<劇的現実領域>の構造
著者 荒木 正純
雑誌名 静岡大学教養部研究報告. 人文科学篇
巻 13
ページ 79‑96
発行年 1978‑03‑20
出版者 静岡大学教養部
URL http://doi.org/10.14945/00008497
〈劇的現実領域〉の構造
(The Structure of Dramatic−Reality− Space)
荒 木 正 純
Masazumi ARAKI
(Received Oct.1,ユ977)
〈1)
ニーチェの『悲劇の誕生』に次のような表現が出てくる。
Bei dem h6chsten Leben dieser Traumwirklichkeit habe wir d◎ch n◎ch die durchschim.
merde Empfindung ihres Scheines:(夢の現実がそういうふうに生き生きとしているにも かかわらず,それでもやはりわれわれはなんとなくそれが仮象だというほのかな感じをまぬ
かれるわけにはいかない。>ii・1
この申で, Traumwirklichkeit (夢の現実)という表現は,われわれ日本人の感覚からすると奇 異であるような感じがする。〈夢〉とく現実〉とは対立する概念だと考えているからである。〈現
実〉という語はその歴史が浅く,古くから使用されていた語は,〈うつつ(現)〉である。その
意味を,『岩波古語辞典』では,〈《夢・架空の物語・死などに対して》現実〉と定義している。つまり,この定義のわかり方というものは,二項対立の二つの要素の一つAは他の要素Bと,
<Aはnon− B>という関係にあるというものである。
この Traumwirkiichkeit の他に Wirklichkeit des Traumes という表現がある。これに対 する言葉として,次の部分に見られる Tageswirklichkeit th ・ ある。
Die h6here Wahrheit, die Vollkommenheit dieser Zustande im Gegensatz zu der IUcken−
haft verstandl三chen Tageswirklichkeit,_(不完全にしか理解され得ないヨ常の現実と対照し
て,これちの状態のもつより高次の真実・完全性)
つまり, Wirklichkeit は日本語的な意味でのく現実〉ではないのであろう・と推測される。ちな みに Tageswirklichkeit は Wirklichkeit des Daseins とも表わされている。では,ニーチェは
Traumwirklichkeit と Tageswirklichkeit とをいかなる関係にとらえているのだろうか。
日本語の〈ゆめ(夢)〉は,本来〈いめ〉から由来し,くい〉は〈寝〉であり,〈め〉はく目〉
である。つま1) ,眠っている間に見るものとされていた。ちなみに,『岩波古語辞典』のくゆめ〉
の定義は,〈眠っている間に見る像〉である。
思ひつつ寝ればや人の見えつらむゆめと知りせばさめざらましを。(『古今集』552)
このくゆめ〉はその人の像のことである。しかし英語の dream はCODの説明によると
Vision, series of pictures or events, presented to sleeping person であり,一つのものの個々
の像だけを意味するものではない。ニーチェの Traum もこれと同様であるように思える。
㎞Traume traten zuerst, nach der Vo.rstellung des Lucretius,die herrlichen Gdtterge−
stalten v◎n die Seelen der Menschen, im Traume sah der grosse Bildner den entzUckenden
Gleiderbau樋ermensch蕪cher Wesen,_(ルクレティウスの考えによると,壮麗な神々の姿が 人間の魂にはじめて浮かんだのは,夢のなかにおいてであったというe偉大な彫刻家が超入 間的な存在の,うっとりするような肢体を見たのも夢においてであった……。)
〈夢の中〉とあるように〈夢〉は一つの世界をつくっていると見る方がわかりやすい。この
Traum は Traumwirklichkeit とも言われ Traumweit とも呼ばれる。アポロの神の導きで,われわれは睡眠中にく夢の世界〉〈夢の現実雰〉に入るというイメージである。これは
apolloRische Traumeinwirkung という言葉で表現されている。この Wirklichkeit において,
われわれが見るものは Traumbilde であり, Ulusion der Traumwelt である。それに対して,
われわれが覚醒時に住まう世界は, Wirklichkeit des Daseins , Tageswilklichkeit , Tag あ るいは, Wirklichkeit である。
こうした二つの世界 Wirklichkeit は,どのような構造をなしているのか。ニーチェは,「自 己批判の試み」の中で次のように述べている。
Bereits im Vorwort an Richard Wagner wird die kunst−und nicht die Moral−一一一一 als die eigentlich metaphysische Thatigkeit des Menschen hingestellt;im Buche selb$t kehrt der aRzUgliche Satz mehrfach wieder, dass nur als琶sthetisches Ph我nomen das Dasein der
Welt gerechtfertigt ist. in der That, das ganze Buch kennt nur einen KUnstler−一一Sinn
und−Hintersinn hinter allem Geschehen,_(すでにリヒァルト・ワーグナーにあてた序 言のなかで提唱されているように,人間の真に形而上学的な活動は芸術であって一道徳で はない。r世界の存在は美的現象としてのみ是認される」という認刺的な命題が本文にもなん どかくりかえされている。実際,この本全体は,いっさいの現象の背後に,芸術家的な心と 底意が働いているということしか知らないのである……)
この〈現象の背後〉で働いているく芸術家的な心と底意〉とは,〈真に実在する根源的一者>t「2と
も呼ばれている。このく根源的一者〉は,次のように述べられ説明されている。
,dass das Wahτhaft−Seie鷺de und Ur−Eine, als das ewig Leidende膿d Widerspruchsvolle,
zugleich die entzifckende Vision, den lustvollen Schein, zu seiner steten Er16sung braucht:
(真に実在する根源的一者は,永遠に悩める者,矛盾にみちた者として,自分をたえず救済す るために,同時に悦惚たる幻影,快感にみちた仮象を必要とする……〉
このく根源的一一者〉は,さちにく自然〉 Natur にも相当するのであるが,ここには〈二つの猛 烈な芸術衝動〉 jene allgewaltigen Kunsttriebe がある。そのうちの一つは〈アポロ的芸術衝動〉
であり,もう一つはくディオニュソス的芸術衝動〉ということになる。そして,この〈アポロ
的芸術衝動〉が満足されたときの状態が,〈夢の形象世界〉 die Bilderwelt des Traumes¥であり,〈ディオニュソス的芸術衝動〉が満足されると〈陶酔的現実〉 rauschvolle Wirklichkeit 「k3にな
るのである。これらの世界はどちぢも Wirklichkeit であって,つまりわれわれの現実界に他な
らない。しかし,この世界は,<仮象>iE4によって救済されたく根源的一者〉の表象であるのだか ら,〈神の永遠に変転する,永遠に新しい幻影〉 die ewig wechselnde, ewlg neue Vision des Leidendsten, Gegens巨tzlichsten, Widerspruchreichsten である。したがって,われわれ人間も〈幻影〉〈仮象〉に他ならない。この人間が,この世界にあるその他のもの,つまりこれも〈仮
象〉であるが,そうしたものを見ると,〈真実には存在しないもの〉( das WahrhafFNicht s−eiende )〈時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成〉( ein fortwahrendes Werden in Zeit, Raum und Causalit註t )〈経験的な現実〉( empirische Realit翫 )と感じるのである。この Wirklichkeitはショーペンハウエルがいうく個体化の原理〉( das principium individuati◎nis )
によってつくられたもので,〈論理的に筋の通った線や輪郭,色彩と配列〉 ぐelne logische
一80一
Ca穀sahtat der Lmien und Umrisse, Farben und GrupPen )をもっている。
〈仮象〉であるわれわれ,その Traumwirkl三chkeit は,では,どういう位置づけがなされて
いるのか。
SeheR wir aiso einma1 v◎n unsrer eignen,, Realitat f昼r einen Angenb玉ick ab, fassen wir
unser emplrisches Dasein, wie das der Wek Uberhaupt, als eine in jedem M◎ment erzeugte Vorstellung des Ur−Einen, so muss uns jetzt der Traum als der Schein des Scheins, somit als eine noch h6here Befriedigung der Urbegierde nach dem Schein hin gelten.(われわれが,実は仮象にすぎないわれわれ自身の「現実性」から一瞬,目をそらし,
われわれの経験的存在を,世界そのものの存在と同様,それぞれの瞬間において生みだされ た根源的一者の表象としてとちえるならば,夢は今や仮象の仮象と認められざるをえず,従っ て仮象を求める根源的欲求の,いっそう高次の満足と見なされねばなちぬのである。)
Traum は〈根源的一一者〉から見れば,われわれの・Wirklichkeit と同様やはりまた Wlτk−
lichkeit に他なちないのである。同時に,われわれの生存は Schein であるから,われわれ
の Schein である Traum は, Schein des Scheins になってくる。したがって,われわれの Sche冨を Wirkiickkeit と見るなち, Schein des Scheins である Traum は Wirklichkeit der Wirklichkeit に他ならなくなるはずだ。だかち,ニーチェのいうとおり,〈われわれのヨ常的現実が部分的にしか理解されないのにひきくらべ,夢や空想といった状態が,より高い真実 を持ち,完全である〉といえるのである。このTraumwirklichkeitは,人間の睡眠中に現われ ることはもちろん,覚醒時においても現われる。叙事詩入が目の前に描くく仮象の世界〉でも
ある。
では,〈陶酔的現実〉 die rauschvolle Wirklicnkeit はどういうものなのであろうか。これも
く根源的一者〉の〈芸術衝動〉の一つの〈救済〉の姿である。ニーチェはこういう。
,andererseits als rauchvolle Wirklichkeit, d三e wiederum des Einzelnen nicht achtet,
sondern sogar das Individuum zu vernichten und durch eine mystische Einheitsemp−
findung zu erl6sen sucht.(また陶酔的現実も個人には目もくれないのであって,むしろ個体
を無きものにして,神秘的な合一感によってこれを救済しようとするのである。)
この Wirklichkeit がいかなるものかは,われわれは〈陶酔の類推によって〉しか身近なものと
して知ることはできないのである。そして,現象としての現実を支配しているく個体化の原理 が破れると,人間の,否,自然の,最も内面の根底から,歓喜あるれる慌惚感がわきあがるも の〉であり,〈根拠の原理がその具体的な形態のどこかで例外をゆるすように見える場合,人間 はとつぜん現象界の認識形式に迷いをおぼえ,途方もない戦標的恐怖にとらえられる〉。その悦 惚感とこの戦傑的恐怖が結びつくと,〈ディオニュソス的なものの本質〉にふれることができる という。だから,個体化の原理に基づいて生成された〈仮象〉の人間が,〈ディオニュソス的な ものの魔力のもとで〉互いに結びあい,さらにく疎外され,敵視され,あるいは征服されてき た自然〉とも,和解する時,〈歌と踊りによって,人間はより高い共同体の一員であることを表 明し〉〈彼は歩むことや話すことを忘れてしまい,踊りながら空高く舞いあがろうとする。〉こ
の時,〈人間はもはや芸術家ではない。彼は芸術撮になってしまったのだ。すなわち,全自然の芸 術力は,ここに陶酔の戦標のもとに啓示され,根源的・一・¥liに最高の歓喜を与えるのである。〉ニーチェのく現実〉とく夢〉との概念は,こうした背景のもとに成立しているのであった。
しかし,その概念を支えている概念く根源的一者〉は,もはやわれわれのものではない。それ
は,歴史的に言えぱ,ショーペンハウエルの〈盲目的な生きんとする意志〉であり,カントで
いえばく物自体〉というところになる夢〈現象学〉〈実存哲学〉を経由したわれわれには,もは
やそれは詩入の直観であるとしかいいようがないのである。しかし,このニー一一チェの考え》ら 汲みとることのできるものはないか、、それは何にもまLて・〈夢〉もく覗実〉だという見方であ
る。
②
そもそも現代のわれわれは,〈夢〉とく現実〉という語を大へん安易に使いすぎているのでは
ないだろうか。国語辞典式に〈現実〉に定義を下すと,〈現に存在すること〉という具合になる。しかし,この定義の確かさを保証するものは何かと,つきつめていくと,結局く現に存在する〉
というわれわれのく現実感覚〉にいきつくのである。しかし,この最後のよりどころである現 実感覚は,完全に安定した基盤とはなりえず,むしろ不安定きわまりないものである。われわ れの意識生活をよく反省してみると〈現に存在する〉感覚は,そうたやすく確保できるもので ないことがわかる。一番確実にその感覚が得られるときは,皮肉なことに,その感覚の主体で あるわれわれが,自己についての意識を持っていないときであるように思える。あるいは,対 象の〈存在〉を意識しないときなのではないだろうか。ひとたび,自己の,そうした対象の〈存
在〉を見つめ直すとき,〈現実感覚〉はたちまちのうちに消えていってしまうのである。つまり,もろもろの対象の存在意識を持たずに,活動している時にわれわれ人間は一番存在的なのであ
る。もっとも,英語の actual はラテン語で actualis であり, active (〈活動的である〉)をも 意味した。われわれの書語生活において,われわれの意識に〈夢〉〈現実〉が妙な形で浮んでくることが ある。たとえば,ある事柄が夢ではないと主張するとき,〈現実〉はわれわれの意識にのぼる。
それらは,われわれの使用する雷語体系のある特定の要素の結合による圧力を受けて,特定の 言褒を他の社会の成員に認めさせなくてはならなくなった時に使用される一一一Ptのレトリックと
して現われるのである。したがって,英語では in reality や really がそういう現場に使用され
てくる。
また〈夢〉についてもこれと同様のことが言える。フロイトのく夢〉の理論をまつまでもな く,〈夢〉がわれわれの生に,〈現実〉の生活に大きな影響を及ぼしていることはよく知られた ことがらである。しかし,われわれがく夢〉ということを意識する時,それは特定の事柄を消 極化したり,また逆に理想化したりするために,いわばレトリックとして,使用することが多 いようである。たとえば,rそれは夢のようにたわいもないことだ」とよくわれわれはロにする。
また,「夢のように美しかった」のように現実否定のために使うこともある。このように,〈夢〉
とく現実〉という醤葉を,あるいはそれぞれの類語は,われわれの雷語生活を反省してみると,
専ち副詞的に使用されているような気がするのである。そこで,〈根源的一者〉すら持てなくなっ たわれわれは,ニーチェの考え方もふまえ,もう一度この二つの語にまつわる概念をとらえ直
してみなくてはならない。その上で、本論の目的である〈劇的世界〉の構造分析をはじめたいe
(3)わたしは友人Aを目の前に想像する。彼は椅子に座って,足を組んでコーヒーをすすってい る。その目は,どこか遠い所を見ているようだ。これはわたしの想像であって,この行為は特 定の時間・空間の領域でわたしが行なうことである。つまり,わたしの生の一一Wt片がその行為 である。この行為は,わたしにとって生そのものである。こうした状況に対して,一般的な言 い方をすれば,想像されたAは〈現実〉ではなく<幻像〉であって,わたしだけがく現実〉で あるということになる。しかし,このような書いかたは余りにもお手軽な分析である。たしか に,この分析も,一つの分析の方法として存在可能であり,その有効領域もたしかにある。し かし,この分析は先に見たとおり,やはリレトリック的な臭いがする。もちろん,わたしがAを
一82−一
想像するのは,サルトルの指摘にもあるように,わたしがAはそこにいないと知っているから である。しかし,その意識も,わたしにとって〈Aが現に存在しない〉ということが,一つの 生にとっての問題にならない以上,どうでもいいのである。たとえば,彼に話をして,実際に 彼の肉声で答えが得たいというのでなければ,彼が〈現に存在している〉ことも〈現に存在し ていない〉こともわたしにとってどうでもいいことなのであるvつまり,〈現実〉だとか〈夢〉
ないし〈虚像〉だとかは,どうでもいいことがらなのである。しかし,この状態にあって,わ
たしは一一一SEの了解のもとに生きているeすなわち,〈想像〉しているという了解である。さらに,想像された友人Aと想像するわたしを二つの領域に分けることは決してできること ではない。友入Aとわたしとは,わたしの〈想像〉行為を契機として互いに結びついて一体と なっているからである、想像されたAはわたしの投影だといわないまでも,わたしが存在しな ければそもそも存在しない。いや,少なくともその時の像としてのAはわたしが〈想像〉しな ければ存在しない。しかも,そのわたしとは一定の時聞と空聞とに投企されている。また逆に,
そうした時間・空間の領域では,その友人Aはわたしにとって不可欠なものであるeそもそも,
Aがその領域に現われるのでなければ,その領域の特殊性はなくなってしまい,そうした特殊 な存在の仕方をしているわたしもなくなってしまうのである。したがって,友人Aをく夢〉な いしく虚像〉とし,わたしを〈現実〉だと分類してしまうことは,こうした領域の特殊性を破 壊し,生きた領域として見るのではなく,死せる領域として物化させることになる。わたしは,
その特殊な領域しかも生きている領域の本質的な一部であり,これと全く同じ意味で,友人 Aもこの領域の本質的な一部である。もし,わたしをく現実〉と呼ぶなち,友人Aは〈現に存 在するもの〉として〈現実〉となる。
友人Aが椅子にこしかけ,足を組んでコーヒーをすすっている。この状況が現実であるとす る。(このいい方は一つのレトリックに他ならない。)これは瀧の状況とどうかかわりあうのだ ろうか。わたしは,Aを知覚するためにいやAを自分の目の前に存在させるには,想像する必 要は全くなく,ただまなざしをAの方向に向けさえすればよい。しかし,このAが全くわたし の関心を引きつけないなち,たとえばわたしが本を読むことに夢中になっているときには,そ のわたしにはAの存在は何ら意味をもたないのである。〈現に存在する〉という意識がもてない
のである。とするなら,そのわたしにとってAは〈現実〉でないことになろう。〈夢〉でもない。たしかに,Aとわたしとは一つの部屋にいて,一定の時間の流れの中にいる。しかし, Aはわ たしにとって何ら現実的ではない。この意味では,〈夢〉の方が現実的である。なぜなら,夢の 対象はわたしにとって重要な意味をもつからである。
想像されたAとわたしとが生きている領域には,〈想像〉ということにまつわる了解があった。
それと同じように,この場合にも一定の了解がなくてはならない。まなざしを向ければ,そこ にAがいて,話しかければ肉声の答えがかえってくる,という了解である。こうした了解のも
とにAとわたしは・一定の領域内に住まっているのであって,だからこそわたしはAを意識しな い。しかしそうだからといって,Aは全くわたしの生にとって不必要な存在かというと,そう ではないだろう。Aはわたしの生きているこの領域にとって,不可欠なものである。 Aがいな ければ,そのわたLの特殊な生き方は,とうていありえないからだ。つまり,意識的なまなざ
しを受けないAといえど,わたしの生と切りはなすわけにはいかないのである。
こうした事情から,〈現実〉とはく時問・空間によって規定されたわれわれの生きる場〉だと 規定することができよう。ある一定の行為をしてわれわれが生きる場である。想像したAのい
る場は,〈想像〉によってわれわれが生きている場であり,後の場合は,Aに対して〈意識しな
い〉ことによって,われわれが生きている場である。また,もしAにまなざしを向ければ,A
をく見て〉わたしが生きる場となる。
〈思いつっ寝ればや入の見えつらむゆめと知りせばさめざらましを〉という『古今集曇の歌 にあるとおり,〈ゆめ〉がくゆめ〉と知ちれるのは,〈さめた〉ときである。睡眠申に見ている
くゆめ〉は,〈睡眠〉という行為で一定の領域に生きるわれわれにとって,〈ゆめ〉ではないの であるeその領域にあっては,その〈人〉はそういう形でしかく現実〉とはなちないのである。
この場合のくゆめ〉とは先に見たとおり,〈像〉である。ニーチェの Traum の概念,英語の dream の概念,つまり一つの領域という考えからいえば,その一定の領域を〈夢〉と呼んでも さしつかえない。しかし,ニーチェ的な意味合いと異なるが,あくまでこの領域は,一つの
Wirklichkeit である。そして,この領域内にわれわれが生きるとき,古語的な使い方のくゆめ〉
は決して虚像にはなってこない。眠りかちさめて,つまり異領域に生きてはじめて,その前の 領域のその像はくゆめ〉であったことになるのである。そして,この新しい領域は,前の領域 を〈思う〉ことでわれわれが生きる領域となるeそう〈思う〉ことは,つまり,あの像をくゆ め〉と〈思う〉ことは,〈さめざらましを〉という気持を引き出すレトリゥクとして働いている。
そして,いかに〈人〉にわたしが執着しているかを示すものでもある。
われわれの生は,シェペンハウエルのく個別化の原理〉〈根本化の原理〉に従うのであり,決 して抽象的な生ではない。具体的・特殊な生である。つまり,何らかの〈現実領域〉での生し かありえないのである。ここで,フッサールの言葉である〈意識は必ず何かについての意識で
ある〉が思い出される。(4>
われわれは,舞台は〈夢〉の世界であり,観客席がく現実〉の世界であると,安直な見方を してしまう。しかし,これまでみてきた通りにく夢〉と〈現実〉とはこうした関係でとらえら れるものではないeでは,舞台と観客の関係はいかなるもので,劇場とはいかなる構造のもと に成り立っている世界なのであろうか。
英語に stage convention という専門用語がある。この conventien という言葉の概念は,劇
場という世界の構造をまことにうまく説明しているように思える。 conventien は辞典的にそ
の意味を示せば次のようになる。
−より々りσ
4P◎〔正式の〕集会,〔政治的・宗教的〕代表者会議 協約,協定
a)(世間一般の〕慣例,しきたり b)因習尊重
c)(芸術の〕しきたり,約束事;(トランプの)約束事
〔非公式な〕集会
〔政党の〕全国大会
c◎nvention のラテン語は conventiδnem であって, assembly と agreement の意味を もっていた。動詞形としては c◎nvenir で, con− は tcgether を ・−venir は c◎me という意 味である。したがって, c◎nveRtion とは,もともと具体的な空間的場に come t◎gether する
ことであったと思われる。この場合に convenir は assemble という意味になり,そこから派 生する意味は,1),4),5)である。それに対して具体的な論点に come together するので あれば, agree ということになって,ここから2>,3)の各意味が派生してくる。 stage convention の意味する内容は,したがって一定の方式というく場〉に関係者が c◎me together
←agree) することになる。しかし〈劇場〉そのものも一種の con▽ention の〈場〉であること がわかる。つまり劇を行なう特定のく場〉に人々が come t◎gether するのである。しかも,皆
一一
W4−一
が一定の方式に cQme t◎gether することでその空間的〈場〉に come together するのである。
conventi◎n の意味1)にあるく宗教的代表者会議〉というのは,劇が祭式から発達したという
仮説を思い出すと興味深い符合であるDただ偶然に人々が come together したのでは
convention とはいえないのである。〈正式〉という言葉は, come together する人々が一定の
了解のもとに,一定の目的をもって集まるということを示しているのであろう。
このように,劇場という〈場〉は,人々が〈芝居を見る>gi6という一定の目的をもって come t◎gether する場所である。こういう理解のもとでいえば,われわれ観客は芝居を見る,もっと 正確には舞台を,もっと正確には役者を見てその領域のなかで生きるのである。役者は,われ われ観客と全く同じ生きている現実であるのだから,舞台が〈夢〉の世界だという必要は全く ない。まして,役者が虚像などだという必要はない。役者は役者で,〈見ちれる〉ことで,つま
り〈演じる〉ことでその領域内で生きているのである。その行為を契機として彼もしくは彼女 の現実が展開していくのだ。したがって,観客の側に展開する〈現実領域〉と,役者の側に展 開する〈現実領域〉とは異質のものになることだろう。観客の中でも個人一人一人に,異なっ たく現実領域〉が展開するだろう。しかし,それらは類型的である。また,役者間にあっても,
個入一人一人,及び役柄の相違によってもその〈現実領域〉は異なるだろうが,やはりそれぞ
れは類型的である。先に,想像されたAのいるく現実領域〉は,一定の了解のもとで展開されると述べたが,こ の了解というのは今述べた convention に相当するだろう。すると,われわれのいわゆる実生 活も,一定の c◎nvention のもとで営まれていることがわかる。われわれは会社や学校や病院
や駅やその他の場所に come together する。そして,そこでは一定の stage c◎nvention に相当するものがある。また,自分の部屋では,本と机とペンとスタンド,その他のものと come
together する。また,友人を想像するとき,その友人のイメージと come togeとher する。また,われわれがある特定のものをく本〉であると認識するとき,〈日記〉と思わないのは,その
対象との一一定の領域内で come together する方式が一定しているかちである。つまり,一つのく慣例〉が成立しているからだ。こうした〈慣例〉がわれわれとの間に成立している対象は,
convenient (手ごろな〉ものということになる。そして,こうした〈慣例〉で埋れた生活は,
あるいは行動は c◎nventional (慣習的な)ものといわれる。
たしかに,劇場はtうした cenventional なE常生活に比べれば, convenient (近い)な場と はいえない。しかし,その基本的構造は,何らかわるところはなく,それなりの convention を
そなえたく現実領域〉に他ならないのである。こうした〈領域〉を仮にく劇的現実領域〉と名 づけておく。では観客の側に立ち現われてくる類型としてのく劇的現実領域〉とはどのような
構造をしているのであろうか。⑤
われわれは前に,このく現実領域〉は〈役者を見ることを契機としている現実領域〉だと述 べたが,この分析は正確といえないだろう。なぜなら,〈劇的現実領域〉が,その講造の点で歴
史の流れにそって変化してきているからである。つまり,〈劇的現実領域〉における convention が変化しているのである。その〈場〉に come t◎gether する人々の了解事項に変化があった。たとえば,歴史の上で,観客が一種の役者として役割を果すく現実領域〉があった。その場合,
観客の〈現実領域〉は〈見る〉〈演じる〉という行為を契機として現われてきたはずである。
ニーチェは『悲劇の誕生』のなかで,悲劇の源は合唱団にあるとしてこう説明している。
古代の伝承がきわめてはっきりわれわれに伝えていることは,悲劇が悲劇の合唱団から発生
したものであること,もともと悲劇は合唱団にすぎなかったのであり,合唱団以外のなにも
のでもなかったということだ。
ニーチェはこの立場から,つまり悲劇合唱団を,〈本来の原始演劇〉として,A. W.シュレー一
ゲルの〈理想的観客論〉,すなわち合唱団をく観客群の精ee ・真髄〉と見る立場を紹介して,〈悲劇の原始的形態であった舞台のない合唱団そのものと,理想的観客の例の合唱団とは両立しな い〉として否定する。その理由に,〈観客という概念をもとにして,「観客それ自身」が,その本 来の形式だというような種類の芸術とは,いったいどういう芸術だろう。演劇のない観客など
というのは矛肩概念だ〉ということを挙げている。さらに二・一チェは,シラーの見解を価値あ る洞察として次のように説明している。つまり,〈彼(シラー〉は合唱団を,悲劇が現実の世界 ときっぱり隔絶できるように,そして悲劇特有の理想的領域とその詩的自由を確保するために,
悲劇のまわりに引きめぐらされた生きた城壁だと見ている〉という。この戦略は,〈芸術におけ るあちゆる自然主義に対し,真正面きって公然と宣戦布告す決定的処置〉であった。このシラー のく理想的領域〉という考えを受けて,ニーチェは自らの説を述べる。
原始悲劇の合唱団,・ギリシアのサチュロス合唱団が,そこで行ったり来たりするのを鴬と する場所は,シラーが正しく見ぬいているように,もちろんr理想的な」領分である。普通 の人間が往来する現実の道とは一段高い場所なのだ。…一これは,オ1」ユンボス山とそこに 住む神々が,信心深いギリシア人に対して持っていたと同様な現実性と信仰するにたる確実 性をそなえた世界だったのだ。ディオニュソス合唱団員としてのサチュロスの生きている世 界は,神詣と礼拝によって浄められた,宗教的に認められた現実の世界であった。
このような〈現実〉に生きるサチュロスに,ギリシア人はく認識の手のまだ加わっていない自 然文化の閂がそこではまだ破ちれていない自然〉を見た。彼らにとって,サチュロスは〈神の 側近であることによって狂喜する感激した熱狂者であり,神の苦悩をくりかえす身として苦し みを共にする仲間であり,自然の胸底からの知恵を告知する者であり〉〈神々しく崇高なもの〉
であった。こうしたく気分と悟りのうちに,ディオニュソスの従者たちの熱狂的群衆は歓声を はりあげるのだ。その気分と悟りの威力は,たちどころに彼ら自身を変貌させるeその結果彼
ちは,自分たちこそ再生した自然の精霊,サチュロスであると思うのだ。〉齪このように合唱団員 はまずサチュロスを演ずる役者であった。そして〈悲劇合唱団の後世の組織は,あの自然的現
象の芸術的模倣〉だという。ではサチュロス合唱団とその観客とはいかなる関係にあったとするのか。〈ギリシア人はわれ われの意味での観客というものを知らなかった〉。それは〈ディオニュソス的観衆とディオニュ
ソス的に神がかりした者たちを区別する必要があった〉が,〈アッティカ悲劇の観衆が合唱席で 踊りながら歌う合唱団のうちに,自分たち自身を再発見した〉,つまり〈すべては一つになって,
崇高な一一大合唱団になって〉〈踊りながら歌うサチュロスたち〉(合唱団)とくこのサチュPス たちを身がわりとしている人R>(観衆)〈とのあいだに区別がなかったから〉〈けっきょく観衆 と合唱団の対立はなかった〉からである。この意味で,あのシュレーゲルのことばは一段と深 い意味に解明され,〈合唱団は実は「理想的観客」なのだ〉という。そしてこの「理想的観客」
のサチュロス合唱団をまのあたりにして,観衆は〈愚かれた神がかりの状態において,ディオ ニュソス的熱狂者〉となり,〈自分をサチュロスと見,そして神を見るのである。〉つまり,ギ
リシア悲劇の合唱団は,〈ディオニュソス的興奮におちいった全群集の象徴〉になる。このよう に,観衆と呼ぶにふさわしい観客は一種の役者的な役割を担っていたのである。
観客が役者としてく劇的現実領域〉で機能を果すという例が,もっとわかりやすい形で存在 している。それは,たとえば中世に於けるく奇蹟劇〉(Mystery>の中に見られる。Anne Righter
はその著書,ShahesPeare and the ldea of lhe Play ta8の中で次のように述べている。一一
W6−一
瀧has always been P◎ssible for peoPle watching a Mystery play to recognize Christ on
the Cr◎ss as the local c◎bbler and still believe that they are witnessing the actual Cruci−
fixion of the S◎n of God、
申世の観客はキリストの役を演じている者が誰であるかがわかるのであるが,それでもまのあ たりにしているのはキリストその人であると信じるのである。この状況は,いかなる機構によっ
て可能になるのであろうか。ライターは,劇そのものにそうしたidentif三cati◎nを可能にする仕 組があったのだ,という。The identity◎f the audience with lts part was the unque$tioned, essential fact of medie−
val religious(☆a【na. Every moment of the Mystery cycle was designed to affirm the
theological involvement ef Mankind with the events represe就ed on the stage, to render each spectator vividly aware of his mheritance Qf giult and p◎ssiblllity of his redemption by stress鎗墓his participati◎rt血the most signif1cant moments of Biblical history.
奇蹟劇の中で,たとえばキリストは観客に向って,観客を Mankind にしたてて,語りかける。
その役割を観客は否応なしに果さねばならないのである。しかも,目の前でく聖書的歴史の重 大な瞬間〉がくりひろげられ,これに参加することによって自分自身の罪が消えるという信仰 のもとで,観客は進んでその役を演じたというのだ。このような有様は,儀式に他ならず,奇
蹟劇は儀式である。目の前でくりひろげられる儀式は,歴史的一一一時期の再現ではなく,その歴 史的一時期そのものに化すのである。そこに成立するく劇的現実領域〉は,そうした convention を持って成立している。さらに,奇蹟劇の特色として, extra−draamatic address はないという。たとえば,エリザベス朝の劇では,プロP一グやエピローグ,舞台に一人いる道化,時々なさ
れる道徳的訓戒や傍白という形式で,その extra−dramatic address はなされた。こうしたものはく通常,幻想をこわすのに役立つ〉ものであって,観客の同化を防げるものである。ところ が,奇蹟劇には存在していない。それは,使用する必要のないような構造が上述のようにしつ らえられていたかちである。そして,Mankindの役を演じる観客は,偶然に集った群集として でなく,たとえば予言を聞くためとか,布告を聞くためとか,あるいは処刑を見るためとかの 現実的理由のために自然に集まった群集とされることがしばしばあったという。たとえば,十 字架にかかるキリストは,ゴルゴタの丘に集まったその死の責任を負うべき見物人に語るとと もに14世紀のキリスト教徒にも語ることになる。また,観客はMankindの役を演じるだけで
なく,Herod, Pilate, Caiaphas, Pharaohが語る時には,下臣にもなった。このようにして,この〈劇的現実領域〉には後世の意味での舞台と観客との垂離はない。観客は目の前にキリスト の幻像を見ているのではない。キリストそのものを見ているのだ。具体的なく現実領域〉にい るキリストである。彼らは夢の中で遊ぶのでもない。〈劇的現実領域〉の中で生きるのである。
彼らは過去の歴史の中に生きるのではなく,あくまでく現在〉に生きているのである。こうい
う生き方をするために,そのく領域〉に, come togeもher したのである。だからこそ,群集の中で,ディオニュソス的陶酔に陥った者が,パジェントにかけ上ったりするのである。もちろ ん,歴史的事実として,過去にそれに類した場面でかかる行為が行なわれたからそうするので はない。もしその当人が現実にキリストの処刑に立ち会ったとしたら,そのような行為をする かどうかは保証の限りではない。〈現実領域〉が全く異なるのである。二つの領域での人々の
come togeもher の仕方が異なるのである。ひょっとすると,その観客にとって,舞台へかけ上 ることが彼自身にとって,彼だけの conventi◎n なのかもしれないe⑥
こうした役者としての観客は,次第にく演ずる〉という行為をその歴史の進展に伴って捨て
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ていくことになる。つまり,〈演ずる〉〈見る〉という行為を契機に彼が生きるく現実領域〉か ち,〈見る〉という行為だけを契機とする〈現実領域〉への移行があったeもっともこれは,類 型的な〈劇的硯実領域〉なのであって,特殊なく劇的現実領域〉にあっては,依然としてく演 ずる〉という行為が契機となっていたかも知れなV㌔
この例はギリシア悲劇の変化の過程にも当然見られるものであって,ニーチェは『悲劇の誕 生麟の中でこう述べている。
舞台の本来の主人公であり,まぼろしの中心点であるディオエユソスは,以上のような見 方に従えぱ,また伝承に従っても,最初は,悲劇の最古の時代には,実際には存在せず,た だ存在するものと考えられていたにすぎない。つまり起源的には悲劇は「合唱」のみであっ て,「劇」ではなかったのである。のちに,この神を現実に存在するものとして示し,そのま ぼろしの姿を聖化する額縁とともに,誰の目にも見えるようにあらわそうとする試みがなさ れるようになる。ここに狭い意味の「劇ゴがはじまるのである。今や酒神賛歌を歌う合唱団 は,新しい任務を持つようになる。悲劇の主人公が舞台にあらわれた時に,観衆がぶかっこ うな仮面をつけた人間などをそこに見ないで,いわば彼ち自身の慌惚から生まれたまぼろし の姿を見るように,観衆の気分をディオニュソス的興奮にかりたてることである。
つまり,合唱団は,一一Ptのアジテイターとしての役割を超いだしたのである。そのような合唱 団はもはや観客の象徴として位置づけることはできない。一つの機能に変貌したのである。こ こにいたって,合唱団は観客と遊離しはじめるといってよい。主人公はく誰の昌にも見えるよ うにあらわ〉された。したがって,観客は〈見る〉ことだけを契機として〈劇的現実領域〉に 生きることになるのである。もはや観客は,自ちサチュロスに変貌することはなくなったので ある。たとえば,『オイディプス王』の最後に次のコロスのセリフがある。
コロス おお,わがテー・一一バイが国の住人よ,見よ,これこそオイディプス,
名高きかの迷を知り,勢い並ぶ者とてなく,
その運勢は町人のみなうらやみ見しところ,
されど,見よ,今や.いかなる非運の浪に襲われしかを警9
こうした,観客のく劇的現実領域〉での契機としての行為からく演ずる〉ことが脱落してい く過程は,同様に奇蹟劇から道徳劇への移行の過程にも見ちれる。前掲書の中で,アン・ライ ターはこの過程を詳細にたどっている。その説明を踏まえて述べるとこうなるだろう。この移 行の時期は,イギリスの劇の歴史の中では道徳劇が現われてきた時代にあたる。それ以前の奇 蹟劇は〈絶対者に対して鏡をかかげた〉ものであった。その中にあって,前述のとおり,観客 は役者としてもそのドラマの必須な一構成員であった。彼の担う役は,歴史上の一時期に立ち 会うという形がとられた。近代劇で,舞台上で役者が対話するように,舞台の役者が実際に観 客である役者に直接語った。舞台上の語りかける役者が・キリストである時には,観客席の役者
はMankindとなり,たとえばゴルゴタの丘に集った見物人となった。 Her◎d, Pilate, Caria−
phas, Pharaohとして舞台かち役者が語れば,観客席の役者は下臣ないし地位の低い者たちに
なった。この舞台上の役者が観客席の役者に語るセリフは, extra−dramatic address という工 夫ではなく,自然な形の speech であった。こうしたく劇的現実領域〉を構成していた奇蹟劇に対して,道徳劇は〈その時代の観客に向 けて鏡をかかげた〉のである。つまり,観客の現実生活を映すことが国的とされた。観客が立
ち会うのは,過去の一時期ではなく,現在ということになる。そうした現実反映の劇は,この 悪しき誘惑の多い世界をいかに正しく生きるか,こういう教訓を与えるという目的を持ってい た。したがって,舞台に登場する人物の住む世界は,日鴬生活の延長ということになる。その
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意味で,観客は舞台の人物と容易に同化できる状態にあったe実際,観客はMankindの役を演 じ,舞台上にいるMankindと同一化できるように工夫されたものもあったが,これは道徳劇と しては初期のもので,その藩の奇蹟劇に影響されていたのである。しかし,こうした工夫はあっ ても,道徳劇の姓質上,観客は〈劇の真中にいると同時に,ちょっと外側にいなくてはならな い〉。なぜなら,たとえば,観客はSinのfamillarsであるMani〈indとして,劇の一貝になちな
くてはならず,それと同時に舞台を批判的に眺めるために,主人公の受苦を外側かち眺める必 要が生じてくるかちである。そういう位置に身をおいて,教訓を得るのである。そして,この
教訓を与える工夫として,道徳劇は,奇蹟劇とは異なり, extra−dごamatic ad(iress を使用したのである。この時,すでに観客は役者ではなくなり,〈見る〉観客となってしまった。かくして
く宗教劇にはなかった障壁が今や観客のいる場所と劇の世界を分けた〉のである。
この〈劇的現実領域〉が意識の上で分かれたことについて,ライターはこういう。
The people wh◎crowded about the pageant cars to witness the Crucifixi◎n,or the rais・
ing of Lazarus, had always been taught t◎ass◎ciate illusi◎n with their own live§and reality with the drama unf◎1ding before them. M◎rality writers reversed this relationship.
As a group of en難墓htened Christians, the audience itself assumed pessession◎f reality,
while i1玉usl◎n and imperfection became the pr◎perty of the stage.
奇蹟劇の観客の〈劇的現実領域〉は,役者として彼自身生きる領域だったので,舞台と観客席 という区別は無意味であり,むしろ自分のいる所も舞台であった。だから,舞台が reality だ
というのなら自分のいる所も reality である。 illusi◎n であるのは〈劇的現実領域〉には存在せず,それはいわば〈日常的現実領域〉のことである。ところが,道徳劇の観客のく劇的現実領
域〉は,舞台と観客席が分離したのだかち,舞台が iliusion だとすれば,当然自分のいる所がreality であることになる。つまり,〈劇的現実領域〉に二つの世界があったことになる。この
ことは,われわれの〈劇的現実領域〉の理論とは相入れない見方であるように見える。しかし,
ここでこの例を挙げたのは,当時の意識の有様を知るためであって,〈劇的世界〉の構造を解明
するためではない。当然, reality と腿uslon という用語の概念が問題になり,ここで使われている概念と,われわれの使う概念とは異なるのである。これらの用語は,ライターによれば,
宗教的意味で使われている。
It←the wQrld through which Everyman, or Mankaind, made his hesitant, erring way>
was illusory only because it was incomplete and false, obscured by the deceits and disguises・f the Enemy。f Man・The・eality ass。ciated with tpe spectat・rs was simply a
result◎f their temporary elevation abOve this misleading, treacherous .三enVironment.
したがって,観客の{reality も彼が〈H常的現実領域〉に行けS#i illusion となる。なぜなら,
舞台はその〈日常的現実領域〉の反映だかちだ。この点で,つまり〈日常的現実領域〉が illusion
という意味で,奇蹟劇の観客の生活も道徳劇の観客の生活もなんらかわらないのである。した
がって,ライターの表現を批判するなら,〈Morality writers reversed this relationship.〉というのは正しくない。道徳劇の作者たちは,〈劇的現実領域〉を二つに分離し,つまり舞台と観客席
とに分離し,舞台を illusion としたのである。つまり,〈劇的現実領域〉に illusion とする要
素を入れたのである。それは,鏡を絶対者にではなく,観客の日常生活に向けてかかげたから
である。
道徳劇はチュー一ダー朝,エリザベス朝に至って, banqueting−hall を劇場とするようになり,
娯楽的要素が強くなっていったという。この時代になると劇の二重構造は明瞭になった。前述
の通り,その一一つは観客をMankindとする伝統的な態度, you f◎r to heip という目的で,神一一 @89一
の祝福を願い,敬慶な態度と礼節について説くのである。それと同時に, Mankind◎n the
stage は M融nkind lnぬe audience1の代役だとは見なされなくなった。チューダー朝においては,内容として扱う範囲が狭くなり,人間生活の特定の段階,あるいは人問の一つの罪がその 対象になった。そこに出てくる中心的な登場人物は社会に一定の地位を持ち,色々な性格と弱
点をもつようにもなった。こうなると,登場入物は symb◎1 というより individua1 へと変化したことになり,かかる登場人物は観客全体の代表というわけにはいかなくなる。このようにし て,内容的にも形式的にも観客は役者としてく劇的現実領域〉で機能を果すわけにはいかなく なってしまった。つまり,観客は〈劇的現実領域〉で,〈見る〉行為を契機として生きざるを得
なくなっていった。(7)
これまで,われわれは〈劇的現実領域〉で観客はその最初の形態として,〈見る〉〈演じる〉
という行為を契機に生き,次第にく演じる〉という行為が欠落してきたことを見てきた。しか し,これだけではく劇的現実領域〉の分析としては正確ではない。一つの要素を,しかも通常 看過されやすい要素を述べていないのである。パントマイムを除けば,〈劇的現実領域〉には誉 語が現象する。つまり,役者は言葉を発するのである。それに対して,観客はく聴く〉という 反慈を示すことになる。観客は〈聴く〉という行為を契機としてく劇的現実領域〉に生きるの
でもある。ニーチェはギリシア悲劇の発展過程で〈神を現実に存在するものとして示し,そのまぼろし の姿を聖化する額縁とともに,誰の目にも見えるようにあらわそうとする試みがなされ〉た時 に,〈狭い意味の「劇」がはじまる〉とした。そして,ここにディオニュソス的なものだけだっ た形態に,アポロ的なものが入り込んだと考える。こうしてはじめられた〈劇〉には〈一つの 決定的な様式の対立〉が生まれたことになる。〈話し方の言葉・色彩・動き・力学は,合唱団の
ディオニュソス的{響精詩の場合と,他方舞台のアポロ的夢の世界とでは,まったく違った表現 の領域として区別される〉からである。そして,この舞台の上のアポm的現象として客観化さ れたデKオニュソスは,〈叙事詩的造形の鮮明さと確固さ〉をもって〈舞台から観客にむかって 語る〉という。その時の語り方は〈もはやカによって〉ではなく,〈叙事詩の主人公として,ほ
とんどホメPスのことばで語るのである〉。ニーチェは,ギリシア悲劇の原悲劇というべきもの は合唱団であるとして,ディオニュソス的なものが劇の原型で,ホメロス的に語りだす主人公 を視覚化するにいたったアポロ的作用は,その後に付加され,最終的にはそれを制する形にな るとしている。すると,そのアポロ的力が付加された時,a一チェは述べていないが,視覚化 された主人公は一度全く語らなかったことがあったのではないか,つまり,ただ姿を見せてい るだけという事があったのではないかと推論される。ニーチェの論から判断してこの時の言語 は合唱団だけが使用したもので,その内容はニーチェ的な意味での野情詩だったろう。それが 叙事詩に移行するのである。そうなってはじめて,視覚化された主人公は語り出したのではな
いだろうか鯉ここで,狭義の〈劇〉が生まれた。
叙事詩から劇が生まれる例は日本にもある。野辺地東洋氏は『ヨ本の叙事詩と叙事詩劇』ta11の 中で〈叙事詩劇〉を能,歌舞伎,とくに丸本歌舞伎,そして人形浄瑠璃にみて,次のようにい
う。
聴覚的な文芸内容(これには音楽的要素も加わっているが)にたいして,視覚的演技内容が 結合したものが叙事詩劇なのである。
野辺地氏は,叙事詩劇の原型を叙事詩と見ているのである。こういう要素がく劇的現実領域〉
の成立事情にある以上,観客はその主要な生きる契機の行為としてく聴く〉ことを行なわねば
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ならない、それは,雷葉をかえれば〈語ちれる〉ことである。したがって,この相においては,
〈劇的現実領域〉とはく叙事詩的現実領域〉のことに他ならない。ではそのく領域〉で〈語る〉
行為を行なって生きている人間とは誰か。それは,当然〈語り手〉である。野辺地氏は,能で
はく地謡〉,歌舞伎では〈浄るり〉に〈語り手〉の姿を認めている、しかし,その認識の根拠は,〈視覚的演技内容が結合したもの〉というところにある.語り手一入が語っていた文芸内容を,
他の要素が結合することによって,すなわち具体的には演技する人間がふえ,その人間がその 文芸内容を負担することになったと考えるのである。
浄瑠璃は詞(ことば)と地(または地合》と節との三つの語り口からなっている。入形劇の ばあいはこのすべてを語り手が語り,歌舞伎となると詞のほとんどを入物に譲t) ,地と節と は語り手が依然として担当するが,地のうちには人物の詞の地化した部分があるわけである。
この引用部分で,〈地のうちには入物の詞の地化した部分がある〉というのは,たとえば次のよ
うな場合である。そ の「今ごろは半七ッつあん,」
浄るり「どこにどうして,御座ろうそ」
(『艶姿女舞衣調の「酒屋の段」〉
この部分の解釈として,野辺地氏は入物の詞が定められていて,それを語り手が余分に負担す るという具合に考えている。しかし,これはそうではないだろう。地のうちに残っている入物 の詞は・地から詞化していくうちで,詞化されなかったものと見る方が正しいのではないか。
なぜなら,もともと叙事詩であれば,語り手だけが語ったのだから。したがって,人物の詞は 定められているのではなく,人物が語り手の負担をしていくわけである。この人物は外部から 添加されたものと,氏は見るのであるがそうではないのではないか。語り手とは入物名では ない。口承文芸における機能である。してみると一人である必要は必ずしもない。人物を語り 手の一員と見てもおかしくないのである。語り手という機能が,視覚化の欲求によって分化し たと見てもさしつかえない。つまり,人物が語り手と結合したのではなく,語り手が内部分化 したと見ることは十分に可能である。その分化の一部が,視覚化の要請に答えるという仕組で ある。ギリシア悲劇が,合唱団から派生したように,叙事詩劇は叙事詩かち派生したと見るこ とができる。ちなみに,初期のギリシア悲劇では,役者は一人であり,仮面をとりかえること で何役もこなした。それが,次第に二人,三人とふえていった。というより,役者の役の分担
の分業化が進んだというほうがよい。このように,役者が語り手だということになると,観客にとって〈劇的現実領域〉にあらわ れる他者は,明らかに中世におけるキリストそのものというわけにはいかなくなる。他者は語 り手と見なくてはならないかちだ。こうした視点が確立するためには,観客の側に自分はく聴 き手〉である,という意識がまず確立しなくてはならない。これは,観客がく演じる〉ことを
止めたときに始まったのであろう。⑧
もし〈劇的現実領域〉の基本構造として〈叙事詩的現実領域〉があるとするならt観客は〈聴 く〉という行為を生きることの基本行為としなくてはなちない。〈聴く〉という行為がなされれ ば・次には観客はく想像する〉という行為をせざるを得ないだろう。ここでイメージの連続と いう意味でのく夢〉の世界が出現することになる。つまり,アポロ的現実が出現することにな る。ここでいう〈夢〉とはその世界が〈現実〉ではないことを示すためのものではない。あく までも,〈想像する〉という行為を契機に観客の生きるく現実領域〉のことである。観客が,彼 の〈劇的現実領域〉でく見る〉対象とするのは,〈語り乎〉であるが,その語り手が,自分はハ
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ムレットであると名乗る,正確には,他の〈語り手〉によってハムレットと名付けられる。し かし,あくまでも役者はハムレットの役を演じているのであって,ハムレットという名の人物 ではないのだかち,観客の見ているハムレットは役者ではない。実際に役者を見ているが,そ れはゲシュタルト心理学的に言えばく地〉に他ならず,観客が〈語り手〉によって語られ,〈想 像〉したハムレットが〈図〉を構成するのである。それは,役者というスクリーンへの自己の 想像図を投影することである。この意味で,観客のく見る〉ものは虚像であるといえる。この 点から,演出家とは,いわばく理想的〉な観客であり,〈積極的〉〈行動的〉な観客である。な ぜなら,彼は戯曲を読み,その登場人物である〈語り手〉から語られ,〈想像〉する。そして,
その自己の〈想像〉に基づいて舞台上に戯曲の語る世界を視覚化するわけだからだ。視覚化さ れた登場人物は,叙事詩の登場人物であると同時に,叙事詩の語り手ともなる。彼は,間接的 には叙事詩の語り手であるが,演出家のく想像〉の投影だとすれば,直接的には演出家の〈想 像〉した夢幻の世界の語り手といわざるを得まい。このように〈登場人物プラス語り手〉とし て措定された役者を,〈語ちれ〉〈見る〉〈想像する〉わけだが,この前者二つの要素は別々のも のではない。むしろ同じことである。〈見る〉ことは,〈語られる〉ことでもある。なぜなら,
役者は衣装や表情,身体的動作によって,つまり非言語的言語によってく語る〉からである。
役者は役者としての自己の身体を観客に示すのではなく,登場人物の生き様を身体によって示
すのである。この役者の身体的・非言語的言語による語りのために,観客は一つの錯覚をする。まるで過 まが現在に露出したように,自分たちが見ているのはハムレットそのものだと。ハムレットの 行動は,今ここで起っているのだと。そして,この錯覚がドラマの本質だと考えられることが これまで非常に多かったのである。しかし,これはあくまでも錯覚に他ならず,このことを圭
,張したのがブレヒトであった。ブレヒトの〈叙事詩的演劇〉 epic theatre はこの考えを基にし て成立している。
Martin Esslinはその著書An・A natomy of Difama ed2の中でブレヒトの epic theatre につ
いて解説している。彼によれば,ブレヒトのこの考えはくドイツ古典主義時代にさかのぼれる。
その時代に,指導的な詩人(ゲーテとシラー)は,自分たちのドラマの考えを定義しようとし て,大いに物語を語る劇的方法と,小説ないし長い叙事詩で使用されるような語りの方法との 差異について話した。〉という。 Epic(narratine)poetry は,事件を過去に起った,つまり
<there>〈then>に起ったものとして描写するが,{Dramatic poetry は<now><here>つまり〈eternal presence>で事件が起っているように描写すると考えた。したがって次のような事態
が起るという。The playwritght and the actors must strive to make the audience think they are present at the events they see, and the actors sh◎uld actually believe 宅hat they are Ham1et or Othello, so that the audience, wholly concentrating on their actions,will f◎rget that they are watching a ficticn and take it as s◎mething they are watching or even living through、
ブレヒトはくこれはマルクス的歴史観,つまり時代が異なれば社会条件も異なるのだから,異っ た感じ方,あるいは意識の仕方が生み出されるという考えに矛盾する〉と考えた。つまり,1950 年にあって『オイディプス王』を見る観客は,当然オイディプス王の感情をそのまま感じとる
ことはない。もしそのままであれば,〈不変の人間性のようなもの〉を想定しなくてはならず,
これは反マルクス主義的であるという。
So Brecht wanted an undramatic 一一an epic−theatre, which did not pretend that the