印度學佛敎學硏究第六十六巻第一号 平成二十九年十二月
中世根来寺における開版事業
赤
塚
祐
道
はじめに
根 来 寺 ︵大 伝 法 院︶ に お い て 開 版 さ れ た 版 本 を﹁根 来 版﹂ と呼 ぶ 1 。根来寺では中世から近世にかけて木版の開版事業を 行っており、現在も根来寺には江戸時代の版木が残されてい る。しかし、一般的に﹁根来版﹂といった場合、根来寺が最 も栄えた中世に開版された版本を指す。 根来寺は頼瑜およびその門弟によって多くの聖教が書写さ れ 学 山 と し て 繁 栄 し て い っ た。 そ の 中 で 必 要 と さ れ る 祖 典、 経 典 の 開 版 が 行 わ れ た が、 天 正 十 三 ︵一 五 八 五︶ 年、 秀 吉 の 紀州攻めにより多くの什物が灰燼に帰したこともあり、中世 根来版の現存数は少なく目にする機会はほとんどない。寺院 所蔵の根来版の研究としては水原堯榮氏の根来版の研究をは じ め と し、 金 剛 寺 ︵大 阪 府 河 内 長 野 市 2 ︶ お よ び 長 久 寺 ︵埼 玉 県 行 田 市 3 ︶ の 三 部 経 に 関 す る 報 告 が あ る が、 国 際 仏 教 学 大 学 院 大学の調査によって金剛寺より三部経のほかに﹃大日経住心 品﹄ ﹃住 心 品 疏﹄ が 見 つ か っ た の で あ ら た め て 根 来 版 を 整 理 し、 ﹃大日経住心品﹄ ﹃住心品疏﹄が根来開版事業においてど のように位置づけられるかを考えてみたい。資料
1.根来版一覧
年 代 書名 願主 永和 四 ︵一三七八︶ 年十一月 般若心経秘 快成 康暦 元 ︵一三七九︶ 年十月 即身成仏義 阿観 ︵無刊記︶ 声字実相義 ︵無刊記︶ 吽字義 康暦 二 ︵一三八〇︶ 年 ︵無刊記︶ 弁顕密二教論上 六月 弁顕密二教論下 阿観 ︵無刊記︶ 秘蔵宝鑰上 八月 秘蔵宝鑰中 阿観 ︵無刊記︶ 秘蔵宝鑰下中世根来寺における開版事業︵赤 塚︶ ︵無刊記︶ 菩提心論 永徳 元 ︵一三八一︶ 年七月 大乗起信論 阿観 応永二十一 ︵一四一四︶ 年十月 大日経疏巻一 恵淳 応永二十二 ︵一四一五︶ 年六月 大日経疏巻二 恵淳 ︵無刊記︶ 大日経住心品 ︵恵淳︶ 応永二十三 ︵一四一六︶ 年六月 大日経巻一 恵淳 応永二十三 ︵一四一六︶ 年八月 大日経巻二 恵淳 応永二十三 ︵一四一六︶ 年九月 大日経巻三 恵淳 応永二十三 ︵一四一六︶ 年十月 大日経巻四 恵淳 応永二十四 ︵一四一七︶ 年一月 大日経巻五 恵淳 応永二十四 ︵一四一七︶ 年三月 大日経巻六 恵淳 応永二十四 ︵一四一七︶ 年六月 大日経巻七 恵淳 応永二十四 ︵一四一七︶ 年六月 金剛頂経巻一 恵淳 応永二十四 ︵一四一七︶ 年八月 金剛頂経巻二 恵淳 応永二十四 ︵一四一七︶ 年十月 金剛頂経巻三 恵淳 応永二十五 ︵一四一八︶ 年二月 蘇悉地経巻上 恵淳 応永二十五 ︵一四一八︶ 年五月 蘇悉地経巻中 恵淳 応永二十五 ︵一四一八︶ 年八月 蘇悉地経巻下 恵淳 文安 四 ︵一四四七︶ 年十一月 悉曇字記 快宝 大永 五 ︵一五二五︶ 年四月 理趣経 盛算 永禄 五 ︵一五六二︶ 年六月 即身成仏義 實仙
一
十巻章の開版
根 来 版 の 開 版 事 業 は 永 和 四 ︵一 三 七 八︶ 年 の﹃秘 ﹄ を 最 古 と し、 永 禄 五 ︵一 五 六 二︶ 年 に 刊 行 さ れ た﹃即 身 義﹄ が 最 後とされ る 4 。全体的に見ると祖典と、いわゆる真言三部 経 5 の 出 版 が 行 わ れ た が、 ま ず 第 一 期 と し て は 永 和 四 ︵一 三 七 八︶ 年 か ら 永 徳 元 ︵一 三 八 一︶ 年 の 間 に 集 中 し て 開 版 さ れ た﹃秘 ﹄ ﹃即身義﹄ ﹃声字義﹄ ﹃吽字義﹄ ﹃二教論﹄ ﹃宝鑰﹄ ﹃起信論﹄ をあげることができる。 永 和 四 ︵一 三 七 八︶ 年 十 一 月 に、 権 現 の 威 光 を 増 し 弘 法 大 師 空 海 ︵七 七 四 ︱ 八 三 五︶ の 遺 恩 に 酬 い ん が た め に﹃秘 ﹄ の 永 代 の 模 板 を 開 い た と い う。 ﹁快 成﹂ に つ い て は 応 安 七 年 ︵一 三 七 四︶ に、 根 来 の 覚 鑁 の 伝 記 で あ る﹃高 野 山 大 伝 法 院 本 願霊瑞并寺家縁起﹄を編纂した﹁快成﹂ではないかと考えら れ て い る。 こ の 永 和 四 年 の﹃秘 ﹄ を 根 来 版 の 最 初 と す る が、何らかの形で﹁大伝法院﹂と記される他の根来版とは異 な り、 こ の 刊 記 だ け で は 根 来 版 で あ る と は 判 断 で き な い。 ﹃成 簣 堂 文 庫 善 本 書 目﹄ で は 高 野 版 と し て い る。 ま た 水 原 堯 榮は北朝元号を持つこの秘は高野版ではなく大伝法院によ る開版と位置づけてい る 6 。 さてこの﹃秘﹄に次いで、阿 観 7 によって開版された一連 の祖典類がある。阿観の名は ﹃即身義﹄ ﹃二教論﹄ ﹃宝鑰﹄ ﹃起中世根来寺における開版事業︵赤 塚︶ 信論﹄のそれぞれに確認することができる。字形はこの後に 登 場 す る 真 言 三 部 経 に 近 い 勢 い を 持 ち、 筆 の 入 り、 は ら い、 書体の角に高野版とは異なる鋭さを持つ。また無刊記ではあ るが成簣堂文庫に残る﹃吽字義﹄ ﹃声字義﹄ ﹃菩提心論﹄も同 じ字体であることから阿観によって同時期に開版されたもの と判断できる。 刊 記 を 見 る 限 り で は 康 暦 元 ︵一 三 七 九︶ 年 か ら 永 徳 元 ︵一 三 八 一︶ 年 の わ ず か な 間 に 空 海 の 撰 述 が 相 次 い で 版 行 さ れ ており、刊記が無いものがあるものの、阿観は﹁即声吽﹂の 三部の書の開版を手がかりに、いわゆる空海の十巻章の開版 を 進 め た も の と 考 え る こ と が で き る。 さ ら に 加 え る な ら ば ﹃即 身 義﹄ ﹃二 教 論﹄ ﹃宝 鑰﹄ の 三 本 の 年 代 を 考 え る と 十 巻 章 の順に沿って出版が進められたのではないかと考えることが できる。 永 徳 元 年 に は﹃起 信 論﹄ が 阿 観 に よ っ て 開 版 さ れ て い る。 ここまでは空海の十巻章の開版を目的としていたが、続けて ﹃起 信 論﹄ を 出 版 し 阿 観 に よ る 出 版 が 終 わ る。 そ の 後 は 応 永 の恵淳までしばらく時間が空くことになる。 所蔵先を見ると成簣堂文庫所蔵が目立つが、六地蔵寺にも 伝えられている。六地蔵寺は室町後期に活躍した恵渕、恵範 ︵一 四 六 二∼ 一 五 三 九︶ に よ っ て 多 く の 聖 教 が 蒐 集 さ れ、 根 来 寺での書写聖教を多く所蔵する。根来版も恵渕によって六地 蔵寺に伝えられた。
二
三部経の開版
第 二 期 に 相 当 す る の が 恵 淳 に よ る 開 版 で あ る。 ﹃大 日 経﹄ ﹃金 剛 頂 経﹄ ﹃蘇 悉 地 経﹄ と い っ た、 い わ ゆ る﹁真 言 三 部 経﹂ の開版を恵淳が担っている。三部経をめぐっては埼玉の長久 寺、大阪の金剛寺の報告があるが、国立国会図書館蔵の﹃大 日経﹄全七 巻 8 は、外題下に﹁祐乗﹂と記されており、ベルリ ン国立図書館蔵の﹃蘇悉地 経 9 ﹄と一具になるものであること がわかった。表紙の状態も共通している。なおベルリン国立 図書館蔵﹃蘇悉地経﹄下の奥書には﹁正長二年八月八日自十 輪寺賜三部秘経畢﹂と朱筆されており、本書が開版されて間 も な い 正 長 二 ︵一 四 二 九︶ 年 に 朱 書 き が 施 さ れ た こ と が わ か る。 なお、金剛寺本の三部経のうち、大日経には覚祐による朱 が 入 っ て お り、 巻 一 に は﹁應 永 卅 二 年 乙 巳 卯 月 十 四 日 傳 受 覚 祐 生年 卅二 ﹂、 巻 三 に は﹁ 乙 巳 奥 疏 傳 受 之 時 點 畢 主 覚 祐 之 也 卅 二 ﹂ と あ り、 同 寺 の 覚 暁 か ら 覚 祐 に 伝 え ら れ た﹃大 日 経 疏 聞 書﹄ にある識語と一致する。すなわち應永三十二年には根来版が 金剛寺に伝わっていたことを示している。 さて、これら三部経の開版に加えて、根来寺では﹃大日経 住心品﹄と﹃大日経住心品疏﹄の開版が行われていることが中世根来寺における開版事業︵赤 塚︶ 明 ら か と な っ た。 す で に﹃六 地 蔵 寺 善 本 叢 刊﹄ に﹃大 日 経 疏﹄巻二の零葉が確認されていたが、国際仏教学大学院大学 の金剛寺聖教調査により根来版の﹃大日経疏﹄巻一、巻二が 見つかった。これによりいわゆる住心品疏を開版したことが 判明した。これは三部経に先行するもので、十巻章に次いで 刊行されたものである。 ﹃大毘盧遮那成仏経疏巻第一﹄識語 為報四恩之廣徳守大師之遺誡/謹以開永代之印版矣 応永廿一年十月日大傳法法院恵淳 ︵墨筆︶ ﹁永正十三年三月廿八日/持主快真﹂ ﹃大毘盧遮那成仏経疏巻第二﹄識語 応永二十二年六月一日/大傳法院恵淳 また﹃大日経住心品﹄も金剛寺より見つかっている。恵淳 開版の三部経と比較すると同じ版のように見えるが住心品の みであり識語はない。しかし、三部経の大日経と比較したと き一見して同様の根来版であることがわかる。ただし詳細に 比較すると相違点も見られることから、住心品は三部経とは 別に開版されたものと考えられる。
三
﹃悉曇字記﹄
﹃理趣経﹄
﹃即身成仏義﹄
そ の 後、 第 三 期 に あ た る 期 間 に、 快 宝 が﹃悉 曇 字 記﹄ を、 盛算が﹃理趣経﹄を、実仙が﹃即身義﹄を開版する。すでに 十巻章や三部経などが存在していることから、学侶必携の書 に重きを置き開版されたのであろうか。また理趣経は上総の 清見によって根来寺にて開版されており、根来と東国との結 びつきを確認できる。結論
このようにして根来版が次々と開版されていったが、根来 寺の炎上とともに版木を失い、根来寺における出版は江戸時 代後期まで待たなくてはならなかった。現在、江戸時代の版 木が根来寺に保管されているが、新義に関する書は根来寺を 版元とするよりも書林版元の出版に任されるようになる。 最後に本論をまとめると次のことがいえよう。 まず﹃秘﹄が根来版であるかという問題。奥書からは判 断できないが、このあと阿観によって版行される十巻章に秘 が入っていないことを考えれば、これを除いて阿観が十巻 章を版行していったのではないかと考えることができる。 これら阿観による版行の特徴は十巻章の出版であった。そ の 出 版 の 順 も﹁即 声 吽 二 宝 菩 秘 ︵あ る い は 秘 菩︶ ﹂ と い う 順 に 沿ったものであったのではないかと考えられる。場合によっ ては康暦二年に秘の開版があったことも考えられる。 恵淳は真言三部経だけでなく、 ﹃住心品﹄ 、そして﹃住心品 疏﹄巻一、巻二というように所依の経典を開版した。中世根来寺における開版事業︵赤 塚︶ 根来版は現存数が限られていることからこれらを目にする ことは少ない。金剛寺より﹃住心品﹄や﹃住心品疏﹄が発見 されたことにより根来寺開版事業史にこれらを書き加えるこ とができた。 刊記がなくても阿観、恵淳に関する出版物はその字形より 根来版であろうことが類推できる。しかし、願主勧進ごとに 字形が異なることから、根来版と断定するには奥書が頼りと なる。 以上、中世根来寺における開版事業を考えてみたが、頼瑜 が根来に移った後、こうした活動が始まったのではないかと のもとで論を進めたが、発表において苫米地誠一先生より大 伝法院そのものの機能が高野山上に残っていた可能性につい て指摘があった。すると根来寺での開版事業は下ることにな る。それら根来と高野の大伝法院の機能、あるいは根来寺の 学侶の動向、所蔵寺院の学侶との関係などについては今後の 課題としたい。 1 水原[ 一九三二、二二九頁] 。 2 木村[ 二〇〇二] 。 3 有本[ 一九七七] 。 4 水原[ 一九三三] 。 5 天 台 で 円 仁 が﹃蘇 悉 地 経﹄ を 立 て 三 部 と し て い る が、 真 言 で は﹃大 日 経﹄ と﹃金 剛 頂 経﹄ を﹁両 部 大 経﹂ と 称 し 蘇 悉 地 を 立 て な い。 な お 法 然 が 浄 土 三 部 経 と い う 呼 称 を 使 い、 の ち に 真 言 で も 真 言 三 部 経、 秘 密 三 部 経、 あ る い は﹃瑜 伽 経﹄ 、﹃要 略 念 誦 経﹄ を 加 え 五 部 秘 経 と 称 す る よ う に な っ た。 恵 淳 の 出 版 事 業 が 三 部 ま と め て 行 わ れ て い る こ と に よ り こ こ で は﹁三 部 経﹂ と 呼 ぶことにする。 6 松本[ 二〇一六、三三頁] 。 7 水 原[ 一 九 三 三] は﹁刊 記 に 勧 進 阿 観 の 名 が 多 く 見 え る が、 河 内 天 野 山 金 剛 寺 の 中 興 阿 観 上 人 で は な か ろ う か﹂ と さ れ て い る が、 金 剛 寺 の 資 料 と 照 合 す れ ば 別 人 で あ る こ と は 明 ら か で あ る。 8 請求記号 W A3-16 。 9 ベルリン国立図書館東アジア部日本課 PPN 3323195922 。 ︿参考文献﹀ 有 本 修 一﹁行 田 市 長 久 寺 所 蔵 根 来 版 秘 密 三 部 経 に つ い て﹂ ﹃埼 玉県立博物館紀要﹄第三号、一九七七 木 村 英 一﹁大 阪 府 河 内 長 野 市 天 野 山 金 剛 寺 所 蔵 中 世 根 来 版 に つ い て﹂ ﹃新義真言教学の研究﹄大蔵出版、二〇〇二 松 本 照 敬﹃般 若 心 経 秘 ︱︱ 弘 法 大 師 に よ る 般 若 心 経 の 解 説﹄ 成 田山仏教研究所、二〇一六 水原堯栄﹃高野板之研究﹄森江書店、一九三二 水原堯栄﹁根来板﹂ ﹃書誌学﹄第一巻六号、一九三三 ︿キーワード﹀ 阿観、恵淳、十巻章、三部経、大伝法院 ︵新義真言宗徳蔵寺住職・博士︵文学︶ ︶