• 検索結果がありません。

r 中世紀州根来寺の盛衰

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "r 中世紀州根来寺の盛衰"

Copied!
2
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

- 297 -

中世紀州根来寺の盛衰

一 敗 者 の 視 点 に よ る 歴 史 考 察

教科・領域教育専攻 社会系コース

東 浦 直 也

< 序 章 研 究 の 目 的 と 概 要 >

根来寺は紀伊国北部(現和歌山県岩出市)に 所在する新儀真言宗の寺院である。戦国期には 泉南、紀北地方で守護・国人等の武家勢力を凌 駕し、一向一撲勢力と並んで地域権力として支 配を及ぼした。しかし、天正十三(一五八五) 年三月、羽柴秀吉の紀州征伐によりわずか二日 間で壊滅する。

一地方にすぎない寺院勢力が、どのように力 を蓄え、在地における公的権力を築いていった のか。また、統一政権との圧倒的な力の差を顧 みず、根来寺はなぜ秀吉軍に戦いを挑んだのか。

これらの理由や動機を、敗者側である根来寺の 視点から考察することで、根来寺の盛衰が中世 後期にどのような意味を成したかを解明してい

く。

<第一章 紀 州 根 来 寺 勢 力 の 創 始 と 発 展 >

根来寺の起源は、覚鍵が高野山金岡JI峯寺内に 建立した伝法院(大伝法院)にある。大伝法院 は鳥羽上皇の絶大な庇護のもと発展したが、そ の後金剛峯寺方(反覚鍵派)との対立が起こり、

約百二十年間抗争が続いた。そして正応元(ー

ら い ゆ

二八八)年、頼聡により根来の地に大伝法院が 移され、大伝法院=根来寺として固有の発展を 遂げていった。

建武四(一三三七)年には足利尊氏によって 和泉国信達荘が寄進され、根来寺は醍醐寺の末

指導教員 大 石 雅 章

寺となった。以後、室町幕府の庇護のもと財政 基盤が安定し、寺院整備も円滑に進んだ。

根来寺を構成する僧侶は、学侶(学衆方)と 行人に分かれた。元来、学侶は教義の研究・普 及活動を行う学問僧で、行人は施設の維持管理 や諸雑事を行う人たちのことで、あったが、根来 寺では軍事の実権などは行人方に掌握された。

根来寺を実質的に構成したのは、地域の坊院 で、紀北・泉南地域の富裕な新興土豪層が次々

と根来寺域内に坊や院を建立した。彼らは寺院 勢力としてのアジール権を得るため、子弟を根 来寺に入寺させ行人になり、安全な財産の保管 庫として根来寺の名義を活用した。その結果、

十六世紀の根来衆は、そのほとんどが行人方に 属するという構図になった。

< 第 二 章 根 来 寺 の 和 泉 国 進 出 >

根来寺と密接な関係を築きながら、泉南地域 に台頭していった有力土豪に中家がし1る。十五 世紀後期、中家は麹荷生産にかかわる特権商人 としての活動を軸に銭貨を集積した。その銭貨 を元手に、在地で田畠・屋敷を買得したり高利 貸活動を行ったりして、加地子得分を集積して いた。

じようしんいん

中 家 は 根 来 寺 域 内 に 成 真 院 と い う 子 院 を 建 て、結託した。

r

中家文書」には、中家及び成 真院に関わる田畠・屋敷などの売券が多く所収 されている。売券内容を地域別および年代別に

(2)

- 298 - 分析した結果、根来寺に拠る在地土豪の土地集 積活動が紀伊固と和泉国の国境を越えて行われ、

天文年間(一五三二 一五五五)に成真院宛の 売券が急増していることが分かつた。この結果、

根来寺の隆盛期や和泉地域における根来寺の権 益範囲が確認された。

根来寺の軍事力を強固にしたのが、僧兵の鉄 砲武装である。天文十二(一五四三)年、種子 島に鉄砲が伝来した。その後、いち早く鉄砲を 取り入れた地域が根来だと言われている。天文 年間は、根来寺が最も繁栄した時期であるため、

その因果関係を考察した。根来寺の鉄砲大量保 持を可能にしたのは、根来寺特有の在地に根を 張るネットワークであった。

< 第 三 章 根 来 寺 滅 亡 の 経 緯 と 要 因 >

隆盛を誇った根来寺だったが、性質上は戦国 大名と決定的に異なっていた。根来寺が在地土 豪との緩やかな関係でつながっていたのに対し、

武家政権は明確な上意下達の命令システムで構 成されていた。また城館遺構をみると、根来寺 はあくまで門前町の住人が主体となった集落防 御の施設という性質がみられ、宗教・軍事の両 面が同居する戦国寺院であったことが分かる。

そのため、城郭の観点からすればその防御性を 著しく欠いた。上意下達の関係を欠く土豪層と の関係や、寺院的な要素を否定できない城郭の 造りなど、寺院勢力特有の性質ゆえの限界が存 在していた。

根来寺は織田信長に対しては、終始協力的で あった。一方信長も、根来衆の経済的・政治的 権益に関して、何の干渉も加えなかった。しか し、本能寺の変後、様相は一変する。羽柴秀吉 は、当初から根来寺の和泉における権益を一切 認めようとせず、根来寺と秀吉の関係は悪化の

一途をたど、った。

天正十三年三月二十日、秀吉に拠る根来寺討 伐は遂行された。直接的な動機は、小牧・長久 手の戦いで、根来衆が秀吉の背後を衝し、たこと

に対する報復だったといわれる。しかしその裏 で、秀吉には「紀州一撲を壊滅に追いこみたいJ としづ政治的な本音も介在していた。そうした 中、圧倒的な軍勢で討伐が行われ、根来寺はわ ずか二日で壊滅し、多宝塔や大伝法院本堂など を残し炎上した。その後、秀吉は紀州での「地 域的一撲体制Jを否定し、民衆の武装解除に力 を入れた。

< 終 章 根 来 寺 滅 亡 に 関 す る 一 考 察 >

根来寺勢力の基盤は、時の権力者の保護や在 地土豪等との連携により、室町期から戦国末期 にかけて築かれた。秀吉が実施した太閤検地の 主旨は、中世以来の錯綜した田畠の領有関係の 整理と、中間得分である加地子の否定であった。

根来寺が秀吉軍に真っ向から対決せざるを得な かったのは、統一政権の近世に向けた政策と、

地域公権力を支えてきた惣村的で在地に根差し た基盤との衝突だ、ったからである。

また根来寺は、寺院権力というアジーノレ権に 包まれた特異なものだった。天正十三年七月、

秀吉は関白宣下を受けた。関白の語源は「天下

あずか もう

の万機を関り白す」からきており、国政を総覧 する臣下第一の職であり、そこには公家・寺社 の実質的支配権も含まれていた。根来寺滅亡後、

秀吉は高野山を屈服させたが、そのあと宗教勢 力を支配下に置く理論をもっていなかった。関 白任官はそのための手段だ、ったとも考えられ、

根来寺が中世後期に見せた盛衰は、そうした意 味でも大きかった。

参照

関連したドキュメント

There is a bijection between left cosets of S n in the affine group and certain types of partitions (see Bjorner and Brenti (1996) and Eriksson and Eriksson (1998)).. In B-B,

(The Elliott-Halberstam conjecture does allow one to take B = 2 in (1.39), and therefore leads to small improve- ments in Huxley’s results, which for r ≥ 2 are weaker than the result

“Breuil-M´ezard conjecture and modularity lifting for potentially semistable deformations after

lines. Notice that Theorem 4 can be reformulated so as to give the mean harmonic stability of the configuration rather than that of the separate foliations. To this end it is

S., Oxford Advanced Learner's Dictionary of Current English, Oxford University Press, Oxford

At the end of the section, we will be in the position to present the main result of this work: a representation of the inverse of T under certain conditions on the H¨older

支払方法 支払日 ※② 緊急時連絡先等 ※③.

Sometimes also, the same code is associated with a different rating, for example in the American questionnaire “9. Not answered” and in the French questionnaire “9.?”, which