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タイにおける領事裁判権をめぐって : 保護民問題の所在 [ On the Consular Jurisdiction in Thailand: A Preliminary Note]

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東南 アジア研究 14巻1号 1976年6月

タイにお け る領 事裁 判権 をめ ぐって

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AsoneofitsstipulationsoftheTreatyofFriendship and Commercebetween Siam an d GreatBritainslgnedin April1855,theBritishwereaccorded theprivilege ofConsularJurisdicti(m overBritish subjects・ Subsequently,similartreatieswere concludedwithvariousEuropeannations・ The provisionsofConsular)urisdiction couldbeeasilyconceded,foritseemedconvenientfortheSiameseatthattimetolet each consulate hold thetrialsofthesma一lnumberofEuropean traderswhowere accustomed toadiqerentlaw.

However,asthesituationschangedduringthelasthalfofthe19thCentury,the treatyprovisionsbecameburdensome・ TheexemptlOnfrom theSiameseJurisdiction wasextendedtomanyAsiaticsubjectsbornintheColonieswhichtheEuropeannations wereacqulrlngandevenmore,totheforeignprot6ges,mostlyChinese,registeredat someEuropeanconsulate. FJSpeCially,theFrenchconsulatewaseagertoenrollmany ChineseasFrenchprot6gds. Thuspeopleexcludedfrom thelaw andpunishmentof Siam increased by cverwidening scale. The Siamesewereobliged to takesome measuresastopreventthewhole・salecreation ofprot6g6S. Thisst】emed t()have constitutedoneofthemotivatlngforcesofthemodernization.

Ⅰ は じ め に

1855年4月13日, バ ン コク に お い て イギ リス と シ ャム1)との 間 に 締 結 され た 「友 好 通 商条

約」2)(通 例 イギ リス側 全 権 使 節

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の 名 を と り 「ボ ー リング条 約 」 と呼 ぶ) の

*東京大学大学院人文科学研究科 (東洋史学専門課程)

1)現代のタイ国 (PrathetThai)は,1939年まで,国名を 「シャムJ(Sajam,Siam)と称 した。 したが って, 1910年までを扱 う本稿では,具体的歴史事象については,国名 「シャム」を使用す る。 この場合の 「タ イ」(Thai)は, シャムの主要構成要素たるタイ人を指す, といちおう理解 してお く。(19世紀以前にも, タイ 「国」MuangThaiとい う表現は存在する。国家 と民をどのように表現 していたかば,本稿の課題 とも直接かかわ る問題で,今後詳細な検討を要す。)しか し,現在に至るタイの歴史を視角に入れた叙述 においては,国または社会を表わす語としての 「タイ」 も用いる。なお,民族学的分類 における 「タイ 族」については,綾部恒雄 『タイ族 その社会 と文化』弘文堂,1971,pp.1ト40 を参照。

2)TreatyofFriendshipandCommer(.ebetweenHerMajestyaridtheKingsofSiam. SigneJdatBangkok,

(2)

東南 アジア研究 14巻1弓・ 第 2条 は, イギ リス領 事のバ ンコク駐 在 (同条 約 批 准 後) を定 め, そ の権 限 の一 部 と して, 「両 国臣 民

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の あ らゆ る係 争 は, 領 事 が シ ャム 当 局 と合 同 で

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審理 ・判 決 す るo 刑 事 犯 罪 は, 犯 罪人 が イギ リス人 の場 合 は領 事 が イギ リス法 に よ って処 罰 し,犯 罪 人 が シ ャム人 の場合 は シ ャム当局 が シ ャムの法 に よ って 処 罰 す る。」 と規 定 した 。翌 1856年 間条 約 の批 准 交 換 の 際, 両 国 は さ らに詳 し く条 約 の 内容 を定 めた 「附属 協定」3)に調 印 し, そ の第 2条 に よ って, イギ リス の領 事 裁 判権 は, 民事 ・刑 事 と もに, 当事 者 が イギ リス臣 民 同志 の場合 , お よび イギ リス, シ ャム両 国臣 民 が 関係 す る訴訟 に 関 して は被 告 (人 )

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主 義 を採 って , 被告 (人)が イギ リス臣 民 の場合 に執行 され るべ き ことが 明 示 され た。 ボ ー リング条 約 は, この後 諸 外 国 とシ ャムが締 結 した諸 通 商航 海条 約 の範 型 とな り, それ ら は等 し く, シ ャム駐 在外 国 衝撃 の裁判権 を規 定 した。4) 諸条 約 が規 定 した飯 事 裁 判権

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[領 事裁 判 の もとで は] 外 国人 が本 国 の領 事 に よ って 裁 判 され るばか りで な く, この裁 判 は原 則 と して外 国人 の本 国 の 法律 に よ って行 なわ れ るか ら, 外 国人 は現 に生 活 す る国家 の法 律 秩序 に服 しない」 ことに な り, した が って 「治外 法権 」 で あ り, 「治外 法権 を負 担 す る国 家 は, 主 権 が制 限 され て い るので あ るか ら, 完全 独 立 国 で は な く,従 属 国で あ る」5)と理解 す るな らば, 近 代 タイ国家 の政 治 的独 立の維 持 は条件 付 きで 語 られね ば な らない こ とに な ろ う。

3)AgreementSupplementarytotheTreaty. Signedatliangkok,May13,1856. 4)以 Lの諸国と条約が締結 された。

theUnitedStates(May29,1856),France(Aug.15,1856),Denmark (May21,1858),theHanseatie Republic(Oct.25,1858),Portugal(FetJ.10,1859),theNetherlands(Dec.17,1860),Prusia(Feb.7,1862),

SwedenandNorway(May18,1868),Belgium (Auきて.29,1868),Italy(Oet.3,1868),Austria-Ilungary (May17,1869),Spain(Feb.23,1870) 諸条約は,領事裁判権を規定するとともに,関税を固定化 したいわゆる 「不平等条約」で,これ らの 完全な撤廃は,1920年のシャム-アメ リカ条約を皮切 りに,1920年代に実現 される。 Sayre(1926):pp. 678--688;Sayre(1928):pp.81-88を参照。 また,諸条約には期限がなかったことが大きな特徴である。この点は,条約の拘束性に関するシャム の認識如何 も問わなければなるまいが,儀事裁判権について考えれば,これがやむをえざる譲歩ではな か ったことを示唆す るとも考え られよう

(

注23参照)。 日本は, 1898年に 「日遅修好通商確約」を締結 し, その付属議定書で, 「遥羅圃 ノ司法改革 〔諸法典の編集〕ノ完了セラルル迄」蘭事裁判権を執行す ることを承認された (『日本外交文書⊂月第31巻,第1冊,pp・39-52)。これは,儀事裁判権を暫定的措置 と認め,撤去の可能性が示された点で,画期的なものとされるが (James(1922):p.594)この規定が シ ャムの司法改革に与えた直接的影響を筆者はまだ見出していない0 0 領事裁判権については,フランスとイタ リーのみが,イギ リスが1856年の付属協定において r実際的 でな くまた困難である」 として排 した民事の混合裁判方式 (theMixed Courtsystem)を採用 していた 点が重要である。混合裁判の管轄についての解釈が シャムとフランスで異なったため,紛糾の因となっ たo rLuangNathabanja(1924):pp.5ト52:Padoux(1908):pp.702-703l。各国領事裁判制度上の諸問 題 (管轄,裁判官,法律等)については,Nathabanja(1924)を参照O同書は,タイにおける領事裁判 を,おそ らく最 も包括的に扱 った讃物で,資料 として も有用である。

(3)

飯島 :タイにおける領事裁判権 をめ ぐって いま, この よ うな形式 的断定の是非 は問わない と して も, タイ近代史 を解明す る うえで, い わ ゆ るチ ャク リ改革期を通 じて存在 した領事裁判権 を看過す る ことはで きない と思われ る。 と りわゅ, タイにおける飯 事裁判権 は,次の二つの理 由によ って 特 異 な 問 題 性 を帯 びた といえ よ う。す なわ ち,(1)前近代 のタイ国家 においては,儲界概念が末成立であ り,その支配 の体系 は, タイ人以外 の多数のアジア人 の存 在を許容 して いた こと,(2)タイの周辺諸国が,19世紀 中 に ことごと く西 洋諸 国の植 民地 とな って,周辺諸国の民が,AsiaticSubjectsと して植 民地宗 主 国の臣民 中に編入 された こと, の二 つである。 これ らが結びつ いて タイにおける領事裁判権 は,少数の西洋人 のみな らず,多数の アジア人 にかかわ る もの とな った。 タイの国境 は,隣接諸 国をイギ リス, フランスが併合 あるいは保護国化す る過程 で徐 々に画 定 され, この国境 に基 づいて, イギ リスまたは フ ランスの Asiaticstlbjectsと 「シャム臣民」 の別が成立 した. しか し,地 図上 に国境線が 引かれて も,Asiaticsubjectsとシャム臣民の出 入 りは しきりで あ った し, また続 々とタイに流入す る中国人の-那 (英領 マ レー, 同ホ ンコン, オ ランダ儀東 イ ン ド, ポル トガル領 マカオ等か らの移 民) がAsiaticSubjectsの範噂 に属 した ため,国内に,外見 上は 「シャム臣民」 と異 な らないに もかか わ らず, タイ国家の裁判権 に服 しないアジア人 が相 当数存在 した。 このよ うな状況か ら,領事裁判権 の行使には少 なか らず混 乱 が伴 ったであ ろ うと推測 され る。 タイにおけるAsiaticsubjectsと して の権利 の取得 には,条 約 国の領事館 -の登録(registra -tion)を要 したが,数 カ国の領事館 は無条約国人 〔主 と して中国 (活)人〕に も保護民 (prot6g6S, protectedpersons)と しての登録を認 め,登録証 を交付 したので, 移 民制限のなか った当時に おいて登録が濫用 されれば,潜在的 には タイの裁判権 に服 さない人間が無 限に増大す る可能性 が生 じた。 本稿 は, この潜在的可能性 を顕在化 とさせた とい うべ き,1890年代後 半か ら1904年 までの問 に, フランスが タイで意図的に行 な った無制限の保護民登録 (本稿では これを 「保護民創 出

thewholesalecreationofprot6g6S6)と呼ぶ) を と りあげ, これがいかな る国内的条件 と連 関 す る ことによ って強力な外 圧 として機能 しえたか (この点 にかかわ る問題状況の総 体 を,仮 に 「保護 民問題」 と呼ぶ) を概観す る。 ●●●

『チ ャク リ改革』の全過程 を通 じて, タイの社会構造 のなかには, 近代化 の 内発的契機 が 欠如 して いた」7) といわれ るが, この よ うな構造 の指摘 は, 一方 における 「改革」 の過程 を, 単に起点 においてのみな らず, その後 の過程 を通 じて継続 して加 え られた外圧 との連関 におい て検 討す る歴史 的考察 を促 す もので あろ う。本稿 のね らいは, ともに変化 しつつある国 内的 ・ 国外 的条件 が互 いに反応 しあ う動態的過程 において領 事裁判権 を と らえる ことを心が けなが ら, 6)Sayre(1928):p.74. 7)矢野 (1975):p.122.

(4)

東南 アジア研究 14巻1弓 国外 的条件 が 「近代化」 の規定的契機 とな る歴史過程 についての,一つの烏轍 的見通 しを得 る ことにある。 もとよ り,足 を地 につ けた実証作業 をすべて今後 に委ねた研究 ノー トであ り,良 轍図 と して も不備 な点 が多い ことを断わ っておかねばな らない。 次節では,極 めて粗雑 なが ら,予備的考察 と して,前近代 タイの社会 と国家 に関す る研究 が これまで に提 出 して いる議論 の うちで,本稿 の課題 に資す ると思われ る点 を指摘 し

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9

世紀 中 葉 の タイ国家における領事裁判権 の設定の意味を考 えてみ ることにす る。

構事裁判権 の設定について

前近代 タイ史 に 関す る根本史料 で ある 『三印法典』 (KotmaiTraSam Duang)8)を駆使 し た比較的新 しい成果で ある AkinRabibhadanaの研究が, タイ社会 の機構 を理解す るうえで の最 も基本的な認識 とす るのは, タイ族 がその国家を形成 した大陸部東南 アジアにおける 「人 的資源 の不 足」(thelackofmanpower)

,

「国家 の支配面積 に比 して常 に少 ない人 口」, すなわ ち人間の稀少性で ある。 国家 (-王権) の存亡 は,究極的 にはどれだ け多 くの manpowerを 有効 に支配 で きるか にかか って いたため,稀少 な人間を確実 に掌握 し, その労働力を効率 よ く 運用す ることが常 に国家の課題であ った, とされ る。9) この必要 に応 じた タイ国家の方策 は

,

「すべての」 民を して, 国家が任ず る特 定 の 保 護 者 (Na主,master)の もとに隷属 させ, 保護者 を通 じて, 管理 ・運用 しよ うとす るもので あ った。 phraiと呼ばれた隷属 民は, その保護者 が所属す る部局 (Krom)ごとに登録 され, 国家 に対す る義務 (その大半 は格役労働のかた ちで) を負 った。10) いま,Naiと国家 との関係,Naiの身分 の違 いによる Phraiの区分,また Phraiとは異 な る隷属民で あるThatの存在等 は捨 象 して,理念上の民 と国家の関係 だ けを考 え るな らば,国 家 に とって民 とは, すべて Naiの下 にあ って, 国家 の民 としての刻印を帯 びた もの (トンフ リ朝以後

,

「すべての」Phraiに登録 と同時 に入墨を施 そ うとした11)ことは, この ことの直接 的表現 といえよ う) と してのみ存在 した。国家 の民た るために このよ うな手続 きを要す以 上, 実際には,常 に国家の支配 の周辺 に,国家 の秩序 の外 にい る人間 (登録 されていない人間) が 相 当数存在 しえたはずで ある。か れ らが捕 え られる と,国家 に対 して罪を犯 した者 として罰せ られた。 したが って民 の側か らみれば, 登録 されて Naiに属す ることによ ってのみ,国家 の 保護 を期待で きるので あ り,現実的 には,盗賊 (秩序外 の人間) に脅か され る危険 も軽減 し, また訴 えを起 こす権利 を も有す るので あ った。12)ここでは,行政権 と分離 した司法権 と しての 8)石井 (1968)を参照. 9)Akin(1969):pp.16-18,p.171. 10)石井 (1966)(1968)を参照。 ll)Akinによれば,入墨(sak)は,1774年のTaksinの勅令にはじめて現われる。Akin(1969)‥p・57;石井 (1968):pp.43-45を参照。 12)Akin(1969):p・20,p・57;石井(1968),p・42;Wales(1934)‥pp.195--196. 74

(5)

飯島 :タイにおける領事裁判権をめ ぐって

裁判権 は存在 せず,裁 判 は Krom ご とに管 轄 した.13)

この よ うな, いわば 「人 的支配」(governmentintermsofpeopleratherthanterritory)14) の必 然性 を,ConstanceWilsonは, ラー マ

4

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8)

の タイ の社 会 と 国 家 に 関 す る多岐 にわ た る膨大 な史 料 を 渉猟 して 著 した 論 文 にお いて, 人 口の希薄 に, 当該地 域 の地 理 的環境 とそれ に基 づ く居住 形 態(settlementpattern),お よび種族 的 多様 性(ethnicdiversity)

とい う条件 を加 えて説 明 して い る。 す なわ ち, 人 口は全 体 と してみ れば 希 薄 に 散在 して いた

が (scattered),実 際 にはそれ ぞ れか な り 明 瞭 に 限 定 された 河 谷 や 小 丘 に か た ま っ て お り (clustered),その よ うな形 で異 な る種族 集 団 (ethnicgroup)が 同一地 城 内 に混在 して い る こと

も稀 で は なか った, とす る。15)

国家 の地 方支配 は, この よ うな Settlementを単 位 と して, それ ぞ れ の首 長 (localruling family)を通 じて行 な われ て い た (familypolitics)。 地 方支配 の単 位 で あ った ban (village), muang,huamuangは, 人 が利用 して い ない土地 を も含 めた髄域概 念 では なか った ことに注意 す る必要が あ る。 中央 との直 接 的 関係 は,通常 huamuangの首 長 どま りで, muang,banは, それ ぞれ首 長 を通 じて huamuang,muangに従属 して, タイ国家 との 関係 を保 った。16)先に 指摘 された種族 的 多様性 を ここで想起 す るな らば, タイ族以 外 の種族集 団 も, この よ うな タイ 国家 の支配 秩序 の枠 内で, それ ぞ れの ア イデ ンテ ィテ ィーを保 つ ことが可能 で あ った ことが理 解 され る。 以 上 を ま とめて,前近代 の タイ国家 は,原 理 的 には人 的結合 に基 づ く人 間 の支配 を基 礎 と し, 領 土 (territory)を基 礎 とす る支配 は行 な って いなか った とい う ことが で きよ う。17) これ をふ まえて, ポ ー リング条 約 の規 定 した飯 事 裁判権 を考 えて み るな らば, 当時 の タイ国 家 に と って,属 人主 義的 な裁判管 轄 (personaljurisdiction)を意 味す る領事 裁判権 は18)む しろ 自然 で あ った と考 え られ よ う。 ちなみ に, ヨー ロ ッパ 人 の釆住 が多か った

1

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世紀 の タイ (アユ タヤ) に お いて は, 中国人, ペ グ一人 、 マ レー人等 の ア ジア人 を含 めた外 国人 は,国 ご とに各 々特定 の地 域 に居留地 (ban) を有 し,各 国人 ごとに頭 領 を戴 いて, そ の頭領 が 自国 の形式 に したが って居 留民 を統 治 して い た。 しか しこの際, 国王 の任命 した タイ官 吏 が頭領 の上 に あ って関 与 した とい う点 は重要 で あ る。19)

1

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世紀 につ いて は史 料 的制 約 に よ り確言 で きな いが, あ る程 度 ま とま った人数 に適 した 外 国人集 団 とタイの支配 者 との間 の この よ うな関係 は,

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9

世紀 の初 めに至 るまで,基 本 的 には 13)Wilson(1970):pp.406-408を参照。 14)/bid.,p.91. 15)JbidリP・49,p・91・ 16)I-oc.czz. 17)東北地方はこの点において例外をなし,ここではシャム国家権力が領土的支配を志向 した。その理由と してWilsonは, 他地域との地勢的相違,タイ ・ラオス問の政治的支配権争奪の場 となったという地理 的位置の特殊性をあげている。Ibid.,pp・120-124・ 18)小山博也 「条約改正

『講座 日本近代法発達史』第 2巻,1958,勤等嘗房,p・180・ 19)岩生 (1966):pp.153-155. 75

(6)

東南 アジア研究 14巻1号 変 化 しなか った と考 え られ る。 領 事裁 判 権 の設 定 に 関す る

,

「治 外 法権 は た や す く認 め られ た」20)あ るいは ま た,ボー リング 条 約 に お け る領 事 の権 限 は, 従 来 の外 国人 取 り扱 い方式 の 延 長 と して 認 め られ た,川 とい う見 方 は, 条 約 交 渉 に お い て, タ イ側 か らの 領 事裁 判 権 に対 す る抵 抗 が な か った とい う事 実 か らひ き出 され る。 しか し同 時 に, 条 約 を締 結 した ラー マ

4

世 が , 儀事 の任 命 自体 に 関 して は大 い に 危 ぶ ん だ とい う事 実 もあ った。22)国王 は, 触 事 が あ くまで もタ イ国家 の支 配 者 の統 制 下 に あ っ た アユ タヤ時 代 の外 国 人 頭 領 とは異 な って , そ の権 威 を全 く外 の権 力 に 由来 す る こ とに気 づ い ● ● ● ● ● て い た と思 わ れ る。 に もか か わ らず , 確 か に領 事 裁 判権 は た や す く認 め られ た。 しか しこの時 , タ イ にお い て 承 認 され た領 事 裁 判権 は, 近 代 国家 の主権 の一 郎 を制 限 す る 「治 外 法 権 的 特権 」 (extraterritorialrights)と して の領 事 裁 判権 で は あ りえ なか った.23) 飯 事 に 関 す る懸 念 は, 条 約 に よ って 開 始 され る 自由貿 易 に期 待 して , 独 占貿 易 に 執 着 す る旧 い世代 の 反発 を 押 え な が ら条 約締 結 に導 い た 国王 を 始 め とす る顕 官 た ちの積 極 的 姿 勢24)の前 に消 え去 ったか に み え る。 しか し,条 約 締 結 は, か れ らが 列 強 の侵 出に 対 す る危 機 感 を い だ き な が ら もつ な いだ 期 待 とは遠 く, 近 代 資 本 主 義 が構 築 す る世 界経 済 体 制 の 内 に タ イが 位 置づ け られ る ことを意 味 した 。 こ こで は もはや, タイ の問 題 を, タ イ固有 の論 理 だ けで処 理 す る こと は不 可能 とな るの で あ る。25)

20)h SearchofSoutheajlZA∫ia,1971,NewYork:pp.114-115.

21)Wilson(1970):p.386.Wilsonの記述 自体 は

,

「従来の方式 jを 「前近代 アジア」全体 にあてはまるこ ととして不正確だが, これはボー リング条約以前の シャムの対外関係全般の評価につなが る問題を提起

しているoボー リング条約 における領事裁判導入の意義について,以下の議論 も参照o Hall(1968):p.669;Ingram (1971):pl)・27-28;Nathal)anja(1924):pp・31-35・ 22)Bowring(1857):Vol.2,pp.32ト322. 23)一般 に

,

「治外法権」 と 「領事裁判権」の両語は混用 されている。その原因は,F層 事裁判を認める

国-

- 「治外法権国家」すなわち近代独立国家 としての主権の未だ確立せざる国, という認識にあると考え られるO つまり

,

「治外法敵」という場合には, 国家のあ りうべき姿としての触土主権の確立が前提 と して存在するのである。ところで,領事裁判権を承認す るシャムの側では,それを国家統治における例 外 としてではな く,前近代的な属人主義的裁判管轄の観点か ら,当然の便宜 として認めたのであれば, 条約締結時において領事裁判権を r治外法権」 とみなす ことはありえない (タイにおいて, 本文に引 用 した平野のような認識に立 って, 主権の確立が強 くn叫まれたのは, 第一一次世界大戦以後であろうo Nathabanja(1924)は, この段階で書かれた r近代的治外法権諭」である)。 したがって

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領 事裁判権 の設定」

「治外法権の確立J とするのは,あ くまで も近代国家の認識 とい うことができよう。 本稿 は, 領事裁判権が次第 にシャムにとって陸橋 となり,r近代化

の課題が出現する過程を重視す ることを

旨とす るので, 「領事裁判権」 と直ちに等 しく置かれる 「治外法権」の語 は,原則 として文 中に用いない。ただ し, 史料中に 「治外法権」 とあるのは, そのまま記す。また,「飯事裁判権」とい って も,単に裁判上の権利に止ま らず, これが保障する条約上の諾特権 (関税その他の課税上,警察上 等),さらにその運用 によって営まれる種 々の政治的機能を付随 していることは,「治外法権」 という場 合 と異 な らない。本稿ではまだ厳密に論 じていないこれ らの領事裁判権導入が もた らす広範な結果につ いては, さしあたり,Piggott(1907):p・22;三浦徹明 「"中国におけるイギ l)ス裁判所"の設掛 2月題 と7 -ン戦争

『歴史学研究』430号(pp.2-18);pp・2--3を参照。なお,三浦論文は,中国における,アヘ ン 戦争に至 る司法権問題を論 じた ものであるが, シャムに対するイギ リスの飯事裁判権要求が,中国にお ける経験を背景 として出てきたとすれば,当時のシャム圧Ⅰ家にとっての領事裁判権設定の意義を考察す る上で, シャムが中国の状勢をどのように理解 していたか も重要なポイン トであろう。 24)Bowring(1857):Vol.2,p.356.

25)Bowring(1857):Vol・2,pp,290-291,p・295にある,Bowringとシャム高官 との間の米輸出をめ ぐる会 話は,両者の 「自由貿易 」の懸隔を鮮やかに示 している(,

(7)

飯島 :タイにおけ る領事 裁判権 をめ ぐっ て

Ⅲ 対外 関係 におけ る保雑居 問題

(1) フランス保護民創 出の背 景

1

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11

日, シャム政府総 務顧 問

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は, 日本 の在避 代 理公使 との面談 において,

「差 当 り最 も苦心す る所 は醸条 約 国臣民殊 に清 国人が容 易に仏 国債車館 に登籍 して其保 護 を 受 け得 る件 に して之 を防禦す るの方法 を案す るは 目下 の急務 」 で あ るといい, 「不 日彼 の 不正不 義な る治外法権 の域 を脱す る

日本 の経 験 に基 づ く助言 を 日 本側 に求 めた。 これに対 して代理公 使 は,参考 にな るべ き ものが あれ ば提 供す るが, 「我

に於 て は(略)在遅 羅仏 国領事館 に於 て 目下二束三文 に無条約 国人民 を登録 して其保護 を受 け しめ るが如 き類 の経験 に遭遇 した る ことは曽て無之 」 と答 えて い る。26)

当時総務顧 問補佐

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と して シ ャム政府 に雇用 さ れていた 日本 人法 律家政尾 藤 吉27)揺, この 目本 がかつて遭遇 した ことの ない経験 につ いて, 次 の よ うに語 って い るL, 「仏蘭 西は適 確 で支那人登録 といふ ことを頻 に行 ふ

」「何万人」 とい るそ うい う 「登録証 を 持 って屠 る支那人 は (略 )大抵無学 文盲 の労働者 で あ るか ら随分無理 な ことを言 ふて も悪 い事を して も仏蘭酉が保護 して呉 れ るか ら大丈夫 だ と思 って屠 る」 た めに, 「毎 日毎 日 〔かれ らに〕 関係 す る民 酎 用事 の事件 が遅雁 の何処 かで起

り, そのたびに 「仏 蘭西公 使館 と遵雁 の外務省 とが公 文で喧嘩 を して屠 る」 と。28) 周 知の よ うに, フ ランスは, ベ トナムに支配権 を確立 し, カ ンボジアを保護領 と して

,1

887

午, フ ランス魔 イ ン ドシナ連 邦を結成 した。 これに続 いて フラ ンスは, メ コン河以東 は今 や フ ランス支配 下 に あ るア ンナ ンの旧領で あ ると主張 して, この地 方 に対す る シャムの領土権 を否 定す る と

,1

89

3

年4月 には係 争地帯 に出兵 し, シャムの駐 屯軍 と戦 火 を交 え るに至 った。 同年

7

1

3

日,チ ャオプ ラヤー河 に‖こ派遣 された フ ランス海 軍砲艦 がバ ンコクまで遡江 して発 した 最後通牒 を シャムが受 講す るまで の, イギ リスを交 えた三 園の交渉 の模様 は,パ ー クナ ム事件 26)r総務顧問ジアクミン氏 卜面談ノ件」(明治32年3月14日),日本外務省Bo 27)政尾藤吉 (187011921)1870年愛媛県に生まる0 1897年6月Yale大学D・C・IJ・取得。1897年10月-1913 年10月シャム政府顧問 (総務顧問補佐, 後に 司法省顧問として 法典編茶に携ったほか,控 訴院判事 PhuPhiphakaaSamUthon,最高裁委

KammakanI)ika等を勤めた)0 1920年12月避羅国駐在特命全 権公使に任ぜ られ, 翌21年8月任地バンコクで死去。 古典 ヒンドゥー法との関係をはじめて指摘 した

lWales(1934):p.109」とされる シャム古代法の研究がある (「遅滞国古代法研究二就テ

『法学協会雑 誌』18巻, pp.6231-643,"Researches into Indigenous I.aw ofSiam asa Study ofComparative Jurisprudence

,

"

JournalofzAeSiam Soct■ety,Vol.2,Pt・1,ppl14-18・)0

政尾藤吉に関する主な文献 :政尾隆二郎編刊 『政尾藤吉追悼録』1922,東京 ;日本外務省A①政尾藤 一UOir

(8)

東南 ア ジア研 究 14巻1号

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と して よ く知 られてい る。

この結果 フ ランスは, 10月

3

日に調印 された 「講和条約 」 お よび 「同条 約執行 に関す る協 約」29)において, メ コ ン河以 東 お よび同河中 の島峡 を得 た ほか, フ ランス髄 に隣接す るシャム

領 にお ける武装解除等 を要 求 し, また 「同条約 の各条項 が完全 に履行 され るまで

とい う条件 で, シャム領 内のチ ャンタブ リ

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占領 を シャムに認 めさせ た (「協約 」第

6

条)O

フ ランスのチ ャンタブ リー 占領 は, シャムの条約履行 に もかかわ らず,結局1904年 まで継続 され, 同年 2月13日に調印 された新 「協約」30)によ って, フ ランスはチ ャンタブ リー撤兵 とひ きかえに, メ コ ン河西岸- の進 出を果 た したO フ ランスは,1893年か ら約10年間 にわた って戦 後処理 を ひ き延 ば し,領土的要求 を貫 徹 した といえよ う。 ま さに この時期 に,フ ランスは タイにおいて「で きるだ け多 くのアジア人 を

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3り と して 〔フ ランス領事館 に〕登録せ しめる こと」 を 「政策」 と して遂 行 したので あ る。 そのや り方 は, これが 「バ ンコクに あるフ ランス公 使館 (領事館 ?)の主 た る業務 の一つで あ ると思 わ れ る」 ほ ど 「大規模

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で あ った。32)このために, シ ャム当局 とフ ランス公使館 の 問 に絶 えず摩擦 を生 じて いた ことは,先 に引用 した政尾 の発言 のみな らず,多 くの史料が証言 す る ところで あ る。 シャム とフ ランスが緊張 関係 に あ った この時期33)はまた,シャムが 国内の制度的改革 を本格 的に開始 した時で もあ った。1892年 に創設 され た中央諸官庁 の主要部分 を,1896年 に ラーマ 5

王 の信任す る王族 た ちが掌握す る と, ダ ム ロ ン親 王の下 にあ る内務省

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に よる地 方行政改革 を軸 と して, 中央政府 の統治権 力の強化 が図 られた. チ-サー ピバ ー ン

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体制 と呼 ばれ る新 しい地 方支配体制 の確立 は,

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に よる

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の人身支配 を廃絶 した 「髄域統 治 の成立」, す なわ ち 「画定 された各 レベル の行政嶺域 にお ける人民 の統 治」 の誕生 と評価 されて い る。34) この点 につ いて は,本稿 の末尾 で若干 ふれてみ たい。 (2) ベルギー人顧 問 の役割 さて,政尾 は先 の発 言 に続 けて,

29)TreatyofPeaceofOctober3,1893.;ConventionfortheExecution oftheTreatyofPea・ceand orthe Ultimatum. SignedatBangkokOctober3,1893・

30)The1904Convention・ SignedatParis,February13,1904・

31)これはイギ リス人の記述であるため,"LSubjects"となっていると思われる。 "Britishsut)ject"の定義に

おいては,"aBritish・protectedperson"を含む。Piggott(1907):p.68.

32)Campbell(1902):p・314・保護民は数万人といわれるが,正確な人数を知ることは困難である。 登録鉦

の不正取得, 売買, 譲渡が広範に行なわれていた模様で (「登録証についての不正を防止する法

)

,

"PhraratchabanyatSamrap Pongkan K礼n TutcaritDuaiNangsu Samkhan ThiCotThabian Chu SamrapTua,"P.K.PISリVol.21,pp・19-20参照Oただしこの法律の公布は1906年),保護民の権利を主 張する者は,登録数をはるかに上まわったと思われるO参考までに記せば,Rongは,Frcnchsubjects

が,1893年200名から1896年には30,000名に増加 したとする〔Rong(1973):p.140〕。 また,保護民創出 規制後の1907年に発表されているシャムにおけるフランス人人口は, Ⅰ.フランス市民200名, Ⅱ.バン コクをはじめとする全国 5カ所におけるAsiaticsubjectsぉよびprot6g占Sの登録総数 15,000名強となっ ているODirectory(1907):p.121.

(9)

飯島 :タ イにおけ る領事 裁判権 をめ ぐって 「けれ ど も 〔フ ラ ンス公 使 館 の〕 実 際 の喧 嘩 の相 手 は外 務 省 で な くて 司法 省 で あ る

「遁羅 政府 の法 律 顧 問 で あ って 司法 省 の主任 顧 問を して屠 る者 , それ が総 て外 事 に 関す る公 文 の案 を立 て

「草 案 を書 く」 ので あ り, 当時 そ の任 に あ った の は ベル ギ ー人 で あ る, と述 べ て い る。35) ここで, 1890年代 か ら20世 紀 の初頭 にか けて, シ ャムに多数傭 聴 され た ベル ギ ー人 法 律顧 問 の果 た した役 割 に触 れ な けれ ば な らな いO

そ の中心 的 存 在 で あ った の は,本節 の 冒頭 に登場 した

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な る人物 で あ る。36)

か れ は, 1892年 か ら1902年 の その死 に至 るまで, シ ャム の総 務 顧 問 を勤 め た。 この間 , ラー マ 5世 お よ び改 革 の推 進 者 で あ った親 王 た ちの全 幅 の個 人 的信 頼 を得 て, 諸 改革 の方 針 作成 に, 他 の誰 に も増 して 多 くの示唆 を与 え た といわ れて い る。37)外 交 交 渉 に立 ち会 い,外 事 の公 文 を した た めたは か, 特 に法制 度 の改 革 に した が い, 同 国人 の法 律 家 を大 ぜ い シ ャムに導 い た。 か れ らは, 法 律顧 問

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,法 律顧 問 官補 と して, あ る者 は新設 され た首都 お よび地 方 の裁判 所 で 働 き, あ る者 は法 律 の編 纂 に従 事 した。

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は, そ の50代 の 後半 に, 不 断 の 困難 に直 面す る シ ャム外 交 へ の助 言者 と

33)この間の, シャムがおかれていた国際的環境を大局的にみるな らば, シャムは1890年代を通 じて, 英 仏の植民政策の一つの交鉛点 の位置を占め, 1904年 に ドイツの台頭の前に英仏の提携 (「英仏協商」 AngloIFrenchEntente, シャムについては 『シャム ・マダガスカルおよびニュー-へブ リデスに関する 宣言』)が成立 した時,英仏間のシャムという一つの懸案は,その儀土保全の確認という形で処理 され た,ということができよう。 ところで

,

「英仏協商」より8年前,1896年の 「英仏宣言」 Declaration between GreatBritain and FrancewithregardtoSiam andtheUpperMekong,SignedatLondon,January15,1896・,BlueBoob,

FranceNo.2(1896)は,既にチャオプ ラヤー平原の領土保全を誇 っている. これ らの英仏間取 り決め は, シャムとは無関係に, ヨーロッパにおける英仏交渉によって成立 しているか ら, シャムの 「独立問 題」の解明には,英仏の外交史料を もってはぼ事足 りるとして,その結果

,

「英仏宣言」を重視 し

,

「英 仏協商」は, シャムに関する限 り,1896年の宣言の再確認にすぎない,とするのがJeshurun(1970)であ る。 しか し, タイ史における両宣言の意義は, もちろん全 く異なるものである。例えば,1901年にバ ン コクエコラー ト鉄道が開通すると,これに乗 じてフランスが一気にバンコクを陥れる危険性が生 じた, と英人財政顧問が英政府に轟剣に対策を求める建議を行なっている ("MinutebytheFinancialAdviser (C.Rivett-Carnac)uponthepresentpoliticalsituation,"13thFebリ1902.日本外務省B)ことが示すよう に, シャムの独立は,決 して1896年の宣言によって保証 されたわけではなかった。 対外関係が シャムに及ぼ した影響を考える際, シャムにおいて,英仏の圧力が等 しく実感 されてはい なかった,という点は重要であろう。本稿が特にフランスとの関係をとりあげる理由もそこにある。イ ギ リスは,貿易上のみな らず, シャムの内政上で も,財政を始めとする国政の枢要部に顧問を送 り込ん で,着実に地歩を固めていったために,かえってシャムと正面か ら対立することは少なかった。これに 対するフランスの威嚇的政策はシャムに強い対仏不信感を醸成 し

,(

「過羅皇帝 ヨリ仏団総督へ使節派遣 ノ件」, 明治32年 3月21日 ;「遅羅 図 二於 ケル仏 蘭西 ノ活動 二就キ報告 ノ件」大正10年12月26日,Jbid・) ユ904年以前にシャムに哨用 された仏人顧問は,衛生局土木課等に若干を数えるのみである。この場合, シャムにとってのフランスがパ リではな く,主 として仏髄イン ドシナ政府の 「植民主義者」たちであっ て, シャムが常に植民地新聞の論調に神経をとが らせねばならなか った ("Minute",Ih'd・)という状況 を認識 してお く必要があろう0

34)田辺 (1972-b):p・63,p・73・ 35)政尾 (1908);p・1629・

36)以下Rolin-Jaequemyns個人の経歴に関する記述は,DeSaint-Hubert(1965)によっている。

(10)

東南 ア ジア研 究 14巻 ]号

して招 かれた時,す で に国際法学者 と して ヨー ロ ッパで名を成 し,38)故国 ベルギーで は国会議

員 な らびに内務大 臣 (1878--84)の経験 を有 した。 その思想 の中心 は, 国際紛争解決手段 と して の国際裁判 (internationalarbitration)の 重祖, 小

も国際法 に照 らして大国 と等 しい権利 を 有 す る とい う諸 国家間 平等 の主張 にあ った とい う,

Rnlin-Jaequemynsが総務顧 問で あ った時期 の シ ャム外交 には, フ ラ ンスの要求 を多年 にわ た って拒 否 した ことにみ られ るよ うに, 大国に立 ち向かお うとす る姿勢 が あ り,上 に簡単 に記 した よ うなか れの学者 と して の信 念 の影響 を看取す る ことがで きる。 しか し,だか らとい って 政尾 の ごと く,Rolin-JaequCmynSを シャム外 交 の 「黒幕」39)と呼ぶ ことが適 当 とは思 われな

いoRolin-Jaequemynsの発言 は, それが シャムの要請 に合致 した もので あ ったが故 に歓迎 さ れ,尊 重 されたので はないだ ろ うかC,かれが正義 あるいは公 正:.と信 ず る ところの見解 が,西洋 の言葉 を もって語 られ るシャムの主張 と して認 容 しうる もので あ ったた めに, シャムがかれの 権威 に期待 して, その代 弁者 と して利用 しよ うとす る面が強か ったので はないか。40)

しか し,Rolin-Jaequemynsの任 用 は, シャムが意図 した効果 をJilまず, 領事裁判 を 「不正 不 義」 と断ず るかか る代弁者 の存在 は,対外 関係 にむ しろい っそ うの

蝶 を もた らした。 その 経歴か らして, かれ らと して も一 目おか ざるをえないRolin-Jaequemynsの原則論 と しば しば 衝突 した西 洋側 は, その仕事ぶ りを

,

「外来 の理論が原住民 の思 い上が りを助長」 した と珊旅 す る こと もあ った。41) 「仮令 ば外 国政府 に向て或 る事件 に閲 し公文 を立案す る場合 な どに於て も事件 の真相 を法 律 的 に解剖 し又 は議論 し法律 家 の見解 と して は随分価値 あ る ものには相違無之 も外交 文書 と し て は,徒 らに外 国政府 の悪 感情 を生」 じて

,

「当国の如 き其 の開明未 だ幼稚 な る国

の 「国情又 は事態 に適合 せ ざる こと多 く」 と記 したのは, 日本 の公 使 で あ った (1898年12月 4日付)042)シャム とフ ランス公 使館 の 「喧嘩」 の よ って きた る所 は, ここか らほほ推察 しうるで あろ う。 (3) ベルギー人顧 問 の見解 シャムの裁判所で働 いたベルギ ー人法律顧 問 の うちの一 人で あ る43)AugustDangeが1900 年 に発 表 した 「シャム におけ る外 国人 の法的地 位 と司法制度 につ いて」 と題す る論文 は, シャ ムがベルギ ー人 を介 しなが ら, フ ランスに対 して行 な った主張 の原則 を明 らか に して い ると思 われ る。同論文 は,

38)Campbell(1902):p.177;Norman(1895);Ⅰ一・486・ 39)政尾 (1908):p.1623.

40)Rolin-

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aequemyns白身が自らのシャムにおける 「奇妙な」地位を語っている記述 DeSaint・Hubert (1965):p.184を参照。ベルギー人顧問は,少な くとも後半の r行政各部の重要なる地位」を占めた 「本 国政府の利益を間接に代表する政治的任命者

『顧問制度』p.73)たちとは性格を異にした。 41)Norman(1895);p・488・ 42)「本邦人政尾藤吉選罪因政府-招哨ノ件

J

(明治30年12月4日),日本外務省A。 43)DeSaint・Hubtrt(1965):pl189・ 80

(11)

飯島 :タイにおけ る領事裁判権 をめ ぐ 一・,て

「シャムにお ける外国人 の法的地 位 を検討す る際には, は じめよ り, シャム と治外法権条約 (untrait6d'extra-territorialit6)44)を締結 した国の国民 (lesnationaux)とそ うでない外 国人

の間に本質的区別 をたて る ことが肝 要である」45) とい う断固た る調子で始 ま ってい る。 そ して

,

「最 も興味深 くかつ非常 に重要 な問題

,

「治 外法権条約の規 定を適用 さるべ き人を確定す る こと」,す なわ ち 「条約締 結 当事 国民 だ けが治 外法権的特権 に訴 え る ことがで きるのか, または無条約 国人 も (略)同 じ特権 を享受 しうるの か」 とい う問題で あ り, これが重要 なのは,現 に シャムにおいて, 多数の無条約国人が条約 国 の領事館 に保護 民 と して登録 され,治外法権の特権 を享受 してい るとい う状 況(lacirconstance) が あるか らであ る,46)と保護民問題 に焦点を合 わせ て,理 を尽 くしなが ら,かつ腕 曲にではあ るが,全体 と して フランスを鋭 く糾弾す る内容 を もつ。 フランスの保護民創 出を批 判す る Dangeの論法 は次 の どと くで あ る。 まず,前提 と して, フランスが シャムで行な って いる保護民登録の法的根拠がLcvantにお いて フランスが有す る権利か らの軸椎 であ るとされている。47)Lcvantで は, フ ランスが, オ スマ ン・トル コ と締結 した Capitula.tionsと呼ばれ る外 国人の地 位 に関す る条約 において

,

「他 の如何な る旗 の下に も」 (sousaucuneautrebanniとre)保護 を期待で きない外国人 に対 して,

もっぱ ら保護 を与える権利 (lemonopoledelaprotection)を認 め られてい る。48)

Dan geは, シャムにお けるフランスの,現 に行使 されて いる上 の権利 を, (1)条約 上の規定, および(2)シャムにおける無条約 国人の地 位, を明 らかにす ることによ って否定す る。

(I)シャム- フ ランス条約 (1856年8月15日調印)は

,

「フランス領事は, シャム臣民同志 また は シャム人 と外 国人の間の係争 に対 して は, 如何 な る干渉 も行 なわない」 (第

8

粂) と明確に 規定 してい る。 (2)哲学的宗 教 (unerel短ionphilosophique)で あ る仏教が支配す るシャムには Levantにおいて Capitulationsの規定 を必要 と したイス ラム教 の どとき狂信 はな く,外 国人 は一般 の シャム人 と同様の 「特権 と自由」(lesprivilとgesetlibert6S)を享受 してい る, とい う のが その骨子で ある。49) このよ うに無条約国人に対 して条約 国の保護を与 えるべ き理 由が存在 しないに もかか わ らず, 現実 において, フ ランスに よ る中国人 の保護民化 が行 なわれて いる ことに抗議 して, Dange は次 のよ うに記す。 44)注23)を参照。 45)Dange(1900):p.461. 46)Jbid.,p.462.pp.465-466・ 47)/bidリp.463.p.465.

48)LaCapitulationde1740(art.32)・フランスの保護独占権を規定 した Capitulationsは以下のとおり。

1581(art.1), 1597(1), 1604(6), 1973(6). (Jacquemin,Jean,Laノ〟rz'dzl{tionpCna/edc∫Con∫u/s

Franfaisdan∫le∫pay∫/iOrSCカrit2-C,l

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i,Paris1910,pp.27AO・) 49)Dange(19001:p・465.㍗.477.p.704.

(12)

東南 ア ジア研 究 14巻1号 「私 は, それ 白身が治外法権制度 の下 にある国 〔清 国〕 の臣民が治外法権 を認 め られてい る 国の例 を他 に知 らない

「よ くあ ることだが, あま り良心 的でない者や,間違 った情報を吹 き込 まれた者 の言葉 を信 じて, シャムの人民や シャムの法 と権 力の下 にある外 国人 〔未登録 の無条約国人〕 が,情 け 容赦 もな く暴利 を怠 る役人の餌 食 とな ってい るとか,専制 と無秩序 が全土を支配 してい ると 想像す る ことは誤 りで ある

(これは, フランスが保護民創 出正 当化のために行 な った宣伝 活動の存在 およびその内容を推測 させ る記述 で ある。) 「確かに時折,権利 の濫用 (abus)はみ られ るが, 日ごとに少 な くな って い る。 それに忘 れ てはいけない。 ヨー ロ ッパ人が治 めている国 も,悪弊 を免れて い るわ けではない ことを」50) そ こで Dangeは次 に, シャム人が享受 して い る 「特権 と自由

を示す ために, シャムの法 制度お よびその改革 の現状 を伝 え る。その詳細 は省略す るが, シャムの対外関係 における 「特 別 に困難な状況」(unesituationsp6cialementdifhcile)51)を理解 し, シャムの実情 に則 した漸 進的改革 を評価 しなが ら, シャムの姿 を正 しく伝 えよ うと意図 してい る。 ●●● ここに紹介 した Dangeの論文 につ いて, 最 も注 目すべ き ことは, これが, シャムが条約 に ●● よる 「治外法権 国家」で あ ることは規定 の事柄 と して,中国人を主 とす る無条約国人に対す る 裁判権 のみを問題 としてい る点で ある。 ヨー ロ ッパ人 に対す る裁判権 の獲得,す なわ ち髄事裁 判権 の完全撤去 とい う課題 は,少 な くともここでの Dangeの意識 にはのぼ って いない。 これ が当時の シャムの方針 を忠実に反映 してい る とすれば,極 めて興味深 い。 Dangeは, ベルギー人が協力 して い る法典編纂事業 にふれた箇所で, 「ヨー ロ ッパ人が,西 洋文 明 と全 く異 な る文明を有す る民 (unpeuple)に, よき法 を与 える ことは如何 に難 しい ことか と思 う。 (略)〔民族 の 「特性

(leg6nie)にそ ぐわない〕 怪物の よ うな(monstreux)作品 〔法〕 をつ くらないためには

,

〔その歴史 を学 び〕,その風俗に親 し み, その精 神の理解 に努 めな ければない」 か ら,事業 は手間取 るが, そ うす る ことによ って,民族 に調 和 した,長 く存続 しうる法 を制定 で きるで あろ う, と記 して いる。b2)ここに示 されて いるのは,法典編某が, またおそ らく法制 度改革 の全体 が, よき 「シャムの法」

,

「シャムの制度」を 目指 してお り,急激 な西洋化 (-近 代化) を課題 とは して いない とい うことで あ ろう。 そ して,領事裁判権 に関す る主張が,西洋 人の裁判権 にふれて いなか った ことを考 え合 わせ ると, 当時 の シャムが望んで いたのは, シャ ム固有 の支配秩序 を侵 されない ことであ って,異質の文明を もつ ヨー ロ ッパ人 は,原則 として, 50)/bid.,p・466,p・476・Dangeは,カンボジアにおける内国関税制度を批判して,「シャムの関税制度は, 中国のそれより好ましいばかりでなく, フランス保護領カンボジアの制度にも優る」 (pp.475-476)と も記 している。 51)IbidリP.716. 52)laid.,p.709・ 82

(13)

飯島 :タ イにおける領事裁判権 をめ ぐって かれ らに適 した法の下 にあ ってい っこ うに差 し支 えなか ったのではないか と思われ る。 ベルギー人 が参画 していた時期の法制度改革 の実態を知 ることは,本稿 の主題 に とって重要 な意味を もつ ものであ り,今後是非 と も検討 しな ければな らない と考 える。 さて,

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に対す る抗議 は,

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がそれ と承知の うえで行 なわれていたので ある以 上, フランスの耳に届 くことはなか った。 フ ランスが保護民創 出の規制 に同意 したの は (1904

年 の 「協約」 による)

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が シャムを去 って,代 わ って総務顧 問に任用 された アメ リカ人

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153)の 口を通 して シャムが譲歩 に踏 み き った時 であ る。 もちろん, これには, 1904年4月

8

日の 「英仏 協商」 によ って, イギ リス-フランス間で,最終 的 に シャ ムに関す る合意が成立 した (『シャム ・マダガスカル およびモ ロ ッコに関す る宣言』) とい う 前提条件が あ った。 しか し,和解 は, 国際社会 にお ける正義 と公 正にあずか る対等 の国家 と し て の主張 を放棄 した時初 めて可能 にな った, とい って よいだ ろ う。 (4) フ ランス保護民 に対す る裁判権 の獲得 フ ランスの保護民創 出が, 単に外交 上の問題ではな く,改革途上 の シャムの国民的統合 の行 方 に挑戦す る意味を もった とい う点 については次節 で述べ るが,条約 関係 の上か らも,大量の フ ランス保護民 の発生, それに伴 い国 内の多数の人 々に対 して シャム政府 の統制が及 ばない と い う事態が シャムに与 えた圧力は,間接的にではあ るが知 る ことがで きる。 1904年の 「協約」において, シャムが獲得 した と言 い うるのは, チ ャンタブ リー撤兵 の条項 のほかに,保護民 に関す る第10条,第

1

1条,第13条, および裁判権 に関す る第12条 で あ る。 第10条,第

1

1条 で は,次 の よ うに保護 民創 出を既成事実 と して認 めなが ら,第13条 は新 たな 登録,保護 を否定す る もので,保護民創 出が

,

「領土割譲

を迫 る政治的圧力 と して用 い られ, その根拠 とされたいかな る事柄 も口実にす ぎなか った ことを うかが うに十分で ある。 第10条 シャム政府 は,双方がその登録証 を不正 に入手 した と認 め る者 を除 いた現在時 〔1904 年

2

月13日〕 の フ ランス保護民

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の リス トを受理す る。(略) 保護民の 子 は, (略)次条 に規定す る人間の範境に入 らない場合 は,登録を 申請す る権利 を有 しない。 第

1

1条 フランスの直接統治下 もしくは保護下 にあ る領土 に出生 したアジア人

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は,出身地 が フランス統治下 も しくは保護下 におかれ る以 前 に シャムに 来住 した者 を除 いて, フ ランスの保護 を受 ける権 利 を有す る。 フランスの保護 はその子 に与

53)EdwardHenryStrobel(1855-1908)1902-1908在任。前職は theHarvardLaw Schoolの BemisProf.

oH nternationalLaw。Strobelに続いて同じくtheHarvard Law School出身のアメリカ人たちが総 務顧問 ・外交顧問に任ぜられ,条約交渉にあたったoEldon

J

ames,FrancisSayreもこれに含まれる。

strobelおよびかれに続 くアメリカ人顧問に-いては, 次を- o w - ,- 絢 `融 ny7"N'u晶u

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-仰 ぎ.3':,品〟aLγ /

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蒜pn甜郎∵ 冴aJUl叩 an,W.PT. 舶 吋 Ppl348-372;ThamsookNumnonda,

"TheFirstAmerican Advisersin ThaiHistory,"Journalof the Siam Socz'ety,Vol.62,Pt.2,pp. 121-148.

(14)

東南 ア ジア研 究 j4巻1号

え られ るが,孫 には及 ば ない。

以 上の規 定 に よ り, 1904年 2月13日以 前に登録証 を交 付 された者以 外 に は, フ ランス保護民 と 呼 ばれ る者 は存在 しない ことにな り, また Asiaticsubjectsの増 加に も歯止 めがか け られ た() 同協約 第12条 は, 北 部 (Chiangmai,Lakon,Lampo。nchi,Nan)において, フ ラ ンス属民

(ressortissants)(フ ラ ンス市 民 citoyensを 含む 。 ただ しこれ に該 当す る人間 は この地 方 にほ と ん どいなか った ので実 際的 意義 は認 め られ ない。逆 にそ うで あ ったか らこそ含 まれ たので あ ろ ラ) の関係 す る訴訟 は, シ ャムの裁判 所 (InternationalCourt,SanTangPrathet)54)に提 訴 すべ き ことを規 定 した。 北 部 に限定 され た この条項 が,裁 判権 を め ぐる紛糾 の続 く事態 の改善 へ寄与 した と ころは あま り大 き くな い と思 われ る。 なぜ な ら

,

「何 万人 」 とい るフ ランス公 使 館 の登録証 を有 す る中国人 の圧 倒的 多数 は, バ ンコクとそ の周辺 に集 中 して いた ので あ るか ら。 しか し, 1904年 の 「協約 」 は, 明 らか に シャム -フ ラ ンス関係 に お いて一 つ の期 を画 し,裁 判権 問題解 決- の見通 しを与 えた。 それは

,

「協約 」締 結 時 の了 解事項 と して, シ ャムが フ ラ ンス人 の立 法顧 問 (Legislative Adviser)の受 け入れ を 認 め,55)法 典編 纂 事業 が フ ラ ンス人 に 委ね られて い た ことに あ る. これ は, その後 の経 過 か らみて,Asiaticsubjectsお よび保 護民 に対す る領事 裁判権 の撤 廃 を予定 した措 置 と思 われ る。 フ ランス人 立法顧 問 を中心 とす る法 典編纂事 業 は, 刑法 か ら始 め られ,1908年6月1日

,

「最

初 の西 欧型法典」,56)「諸法典 の先駆

と して 冊 j法典』 (KotmaiI.aksanaAya)57)が公 布 (同

年9月21日施 行) され た。

刑法 編纂 事 業 が進行 して いた問 に, シ ャム と フ ラ ンス の問 では新 た な 条 約 交渉 が もたれ,

1907年3月23日に調 印 され た 「シ ャム- フ ラ ンス条約」 に おいて, フ ランスは フ ランス市 民以 外 の属民 に対す る裁 判権 を,基 本 的 には完全 に放棄 した。移行捨 置 と して, 1904年以 前 に生 じ た prot6g6Sおよび 同条 約 調印以 前 に 登録済 みの Asiaticsubjects の裁判 は, International 54)``lnternationalCourt"は,イギ リスがすでに早 く1883年に北部における BritishSubjects(ビルマ人,

シャン人等が主)に対する裁判権を放棄 (訴訟移送梅等を留保) した際, 13ritishSubjectsが関係する 訴訟受理を目的として, シャムが設けた特別法廷に与えられた新呼称で, シャムの裁判官が,シャムの 法によって裁 く, 純粋のシャムの裁判所であり, イギ リスは, おそらく北部における権益 (チーク産 業)保護を主眼 として,シャムと協力 して治安維持を図る姿勢が顕著であった(、

Treaty between HerMajestyand llisMajestytheKingofSiam forthePreventionofCrimeinthe TerritoriesofChiengmai,Lakon,andI,ampoont-hi,andforthePromotionofCommercebetweenBritish BurmahandtheTcrritoricsaforesaid.S痛I-e(】atlhnLTkok.Set)teml'cr3,1883..fM〟βBoph,Siam.No.1

(1884).

``Phrarat(,habanjatSamrap KllaluangI;leTralakannaMuang Nakhon Chianglnai入luang Nakhon LampangMuangLamphunehai.A,了`P・K・P.AT・,Vol.10,pp.178-187.

55)Rong(1973)は,これをフランスに対する";tsop"(機嫌をとるための もの)と表現 している(p.141). 56)FredW .Riggs,Thaz■Za7Zd,Th ModerTZl'salio,10faBureauE,ralzlCPo/Z't)/,Honolulu,1966,p.133・

57)"KotmaiLaksanaAya..'P.K.P.S・,Voll22,pp.ト150. 刑法編纂は, いったん1897年に企て られた が途絶 していた。1908年の刑法前文に述べ られた制定理由と編纂過程の説明は,必ず しも初期か らの一 貫した方針を示 しているとは思われない。初期か らの刑法編纂過

,そこにおける日本人顧問政尾藤吉 の役割を含む刑法典成立の意義については,稿を改めて考察 したいと思うr)

(15)

飯島 :タイにおける領事裁判権をめぐ一)て Courtが管 轄 す るが, これ も諸法典 の公 布 ・施 行 に したが って, 関係 訴訟 を通常 の シ ャムの裁 判 所 の管 轄 に移 す ことが定 め られた。 フ ランス市 民 につ いて は何 らふれ る と ころな く, したが って依 然 と して領 事裁 判権 を認 めた同条 約 の調印 が, それ に もかかわ らず 刑 法典 の編纂 に 「大 変 な刺 激 を与 えた」58), と刑法審議 に参 加 して い た政尾 藤吉 は語 って い る。 彼 は1907年3月23 冒,新条 約 が シ ャムの外 務 省 で調 印 され た同 じ晩 に, 内務 省 で刑法 典 の審議 を して いたが, 「条 約 の調印 が済 む と外 務 大 臣 も亦 刑法会議 に戻 って来 て,愈 々摘印 が済 ん だ といふ それ で 他 の議 員達 も大喜 びで あ って, それ で は今 晩 中 に ど うか刑法 を通 して仕 舞 は うで は なな いか といふ ので,其3月23日の暁 の3時 頃 までや って屠 って, と うと う通過 して仕 舞 ったので あ ります,即ち仏蘭 西 との新条 約 が で きる と同時 に刑法 が通 過 したので あ ります」59) 政 尾 の 言葉 に い さ さか の誇張 が あ る と して も, フ ランスの保護 下 に あ るア ジア人の刑 事事件 の 処 理 が, 当面相 当の比 重 を 占め る差 し迫 った問題 で あ った ことを示 して い る といえ よ う。 こ う して シ ャムは,外 国蘭 事の有 した裁判権 の-部 (フ ランス保 護下 に あ った アジ ア人 に対 す る刑事 裁判権 ) を譲渡 されたが, そ のた めに,Battambang,Sieln Reap,Sisophon「割譲」

とい う 「重 い代 償」㈹ )を 支払 ったo

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保 雑 居 問題 の 国内的背 * (1) バ ンコクの 中国 人 「シ ャムに移 住 して くる中国人すべ てが, かか る法外 な(exorbitant)権 利 〔領 事 裁 判権 〕 を 利用 しうる と した ら, い った い ど うな るか」61) 58)政尾 (1908):p.1634.

59)/bz◆d.,pp.1634-1635・内務(KrasuangMithatthai),首都(KrasuangNakhont,an),外務(KrasuangTang Prathct),司法 (KrasuangYutthitham)各大臣か ら成 る大臣委員会(KammakanSenabodi)を通過 した ことを言っている (政尾は,1907年3-11月,司法大臣が国王の欧州旅行に随行 していた間これに加わっ ていた),J同委員会とは別に,2委員会が並行 して審査を行ない, 全委員会の審査は9月に修了,帰国

した国王の手による改修を経て,翌年6月1日に公布 された(P.K・P.S・,Vol・22,pp・5-一8).

60)Sayre(1928)I.p.79.r代 償」は,裁判権 に関 しても要求 されている. 「裁判権に関する同条約付属議定 書j("SanyaWaI)uaiAmnatSamNa主KrungSayam Samrap(thaiRaeKhonChaoEsiaThiYu Na主 T3angkhapRuNa主PonkganFarangsetTitthaiNangsuStlnya,"P.K.P・SリVol・21,pp.185-187・)に おいて,ⅠnternationalCourt(SamKha°iTangPrathet)の-審判決に対する控訴には, ヨ-ロッパ人裁 判官 (PhuPhipaksaChaoYurop) 2名の署名を要す (第5条)とした点で, シャムの裁判所への ヨ-ロッパ人裁判官の導入を意味 したOこの方向は,1909年のシャム-イギ リス条約 (TreatybetweenGreat BritainandSiam,SignedatBangkok,March10,1909,A/uePool,,Siam・No.1(1909);"SanyaNai RawangKrungSayam RapKrungAngkrit,HP・K・PIS.,V(・l・23・pp・43・58・)において鮮明となる。 イギ リスは, 本国人を含む仝 13ritish Subjectsに対する裁判権 を シャム に委ねると同時に,British Subjeetsの関係する訴訟については, ヨーロッパ人裁判官 (シャム司法省顧問)の担当・臨 軒を要求 し た

(

「付閤議定

」,第5項)O 員後,法典編某,裁判を

当する司法省顧問は, もっぱらフランス人, イギ リス人によって占められる。次の2カ年をとってみても,互層三省顧問の構成の変化は明瞭である。 1900:ベルギ-10,オ ランダ1,日本1(neSaint・Hut,er上(1965);p.188);1916:イギ リス12,フランス9, ベルギー1 (『顧問制度』 :pp.80-82). 61)Dange(1900):pp.466・

(16)

東南 ア ジア研究 14着l号 ベルギー人法律家 Dangeに厳 しい フ ランス批 判 をな さ しめた のは, この よ うな危供 で あ っ た。で は Dangeは, いか な る事態 を予想 して憂 慮 したので あろ うか。 そ こで まず

,

「移住 して くる中国人」 につ いて み る ことに しよ う。 Akinは, タイ史 にお け る19世紀 の重要性 を指 摘 す る時, それは, 「まず第一 に, 中国人移 民 の流入。か れ らが タイ社会 において最 も求 め られて きた もの,す なわ ち労働 力を提供 した」 とい う重大変化 によるので あ り,格役労働 の大半 が中国人 の賃金労働 に置換 された結果 ,格役 労働制 に基 礎 をお くNai-Phrai関係 の弛緩 を招 いた,62)と述べて い る。 これはいちお うAkin の研究 の対象で あ るラーマ5世 によ る親 政開始 (1873)以 前 に関す る記述 と理 解 さ れ る が, Wilsonに よれば, ラーマ4世 王期 の国家 によ る中国人労 働者 の雇用 は, ほぼ運河 の開 削 ・改 修工事 に限 られ, ただ ちに格役 労働 の軽減 には結 びついて いない とい う。63)また,確か に中国

人労働者 の雇用 は,格役 の金納化 (課役代 Kha Ratchakan納入) を促進 したで あ ろ うが, Phraiの課 役代納付 の責任 は直接労 働 の場合 と同 じ く,Naiに負 わ されて いたか ら,課役代 の 採用 は,人 的結合 に基 づ く支配 の原理 の転換 とはな らない。64)しか しなが ら, 身体 的束縛 の軽 減 に よ って, 人的支配 は全 般的に弛緩 し, 十分 にその機能 を果 た し得 ない とい う状 況が次第 に 明白にな って い くと思 われ る。 さて, お よそ ラーマ5世 王期 初 めまで の中国人労働者 は, 国家事業 に雇用 され る者以外 には, 南 部 の錫鉱 山,南東部 の コシ ョ- ・砂糖等 の中国人が経営 す るプ ランテー シ ョンで働 く者 が多 数 を 占め, タイにおけ る商品生 産の大部分 を担 って いた。65) この時 期 の タイ社会 にお け る中国人 は, 国家 か ら

〔フ ォーマル な〕 システムの外」66)の人 間 と して その存在 を認 め られて いた ことによ り,経済上特別 な役割 を果 た しえた, とされ る。 この 意味で の最 も顕著 な働 きは, ラーマ2世 王期 (1809-24)に導入 された 徴税請 負制 (tax farmi ng)において認 め られ よ う. ラーマ4世 王期 に一段 と発 展 した徴税 請 負 制 の 意 義 を, Wilsonは

,

「通常 の行 政機構 を用 いず, あ るいは拡大す る ことな く

「タイ史上, 極 めて重要 な時期 に

,

〔中央〕政府 に融通 の き く財源」, 「現金収入 を提供 した」 ことにあ る,67)と概括 し て い るが, 政府 のエー ジ ェン トた る徴税請負人 (CaoPhasi)の大部分 は中国人で あ った。 この よ うに, 中国人 の活動 は,人的支配 に基 づ く既存 の 「政治 システムの外」 に展開 したが, ここ ●●● で成功 した個 々の中国人 は, シャムの官位 を授 け られて権 力 に直結 し,包摂 されて い った。 こ う して人的結合 にお け る網 の 目の一 つ とな った中国人 は,十全 な意味で の シ ャムの民で あ った。 62)Akin(1969):pp.179-180.

63)Wilson(1970):p.576.tll辺 (1973),(I);p.29を参照。

64)石 井 (1966):pp.39-40. 65)Skinner(1957):pp.109-113. 66)Akin(1969)0:p.162.p.181. 67)Wilson(1970):p.621,p.643.

(17)

飯島 :タイにおける領事裁判権をめ ぐって 1870年 頃 を境 と して, タイ社会 にお け る中国人 の存在形態 に新 た な様 相 が加 わ る。 その原 因 は い うまで もな く, ボー リング条 約以 後 の貿 易 の発 展 に帰 せ られね ば な らない。 自由貿 易 は, まず何 よ りも, シ ャムの玄 関で あ る首都 バ ンコクを変 えた。

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8

5

0

年 の静寂 なヤ シ林 と未 踏 の密 林 は, マ ス トの林,高 く替 え る煙突 ,せ わ しな い イギ リ ス貿易商 た ちの活気 あ る倉 庫街 (

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に と って か わ られ た。精米 所,製 材 所, ドッ ク,造船 所, 商店 , 銀行 ,住 宅,学 校 が,原住 民 の怠 惰 に新 しい生 活 を押 しつ けた」68) と, その急速 な変化

,

「半 ば西 欧化 した首都

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の有 様 が, 1894年 に轟 われ て い る。西 洋人 の要請 に よ って道 路 が造成 され,バ ンコクは 「水上都 市 か ら地 上 の都市 -」 と変容 し, 市域 は著 しく拡大 した。70)バ ンコクを 出て,-歩 内陸 に足 を踏 み入 れ た西 洋人 た ちは

,

「バ ンコクは シ ャムで はな い

と語 るのが常 で あ った とい う。71) ここに新 し く生 じた, 貿 易港バ ンコクが求 め る労働 力需要 に応 えた の は, 続 々 と流 入す る (その一部 は いわ ゆ る苦 力貿易 に よ って) 中国人労 働者 で あ った.道路 ・鉄道 (1893年 開通 の サ ム ッ トプ ラカー ン鉄道建 設 を慣矢 とす る), 運河 をは じめ とす る建設 工事 に従事 す る者 ,埠 頭 人足, は しけ水夫等 の港湾 労働者 その他 の交 通 運輸 関係 の労働者 ,外 国人 家庭 ・旅 館等 の給 仕 人 ・召使 に至 るまで, その ほ とん どが 中国人 で 占め られ た。 そ して,煙 突 が首都 の空 に寺 院 の塔 と肩 を並 べ て そびえ立 つ と喧伝 され るまで に増加 した (蒸汽)精 米 所 (1870年代以 降, 大 部 分 を 中国人 が所有 ・経 営),お よび製 材 所 は多数 の中 国人労 働者 を雇用 して いた。72)世 紀 の変 わ り目頃バ ンコクを訪 れ た旅 行 者 は一様 に,バ ンコクが 中 国人 の町 で あ る, とい う印象 を記 して い る。 1896年 ,警 察顧 問 と して英領 イ ン ド政府 か ら派遣 され,初代 警視総 監

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に就任 した

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は, その興 味深 い初 の 「報 告 書」 (1898-99年 皮)73)に おいて, ほ とん どゼ ロか ら出発 しな ければ な らな い警 察 が直面 して い る種 々の問題 を 指摘 しなが ら, 繰 り返 し中国人 に触 れて い る。か れ の記す る と ころは,

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の危供 の一端 68)Norman(1895):p.410・1850年のバンコクについての記述はNormanの想像によるものであろう。当時 のバンコクについては,さしあたり,Wilson(1970):pp.437--442を参照。アユタヤ朝以来,バ ンコク 王朝初期においても,タイの王朝権力は貿易に立脚 していたと考え られる。 1850年のバンコクも 「商 港としての機能

〔石井 (1975),p・43〕は有 していた。 69)Campbell(1902):p.51. 70)Skinner(1957):p.115;田辺 (1973):pp.33-34. 71)Campbell(1902):p.51;Norman(1895):p.425,

72)Skinner(1957):p.88,pp.103-104,pp.113-116;駐遅日本公使館 『在過華僑の現勢』昭和4年 (南満州 鉄道株式会社東亜経済局 『タイ国における華僑』 昭和14年, p・103,p・154所引);Campholl(1902): p.102.

73)p.p.A.ofBanghohSuburb∫andRaihvay Diyi∫io7Z∫for1898-99・バンコク警察は首都省所轄。バ ン コク以外の警察は,地方行政改革の一環 として,デンマーク人が指導,創始 した憲兵制度により,5世

王期は内務省所轄。

Jardineは, 1902年3月26日まで在任 した。その間の業績はR・P・A・ofB

a

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ghoh Town,NortAer72

(18)

東南 ア ジア研 究 14巻1号 を, またそれが既 に現実 の もので あ った ことを示 しているとみて よいだ ろ う。やや長 くなるが, Jardineの中国人に関す る記事 の一 部を次 に引用す る。

(

「人の身体 に対す る重罪

13angkokTownで報告 された事件 につ いて)「大部分 は中国人 の間 に起 こった。 (略) 中国人はほ とん ど支配 (control)を うけていない。実際,かれ らには 主人 (master)もいなければ法律 規則 もな く, セ ンサス も実施 されず, 制限 とい うものが全 くない。かれ らに対す る課税 (後述) は, この国の人 々に対す るよ りも軽 い。 かれ らは大勢で雇われ ると,たいてい雇 い主 に とって恐怖 の種(terror)とな り,欲す る も のを要求す るだ けで ある。 労働者が もっぱ ら中国人であるところの大 きな工場 (millsand faetorics)では,かれ らは秘密結 社に所属 し, 犯罪人をか くまい,凶悪犯罪を企 み,一般 に 全 くの無 法状態 にあ る。警察 は通常 これ らの人 々に関 してはお手 あげで ある。ほ とん どすべ ての工場 が外 国の保護下 (tlTlderForeignf'rotection)にあるか ら,令状 な しに立 ち入 ること は遵法で あ り,不可能 に近 い。工場所有者 た ちには警察 を手助けす る意志がないのだか ら。 (略)これで大部分の事件 の説 明がつ くので あ り, また これは,警察が戦わねばな らない困難 を も示すo おびただ しい賭 博場, アヘ ン吸 引所,売春宿,特 に中国人地区Sampengのそれ らは,多 数の凶悪犯罪の因 とな って い る。

重ねてい う,ArmsActは存,fEせず 〔同報告申 Jardineは,火器 (Brearms)が普及 し, 犯罪に多 く使用 され ることか ら,武器の製造 ・販売 ・所持を規制す る法律 の制定 を訴えてい る〕,誰で も火 Fj詩を持て るのだO武器 と弾薬 は, おおかたの質屋 (pawn-shop)にあるか ら手 軽 に購入 で きる

」74)

以上 の Jardine報告 か ら知 られ るのは, お よそ次 のよ うな ことで ある。

第1に,バ ンコクにおける犯罪 の多 くに中国 人が関係 している こと。 とに

引い

た 「人の身体 に村す る重罪」(SeriousOqencesagainstthePerson)以外 に

,「

同軽罪」(MinorOffenees),禁 制 の蒸留酒取 引,通貨偽造 について,特 に,大 多数 の犯罪者 は中国人であると述べている。75) 第2に,外 国の保護下にある多数の犯罪者 に対 して警察 の手が届かず, またその ことが,犯 罪を助長 していること。 (Jardine着任時 には,警察 自体 が名ばか りの存在で十分 な権 限 も与 え られていない とい う理 由に もよるが,警察 については別 の機会 に譲 る。) 外 国の保護 に関連 し,質屋の存在が注 目され るO 当時バ ンコクには,外 国の保護下 にある一 握 りの人 々 (pawn-brokers)が経営す る多数 の質屋があ った。 これ らが もっぱ ら盗品を扱 うた 74)R.P.A.for1898--99:p.41,1).12. 75))bid.,p・39,p・44,p・48・また, 火器を蓄えた中国人秘密結社同志の衝突がしばしば起こって, 一般の 住民を震憾させた。 1898年10月1日布告の 「秘密結社法」 (HPhraratchabanyatWaDuaiAnjiR.S.

116,"P.K.P.S.,Vol.16,pp.103-110・)は,結社の登録を兼務づけ, 集会を規制 したが実効はなかっ

た。eampbell(1902):p.277;Vella(1957):pp.18,19を参照。

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