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[A Political Portrait of Iwa Kusuma Sumantri ]

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東南 ア ジア研 究 34巻 1号 1996年6月

民族主義者 イ ワ ・クスマ ・スマ ン トリの政治的 肖像

一 書

A

PoliticalPortraitoflwa Kusuma Sumantri

KenichiGoTO*

Althoughlwa (1899- 1971)isoneofthewelトknownnationalistleadersin20thcentury Indonesia,histhoughtsand actionshavenotreceived dueattention in contemporary Indonesianstudies.

AsasonofSundanesearistocraticfamily(menak)hewasexpectedbyhisparentsto becomeanofficialoftheDutchcolonialgovernment.However,herefusedtobecomeone ofthe"indigeneouselites"whosupportedthecolonialsystem from thebelow.Duringhis stayintheNetherlandsintheearly 1920S,hewaselectedaschairmanofPerhimpunan

Indonesiaandcontibutr edgreatlytomakingtheorganizationmorenationalistic.Further -more,upon obtaining a law degree,he moved to Moscow in orderto combine the nationalistmovementand the internationalcommunistmovement. Among the top nationalistleadersofhisgeneration,heisexceptionalinhavingsuchanexperience.Due tohispoliticalbackground,thecolonialgovernmentinBataviaarrestedhim in1929and soonexiledhim toBandaneiraIsland,wherehewasforcedtospendabout10yearsuntil theearly1940S.

From independenceinAugust1945untilhisdeathin1971,heheldthreecabinetposts, butatthesametimehealsohadanumberofbitterexperiences,includingtwoyearsof imprisonmentforhisconnectiontothe"JulyThirdAffair"of1946,aswellasbeingforced toresignasDefenseMinisterunderpoliticalpressurefrom thearmy.Hestronglyinsisted thatthearmedforcesshouldbeaninstrumentofthestateandopposedtheconcentration ofpowerinthearmedforces.Healsoinsistedthatsuchaculturallydiversecountryas Indonesiashouldhaveapoliticalsystem wherebyeachethnicgroupcoulddevelopitsown cultureandidentity. Hebelievedthatthiswasmoredesirablethan strengtheningof unificationfrom thecenter,inordertobringrealunitytothecountry.

WhenwelookattheIndonesianpoliticalsituationin1990S,Iwa'sargumentsconcer n-ingthepolitico-militaryrelationshipandthecoexistenceofnationalityandethnicitystill appearpertinent.

じ め

イ ワ ・ク スマ ・スマ ン トリIwaKusumaSumantriは,20世 紀 を 冒陳 に した1899年5月, メナック

西部 ジ ャワ, プ リア ンガ ン州 の一 隅 に, ス ンダ人貴 族 の子 と して生 まれ た。 そ の年 は, 蘭領 東

早 稲 田大学社 会科 学 研究所 ; Institute of Social Sciences,Waseda University,1-6-1, NishiwasedaShinjuku-ku,Tokyo169,Japan

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東南 ア ジア研究 34巻 1早 イ ン ド (現 イ ン ドネ シア) の宗主 国 オ ラ ンダにお いて,永年 植民地 官 僚 をつ とめた下 院議 員 フ ァン ・デ フェ ンテル VanDeventerが 「倫理政策」の出発点 とな った有名 な論文 「名誉 の負 債」 を発表 し,大 きな衝撃 を与 えて いた。倫理政策 が 「原住民上層」 階級 の子弟 に西 欧的教育 を施 し, それ によ って蘭領東 イ ン ドの 「平和 と安寧」 を下 支 えす る新 エ リー トの創 出を主眼 と した ことを考慮 す るな らば, やがて ライデ ン大学 に留学 し, さ らに はモ スクワに も学 ぶ ことに な るイ ワは,文字 どお り倫理政策 の申 し子 と もいえ る存在 で あ った。 だが その申 し子 は, 同時

代 の多 くの仲 間- スカル ノ Sukarno, ハ ッタ Mohammad Hatta, スバ ル ジ ョAhmad

Subardjo, ア リ ・サ ス トロア ミジ ョヨ Ali Sastroamidjojo, ス タ ン ・シ ャフ リル Soetan

Sjahrirら- と同 じく,植民地秩序 の末端 を担 うことを拒否 し

,

「イ ン ドネ シア」 とい う新 た な 「共 同体」創 出の担 い手 とな った とい う意 味で,倫理政策 の鬼子 で もあ った。 この小論 は,1910年代 の民族主義運動 の繁 明期 か ら 1965年 「9月30日事件 」を契機 とす る 未曾有 の政治 的混迷 に至 る半世紀余 を,主体 的 な行為者 と して, また醒 めた観察者 と して生 き た一人 のナ シ ョナ リス ト-知識人 イ ワ ・クスマ ・スマ ン トリの政治 的 ・思想 的軌跡 を跡 づ けつ つ, (1) イ ン ドネ シア民族主義運動史 にお ける主要 な課題 で あ った 「ナ シ ョナ リズムとイ ン ターナ シ ョナ リズム」 が どのよ うな形 で彼 の内 に内面化 されて いたか, そ して (

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)戦後 の政 治過程 のなかで重要 な争点 とな った政軍 関係 お よび中央 ・地方関係 につ いて彼 が いかな る認識 を抱 いて いたか, を考察 す る もので あ る。 研究史 的 にみ るな らば, イ ワには死 (1971年 11月27日) の直前 に完筆 した 『自伝』 を は じ め数 多 くの著作 1)が あ り, また内外 の主要 な イ ン ドネ シア近現代史研究 のなかでつね にその名 に言及 され る ものの,彼 につ いての学 問的位 置づ けは今 日なお必 ず しも十分 にはな されて いな いのが実情 で あ る。共産主義 に対 しきわ めて峻厳 な立場 を とる今 日の イ ン ドネ シアにお いて も, かって国際共産主義運 動 と深 く関 わ った イ ワ ・クスマ ・スマ ン トリの政治 的経歴 に もよる ので あろ うか,民族主義運動史 にお ける主要 なア クターの一人 で あ るに もかか わ らず,彼 に対 す る歴史学 的 な考察 はほ とん ど未着手 に近 い状況 であ る。

1) 単著の形での著作は以下のとおりである。Peasant'sMovementinIndonesia. Moscow,1927; IlmuHukum danKeadilan (法学 と正義).Jakarta:PenerbitanJakarta,1950;Revolusionisasi Hukum Indonesia (インドネシア法革命化の諸問題).Jakarta:PenerbitanUniversitas,1958; KearahPerumusanKonstitusiBaru(新憲法論).Jakarta:PenerbitanUniversitas,1958 (edsi ke.II,1968);SeJ'arah RevolusiNasional (民族革命史) Jilid I∼ Ⅲ.Jakarta:Penerbitan Universitas, 1963-1965;Pengantar Ilmu Politik (政治学入門). Jakarta: Penerbitan Universitas,1966・,Pokok-PokokIlmuPolitikdanRingkasanPemberontakanGestapu/PKl(a

治学の基本問題と9月 30日共産党蜂起の概略).Jakarta.・PenerbitanUniversitas,1967;Autobi -ographydartProf.IwaKusumaSumantri(イワ ・クスマ ・スマントリ教授自伝)stencil,1971.

邦 訳 (後 藤乾 - 訳 )『インドネシア民族主義の源流- イワ ・クスマ ・スマントリ自伝』早稲田大

学 出版部.1975. 58

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後藤 :民族主義者イワ ・クスマ ・スマントリの政治的肖像

青少年時代 (

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年)

イ ワ ・クスマ ・スマ ン トリ (以下 イ ン ドネ シアでの通称 た るイ ワと記 す) の政治的 肖像 を措 くに際 し,まず その生涯 を幼少年期

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年),青年期

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年),壮年期

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年), 晩年

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年) の四期 に分 けてお きた

い。

その節 目を画 す る三 つ の時点 は,政治史 的 にみ るな らば,それぞれ第一次世界大戦,太平洋戦争 の勃発,そ して

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月30日 事件」 の発生 した年 で あ り, そのいずれ もが爾後 の イ ワの政治的,思想 的境涯 に少 なか らぬ影 響 を与 え ることとな る。 イ ン ドネ シア民族主義思想 の研究者土屋健治 は, ナ シ ョナ リス トの誕生 とは 「新 しい (旅) を始 め る人 々が誕生 した ことを意味」 す る ものだ と指摘 す る。 土屋 によれば, その旅 とは,空 間的 な移動 を行 うこと,宗主 国 の言語 の修習 によ り新 しい世界 を追究 す ること, そ して教育制 度 の位 階 を昇 り植民 地 の中心, さ らに は宗主 国 - と留学 す る旅 と して措 か れ る [土屋

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]。 その意 味 で は, プ リア ンガ ン東 部 の小 郡 邑 チ ア ミス町一刃 刊都 バ ン ドン- 首 都 バ タ グ ィア (現 ジャカル タ) へ の空間的移動 を若 くして終 え, また少年 時代 か らオ ラ ンダ人家庭教 師 の下 で オ ラ ンダ語 の手 ほどきを受 け, さ らにはその二 つの旅 の延長線上 で きわめて 自然 な形 で オ ラ ンダ留学 を果 た しえたイ ワは, まさに蘭領東 イ ン ドが産 ん だ典型 的 な植民地 ナ シ ョナ リ ス トであ った。 1.民族主義思想 の塑像 メ ナ ッ ク ス ンダ社会 の伝統 的貴族2)であ り, 蘭印政庁 の原住民教育官僚 であ った父 と母 の もとで,物 質 的 には何 らの不 自由な く 「むせかえ るよ うな幸福感 と自由」[イ ワ

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]を享受 して いた イ ワに と って,OSVIA (原住民官吏養成学校)- の入学 は, いわ ば既定 の道筋 で あ った。同校 を卒業 し植民地 官僚 システムの中へ参入 す ることは

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年代 のパ ックス ・ネーエル ラ ンデ ィ カの下 で は 「原住民社会」 に開かれた最 も安定 した コースであ った。 しか しなが ら, ス ンダ社 会 の封建貴族 子弟 のための学校 で あ ったバ ン ドンのOSVIA を 自 らの意志 で一年 で中退 した こ とは, イ ワが その時点 で- た とえ明確 な意識 はなか ったにせ よ- オ ランダが掲 げた倫理政 策 の理念 と目標 を否定 した ことを意 味 した。 イ プ ・ コ タ ス ンダ社会 の "母 な る都" バ ン ドンを離 れたイ ワは, ジャワのみ な らず蘭領東 イ ン ド各地 か ら多かれ少 なか れ似 たよ うな社会的背景 を もつ青年 た ちが集 うバ クヴ ィア法学校 に入学 す る。 ここで学 んだ法律学 は終生 イ ワが知的情熱 を傾 けた学 問 とな っただ けでな く, その後 の民族主 2) メナ ックに関す る日本語文献 と して田中 [1972:409-421] を参照。

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東南 アジア研究

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巻 1号 義運動 とい う実践 の場 における理論 的武器 ともな った。 イワがバ タグィア法学校 に在学 した

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年 は,社会主義 ソ連 の誕生 と国際共産主義 運動 の開始,民族 自決思想 とそれ に基づ く民族運動 の高揚 が世界各地 でみ られ,植民地秩序 に 素朴 な懐疑 を抱 き始 めた若 き 「原住民」知識人 に大 きな思想的影響 を与 えていた。 そ うした中 で, イワが最初 に関わ りを もった政治的社会的組織 が トリコロダルモ

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(三聖 会, のち ヨング ・ヤー ファと改称) であ った ことは注 目され る。3) 当時 の ジャワで はプデ ィ ・ウ トモ

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年設立), バ グユバ ン ・パ ス ンダ ン

PaguyubanPa

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年設立)とい うそれぞれ ジャワ人,ス ンダ ン人社会 に基盤 をお く 結社 が有力であ った。 そ うした中で ヨング ・ヤー ファ (ジャワ青年団) は, その名が示 す ごと く青年 トル コ党 の動 きに刺激 を受 けつつ結成 され,原理的 にはジャワ在住 のすべてのエスニ ッ ク集団 (主 に ジャワ人,ス ンダ人,マ ドゥラ人,バ リ人)に門戸 を開 いていた。いわば 「大 ジャ ワ主義」の立場 を とる ヨング ・ヤー ファは,その後 の各地域 の青年運動 に も大 きな影響 を与 え, さ らには

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年 の第二回全国青年会議 における 「青年 の誓 い」4)を産 み出す先等区とな った とい う意味で

,

「大 イ ン ドネシア」思想 の原基 を形成 した とみ ることもで きよ う。そ うした ヨング ・ ヤー ファの書記長 に選 出 されたイ ワは

,

『自伝』において も,そ こでの経験 は 「政治的な統一 を 獲得 し,民族精神 をさ らに深 め,不幸 な被抑圧人民 との連帯感 を深 め」 る上 での好機 であ った と想起 している [同上書 :

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]。 なお イ ワはス ンダ社会 に基盤 をお くバ グユバ ン ・パ ス ンダ ンとは直接 的 な関 わ りを もたな か った ものの, この結社 が志 向 したエスニ シテ ィとナ シ ョナ リテ ィの両立 は,晩年 のイ ワの思 想 とも相通 じる点 もあるので, ここで軽 く言及 してお きたい

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月, プデ ィ ・ウ トモを 退会 した ス ンダ知識青年 の手 で創 られたバ グユバ ン ・パ ス ンダ ンは,

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年 の党大会 におい て, ス ンダ人 と してのアイデ ンテ ィテ ィの重要性 を再確認 しっっ も,蘭領東 イ ン ド各地 の他 の 諸種族 とも政治的連帯 を求 め る, いわば 「種族民族主義」 を基本理念 と して掲 げた。 さ らに

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年 の党大会で は,よ り明確 にエスニ シテ ィとナ シ ョナ リテ ィの調和 と両立 を目指す立場か ら次 のよ うな党 「政治原則」を採択 した

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]

。(1)

各種族 が各 々の種族 的,文化 的個性 を維持す る権利 を承認す る。(2)すべてのイ ン ドネシア民族 は共 通 の運命 で結 ばれてい ることに鑑 み,他 の諸種族 と協力 して政治闘争 を推進す る。(3)民族主 義政党間 の合併 か らは,望 ま しい成果 を期待 しえない。(4)イ ン ドネシアの統一 の強化 を重視 し,政治的 な統一戦線 の組織化 に努力す る。

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年代 の各地 の エスニ ック集団 を基盤 に した 「民族主義」 運動 につ いて はA.K.

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] を参照。 4) 「唯一 の祖 国 と してのイ ン ドネ シア, 唯一 の民族 と して のイ ン ドネ シア民族, 唯一 の言語 と しての イ ン ドネ シア語」 を確認,採択 した決議。

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後 藤 :民 族主 義 者 イ ワ ・クスマ ・スマ ン トリの政治 的 肖像 端的 にい うな らば, バ グユバ ン ・パ ス ンダ ンは 「種族原理」 に立脚 した 「民族主義」政党 と い う基本 的性格 を有す る ものであ った。 しか しなが ら, 当時 の青年 イ ワに とって は, エ スニ シ テ ィや地域性 を よ り重視 す るとみ な したバ グユバ ン ・パ ス ンダ ンは, さほ ど吸 引力が あ る もの とは映 らず, む しろオ ラ ンダ留学 を契機 に彼 の ナ シ ョナ リズムはイ ンターナ シ ョナ リズム とも 接点 を求 め る, よ り急進 的 な方 向を志 向す るよ うにな る。

2.

オ ラ ンダ留学 1922年 5月,イ ワは植民地 の知識青年 に とって憧保 の学府 た るライデ ン大学法学部留学 の途 に上 る。 後 のイ ン ドネ シア国民党委員長 サル トノSartonoと同船 であ り,また この年 モ- マ ッ ド・- ッタもロ ッテル ダム商科大学 に学 ぶ ことにな る。 これ ら第一次世界大戦後 に宗主国 に留 学 した青年 は,一世代 前 と異 な り, その多 くが ヨング ・ヤー フ ァ,青年 スマ トラ同盟等 で一 定 の政治 的体験 をっんで いたのが特徴 であ る [永積 1980:234]。 イ ワは約3年 とい う最短距離 で ミ-ステル 法学修士 の学位 と蘭領東 イ ン ドでの弁護士資格 を獲得 す る。 学位取得 の年数 は同世代 の俊秀 た とえば- ッタの11年,サル トノの4年,スバ ル ジ ョの 14年 と比較 して も異例 の早 さであ った。 しか しなが ら, オ ラ ンダ留 学 で イ ワが手 に入 れ た最 大 の成 果 は, エ リー ト- の登龍 門 のパ ス ポー トで はな く,留学生 会 イ ン ドネ シア協会員 と しての二 つ の政治 的体験,即 ち協会会長 に選 出 され た ことお よび国 際共産主義運動 との関わ りで あ った。 留学 2年 目の 1月,留学生 会 会長 に選 出 され た イ ワの下 で組織名 が東 イ ン ド協 会Indische

Verenigingか ら同 じオ ラ ン ダ語 を用 い た もの で あ った が イ ン ドネ シア協 会Indonesische

Verenigingへ と改称 され る。 蘭領東 イ ン ド各地 か ら宗主 国 に学 んだ ェ リー ト青年 の問で,故

国 の将来 の 「あ るべ き」政治 的 エ ンテ ィテ ィを 「イ ン ドネ シア」 とい う概念 に求 めた ことを象

徴 的 に示 した もので あ った。 この動 きは1925年 2月 (会 長 スキ マ ン ・ウ ィル ヨサ ンジ ョヨ

SukimanWirjosandjojo)に組織名 が オ ラ ンダ語 か らイ ン ドネ シア語表示 - (Perhimpunan

lndonesia)と変更 された ことに よ り, さ らに加速 され る [同上書 :235]。 1923年 1月 の イ ン ドネ シア協 会総会 で会長 に推 された イ ワは,民族 自決 とそのための 自助 努 力,団結 の強化 を提起 し [イ ワ 1975:32],1927年 (イ ン ドネ シア国民党結成 )以 降 の民族主 義運動 の基本 的方 向を示 唆す ることにな った。 当時会計担 当の協会役員 であ った- ッタは,新 綱領 を説 明す るイ ワが 「それぞれの民族 は 自決権 を もつ とい うウ ィル ソンWilson大統領 の言 葉 が政治 の世界 で実行 され るまで は,非協力主義 に基礎 を置 くことが イ ン ドネ シアに とって最 善 で あ る。 オ ラ ンダとの協力 を拒否 して, イ ン ドネ シアは民族 の力 を建設 す るために努力す る バ ン サ のだ」と強調 した ことを書 き留 めて い る [- ッタ 1993:160]。ここで イ ワが 「民族」 とい う語 を用 い る時, それ は彼 の出 自た るス ンダ族 を意味 す るので はな く,蘭領東 イ ン ドの各 エ スニ ッ ク集団 (種族) の団結 によ ってのみ成立可能 な 「イ ン ドネ シア」 とい う民族 を指す ことはい う

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東南 ア ジア研究 34巻 1号 まで もない。5) イ ン ドネ シア語 を民族 の言語 と して前面 に押 し出 した1925年, イ ン ドネ シア協会 はよ り急 進的な民族主義 を掲 げた 「新綱領」 を採択 した。 その背景 には1923年5月 の ジャワにおける

VSTP

(鉄道電車職員組合) の ス トライキを指導 した廉 で オ ランダに放逐 されたイ ン ドネシア 共産党 (1920年創立)初代委員長 セマウ ンSemaunが,留学 中のイ ン ドネシア入学生 に大 きな 政治的,思想的影響 を与 えていノた ことも一因 と してあ った。 その 「新綱領」 とは,次 のよ うな 内容 を もっ ものであ った [イ ワ 1975:34]。 (1) イ ン ドネ シア民族 は,各種族間の分裂 を克服 して,初 めて,植民地主義権力 を打倒 す ることがで きる。 その 日的達成 のためには, 自覚 した大衆行動 を組織 し, 自己の力 に 依存 す るとい う原則が樹立 されなければな らない。 (2) 独立 目的達成 のためには, イ ン ドネ シア人民各層 の闘争参加 が絶対条件 であ る。 (3) 植民地社会 にお ける もっとも重要 で本質 的な政治問題 は,植民地主義的な抑圧者 と被 抑圧者 との間 に常 に存在 している矛盾であ る。 植民地主義者 とその披抑圧者 の間 にあ る, この矛盾 をおおいか くし, また, あいまいに してゆ こうとす る植民地主義的な抑 圧者 の政策 に対決 し,私 たちは, その諸矛盾 を明 らかに し,発展 させてゆかなければ な らない。 (4) 植民地主義的な抑圧者 は, イ ン ドネシア民族 の生活 と道徳 を破壊 して きた。従 って, 私 たちは,精神面 と肉体面 の健全化 の努力 を強力 に推進す る必要 がある。 この 「新綱領」で は

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「イ ン ドネシア民族」とオ ランダ植民地支配 の間の根本的矛盾 が鋭 くえ ぐられ ると共 に, マル クス主義的な歴史解釈 をふ まえた運動方針 が提示 され,民族主義運動 と の連携 を重視 しつつ あ った コ ミンテル ンの影響 の大 きさを物語 っている。 共産主義者 セマウ ン と留学生会 に結集す る青年民族主義者 たちの接点 に立 ったのが イ ワであ ることは,彼 自 ら 『自 伝』 の中で示唆 してい る。 また1924年4月 に刊行 された留学生会創立 15周年記念 の論文集 の 中で, イ ワが 「東方 における共産主義 の影響」 と題 した一文 を寄稿 していることも示唆的であ る [ハ ッ タ 1993:171-172]。

3.

モ スク ワ滞在 留学生会 の指導層 の中でセマ ウ ンと最 も個人 的関係 が深 か ったイ ワ6)は,協会会長 ブデ ィヤ 5) 「バ ンサbangsa」を 「国民」,「スク ・バ ンサ」 を 「民族」 と訳 出す る場合 もあ るが (た とえば土 屋 [1990:総説]),本稿で は前者 を民族,後者 を種族 (ethnicgroup)として使用す る。 6) 後述す るよ うに独立後国立バ ジャジャラン大学 (在バ ン ドン市) の初代総長 とな ったイ ワは, セ マウ ンに名誉博士号 を授与 してい る。 また共 にモス クワ滞在 中 ロシア女性 と結婚 し一児 を もうけ ていることも,両者 が晩年 に至 るまで親交 を結 んだ理 由の一 つであると思 われ る。

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後藤 :民族主義者イワ・クスマ ・スマントリの政治的肖像 ル トBudijarto, 書記長 - ッタの委任状 を手 に学位取得 直後 の1925年 10月, セマ ウ ンと共 に モス クワに赴 くことにな る。 丸 2年 間 のモスクワ生活 を過 ごす中で イ ワは, その地 の冬 の苛烈 ク - ト ぺ -さに苦 しみっつ,極東共産主義大学 にお いて 『資本論』 をテキ ス トと して マル クス主義 を学 習 し, また民族主義 と共産主義 の提携 の可能性 を模索 した。 しか しなが らプ リア ンガ ンの豊鏡 な 緑野 の中で幼少年期 を送 り, さ らに西欧市民社会 の経済的繁栄 と政治 的 自由の洗礼 を受 けてい たイ ワは,私生活 で は ロシア女性 ア ンナ との結婚生活 (一女 を もうける)等生涯忘 れ得 ぬ思 い 出 も残 した ものの,理想 とか け離 れた共産主義社会 の現実 に対 し次第 に懐疑 的 にな って い く。 こう して爾後 の イ ワはマル クス主義 的 な歴史解釈 や運動理論 を 自 らの政治闘争 の武器 とす るこ とはあ って も,共産主義 とは一線 を画 した道筋 に入 って い くことにな る。 とはい うものの, コ ミンテル ンとの関 わ りで2年 間 のモ スクワ生活 を送 った とい う特異 な体験 は,後述 す るよ うに 独立後政府 の要職 に就 いたイ ワに対 す る,政敵 か らの 「赤 いイ ワ」批判 とな って, しば しば彼 を苦境 に立 たせ た こと も事実 で あ った。 ところで極東共産主義大学 で学 びかっ後 には 「イ ン ドネ シア問題」 につ き教鞭 を とるかたわ ら, ソ連滞在 中のイ ワは,二 つの注 目に価 す る活動 を行 な った。 その一 つ は, モスクワに送 ら れて きた五人 の イ ン ドネ シア人船員へ の学習手助 けであ る。 この点 につ き 『自伝』 で イ ワは, 「船舶労働者 と してのその労働 にお け る苦 しみが原因 とな って い るのか, あ るいは コ ミンテル ンの統一戦線政策 にひ きっ け られてか, その船員 たちは, はるば るとこのモスクワまでや って 来 たので あ る」 とご く表面 的 な記 述 を残 すだ けであ る [イ ワ 1975:48]。 しか しなが ら,イ ン ドネシア共産党 に関す る R ・マ クヴェイ McVeyの古典 的研究,7)さ らに は増 田与 や永積 昭 らの指摘 にみ るよ うに,五船員 のモスクワ入 りは,極東諸 国 の労働運動 の連 帯 強化 を重視 し,早 くか ら海 員 の組織 化 に注 目 して いた赤色労組 イ ンターナ シ ョナル (プ ロ フ インテル ン) な ど国際共産主義運動 の ネ ッ トワー クの中で計画的 にな された ものであ った。 なお1924年6月 には,広東 で プロフ ィンテル ンの主催 で 「太平洋運輸労働者会議」が開催 され て い ることも注 目すべ きで あろ う [永積 1979:81]。その間の貝体 的経緯 を詳細 に把握 して い たか否 か は別 と して, イ ワはその網 の 目の切 り結 ぶ地点 にいたわ けで あ る。 その五船員 は,留 学生会会長時代 のイ ワの協 力 を得 っつ セマ ウ ンが アムステル ダムに結成 した東 イ ン ド海員組合 (SPLl) の 「原住民下級船 員 を共産運動 に呼 び込 む」 方針 の一環 と して送 られて きたので あ っ た [増 田 1971:69]。当時蘭 印政庁 によ る厳 しい弾圧, 監視下 にあ ったイ ン ドネ シア共産党 に とって,下級海員 の労働組織 は国外 の覚指導者 や コ ミンテル ンとの連絡 ルー トと して重要 な役 割 を もつ もので あ った。 五人 の船員 の一人 ダニエル ・カムDanielKamu(北 ス ラウェシ出身)に対 す る蘭印政庁 の訊 7) McVey [1965] を参照。

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東 南 ア ジア研 究 34巻 1号 問

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月) によれば,彼 らはホ ラ ン ト-アメ リカ汽船会社 の船員 と して ロ ッテル ダムに 寄港 した

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年末, セマ ウ ンの訪 問 を受 けてその説得 によ りクー トペ一に学 ぶ ことにな った。 そ して訊 問 に対 し,カムはセ マ ウ ンか ら自分 たちに与 え られた任務 は

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「東 イ ン ドに大 きな共産 党 を創 出す るよ うに, また も しその よ うな党 が まだ残存 す るな らば, その党 を拡大 す るために 積極 的 に協 力す るよ うに」 [永積

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]

とい うことであ った と陳述 して い る。 しか しなが ら, そ う したセマ ウ ン, さ らには彼 が属 す るプ ロフインテル ンの工作意図 に もか かわ らず, 蘭領東 イ ン ドにお いて政庁 の弾圧政策 に抗 し党勢 を拡大す るとい う任務 は きわめて 困難 で あ り,と りわ け

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6

年 末 の共産党蜂起 の失敗後 は事実上不可能 に近 か った。なお,カム は訊 問 に対 しモス クワ滞在 中 セマ ウ ンの指導 を受 けて いた ことは繰 り返 し認 めて い るが, イ ワ の名 へ の言及 はな く, また蘭 印当局 の側 か らもイ ワの名 を出す ことはなか った。 この訊 問記録 を紹介 した永積 昭 は, 「[カム供述 で] イ ワの ことが一切触 れ られて いないが,敢 て彼 につ いて の言及 を避 けたのだ ろ う」 と指摘 して い る [同上書 :

8

4

]。 いずれ にせ よ,帰 国 し北 スマ トラ, メダ ンにあ ったイ ワが政庁 当局 によ り逮捕 され るの は, カム訊 問

4

カ月後 の

1

9

2

9

9

月 の こ とで あ った。 国際共産主義運動 との関連 にお けるイ ワの もう一 つ の仕事 は,モ スクワ滞在 中の

1

9

2

6

年,国 際農民 同盟 (ク リステ ィル ン

,1

9

2

3

1

0

月設立)の求 めに応 じ 『イ ン ドネ シアの農民運動』(フ ラ ンス語 で書 かれ,す ぐ英,露語訳 が刊行)を執筆 した ことで あ る (筆名SinawiDingli,公刊 は

1

9

2

7

年 )。 イ ワの この処女作 の もつ意味 につ いて筆者 はかつ て論述 した ことがあ るが, その 要 旨は以下 の とお りで あ る [イ ワ

1

97

5:3

6

6

-3

6

7

(訳者 あ とが き

)

]

一, コ ミンテル ンの掲 げ る労 働 者 ・農 民 階級 を中核 とす る統一 戦線 理論 を是 認 す る立 場 か ら,当時 の イ ン ドネ シア共産党 がサ ル ジ ョノSardjono, ア リミンAlimin, ム ソMusoらの下

ナ ロ ド ニ - 辛

で急 ピッチで進 めて いた武装蜂起路線 を 「左翼偏 向」で あ り

,

「人民主義 的」な偏 向を冒 して い

ると批判 して い ること。8)

二,今後 の イ ン ドネ シアの民族主義運動 を展望 す る中で

,1

91

0

年代央 の最大政治勢力 イ ス ラ

ム同盟 を もはや民衆 を指導 す る能 力 を持 ち合 わせ て いない と批判 す る。 それ はH.0.S.チ ョク

ロア ミノ トTjokroaminoto,アグス ・サ リムAgusSalim ら改良主義 に立 っ指導部 が,セマ ウ

ン (共産党員 だが イ ス ラム同盟 に も加入一筆者) らの革命 的活動家 を追放 したか らだ とす る。

イ ス ラ ム 同 盟 に代 わ り農 村 部 の篤 信 の ム ス リム農 民 を組 織 化 で き る の は ム- マ デ ィ ア

Muhammadiyah

(

1

91

2

年成立) で あ り, この組織 を革命化 す る目的で ム- マデ ィアへ の浸透

を はか ることが (かっ ての イス ラム同盟 に対 して行 な ったよ うに)重要 な課 題 で あ る。

8)

後年,この立場か ら執筆された共産党関係者の著作 としてSudijonoDjojoprajitno

[

1

9

6

2

]

が興 味深 い。

(9)

後藤 :民族主義者 イワ ・クスマ ・スマ ントリの政治的肖像 三 , だが今後 の革 命 的 な民 族 主 義運 動 の担 い手 と して最 も期待 が もて るの は, ブデ ィ ・ウ ト モで あ る。 ブデ ィ ・ウ トモ は, 穏 健 な ジ ャワ人下 級 貴 族 の団体 で あ るが近 年 改良主 義 を克服 し つ つ あ るので (と くに1926年 ソロ大 会以 降), 共産 主 義 者 が 中核 とな り, ブデ ィ ・ウ トモの中 へ大衆 を引 き入 れ, 明確 な民 族 民 主 主 義 的 な綱 領 を もった組 織 に これ を再 編 成 して い くべ きで あ る。(ただ しこ う した イ ワの主張 に対 し,イ ワ著 作 の監 修 者 で あ る ク リステ ィル ンのT.ドム バ ー ル は, イ ワの統 一 戦 線 方 式 を評 価 しつ つ も 「植 民 地 政 庁 に対 し半 ば協 調 主 義 的」 な ブ デ ィ ・ウ トモ に過 度 の期待 を か け る こと は誤 りで あ る と手 厳 し く批 判 して い る。) ドムバ ー ルが指 摘 した よ うに, そ の後 の民 族 主 義運 動 史 の中 で ブデ ィ ・り トモ は, イ ワが期 待 した よ うな革 命 的民 族主 義 を志 向す る ことはなか った。9) しか しなが ら

,

「革 命 的知識 人」 を 核 とす る民 族 主 義 運 動 に指 導 され る民 族 革 命 の推 進 とい うイ ワの基 本 戦 略 は, 彼 が帰 国 した 1927年 7月,す で に帰 国 して いたサ ル トノ ら留 学 生 会 出身 の知 的 エ リー トと ジ ャワで の民族 主 義 運 動 の頂 点 に あ った スカル ノ らとの提 携 の中 か ら誕 生 した イ ン ドネ シア国民 党 (当初 名 はイ ン ドネ シア国民 同盟 )にお いて実 現 した とみ る こ とが可能 で あ る。 明確 に 「イ ン ドネ シア独立 」 を党 是 と し, 宗教 とは一線 を画 した民 族主 義 を標 梼 した この組 織 の成 立 は, 彼 (東 イ ン ド) と アソシエ-ション 我 (オ ラ ンダ) の連 合 を構 想 した倫 理政 策 の破 綻 を象 徴 す る もの で もあ った。 そ して留学 生 会 名 の地 域 呼称 を 「東 イ ン ド」 か ら 「イ ン ドネ シア」 に変更 し統 一 戦 線 にお け る革 命 的知識 人 の役 割 を重 視 した イ ワが, 1927年 11月帰 国 す るや た だ ち に イ ン ドネ シア国民 党 に入党 した こ とは, イ ワ もまた 「新 時代 の子

で あ る こ とを如 実 に示 す もので あ った。 4.逮 捕, そ して流刑 5年 余 に及 ぶ オ ラ ンダ, ソ連 で の留 学 生 活 を終 え た イ ワは, 帰 国 直後 バ ン ドンで弁 護 士 活 動 を しなが らイ ン ドネ シア国民 党 の活 動 - 関 わ って いたが,1928年 2月 に は大 規 模 農 園 が多 く労 働 争 議 の多発 す る北 スマ トラの大 都市 メ ダ ンに移 る。10) こ こで の イ ワは国民 党 スマ トラ支部 を 指導 す る一 方 , イ ン ドネ シア運 転 手 組 合 な どの労 働 組 合 を組 織 す るな どの実践 活 動 に取 り組 ん で い る。 さ らに は 日刊 誌 『マ タ- リ ・イ ン ドネ シアMataharilndonesia』 を主 宰 し, 筆 名 で

「嘘 の約 束

「空 言 」 な どオ ラ ンダ批 判 の論 陣 を は って い た。 この よ うな精 力 的 な政 治 ・言論 活 動 を行 な うイ ワに対 し, 蘭 印政 庁 は彼 を 「メ ダ ンで人民 を動 員 す る任務 を モ ス ク ワか ら授 け ら れ て い る共産 主 義 者 」 [イ ワ1975:76]とみ な し,1929年 9月 に逮 捕 ,投 獄 す る。 同年 12月 に 9) ブディ ・サ トモの設立 ・発展過程についてはNagazumi[1972]を参照。 10) イワに先立っ 10年前, オランダ留学か ら帰国 した直後の タン ・マラカは, ここメダンで民族主義 者 としての第一歩を しるしたが, このスマ トラ屈指の大都会を 「資本家にとっては黄金の地, 也

上の楽園, 労働者にとっては汗 と涙, 死の地獄」 であったと描写 している [Tan Malaka1947:

47]。またイワは, メダンの タマ ン・シスワ学校の顧問になるよう要請 も受けている [土屋 1982:

197]。

(10)

東 南 ア ジア研 究 34巻1号 は

「1

9

3

0

年 の イ ン ドネ シア国民 党大反乱」企 図 の廉 で スカル ノ ら同党幹 部 四人 が逮 捕 され る が, イ ワのいち早 い逮捕 も, そ う した蘭印 当局 の国民党 へ の警戒 の強 さを反映 した もので あ っ た 。 イ ワに と って は生涯最初 の獄 中体験 で あ ったが

1

0

カ月後 の

1

9

3

0

7

月, パ ンダ海 に浮 かぶ 孤 島パ ンダネイ ラ島-妻 と もど も流 刑 され る ことにな り, この地 で

1

9

41

2

月 マ カ ッサ ルに 移 され るまで の

1

0

7

カ月 を政治犯 と して過 ごす ことにな る。 パ ンダネイ ラに は

1

0歳年長 の 民族主義者 チ プ ト・マ ンダ ンクスモ

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oMangunkus

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がすで に流

刑 (

1

9

2

8

1

2

月)さ れて いたが,イ ワ と同世代 の エ リー ト民族主義者 と比較 し,イ ワの

1

0

年余 の流罪 は異例 な は ど 長 期 で あ った。 イ ン ドネ シア国民党 の誕生 を重大 な脅威 とみた蘭印政庁 に とって は, モス クワ 帰 りの理論家 イ ワの動静 はよ り一層不気味 な存在 と映 じたので はなか ろ うか。 流刑地 での イ ワの 日常生活 や思索,信仰 につ いて は 『自伝』 で も具体 的 に綴 られ, また蘭領 ニ ューギニ ア (現 イ リア ン ・ジャヤ) か らパ ンダネイ ラに流刑地 が変更 とな った- ッタや シャ フ リルの著作 か らもその一 端 が うかがわれ る [- ッタ

1

9

9

3:3

9

2;

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9

4

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]。 こ れ らの文献 か らは, 同 じオ ラ ンダ留学組 でかつ流刑地 を同 じくしなが らも, イ ワと西欧社会民 主主義 - の傾斜 の強 い ミナ ンカバ ウ出身 の この2人 との間 には気質 的 に も政治思想 的 に も明 白 な差 異 を見 出す こ とが で き る

。1

9

4

5

年 の独 立 宣言 を め ぐる解 釈 方 法,

1

9

4

6

「7

3

日事 件

11)にお け る- ッタ副大統領, シャフ リル首相 によ るイ ワ らの 「政敵」逮捕, さ らには

1

9

5

9

年 の スカル ノ大統領 によ る

4

5

年憲法復帰 をめ ぐって も, イ ワと- ッタ らの間 に は大 きな距離 があ ったが,その遠 因 の一 つ に流刑期 間中 の両者 の確執

[

Mr

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9

9

4:1

8

0

]

があ った こと も あげ られ よ う。 両者 の不協和音 の具体 的 な事例- それ は政治 的立場 の差異 を反 映 した もので もあ るが-と して, 第二 次世界大戦勃発後 の彼 らの相互 イメー ジの対称性 をみてお きたい。 イ ワは,思想 的系譜 を同 じくす るチ プ ト, - ッタ, シ ャフ リル らが政庁 によ り流刑 を解 かれ たの は彼 らが今 次大戦 を 「民主主義 に対 す るフ ァシズムの挑戟」 と捉 え,現時点 で は抗蘭民族主義運動 を一 時 棚上 げ し本質 的 に は民主主義国 だ とみ な したオ ラ ンダと提携 す ることを唱 えたか らだ とみ るの で あ った [イ ワ

1

9

7

5:

9

0

]

それ に対 し- ッタは, イ ワが

1

9

41

2

月 マカ ッサ ル- の移動 を認 め られた ことを 「ど う して イ ワ ・クスマ ・スマ ン トリが移監 され たか,私 は全 く知 らない。別 の場所 に (パ ンダネイ ラ島か ら一 引用者)移 され たい とは時 々私 に話 した ことが あ った。 たぶ ん,彼 が ジ ャカル タにい る誰 か に手 を回 した結果,収監 され ることにな ったのだ ろ う」[ハ ッタ

1

9

9

3:4

0

7

]

といささか冷 ややかな筆致 で叙述 す るので あ った。 ll) この事件はイワにとっては大きな衝撃であり 『自伝』 においても約40頁を費 し 「痛恨」の筆致で 綴 っている。事件全体の経緯については

Ande

r

s

o

n[

1

9

7

2

]を参照。 66

(11)

後藤 :民族主義者 イ ワ ・クスマ ・スマ ン トリの政治 的 肖像 この一 見些細 なェ ピソー ドが示 す よ うに,第二次世 界大戦前夜 の ヨー ロ ッパ情勢 の危機, そ して ア ジア太平洋地域 にお ける日本 と欧米列強 の間 の緊張 の高 ま りの報 は, パ ンダネイ ラの流 刑地 に も確実 に達 して いた。 こう した中で シ ャフ リル は,

1

9

3

9

8

2

4

目付 の イ ワ宛 て書簡 にお いて,民族主義運動 と蘭印当局 が共通 の 目的 - フ ァシズムの脅威 - の対処 に向 け共 同歩調 を とるべ きこと, そ して その一環 と して オ ラ ンダ側 に責 任 の一部 を人民 の運動 に委譲 すべ きこ とを要請 す る書簡 を書 くよ う協力 を求 めて い る [Mrazek

1

9

9

4:2

0

1]。 また- ッタは太平洋戦争 の勃発 直後 の

1

9

41

1

2

月末, パ ンダネイ ラか ら有力紙 『プマ ンダ ンガ ン

Pe

mandangan』

へ 「太平洋戦争 とイ ン ドネ シア人民」 と題 した政治論文 を寄稿 し, そ の中で 「フ ァシズムが戸 口まで近付 いて い る」現在

,

「イ ン ドネ シア人民 に とっ、て, とるべ き立 場 は 日本帝 国主 義 との対決以外 にはない」 と説 き, あ くまで も 「西 欧 デモ クラシーの陣営 に加 わ って闘 う」 べ きだ と訴 えて いた

[

Hat

t

a1

9

5

3:1

4

4

]。12) - ッタ, シャフ リルの場合 と異 な り, イ ワには開戦前夜 に書 いた政治論文 や書簡等 の記録 は 残 って いない 。そのため当時 のイ ワの時局認識 や個人 的心境 が いか な る もので あ ったか は定 か で はないが

,

『自伝』にお いて チプ トや- ッタの行動 を 「親 オ ラ ンダ的 な姿勢」だ と批判 しつつ 「私 は,倣憶 にイ ン ドネ シア民族 を見下 して い るオ ラ ンダに連帯 す ることは出来 ず,さ りとて ド イ ツの侵 略活 動 を承認 す る こ と も出来 なか った」 と手 短 か に述 べ るに とどま って い る [イ ワ

1

9

7

5:9

0

]

だがその一方, イ ワは

M.

H.

タム リン

Thamr

i

n

ら親 日的 な民族主義者 の一部 に あ った対 日接近論 に対 して は, 日本 をナチ ス ・ドイ ツの同盟国 とみ る立場 か ら懐疑 的 な姿勢 を 保持 して いた。13)

壮年時代 (

1

942- 1

9

65

年)

イ ワ 『自伝』 は, 日本軍政期

(

1

9

42

3

∼ 1

9

4

5

8

月)か ら

1

9

5

6

年 の国防相辞任 までの 時期 に全記述 の

6

0

パ ーセ ン トが あて られて い る。年 齢 で いえば

4

3

∼ 5

7

歳 まで の この壮年 期 前半 は

,

「イ ン ドネ シア」とい う独立主権国家 を模索 しつづ けた イ ワに とって,その理想 の実 覗,二度 の閣僚体験 (初代 スカル ノ内閣 の社会相, ア リ ・サ ス トロア ミジ ョヨ内閣 の国防相), そ して

1

9

4

6

「7

3

日事件」に関連 しての二年余 の獄 中生活,軍 の圧 力 によ る国防相辞任等 いわ ば ヒカ リとヤ ミが交錯 す る激動 の時代 で あ った。

1

2

)

この点 の詳細 につ いて は後藤

[

1

9

8

6:8

章] を参照。

1

3

)

タム リンら 「親 日」 的 とみな された民族主義者 と日本 との関係 につ いて は後藤

[

1

9

8

6:1

1

章] に 詳 し

い。

6

7

(12)

東南アジア研究 34巻1号 1. 日本 占領期評価 本章 で は,共和 国 の創成期 に関わ る起伏 の多 いイ ワの政治的軌跡 の内 とりわ け彼 の国防相 時 代 の役割 に焦点 をあて ることによ って

,

「シ ビ リア ン」イ ワの政軍 関係観 を考察 してみたい。ま たそれ に先立 ち, イ ワの軍部認識 との関連 で,彼 の 日本軍政理解 の一端 につ いて も言 及 してお きたい。 約三年半 に及 ぶ 日本軍政期 にお ける 「戦 前派」 の民族主義指導者 の対応 は,三 つ の類型 に大 別 で きる。 第一 はスカル ノ,- ッタの最高指導者 に代表 され るよ うに

,

「対 日協力」を通 じて独 立 の諸条件 を手 に入 れ る方途 を選 んだ もので あ る。 日本軍 政 当局 もオ ラ ンダ植民地政府 の下 で 流刑,投獄 されて いた スカル ノ ら影響力 あ る指導者 を積極 的 に利用 して軍政 の諸 目的 を達成 し よ うと したが, その意 味で この両者 の 「蜜 月

はいわば同床異夢 の関係 で あ った。 第二 は今次 大戦 を 「民主主義対 フ ァシズム」の角逐 と捉 え,日本軍 とは公的 に も私 的 に も関わ りを持 たず, 釆 た るべ き 日本敗北 の 日に備 え 「同志 的 ネ ッ トワー ク」 の組織化 にあた って いた シャフ リル に 代表 され る グル ープで あ る。14) そ して第三 の範型 が, ジャワにお け る権 力集団 た る日本 陸軍 お よび軍政監部 とは公的関わ り を持 たなか った ものの, ジャカル タに設 置 された海軍武官府 と密接 な接触 を もった グループで あ る。前 田精大佐 (後少将) を長 とす る武官府 とイ ン ドネ シア独立 との関係 につ いて は先行 の 諸 研 究 や関係 者 の回想 録等 に詳 しいが,15)ここで調 査 部分 室長 とな った ア フマ ッ ド ・スバ ル ジ ョとの個人 的関係 で,上述 の第一,第二 の グルー プに属 さない多 くの民族主義者 が武官府 と 関 わ りを持 つ ことにな った。 スバ ル ジ ョは1920年代 の大半 を ライデ ン大学 法学 部学生 と して過 ご し留学生会 の重鎮 の一 人 で あ ったが,帰国後 1935- 1936年 にはスマ ラ ンの 『マ タ- リMatahari』紙通信員 と して滞 日 し, 日本 の 「ア ジア主義」 的南進論 の高揚 を間近 に観察 す るな ど特異 な民族主義者 と して知 られて いた。16)かっ スバ ル ジ ョは

,

「イ ン ドネ シアの民族運動 と日本 の ア ジア主義運動 のあいだ に は, イ ン ドネ シア人 民 が オ ラ ンダ植民地 主 義 か ら離脱 す る ことを容 易 にす る共 通点 が あ っ た」[スバ ル ジ ョ

1

9

7

3:

9

-

1

0

]との言説 が示 す よ うに,きわめて 日本 へ の親近感 の強 い知識人 で あ った。 イ ワ自身 はスバ ル ジ ョのよ うな積極 的 な 日本観 は持 ち合 わせて いなか った ものの,20 年 余 にわた る彼 との個人 的関係 か ら 「海軍 グルー プ」 の一員 とな り,前 田やその部下 で あ る西 14) このグループとは直接の関係はなかったが, ア ミル ・シャリフディンAmir Sjarifuddinの場合 は, 蘭印政庁の 「反日工作」 と関わりをもって地下活動を行なおうとした数少ない民族主義者の 一人である。 15) 代表的な著作 として早稲田大学大隈記念社会科学研究所 [1959],西嶋 [1975]等。

16) Anderson [1972:442]は, スバルジョの訪 日をイワ ・クスマ ・スマントリが主宰 したMatahart 紙の派遣 としているが, これは誤 りである。 同紙はスマランの黄仲滴財閥系の新聞であり, また

スバルジョが日本に滞在 した1935-36年は,イワは流刑中である。

(13)

後藤 :民族主義者イワ ・クスマ ・スマントリの政治的肖像 嶋重忠 らイ ン ドネ シア民族主義 に共鳴 を覚 え る日本人 との接触 を深 めて い く。 ● この よ うに相対 的 には自由な立場 にあ った イ ワは, それで はイ ン ドネ シア史 にお ける日本軍 占領期 を どの よ うに位 置づ けて い るので あろ うか。『自伝』において イ ワは,日本軍政 当局 によ る厳 しい政治 的抑圧,経済 的搾取,さ らには ローム シャ (労務者)や従軍慰安婦 の徴発等 を生 々 しく記述 す る。 それ と同時 に, この時代 が もた らした反面教 師的性格 につ いて 「イ ン ドネ シア 民族 に数 多 くの悲劇 を ひ き起 した 日本軍 の残酷 で強圧 的で厳 しい植民地支配 は,私 た ちの民族 に積極 的 な感情 を も植 えつ けた・--日本軍政下 の苛酷 な生活 を通 して, イ ン ドネ シア民族 は, 自力 でや り遂 げ る自助 を学 んだ。私 たちの民族 の性格 が, あ らゆ る植民地支配 の苦 しみ を経験 してゆ く中で変化 したのだ った」[イ ワ

1

9

7

5:1

0

4

]と回顧 す る

。1

9

5

0

年代以 降 の国際的 なイ ン ドネ シア研究学 界 にお いて, 日本軍 政 期 は 「史 的分 水嶺」 で あ る との理解 が定 着 しつつ あ る が,17) その時代 の直接体験者 の一人 で あ るイ ワの歴史認識 か らもその点 を確認 す る ことが可能 であ る。 その一方, イ ワは権 力 の担 い手 で あ った 日本 の陸軍 には強 い異 和感 を覚 えて いた。社会主義 をふ くむ近代 西欧 の さまざ まな政 治思 想 に接 し, それ を骨 肉化 して いた知識 人 イ ワに と って は, 日本軍 の強圧 的で唯我独尊 的 な統治 ス タイル は到底受 け入 れがたい もので あ った。後述 す る

1

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0

年代半 ばの国防相時代 に彼 が陸軍参謀次長 ズルキ フ リ ・ル ビス

Zul

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iLubi

s

と対 立 した時, 日本軍教育 (ジャワ郷土 防衛義 勇軍, ペ タ) の最優等生 といわれ たル ビスに抱 いた 次 の よ うな感情 か らも,彼 の 日本軍観 の一端 を垣 間見 ることがで きる。 「(ル ビスの) 陸軍 は独 立 と革命 に大 きな貢献 を したので あ るか ら, イ ン ドネ シア共和国 に政治的安定 をっ くり出す担 い手 は陸軍 で なければな らない, との一面 的で狂信 的 な彼 の情勢 分析 の方法 は, かって, イ ン ●●●●●●●●●●●●● ドネ シア人 の 目に した 日本軍部 の狂信主義 的 な行動 をイ ン ドネ シア内部 に も引 き起 す ことにな る もので あ り, そのル ビスの よ うな見解 は, イ ン ドネ シア陸軍 自体 に とって, きわめて危険 な 主張 で あ ると言 って よか った」 [同上書 :

2

7

9

-2

8

0

](傍点一 引用者)。即 ちル ビス参謀次長 に体 現 されて い るとみな した 自国 の陸軍 の悪 しき体質 を 「産 みの親」 で もあ る日本 陸軍 と重 ね合 わ せて理解 す るのであ った。 2.国軍問題 イ ワは,

1

9

5

0

年代約

1

0

年 間 の 「議会制民主主義」 期 を通 じ最 も長期政権 で あ った第一次 ア リ ・サ ス トロア ミジ ョヨ内閣

(

1

9

5

3

7

∼ 1

9

5

5

6

月)の国防相 に就任 す るが,それ以前 か ら,国防問題全般 につ き国会 で積極 的 な発言 を繰 り返 し表 明 して いた。 た とえば

1

9

5

2

年 の国 会 で の-演説 にお いて, イ ワは国防政策全体 につ いての基本 的見解 を

1

7

)

この点に関する研究史については,後藤

[

1

9

8

9

:序章],倉沢

[

1

9

9

2

:序章] を参照。

(14)

東南 ア ジア研 究 34巻 1早 述べ,独立主権国家 イ ン ドネ シアが 自 らの主権 を守 るには,「内政,外交,国防の三位一体化」 が必要 だ と強調 した [DPR 1952:279-280]。 第一 の内政 に関 して は,何 よ りも外国か らの破壊 的 な干渉 (50年代初頭 には親蘭派勢力 によ る反政府運動 が多発 していた とい う状況 を背景 に し てい る一筆者) を拒否 し人民 の主権,安全,繁栄 を保護す ること,第二 の外交 に関 して は恒久 平和 の実現 を 目指 し自由 ・積極外交 を展開す ること,具体 的 には冷戟下 にあ って米 ソいずれの 陣営 に も粗 さず,近 隣の大国で あ る中国, 日本, オース トラ リア との間 に相互不可侵条約 を締 結 す ることが強調 された。(1948年9月, 副大統領- ッタが唱えた 自由 ・積極外交 とい う理念 が,18)ほぼ国民 的合意 を得 ていた とい うことは重要 で あ る-筆者.)そ して第三 の国防 につ いて は, イ ン ドネ シアの戦略的重要性 を考慮 しつつ,何 よ りも敵 の侵略 を防 ぐに足 るだ けの十分 な 軍事力 を備 え ることの必要性が説 かれてい る。 こうしたイワのいわば総合安全保障政策 的な国防観 の底流 には,国防 とは特定 の機 関の専断 に委 ね られ るべ き課題 で はな く, あ くまで も国民全体,具体 的 には人民 の主権 が代表 されて い シ ビリア ン ・コン トロール る国会 の場 で十分 に論議 され るべ きだ との信条 があ った。約言 すれば, そ こには文 官 優 位 の原則 に対 す るイ ワの確固 た る信念 があ った。 さ らにイ ワは, イ ン ドネ シア共和国 は世界最大 の群 島国家 であ り, 国防政策 の策定 に際 して は, これまで独立戦争へ の貢献 を理 由 に過度 に評 価 されて きた陸軍 に比 べ,軍事予算面 は じめあ らゆ る分野 で冷遇 されて きた海軍 と空軍 の充実 を はか ることが急務 であ ると説 いた [ibid.:3068]。 こうしたイ ワの国防論 は,文官優位 の原則 を否 定 した上 で成 立 して い る現下 の ス- ル トSuharto政 権 の国 防基 本方 針 で あ る 「ワ ワサ

ン ・ヌサ ンタラWawasanNusantara」 (陸, 空, 海 お よび全天然資源 を一 つの統一体 とみな

し, それを護持 す ることによ ってイ ン ドネ シア民族 の一体化 は維持 で きるとの考 え方)[CSIS 1991:Preface]と類似 しているの は歴史 の皮 肉 といえよ う。 イ ワは,国防相 任命直前 の翌 1953年 5月 の国会演説 にお いて も次 の よ うな個別 的 な問題提 起 を行 な ってい る。 (1) イ ン ドネシア共和 国 は群 島国家 であ る。 (2) イ ン ドネ シア共和国 の 議会 な らびに政府 は,海 な らびに空 の重要性 を認識 し, わが国 の地理 的条件 に合致 した海洋 ・ 航空 ビジ ョンと, それに基 づ く国防政策 を策定 しな ければな らない。 (3) 政府 な らびに議会 は,国防基本法 を早急 に制定す る必要 が あ る。 (4) イ ン ドネシア共和国 の地理的状況 に鑑 み, デ ワン ・プル タ- ナ ン ・ネガラ 海軍 と空軍 の充実 をはか らねばな らない。(5)陸海空三軍 の基本戦略 は,国 防 審 議 会 の よ うな政府直轄 の機 関 によ って決定 されな ければな らない。(6)国防省 を陸軍省 と海軍 ・空軍省 の二省 に分割すべ きであ る。 海軍 ・空軍省 内部で は,各軍 は互 いに他 か らの干渉 を受 けること な く, 自立性 を もち各 々の予算 に基 づ いて整備拡張 されねばな らない [DPR 1953:2991]。 国防政策全般 に関す るこのよ うな具体的かつ積極的 な提言 が イ ワの国防相就任 を可能 に した 18) - ッタの外 交論 につ いて は,Hatta[1953]が最 も体 系 的で あ る。

(15)

後藤 :民族主義者イワ ・クスマ ・スマントリの政治的肖像 シ ビ リ 7 ン ともいえ るが,文民政治家 イ ワの この国会演説 は とりわ け次 の二点 を強調 した もので あ った こ とは想 起 され るべ きで あ ろ う。 第一 は, さ きに も指摘 した よ うに, 国防 の基 本 政 策 は国軍 に よ ってで はな く,政府 と国会,即 ちイ ワが人民 の主権 が体現 されて い る とみな した機 関 によ っ て審議 され決定 され るべ きだ とい うこと,第二 は,海軍,空軍 を陸軍 の支配 か ら分離 し, 独立 した-省 の管轄下 に移 そ うと した ことで あ る。 従来 イ ン ドネ シアの陸海空三軍 は,一括 して国 防省 の管轄下 におかれ, その三軍 に対 す る実質 的 な指揮権 (国軍参謀総長職 ) は,例外 な しに 陸軍 出身者, それ も旧蘭印軍系 の エ リー ト将校 の掌 中 にあ った。 こ う した実情 に対 し, イ ワは,三軍 の間 に は,基本 的 な任務 の差異 が あ ることを理 由 に, 陸 軍 の影響 力 を相対 的 に低 め よ うと考 えたので あ った。 イ ワによれば,海軍,空軍 は,戦 時 に敵 国 か らの第一波 の攻撃 を受 けてたっ防衛機能 を もつ のに対 し, 陸軍 は地上作戦 を主 とす る もの で あ る。 したが って, そ う した第二次 的 な陸軍 を本来 的機能 を果す以上 に増 強す る ことは, イ ン ドネ シアが国境 を越 え た地域 で戦 争 す る,即 ち攻撃型軍 隊 を もつ よ うにな る ことを意 味 し

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],それ はイ ン ドネ シアの国 防理念 であ る "自主 防衛"論 に反 す ると,イ ワはみ な した。 この よ うにみて くると,1953年 7月 の国防相就任 まで のイ ワは,国軍 問題 に対 して は,(1) 国軍 は独立戦争期 には きわめて重要 な役割 を演 じた ものの,戦争状態 が終結 し独立 国家 とな っ た時点 で は,人民 の主権 を代表 す る政府 と国会 に服属 す る もので あ る。 換言 すれば国軍 の基本 ア ラ ッ ト ・ ネ ガラ 的性格 は "国家 の道具"で あ り,文官優位 の原則 が貫徹 されな ければ な らない, (2)国軍 のな かで も最 強 を誇 る陸軍 のなかで, 旧蘭 印軍系 の グループが勢 力 を強 め る ことはオ ラ ンダの影響 力 の増大 を意 味 し, これ は何 と して も回避 しなけれ ばな らない,(3)か とい って,陸軍 内の も う一方 の勢 力で あ る旧義 勇軍系 の勢 力 を量 的 に拡張 してゆ くことは, イ ン ドネ シアの戦 略的, 地理 的条件 に鑑 み賢 明な策 とはいえない, む しろ (4)海軍,空軍 力 を充実 させ る ことが,外 交原則 で あ る自由積極外交 を推進 す る足場 を固 め,他 国か らの攻撃 の脅威 を抑止 す る とい う国 防原則 か らみて も重要 で あ る, とい う基本 的 な理解 を抱 いて いた といえ よ う。 イ ン ドネ シアの政治情勢 は,1952年 「10月 17日事件」19)に端 を発 した国軍 問題 を め ぐる政 治 的緊張 の高 ま りの なかで ウ ィロボW ilopo内閣 は退 陣 を余儀 な くされ, それ に代 って, 第一 次 ア リ ・サ ス トロア ミジ ョヨ内閣 が誕生 した。 当然 の ことなが ら, ア リ内閣 にお いて は国防相 の ポ ス トが きわめて重要 な もの とな り, その人事 が注 目の的 とな った。 そ して粁余 曲折 を経 た 後, ア リ首相 の所属 す るイ ン ドネ シア国民党 の左派 と人間的 に も政治 的 に も太 いパ イ プで結 ば れ, また国軍 問題 に も一家言 を もち,かつ,「10月 17日事件」をひ き起 した旧蘭印軍系将校 に 批判 的 で,国軍 内の旧義 勇軍 系 グループの支持 もあ ったイ ワが,その重責 を担 うことにな った。 19) この事件 の詳細 につ いて は,Feith [1962:246-273]を参照。 また 日本語文献 と して 永井 [1986 176-184] が あ る。

(16)

東 南 ア ジア研 究 34巻 1号 国防政策策定 の実質 的な最高責任者 とな ったイ ワは,彼 の政策 の重点 を,国軍 とりわけ陸軍 内部 の軍規 と軍 の統制 の回復 に置 くことを強調 [イ ワ

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]しつつ,議員 時代 の構想 を実行 に移 すべ く2年 間 の在任 中,相 当 に大胆 な施策 を打 ち出 し,国防政策 にあ る程度 の フ リー ・- ン ドを もつ ことにな った。 もちろん, こう した積極 的な国防政策 を可能 に した背景 に は,まず何 よ りも国軍 とりわ け陸軍 の内部 が

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日事件」によ り内部分裂 をお こ し,文官 た るイ ワが, その軍 内亀裂 に くさびを打 ち込 む形 で人事政策 その他 の重要施策 を強行 で きた と い う政治的条件 が あ った ことは否 めない。 また, そ う した国軍 の一般的 な影響力 の低下 とい う 事実 その ものが,第一次 ア リ内閣を して

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年代 のイ ン ドネ シア共和国 の 「議会制民主主義」 期 に もっとも長命内閣 た らしめた一 因で もあ った。 したが って, 当時 の政治過程 を克 明 に観察 した

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がいみ じくも指摘 したよ うに, ア リ内閣が政権担 当中に何 よ りも恐 れ た ことは,まず第一 に国軍 内の親 スカル ノ系 -

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日事件」に反対 の旧義勇軍系 の勢力が 弱体化 す ることで あ り, そ して,第二 に軍 内の対立 が和解 の方 向にむか うとい うことであ った

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イ ワの主導権 によ り決定 した幾 っかの重要 な政策, と りわ け,前 ウ ィロボ内閣時代 か らの懸 案 であ った国防法 の制定, あるいは旧蘭印軍系 のエ リー ト将校 の牙城で あ った国軍参謀総長制 の廃止,さ らには

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日事件」反対 の急先鋒 の一人 であ った

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ル ビス大佐 の陸軍参謀次 長への任命等 は, まさに前述 した軍 内の権力構造, あるい は政 ・軍関係 の文脈 のなかで と られ た もので あ った。 しか しなが ら

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「軍人 は軍紀 に もとる態度 と行為 をなす ことを許 されず,政治 に参加 す ることを許 されない」 (第

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条) ことを規定 した国防法 に象徴 的 にみ られ るよ うな, あか らさまな 「文官優位 の原則」,あ るいは 「国軍 は国家 の道具」であ ると考 え るイ ワの基本 的 な国軍観 は,従来,独立戦争期 の体験 か ら 「国家 と人民 の保護者」 を もって任 じ, それ故 に, 国軍 は軍事面 だけで な く,政治社会面 で も貢献 すべ きだ との立場 か ら 「文官優位 の原則」 には 異 を唱えていた国軍 をいた く刺激す ることにな った。 またイ ワは,左翼 の復員軍人団体

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I)が,ダルル ・イス ラム運動 に対抗すべ く彼 らに武器 を供与 して ほ しい と要望 した時 これに好意的な返答 を与 えた ことが,軍 や野党 か らの 「赤 いイ ワ」批判 を招来す ることとな った。その結果,イ ワ国防相への不信 をテ コと して,軍 内 に

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日事件」の傷跡 をいや し,ふ たたび統一 を回復 しよ うとす る気運 を助長す ることに な った。 このよ うに して,第一義 的 には,文官政治家 イワへ の対抗 を契機 と して高 ま った軍 内 和解 の動 きは

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月 ジ ョクジャカル タで開催 された全陸軍指導者 による陸軍高級士官会 同によ り,一層明確 な もの とな って い った。 この よ うにみて くると

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月か ら

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月 にか けて政権 を担 当 した第一次 ア リ内 閣 は,国軍 「機 関」説 を暗黙 の原則 と して対軍関係 において は幸先 のよい船 出を した ものの, 結局 は,その航海半 ばに 「当初 の予測」 [イ ワ

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1] に反 して覚醒 した国軍 とい う 「眠れ 72

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後藤 :民族主義者イワ ・クスマ ・スマントリの政治的肖像 る獅子」に 「二重機能」論 で武装 させ る (具体 的 には ジ ョクジャカル タ会 同 にお け る 「サ ブ タ ・ マル ガ

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憲章」の採択)主要 な契機 を与 えた内閣 と して,イ ン ドネ シア憲政史上 に 位 置づ け る こと も可 能 で あ る。 また1950年 代 当初 よ り戒厳令 の鬼 子 的性格 を いち早 く察知 し それ にたいす る批判 を表 明 し,20) また国防相在任 中 は大胆 な国軍 「機 関」説 を主張 してや まな か った イ ワは, 自 らの政策 のいわば ブーメ ラ ン的帰結 と して, 国軍再統一 - の動 きを招来 す る 一因 をっ くった もの ともいえ よ う。

3.

ナ シ ョナ リズム とエ スニ シテ ィ 上述 した政軍 関係 の中で,イ ワは大 同団結 を はた した陸軍 の圧 力 に屈 した形 で,1955年 6月 国防相辞 任 を余儀 な くされ た。 国政 レベ ルでの要職 をひ とまず離 れ50歳代後半 を迎 えて いた イ ワの関心 を捉 え たの は,独立 達成後 10年 いまだ政 治 的騒擾 がお さま らず社 会経 済的 に も不 プ ル シ ョア ン 安定 な地方社会 の状況 で あ った。1910年代後半以来 ナ シ ョナルな価値 を 目指 し闘 争 して きた イ ワに とって, ナ シ ョナルな場 で心 理 的痛手 を受 けた こと も,彼 が故地 ス ンダ社会 の現実 に関 心 を向 けることにな った要 因 の一 つ であ った。 その当時,西部 ジャワ, プ リア ンガ ン地方一帯 は依然 と して ダルル ・イス ラム運動 の脅威 に 日常 的 に さ らされ,著 しく不安定 な社 会経済情勢下 にあ った [アイ ップ 1990:108-115]。 また 中央 にお ける 「安定政権」を産 む契機 とな ることを期待 され た1955年 の第- 回総選挙 が,結果 的 には社 会 の末端部 にまで党派政治 を激化 させ, かえ って政治 の流動化 を助長 す ることにな っ た。 そ う した時代背景 の下 で, ス ンダ社会 の一部 には中央政府 を支配 して い るとみな した ジ ャ ワ人- の 「伝統 的」 な反発 も加 わ り, よ り広範 な地方 自治 を要求 す る "ス ンダ主義" 的 な動 き が表面 化 した。 こう した事 態 を国家 の統 一 と独立 に対 す る脅 威 と憂慮 したイ ワは,1956年 5 月,翌年 中央政府 の首相 とな るジュア ンダ

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ら国政 レベルで影響力 を もち,同時 に (ま たあ る意 味で はそれ故 に) ス ンダ社会 で声望 の高 い指導者 と語 らい,既存 の ス ンダ諸 団体 の活 パ ダ ン ・ム シ十 ワラ ・ス ンダ 動 を統合,調整すべ く, ス ン ダ協 議 会 を発足 させ た [後藤 1972:34-35]。 イ ワは この ス ンダ協 議会 の委員長 に推 され ることにな るが, 『自伝こ』 の中で この協議会 の性 格, そ して多様 な ェ スニ ック集 団 か ら構成 され るイ ン ドネ シアの統一 につ いて こ う記 して い る。 この ス ンダ協議会 は,種族独善主義 の感情 を強調 した り, 自省至上主義 の 目標 を追究 しよ 20) 当時施行 されていた 1950年憲法第 142条は,従来有効であったすべての法律,条令は新たな廃止 措置がとられるまで効力を発揮するとの一項があった。 そのため1939年に蘭印政庁が発布 した戒 厳令 も自動的に効力をもっ ものと多 くの国軍指導者は考えていた。イワはこうした戒厳令が軍部 により懇意的に利用されることを厳 しく指摘 していた ([DPR 1952:1372]他)。

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東南 アジア研究

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巻1号 うとす る もので はなか った。 イ ン ドネ シア民族 が,独 自の習慣,言語,文化 を持 っ幾 つか の種族 か ら成 って い る ことは,否定 Lが たい事実 で あ る。 イ ン ドネ シア民族 は,民族統一 をめざ して団結 しな ければな らない と同時 に, --各地方種族 の もつ 「特殊 な財産」 を維 持 し,発展 させてゆか な ければな らな い。私 たちの考 え によれば,各種族 の願望 と威信 が 各面 で尊重 されてゆ くな らば, イ ン ドネ シア共和国 はさ らに強力 にな り, しっか りした基 礎 を もつ国家 にな るはずで あ った。 その ことは, イ ン ドネ シアが豊 か な文化 と言語 を もっ た民族 で あ る ことを証 明す る ものであ る。 [イ ワ

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]

このよ うな基本 的視座 を もっ ス ンダ人 に してナ シ ョナ リス トのイ ワは,一部 の ス ンダ至上主 義者 の唱 えた感情 的 な反 中央姿勢,反 ジ ャワ論 を宥 めつつ, 中央政府 との平和 的 な話 し合 いを 通 じ,各地方社会 の要求 を実現す べ きことを説 いた。 しか しなが ら, そ うしたイ ワ ら長老派 の 説得 に もかかわ らず, 同年 8月, ス ンダ協議会 へ の加盟 を拒 否 し急進 的 な反 中央 (かつ反 ジ ャ フ ロ ン ト ・プ ム ダ ・ス ン ダ ワ) 的立 場 を掲 げた ス ンダ青年戦線 の活動家 が,反 スカル ノ大統領,反 イ ン ドネ シア国民党, 反 「ジャワ族膨張主 義」 を煽 る小冊子 を広 く配布 し大 きな政治 問題化 した。 こう した事 態 は, 当然 の ことなが らイ ワ らス ンダ協議会 の穏健派 の指導者 を苦境 に追 い込 む ことにな った。21) 西部 ジャワで は, この ス ンダ青年戦線 の提起 した問題 を め ぐり激 しい論争 が展 開 されたが, その論争 は三 つ に大別 で きる。第一 は,青年戦線 の主張 に賛 同 し,積極 的 に評価 す るグループ で あ る。 この立場 を代表 したの は前述 した戦前 のバ グユバ ン ・パ ス ンダ ンの系譜 につ なが るパ ルキParki(イ ン ドネ シア民族党

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年成立 )の議長 R.S.ス ラデ ィ レジャSuradiredjaで あ

る。 ス ンダ社会 に基盤 を置 きなが らも,党名 にイ ン ドネ シアを冠 した ことが示 す よ うに, パ ル

キ は

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年 の連邦共 和国体制 を単一共和国制 に移行

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年8月)させ る上 で,西 ジャワで中

心 的 な役割 を演 じて いた [KementerianPenerangan

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]。それ に もかかわ らず 「独立 エラン の熱気」が退潮 をみせ る

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年代半 ば にな ると,パ ルキ は急激 に ス ンダ ・アイデ ンテ ィテ ィへ の回帰 を強 め るよ うにな った。 その ことが次 の よ うな ス ラデ ィ レジャ発言 の背景 にあ った と考 え られ る。 ス ンダ族 の現状 と将来 を憂慮 す る もの は何 人 といえ ど も青年 たちの訴 えにひかれ るで あろ う。 --ただ不幸 に してかれ らの提起 の仕 方 はあま りに乱暴 であ った---西部 ジャワ各層 の主要 な ポス トは, ス ンダ族 に代 わ って ジャワ族 が 占めて い る兆候 が あ るとい うの は事実 で あ る。 [後藤

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21) この時期 の ス ンダ政治社会 の実情 を分析 した研究 はきわめて少 な いが,Wangsamihardja[1972] はス ンダ協議会 の事務局長 の手 にな る もので示 唆的で あ る。

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参照

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