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『東瀛詩選』編纂に関する一考察

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Academic year: 2021

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『東瀛詩選』編纂に関する一考察  

      ─明治漢詩壇と日中関係との関わりを中心に─

 

川邉   雄大

はじめに

 

兪 樾

撰『東瀛詩選』 (四十巻補遺四巻、明治十六年(一八八三)刊、以下『詩選』 )は、五三七人・のべ五三一九首という 厖大な量の日本漢詩を収録した漢詩集であり、その編纂の受諾から版刻までは、約一年三ヶ月(明治十五年(一八八二)夏 ~十六年(一八八三)十月)という短期間のうちに行われた。

  『詩選』の編纂に関しては、これまでに次の研究がある。

  岡 井 慎 吾

北 方 心 泉 上 人

は、 岡 井 の 師 で あ る 三 宅 真 軒

か ら『 詩 選 』 編 纂 に 関 す る 伝 聞 を 述 べ て い る。 吉 田 三 郎「 兪 樾 尺 牘

」 は、 北 方 心 泉

の 自 坊 で あ る 常 福 寺( 石 川 県 金 沢 市 ) に 所 蔵 す る 兪 樾 が 心 泉 に 宛 て た「 曲 園 太 史 尺 牘 」( 乾・ 坤、 以 下 「兪樾尺牘」 )十四通を紹介し、日本語訳を附しており、李慶『東瀛遺墨─近代中日文化交流稀見史料輯 注

』は、同尺牘を翻 刻 し て い る。 高 島 要『 東 瀛 詩 選   本 文 と 総 索 引

』 は、 『 詩 選 』 全 文 の 翻 刻 と 索 引 を 作 成 す る と と も に、 採 録 さ れ た 典 拠 に つ いて考察を加えている。小川環樹「中国人が観た江戸時代の漢 詩

」は、兪樾の選択基準・嗜好などについて述べており、蔡

(2)

毅「 兪 樾 と『 東 瀛 詩 選

』」 ・ 王 宝 平『 近 代 中 日 学 術 交 流 の 研 究

((

』 は、 「 兪 樾 尺 牘 」 な ど 常 福 寺 所 蔵 の 資 料 を 使 用 し て 編 纂 過 程 について考察を加えている。

  こ の 他、 島 力 崗「 『 東 瀛 詩 選 』 研 究 に 関 す る 二、 三 の 問 題

((

」 お よ び 同「 兪 樾 と 李 鴻 章 ─『 東 瀛 詩 選 』 成 立 を め ぐ っ て ─

((

」 は、岸田吟香が兪樾の持つ人脈、具体的には曾国藩・李鴻章に繋がる人脈を構築するために『詩選』が編纂された可能性を 指摘している。

  さ て、 『 詩 選 』 の 編 纂 が い か に し て な さ れ た か は、 興 味 深 い 問 題 で あ る。 こ れ ま で に、 明 治 期 に 東 本 願 寺 上 海 別 院 に お い て 布 教 活 動 を 行 っ た 北 方 心 泉 や 松 林 孝 純

((

ら が、 『 詩 選 』 編 纂 の 発 案 者 で あ る 岸 田 吟 香 と 兪 樾 の 聯 絡 役 を 担 っ た こ と が 知 ら れ、常福寺には、 『詩選』編纂に関する資料として前述した「兪樾尺牘」 (十四通)のほか、心泉が兪樾に宛てた書翰の「心 泉草稿」 (七通)などが残されている。

  本 稿 で は、 先 行 研 究 や 常 福 寺 資 料 に 加 え て、 『 詩 選 』 が 編 纂 さ れ た 当 時 の 日 本 国 内 に お け る 漢 詩 壇 や 日 中 関 係 等 を 配 慮 に 入 れ な が ら、 『 詩 選 』 の 編 纂 過 程、 漢 詩 人 の 採 録 状 況、 日 中 双 方 の 編 纂 意 図 の 相 違、 さ ら に 兪 樾 や 刊 行 さ れ た『 詩 選 』 が 日 本の漢詩人や支那学者に与えた影響とその評価について検討する。

一   明治前期の漢詩壇

  本章では、明治前期すなわち明治初年から『詩選』が編纂された明治十五・六年(一八八二・三)頃までの日本国内にお ける漢詩壇について述べておきた い

((

  明 治 初 年、 有 力 な 詩 壇 の 勢 力 と し て、 ① 広 瀬 淡 窓 の 咸 宜 園 門 下( 玉

ぎょく

せん

吟 社・ 香 草 吟 社 )、 ② 岡 本 花 亭 門 下 の 江 戸 詩 家 中 の 遺老、菅茶山の詩風を伝える勢力、③梁川星巌の玉池吟社門下(下谷吟社等) 、という以上の三つの系統があった。

(3)

  咸宜園は広瀬淡窓によって設立された私塾であり、王孟韋柳派を宗とする淡窓のもと、詩をよくする門下生として、淡窓 の弟旭荘、淡窓の義子青村、旭荘の子林外、維新後明治新政府の官僚となる長三洲などがいた。咸宜園は昌平黌や藩校とは 異なり、武士階級以外にも開放されており、塾生の三分の一を僧侶が占め、中でも真宗僧が多いことが特徴であった。東本 願 寺 僧 の 門 下 生 の 中 に は、 維 新 後 に 上 海 で 布 教 を 行 う 小 栗 栖 香 頂・ 渡 辺 徹 鍳 や、 香 頂 の 弟 小 栗 布 岳、 『 詩 選 』 に も 漢 詩 が 採 録された平野五岳などのほか、大坂の旭荘塾で学び、後に上海別院輪番となる松本白 華

((

などがいた。そして、維新後は明治 四年(一八七一)に東京で、長梅外・三洲親子や秋月橘門・士新親子らが中心となって、玉川吟社・香草吟社を結成して活 動していた。しかしながら、明治十年(一八七七)あたりを境として相次ぐ同人の死により衰頽し、明治二十八年(一八九 五)の長三洲の死によってその活動を停止した。

  梁川星巌門下は、小野湖山・大沼枕山・向山黄村・遠山雲如・江馬天江・鱸松塘・岡本黄石・森春濤・小原鉄心・草場船 山・谷如意などがおり、濃尾出身の文人を多数擁していた。維新後はとくに小野湖山・岡本黄石・大沼枕山らが東京で活躍 し、中でも枕山が創立した下谷吟社が、前者二勢力を圧倒することとなった。

  一方、森春濤は明治七年(一八七四)に上京、茉莉吟社を設立して明末清初の詩を紹介し、明治八年(一八七五)四月に 『東京才人絶句』 、同年七月に漢詩雑誌『新文詩』 、明治十年(一八七七)十月に『清三家絶句』 、明治十一年(一八七八)八 月に『清廿四家絶句』などを出版し、枕山らと勢力を交替することとなった。

  また、成島柳北も自らが主宰する『朝野新聞』や、漢詩雑誌『花月新誌』に漢詩を掲載し、柳北の歿する明治十七年(一 八八四)まで続いた。

  この他、昌平黌出身者を中心に明治五年(一八七二)に結成された旧雨社があり、小野湖山は批評を担当する重鎮として 活 躍 し た。 『 詩 選 』 の 編 纂 に つ い て 議 論 が な さ れ た の も こ の 旧 雨 社 で あ り、 湖 山 を は じ め そ の 他 の 同 人 か ら 様 々 な 意 見 が 出 されることになる。

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  こ の よ う に、 『 詩 選 』 が 編 纂 さ れ た 明 治 十 五・ 六 年( 一 八 八 二・ 三 ) 頃 の 日 本 国 内 に お け る 漢 詩 壇 は 主 に、 前 出 の 三 系 統 から大沼枕山・森春濤・成島柳北の三系統となったのであ る

((

  次に、こうした背景をもとに幕末維新期の松本白華について見ていきたい。

  前述の通り、白華は幕末に大坂の旭荘塾で学び、明治四年(一八七一)に上京し宗門の活動を行うかたわら、新門主の大 谷光瑩(現如)とともに成島柳北・大槻盤渓・東條琴台ら江戸の漢詩人たちと交流してい た

((

。とくに白華と柳北は浅草本願 寺 内 の 塾 で 共 に 教 え て お り、 同 年 に 出 版 し た 白 華 の 漢 詩 集『 金 城 繁 華 三 十 闋 』 に は 柳 北 の 評 が 掲 載 さ れ て い る。 明 治 五 年 ( 一 八 七 二 ) 九 月 に は、 二 人 は 共 に 宗 教 事 情 視 察 の た め 渡 欧 す る な ど 関 係 は 深 か っ た。 一 方 で 前 述 の 通 り、 白 華 は 咸 宜 園 出 身者らで結成された、玉川吟社・香草吟社の同人でもあり、明治五年(一八七二)から十年(一八七七)にかけての全盛期 に存籍していた。現在、白華の自坊である本誓寺(石川県白山市)には同人たちの集合写 真

((

や、上海別院輪番時代に交流し た清末文人(陳鴻誥・王冶梅・銭子琴・孫士希・曹受圻・蔣文虎・毛祥麟・梁景

)の序跋・批点を附した詩稿などが所蔵 されている。

  明 治 十 年( 一 八 七 七 )、 白 華 と と も に 上 海 に 渡 航 し、 の ち に『 詩 選 』 編 纂 に 関 与 す る こ と に な る 心 泉 は、 白 華 が 主 宰 す る 遥久社で学んでいたが、維新後に上京し明治六年(一八七三)に、洋行より帰国した柳北から英語や漢詩を学んでいる。現 在、常福寺には柳北や菊池三渓の批が入った心泉の詩稿が所蔵されているほか、柳北が主宰していた漢詩雑誌『花月新 誌

((

』 にも投稿している。

  このように、白華や心泉ら当時の真宗僧は咸宜園や柳北らの詩壇と近い関係にあったといえる。

二   明治前期の日中関係

(5)

  本章では、明治初年から明治十五・六年(一八八二・三)にかけての日中関係について述べる。

  明治六年(一八七三)に日清修好条規が締結され、条約締結交渉などにあたった副島蒼海や竹添井 々

((

はその後、清国で文 人・政治家らと交流した。とくに井々は日本人では初めて兪樾に面会した。明治十年(一八七七)には清国公使館が東京に 設 置 さ れ、 何 如 璋・ 黄 遵 憲 ら が 外 交 官 と し て 派 遣 さ れ た ほ か、 公 使 館 員 に 附 随 す る 形 で 王 治 本 が、 中 国 語 教 師 と し て 周 幼 梅・葉松石らが、このほか衛鋳生・陳鴻誥などの主に海上派を中心とする文人が来日し、各地で日本文人との交流が開始さ れた。

  一 方、 東 本 願 寺 は 明 治 六 年( 一 八 七 三 )、 他 宗 に 先 駆 け て 小 栗 栖 香 頂 を 北 京 に 約 一 年 間 派 遣 し、 布 教 の 可 能 性 を 探 っ た。 明治九年(一八七六)八月、上海に別院が設置され、日本人留学僧に対する中国語(南京語・上海語)教育と、中国人向け に中国語による説教が開始され、翌明治十年(一八七七)十月には白華・心泉が派遣された。

  しかし、この中国布教には大きな障碍があった。それは、欧米列強には条約によって保障されていた布教権が、日清修好 条規には何等明記されておらず、思うように布教活動が出来ないことであった。従来、明治十四年(一八八一)頃に布教権 の 問 題 に 東 本 願 寺 は 直 面 し て い る こ と は 知 ら れ て い る が

((

、 常 福 寺 に 所 蔵 す る「 上 申 書 」( 草 稿 ) に よ る と、 上 海 別 院 が 設 置 される明治九年(一八七六)八月二十日以前に、すでにこの問題について東本願寺は認識してい る

((

  そのため、日本に渡航経験があり日本語の堪能な筆墨商の馮耕三の仲介により、売画を主体とするいわゆる海上派文人と の漢詩文を介した交流が盛んとなった。だが、心泉をはじめ当時上海に在留していた内海吉堂・岸田吟香ら日本文人の海上 派に対する評判は芳しくなく、清国政府要人との人脈を持つ人物達でもなかった。

  こうした状況下で、布教活動を円滑に進めるために、李鴻章や曾国藩と人脈のある文人、兪樾に接近することとなったの である。かくして、明治十四年(一八八一)五月に心泉は竹添井 々

((

からの紹介状を持参して、岸田吟香らとともに杭州の兪 樾を訪問したが不在であった。そのため、心泉は翌年五月に再び杭州へ行き、兪樾と面会することとなっ た

((

。吟香が兪樾に

(6)

『詩選』を提案するのは、この後のことである。

  当時、日本政府は日清修好条規が、明治十六年(一八八三)四月二十九日をもって終了するものと見なしており、東本願 寺は政府によって条約改正交渉が開始されるとものと考えていた。そのため、東本願寺は布教権獲得について岩倉具視・井 上 馨 等 に 陳 情 を 行 っ た ほ か、 条 約 改 正 後 の 布 教 に 備 え て 明 治 十 六 年( 一 八 八 三 ) 五 月 二 十 三 日 に 上 海 別 院 の 建 築 を 着 工 し た。しかし、条約改正交渉は一向に開始されず、同年九月十二日に別院は落成したものの、九月十四日に清国布教中止が決 定 さ れ、 十 月 四 日 に は そ の 知 ら せ が 上 海 に 到 達 し た。 そ し て、 十 月 九 日 に『 詩 選 』 が 刷 上 っ た 旨 を 知 ら せ る「 兪 樾 尺 牘 十 四」が書かれたのであった。

  こ の よ う に、 『 詩 選 』 が 編 纂 さ れ た 時 期 は、 東 本 願 寺 が 清 国 内 に お い て 条 約 改 正 後 を 見 越 し て 布 教 活 動 を 準 備 し て い る 最 中だったのである。

  ま た、 岸 田 吟 香 は 明 治 十 三 年( 一 八 八 〇 )、 上 海 に 楽 善 堂 支 店 を 開 設 し、 医 薬 品 販 売 の 外、 和 刻 本 や そ の 版 木 を 輸 出 し て いたほか、和刻本や科挙試験用の袖珍版の販売を行った。とくに、明治十四年(一八八一)から十六年(一八八三)にかけ ては袖珍本をはじめとする漢籍等を多数刊行している。一方、日本国内ではすでに清国公使館員や清国文人によって著され た書籍が複数出版されていた。また、葉松石や公使館員の姚文棟・黄梅吟によって日本漢詩集が編纂される計劃があ り

((

、実 際に明治十六年(一八八三)三月には陳鴻誥が編纂した『日本同人詩選』が出版された。恐らく吟香は、清末文人や日本文 人との交流を通じてこのような出版計劃を知っていたと思われる。それゆえ、吟香としては公使館や来日文人とは別異系統 の人物である兪樾に接近して、 『詩選』出版を企劃したと思われ る

((

三   『東瀛詩選』編纂の過程

(7)

  本章では、 『詩選』の編纂過程について述べたい。

  すでに蔡毅氏によって『詩選』の編纂過程が明らかにさ れ

((

、王宝平氏が、前述した「兪樾尺牘」十四通や「心泉草稿」七 通等を使用して年表化を行ってい る

((

。本稿では若干の新しい資料を補いつつ、要点を整理したい。

  前 述 の 通 り、 明 治 十 五 年( 一 八 八 二 ) 五 月 に 心 泉 が 兪 樾 に 杭 州 で 面 会 し た の は 布 教 目 的 で あ っ た。 そ の 後、 吟 香 に よ る 『詩選』編纂の依頼を兪樾が受諾したのは「兪樾尺牘三」 (日附不明)であり、明治十五年(一八八二)六月から八月の間に 書かれたと推測され、尺牘中に以下のような記述がある。

( 前 略 ) 至 岸 田 吟 香 先 生 欲 以 貴 国 諸 名 家 詩 集、 付 弟 選 理。 弟 学 術 麄 疏、 何 足 握 詞 人 之 秤。 惟 東 瀛 文 物、 企 仰 素 深。 果 能 探其淵海、擷其精華、何幸如之。 (以下略) ( 岸 田 吟 香 先 生 が、 貴 国 諸 名 家 の 詩 集 の 選 択 を 小 生 に 求 め ら れ て い ま す。 小 生 学 問 浅 く、 到 底 詩 人 の 秤 を 取 る こ と は で きません。ただ、日本の文物についてはかねて敬仰致しおりますので、もしその淵海を探って精華を摘むことができま すれば、この上なき幸せです) (以下略)

  このように、兪樾が日本漢詩集の編纂を承諾したのは、日本人の著作や日本の風物に対して関心を持っていたからであっ た。慶応三年(一八六六)に荻生徂徠『論語徴』を読み、明治十年(一八七七)には竹添井々から安井息軒『管子纂詁』を 贈 ら れ た 他、 塩 谷 世 宏『 宕 蔭 存 稿 』、 林 春 信『 梅 洞 集 』 を 読 ん で い る。 さ ら に、 明 治 十 年 代、 杭 州 に 在 住 し て い た 日 本 人 画 家、内海吉堂から日本の十三の怪奇談を入手し、 『右台仙館筆記』に収録し、その後編纂した『茶香室叢鈔』には、 『先哲叢 談』などから日本の記事を収録してい る

((

  その後、心泉は「心泉草稿三」 (明治十五年八月二十九日)の中で、次のように述べている。

(8)

至 敝 友 吟 香 為 求 選 敝 国 詩 一 節、 渠 業 現 為 帰 東 瀛 冥 幽 探、 遂 得 二 百 五 十 余 部 寄 来、 茲 特 随 函 奉、 另 有 目 録 開 明、 至 祈 検 納。所選□□巻数悉憑尊裁、并乞賜序及凡例・評語。 ( 私 の 友 人 吟 香 が、 わ が 国 の 漢 詩 を 選 択 す る 件 で す が、 現 在 日 本 に 帰 っ て 資 料 を 蒐 集 し て お り、 つ い に 二 百 五 十 部 を 送ってきました。ここにお送りして、目録とともにご覧に入れます。選択や巻数は悉くお任せするとともに、あわせて 序文・凡例・評語をお願います)

  これに対して兪樾は、 「兪樾尺牘五」 (明治十五年十一月一日)の中で、心泉に対して「日前由松林上人交到恵書并吟香先 生 所 寄 貴 国 詩 集 一 百 七 十 家。 弟 適 臥 病、 未 克 披 覧。 ( 先 般 松 林 上 人 に 託 さ れ た 親 書 並 び に 吟 香 先 生 か ら の 貴 国 詩 集 一 百 七 十 家 を 頂 き ま し た が、 小 生 た ま た ま 臥 病、 い ま だ 拝 見 し て お り ま せ ん で し た )」 と 述 べ、 つ づ い て『 詩 選 』 編 纂 に 関 し て 具 体 的事項を述べている。

弟意選詩当以人分、不以体分。毎人選古今体詩若干首、其人以時代先後為次。幸有「和漢年契」一冊、尚可稽考、不致 顚倒後先。但見在披閲未周、不知各集中均有年号可考否。至其人名下、例応備載爵里。然恐不尽有。徴至其字某甫、亦 不 可 缺。 ( 中 略 ) 至 于 点 圏 評 語、 皆 古 書 所 無。 中 華 自 前 明 以 来、 盛 行 時 文、 益 以 房 書 体 例、 変 古 書 面 目、 為 識 者 所 嗤。 愚意似可不必如此。毎人之下、就其全集中、或評論其生年、或摘録其未選之佳句、使読者因一斑而得窺全貌、且于論世 知人、不為無補。茲姑借物君茂卿一人、先撰数語、以見体例、別紙録呈。乞転寄吟香先生定之(中略)再啓者、此書選 成(多少未定、姑且約計)約可三千余編、頗亦可成大観。尊論欲於上海刊行、即照拙書版片大小、甚為簡便。弟処有熟 識刻工陶升甫、人甚妥当。弟之各書、皆其所刻。大約刻白版、則毎百字不過一百六十文、刻梨版、則毎百字須二百文、

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似 較 上 海 刻 資 稍 廉。 且 近 在 呉 下、 弟 得 就 近 指 点、 則 書 款 亦 無 錯 誤、 似 更 妥。 書 之 与 吟 香 先 生 酌 之。 弟 再 頓 首。 惟 在 蘇 刻、則一切査核字数并絡続交付刻貲、亦得一人経手。弟止任選択、不能并此等事也。

誤りもなくなって一層よかろうかと思います。吟香先生とおはかり下さい。 ) ぎず、梨版では百字が二百文、上海よりやや安そうですし、その上蘇州の地元となれば、小生が身近で指図し、体裁の 当地に懇意の刻工陶升甫なる者がおり、適任です。小生の著書は皆彼が刻したもので、並の版では百字が百六十文にす 篇、かなりの大部の物になりそうです。ご指示によれば、上海で刊行したく、拙著の版型に合わせるのが便宜との事。 に 示 し ま す か ら、 吟 香 先 生 に 転 送 し て お 決 め 下 さ い。 ( 中 略 ) こ の 選 集 は、 数 量 未 定 な が ら、 ざ っ と 見 込 ん で 三 千 餘 き、かつ世を論じ人を知るの一助ともなってよいと考えます。いま仮に物茂卿氏について数語の文を作り、体裁を別紙 の半生について論じ、あるいは選に入れなかった詩の佳句を摘録すれば、読者は一斑によって全貌をうかがうことがで の笑う所となっています。このような事は無用なるべく、それよりも、作者ごとの下にその全集について、あるいはそ 至ってはみな古書になきもの、中国では明以来時文が盛行し、俗書の体例を以てして古書の面目を変えてしまい、識者 身 地 を 載 せ て お く べ き で す が、 恐 ら く 揃 っ て い な い で し ょ う。 字 は 欠 い て は な り ま せ ん。 ( 中 略 )。 さ て 圏 点 や 評 語 に まで見ておりませんので、各集中にみな年記が入っているかどうかわかりません。人名については、その下に官位、出 は時代順に排列します。幸い「和漢年契」一冊が参照できますので、前後顛倒の恐れはありません。ただし、まだ隅々   ( 詩 は 人 に よ っ て 分 け る こ と と し、 詩 体 に よ っ て 分 け な い 方 が よ い と 考 え ま す。 人 ご と に 古 体 今 体 若 干 首 を 選 び、 人

  このように、兪樾は十一月の段階で、すでに当時上海別院にいた心泉を通じて吟香から編纂に関して、巻数・序跋などを 一任されており、吟香から送られた漢詩集二百五十集のうち百七十集を心泉から受領している。兪樾は病のため、これらの 詩 集 を 詳 し く 見 て い な か っ た が、 排 列、 人 物 の 紹 介、 採 録 数、 刻 工、 版 式、 料 金 な ど 全 体 の 構 想 を す で に 決 め て い た の で

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あった。これは、刊行された『詩選』版本の版式や序、あるいは例言などに記載された編輯方針と比較しても、実際の採録 数以外ほぼ一致している。

  その後、 『詩選』の編纂は進行し、 「兪樾尺牘六」 (明治十六年一月一日)で兪樾は、 「惟此選少亦当有百七八十巻、儼然巨 編。 (思うにこの選集は七八十巻以上の堂々たる巨編になります。 )」とのべ、全体を七八十巻と見積もった。そして、 「兪樾 尺牘九」 (明治十六年二月二十四日)では、

頃已選定四十巻、又従諸家選本中選出五百余首、定為「補遺」四巻、茲将目録寄上清鍳、并之転寄吟香翁一閲。刻工陶 升甫去歳已刻成一巻、茲印呈裁定。

で、ここに刷って裁定に供し、あなたと吟香氏の認可があれば引続き刻させます) 目 に か け、 ま た 吟 香 翁 へ も ご 転 送 下 さ る よ う お 願 い い た し ま す。 刻 工 陶 升 甫 は 昨 年 す で に 一 巻 を 刻 し お わ り ま し た の   ( こ の た び 四 十 巻 を 選 定 し、 ま た 諸 家 の 選 本 の 中 か ら 五 百 餘 首 を 選 定 し て 補 遺 四 巻 と い た し ま し た。 こ こ に 目 録 を お   とあり、ここに四十巻・補遺四巻という実際に刊行される形が完成したのであった。しかし、 「兪樾尺牘十」 (明治十六年 三 月 十 七 日 ) で は、 「 吟 香 未 知 有 無 還 信、 此 書 何 時 開 雕。 ( 吟 香 氏 か ら 返 事 が あ り ま し た が。 こ の 書 は い つ 開 版 す る の で す か。 )」と述べているように、兪樾は刊刻の許可を吟香に求めたが、吟香から返事がなかったようである。

  一方、東京では三月十六日に旧雨社の会が開かれた折、吟香は初めてメンバーの文人たちに『詩選』が編纂されているこ とを打ち明け、小野湖山や同人達から、 『詩選』の採録状況について様々な意見が出されたが、この点については後述する。

  この件について、吟香は湖山からの手紙も同封して心泉に送り、心泉が兪樾に伝言したのが、 「心泉草稿七」 (日附不明、 明治十六年三月二十二~二十七日)である。しかし、岸田との聯絡係を担ってきた心泉は病のため三月二十八日に帰国し、

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長崎で療養生活を送ることになり、編纂の取次が出来なくなった。その後は上海別院の白尾錦東と、蘇州にいた真宗僧・松 林孝純が上海に移動して、兪樾との聯絡および残務処理をおこなっ た

((

  こ の 年 の 十 月、 『 詩 選 』 は 完 成 し 心 泉 に 送 附 さ れ た。 「 兪 樾 尺 牘 十 四 」( 明 治 十 六 年 十 月 九 日 ) で は 以 下 の よ う に 述 べ ら れ ている。

( 前 略 ) 吟 香 居 士 属 選 貴 国 詩、 頃 剞 劂 告 成、 刷 印 清 本、 装 成 十 六 冊、 寄 呈 清 覧。 如 有 錯 訛、 乞 吾 師 与 吟 翁 校 正、 以 便 再 付刻工修改。 (以下略) ( 吟 香 居 士 ご 委 嘱 の 貴 国 詩 選、 こ の ほ ど 完 刻、 清 本 に 印 刷 し て 十 六 冊 に 装 成 し 御 覧 に 入 れ ま す。 も し 誤 り が あ り ま し た ら、上人と吟香翁とに校正していただき、更に刻工に命じて直させます。 (以下略)

  同年十二月十日には、 『郵便報知新聞』に掲載された「上海景況(前号の続き) 」中に『詩選』の編纂が完了した旨の記事 が書かれているが、これによると『詩選』は刻し終わったものの、この時点では初編のみが蘇州で出版され、まだ上海の書 店では販売されていなかったようであ る

((

  さ ら に、 翌 明 治 十 七 年( 一 八 八 四 ) 十 二 月 二 十 八 日 に 吟 香 は 松 林 と と も に 蘇 州 の 兪 樾 を 訪 問 し、 『 詩 選 』 等 の 日 本 国 内 に お け る 販 売 許 可 を 求 め て い る

((

。 同 年 四 月 十 七 日 の『 朝 野 新 聞

((

』 に、 『 詩 選 』 初 帙 四 冊 販 売 の 楽 善 堂 広 告 が 出 さ れ た が、 実 際 に全てが出揃うのは更に後のことであっ た

((

。現存する『詩選』が少ないこと、出版総数はそう多くはなかったものと思われ る。

(12)

四   漢詩の採録について   さて、 『詩選』ではいかなる人物の漢詩が採録されたのであろうか。以下、五十首以上採録された人物を排列する。

  広瀬旭荘 巻二十三・二十四 一七五首

  服部南郭 巻三 一二五首

  釈六如 巻三十七 一二三首

  菅茶山 巻十一 一二〇首

  高野蘭亭 巻五 一一七首

  梁川星巌 巻十六 一〇一首

  広瀬淡窓 巻十七 九〇首

  大窪詩仏 巻十九 八六首

  大沼枕山 巻三十一 八六首

  頼杏坪 巻十三 八二首

  小野湖山 巻二十二 七六首

  橋本静甫 巻三十四 七六首

  室鳩巣 巻七十三 七三首

  山梨稲川 巻十五 六八首

  長南梁(梅外) 巻二十九 六四首

(13)

  小原栗卿(鉄心) 巻三十二 六四首   大槻盤渓 巻三十二 六三首   大内熊耳 巻八 六〇首   村瀬栲亭 巻九 五十九首   横山致堂 巻二十 五八首   中島椶隠 巻十八 五六首   菊池渓琴 巻十八 五三首   山田翠雨 巻三十 五三首   竹添井々 巻三十五 五三首   釈元政 巻三十九 五〇首   以上、二十五名が挙げられるが、系統を分類すると大体以下の四区分に分けられよう。

  1   江戸初期、五山時代の唐宋詩風を継ぐ系統

   室鳩巣・大内熊耳・釈元政

  2   徂徠の流れを汲む蘐園派

   服部南郭・高野蘭亭・山梨稲川

  3   清新派および江湖詩社系統

   釈 六 如・ 梁 川 星 巌・ 大 窪 詩 仏・ 大 沼 枕 山・ 頼 杏 坪・ 小 野 湖 山・ 橋 本 静 甫・ 小 原 鉄 心・ 大 槻 盤 渓・ 村 瀬 栲 亭・ 横 山 致

(14)

堂・中島棕隠・菊池渓琴・山田翠雨   4   咸宜園系統    広瀬旭荘・広瀬淡窓・長梅外   兪 樾 は 序 の 中 で、

其 始 猶 沿 襲 宋 季 之 派、 其 後 物 徂 徠 出、 提 唱 古 学、 慨 然 以 復 古 為 教、 遂 使 家 有 滄 溟 之 集、 人 抱 弇 洲 之 書、詞藻高翔、風骨厳重、幾与有明七子並轡斉駆、伝之既久、而梁星巌大窪天民諸君出、則又変而抒写精霊、流連景物、不 屑以摹擬為工、而清新俊逸、各擅所長、殊使人読之、有愈唱愈高之歎(其の始めは猶ほ宋季之派に沿襲し、其の後物徂徠出 でて、古学を提唱し、慨然として以て復古の教を為し、遂に家々滄溟の集有り、人々弇洲の書を抱き、詞藻高翔、風骨厳重 にして、幾ど有明の七子と轡を並べ斉しく駆る、之を伝ふること既に久しくして、而て梁星巌・大窪天民諸君出づれば、則 ち又変じて精霊を抒写し、景物を流連し、摹擬を以て工と為さず、而して清新俊逸、各々長ずる所を擅にす、殊に人をして 之 を 読 み て、 愈 々 唱 へ て 愈 々 高 き の 歎 有 ら し む )

と、 江 戸 時 代 の 日 本 漢 詩 の 流 れ を 1 か ら 3 ま で の 系 統 を 挙 げ て 概 説 し て おり、採録も各派および咸宜園系統からそれぞれ採録している。

  一方、後述するように、吟香が指摘しているように祗園南海をはじめとして、本来採録されてしかるべき人物が採録され ていなかった。例えば、多くの研究者が指摘しているように、山本北 山

((

といった人物も採録されていない。一つは兪樾の採 録に対する態度があげられるが、日本側が提供した漢詩集に偏りがあったことは、これまでの研究で述べられてい る

((

  『詩選』に採録された漢詩は、

『詩選』の巻頭や人物紹介、あるいは尺牘などから判断するに、主に刊行された詩集から採 録されたと思われ、序文・例言によると、 『日本詩選』や『先哲叢談』も参考とされたのであった。

  この他、蔡毅氏や高島要氏の研究によって、使用されたと思われる詩集が推測あるいはほぼ特定されてい る

((

  な お、 岡 井 慎 吾 が 師 匠 の 三 宅 真 軒 か ら の 伝 聞 に よ る と、 『 詩 選 』 編 輯 時 に 使 用 し た 詩 集 類 が 常 福 寺 に 残 さ れ て お り、 そ れ

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らの詩集には往々、編輯時に兪樾が行った字句の訂正が見られたという。しかし、岡井が「北方心泉上人」を連載した昭和 十八年(一九四三)時点で、それらの詩集類は完全に散逸してい た

((

  さ て、 『 詩 選 』 の 採 録 で と く に 注 目 す べ き 点 と し て、 こ れ ま で 指 摘 さ れ て い る の は、 広 瀬 旭 荘 と 山 梨 稲 川 を 高 く 評 価 し た ことであろう。従来、旭荘よりもむしろ兄の淡窓の評価の方が高かったし、山梨稲川は、この『詩選』に漢詩が採用された こ と に よ っ て 一 躍 脚 光 を 浴 び る こ と に な っ た 江 戸 後 期 の 説 文 学 者 あ る が、 『 詩 選 』 の 資 料 と な っ た『 稲 川 詩 草 』 は 木 活 字 本 で 入 手 が 困 難 で あ っ た

((

。 で は、 兪 樾 は い か に し て こ の 版 本 を 目 に す る こ と が 出 来 た の で あ ろ う か。 『 詩 選 』 に 関 与 し た 人 物 の周囲には、心泉の友人で小学 ・ 金石学にくわしい三宅真軒がいる。 『詩選』が編纂されている明治十五 ・ 六年(一八八二 ・ 三)当時、真軒は金沢の本屋で働いており、書籍に詳しいだけでなく、書籍を蒐集しやすい立場にあった。明治十七年(一 八八四)に『石川県勧業博物館書目』を、翌明治十八年(一八八五)には心泉の書学習得のために主に小学金石類を収録し た『 文 字 禅 室 必 備 書 目 』( 常 福 寺 蔵 ) を 編 纂 し て い る。 つ ま り、 真 軒 は 上 海 に 滞 在 し、 日 本 漢 詩 を 蒐 集 で き な い 心 泉 に 代 わって、彼が漢詩集を蒐集するなど、採録に関与した可能性がある。

  この他、僧侶の詩が多数採録されていることも大きな特徴である。後述するように、 「岸田吟香書翰」 (明治十六年三月二 十一日)の中で、小野湖山は選定目録に挙がっている僧侶の詩の多くは省くべきであると述べているが、具体例として浄土 宗僧侶である養鸕徹定(のち知恩院住職・浄土宗管長)の編纂にかかる増上寺僧侶の漢詩集『縁山詩叢』に収録されている 作品が数多く採録されている点があげられる。徹定と白華は、白華が教部省の官吏であった時期(明治五 ~ 十年、洋行期を 除 く ) に 徹 定 は 同 省 の 教 導 職 と し て 交 流 が あ っ た。 現 在、 白 華 文 庫 に は 養 鸕 徹 定 著 作 の 鈔 本 や 刊 本 な ど が 所 蔵 さ れ て い る が、中には鈔本『瓊浦筆談』といった他では所蔵されていないものもある。このことを念頭におかなければ、この採録は説 明しにくいと考える。

  こ の ほ か、 『 詩 選 』 に 採 録 さ れ た 長 三 洲・ 中 島 子 玉・ 平 野 五 岳・ 北 方 心 泉 に つ い て は、 刊 行 さ れ た 漢 詩 集 で は な く、 未 刊

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の稿本が使用されているが、このことに関しては後述する。

  撰 者 の 兪 樾 は、 『 詩 選 』 の 採 録 に 関 し て、 ど の よ う な 態 度 を 取 っ た の で あ ろ う か。 小 川 環 樹 な ど は 山 梨 稲 川 等 の 漢 詩 を 例 として、兪樾は採録に際して声調に関しては非常に厳格であったとのべている が

((

、その一方で岡井慎吾は、三宅真軒の言葉 として次のように述べてい る

((

嘗て東瀛詩選に関連して私は真軒先師より次の如きことを承つた。上人が曲園翁に問はれた話か、或は他の筋からかは 明かで無いのだが、私は多分に上人から出たもののやうに思ふ。曰はく東瀛詩選に採られた詩政の厳重さは何れ程だら う。国朝別裁集の取捨の標準で臨んだら何如。曲園の答に「殆ど撰に入るまい。東人の詩は意旨は有るが声調諧はぬ。 声調が佳いと意旨が通らぬ。双方とも格に入るは殆ど無いと云つても蓋し不可は有るまい。

  日本人の詩を採るために、長所を採り短所に目をつぶる方針がとられたことが知られるのである。

五   『東瀛詩選』編纂における日中双方の認識相違

  以 上、 『 詩 選 』 の 編 纂 過 程 に つ い て 見 て き た が、 明 治 十 六 年( 一 八 八 三 ) 三 月 十 六 日 の 旧 雨 社 の 詩 会 で 問 題 に な っ た 点 に つ い て、 詩 会 後 に 心 泉 宛 に 書 か れ た「 岸 田 吟 香 書 翰 」( 明 治 十 六 年 三 月 二 十 一 日 ) を も と に し て 見 て い き た い。 ま ず、 書 翰 の冒頭に次のように述べられている。

一   前便申上置候「東瀛詩選」一条、去ル十六日「旧雨 会

((

」ニ而、小野湖山・重野安 繹

((

・岡千 仭

((

・森春 濤

((

・鱸松 塘

((

等諸

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子ニ相謀候処、諸子中未ダ此挙アルコトヲ不知者多ク候ニ付、議論百出ニ而、迚も一定ニ決シ難クト被存候而、遂ニ其 儘ニ而其場ハ散ジ申候。 ( 一   前 回 の 手 紙 で 申 上 げ た『 東 瀛 詩 選 』 編 纂 の 件 に つ い て で す が、 去 る 三 月 十 六 日 に 行 わ れ た「 旧 雨 社 」 の 詩 会 に お いて、小野湖山・重野安繹・岡千仭・森春濤・鱸松濤らにはかったところ、参加者の中に未だにこの編纂のことについ て知らない者が多く、議論百出となり結論が出ず、ついにそのまま散会となりました。 )

  岸田が兪樾に『詩選』編纂を依頼して約半年が経過してから、多くの旧雨社の文人達は初めてこのことを知った。つまり この時まで旧雨社の文人達は関与していなかったのである。

  次に、本来ならば採録される人物が選定されていないことが問題となり、旧雨社で詩集を蒐集した上で、兪樾に送附する こととなった。

一   重 野・ 岡 等 ト 尚 評 議 仕 候 処、 古 人 之 内 ニ モ 猶 此 選 ニ 漏 レ 居 候 者 多 ク 御 座 候。 有 名 之 大 家 ニ 而、 祗 南 海

((

・ 秋 玉 山 恒 遠

((

・雨森芳 洲

((

・片山北 海

((

・武冨 圯

((

・韓大 年

((

・北條霞亭・柏如 亭

((

・北川明 皮

((

・家里 衡

((

・河野鉄 兜

((

等之類、猶多ク可有之ト 奉存候。是等之詩集も多分上木ニ相成居可申候付、探索之上御送リ可申候。 (一   重野 ・ 岡とさらに相談したところ、古人の漢詩の中でも今回の選定に漏れた者も多く、有名な大家に、祗園南海 ・ 秋山玉山・雨森芳洲・片山北海・武富圯南・韓大年・北條霞亭・柏木如亭・北川明皮・家里衡・河野鉄兜らはもっと採 録された方が良いと思います。これらの人物の詩集は出版されていると思いますので、探した上お送りいたしたいと存 じます。 )

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  そして、梁川星巌・広瀬淡窓を採録する巻十六で一旦刊行を停止するよう求めてい る

((

  一方で、選定されるべきでない人物が採録されていることも問題となった。書翰中に、

一   重野・岡・小野・巌谷等之説ニ而ハ、此度御示シ被下候選定目録ニ、巻二十九以下ニ載リ居候人ニ者、多ク者皆詩 名 も 世 ニ 聞 江 ズ、 餘 リ 誰 モ 不 知 者 共 ニ 而、 中 ニ 者 川 路 利 良

((

之 如 キ 人 物 も 有 之、 又 少 年 生 も 右 之、 又 長 炗

((

・ 岡 千 仭 之 如 キ、未ダ詩集ヲ刊行不致候者も有之候間、此等之詩者定メシ「明治詩文」或ハ「新文詩」等ゟ御抜キ取リニ相成候事ト 奉存候へども、此度之「東瀛詩選」者   清朝第一流之大家、曲園先生之御選定ニ而、我邦古来未曾有之盛挙ニ付、相成 丈精選ニ致シ度キ者ニ御座候間、右等無有名的之俗作者暫ク御除キ置キ被下度候ト申スコトニ御座候。

思いますので、右のような有名でない俗作のものは除外願いたく存じます) 流の学者である兪曲園先生の選定で、わが国始まって以来の未曾有の盛挙でありますので、なるべく精選にいたしたく の漢詩は恐らく『明治詩文』あるは『新文詩』などから採録されたと思いますが、このたびの『東瀛詩選』は清朝第一 れており、また少年もあり、長三洲・岡千仭のようにまだ詩集が刊行されていない人物も採録されております。これら 人々の多くは、みな詩の評判も世に聞かず、あまり誰も知らない人達であって、中には川路利良のような人物も採録さ   (   一 重 野・ 岡・ 小 野・ 巌 谷 ら が 言 う に は、 こ の た び お 示 し い た だ い た 選 定 目 録 で、 巻 二 十 九 以 降 に 採 録 さ れ て い る   とあるほか、吟香自身も以下のように述べている。

一   曲園先生者、或ハ一人ニ而モ多ク詩ヲ出シ候御考可モ不知ト被存候。但シ先般以来、古人并ニ現今人之詩集類ヲ好 不好ニ不拘、只ムヤミと多ク送リ差上候者、皆々其選ニ入ランコトヲ望ミ候訳ニ者無之、御編輯之料ニ差上候事ニ御座

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候。然ニ曲翁者必ラズ其人々ノ詩ヲ毎人ニ一二首ツゝ者取リ遺シ度トノ思召ニ而、ツマラヌ俗作迄モ無拠御選入相成候 様ノ事無之トモ不被測ト奉存候。 ( 一   兪 曲 園 先 生 は も し か す る と、 一 人 で も 多 く 漢 詩 を 採 録 し た い お 考 え か も 知 れ な い と 思 い ま す。 し か し、 先 般 以 来 古人ならびに現今人の漢詩集を好むと好まざるとにかかわらず、ただむやみに多く送りましたのは、全てが採録される ことを望んだわけではなく、あくまで編輯の材料としてお送りしたのです。しかし、兪樾は必ずその人々の漢詩を一人 当たり一二首ずつ採録したいとの意図であり、つまらぬ俗作までも選定されていることがないとも思われます)

  せっかくの大儒兪樾による日本人漢詩集の編纂という、これまでにない機会であるから、なるべく精選して、余り詩人と し て 有 名 で な い 人 物 は 除 外 し、 ま た 長 三 洲 や 岡 千 仭 な ど 著 名 で あ っ て も 詩 集 が 刊 行 さ れ て い な い 人 物 の 詩 を、 「 明 治 詩 文 」 「 新 文 詩 」 の よ う な 漢 詩 雑 誌 か ら 安 直 に 収 載 す る こ と の な い よ う に 求 め て い る。 ま た、 吟 香 と し て は 送 附 し た 資 料 は、 あ く までも参考程度のものも含まれており、できるだけ多くの人物の詩を採録してもらうつもりではなかった。そして、重野成 斎は兪樾より送られた選定目録の中から、採録するに相応しくない人物を抽出したのであっ た

((

  書翰中にあるように、司法省官員でのちに初代警視総監となった川路利良の漢詩(四首)が収録されたことに、旧雨社の 同人や三宅真 軒

((

たちは非常に不満を抱いていた。これは川路が単に官僚であるからだけではなく、西南戦争に際して西郷隆 盛暗殺のため密偵を派遣し、かつての同志たちに銃を向けたとして、当時の人々から評判の悪かった人物が採録されたこと に対する不満であろう。こうした日本国内の状況を知らない兪樾は、川路を西南戦争で賊軍と戦って功績を挙げた忠勇なる 軍 人 と し て 認 識 し て お り、 川 路 が 宮 中 に 招 待 さ れ た 時 を う た っ た「 禁 園 観 菊 」 二 首 な ど を 採 録 し た の で あ っ た。 西 南 戦 争 後、 維 新 や 西 南 戦 争 に 功 績 の あ っ た 元 勲・ 軍 人 達 の 漢 詩 集 が 相 次 い で 出 版 さ れ た が、 『 詩 選 』 で は 川 路 の み が 採 録 さ れ た。 この採録についても白華の関与が疑われる。白華と川路は、明治五年(一八七二)九月に同じ船で洋行しており、面識のあ

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る人物だったからである。また、西南戦争に際して白華は門主に同行して熊本で救護活動を行っているが、同じ真宗僧で咸 宜園出身者である小栗布岳は官軍の密偵をつとめ、平野五岳は戦争前に西郷隆盛と接触していたとされ る

((

。しかも彼ら真宗 僧は江藤新平・木戸孝允・三條実美・大久保利通といった明治新政府の中心人物とも関係が深く、川路とも関係が深かった ものと思われる。

  また、旧雨社同人は、長三洲のように漢詩集が未刊の人物については、 「新文詩」 「明治詩文」などの雑誌から採録したも の と 見 な し て い た。 し か し、 長 三 洲 に つ い て『 詩 選 』 で は、 「 長 炗、 字 □

□ 、 号 三 洲、 人 著 有「 三 洲 詩 草 」 一 巻。 三 洲 詩 未 刻、余従小雨山人処得其小本一冊」と述べており、小雨山人すなわち心泉が持っていた未刊の「三洲詩草」一巻を使用した のであった。当時、上海にいた心泉は日本の資料を充分に蒐集できる立場にはない。だが、心泉の周囲を見ていくと、白華 の 旧 蔵 書 を お さ め た 白 華 文 庫 に は、 咸 宜 園 関 係 者 か ら 贈 ら れ た と 見 ら れ る 漢 詩 集 が 多 く 所 蔵 さ れ る ほ か、 白 華 が 安 政 二 年 (一八五六)に長三洲から借りて書写した『蘇東坡詩鈔』 (末尾に「安政二年乙卯三月以長炗太郎本謄写」とあり)や、長三 洲の日記『韻華楼日記』 (明治五年)などを所蔵しており、 『詩選』採録にあたっては白華の蔵書を使用した可能性が考えら れる。

  長三洲の他に、中島米華・平野五岳もまた当時漢詩集が未刊であったため、写本から採録されている。

  中島米華について、 『詩選』では「中島大賚、字子玉、号米華、豊後人、著有「米華遺稿」二巻。 (中略)詩未刊刻止有写 本」とあり、著書に「米華遺稿」があるものの、写本があるだけで刊行されていない。また、 「兪樾尺牘八」 (明治十六年二 月 十 七 日 ) に は、 「 日 本 詠 史 楽 府 」 一 巻( 明 治 二 年 刊 ) を 使 用 し た こ と を 述 べ て お り、 同 集 よ り 採 録 し た 漢 詩 に つ い て は そ の 旨、 『 詩 選 』 に は 記 さ れ て い る。 一 方 で、 同 集 に 未 収 録 の 漢 詩 も 多 数 採 録 さ れ て い る が、 国 会 図 書 館 に 所 蔵 す る「 米 華 遺 稿」二巻と同種類のものを使用したものと思われる。

  平 野 五 岳 に 関 し て も、 「 僧 岳、 字 五 岳、 号 竹 邨、 豊 後 人。 著 有「 古 竹 邨 舎 詩 」 一 巻。 以 下 二 人( ※ 心 泉・ 五 岳 ) 皆 有 稿 蔵

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余処」とあり、五岳には「古竹邨舎詩」一巻があり、五岳と心泉については写本を使用したと述べている。五岳の詩集とし て、版本では『五岳詩鈔』一巻(明治二十一年) ・『続五岳詩鈔』一 巻

((

があるものの、いずれも『詩選』に採録された「題楊 妃 洗 禄 児 図 」・ 「 丁 酉 春 日 」 の 二 首 を 収 録 し て お ら ず、 刊 行 も『 詩 選 』 が 刊 行 さ れ た 後 で あ る。 写 本 で は、 『 古 竹 老 衲 詩 集

((

』 があり、いずれも両者を採録するものの、詩題から判断して『詩選』刊行以後、明治二十三年(一八九〇)以後に書かれた も の で あ る。 白 華 文 庫 に は、 写 本「 古 竹 邨 舎 詩 鈔 」 一 巻 が 所 蔵 さ れ て お り、 『 詩 選 』 に 採 録 さ れ た 二 首 が 収 録 さ れ、 詩 題 か ら判断しても明治十四年(一八八一)以前に書かれたものと推測され、本書が採録にあたって使用された可能性がある。

  このように、詩集が未刊かつ咸宜園出身の三名の人物については、旧雨社同人たちも知らない写本が用いられており、彼 等の採録に関しては、咸宜園の流れをくむ白華の所蔵する写本を利用した可能性が高いのである。

  また、吟香としては商売上の観点から『詩選』の編纂について、次のように述べている。

巻数多ケレバ刻費も多ク、紙価モ多ク相掛リ候ニ付、其書価モ高ク相成可申候。高価ニ而ハ不好消ニ御座候間、極精選 ニ而、却而巻数ノ少ナキヲ御願申上候。 ( 巻 数 が 多 け れ ば 刊 刻 費 用 も 紙 代 も 多 く か か り ま す の で、 本 の 値 段 も 高 く な り ま す。 高 価 に な り ま す と 宜 し く あ り ま せ んので、精選にして巻数を少なくするようお願い申し上げます)

  さ ら に、 「 小 生 生 意 上 ニ モ 関 係 有 之、 大 抵 壱 部 価 キ ン 二 三 ヱ ン 位 ニ 而 売 出 シ 不 申 候 而 者、 売 レ 方 不 宜 候 ニ 付、 巻 帙 之 不 多 ヲ 所 望 仕 候 也。 ( 私 も 商 売 の 関 係 も あ り ま す の で、 値 段 も 大 抵 一 部 二 三 円 く ら い で 売 出 し ま せ ん と、 売 れ ま せ ん の で、 巻 数 も多くならないことを希望いたします) 」と述べ、吟香としては、 『詩選』は人物と漢詩を精選し、定価二三円程度の選集に し た か っ た の で あ る。 当 時、 出 版 さ れ た ば か り の 日 本 漢 詩 集『 日 本 同 人 詩 選 』( 陳 鴻 誥 編、 明 治 十 六 年 三 月 ) や、 当 時 出 版

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されていた森春濤『清三家絶句』 『清廿四家絶句』などの大部ではない選集を意識していたのであろ う

((

  このように、旧雨社としては採録する人物を精選し、吟香としても販売するには人物・詩の数とも精選する必要があった のである。

  しかし、この書翰を受けとった心泉は帰国間際であった。そのため、 「心泉草稿七」 (日附不明、明治十六年三月二十二日 ~ 二 十 七 日 ) で は 兪 樾 に 対 し て、 「 吟 香 回 書 已 於 日 昨 接 到。 拠 述、 選 法 一 切 尽 善 尽 美、 刻 工 亦 佳、 敬 請 転 嘱 次 第 開 雕。 惟 三 十五巻以下請為稍待、以有数家人有取舎故耳。旬日間当続有奉聞也。詩集序跋悉听卓裁、倘多得名家題詠、以光斯集、不勝 欣 幸。 尚 有 詩 集 数 種、 于 数 日 及 再 行 寄 奉 蘇 城。 ( 吟 香 か ら の 返 事 を 昨 日 受 取 り ま し た。 手 紙 に よ る と 選 定 は 全 て 素 晴 ら し く、刻工もまた素晴らしいので次々と版刻をお願いします。ただ三十五巻以下について翻刻をお待ちいただき、採録につい て取捨選択を行いたい) 」と述べ、旧雨社同人達が指摘した問題点について伝えていない。

  なお、この「岸田吟香書翰」には、旧雨社の詩会後に小野湖山が吟香に宛てた書翰(明治十六年三月十九日)が同封され ており、この中で湖山は、 「「詩選」之件、愚論御采用之趣至喜々々、何卒先壱編早々出来候事奉祈候〔※岸田註   第一編、 第 二 編 ト 続 出 ノ 論 也 〕。 」 と 述 べ て お り、 『 詩 選 』 編 纂 に 関 し て 様 々 な 意 見 を 言 っ た も の の、 す み や か に 一 編・ 二 編 と 刊 行 す ることを望んでいる。また、心泉は兪樾に対して巻三十六以下に採録する僧侶・女性に関しては翻刻を待つよう求めている が、 こ れ も 旧 雨 社 の 席 上 で 湖 山 が 述 べ た「 釈 氏 閨 秀 ノ 部 ニ モ 亦 必 ラ ズ 省 ク ベ キ 者 多 カ ラ ン 」 を 受 け て の こ と で あ ろ う。 な お、兪樾が非常に気にして何度も照会していた姓・字・出身地等の記載についても、日本側は兪樾ほどは気にして居らず、 分 か ら な か っ た 人 物 に 関 し て は、 「 □

□ 」 と 空 白 の ま ま 翻 刻 さ れ た の で あ っ た が、 こ れ も 湖 山 が「 或 ハ 名 字 缼 ト 被 成 候 而 モ、海外之事ニ付、不苦候様ニ御座候(あるいは名字が欠落しておりますが、海外のことゆえ、お苦しみになりませんよう に )」 と 述 べ た こ と を 受 け て の こ と で あ ろ う。 こ の よ う に、 旧 雨 社 の 詩 会 で は 様 々 な 意 見 が 出 さ れ た が、 最 終 的 に 心 泉 は 同 会のみならず、明治詩壇の中心人物である湖山の意見を優先して兪樾に伝えたのである。

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  前 述 し た よ う に「 兪 樾 尺 牘 五 」( 明 治 十 五 年 十 一 月 一 日 ) で、 兪 樾 は す で に 編 輯 方 針 や 版 式・ 金 額・ 採 録 数・ 巻 数 に つ い て決定していたにもかかわらず、吟香は兪樾に編纂を一任しており、本来吟香が選集を期待した『詩選』は、序文に「然此 集也、在彼国実為総集之大者、必且家置一編、以備誦習(然れども此の集や、彼の国に在りては、実に総集の大なる者と為 す。 必 ず 且( ま さ ) に 家 ご と に 一 編 を 置 き て、 以 て 誦 習 に 備 へ ん と す )」 と あ る よ う に、 兪 樾 の 手 に よ っ て 総 集 と し て 刊 行 されることとなったのである。

  こ の よ う に、 『 詩 選 』 の 編 纂 は 当 時 の 文 人 た ち の あ ず か り 知 ら ぬ と こ ろ で 進 め ら れ、 い ざ 出 版 の 段 階 で 内 容 が 公 表 さ れ て みると、存命中の人物、評判の悪い人物、無名の人物、多数の僧侶の漢詩などが収録された一方、歴代のしかるべき人物の 漢詩が採録されておらず、修正を要求したものの、必ずしも反映されなかった。重野ら当時の文人たちにとっては不満であ り、妙な漢詩集だと思ったに違いない。

おわりに

  最後に、刊行された『詩選』や兪樾の学問について、日本の詩壇や学術に与えた影響について確認しておきたい。

揮毫・題字・序跋を求める日本人が増加し た

((

  『 詩 選 』 刊 行 後、 兪 樾 の も と に は 関 口 隆 正・ 楢 原 陳 正・ 重 野 紹 一 郎 が 入 門 し、 佐 藤 楚 材・ 橋 口 誠 軒・ 結 城 蓄 堂 等 の よ う に

  では、明治十六年(一八八三)以後に刊行された『詩選』はどのような評価を受けたのであろうか。小野湖山のように、 『 詩 選 』 の 編 纂 が 契 機 と な っ て 兪 樾 と の 詩 文 の 交 流 が 始 ま っ た 人 物 も い た が、 当 時 の 日 本 の 漢 詩 壇 で は あ ま り 反 響 が な か っ たようである。

  理由として、旧雨社同人たちが指摘したように採録された漢詩が日本人からみて不適切・不充分であったことが考えられ

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る が、 そ も そ も『 詩 選 』 自 体 の 刊 行 数 が 少 な く 入 手 困 難 で あ っ た こ と か ら、 『 詩 選 』 を 実 際 に 読 ん だ 人 は そ う 多 く な か っ た ことと思われる。また、旧雨社同人と同世代である根本通明や依田学海らの兪樾に対する評価も、決して芳しいものではな かっ た

((

保天随・今関天 彭

((

代からの流れを受けた漢詩人たちにはあまりなく、むしろ次世代に生まれた小柳司気太・内藤湖南・新村出・鈴木虎雄・久   『 詩 選 』 の 出 版 に よ り「 中 国 人 の 大 学 者 が い か に 日 本 漢 詩 を 評 価 し た か 」 と い う 関 心 は、 明 治 前 期 に 活 動 し て い た 江 戸 時

といった、主に支那学者によって明治後半から昭和にかけて持たれ、かつ評価されたのであったといって よいだろう。

1)  樾()。し、藩・た。時、居住し、杭州に別荘を持っていた。(2)

  『書苑』

(三省堂、昭和十八年)3)  軒()、貞、郎、固、軒・た。塘・川・軒・が、歿け、た『る。年(年(が、年(降、校・校・る。年()、録『る。年(年(り、以後は東京に移り前田家の書籍を整理し『尊経閣文庫漢籍分類目録』(昭和八・九年)を編輯するなど漢学に詳しい人物であった。(4)  本岡三郎『北方心泉  人と芸術』(二玄社、昭和五十七年)5)  泉()、沢・職。蒙、泉・雨・荘・室・閣・た。年(年(る。年(し、る。後、め、年(り、

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