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本願寺寺紋の変遷 154 第一章家紋とその起原について家紋の定義について 沼田頼輔氏は 日本紋章学 において 家紋とは概して対称的形状を以て表されたる図象にして 名字もしくは称号(公家は家名を名字と云はずして称号といふ)の目標として用ゐられたるものをいふ と記しているように(( ( 家紋は姓や一家を

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浄土真宗総合研究 10

本願寺寺紋の変遷

【要旨】 現在、 本願寺で用いられている寺紋が下り藤であることは広く知られている。しかし、 この紋がいつから使われ、 ま た そ れ 以 前 の 紋 が ど の よ う な も の で あ っ た か と い う こ と は あ ま り 知 ら れ て い な い よ う に 思 わ れ る。 家 紋 の 起 源・ 性質を探りながら、 本願寺歴代宗主の紋の変遷を辿ってみる。その結果、 種々に紋は変遷しているが、 その背景を 踏まえると、政治的もしくは社会的事情を理由として、紋が変わる場合があったことを指摘する。 はじめに 家紋の研究は古くは江戸時代から行われてお り (1 ( 、 そこには長い間の成果の集積がみられる。ところが、 一歩中に 入 っ て、 「 真 宗 」 と い う 限 定 的 な 枠 組 み で 捉 え た 時、 紋 の 研 究 は 皆 無 に 等 し く、 ほ と ん ど 手 が 付 け ら れ て い な い 状 態 の よ う に 思 わ れ る。 ま る で 家 紋 研 究 と い う「 文 明 社 会 」 の 中 で、 「 文 明 社 会 か ら 断 絶 さ れ た 未 開 の 領 域 」 が 存 在 するかのようなものである。同じ「紋」の研究領域で捉えた場合、 真宗の紋研究について一考の余地があることは 明白であろう。そこで、 本稿においては、 特に家紋自体の歴史的視点から各宗主の紋に焦点をあてて、 本願寺各宗 主の紋の変遷を辿ることを目的とするとともに、真宗の家紋研究の開拓に一石を投じるものである。

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第一章   家紋とその起原について 家紋の定義について、 沼田頼輔氏は『日本紋章学』において「家紋とは概して対称的形状を以て表されたる図象 に し て、 名 字 も し く は 称 号( 公 家 は 家 名 を 名 字 と 云 は ず し て 称 号 と い ふ ) の 目 標 と し て 用 ゐ ら れ た る も の を い ふ 」 と記しているよう に (2 ( 、 家紋は姓や一家を識別するための図案であり、 個人が帰属している組織を象徴するものであ る。その家紋が発生すると、 それに影響を受けて神社においては神紋、 寺院においては寺紋が出来上がったといわ れてい る (3 ( 。本願寺宗主の紋を辿るにあたって、まず家紋そのものの起原を確認したい。 紋 章 や 家 紋 の 起 こ り は 文 様、 模 様 か ら 来 て い る と さ れ る。 衣 服 や 車 輿 の 装 飾、 旗 幕 の し る し な ど が 起 原 で あ り、 文様から発展した「しるし」が、その印をつけた個人を離れ、家族 ・ 同族の「合印」となる。それと同時に特定の 集団全体の徽章として、 一つの紋が取りあげられることになり、 家紋として自他ともにそれを認識するようになっ たと考えられ る (4 ( 。しかし、 当初の紋は写実的で端正なものではなかったようであり、 紋という性質からは乖離した ものであっ た (5 ( 。後世になって、 肩衣や羽織の衣服に、 場所を定めて付けるようになってから、 その形状は次第に変 化して対称的なものとなったとされる。 今述べたように、 衣服や車輿の装飾、 または旗幕のしるしなどが家紋の起原として考えられているが、 沼田氏は 家紋の起原を公家と武家とに区別して提示してい る (6 ( 。以下沼田氏の区別を示す。 ①公家の家紋 公家の家紋は大略すると、 牛車の文様や衣服の文様を起源とするもの、 または記念的意義に基づいて定められた も の が あ る。 そ の 中、 ま ず 牛 車 の 文 様 を 起 源 と す る こ と に つ い て 示 す。 公 家 の 牛 車 は 網 代 車・ 糸 毛 車・ 檳 榔 毛 車・

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浄土真宗総合研究 10 八葉車など数種があっていずれも屋形造りの屋蓋を付け、 簾をおろして乗る人の姿を隠している。その屋形に装飾 模様として文様が施されていたのである。そして、 朝廷に仕える公家は朝廷の儀式のある日には各自の牛車に乗っ て 参 内 し た た め、 内 裏 の 庭 前 は 公 家 た ち の 牛 車 が 集 ま り 混 雑 し て い た と い わ れ て い る。 ま た、 牛 車 を ひ く 牛 に も 名 牛 が い て、 公 家 た ち は 各 自 の 牛 を 自 慢 し 合 い、 誇 り と し て い た よ う で あ る。 そ う し た 場 合 に 車 に 文 様 が あ っ て、 それが他と識別しやすいものであることが求められていたのである。また、 人が集まればそこに他を威圧する優秀 さを何らかの形で求めたため、 車には立派な文様を施されるに至った。そして最終的には主人好みの文様がその家 の伝統を形成し家紋の発生へと導入されたのである。こうした車の紋は平安時代に始まり、 鎌倉時代には家紋へと 定着したという。 次 に、 衣 服 の 文 様 を 起 原 と す る こ と に つ い て は、 衣 服 か ら の 紋 へ の 転 用 で あ る か ら、 詳 細 な 史 料 は ほ と ん ど 残 っ て いないのが実状である。ただし、 衣服の文様から家紋に転じた代表的な紋が久我家の久我竜胆紋 (図1) であり、 沼 田氏は 『飾 抄 (7 ( 』奴袴の条の 「当家壮年之間着龍胆多須岐宿老後藤円」 とある文に着目して、 ここに記載されている 「当家」 が久我家を指していることから、 久我家が源通方の時代に 「龍胆多須岐」 を衣服の文様としていたと述べてい る (8 ( 。 最後に、 記念的由緒に基づいて定められた家紋は、 たとえば、 菅原氏の梅鉢紋である。それは菅原氏の祖先であ る菅原道真が梅を非常に好んでいたことに由来する。 このように、公家の家紋の起原としては、車の文様、衣服の文様、特別の由緒の三通りが指摘されている。    ②武家の家紋 武 家 の 家 紋 は 戦 場 で か か げ る 旗 の 記 章 に 起 原 が あ る と さ れ る (9 ( 。 平 安 時 代 末 期 よ り 武 士 の 棟 梁 で あ る 源 氏・ 平 氏 の 両 軍 の 対 立 が 激 し さ を 増 し て い く 中 で、 各 武 士 が 源 氏・ 平 氏 い ず れ の 図1

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兵 か を 識 別 す る た め に 簡 単 な 赤 旗 と 白 旗 が 用 い ら れ て い た。 そ こ で は、 参 戦 し た 各 武 士 の 一 族 あ る い は 個 人 を 指 し 示 す よ う な 旗 印 は な か っ た よ う で あ る。 し か し、 戦 場 に お い て 敵・ 味 方 の 識 別 の た め の 役 割 を 果 た す も の で あ る な ら、 そ の ま ま 源 氏 の 白 旗、 平 氏 の 赤 旗 で 充 分 に 有 用 性 は あ る。 こ の よ う な 赤 白 の 旗 か ら、 自 ら を 象 徴 す る も の、 ま た は 他 と 識 別 す る も の と いう性格を持つ家紋として発展する蓋然性はないように思われる。その意味において、 家紋として発展したところ には、赤白の区別だけでは充分でない状況があったことが窺われる。荻野三七彦氏が『姓氏 ・ 家紋 ・ 花押』の中で 述べるよう に ((1 ( 、 文治五年(一一八九)源頼朝の奥州遠征に際して、 常陸から佐竹四郎が宇都宮の頼朝宿営に旗を携 え て 駆 け つ け た が、 そ の 旗 に は 何 の 印 も な く、 白 旗 で あ っ た こ と か ら、 頼 朝 が 無 紋 の 白 旗 の 使 用 を 咎 め た と い う。 そ し て 頼 朝 は 佐 竹 四 郎 に「 出 月 」( 図 2) を あ し ら っ た 一 本 の 扇 を 下 賜 し て、 こ れ を 旗 の 上 に つ け る よ う 命 じ た と い わ れ て い る。 こ の 事 例 は、 平 家 が 滅 ん だ 後、 そ の 時 の 頼 朝 の 白 旗 が 棟 梁 で あ る 源 氏 を 指 す 旗 と し て 認 識 さ れ て おり、 白旗だけでは源氏の白旗を持つ者と、 配下の武士とを区別できなかったため、 白旗に紋をつけるようになっ たことを示している。このことは、 この当時はまだ一般に家紋というのはなかったことを意味するとともに、 旗の 文様が家紋として発展する萌芽期であったことがわかる。 また、 武家社会の中で文様を採用し、 さらには以後家紋に発展したところに、 家紋が家紋として果たすべき役割 があったはずであろう。その役割について、荻野 氏 ((( ( は楯に付された家紋について注目して次のように述べる。 十四世紀のはじめに成立した『法然上人絵伝』にも、 建久三年(一一九二)延暦寺堂衆と朝廷側の武士との戦 闘場面に楯紋が円い輪郭の中に書かれているが、その紋様は「竜胆紋」に類するが、余り定かではない。   そこで楯の紋の表面に家紋を付けたことは何の目的からであろう。 敵に向かって示すために楯の表面に描い たとなると、 それは示威のためであり、 また護身のための護符的使命を帯びるものであると考えざるを得ない 図2

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浄土真宗総合研究 10 であろう。単なる装飾に過ぎなかったなどとは考えられぬもっと切実なものがあったに相違ない。 つまり、 紋が護身のための護符的(呪術的)役割を果たしていたことを表す。この荻野氏の言及は、 家紋が単なる 紋ではなく、 個人もしくは団体に対してある一定の役割があったことを意味しているといえる。また、 紋が単なる 装飾品ではないことは、次の指 摘 ((1 ( からもわかる。 御 家 人 に と っ て も、 一 所 懸 命 の 所 領 は、 戦 功 の 賞 と し て、 安 堵 さ れ、 ま た 新 恩 と し て 与 え ら れ る の で、 戦 功 を 正 し く 評 価 し て も ら う た め の 方 法 が、 真 剣 に 考 え ら れ た。 武 士 の 手 柄 争 い や 武 功 話、 懐 古 談 に あ る よ う に、 生命をかけた戦場では、 強烈な興奮状態、 いわゆる血走った状態におかれる。そして短時間の記憶ほど、 あて にならないもので、 そのような状態のときに、 なお強く、 自分の働きを、 敵味方に識別させ、 記憶させるには、 近くでは、 武具の行粧であり、 遠くでは、 その武士団を明示する印が必要となってくるのである。その古い例 の一つに、 武蔵の武士集団の一つ、 児玉党の 「団扇紋」 があるが、 それは集団の印であって、 まだ家の紋とはなっ ていない。 旗などにつけた文様には自身の武功を主張するとともに、 周辺の武士に対して自身の勲功を留めさせる役割があっ たことがわかる。そのような武士としての職分に基づいた、必然的な家紋の要求が家紋の起原であるといえる。 第二章   家紋の歴史的展開 鎌倉時代中期になると、 承久の乱や北条氏を中心とする争乱によって、 より多くの武士が家紋を用いるようにな り ((1 ( 、 武家の間では家紋の使用が一般化したようである。南北朝時代以降、 武家においては同族が分裂して交戦する ことも稀ではなくなり、同族の分立 ・ 派生の傾向が見られた。それに伴い、一族単位の紋から一家単位の紋の必要

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性が生じてきた。同族の分裂傾向の中で、家紋もその分裂に併せて多くの同族 ・ 一族の中から、一家を識別するよ うに少しずつ形をかえ、 一家単位ごとの識別機能を有するようになったと考えられる。家紋が急増したのもこの時 代である。 このような家紋の派生が続く時代を承けて、 一家一紋でなく数種類の紋の付帯も見られるようになった。 戦国時代に入ると、全国に大小さまざまな豪族が勃興したことにより、さらに家紋は敵 ・ 味方を識別する性質だけ で な く 副 次 的 な 機 能 を 持 ち 合 わ せ る よ う に な っ た と さ れ る。 こ の こ と に つ い て、 進 士・ 加 藤 両 氏 は『 日 本 の 家 紋 』 の中で次のように述べてい る ((1 ( 。 戦国時代に入ると、 武士の数が、 益々増え、 下剋上による、 新陳代謝が激しく、 戦につぐ戦のうちに、 一騎討 よ り、 集 団 戦 へ と 変 化 し、 戦 場 も 広 く、 一 度 に 各 所 で 展 開 さ れ、 と も す れ ば、 軍 忠 も 見 落 と さ れ が ち と な る。 そのため親子 ・ 兄弟 ・ 一族が同一の紋では、都合が悪いので、各自が異なる武具粧いに、自己の信ずる、禁厭 ・ 信条などを大書した、小旗 ・ 指物 ・ 瓢 ・ 吹流 ・ 縷 し な い 纓 ・ 幌などを差して、他と区別し、功をたてても、他人と間 違われたり、 他人に奪われたりしないようにした。ここに唯単なる、 敵味方の弁別より、 一歩進んだ、 自己の 誇示が現われ、 紋を主要部とする、 旗印 ・ 指物等による、 武装全体が、 個人の目的となり、 紋も個人の紋章化し、 実利的な面を含んだ、いわば、意匠登録が成立する。 つまり、 戦国時代において飛躍的に新しい家紋が創出されるとともに、 家紋が個人化されて自己顕示のための手段 に移り変わったようである。 では、武家の家紋はこのように発展 ・ 進歩したのに対して、公家の家紋はどうであっただろうか。武家の家紋の 普及 ・ 流行にともなって、政治的 ・ 社会的に武士が世間を主導するようになる一方で、公家の紋は公家の貧困化や 儀式典礼・牛車の廃絶という事態に陥ったた め ((1 ( 、影を潜めることになる。 公家の家紋も武家の家紋もともに自他の識別という点においては共通の性質が見られるであろうが、 武家の家紋

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浄土真宗総合研究 10 は公家のそれと比較して、 その目的が明確であるといえる。敵味方の区別が必須であった武家に比して公家におい てはその使用価値はさほど高いものでなかったであろう。家が代々続く公家社会では、 旗に家紋を描いて戦場にで かける機会はほぼなかったであろうし、武家のように敵 ・ 味方を識別するための印は特に強く望まれなかったので あろう。 しかし、 公家紋が、 今日見られるように家紋として発展したのは、 武家紋の影響があったことが指摘される。 この武家の家紋の発展が無くては、 公家の家紋も今日見られるような優美な形に至ることはなかった。矮小かつ閉 鎖的な京都の都における公家社会では、 紋は調度品などへの装飾的要素が強いため、 自身の帰属先を示す「しるし」 としての紋は徐々に必要とされなかったであろう。ところが、武家紋の発展 ・ 整備に影響 ・ 刺激されることにより、 今日見るような形になったといわれてい る ((1 ( 。 新しい家紋の創出が続いていた戦国時代までとは異なり、 江戸時代に入ると家紋は日本全国に浸透することにな る。 戦 国 時 代 ま で は 戦 時 的 な 理 由 で 使 用 価 値 が 高 か っ た 家 紋 で あ っ た が、 徳 川 の 平 穏 な 時 代 に な っ た こ と に よ り、 その使用目的は主として威儀を正すことにあったといわれてい る ((1 ( 。つまり、 儀礼的な面での家紋の使用傾向に変化 したといえる。たとえば、 代表的な事例として参勤交代が挙げられる。諸大名が登城する際には、 装束(束帯以外) には家紋を用いることになっており、その往来において、大名同士であっても互いに家格 ・ 格式の違いに応じた礼 儀 作 法 が 求 め ら れ て い た。 そ の 家 格・ 門 地 を 識 別 す る た め の 手 段 と し て 家 紋 が 用 い ら れ て い た の で あ る。 そ の 他、 幕府は下座見役を大手門に配して、 登城してくる大名の姓氏を家紋によって確認するようになっていたという。公 務上もしくは社交上の重要な役割が家紋に与えられていたといえる。 児玉玲子 氏 ((1 ( は 「江戸幕藩体制の完成によって、 家紋は武家社会の職階性と家格を表すシンボルへと移行した」と述べられおり、 この児玉氏の指摘は、 簡にして要 を得た表現であろう。 江戸時代における家紋のもう一つの特徴としては、 庶民の間で家紋が使用され始めたことである。このことにつ

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いて、高澤等氏は簡潔に次のように述べてい る ((1 ( 。   江戸時代、 庶民の家紋使用にあたっては、 徳川将軍家が使用する葵紋に対するものの他にいくつかの規制が あるだけで、 基本的には自由に家紋を使うことができた。公式に苗字を名乗ることができなかった庶民にとっ て、 家紋の使用はそれを代替する唯一の手段であり、 また、 識字率が低く苗字を読みとれなくとも、 家紋を見 れば人物や家の見分けをつけることもできる。家紋はわれわれ現代人が考えるより、 はるかに重要なアイテム であったといえるだろう。   家紋が庶民に広がったのは貞享、 元禄年間(一六八四〜一七〇三)だという。おそらく武家とは違い、 庶民 の家紋の多くは装飾目的から始まったものであろう。歌舞伎役者が用いたり、 あるいは商家の商標になったり と家紋は社会の隅々にまで浸透していった。 どうやら庶民が用いた家紋は、 悠久の歴史を持つ武家や公家の家紋とは異なり、 その歴史的由緒などは皆無といっ ても過言ではないだろう。厳しい制限下になく、自分の好む家紋を付けることができたものと思われる。 このように家紋が家紋として浸透するようになったのは江戸時代ではあるが、 寺紋はどのような変遷があったの であろうか。それについては、 詳しい史料が残っておらず研究も進んでいないが、 丹羽氏の指摘は注目すべきであ る。先述したように、 寺紋は家紋の後を追うように鎌倉時代に発生したとされるようであるが、 その中、 次のよう な指摘をしてい る (11 ( 。 寺紋は近世になると、 にわかに使用されだした。武士や貴族の菩提寺も出来、 それらの寄進用具には、 家紋が つけられた。燈篭、 提灯、 仏具、 台座、 門、 汁器などには家紋をつけ、 寄付者の信仰心と勢力とをそこに織り 込んだ。 (中略)やがて家紋は寺と一体になって寺紋に変化していったのである。 つまり、 鎌倉期に発生した寺紋ではあるが、 寺院に浸透していったのは家紋の浸透時期と同様に近世に入ってから

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浄土真宗総合研究 10 である。また、 大隅三好 氏 (1( ( も 「この頃 (戦国末期) から建築物の居文は城閣だけでなく神社仏閣にも及んだ。社紋、 寺紋を持っている神社仏閣はそれを用い、 持たないところは寄進者の家紋を用いるのが通例であった」と述べるこ とから、 戦国末期(天正年間)くらいから、 徐々に寺紋を付け始め、 そして江戸時代には全般的に寺紋をつけるよ うになったと考えられる。 第三章   本願寺歴代の紋の変遷 先に述べたように、 寺紋は鎌倉時代から発生したといわれてい る (11 ( が、 南北朝にあたる覚如の時代はどうであった だろうか。 覚如の時代は本願寺教団の創成期にあたり、 「本願寺」 という組織としての枠組みが形成されつつあった。 そのような時期ではあるが、 本願寺に限って言えば、 寺紋として定着した家紋を用いていたかは資料が残っておら ず、定かではない。 そこで、 家紋を確認する一つの方法として各歴代の影像に答えを見出すことが可能であり、 その影像に描かれて いる紋を一つの目安にできるのではないだろう か (11 ( 。ただし、 影像を資料とする際には、 荻野氏が家紋研究において 取 り 扱 う 資 料 に つ い て、 「 そ の 美 術 品 が 何 時 成 立 し た か と い う 制 作 年 代 の 決 定 が 第 一 に 重 要 で あ る 」 と 述 べ ら れ る ( ように、その影像がいつどの時代に制作されたかに留意する必要がある。 ①如信から蓮如までの紋 第二代宗主如信(一二三五〜一三〇〇)から第八代宗主蓮如(一四一五〜一四九九)を検討するにあたって、 ま ず、 寺紋が発生したであろう鎌倉時代より少しあとの如信や第三代宗主覚如(一二七〇〜一三五一)の時代の紋に

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ついて考察を試みたい。 身近な資料とし て挙げることができるのが、 本派本願寺 蔵「 親 鸞・ 如 信・ 覚 如 三 上 人 像 」( 写 真 1) である。この蓮座像は南北朝時代の 作と見られているが、そこでの如信 ・ 覚 如の衣には紋は入っておらず、 黒衣に墨 袈 裟 で あ る。 ま た、 少 し 時 代 は 下 る が、 「山科八幅御影」 (本派本願寺蔵) と称さ れる各御影を見ると、 そこには第二代宗 主如信から第八代宗主蓮如まではいずれも黒色の僧綱襟で白袈裟の衣体を着けており、 文様はどこにも描かれてい ない。この「山科八幅御影」は本願寺第二代如信から第八代蓮如までの七人と、 覚如の次男従覚を描いた八幅の御 影のことであり、 蓮如が制作されたと伝えられているが、 絹や筆致に差異があることから、 蓮如当時から十六世紀 にかけて制作されたと考えられてい る (11 ( 。この八幅の御影の中で、 文様がどこにも書かれていないことは、 『改邪鈔』 第三条で 「末世相応の袈裟は白色なるべし。黒袈裟においてはおほきにこれにそむけ り (11 ( 」 と主張されていることと 軌 を 一 に し て い る。 た だ し、 こ の 文 は 袈 裟 の 色 に つ い て 言 及 し て い る も の で あ る が、 少 な く と も 覚 如 在 世 時 に は、 後 世 見 ら れ る よ う な 衣 体 や 袈 裟 に 紋 を い れ る 風 習 は な か っ た こ と も 意 味 し て い る と い え る。 ま た、 『 本 願 寺 作 法 次 第 』 九 十 五 条 に は「 直 綴 な ど の 墨 染 の 色 く ろ き 不 可 然 候 と て、 ふ か く 曲 言 之 由、 蓮 如 上 人 は 仰 事 候 き。 ( 中 略 ) い かにもいかにも当流の儀は、 うす墨なるが肝要候と被仰、 教信沙弥の作法たるべきと常に被仰し 也 (11 ( 」とあるように、 黒色の衣ではなく、 薄墨の衣だけが当流において認められるものとされ、 蓮如は法衣袈裟については厳しい姿勢を 写真1

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浄土真宗総合研究 10 見せていることがわか る (11 ( 。つまり、 如信から蓮如までの時代において、 一般的に寺院では寺紋は発生していたよう ではあるが、 本願寺においては寺紋をもって自宗の組織の象徴とする必要に迫られなかったためか、 また伝統的に 薄墨の法衣を用いているためか定かではないが、家紋を積極的に用いた形跡がみられない。 すなわち、 蓮如までの絵相を見ていくと、 管見の限りではあるが、 ほとんどが黒衣 (もしくは薄墨の衣) ・ 墨袈裟 (も しくは白袈裟)の影像であり、 紋が入っていないことがわかる。但し、 本願寺御影堂の余間に正月と盆だけに奉懸 される歴代の御影における覚如から蓮如までの五条袈裟には 「牡丹紋」 が描かれている。牡丹紋は藤原家の家紋で あり、 牡丹を家紋として用いるのは、 近衛家がその嚆矢である。確かに親鸞聖人も藤原北家の日野家の出身である ため、 覚如などの歴代宗主がこの紋を使用することは可能であるだろうが、 南北朝や室町時代に制作された影像に 家紋が入っていないことをどう考えるべきであろうか。 そ の 一 つ の 可 能 性 と し て 次 の よ う な こ と が 考 え ら れ る。 つ ま り、 先 に 荻 野 氏 の「 制 作 年 代 の 決 定 が 第 一 に 重 要 」 と の 指 摘 に 従 え ば、 御 影 堂 に 奉 懸 さ れ る 覚 如 か ら 蓮 如 ま で の 家 紋 は 後 世 の 者 か ら 付 与・ 贈 与 さ れ た も の と 捉 え ざ る を 得 な い。 静 如 が 寛 保 二 年( 一 七 四 二 ) に 富 山 今 町 の 聞 名 寺 の 求 め に 応 じ て 与 え た 綽 如、 巧 如 父 子 の 蓮 座 像 (11 ( に 牡 丹 紋 が 描 か れ て い る の で あ る。 静 如 は 湛 如 の 弟 で あ り、 湛 如 の 急 逝 に よ っ て 寛 保 元 年( 一 七 四 一 ) か ら 同 三 年 ( 一 七 四 三 ) ま で の 間、 本 願 寺 を 継 職 し て い た 人 物 で あ る。 そ の 時 代 の 影 像 に 牡 丹 紋 が 使 用 さ れ て い た こ と か ら、 少なくとも寛保二年(一七四二)当時からは綽如、 巧如の紋を牡丹紋と認識していたことがわかる。おそらくこれ にならえば、 御影堂に奉懸される影像に代表されるような、 覚如から蓮如までに付される牡丹紋は静如当時には付 与されていたものと考えることは可能である。

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②実如の紋 第 九 代 宗 主 実 如( 一 四 五 八 〜 一 五 二 五 ) が 大 永 四 年 ( 一 五 二 四 ) に 自 身 の 晩 年 の 寿 像( 写 真 2) を 大 阪 府 定 専 坊 に下付しており、 その寿像では黒衣墨袈裟である。蓮如まで と同様に紋は使われてはいないように思われる。しかし、 天 文十六年 (一五四七) 下付の裏書をもつ三次市照林坊蔵の実 如影像 (写真3) には僧綱襟で鶴丸紋の衣に鶴丸紋の五条袈 裟が描かれている。つまり、 証如の時期には実如の紋は「鶴 丸」 と見られていたことがわかる。鶴紋は鶴の文様から転じ た も の で あ り、 そ の 鶴 の 文 様 を め で た い 印 と し て い た こ と は、 平安時代の初期から行われていたといわれている。それ に従えば 「鶴丸」 としての形も平安時代には存在していたと 考えられるが、 その起原は詳らかではない。鶴丸の紋を自家 の紋としているのは、 日野家、 勘解由小路家、 広橋家をはじ めとして、 山城国宇治郡日野を伝領地としている藤原真夏流 の堂上家に多く見られる。 親鸞聖人の生家である日野家の紋 が鶴丸(図3)であることから、 証如期における実如にはそ の紋が使われていたと考えられる。 ただし、 証如期の実如影像であっても黒衣墨袈裟のものは 写真2 写真3

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浄土真宗総合研究 10 多 い。 こ れ は 青 木 馨 氏 が 述 べ る よ う に (11 ( 、 単 に 社 会 的 地 位 の 上 昇 が 衣 服 に 反 映 す る の で な く、 蓮 如 の「 衣 は 薄 墨 色 」 であるべきという精神を尊重する傾向がなお残っていることの表れであろう。 ③証如・顕如の紋 表 装 裏 面 の 書 付 に 天 正 六 年( 一 五 七 八 ) の 年 記 を も つ 本 願 寺 蔵 証 如 影 像 (1( ( に は 袈 裟 に「 八 藤 紋 」( 図 4) が 描 か れ て い る。 八 藤 紋 は 中 心 に 藤 花 を 置 い て、 四 方 か ら 八 本 の 花 の つ る が 囲 ん で い る 文 様 で あ る。 こ の 形 は 煌 び や か な 美 し さ を 呈 し て い る 瑞 祥 と さ れ て い る。 『 法 流 故 実 条 々 秘 録 (11 ( 』 に は、 「 本 願 寺 御 家 之 御 紋、 根 本 ハ 鶴 丸 也。 ( 中 略 ) 証 如 上 人 ヨ リ 初 テ 摂 家 ノ 猶 子 ト 成 給 テ ヨ リ、 御 家 之 紋 八 ツ 藤 に 改 マ リ 候 」 と あ り、 第 十 代 宗 主 証 如( 一 五 一 六 〜 一 五 五 四 ) の 時 よ り 九 条 家 の 猶 子 と な っ た こ と か ら、 九 条 家 よ り 八 藤 紋 が 贈 ら れ た と 見 ら れ、 『 条 々 秘 録 』 の 文 を 窺うと、おそらく証如期にもこの紋を使用していたものと思われる。 では、 次代の第十一代宗主顕如 (一五四三〜一五九二) はどうであろうか。 特に注目すべきは、 天正三年 (一五七五) の年記と顕如下付の裏書をもつ柏原市光徳寺蔵本願寺歴代蓮座像である。 青木氏が指摘するよう に (11 ( 、 銘もなく顔も他の影像と似ている部分が少なく人物の特定は難しい が、 おそらく如信から顕如までの八人を描いているものであるだろう。つまり、 顕如下付の蓮 座 像 に 自 身 も 含 め て 下 付 し て い る の で あ る。 そ の 絵 相 を み る と、 蓮 如 ま で は 無 地 の 衣 で あ り、 実如は鶴丸紋、 証如は八藤紋であることは先に示したことと同様であるが、 顕如自身は、 証如 同様に「八藤紋」の衣に「八藤紋」の袈裟で描かれている。このことから、 天正三年時点での 各宗主の紋は、蓮如までは無紋であって実如は鶴丸、証如 ・ 顕如は八藤紋であることも指摘で きる。 図4 図3

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青木氏はこの証如 ・ 顕如に八藤紋が配されていることについ て、 「歴代宗主を権威化してゆくことへの変ぼうと考えられる。 すなわち、 宗主自らの貴族化が影像の上に明確に投影されるこ とになる」と述べている。すなわち、 紋を標榜することによる 「 権 威 の 視 覚 化 」 を 目 的 と し て、 八 藤 紋 を 使 用 し て い る と み る ことができ る (11 ( 。 このことは証如および顕如が当時一揆や災害な ど で 不 安 定 で あ っ た 宗 主 お よ び 本 願 寺 の 地 位 を 安 定 さ せ る た め に 種 々 の 方 策 を 図 っ て 権 威 を 高 揚 さ せ て い た と す る 見 解 (11 ( と 合致する。そのような証如 ・ 顕如の姿勢によって結果的に確立 された権威化の帰結点こそ、 顕如が永禄二年(一五五九)に門跡に列せられたことであると思われる。しかも、 前 代の証如が九条家摂家の猶子になっており、 顕如への門跡授与は摂家門跡に準じたも の (11 ( であるから、 証如同様に八 藤紋が顕如の紋であったといえる。ただし、 本派本願寺蔵顕如影 像 (11 ( では、 五七桐が使われている。この影像は十七 世紀の制作といわれており、 大谷派と本願寺派でのとらえ方の差を窺わせるものであるが、 次節で述べるように皇 室との関わりとの中で付けられたものと考えることができるため、 実質的には八藤紋と五七桐を併用していた可能 性もあるが、この検討については今後の課題とする。 ④准如から明如までの紋 第十二代宗主准如(一五七七〜一六三〇)以降、 前代である顕如が門跡に列せられ、 宮中との関係が構築された ため、 皇室の紋である菊花紋や、 五七桐が多く使われるようになる。十七世紀に制作された本派本願寺蔵准如の影 写真4

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浄土真宗総合研究 10 像(写真4)をみると、僧綱襟の衣には証如 ・ 顕如同様に八藤紋が付されているが、五条袈裟には「五七桐」が描 かれている。桐紋は古くから菊花紋と同様に瑞祥的な印とされており、 中国では鳳凰は桐に棲み、 竹実を喰うと伝 えられてい た (11 ( 。この中国での伝説が中国文化とともに日本に伝わり、 平安時代初期には文様として用いられていた ようである。この桐がいつ頃から皇室の紋章として使用されたかは不明であるが、 鎌倉時代末期には紋章化されて いたことが指摘されている。桐紋は権威ある紋であり、 戦国時代にはこの桐紋を僭用するものまで現れ、 天正十九 年 (一五九一) には桐紋の使用が禁止される事態に至るほどであった。江戸時代には葵の紋にその権威の座を譲る ことになってしまうが、 諸国の武士の中でも桐紋を好んだものが多かったため、 名誉ある紋章として変わることな く高い位置づけにあったようであ る (11 ( 。第二章で述べたように、 江戸時代に入ってからは、 諸大名が門地家格を張り 合い、 その家格を高めることに固執して、 家紋は「家格のシンボル」と位置づける傾向にあった。准如の時に桐紋 を用いたことは、 前住の顕如の時代に宮中との関係が築かれたことはもとより、 自家の門地家格を誇示する時代の 風潮に合わせたことによることが大きいだろう。 と こ ろ で 准 如 は 八 藤 紋 と 五 七 桐 の 紋 と を 併 用 し て い る と 捉 え る こ と が で き る が、 こ れ は 可 能 で あ っ た の だ ろ う か。家紋とは一つの称号、 ひとつの名字に一つの家紋が用いられるのが定義であり、 複数持つことはその用途に反 するように思われる。しかし、 『日本紋章 学 (11 ( 』に 一家にして多数の紋章を用ゐたるが故に、 もしこれを一定するにあらざれば、 家紋は遂に名字の目標たる効果 を滅殺するに至るを以て、 是に於てか是等の紋章中に於いて、 特に名字の目標として用うべきものを定むるの 必 要 を 生 ず べ し。 而 し て こ の 目 的 に 添 ふ べ く 定 め ら れ た る も の、 之 を 称 し て 定 紋 と 云 ひ、 其 他 を 替 紋 と い ふ。 定紋一に本紋正紋の称あり、 主として公の場合に用ゐられ、 往時、 旗幕に居ゑて軍事上用ゐ来れるが故に、 一 にこれを武功の紋と称せり。替紋には、また副紋 ・ 裏紋 ・ 別紋 ・ 控紋等の称あり。概して非公式の場合に用ゐ

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らるる家紋をいふ。 とあるように、 定紋および替紋と呼ばれる紋があり、 一世代、 一時代において複数の紋を持つことがあったことが わかり、用途によって紋を使い分けるような、多様な家紋の使用が可能であったことが窺える。 事実、准如以後、自身の家格を誇示するかのように、八藤紋をはじめ五七桐紋 ・ 菊花紋の使用も見られ、それら の 紋 を 併 せ て 使 用 す る 例 も あ る。 そ れ を 以 下 列 挙 す る( 表 1 参 照 ) と、 第 十 三 代 宗 主 良 如( 一 六 一 二 〜 一 六 六 二 ) は、 裏 書 に 宝 永 二 年( 一 七 〇 五 ) の 年 記 と 寂 如 花 押 を 持 つ 七 尾 市 安 浄 寺 蔵 良 如 影 像 (1( ( に よ れ ば、 「 八 藤 紋 」 で あ る。 第十四代宗主寂如(一六五一〜一七二五)は、 裏書に享保十年(一七二五)十月十四日の年記と住如花押をもつ貝 塚願泉寺蔵寂如影 像 (11 ( によれば、 五七桐と菊花紋を用い、 袴には八藤紋が付されているので、 八藤紋も歴代にならっ て使用していたことがわかる。享保十年(一七二五)七月に寂如が示寂していることを考慮すれば、 この影像は示 寂直後に下付されたものであり、 寂如当時使用していた紋を把握するのに、 ある程度の信憑性があるものと考えて よいだろう。第十五代宗主住如(一六七三〜一七三九)は、 裏書に元文五年(一七四〇)の年記と湛如の花押をも つ貝塚願泉寺蔵の住如影 像 (11 ( によれば、 五七桐と菊花紋を用い、 袴に八藤紋が入っている。この影像の収納箱に元文 五 年( 一 七 四 〇 ) 四 月 の 墨 書 が あ り、 こ の 影 像 が 元 文 五 年( 一 七 四 〇 ) 四 月 と い う 住 如 示 寂 後 ま も な く に 下 付 さ れ た も の で あ る こ と が わ か る た め、 寂 如 の 影 像 同 様 に 当 時 の 紋 の 使 用 状 況 を 如 実 に 表 す も の と し て 重 要 な も の で あ る。 第 十 六 代 宗 主 湛 如( 一 七 一 六 〜 一 七 四 一 ) は、 裏 書 に 延 享 元 年( 一 七 四 四 ) の 年 記 と 法 如 の 花 押 を も つ 貝 塚願泉寺蔵の湛如影 像 (11 ( によれば、 住如と同様、 五七桐と菊花紋を用い、 袴には八藤紋が付されている。第十七代宗 主法如(一七〇七〜一七八九)は、 裏書に寛政二年(一七九〇)の年記と文如の花押をもつ貝塚願泉寺蔵の法如影 像 (11 ( に よ れ ば、 菊 花 紋 を 使 用 し、 袴 に 八 藤 紋 を 付 し て い た こ と が わ か る。 第 十 八 代 宗 主 文 如( 一 七 四 四 〜 一 七 九 九 ) は、 裏書に寛政十一年(一七九九)の年記と本如の花押をもつ貝塚願泉寺蔵の文如影 像 (11 ( によれば、 法如同様に菊花

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浄土真宗総合研究 10 紋を使用して、 袴には八藤紋が付されていることが窺われる。このことは、 少し時代が下る影像ではあるが、 安浄 寺 蔵 で 収 納 箱 に 文 政 八 年( 一 八 二 五 ) の 年 記 を も つ 文 如 影 像 に も、 菊 花 紋 を 用 い て い る 文 如 が 描 か れ て い る こ と か ら も わ か る。 第 十 九 代 宗 主 本 如( 一 七 七 八 〜 一 八 二 六 ) も、 裏 書 に 文 政 十 年( 一 八 二 七 ) の 年 記 を 持 つ 貝 塚 願 泉寺蔵の本如影 像 (11 ( によれば、 菊花紋を使用しており、 袴には八藤紋が付されている。第二十代宗主広如(一七九八 〜一八七一)は、 明治前期頃制作されたとする龍谷大学蔵の広如影像によれば、 五七桐を使用し、 袴には八藤紋が 付 さ れ て い る (11 ( 。 第 二 十 一 代 宗 主 明 如( 一 八 五 〇 〜 一 九 〇 三 ) は、 明 治 二 十 四 年( 一 八 九 一 )、 朝 廷 よ り 維 新 の 功 績 に対して、皇室の紋である菊花紋の付された五条袈裟を下賜されたため、菊花紋を用いている。 以上のように、 江戸時代には、 皇室の紋である菊花紋、 五七桐が単体もしくは併用で用いられているようである。 しかし、皇室 ・ 公家および門跡の系譜 ・ 紋などを記録した公家鑑である『雲上明鑑』もしくは『雲上明 覧 (11 ( 』に出て くる本願寺の紋とは必ずしも一致しているとは限らない。それらの公家鑑では、 寂如は五七桐のみであって、 住如 以降明如まではすべて菊花紋で伝わっている旨が図示されている。つまり、 影像から読み取れる寂如の紋は五七桐 と菊花紋であるが、公家鑑では五七桐のみであり、住如 ・ 湛如の紋は影像では五七桐と菊花紋であるが、公家鑑で は菊花紋のみである。影像と公家鑑の表示とのこの相異については、 推測の域は出ないが、 家格の社会的地位をあ げることが命題であったこの時代、 影像において利用価値のあるものはどのような手段でも使うことが望まれてい たのではないだろうか。特に『国史大辞 典 (11 ( 』には江戸時代の家紋の特徴として「賜与や、奪取 ・ 婚姻 ・ 養子縁組な どの理由とともに、 単一の家に、 二個以上数個の家紋が作り出された。家紋を多く持つことが名家とする風潮の中 で、 伝統の家紋の心理的重圧感を避けようとする心情が作用して気軽に一己の紋を創ることが行われた」とあるよ うに、 複数紋の使用が高い家格を表すことの一要素であることを考えると、 一つの影像の中に複数の紋を使用して いるのは湛如までであるが、 影像における複数紋の使用が、 門跡寺院としての位置づけが確固たるものであること

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を主張するための事例とみることができるだろう。いずれにせよ、 江戸時代の本願寺におい ては、 すべて「家格のシンボル」として皇室の紋(五七桐、 菊花紋)が用いら れ (1( ( 、 その影像 においては五七桐と菊花紋のいずれか、 つまり皇室の紋が用いられていることが重要であっ たと考えられ る (11 ( 。 明治時代に入り、 明如に至っては皇室から正式に菊花紋が下賜されたことによって、 菊花 紋を使用している。皇室の菊花紋は、 諸説あるようであるが、 鎌倉時代の後鳥羽上皇の頃か ら皇室の紋章として成立していたといわれてい る (11 ( 。 公家の中では菊の花は貴種とされて鑑賞 のために用いられるとともに、 衣服や車の文様としても親しまれていた。特に後鳥羽上皇は こ の 菊 の 花 を 好 ん で お り、 衣 服・ 車 へ の 文 様 だ け で な く、 刀 剣、 懐 紙 ま で に も 菊 の 文 様 を あ て る よ う に な り、 そ の 後、 後 深 草、 亀 山、 後 宇 多 上 皇 と 次 第 し て 伝 統 的 に 菊 花 紋 が 使 用 さ れ る に 至 っ た。 そ し て、 皇室の紋章として固定化されたと考えられ る (11 ( 。その菊花紋は皇室の独占の紋とはならず、 皇室への功労が有っ た者に下賜される場合もあれば、 家伝として以前より使用しているものもいただろう。戦国時代にはこの紋を僭用 する者まで現れ、 家紋として多くのものに好まれた紋である。しかし、 明治時代に入ってからは菊花紋に関する制 度 が 定 め ら れ て 菊 花 紋 の 乱 用 が 禁 じ ら れ る (11 ( 。 特 に、 明 治 四 年( 一 八 七 一 ) に は 皇 室 以 外 に は 菊 花 紋 は 使 用 で き ず、 皇室が占有する紋章となっ た (11 ( 。その中で、 明如に菊花紋が下賜されたことは、 特別に菊花紋が用いることのできる ような、皇室との親密な関係が窺われるだろう。 ⑤鏡如の紋 明 治 三 十 一 年( 一 八 九 八 )、 第 二 十 二 代 宗 主 鏡 如( 一 八 七 六 〜 一 九 四 八 ) が 九 条 籌 子 と 結 婚 し た こ と に よ り、 九 図6 図5

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浄土真宗総合研究 10 条家の紋である「下り藤」を用いるようになった。これ以後大谷家、 本願寺ともに下り藤を紋とするに至ったよう である。制度化されたのは、 明治三十六年(一九〇三)の鏡如の伝灯奉告法要の時であった。下り藤は藤紋の一つ であり、 藤の花は平安時代にはひときわ優雅な花として人々のあこがれの中心となっていた植物である。その紋章 の 起 源 と し て は、 当 初、 写 実 的 な も の で あ っ た も の が 後 世、 幾 何 学 的 な 文 様 と な っ て、 鎌 倉 時 代 初 期 に は 紋 章 化 さ れ た と 考 え ら れ て い る。 藤 紋 に は、 そ の 藤 の 房 の 数 に よ っ て、 様 々 に 分 類 さ れ る。 一 つ の 花 房 か ら な る も の に、 片 手 藤 丸、 藤 輪、 一 藤 巴 が あ り、 二 つ の 花 房 か ら な る も の に、 藤 丸、 二 藤 巴 が あ り、 三 つ の 花 房 か ら な る も の に、 三 藤 丸 な ど が あ り、 他 に も 四 藤、 六 藤、 八 藤 な ど に 分 け る こ と が で き る。 そ し て、 二 つ 房 の 藤 丸 の 中 に、 下 り 藤、 上り藤が配当されている。同じ下り藤の中でも九条家の下り藤 (図5) と鏡如以来使用している本願寺の下り藤 (図 6)とでは、 少し形が異なる。九条家の紋が葉と葉の間の空間が少し開いているのに対して、 本願寺の紋は葉と葉 宗   主 蓮如以前 実如 証如 顕如 准如 良如 寂如 住如 宗   主 湛如 法如 文如 本如 広如 明如 鏡如以後       紋 無紋(後に牡丹紋を贈与か) 鶴丸 八藤紋 八藤紋   五七桐 八藤紋   五七桐 八藤紋 五七桐   菊花紋   (八藤紋) 五七桐   菊花紋   (八藤紋)       紋 五七桐   菊花紋   (八藤紋) 菊花紋   (八藤紋) 菊花紋   (八藤紋) 菊花紋   (八藤紋) 五七桐   (八藤紋) 菊花紋 下り藤 表1

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の 間 の 空 白 は 少 な い。 九 条 家 の 下 り 藤 を 少 し 形 を 変 え て、 現 在 見 る こ と の で き る 本 願 寺 下 り 藤 に な っ た と い え る (11 ( 。 なお、 藤原氏の嫡流である近衛家や鷹司家の摂関家が藤紋を使用せず、 牡丹紋を使用していることから、 必ずしも 藤原家が藤紋を用いているとは限らないようである。 四.結びにかえて 家 紋 の 起 原 お よ び そ の 歴 史 を 概 観 し、 そ の 後 本 願 寺 の 歴 代 の 紋 の 変 遷 を 辿 っ て み た。 早 く と も 天 文 十 六 年 (一五四七) には実如影像には鶴丸紋が入っており、 そこから徐々に家紋入りの影像がつくられ、 江戸時代に入って、 家紋入りの影像が主流を占めるようになったと想定できる。このことは丹羽氏が「寺紋は近世になると、 にわかに 使用されだした。 武士や貴族の菩提寺も出来、 それらの寄進用具には、 家紋がつけられた。 燈篭、 提灯、 仏具、 台座、 門、 汁 器 な ど に は 家 紋 を つ け、 寄 付 者 の 信 仰 心 と 勢 力 と を そ こ に 織 り 込 ん だ 」 と い わ れ て い る (11 ( こ と と も 合 致 し て い る。 つまり、 本願寺においては戦国期が家紋の萌芽期であり、 漸次にその使用が定着化し江戸時代に入って公式に使わ れ出したことが考えられる。確定的な資料を用いて論ずることできなかったように思うが、 各歴代の紋の変遷を振 り 返 る と、 如 信 か ら 蓮 如 ま で は 風 習 的 に 家 紋 を 公 式 に 使 っ て い た 様 子 は 見 受 け ら れ ず、 御 影 堂 に 奉 懸 さ れ る 影 像 にある牡丹紋などは、後世の付与であると思われる。実如は日野家の鶴丸紋を使用し、証如 ・ 顕如では八藤紋(顕 如 は 五 七 桐 )、 准 如 は 五 七 桐、 良 如 も 八 藤 紋、 寂 如 か ら 明 如 ま で は、 皇 室 紋 で あ る 五 七 桐 や 菊 花 紋 を 単 体 も し く は 併 用 す る と い う 連 続 性 が み ら れ、 そ し て 鏡 如 か ら は 下 り 藤 を 用 い る よ う に な り、 現 在 に ま で そ の 伝 統 が 続 く。 こ の よ う に 種 々 に 紋 は 変 遷 し て い る が、 そ の 背 景 を 踏 ま え る と、 本 願 寺 の 寺 紋 は 法 灯 継 承 の た び に 変 遷 す る よ う な、 法灯継承を「シンボライズ」するものではなく、 政治的もしくは社会的事情を理由として、 宗主において紋を変え

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浄土真宗総合研究 10 る場合があったことが窺える。このことは影像から看て取れることであるが、ただし、 『考信録』巻 五 (11 ( に 安 永 元 年 壬 辰 月 二 十 五 日。 白 書 院 ニ 於 テ 蓮 師 正 忌 ノ 仏 事 ア リ。 本 尊 ハ 前 日 請 ニ 応 ジ テ。 山 科 ヘ 遣 ハ サ レ。 今 日 還帰アリシ蓮師ノ真像ヲ安置ス。法王子導師ニテ。蓮枝方 ・ 勤番衆 ・ 御堂衆 ・ 三十日番衆出勤ス。六首引ヲ勤 行アリ。 法談ハ能化ナリ。 諸家中拝聴ス。 講中数輩次ノ間マテ参集ス。 コノ法筵ハ。 法王子已下一統ニ黒直綴 ヲ服用アリ。 御焼香ノ砌。 拝跪屈敬ノ儀。 慇重丁寧ニシテ。 殆ント人心ヲ感動セシム。 解座ノ後。 内殿ノ焼香 拝礼あり。 マコトニ希奇ノ法会ナリ。 近世ハ諸末寺ニ安置セル蓮師黒衣ノ影像。 モシ由アリテ本山ヘ呈上スル トキハ。 引替ヘテ綵衣ノ影像ヲ賜ハルコト常式ナリ。 冠。近来マタ綵衣ノ鳶色ナリシヲ 改メテ。柳色ノコトキニナレリ 然レトモ門侶ハ黒衣ノ旧像ヲ愛重シテ。 引 替 ヲ 欲 セ サ ル 類 ア リ 云 云 遺 徳 記。 載 下 恩 院 元 祖。 改 レ 為 レ 黄。 後 復 レ 時。 蓮 師 夢 下 祖 著 レ 有 二 喜 色 一 事 上 金 華 殿 ノ 内 仏 堂 ニ ハ。 蓮 師 ノ 黒 衣 ノ 小 像 ヲ 安 置 セ ラ ル。 又 去 冬 准 如 上 人 ノ 遠 忌 ニ。 黒 衣 ノ 小 像 ヲ 画 セ シ メラレタリ〕コノ事高聴ニ達セシニヤ。頃年引替ノ式ヲ停止セラレタリトソ。 とあるように、 安永元年(一七七二)年当時においても、 黒衣 ・ 墨袈裟姿の影像を好む人々が多かったようであり、 家紋入りの影像が主流ではあったが、江戸時代に入っても希に黒衣 ・ 墨袈裟の影像があることも留意すべき点であ るだろう。なお、 江戸時代の宗主で良如だけが八藤紋のみを用いていること、 また五七桐と菊花紋の併用から菊花 紋単体の使用へ移り変わった理由については、詳細に論ずることはできなかったため、今後の課題としたい。 【註】 ( 1) 沼田頼輔『日本紋章学』七頁には、新井白石が『紳書』の中で家紋の起源について言及している旨が示されている。 ( 2) 沼田頼輔『日本紋章学』一頁

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( 3) 羽 基 二『 寺 紋 』 二 〇 頁 に は「 家 紋 の 発 生 が 平 安 後 期 と す る と、 そ れ に 影 響 さ れ て、 神 社 に お い て は 神 紋、 寺 院 に お い て は 寺 紋 が 発 生 し た。 神 紋 も 寺 紋 も 家 紋 に 遅 れ て は い る が、 や は り 平 安 の 末 に は そ の 原 形 が み ら れ、 鎌 倉 時 代 に は 定 着 し た。 」 と 示 さ れ て いる。 ( 4) つまり、家紋とは「自家のシンボルとして用いられた」ものといえる。 ( 5) 進士慶幹、 加藤秀幸 共著『日本の家紋』二三〇頁には、 「武田勝頼が長篠城(奥平信昌)を攻めたとき(天正三年五月) 、 奥平の臣、 鳥 居 勝 商 は、 援 軍 を 求 め る 連 絡 に 出 て、 帰 る と こ ろ を 捕 ら え ら れ た が、 磔 の 架 上 よ り、 城 内 に 援 兵 の 近 い こ と を 叫 ん で 殺 さ れ た 話 が あ る。 こ れ を 目 撃 し て い た 勝 頼 の 臣 で あ る 落 合 左 平 次 は、 勝 商 の 豪 勇 に 感 心 し て、 そ の 最 後 の 姿( 裸 体 で 磔 架 に く く り つ け られている)を、自分の旗に描いたという」とある。 ( 6) 沼田氏の看過しているものとして、荻野三七彦氏は『姓氏・家紋・花押』一三四頁に次のように述べている。 「武家の家紋の起原は旗や幕の記章から起こったと沼田博士は説くが、楯紋との関係は閑却されている。   『 蒙 古 襲 来 絵 詞 』 が 武 家 社 会 の 家 紋 を 考 え る 上 の 貴 重 な 史 料。 そ の 美 術 品 が 何 時 成 立 し た か と い う 制 作 年 代 の 決 定 が 第 一 に 重 要 で あ る。 し か し、 沼 田 博 士 は こ う し た 旗 に つ い て 余 り 重 要 視 し て い な い と い う こ と と な る の で あ る。 源 平 時 代 の 旗 は、 簡 単 な 赤 旗と白旗であり、参戦した各武士の一族なり個人なりのそうした旗というよりも旗印は一向に見当たらないのである。 」 ( 7) 『飾抄』は、源通親の子である通方の編著である。 ( 8) 『 日 本 紋 章 学 』 二 八 頁。 後 に 久 我 家 は 六 条、 久 世、 岩 倉、 千 種、 梅 谿、 愛 宕、 東 久 世、 植 松 の 八 家 と な る が、 そ の い ず れ も 龍 胆 紋 を用いている。 ( 9) 『蒙古襲来絵詞』が武家社会の家紋を考える上の貴重な史料である。 ( 10) 荻野三七彦『姓氏・家紋・花押』一五三頁 ( 11) 荻野三七彦『姓氏・家紋・花押』一六〇頁 ( 12) 『日本の家紋』二三三頁 ( 13) 『日本の家紋』二三四頁 ( 14) 『日本の家紋』二三五頁 ( 15) 『日本の家紋』二三五頁 ( 16) 児玉玲子「紋章の意義と歴史的考察」 (武蔵野女子大学紀要3)一九八六年、国史大事典十三巻八九四頁 ( 17) 『日本紋章学』四五頁

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浄土真宗総合研究 10 ( 18) 児玉玲子「紋章の意義と歴史的考察」 (武蔵野女子大学紀要3)一九八六年   一三八頁 ( 19) 高澤等『家紋の事典』八頁〜九頁 ( 20) 『寺紋』二一頁 ( 21) 大隅三好『日本の家紋事典』三八頁 ( 22) 『寺紋』二〇頁には「家紋の発生が平安後期とすると、 それに影響されて、 神社においては神紋、 寺院においては寺紋が発生した。 神紋も寺紋も家紋に遅れてはいるが、やはり平安の末にはその原形がみられ、鎌倉時代には定着した。 」とある。 ( 23) 先行研究として青木馨 「教行寺実誓影像とその周辺」 (『蓮如上人研究』 所収   一九九八年) 、「大坂拘様終結における顕如と教如」 (『顕 如   信 長 も 恐 れ た「 本 願 寺 」 宗 主 の 実 像 』〈 金 龍 静・ 木 越 祐 馨 編 〉 所 収   二 〇 一 六 年 ) が あ る。 前 者 の 中 で、 青 木 氏 は 衣 体 の 研 究 は ほ と ん ど な さ れ て い な い こ と を 述 べ、 註 で「 松 岡( 現 山 口 ) 昭 彦 研 究 会 発 表 レ ジ ュ メ「 本 願 寺 と 家 紋 ─ 衣 体 制 度 と の 関 係 を 中 心に─」 (一九九六年)の他に知らない」と示しているが、そのレジュメを探し出すことはできなかった。 ( 24) 『姓氏・家紋・花押』一三四頁 ( 25) 龍谷ミュージアム『釈尊と親鸞』   親鸞編第三期出品   解説一八頁参照 ( 26) 『浄土真宗聖典全書』 (以下、 『聖典全書』 )四   三〇三頁 ( 27) 『聖典全書』五   九九二頁上 ( 28) 青木馨「本尊・影像論」 (『講座蓮如』第二巻所収   一九九七年)参照 ( 29) 『真宗重宝聚英』九巻参照 ( 30) 青木馨「教行寺実誓影像とその周辺」 (『蓮如上人研究』所収   一九九八年) ( 31) 時代的には顕如の下付かと思われる。 ( 32) 『真宗史料集成』九   四二三上 ( 33) 木 馨「 教 行 寺 実 誓 影 像 と そ の 周 辺 」( 『 蓮 如 上 人 研 究 』 所 収   一 九 九 八 年 ) 参 照。 ま た 近 年 で は『 顕 如   信 長 も 恐 れ た「 本 願 寺 」 宗主の実像』 (金龍静・木越祐馨編   二〇一六年)二三〇〜二三三頁で青木氏が書かれている。 ( 34) 『大系真宗史料』八 解題五〇三〜五〇四頁で、草野顕之氏は「証如は享禄の錯乱、それに続いた天文初期の本願寺一揆で弛緩した 本 願 寺 の 秩 序 の 再 編 に 着 手 し て い く こ と と な っ た。 そ の 手 始 め の 仕 事 は、 戦 国 期 の 権 門 勢 家 の 一 員 た る 証 し と し て の 家 記、 本 巻 収 載 の『 天 文 日 記 』 を 記 す こ と で あ っ た。 家 記 と は、 平 安 時 代 末 十 一 世 紀 後 半 の 公 家 の 日 記 に 淵 源 が あ り、 元 来 古 代 国 家 の 朝 廷 の 儀 式 や 政 務 を 公 家 が 学 ぶ た め の 覚 書 と し て 発 達 し、 そ れ ぞ れ の 公 家 の「 家 」 に 先 例・ 故 実 と し て 相 伝 さ れ た 記 録 総 体 を 指 し て

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い う。 中 世 後 期 か ら 戦 国 期 に 入 っ て、 朝 廷 本 来 の 儀 式 や 政 務 が 本 質 を 失 い 形 骸 化 し た 状 況 に 至 っ て も、 家 記 を 記 す と い う 文 化 的 営為は、天皇家、公家だけでなく権門寺社や幕府奉行人、守護の「家」にまで拡大していたのである。   その大きな理由は、 一揆の蜂起や幕府内部の権力闘争や守護 ・ 地頭代間の騒乱、 さらに自然災害による飢饉の続く社会状況のもとで、 こ う し た 権 門 勢 家 に あ っ て 自 己 の「 家 」 の 社 会 的 地 位 を 存 続 さ せ る た め に、 諸 家 と の 音 信 や 自 己 の 所 領 の 支 配 状 況 を 情 報 と し て 書 き 留 め、 「 家 」 の 安 定 化 に 活 用 し た こ と に あ っ た。 証 如 が 諸 家 と の 音 信 を 書 き 留 め 始 め た の は、 戦 況 が い く ら か 緩 ん だ 天 文 四 年 八 月 二 十 日 過 ぎ で あ り、 そ の 内 題 に「 従 諸 家 音 信[ 并 ] 返 礼 等 之 儀 記 之 」 と 記 し て い る。 こ の 家 記 の 書 き 始 め の 内 題 に は、 そ の 音 信 記 録 を 前 提 に「 家 内[ 并 ] 諸 家 音 信 遣 通 日 記 」 と 書 か れ て い る。 こ の 二 つ の 内 題 か ら 想 定 す る と き、 証 如 に あ っ て 家 記 を 記 した動機は、 権門諸家との書状の往来だけでは心もとなく、 権門勢家の家記と同様に本願寺内外の日々の情報を年間を通して記し、 本願寺で再建する支配秩序の安定に資する目的で執筆されたと見るべきであろう」と記さている。 ( 35) 遠藤一『戦国期真宗の歴史像』一九九一年   三八四〜三八七頁参照 ( 36) 『本願寺史』一巻五七二頁参照 ( 37) 『本願寺展図録』九五頁参照 ( 38) 『日本の家紋事典』一四五頁 ( 39) 玉 玲 子 氏 は「 紋 章 の 意 義 と 歴 史 的 考 察 」( 武 蔵 野 女 子 大 学 紀 要 3) の 中 で 江 戸 時 代 の 家 紋 の 特 徴 と し て、 「 自 分 の 家 を 他 に 対 し て 有 利 に 主 張 す る の に 最 も 都 合 の よ い 下 賜( 菊・ 桐 ) 譲 与( 竹 雀・ 牡 丹 ) 等 の 名 誉 紋、 特 別 な 武 功 に よ る 世 間 周 知 の 紋 が 本 来 の 家 紋 を 凌 い で 定 紋( 表 紋 ) と な 」 っ た こ と を 示 さ れ て い る。 ま た、 『 日 本 の 家 紋 事 典 』 五 三 〜 五 四 頁 に は「 菊 花 紋 は 明 治 御 一 新 以 後皇族に限られたが、 それ以前にこれを用いているもの実に一四〇氏にのぼり、 桐紋に至っては三七〇氏にも及んでいる」とある。 ( 40) 一九二頁 ( 41) 『新修七尾市史   12  造形文化遍』 「七尾市の絵画」 (二〇〇四年)一五二頁参照 ( 42) 『貝塚市文化財調査報告   第二集』 (二〇〇四年)八頁、三四頁参照 ( 43) 『貝塚市文化財調査報告   第二集』 (二〇〇四年)八頁、三四頁参照 ( 44) 『貝塚市文化財調査報告   第二集』 (二〇〇四年)九頁、三五頁参照 ( 45) 『貝塚市文化財調査報告   第二集』 (二〇〇四年)九頁、三六頁参照 ( 46) 『貝塚市文化財調査報告   第二集』 (二〇〇四年)一〇頁、三七頁参照 ( 47) 『貝塚市文化財調査報告   第二集』 (二〇〇四年)一〇頁、三八頁参照

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浄土真宗総合研究 10 ( 48) 『本願寺宗主の向学』 (二〇一四年)五五頁参照 ( 49) 深井雅海、藤實久美子編『近世公家明鑑編年集成』 (二〇〇九年)所収 ( 50) 十三巻八九四頁 ( 51) 児玉玲子氏は江戸時代の菊紋 ・ 五七桐について 「自分の家を他に対して有利に主張するのに最も都合のよい下賜 (菊 ・ 桐) 譲与 (竹 雀・牡丹)等の名誉紋」と示している。 ( 52) 井 誠 二「 公 家 鑑 に 関 す る 基 礎 的 考 察 」『 学 習 院 大 学 文 人 科 学 研 究 所   人 文 叢 書 1   近 世 朝 廷 人 名 要 覧 』( 二 〇 〇 五 ) に は、 公 家 鑑を代表する『雲上明鑑』が宝暦八年(一七五八)に刊行されたことについて、 武 部 敏 夫 氏 は、 「 雲 上 明 鑑 」 に つ い て、 「( 新 板 改 正 ) 万 世 雲 上 明 鑑 」 を 増 補 改 訂 し た も の で、 以 後 慶 応 年 間 ま で 逐 次 改 訂 刊 行 され、 その問、 速水常忠が校訂者となったこと、 初めて編者名を明らかにした、 板元が連城堂を経て、 東本願寺闇教館に移っ たことなどを指摘されている。 本願寺が板元になったことについては、有職故実家勢多章甫( 一八三〇〜九四)が次のような指摘をしている。 雲上明鑑といふ書は、元は本願寺より其寺格の賎しからざるを、諸国の信徒に知らしむる為に彫刻したる物にて(後略)   本 願 寺 は、 慶 長 七 年( 一 六 〇 二 ) に 徳 川 家 康 が 烏 丸 六 条 の 地 を 教 如 に 与 え た こ と に よ り、 別 寺 を 建 立 し 東 本 願 寺( 大 谷 派 ) が 成 立 し た。 こ れ に よ り、 元 の 本 願 寺 は、 西 本 願 寺( 本 願 寺 派 ) と 通 称 さ れ る こ と と な っ た。 幕 府 は 東 本 願 寺 を 支 持 し た が、 朝 廷 は 本 願 寺( 西 本 願 寺 ) ─ 東 本 願 寺 と 本 末 の 序 列 を 定 め て い た。 勢 多 章 甫 に よ れ ば、 東 本 願 寺 は、 准 門 跡 の 項 で 自 寺 を 西 本願寺の前に記述した「雲上明鑑」を刊行することにより、寺格の正しさを主張したものといえよう。 と 示 さ れ、 寺 格 が 高 い こ と を 示 そ う と し た 意 図 が あ る と 書 か れ て い る。 こ の こ と は 東 本 願 寺 の こ と で は あ る が、 こ の 当 時 は 寺 格 を 主 張 す る 風 潮 に あ っ た こ と が 想 像 で き る。 そ の 後、 西 本 願 寺 か ら も『 雲 上 明 覧 』 と し て、 公 家 鑑 が 出 さ れ て い る。 そ こ に お い て も 家 格 の 位 置 づ け に つ い て 寺 格 を 高 め よ う と し た 動 き が、 『 雲 上 明 覧 』 の 成 立 事 情 か ら も 読 み 取 る こ と が で き る。 そ の 事 情 に つ いても、平井氏が以下のように的確にまとめている。 一、雲上明覧 天保八年に始めて出版致しまして、慶応四年に至って居ります。然し其の間外国交易のために、文久元年より主上中宮の 御名並に御歴代の御系図等を除きました。その後慶応三年に成りまして、 主上中宮の御名を旧に復し、 同四年(明治元年) には御歴代の御系図も亦旧に復せられました。此の年老以て明覧の最後と致します。    刊行の下限について、武部氏は慶応三年(一八六七)まで補訂、刊行されたとしているが、下橋敬長の指摘するように、慶

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応四年(明治元年)まで現存している。    内容については、西本願寺を東本願寺の前に序列したことを第一の特徴としている。下橋敬長「維新前の宮廷生活続稿」で は、編者武田勝蔵が次のような指摘をしている。   翁(下橋敬長、筆者注)のお話に拠りますと、雲上明鑑の方は其の出版費を東本願寺の方で支出して居り、其の「准門 跡 」 の 条 に 於 て、 必 ら ず 東 本 願 寺 御 門 跡、 西 本 願 寺 御 門 跡 の 順 序 に 記 載 し て あ り ま す。 然 し 天 保 八 年 よ り の 雲 上 明 覧 は、 是 れ に 反 し て 西 本 願 寺 の 方 で 出 版 費 を 支 出 し て 居 り、 其 の「 准 門 跡 」 の 条 に は 本 願 寺 御 門 跡・ 東 本 願 寺 御 門 跡 と 記 載 し て あ り ま す。 又 明 覧 は 神 代 五 代 よ り 御 歴 代 の 御 名、 四 親 王 家、 諸 門 跡 の 略 系 図( 比丘尼御 所は無し )、 内 裏 の 平 面 図 等 を 始 め 明 鑑 に 比 し て は、 遥 か に 詳 記 し で あ り ま す そ れ 故 に 天 保 八 年 明 覧 が 出 版 せ ら れ て よ り 明 鑑 の 方 は、 と ん と 売 れ 行 き が 悪 く 成 っ て 来たといふ事であります。 ( 53) 日 本 の 家 紋 事 典 』 一 三 三 頁 に は 菊 紋 が 皇 室 の 紋 章 と な っ た こ と に つ い て、 「 も っ と も こ れ に つ い て は 種 々 異 説 が あ っ て、 黒 川 博 士 な ど 後 花 園 天 皇( 一 〇 二 代 ) の 時 に 皇 室 御 紋 に 定 め ら れ た と 論 説 し て い る。 他 に も ま だ 異 説 が あ る が、 と も か く 菊 花 が 皇 室 の 専 用 の 後 家 紋 と し て 定 着 し た の は 鎌 倉 の 初 期 あ た り か ら 室 町 の 初 期 に 至 る 間 と 思 え ば よ い だ ろ う 」 と 示 し、 異 説 が あ る こ と を 提 示されるが、おおよその皇室の紋としての定着には差異はないと考えられている。 ( 54) 『「家紋」のすべてがわかる本』五五〜五六頁、 『日本の家紋事典』一三一〜一三三頁参照。 ( 55) 日 本 の 家 紋 事 典 』 二 八 頁 に は「 明 治 元 年( 一 八 六 八 ) 三 月 二 十 八 日、 新 政 府 は 太 上 官 令 を 発 し て 菊 花 紋 の 濫 用 を 禁 じ、 翌 二 年 八 月 二 十 五 日、 さ ら に 布 告 を 発 し て 親 王 家 が 十 六 菊 の 菊 花 紋 を 用 う る を 禁 じ、 十 五 葉 以 下 も し く は 裏 菊 を 使 用 す る こ と に し た 」 と ある。 ( 56) 家 紋 の 事 典 』 一 〇 頁 に は「 同 4 年 6 月 に は 由 緒 の 有 無 に か か ら わ ず 皇 族 以 外 は す べ て の 菊 花 紋 の 使 用 を 禁 止 し、 皇 室 独 占 の 紋 章 となった。昭和 20年の終戦とともに、菊花紋に対する使用制限はなくなった」とある。 ( 57) 鏡如の伝灯奉告法要に際し、本願寺として正式に下り藤を用いているが、門末に下付されたことに意義があるだろう。 ( 58) 『寺紋』二一頁参照 ( 59) 『真宗全書』六五   二二七頁 ※なお、本稿に掲載している家紋の図形は網本光悦『イチから知りたい!家紋と名字』に依った。

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浄土真宗総合研究 10 【キーワード】   本願寺   家紋   寺紋   影像

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