に 出てくる基本と解しています。 三浦 なにか東洋大学というと野心もなくておとなし へ む へ しとしう....: ち烏、うんでしょう。それ だったら分ります。 飯島 もうひとつこの 話の大前提として、私の 場合、円了の社会的存在 の全体像を教育事業家と その前提がそれでい 高木 一期生の話によると、そういう元気のない、お となしいのがという・…:。 飯島 いや、針生さんの時代ごろまでは、そうじゃな い名残があったよな。風変りで、野性味のある豪気さが 昔はかなり見えた。 山内 曾我量深なんかは学びながら同時に講義をし た。清沢満之の関係でしょうけど。昔の教授はそういう ものはあったらしいですよ。 広畑 ところで、あとから討議されることでしょう が、円了さんの後継者問題ですね、広い意味で。問題が あると言われていますね。 針生 円了という人の本音から言うと、後継者はいな くていいんですよ。自分の横に並ぶ人こそできればいい んで、もし大学の後継者という形ならぽ、不連続の連続 ということでしょう。 世良 井上先生を乗り越える人が資本主義の発達に応 じて出てこなかった。今でもそうなんです。そうだとい うところに僕は学生達に非常に申し訳ないことをしてい 94ると思うんです。 針生 社会の変化に耐えうるような実学というものを カリキュラムの中心においていないということですよ。 世良 先生は実学と言いながらですよね、他の大学に は必死になって支える人がいるんですよ。 井上 しかし随分いろんなことをかじったことはかじ ったですね。『記憶術』という本がありますが、あれが 今も出ている記憶術の元祖だと言っている人がいるんで すけど。 山内 なんでも先駆的な役割を果たしてますね。 3 社会観と国家観
世良民平
高木 それでは討論を 再開します。現実的生活 面においても安心立命を 与えるという社会性を教 育理念の一面にもってい たという、この内容に関 する問題に入りたいと思います。円了が哲学館を辞める までと限定します。教育理念として実現しようとしたと いうことで、これは貫かれていたでしょうか。カリキュ ラムの聞題が若干関わってくると思いますが、カリキュ ラムについてはお配りしました資料の中に飯島先生が引 用して触れていらっしぬ、います。円了が×学を辞めたの は日露戦争の年で、それから修身教会の運動に専念する ことになります。 山内 安心立命という仏教の言葉であるならぽ内面的 な問題で、社会的なものじゃないですね。 飯島 しかし円了さんが『日本人』に寄稿した文章の 中で、日本人の改良を論じるときには自分の言う安心立 命は内的なもんだけじゃなしに、外的な生活の安定性も ふくむと言ってます。 高木 その点でどうでしょう。哲学館事件というのは 学生に対して現実にそれを脅したものですね。 小林 哲学館ができて活動をはじめたのは明治二十年 代前半ということになりますが、その頃は、たとえば徳 95mp”tや▼ 頴※・ぶ心 、薮、W鰐ぷ、懲W、
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蓼哀宅 魂灘 \ぷ\\ ’渚ェ」 ノ∠高木宏夫
‖ ー 性と、その知性にもとついた社会体制の直輸入では満足 しないで、そういった知性の在り方を支えた精神にまで 目を注いで、こういったものをモデルとして日本社会の 近代化を企てたと思います。ところでその精神というの は、蘇峰の場合は、キリスト教的な精神だった。かれの いわゆる「田舎紳士」ですが、これは別にキリスト教信 者となった独立自主の人ということではなく、キリスト 教的精神を身につけ、それを支えとして自営する西欧の 市民の在り方をモデルとした日本型市民だろうと思いま す。決して、西欧社会の「市民」直輸入のイメージでは ない。 そこで円了さんの場合ですが、円了さんも同様に自営 富蘇峰が『国民之友』を 出して、当時の知的な青 年たちの人気を博してい た時期に当ります。かれ がやった仕事を考えてみ ると、かれは西欧的な知 して生きる日本型市民を育てたかったのではないか。そ して、円了さん流の日本型市民が支えとすべきものは大 乗仏教的精神だったのではないか。大乗仏教的精神を身 につけて社会で活動できるような人間の育成、とりわけ その精神そのものを、日本社会の中堅階層に伝えること のできる人間の育成を目指したのが円了さんだった、と いう面はないでしょうか。 飯島 ちょっとおっしゃることの意味が飲み込めない んだけども、蘇峰の場合はキリスト教があって、それに つながる市民社会形成となっている。それに対してキリ スト教に対応するものとして円了の場合には仏教があ る。それに基づいて大乗仏教的精神で人々が作る社会、 市民社会に相当するものとしては何があったのか、なか ったのか、それはおっしゃられなかったんで……。 小林 いわゆる「市民」とか「市民社会」という理念 が、円了さんによって明確に、それも具体性をもって意 識されていたかどうかは、僕もよく調査していないので 断言できません。しかし、それに相当するような社会階 90層が、円了さんの意識のなかになかったのだろうか、と いうことですが。 飯島 それはどういうものですか。 高木 仏教で社会観というのをはっきり持っているの は日蓮宗だけだと僕は思うんですね。そういう意味で仏 教には国家論もない。社会、国家というよりはもっと個 人の安心立命というか、悟りという形で己れを問うてい く、それが中心になってしまう。それでそれは鎮護国家 とも関わってくるし、あるいは護国愛理とも関わると思 うんですが、そういう本質的な人間の本性に関わるもの からすれば、国家というのは極めて現家的抹消的現象形 態だから、それへの対応は割合現実肯定的になるのでは
三浦節夫
ないでしょうか。当時の 富国強兵を円了が積極的 に肯定したのは、民が富 んでいって生活がよくな っていけぽそれでいいじ ぬ、ないか、植民地になら なけれぽいいじゃないかというようなところで、平気で 割り切っていけたものがあったんじゃないか。これは、 キリスト教と違った生き方を仏教者が平気でやれる、現 代の知識人の感覚では割り切れないようなものがあった んじゃないか。戦争中の仏教者を見ていてもそういう部 分がありますね。だから割合平気で戦争についていける ような無感覚さ、善い悪いは別の問.題ですけど、そうい うものがあると思うんですね。円了死後のことですが、 マルキシズムによってはじめてちょっと異質の問題が、 逆に仏教界に提起されてきた。それで仏教界にマルキシ ズムの流れを汲むような人が現われ、驚きをもって迎え られるということも仏教界の一部に起ったということ で、それまではなかったんじゃないか。だから今おっし ゃった近代市民社会に対置されるものと……。 飯島 なんかそのへん確認しておいた方がいいと思い ます。護国の国家ということにも関係してくるんだけど ね。円了の社会観という風なものが単に豊かな国で民皆 善き人で豊かにという構想があっても、それを裏付ける 97構造的な関係でそれはいかなる社会であるかというふう なことを明確にすることを全然やっていないじゃないか と思うんですね。 高木 権力ということに対する目もない。官というの はあるけれども権力はない。 飯島 そのことがあるために円了の社会観なり、国家 観というのが非常に曖昧だし、それが護国というときの 国というのが現状肯定的に、即ち天皇制国家護持みたい な形でスライドされていって利用される道を開くような 面につながる。 高木 円了の場合は、国家も天皇制・国体も、彼の言 っているように「表」つまり現象形態にすぎないから、 本質としての「裏」を考えるならぽ、「表」は「仮」で、 ある意味ではどうでもいいという、仏法というか大乗仏 教というものが根にあるから、本質を抜きにしてこの現 象形態だけを捉えて割合平気でものが言える。ここの本 質のところに超国家主義もってきたというのがその後の ゆがめられた護国愛理ではないかと思うんですね。 山内 そうですね、その通りだと思います。 小林 僕は設立当時の哲学館のカリキュラムを見たの ですが、そこでは西欧型の学問の体系にしたがった教科 が配列されている。そして、それぞれの教科について、 その道のエキスパートがよぽれてきて講義が行なわれて いる。こうした形で学生に与えられるものは、多分、 「教養」1それも西欧的教養の直輸入という意味ではな く、それをモデルとしているが、それとは同一ではな い、日本的な自営の人を育成する土台となる「教養」だ ったと思うのですが、違うでしょうか。 針生 そうすると市民社会という言葉が適当であるか どうか、今の段階では分りませんけど、少なくとも近 代の思想が、実践が作り上げた方向でわれわれが通常考 えるような市民社会ではなくて、つまり江戸時代からず っとなんとなく日常、日々生活している自然的な生活共 同体のようなことですね。そうするとそこに出てくる市 民にあたるものというのは自然の農民であり、町人であ りという、つまり従来考えられていたような市井の生活 98
者、つまり近代市民といわれるものまでは考えていない わけですね。 小林 円了さんは、「市民」という概念まではまだ到 達してはいなかったかも知れません。そういう概念を耳 にはしていたかも知れないけれども……。 針生 そうするとさっきの話題と関係があるのですけ れども、そのときのいわゆる知を媒介にして、結局知の 次元にまで高まっていったいわゆる市井生活者というも のはどうなるのでしょうか。 飯島 いまいわれた市井生活者というのが、私にいわ せれば、円了の関心対象だった民衆だったわけです。と ころが一方で、独立した精神の人格をという教育目標が あるわけですよね、民衆に対する。そうするとこれは自 ずと市民に向かう方向にある。だけどそれを市民という ふうに性格規定しないし、そういう社会ということにつ いての理論もないわけ。 針生 そうするとせいぜいわれわれが、僕は田舎で生 活した経験があるから言うと、いわゆる村の知識人、村 の教養人というふうに全口貝をレベルアップするという程 度……。 高木 いやちょっと違うのではないでしょうか。とい うのは清沢満之の流れで言いますと「独立老」という仏 教者としての「自覚の宗教」という方向を近代仏教とし て打ち出しました。そういう意味での独立というのは 「浩々洞」の人びとと円了との関係もあり、清沢満之も 曾我量深も大学の講師でいたし『教界時言』に円了も深 く関係したので、つまり、そういうことを問題にしてき た彼らの仲間がありますから、ここでいう独立は近代的 市民の独立よりも、仏教老としての独立ではないでしょ うか。ただしこの仏教は大乗仏教的精神つまり純正哲学 の自覚という意味ですが……。 針生 仏教者としての自覚、信仰者としての信の目覚 め。 高木 僕はそっちじゃないかと思うんです。信仰・信 の目覚めはちょっと問題がありますので、あとで十分討 論したいと思いますが。確かに市民社会的市民としての 99
独立、自我の確立といいますか、そういうものではない と思いますね。特に書かれているのがヨーロッパへ行く 前ですから、日本資本主義もまだ確立していないし、そ れを憧れている時期ですから、国全体として。生活に市 民社会の地盤がまだどこにも形成されていないんです。 だからそういう意味でも市民社会構想というのは、種積 八束と梅謙次郎の論争という形で純然たる近代法の法律 論争として出たのが明治三十年です。梅謙次郎の市民社 会の家庭中心の民法に対して祖先の祭祀を中心に家族制 度的家を主張し、祭祀権を保障する民法を主張した種積 八束の論理との争いで、結局家族制度論による民法が成 立しました。そしてこの家族制度の中心的シンボルの祖 先という概念は神道的というよりも仏教的なものとして 定着していくのですけれども。円了の護国愛理の時代に はそういうことさえまだ明確になっていない。つまり封 建制から絶対主義への再編成過程であって、市民社会が 成立し得るバックもない、したがって観念として勉強し てみても、通用する対象は極く限られている。 飯島 どうでしょうね、僕はちょっとそれは疑問があ るんですけどね。その宗教的な精神の内的独立というこ とはもちろんあるでしょうけれども、そのことだけであ ったとしたら、自分の個人的な生活を豊かにするとか、 外に向かってそのために条件をよりよくしていくとか、 そういうところで動きだす独立の精神ではないと思う。 だが、円了さんの考え方は決して具体的な生活はどうで もいいということじゃないと思う。 高木 それは当然あると思います。解体過程ですか ら、その独立が市民社会というふうに明確に規定できる かというと、それはできない。むしろ、理念的には仏教 だというだけで、常識的意味における独立を標榜しなけ ればならない時代、つまり農村が地租改正で徹底的に解 体されている。そして、都市民が形成されようとしてい る時期ですから。 針生そうすると、こういうふうに捉えていいです か。つまりその従来の真宗的なところでは、たとえばそ の仏教徒に目覚めるという場合、一所懸命に強調したの 100
は妙好人を作っていくような所でしたね。だから円了さ んの考えてくる世界は、もはや観念的な、単なる内面的 な、あるいは単なる信仰生活、そういうところの目覚め ではなくて、あるいはそれに留まるのではなくて、プラ スその社会が変革してゆく、その変革した、あるいは変 革しつつある社会のなかで生きていける生活者として の、逆にまた信仰者としての生活者、生活者としての信 仰者ということでしょうか。 そういう意味では、もはや妙好人的な概念で捉えられ ない、あるいはそれをもう越えた、やはり近代的な、つ まり円了の理解する妙好人と言ったほうが真宗的にな る。そういうものを目指しているということになるので しょうか。 三浦 ちょっとそれは、本当の意味で、さっき飯島先 生が言われた独立者と言うのは自分の日常生活の具体性 を持ったような独立者なのかどうかという話でしたが、 これは真宗大学というものの経過をずっと見ていくと、 結局清沢満之が目指していたのは自分の信仰だと思いま す。信仰の確立を大学という場でやるんだということな んです。それでもって自分の信仰を確立したら、その信 仰を他に伝えるんだ、自信教人信の誠を尽すんだという のが、真宗大学の教育理念なんです。この過程で清沢満 之は、そういう形で教育はするのですが、蹟くのはです ね、教員免状が取れないんですよね。それでもって、こ の真宗大学は紛争が起きて、解体していくわけです。 だから、さっき言われたような独立者、精神の独立とい うことを純粋に考えたのが真宗大学だとすれば、円了の 場合はその生活老としての独立が、信仰というものを内 面にはっきりもって、さらに現実の生活をしていく人間 を考えていたのか、それははっきりしていたんでし,^う か。 高木 いや、それははっきりしてなかったと思いま す。これは清沢満之がはっきりさせたので、円了の信心 については私が疑問を残すというのは、彼は仏教活論な りで、一応その筋道は立てる。だから、筋道の中では独 立も二重の意味でだろうと思うけれども、では本当のぞ 101
ういう人が出た時のサンガというか仏教共同体的な社会 というものを描いたかというと、これはみられない。そ ういう意味では、清沢満之には組織論、運動論がある。 円了にはでてこない。だから、門了は信心の人よりも理 性の人としての分限で一生を貫いた人だったのではなか ったかと思います。 三浦 そういう意味で考えていくと、真宗大学の場 合、哲学と外国語というのは必修なんです。教育のカリ キュラムとしてそれが設定されているんです。いわゆる 教学、宗義に対して宗学と言われるものの道を開いたの が清沢満之で、井上円了はその先駆的役割を果たしてい るんです。その辺が教育をしていく場合でも、哲学とい うことと仏教がはっきりと意識されて一体になっていた のか。仏教を標榜しているのに哲学をとりあげていくこ とに、宗学との関係ではかなりの決断が必要ではなかっ たか。 山内 哲学館には真宗教学とか日蓮教学という宗学と いう科目はないでし・≠う。 小林 円了さんには、排耶論という営みがあります が、それと今のお話は関係しているところはないでしょ うか。つまり、円了さんは大乗仏教的精神に支えられた 生活者の育成を目指していた。生活者として、独立に、 キリスト教徒と堂々と理論闘争ができるような人物を育 成しようとしていたのではないか、ということなのです が。 針生 そうすると位置づけとして、こんなことを言っ ていいか、どうか。清沢満之のところで教学のひとつの ターニングポイントをつくっていくことから考えていく と、位置づけは宗教改革のときのエラスムス的位置づけ が円了であって、エラスムスの抱いた卵がルターによっ てかえるという道筋で捉えられる。そうするとエラスム スのヒューマニズムに対応するものが、信仰、信仰心に 目覚める。しかも武器としては当時としてはギリシャ語 の文化を使う。しかもエラスムスが書いたようなキリス ト者必携のようなものを読ませていくのが哲学館、ある いは講義録であるという、そういう位置付けもできます 102
ね。 小林 パターンとしてそれはおもしろい対比だと思い ますね。だから僕はこんなことを言うと哲学館の理想を 綾小化することかもしれないですが、円了さんが一番最 初に考えたのはいわゆる内面の世界までひっくるめた非 常に高適な理想を器に入れ得るような人間を。 針生ええ、ですから結局円了は古い仏教からも、自 分の同志的な人たちからも引っ張りあいされる、そして 自分というものを打ち出していく……。 小林 ある意味で両方から誤解される。 針生 あんまりそうなってくると円了を真剣に理解し ようとすれぽするほど、実は分からなくなる。 飯島 理論的につつこうとすると、分からない部分が 一杯出てくる。 針生 それはエラスムスだな。 4 教育理念の継承問題 高木 つぎにちょっと視点をかえて、なぜ円了が大学 を辞めたのかその理由の面から、またその後の行動、修 身教会運動を通して、この問題を少し考えてみたいと思 います。彼が辞めるときに、『東洋哲学』に載せておりま すけれども、辞めるについてはっきり言っている点があ ります。自分が講習会等をやって教育したいと思ってい るけれども受け入れられないと辞める理由を上げていま す。これは教育方法と対象にかかわってくる問題ではな いかと思うんです。同時にもうひとつ、辞めるについて は大学の校友につぎの大学経営の担い手になってもらい たい。それに適当な人がなけれぽ、せめて大学の教員に すべて後を委ねたいという条件を付けています。これは 精神を汲みとった人に経営を、とみるべきかどうかとい う問題があると思います。それらを併せて論議をお願い します。 針生 方法と対象が変ったというように要約されまし たが、自分がやりやすい講習会等が認められないので… :◆o 高木 ええ、教育方法として。 103
針生 そのとき認めない人たちというのは……。 高木 大学の教授陣でしょうね。はっきり書いていま せんけれども。 山内 神経衰弱になったと理由は書いてありますが、 面倒な仕事をしているとなり、面倒な仕事が終ると治る んです。 針生 そうすると大学の実際の経営はよく分からない けれども、実権を握っているのは教授陣ですか、この段 階では。 山内 そうじゃないでしょう。ただ言えることは後事 を委ねる前田慧雲なる人物はいわゆる経営の才に長けて いる人ではないと思います。間違いなくないです。教養 人であることは間違いありませんが、そういう人を敢え て選んだという理由は分かりませんけれども。 高木 前田慧雲さんにお願いしたいという風に書いて います。名前を具体的に挙げています。 山内 後事を託しているのは彼↓人なんです。 小林 辞めたとき、円了さんは自分の本音を語っては いないようですね。 04 1 高木 ええ、そうですね。(一同 同意)。これも表と 裏……。 山内 だから敢えて申し上げるのは前田慧雲なる人物 に託したのはなぜかということから、なにか手掛りにで きませかとお伺いしたわけです。 小林 ひとつの仮説として僕が持ち続けている考えを 申し上げてみたいと思います。かねてから高木先生が話 しておられるように、円了さんの体内には、真宗の説教 師的な魂が終生息づいていた。それから同時に、僕が先 程来申し上げてきた哲学館という大学教育機関設立の目 的についてのまとまった考えもあった。 ところで、哲学館という教育機関の体制も整備されて きた。しかし、円了さんの説教師としての魂が、次第に 哲学館という組織内では納まりがつかなくなってきたの ではないか。勿論、円了さん個人の性格に由来する人間 関係の摩擦も辞める理由の一つとしてあったのかも知れ ませんが・…:。
それからもうひとつ。円了さんは、組織を作り上げる 創立老としては、その識見も才能も抜群の人だったよう に思われますが、作り上げた組織を経営してゆくという 資質においてはどうだったのか。たとえば、キリスト教 の世界でも、教会なり施設を作るのが上手な人と、それ を維持して発展させてゆくのが上手な人とがいるようで す。円了さんは、どちらかという創立者タイプの人だっ たのではないか、と思うのです。 どうも、円了さん個人の才能を批判するような話で恐 縮ですが……。 飯島 上手い下手もあると同時に、どっちにより多く の情熱を感じる体質かということもあると思う。 小林 極端な言い方になりますが、円了さんは、どち らかというと一匹狼的に自分の理想の実現に没入する人 だったのではないかと思うのですが……。 井上 私が聞いた話では、大学を経営する為に財政的 に相当苦労すると、それで神経衰弱になって退任する。 それともうひとつは、ひとつの大学だけではだめだと、 民衆教育のためには全国の津々浦々を回って講演しなけ れぽいけないと、そして講演の謝礼をもらえば大学を退 いても仕事も生活もできるという二つの観念があったよ うです。それと謝礼で集めた金で哲学堂をもっと充実さ せたい、そういう考えもあったみたいです。財政なんか 自分一人で握ってやるという苦労でだいぶ悩んだらしい んです。 飯島 一方で哲学堂のこともあったから。 高木 講習会と言った時期と市民社会の成立という関 係になりますと、明治三十七年には日本資本主義も根を 下ろしていますから、近代ヨーロッパで言う市民社会で ないまでも、社会構造が資本主.義体制としての面をもっ て絶対主義がそれなりに安定化をはじめるわけですね。 そういう意味でこの十七年間で対象が変って来たんじ口、 ないか。農民の方も身分的な寄生地主制が確立します。 そうするとそういう社会構造の変化にどう対応するか と、彼の理想を教えたいこれらの新しい層に開かれた教 育という面を彼は講習会と言っているんじゃないか。講 105
義録以上のものをなにか考えたのではないかと思うんで すが。その辺の資料は今残ってないですね。 大川 逆に言うと開いた大学としての哲学館みたいな ものがイメージされているとしたら、それが十七年間の 間に固定化して、そして飯島先生がお書きになったよう に、教育部と宗教部が哲学になり、倫理学科や国語学科 になっていくようなそういう型ができあがったというこ とで、そっから市民大学という構想をどうしても打ち出 せなくなってきている。 高木官の締めつけという意味……。 大川 いや、むしろ内部的に。だからこれはそういう ものがあっての投げ出し、そういう捉え方を私してみて いるんですけれども、同時に後継者として、大学の方は 前田慧雲さんですけれども、京北の方は湯本武比古さん ですね。まあ、前から並立でいってたのを、そのまま湯 本さんは別に大学に据えないで、ずっと残しておくって いったようなことも、いったいどういう発想をお持ちに なってたんだろうかという気がするんですけれども。 飯島 世良さんなんかその点をどうお考えでしょう。 世良 お話を聞いてくるとますます混乱してくるんで すけれども、たとえぽ年表を見てみますと明治三十五年 に哲学堂に大学の予定地としての土地を購入するわけで すね。そして修身教会の企画をその翌年、三十六年にや って、それから和田山にすぐ建築を始めるわけです。こ の辺のところは先生の考えと行動が大変ぶれているよう に思いますね前田先生に後事を託すと言っても、哲学館 事件で大混乱しているんですよね。 高木 もうひとつ見方を変えると、哲学館事件に象徴 されるように、学校教育では自分の思っていることはで きないというふうに割り切る点もでてくるんじ烏、なかろ うか。 針生 いや、それはさきほどの話の延長からすれぽ、 ひとつの帰結ですね。結局信仰者かつ生活者という。 飯島 制度内存在としての教育の限界を円了が見たと いうことがありそうですね。 針生 つまり日露戦争を目前に控えた国民意識あるい 106