中国における市場経済の盛衰
栞 田 幸 三
:[ プロ ローダ いま,中国は社会主義に立脚した経済建設の途上にあり,21世紀中葉までに 先進的な世界諸国と比肩することを目標に,急速な経済近代化の潮流に乗って ユ 躍動しつつある。 現時点において中国経済が「発展途上」にあること,また19世紀から20世紀 前半にかけて後進的地位に甘んじていたことについても,大方,異論はないで あろう。後者の証拠には,あのアヘン戦争を見ればよい。インドや英本国から 来航した数等の軍艦,その大平巨砲の前に「眠れる獅子」中国は敢えなくも敗 退・屈服し,西欧文明の後塵を拝することになったではないか,とされる。 たしかに,ルネッサンスや産業革命を経験して新しい力を貯えた西欧の文明 や軍事力は,中国のそれに比し優越した地位にあった。だが,それは今から僅 々150年前の時点のことである。1千年前,2千年前の時点においては東西文 化の比較はどうであったか,必ずしもアヘン戦争当時の優劣そのままとは断言 できない。 後の雁が先になる と古諺にもあるように,地球上の諸民族・諸国民の文化発展の軌跡は,先進・ 1)北京1!日(昭和60年8月)共同によれば,胡耀邦総書記は11日,つぎのように発言 した。建国百周年の2049年までに,三段階で近代化を実現する。 i 今世紀末,農工業生産を1980年の4倍に ii 2021年(共産党創立百周年)中開発国に iii 2049年(人民共和国百周年)物質文明・文化道徳の一流国に (日本経済新聞..60.8.12)2 彦根論叢 第237号 後進の序列恒ならず,盛衰興亡を繰り展げること,世界 の史書に見られる通りである。宮崎市定教授の考案され た「世界史略年表」 (別掲)を見ると,この間の理解を 助けられることが大である。まず,近世から最近世(近 代)への移り変りに注目しよう。ヨー一一 Pッパの産業革命 によって象徴される最近世文化は,当然,他地域に影響 を及ぼす。本来ならば近接する西アジアを最近世化し, その後に東洋を感化すべきであった。ところが,西アジ アには当時トルコ帝国があってヨーロッパ文化の受容を 拒否し,その結果,西アジアを迂回して東洋へ輸入され た。清朝が強い拒否反応を示したため,後進的な日本に おいてまず最近世化が成功を見た。そして日本を仲介と して中国のヨーロッパ文化輸入が促進され,辛亥革命で 清朝が倒れ中華民国の成立を見るに至り,近代化への方 向づけが確立された。 一400 400 西 アジア 1000 近 1400 世 1800 最 近 世 宮崎市定『中国史』 上1977,p.10。 世界史略年表 つぎに,東洋の近世に注目しよう。この区間には宋・元・明・清の各王朝の 大部分が含まれる。三国・六朝・唐・五代という中世の状態が,その終り頃に なると次第に近世的傾向を現わし,宋代に入ってほぼ近世の形態を整えてしま うと,そのまま大体同じような状態が清朝の末,19世紀の中葉まで続いた。西 アジアの近世は東洋よりもずっと早く始まっている。この西アジアの近世は東 洋に影響を及ぼしてその近世化を刺激したに違いない。いわば,西アジアのル ネサンスが東洋に影響して,そのルネサンスを開花させるのに貢献したのであ る。遅れて開花した東洋のルネサンスは完成度が高いため,西アジアに逆流し て,その近世文化を一層高めることとなる。東洋が近世化した初期において, ヨーロッパはまだ中世である。東洋の近世文化は,西アジアを経由してヨーロ ッパに影響を及ぼし,その近世化を助長することもあり得る。ヨーロッパのル ネサンスは,もう一度逆流して西アジア・東洋へ影響を及ぼすようになる。ヨ ー一 Pッパの近世は他地域に比べて非常に短い。完成度の高かったヨーロッパの
ルネサンスは,そのまま進展を続けて,更に一段と高い産業革命に到達するこ とが出来たからである。 最後に,古代から中世への移行に注目しよう。地縁と血縁によって古代民族 が成立したのは,人類歴史上の一大転換期である。その民族が,やがて相互の 存在の権利を確認して一つの古代世界を形成したのは,さらに大きな人類進化 の新段階である。西アジアではペルシア,中国では秦・漢による統合が成し遂 げられた。こうした古代史的発展は,やがてその頂点に到達するとともに,今 度は表面上は逆転して中世的停頓の時代を現出する。主として外部からの衝撃 を受けて分裂の傾向を現わすようになる。秦漢帝国は三国南北朝に分裂し,ペ ルシア帝国は東西に分裂し,ヨーロッパでもローマ帝国の分裂が見られる。 アジア史を大きく代表する二地域,西アジアと東アジアでの古代史的発展の終焉と, 中世史的発展の結年の実年代を比較し,さらにヨーロッパのそれと対照すると,前掲の 表になるが,われわれはここで,各地域聞の歴史発展には先後があり.時代差のあるこ とを読み取ることができるであろう。すなわち歴史的発展段階は地域によって年代の傾 斜が認められるのである。 2) と宮崎教授は説かれる。 問題を経済生活の領域に限定した場合,古代一中世一近世にいたる過程 で,中国の経済は先進的であったのか後進的であったのか,とりわけ,経済生 活進展の過程で「市場経済」の盛衰・消長はどのような意義を持っていたのだ ろうか。本稿では,このような点に焦点を絞って考察を進めたい。、 ∬ 市場経済の勃興 人類の経済生活の歴史において,産業革命は確かに画期的な出来事であっ た。ゾソバルトは,経済体制と経済意志の2概念を用いて,ヨーロッパ経済の 全発展を前資本主義時代と資本主義時代とに大別し,さらに前者を自給経済時 2)宮崎市定『アジア史概説』1973,p.14。
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つ 代・過渡時代および手工業的経済の3時代に区分している。 ピックスは世界経済史を単一の過程として取扱い,理論的な探究に向けて出 発するに当って,次のように言う。 われわれはどこから出発すべきであろうか。マルクスのいう「資本主義の勃興」に先 行するものとして一つの変容が存在する。その変容は最近の経済学に照らしていえば, よりいっそう基本的であるとさえ思われるものである。それは「市場の勃興」すなわち 「交換経済の勃興」である。 2) と。かれによれば,市場の勃興すなわち商人的経済の浸透を基準として,次の 3つの局面が展開される。 (1)指令要素により,多かれ少かれ階層的になっている慣習経済(customary economy)o (2)商人的経済(mercantile economy)非商業的な部分への市場の浸透が特 徴的で,古代ギリシャや中世イタリアに見られる。財産と契約の保護を内 容とする法律制度が必要とされる。 (3)商人的経済の工業への浸透による近代工業の勃興(the rise of modern industry)o このように見てくると,ゾンバルトの言う「前資本主義」の段階は,資本主 義に至る道程ないし産業革命にいたる条件整備の段階として把握することがで きよう。そして,その整備されるべき条件のうちで,「市場の勃興」あるいは 「交換経済の勃興」を重視したのはピックスの卓見であると思う。ただ,かれ も言うように,その市場においては,財産と契約の保護,貨幣制度,財政制度 農業の商業化,労働市場の整備などの条件が充足されることが必要であろう。 このような含意のもとに,私は産業革命ないし近代工業化の準備段階で整備さ れるべき条件とし(,「市場経済の確立」を重視するものである。 1)Werner Sombart, Der Moderne Kapltalismus,2AufL,ユ916邦訳『近代資本主義』 2)John Richard Hicks, A Theory of Economic History,1969新保博訳『経済史の 理論』ヨーロッパにおいては,中世・近世を通じて「市場」の勃興・整備が着々と 進行し,イギリスはじめ欧米諸国に産業革命の開花を見る基盤となった。 それに対比して,東洋においては「市場」はどのようであったか,東洋の基 軸国家であった中国について考察しよう。中国における市場経済の勃興,この テーマに関して全くうってつけの証人がいる。 『史記』の編者司馬遷(以下遷 とよぶ)その人である。遷の経済論は史記の「貨殖列伝」に集約される。しぼ ヨ らく,「:貨殖列伝」に関する私の旧稿から要約・引用することを許されたい。 都市国家(city state or polis)的様相を呈する春秋諸国が覇権争奪を繰り返 すうちに,次第に領土国家的様相をそなえた戦国七雄国の争覇に移行し,やが て秦・漢帝国による大統一に集約される。この過程における経済社会の変遷 は,貨殖列伝の前半に描かれている。 a)経済の与件 遷は,人間の物質的欲望を与件として経済問題を論ずべきことを提言する。 人間の経済的欲望はナチュラルなものであり,それを契機として生活水準を向 上させようとする欲求が生じ,経済活動が活性化する。経済政策は,民間の経 済活力を自由に伸ばさせるのが最上であり,政治権力の恣意によってこれを抑 圧・統制するのは次善・三善の策である,とする。 b)社会的分業と市場経済の成立 次に遷は,自ら中国各地域を踏査した体験に基づいて,中国各地域の自然環 境の相違にもとつく社会的分業の成立を確認する。当時の中国の領域を大きく 東西南北に4区分して考えても,それぞれの地域は気候風土や資源賦存など自 然条件が異る上に,歴史的な相違も加わって,それぞれの特徴とするところに 従い,農・工・商・虞(グ=林業・水産業等)の発展に差異が生じる。いわば 各種生産についての地域間の比較優位が成立する。しかも各地域で生産される 消費財は,みな中国人民=消費大衆の愛好・需要するところであるから,社会 的分業が成立するのは自然発生的である。生産の専門化は人間の生産的な技 3)彦根論叢第178号(昭和51年3月)拙稿『史記の「貨殖列伝」について』
術・能力・適性を伸張開発することになり,全体としての生産能率が増進され る。生産された財貨は市場において交易される。その市場には価格の法則があ り,需要供給の関係で価格が決まり,この価格を目安にして,あらゆる財の生 産が順調に行なわれる。それは,上からの指令要素に従うものではなく,自然 的調和の働きによる,とする。 c)農・工・商・虞が国富の源泉 このような枠組の中で,農工商虞の四者は国民の衣食の源泉であり,国を富 ませ,家を富ませる原動力である。支配階級および士とか吏とかいわれる人々 の働きを不生産的労働と見るならば,農工商虞の人々の生産的労働が国富=国 民の富の源泉だということになる。このあたりの論理は,まさにAdam Smith の国富論と揆を一にしている。遷の富国論は,さらに幾多の具体的事例によっ て証明される。 富国の実例としては斉と越がとりあげられる。斉(今の山東省)の開祖太公 望や,春秋五聖の第一人者桓公を補佐した管仲の経済政策,越(猿江)国にお ける軍畑(ハンレイ)や慨然の富国強兵策がそれである。個別経済単位におけ る富家の事例としては,萢麟の転身せる陶朱公をはじめ,子貢・白圭・碕頓・ 郭従・烏享保・寡婦清などが登場する。 以上によって,春秋・戦国から秦の時代にいたる問の中国における,広汎な 社会的分業にもとつく「市場経済」の成立が証言されているが,遷は,さらに その後における市場経済の整備・確立について述べている。 「貨殖列伝」後半の分析にうつる。 d)漢初の自由化政策 漢朝が興起して秦末の分裂を一統するや,秦時代のもろもろの統制を徹廃 し,経済の自由化を推し進めた。例えば,国内通過税の廃止,塩・鉄・木材な ど資源採取に関する禁制の緩和など,民間活力に刺激を与える開放政策,自由 化政策を採用した。その結果「富商・大臣(タイコ,富裕な商人,大商人)が 天下に周流し,交易の物,通ぜざるはなく,其の欲する所を得る」という,経 済活動の昂揚を見た,とする。史記の「平準書」には漢興以来七十余年間の繁
栄を謳歌して, 「国家事無く,水・早の災に遇うに非れば,民則ち人給し家足 る。都鄙の塵庚(リソユ,くら,米倉)皆な満ちて府庫は貨財を余す。京師の 銭は巨万(莫大な数,万万=億)を累(カサ)ね,貫(カン,さし,ぜにさし。 銭貨を貫き持つ縄)朽ちて校(カゾ)うべからず」と述べている。 自由化政策によって,各地域の経済も大いに活性化した。遷はその状況を 難中……ほぼ現在の陳西 三河……河東・河内・河南3郡,今の山西の南西部と河南の西北部 斉魯……山東の北部・中部 梁宋……江蘇の北部と山東の南部 西岸……江蘇・河南・湖北にまたがる 東楚……江蘇・山東にまたがる 南楚……安徽・江西・湖南にまたがる などの地域ごとに,それぞれの発展の特徴を,かれ一流の経済地理的な,また 歴史地理的な視角から観察し分析を加えている。このような経済活動の昂揚が 最も集中的に実現されたのは,各地の都会においてである。 e)都会の勃興 遷は,漢初の著るしい経済現象として都会の興起・繁栄に注目している。国 都の長安をはじめ,中原の諸名都,春秋・戦国;期に成立・発展した各地域の政 治中枢的都市,甲斐に各地域の流通センターとして籏生した諸都市の活況を描 写している。貨殖列伝に現われる主な都市を,現今の行政区域にあてはめてみ ると次のとおりである。 陳西省 長安 河南省 洛陽,温,頭(済源),宛(南陽),唯陽(商学),穎川(萬),南陽 山西省 楊(洪洞),予料(臨扮),種(大同) 河北省燕(北京),琢,郡郵,代(蔚) 山東省 臨蕾(潴博),陶(定陶) 江蘇省彰城(洋洋),呉(蘇州),広陵(江都) 安徽省 合肥,寿春(寿)
8 彦根論叢 第237号 その他 江陵(湖北省),長沙(湖南省),三章(江西省,国財),番禺(広 東省,広州) これらの都会,とくに新興の都会は概ね地小人衆であり,農業以外の学業 (商工業など)が発展する。そこに,従来の農業・商工業以外の新しい種類の 職業に従事する者が出現する可能性が生れてくるのである。 f)新興産業の成立 農工商虞の業者は,それぞれインプット・アウトプットを比較考量して最大 の余剰=利潤を挙げることに没頭し,さらに富を蓄え利殖することに知能を集 める。より高い所得を欲し富を追求する点から言えば,貴族も官僚も将軍も兵 士も,みな同様である。人口が集中し,このような経済心理の人々が渦巻く大 都会には,激しい生存競争が展開され,そこに自ら,今までになかった新しい 職業,新しい産業が勃興する。それは,それらに対する社会的需要の存在によ って誘発されるのであり,平均利潤率を」1“ 一一一“’・・一する超過利潤達成の可能性が 動機となり誘因となって興るのである。とくに私が注目したいのは,その新興 産業の中に,今日のいわゆる第三次産業に属するものを多く見出す点である。 すなわち,飲食業,運輸業,金融業,医師,方士,ギャンブル・レジャー関連 職業,家庭サービス,諸種のタレント・ホステスなど,従来の「農工商虞」の 区分ではくくり切れない,新しいタイプの職業・産業の出現である。 9)財産と所得 遷は,一定量の財産を所有する資産家を称して「素封」 (ソホウ)乏呼ぶ。 具体的に言えば,百万銭の価値ある財産を所有している人は,平均利殖率を20 %とすれば,年々 20万銭の財産所得を入手し得る。それは,1千戸の農民を支 配する封建領主が毎年1戸から200銭つつ,合計20万銭の貢租を取り立てるの と同じ所得である。故に「秩禄の奉(官吏の給与所得),爵邑の入(諸侯の封 建的所得)無くして,而も楽しみこれに比する者あり,名づけて素封と唱う」 のである。遷は,この素封家の所有すべき一・定額すなわち百万銭相当の各種財 産の標準数量を例示している。例えば,牧馬,牛,羊,豚,魚破(ギョヒ, 養殖用の肢沢),材,蚕,栗,橘,萩,漆,桑麻,竹,畝鐘の田(1畝から1
鐘の穀物を出す肥沃な土地),二二(シセン,くちなしとあかね,紅の原料), 三山(キョウキュウ,はじかみとにら)など。以上のうち1種類を標準数量だ け所有しておれば,年々 20万銭の所得が得られると言う。20万銭を利殖率によ って還:回して標準数量を割り出したものであろ.うσこれらの財産は「三二の資 であり,市井を窺わず,異邑に行かず,坐して収を持つ」ものであり,その所 得は千戸侯と等しい。いわば,財産蓄積の目標額を示すものと解することがで きよう。 この標準財産を築き上げるには,年々の所得の…蓄積に待たねばならない。遷 は「貧を用(モ)って富を求むるは,農は工に如(シ)かず,工は商に如かず。 繍文(シ=ウブン,刺繍)を刺すは市門に碕るt/こ如かず」と言う。これは, 農・工・商の業種間の利潤率に差異があること,また,農よりは工,工よりは 商の方が比較的少額の資本で企業を創設し得ることを暗示しているように考え られる。 つぎに遷は,通邑大都における代表的な企業の業種別に,年間事業所得20万 銭を挙げ得べき取引量,すなわち年間売上高を示している。例えば,酒ならば 1千醸(かめ),二三豚なら屠ること千三,三二(穀物)なら販ぐこと千鐘(シ ョウ,鍾に通ず,容量の単位,6斜4斗),薪二千車,竹竿万個,紹車(軽快 な馬車)二乗,銅器千釣,僅(奴碑)手指千,漆千斗,飴(ふぐ)・薫(たち うお)千斤,二二(てん)の皮衣千三というように,それぞれの単位で計算し た取引量を示している。これらの業種のうちには,販売を専らとする商業のほ かに,加工して販売する手工業的な業種も含まれているが,それは敢えて問う ところではない。要するに,一定数量の商品ないし手工業製品の売上げによっ て,平均30%の利潤を挙げることができ,年間20万銭以上の事業所得が達成可 能だと言うのである。 遷は,さらに「子貸(シタイ,利息を取って貨付けること)の金銭千貫」を 同列に加えている。狐や蝿の毛皮,子羊の皮衣,二二などと同様,二二(ソウ ヵイ,仲買人)によって仲介・調節されるのであるが,30∼50%の利益を挙げ ることができる。これも亦,「千乗の家」に比肩する所得だと言う6「金銭の
10 彦根論叢 第237号 子骨」という用語は利子生み資本(zinstragendes Kapital)の存在を表徴する ものであり,金融ブP・一一カーの存在は貨幣経済の発展ぶりを示すものと認めら れよう。手工業的企業,商業的企業と並んで金融専門の企業やブローカーが頭 角を表わしているのである。こうして,漢代初期に多数の「万元戸」の出現を 見たのである。 h)平等の貨殖家 漢代初期の貨殖家は次の3つのタイプに分類できる。 1) 伝統的な貨殖グループ 蜀の平氏や程鄭,宛の孔氏のように,経済地理的情報を依り処に,冶鋳 の事業を興した者,曹の邸氏のように鉄冶を以って起り節倹と貰貸(セイ タイ,借と貸)および行商の利益によって富んだ者,斉の勾間(チョウカン) のように人の騰しむ志州を愛貴・信頼し魚塩の商業で巨富を築いた者,周 の師史のように大規模な貨物輸送専門で巨富を致した者など。 2) 投機的・政商的グループ 野末の乱世に倉粟を圃積し穀価騰貴に乗じて巨利を博した三曲の任氏, 漢の飼奴征服に便乗し迦彊の牧畜で富を成した嬌挑,呉楚下国内乱の危機 に,敢てリスクを冒して長安の列侯封君に利付の軍資金を供給して巨富を 築いた無塩など,時代の流れを観望し機に投じて成功した者。 3) ベンチャービジネス的グ/v.・一一プ 一般の社会通念ないし既成概念を逸脱した,前人未踏のアイディアによ って産を成した者。田農,塚掘り,博戯,行質,販脂,酒削(サイサク,刀 磨ぎ),漿(ショウ,飲料)売り,胃捕,馬医というような一見平凡な職 業でも,アイディアーつで成功の道は開ける,というわけである。 以上で「貨殖列伝」の分析・紹介を終る。これを総括すると別表のようにな る。春秋・戦国の時代に勃興した市場経済が,秦・漢の政治掌大統一の環境の 下で,いよいよ充実・成長・確立したことが認められる。恐らく,当時,地球 上最も進歩した,先進的状況にあったと考えても誤りではあるまい。ところが
輝かしい繁栄のすぐ後には一転して無惨な没落という,ドラマティックなシナ リオが用意されていたのである。 「貨殖列伝」の構成 区 分 各 節 の テ マ 前段 後段 春 秋 一当
倦ε1睡⇒
漢 代 初 期 (BC3世紀) ︶︶︶abC
経済の与件……物質的欲望 社会的分業と市場経済の成立 国富の源泉……農工商虞 d)漢初の自由化政策 e)都会の勃興 f) 新興産業の成立 g) 財産と所得 h)漢初の貨殖家 巫 抑商政策の発動 ピックスの言う「指令要素により,多かれ少かれ階層的になっている慣習経 ユ 済」なる表現がピッタリ当てはまるような法治帝国秦を打倒した漢朝は,法律 を簡略化し,禁制を撤廃し,田租を軽減するなど,民生安定につとめ,経済自 由化の政策を採用した。他方,秦漢交替の混乱に乗じて,商品をストヅクして 価格騰貴を狙う投機的商人も現れたので,高祖(BC206∼195在位)は商人の 絹服着用と乗車を禁止し,商税を増徴するなどの措置をとり,その勢力の抑圧 を図った。二代恵帝・高后の問(BC195∼180)天下漸く平穏となり,商質の 律を弛めたが,仕官して吏となることは禁じた。官吏の俸給等国庫の経費は田 租や人頭税で賄い,山川(塩・鉄など)・園池(園圃・池沢)・市井(市場・商 店)の租税は少府に収めて天子諸侯王等の私的経費に充当することとした。三 代文帝(BC180∼157)は自ら節倹の範を垂れたが,百姓は本(農業)を棄て て末(商工業)に趨る風が生じた。ここに頁誼の上奏があり,始めて籍田(セ キデン,天子が農事を励ますため親ら土を躇み耕す田)を開き,「抑商勧農」の 農本政策が確認された。こうして五代武帝即位(BC141)の初めに至る70年 1)J.R. Hichs前掲書。12 彦根論叢第237号 間,漢民族は平和な豊かな時代を経験したが,同時に,前節に見たような貨殖 家の輩出活躍の結果,国民の間に貧富の格差が増大し,消費生活は奢修に流れ てきた。ここに転機が訪れる。遷が「物盛にして而して衰うは固よりその変な の り」と言うとおり,商人的経済の没落,市場経済の衰退の局面を迎えるのであ る。 武帝の雄材大略が外に向って発揮され,富岳・西南夷曲に対する積極的武力 政策が実施されると,忽ち財政は急を告げた。そこで,売爵・贈罪等の弥縫的 増収策が採られた。外征とくに白班遠征に要する兵甲転漕ならびに賞賜等の費 用は莫大で,大農(ダイノウ,財政主務官庁)旧蔵の貨幣は欠乏し,賦税の増 収策も尽き,天子の内幣から補助を仰ぐに至った。たまたま山東に水災あり, 郡国および中央の財政は益々枯渇した。しかるに富商血止は独り巨利をむさぼ り,国家の急を省みない。政府は百方財政の策をめぐらす。まず,幣制改革を 実施するが盗鋳が盛行し,財政効果を挙げ得ない。つぎに製塩・製鉄の経営者 を大農顧問に任命し,畑鼠専売政策を採用する。また,税制を改めて商人の財 産に重課し,商人の田土所有を禁止する。さらに「均輸」の官を設けて,郡国 の民に租税に代えて特産物を納付させ,官の手でこれを京師や他州郡に転輸し て売却させる。また,告網(コクビン)という財産税密告の制度を設け,脱税 者の財物を盛んに没収する。こうして財政は漸く充足した。 ところが,武帝の大略は再び内外に発揮される。西域との通交,南越・匁 奴・朝鮮への出兵,大規模な国内巡幸,封禅などの祭祀,大慶高楼・心裏の造 営など,財政支出は止まる所を知らない。今や大農を主管する桑弘羊は,さら に「平準」を新設して,重要物資の流通を国営化し,富商大藩が従来稼得して いた巨額の利潤を財政の掌中に奪い取った。こうして,民の賦を増さずして国 庫は充満した。 然し乍ら,「大軍之後,累世不転」と言う通り,流通経済,市場経済の崩壊, そして社会一般の蒙った打撃は深刻であった。連年にわたる徴発・重課・塩鮎 専売・均輸平準などの経済政策が強行された結果,「商賞は中家以上大抵破産 2)史記「平準書」(財政・貨幣の変遷を述べる)。
し,農民は競うて流亡し,田地荒廃,城郭空虚,糟糠にも飽かずして人復(ま) た相食む」という,すさまじい状況を現出した。深刻な社会不穏のうちに武帝 は世を去る。 武帝時代に実施せられた商業抑制の諸施策をまとめると,次の表のようにな る。 武帝時代の抑商政策 史記「平準書」から 紀 年 BC 政 策 の 概 要 元期1 5 元狩3 4 元鼎2 5 元封1 128 124 120 119 115 112 110 1) 豪畏を募り南夷に田し,粟を県官に入れ銭を都内に受けしむ。 2) 民を募り奴碑を入れ終身復せしむ。 郎となりて秩を増し,羊を入れて郎となる。 武功爵を売る。級17万,30余万金に直す。 山東水災を被る。豪富の入を募り藩校屈せしむ。 3) 白鹿皮幣白金三品をつくる。諸の金銭を盗鋳する者は罪皆死たり。 塩鉄専売,算絡,均輸を実施。 4) 銅銭の私鋳を禁止し,上林三宮の専鋳とする。 油糟天下に励行。民の財物を得ること億を以て数え,奴婚は千万,田 5) は大県には数万頃,小県には百余頃,宅も亦かくの如し。 大農,均輸を以って塩鉄を面し,賦を助く。 郡国各県に均輸塩謹啓を置き,平準を京師に置きて,すべて天下の委 6) 輸を受く。名官を召して車,諸器を治めしむ。皆,給を大農に仰ぐ。 の 大農の諸官,尽く天下の貨物を諭して,貴ければ即ち之を売り,賎し ければ則ち之を買い,天下の物を抑う。
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ナ,,,,ユ トク上官イイウ フ一二一ニケ ロ 内 金林 輸 都復自上頃委寵 ︶︶︶︶︶︶︶ 1 2 QJ 4 ﹁D ρ0 7 財政官庁の一分局。 力役賦課の免除。 銀貨3種類。 上林苑中に設けられた三つの役所。 百畝 1畝は100歩,1頃は日本の1町9反余に当る。 各地方に委積する物貨を,時に応じ大農に輸送すること。 こめる。かねすべる。包括する。総括。独占。 IV 市場経済の消長 三二は去っても漢王朝はまだ続く。漢王朝が倒れても中国の自然・人間は生 存を続ける。支配者個人や個々の王朝を超越した,国民的な経済的活力の消長14 彦根論叢 第237号 一 を考えたいのである。漢書以下歴代正史の「食貨志」はじめ文献資料には事欠 1) かない。 ’ 凹凹,位に即きて6年置BC87),郡国に詔して賢良文学の士を挙げ,問うに民の疾 2) 令する所教化の要を以ってす。皆な対う『願わくは塩鉄・酒権・均輸の官を罷(ヤ) め,天下と利を争うこと母(ナ)からんことを。視(しめ)すに倹節を以ってして然る 後教化興す可し」と。弘羊,難じて以為(おも)えらく『此れ国家の大業,四夷を制 し,辺を安んじ.用を足す所以の本にして,廃すべからざるなり』と。(中略)奏して 3) 二二を罷む。 (中略)宣・元・成・哀・平の五霞変改する所亡し。元帝の時,かつて塩 4) 鉄鋼を罷め,三年にして而して之を復す。 と漢書にあるように,一度確立し,予算化した制度は簡単には徹廃されない。 王葬(BC45∼AD23在世)は周の制度を模範として行政改革を行ったが, 貨幣制度の性急な改革で市場経済の混乱を招いた。長安の東・西市及び洛陽・ 郡邸・臨笛・宛・成都の五市の長を五三官と称し,役人を置いたが,物価を調 整し市場を統制する趣旨は実現に至らなかった。さらに六二の制度を設けて, 5) 塩・酒・鉄の専売,名山大沢の減,五三三下,銭布三三の法令化を強行したが 実効上らず却って庶民の苦痛を増すのみであった。 後漢(25∼220)に入ってからは,酒の専売は行われなかったが,塩と鉄の 専売は或は行われ或は罷められという風で,市場経済,富商大賞の活躍が漸く 1)通史には王孝通『中国商業史』などがあげられる。 2) シユカク。酒の専売。天漢3(BC98)に始められた。 3)前’ge 7 一一11代の皇帝。 4) 班工女『漢書食貨志下』 5)詔に曰く『夫れ塩は食肴の将,酒は百薬の長,読会の好なり,鉄は田農の本にし て,名山大沢は饒術(ゼウエン,ゆたかにあまる)の藏(ザウ,たくわへくら)五 均除貸(ゴキソ,市場に於て物価の公平を保持させる方法。シヤタイ,かす,かけで 売る)は百姓の平を取る所にして,仰いで以って給澹す。銭布銅冶は有無を通行し, 民の用に備うるなり。此の六者は編戸斉民(庶民)の能く家ごとに作る所に非ず,必 ず市に仰ぐ。 (中略)故に之を斡(カソ,つかさどる)す』と。加藤繁訳注『史記平 準書・漢書食貨志』
の 復活する。 三国(220∼65)の魏は農業を奨励し,塩業を起して経済基盤を固めた。鮮 卑や日本などとの間に朝貢形式の通商が行われた。蜀の劉備は大商人・貨殖家 の援助を得て立国し,特に甲鉄の利に依存するところ大であった。生糸・織物 の生産が盛で,雲南経由で大秦(ローマ)と通商したという。呉も旅商の力に 依拠して経国の策を立て,夷町(台湾)・蜜州(日本)との通商を維持した。 三国とも銅銭の鋳造に務めたが,あまり通用せず,主として穀畠の類が現物貨 幣として流通した。その原因は,悪銭の濫鋳と生産衰退に伴う実物尊重の経済 心理にあると言えよう。 晋(265∼316)の統一で商業も復興したが,久しからずして五胡の擾乱とな り,中原は倫没し商業も衰退した。長江流域は漸次富豪集り繁栄を見るように なった。梁州(陳西省漢中),甲州(四川省成都),交響(ベトナム,ハノイ附 近)などの都会が栄えたが,とくに広州には外国船舶が多く出入し股盛を極め た。四半から南朝にかけて商賞のための旅宿設備の貧弱,幣制の素乱など市場 環境の不備が記録されている。後漢以来,仏教伝来に伴い東西の交通が頻繁と なり,市場経済の隆盛に寄与したことが注目される。 前開(351∼94)のころ長安から志州に至る道路の両側に半能を植え,20里 毎に亭を建て,40里毎に駅を置き,商工貿易の振興を図った。惜しいことに此 の時代の政権は短命で,商工業の盛衰も恒でなかった。後山は本来遊牧民族で 商工業の記録が少い。それでも南遷後,とくに洛陽大市の繁栄,工商貨殖の富 豪が軒をならべる盛況が見られる。突出した貨殖家としては肉屋とか酒造家の 事例が見られるに過ぎない。北斉・北周の商工業は「謂うに足らない」。この ころ,鋳造貨幣がその機能を失い,人民は絹布を以って交易した。「徒らに五 四の名のみありて撃鉄の実値しか無かった」のに由るという。 晴(581∼618)は長安を西京,洛陽を東都として,天下の大費富商数万戸を 移転させ戸口の繁昌を促進したので,商費野州した。干購(江蘇),永済渠(山 東以北),江南河(蘇州∼杭州)三大運河の開通により,南北流通の根幹とな 6) 王冠『潜夫論』,仲長統『昌言』など。
16 彦根論叢 第237号 る社会資本を造成したことが特筆される。 唐(618∼909)は階に倣い,長安を西京,洛陽を東京として市制を布いたほ か,諸州県の所在地に市を置いた。正午から日没前までという時間的規制があ った。商事関係の法律も作られ,度量衡制度,器用絹布の濫行防止,市司の評 価,売買の不和及び較(その利を専略するもの),固(その市に障害となるも の),奴碑及び牛馬の売買の立券に関することなど詳細に規定された。各国の 産物を持って各地の週市(定期市)に巡歴販売する者が顕著に見られるように なった。例えば,江南の茶を北方に三三する者,潅南の塩・米を西北に売る者, 三男(福建・広東)から海路インド洋沿岸,ペルシア・アデンに至る者,シル クロードからペルシア・インドに達する者など。商人の往来の頻繁となるに伴 い,商人と貨物の集散地ができて,邸店(貨物を置く所と売る所)が生じた。 市舶司税関の置かれた広州・揚州(江蘇)二商埠のほか,泉州(福建),二三 (ハノイ,安南都護所在)も開港場であった。関津の令は甚だ厳重で,商費の 外国貿易は厳しく制限され,極端な閉関主義が取られていた。唐代には「大唐 宝紗」のような紙幣も発行されたが,民間では銅銭一五鉄銭・開元通宝など 一が用いられた。市場の貨幣需要を充足し得ず,綾羅・絹布・雑貨と兼通さ せたり,旅行者の銭持出しを禁止したりした。企業資金の融資をも含め,高利 貸が盛行し,公金の融資,高金利などの問題が生じた。飲茶の風習が普及した のも唐代で,茶葉は各地に産出し,課税の対象とされるようになった。8世紀 後半から天下の塩を官の専売とし,多額の専売益金を財政収入に加えた。安史 の乱に際し,江蘇安徽の富商大貢から資産の十分の二を微収し,これを率貸 と称した。また諸道では,三下に課税して軍資に供した。さらに,「借銭令」 を出して京師及び長安の富商の銭を借り受けている。三代の財政は塩税が歳入 の大半を占めていた。有名な理財家劉曼は,塩税の増額に努めたり,京師の米 や塩の価格騰貴の対策を樹立したり,天下の物価高低の調節に尽力した。 五代(907∼960)諸国は互いに通商するもあり,せざるもあり,概して言え ば「山川阻絶し風気通ぜず」商路は梗塞を免れなかった。税法なども棄乱し, 貨物税・塩税・鉄税・麹税などが重課された。通商としては,契丹・ウイグル・
タンダートからの馬匹,ウイグルの宝玉,高麗の銅・銀などが中心で,交易外 の 交に当る「三図使」の制度があり,今日の駐外公使ないし領事の役割を果し た。 宋(960∼1127)は開国のはじめ,商税の軽減につとめ,細蟹な物品は税を 免じ,市場経済の復興を促した。沐京大梁(開封)は商業の中心地でもあり, う その繁栄ぶりは『東京夢華録』などに詳らかである。10世紀末,京師に権朝飯 を置いた。諸豪商の持ち来る香薬・中妻を政府が一手に買い集めたのである。 また,各地の市謡言に政府資金を備えて外貨を購入し,確易院に送って民間に 売却して利益を収めた。この種の専売貨物を権貨と呼び,滝壷以外の商品は放 通行貨物と呼び,その一部を徴収して関税とした。中国商人の出国する者は州 官に申告させ旅券を与えた。 宋初以来,銅銭の鋳造が盛に行なわれたが,次第に実質価値を減じていく。 四川・陳西などで交子(コウシ,紙幣と手形の性格を合せ持つ証券)が発行さ 9) れたが,北宋末期には濫発され,インフレ状態となった。 宋に至って製茶の法が精巧にな:り,喫茶の人は益々多く,従って国庫の直税 収入も増した。窯業も盛んで,とくに江西の昌南鎮の甕器は工緻絶倫といわ れ,11世紀からは景徳鎮盗器と称し,全国的市場を確保した。 1069年から始められた王氏石の新法は,農田・方田の法,青苗法,免役法, 市画法,均輸法など,経済政策が重きをなしており,社会政策を加味した富国 強兵策と見られよう。行政・財政の改革を行ない,技術・資金・労働力の三面 から農家の保護育成を計り,中小商工業者を金融面から助成し,商業の一部を 国営に移す。この様な政策は支配階層の利害と衝突する所が多く,従って強い 抵抗にあい,もろくも挫折した。 南宋(1127∼!279)の諸帝は寛仁に過ぎ厳粛足らず,’曲商の詔があっても, 官吏は措いて聞かず,民の困苦も上聞に達しない状況であった。都の臨安(杭 7) クワイヅシ,外国と貿易する役人。 8) トゥヶイムカロク,南宋の孟元老が,北宋の東京の情景を追懐して書いたもの。 9) 拙著『中国経済思想史論』第3章第1節「銭荒」と新法経済政策。
18 彦根論叢第237号 州,漸江省)には四方の貨物が集り,沐梁に劣らぬ繁昌であった。幣制には進 歩見られず,却って勢子(紙幣)制度の素乱は流通経済を阻害した。雲南・安 南を通じて西南二二との交易が盛んであった。 エの 遼(916∼1125)は東北の契丹族である。国を建て,燕雲十六州を得て版図 拡大,物産股饒となり,政策も宜敷を得て,商業の隆盛を見た。南京(北京), 上京(内蒙古,下林旗)はじめ三京および主な州県にも市が設けられた。外に は宋をはじめ,高昌(トゥルファン),渤海,女真,高麗等と通商した。 金(1115∼1234)は女真の部落から起り,遊牧を業としたが,遼を滅し宋を 破り,黄河・准河の線に進出し,中国の国土の大半を領有するに及び,商業も 頗る発達した。貨幣制度では,銅銭の不足を紗(紙幣)で補わんとしたが,所 ;期の効果を挙げ得なかった。女真人の間にも喫茶の風が浸透し,その移入が問 題化した。金の故地は海浜で塩を産した。中原を得て塩場倍加したので,塩を 専売にして米との交易を許し,迦境では茶との交易を許した。金は宋および西 夏との互市には権場を設けて管理した。 元(1271∼1368)は蒙古遊牧の民から掌ったが,遊牧に通商はつきもので, 中夏統一,欧州遠征にも,通商問題が誘因となっている。南方でも海上権の拡 張に努め,泉州・上海・温州(草江)・広東・杭州などに市田司を置いた。輸 入品には30分の1を課徴し,輸出は官営とした。マルコポーロは泉州の繁栄を ユラ 称えて「世界最大を誇る一大海港の一つ」であるとしている。 内陸では,北京を中心とする駅姑制度の整備が知られるが,国際・国内両面 にわたり商業を重視し奨励すると同時に,課税対象としてもよく把握してい た。元代の商人としては,蒙古人,漢人(契丹・女真および華北の漢人),仁 人(即興以南の南挙人)および色目人があげられる。そのうち勢力最大であっ たのは色目人で,凡そ西域・欧州および海外諸国人を包括する。とくに政府の 10)五代晋の石敬塘が契丹に割いた幽・葡・蔽・莫・琢・檀・順・新・嬬・儒・武・ 雲・慮。爽・朔・蔚の16州。(現在,河北・山西両省の北部) 11) Aldo Ricci; The Travels of Marco Polo, translated into English from tbe Text of L F. Benedetto London,1931愛岩松男訳『東方見聞録』2,1971。
優待を受けたのは宗教人で,仏・道・キリスト・回・猶などの教徒を含む。回 教徒は最も多く,中国内地に雑居したが,商業経営にすぐれ,冒険精神に富ん でいた。ヨーロッパ人の元を訪れる者は,多くキリスト教徒で,布教と商取引 に従事した。マルコポーロ,オドリック,ペゴロッチ等はイタリア人で,帰国 後みな旅行記を著し,中国の社会・実業・風俗等を細かに報幽した。欧亜の通 商・交流の歴史はここに始まる。 元代の商税正課は1/30∼1/20とされたが,その徴収には承包(請負)の制度 が行われたことがある。天下の商税を1人の誌面(請負人,引受人)に任せた のである。契税は,田宅・奴碑・家畜の売買・入質に際し,官署に登録する時 に課税するもので,官から面諭を下付して買主の権利を保証したのである。 国営商業には,平準庫,回易庫,和動および市易司等があった。その他, 塩・鉄・酒・茶の急心の制は前代と同じである。平準庫は首都和林(カラコル ム)及び智計に置かれ,物価平衡の事を掌る。熟察庫は当路に11あり,市税の 幣畠諸物を掌る。嘉言は宋制に倣い,大都,諸路に行われたが,売価の不実や 吏弊があり,人民は損害を蒙った。市易司は仲買人を使って商人の貨物を計り, その1/40を取り,その6割を官に4割を仲買人に帰した。 元代の貨幣には銅銭・銀嶺・紗(紙幣)の3種があった。王朝末期(14世紀 半ころ)財政不足を補うため交紗を増発し,インフレに陥り,京師においては 紗十錠あっても粟一斗を得るを得ず,郡県はすべて実物を以って交易し公私所 有の紗は終に通用しなくなり,人民は紗を紙の如く扱った,という。
V エピローグ
すでに予定の紙数に達したようである。明・遼遠の市場経済については,稿 を改めて,じっくり吟味することとしたい。 さて,前節では,前漢後半から元代まで約1500年にわたって市場経済の消長 を通観したのであるが,その間,市場経済の展開は甚だ遅々として,一進一退 を繰返してきた感がある。 もともと,農業を基本とする経済構造の上に成り立った封建王朝による政治支配が一貫継続したのであるから,経済政策の基本として「抑商勧農」の理念 が金科玉条とされたことは首肯し得る。 この1500年間の歴史は,北方遊牧騎馬民族と南方定住農耕民族との対立抗争 に終始したとも見られる。大地に密着し,平和と安定を前提として成り立つ農 業社会のことであるから,戦斗能力においては,機動力と集中力に優れる騎馬 遊牧民族の敵ではなく,「中原」の専守防衛を基本方針としてきたのも,無理 からぬところである。たまたま前漢武帝期に,三三70年の経済的蓄積もあり, 武帝個人の雄材大略,皇帝の恣意を抑制し得ない封建官僚制度の欠陥など,多 くの要因が重なり,農耕民族としては空前絶後の積極的・先制的攻勢を仕掛 け,顕在的・潜在的脅威に対抗するため,相手の基地に攻撃を加えたのが,漠 北から西域へと戦線は拡大し,長期化した。それに伴い,軍事力増強を至上命 題として国家総動員一人も物も金も,漢民族の総力を投入する一が強行さ れたのである。農民も大きな負担を強いられ打撃を蒙ったが,それにも況して 商頁,商工業者は所得や財産に対する課税の強化だけではなく,その経済活動 そのものを禁じられてしまった一丁頁の一部門政府の経済政策要員に任命さ れたが一のである。春秋期以来,市場経済の勃興・発展につれて興起し,漢 初の経済自由化によって繁栄のピークに達した貨殖家たちは潰滅的打撃を蒙 り,再起不能の状態に陥ったのである。 このような,商工業者,産業界の蒙った直接的被害・打撃のみに止らない。 この時からあと,二千年にわたり,封建王朝の続く限り,いな,その後,ある いは現代に至るまで,後遺症は永く尾を引く。前節で見たように,後漢以後歴 朝の市場経済政策は「勧農抑商」をスP一ガンとし,武三期の政策は,しばし ば一とくに財政困難の場合に一先縦・模範とされてきた。例えば,唐の開 元元年,左拾遺劉彫(リュウトウ)の「論塩鉄上表」に曰く。 臣聞く,漢の孝武,政を為すや,竃馬(キュウバ)三十万,後宮数万人あり。外は… …費を揮(つく)すことの甚しき,当今に什百す。……故に先王の法を作るや,山海に 官あり,細読(グコウ,山林)に職あり,軽重:(ケイチョウ,貨幣と物価)に術あり, 禁発に時あり。一は則ち農を専らにし,二は則ち国を饒(ユタ)かにし民を済うの盛事
なり。臣,実に当今之を宜しと為す。(以下略) と。かくて, 「海内の塩鉄の課を検校せしむ」ということになる。 もう一つ例を挙げよう。『明史』食貨四「塩法」の条に 門門の利は歴代皆な官,之を領す…… とあり,政府が製塩の利益を独占した,すなわち専売法を実施したことは,前 漢武帝以来の伝統的な政策である,とする。 このような,典拠を史書に求め,自己の主張や政策を粉飾・美化するのは封 建社会における為政者・官僚の常套手段であると言えるが,一面から考える と,古い時代の歴史事実が後世に対して投影しているのであり,経済思想が後 々の時代にまで輩固な影響力を保持しているものと見ることができよう。 漢武以来の「勧農抑商」思想の影響力は,20世紀初頭,辛亥革命によって封 建帝制にピリオドが打たれた時点で消滅したであろうか。結論的に言えば,辛 亥革命以後においても,中国が農業社会である限り,この思想は人民の経済精 神の中に,顕在的または潜在的に生き続け’,中国の近代化,とくに経済の近代 化が押し進められる過程で,マイナス要因として作用して来たのではないか, と考える。 贅言かも知れないが,新しい時代の流通は,一方では人民大衆の購買力に応 じ積極的に新しい需要を創出・誘導し,他方,農業・工業に対しては,国内外 の需要にマヅチするように方向づけ,市場を確保・保証するなど,近代的分業 社会において社会的役割を果し,全体的な国民経済・社会の発展に寄与するも のであらねばならない。こうして,農・工・商・虞,それに諸々のサーヴィス 産業において活動する人々が,その社会的使命を自覚し,衿持をもってそれぞ れの役割を分担する,という方向に進むならば,中国経済の現代化は着実に進 展することになる,と思うのである。 1) 「唐会要」88塩鉄,「通典」10,「冊府元亀」493。