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Academic year: 2021

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NDC 810, 1

岡山方言考

   「おめ一心なら」 に関する一考察

杉 山 面*

       序    言

 大学入学時、岡山を初めて訪れた時には、その方言に驚いた。それは、初めて故郷を離れた十九歳の少年にとって は大きな衝撃に感じられたという意味であって、岡山という土地が特別に方言の使用頻度が高いと言うわけでもな かったのだろうが、それをきっかけに岡山方言に対して、ある種の恐れと興味を覚えたという事実は動かない。以来、

新たな方言に接すると、その方言の持つ意味、ニュアンス、語源等を何となく考えるようになった。本稿もそうした ものを文章にまとめてみたものである。

1.おめ一誰なら

 代衷的な岡山方言のひとつに、「おめ一誰なら」がある。

「あなたは誰ですか」という意味だが、二人置の「おまえ」

に、岡山方言では曲用と言われる音韻の変化が起きて「お め一」になるのは簡単だが、文末の「なら」が解らない。

そこで試みに「日本国工大辞典」(小学館)を調べてみると、

いずれも不自然な表現で、こういう言い方はない。「なら」

は肯定文、否定文には用いられないのである。つまり疑問 文にのみ用いられるのだが、これもあらゆる疑問文に現れ るというわけではないようだ。

この本はいくらなら。(この本はいくらですか)

どこへ行くんなら。(どこへ行くのですか)

  指定の意をもって問いかける意を表す。…  なのか。

「この 本はいくらなら」「どこへ行くんなら」 奈良県、

和歌山県、岡山県、愛媛県

とある。「指定の意」というのがはっきりしないが、これ で「おめ一誰なら」の「なら」について、次の二点が確認 された。即ち、

1.「なら」は疑問文にのみ用いられ、肯定文、否定文 には現れない。

2.岡山県だけにある方言ではなく、同様のものが奈良 県、和歌山県、愛媛県にもあるらしい。

このうち1.の点に付いては、もう少し限定できるように 思う6用例を挙げてみよう。

肯定文:次の時問は数学なら。(次の時間は数学です)

否定文:明日は休みじゃないなら。(明日は休みじゃあ りません)

* 一般科目

 平成8年8月19日受理

はもちろん可だが、

この本は二百円なら。(この本は二百円ですか)

学校へ行くんなら。(学校へ行くのですか)

という用例はあまり聞いた事がない。とすると岡山方言の

「…  なら」は疑問文に現れるのは事実としても、「A はBですか」という一般的な疑問文には用いられず、文中 に疑問詞を持った、疑問詞疑問文にのみ用いられると考え られる。そこでさまざまな疑問詞に「…  なら」を付属 させてみると、

①こりや一何なら。(これは何ですか)

②ここはいったいどこなら(ここはいったいどこです  か)

③いつ行くんなら。(いつ行くのですか)

④なんでそんなに急ぐんなら。(なぜそんなに急ぐの  ですか)

⑤そこにおるのは誰なら。(そこにいるのは誰ですか)

⑥今日の会費はいくらなら。(今日の会費はいくらで  すか)

⑦どうやってするんなら。(どのようにするのですか)

(2)

津山高専紀要第38号 (1996)

⑧どっちが勝つんなら。(どちらが勝つのですか)

と、いずれも岡山方言の「…  なら」の用例としては、

たいへん自然でよいものが並ぶ。このように、「…  なら」

が用いられるのは、疑問文の中でも、文中に疑問詞を持っ た疑問詞疑問文のみに限定されるのである。

2.「なら」の語源は何か

 「…  なら」の語源を考える上では、先の第二点、岡 山県だけにある方言ではなく、同様のものが奈良県、和歌 山県、愛媛県にもある、という事実が手がかりになる。愛 媛県を別にすれば、岡山県を含め奈良県、和歌山県といっ た地域は日本史の上で、比較的歴史の古い地域だという点 で共通している。奈良県、和歌山県は大和朝廷の時代から 日本の中心的存在であったし、岡山県にも古代吉備の国の 存在があって、近畿地区との交流も頻繁であったことは容 易に想像される。

 さらにこの三三が京都を中心に、ほぼ同心円状に位置し ている事にも注目したい。言葉は文化的要素であるから、

文化の中心地域から、同心円状に伝播していくものである ことは、すでに柳田国男の「蝸牛考」で証明された常識で ある。このように考えると、奈良県、和歌山県、岡山県に 分布するF…  なら」は、古語の残存したもの、あるい は古語の変化したものである可能性が高い。

 そもそも岡山方言は、古語が残存して方言化したものが 多い。有名な「きょ一て一(恐ろしい)」は古語の「けう とし」がなまったものだし、「行ってしまう」,「いなくなる」

という意味の「いぬ(往ぬ)」は共通語では完全に失われ たが、岡山では現在でも用いられている。岡山県人が「死 ぬる」というのは、今でもナ行変格活用が残っているのだ ろう。とすれば本稿で取り上げた「…  なら」も、古語 を語源とするのではないかと考えるのも、けっして無理な 推論ではない。

止形では「なり」という形だが、未然形に活用すれば「な ら」となる。さらに助動詞「なり」には2種類あり、断定 を意味するものと、伝聞や推定を意味するものとがある。

このあたりのことは高校生でも知っているようなことだ が、念のため例をあげる。

 男もすなる日記といふものを女もしてみんとてする なり。(土佐日記)

前者が伝聞や推定の「なり」で、「すなる」で「すると言う」、

「するらしい」という意味。後者は断定の「なり」で、

「するのである」という意味になる。このふたつの「なり」

の活用を比較すると、伝聞や推定の「なり」が、

未 然 連 用 終 止 連 体 已 然 命 令 接  続

な り な り な る な れ 終止形

断定の「なり」が

未 然 連 用 終 止 連 体 已 然 命 令 接  頑

な ら な り

な り な る な れ な れ 体  言

A体形

と、基本的に変わらないが、判別の基準となるのは接続である。

伝聞や推定の「なり」が終止形接続であるのに対し、断定の「な り」は体言または連体形接続である。前掲の例文においても、

伝聞や推定の「なり」は動詞「す」の終止形「す」に接続し て「すなる」という形をとるが、断定の「なり」は同じ動詞「す」

でも連体形「する」に接続し「するなり」となる。

 さて問題は、岡山方言「…  なら」の語源となるのはい ずれの「なり」かということである。第1章に列挙した①一

⑧の例文によって、判別の基準となる接続を確認すると、す べての「なら」は疑問詞に直接接続するか、あるいは

「・・・… んなら」の形をとるかのいずれかである。こ の「ん」は準体助詞と呼ばれる「の」の説つたもので、活用 語の連体形に接続して、その語を形式名詞化する働きを持つ。

例えば、

3.「…  なら」は断定の助動詞「なり」の未然   形か

 「…  なら」の語源を考えるとすると、誰しも最初に 思い当たるのは、仮定条件を示す接続助詞の「なら」であ

ろうか。

君が行くなら、ぼくは行かない。

という場合の「なら」である。しかしこの「なら」は、意 味の上からも、原則として文末にはつかないという点から

も、岡山方言の「…  なら」とは一致しない。

 次の候補は助動詞「なり」である。助動詞「なり」は終

慌ててするの(ん)が失敗のもと。

それよりもこっちの赤いの(ん)がいい。

といった類である。「…  なら」用例として挙げた

③いつ行くんなら。(いつ行くのですか)

④なんでそんなに急ぐんなら。(なぜそんなに急ぐのです  か)

⑦どうやってするんなら。(どのようにするのですか)

⑧どっちが勝つんなら。(どちらが勝つのですか)

は、それぞれ動詞「行く」の連体形「行く」に、動詞「急ぐ」

の連体形「急ぐ」に、動詞「する」の連体形「する」に、動

(3)

岡山方言考 「おめ一誰なら」に関する一考察 杉山

詞「勝つ」の連体形「勝つ」に、「ん(の)」が接続したもの である。そして、それぞれの連体形に「ん(の)」が接続して 形式名詞化したものに「なら」が接続しているのであり、す なわち「なら」は名詞、つまり体言に接続するものであるこ とが解る。この準体助詞「ん(の)」によって形式名詞化され なければ、動詞は「なら」を伴うことができず、

③いつ行くなら。

④なんでそんなに急ぐなら。

⑦どうやってするなら。

⑧どっちが勝つなら。

という言い方が不自然なのは、共通語においてもそれぞれ

③いつ行くですか。

④なぜそんなに急ぐですか。

⑦どのようにするですか。

⑧どちらが勝つですか。

という言い方が成立しないのと同様であろう。⑧のような用 例を耳にすることもあるが、これは正しい用法ではないこと

を以下に確認、しておく。

 「ですllは「だ」「である」と同様、体言、副詞また は 活用語の連体形に助詞「の(ん)」を伴ったものに付 く。

一一?ェ一一 活用語が「です」を直接伴うこと は標準 語的とは考えられていない。

       (「日本国語大辞典」小学館)

 列挙した用例はすべて動詞に「なら」が接続したものだが、

動詞以外の活用語、即ち形容詞や助動詞に関しては、共通語 の「です!が、

形容詞活用の活用語や助動詞「た」などに直接する       (「日本国語大辞典」小学館)

ように、「なら」も

どっちがええなら。(どちらがよいですか)

全部で何人行ったなら。(全部で何人行ったですか。)

という用例も成立するようだ。しかしζれとて準体助詞「ん

(の)」を伴って、

どっちがええんなら。(どちらがよいのですか)

全部で何人行ったんなら。(全部で何人行ったのです

のほうが、より自然で落ちついた表現であるように思う。

 次に、「なら」が直接疑問詞に接続する場合を考えてみよう。

疑問詞と総称されるもののうち、「なに」「だれ」「どちら」

「どこ」などは疑問代名詞に分類され、これに岡山方言の

「… なら」が接続しているのだから、「なら」はやはり体 言に接続していると考えられる。「なぜ」「いくら」「どれだけ」

などは疑問副詞と呼ばれるが、疑問副詞は

なぜですか。

どれだけだろうか。

のように体言接続の助動詞を伴う用例が少なくなく、体言的 に用いられていると考えてよいだろう。

 以上から結論づけるなら、岡山方言の「なら」は体言接続 であると.言える。そしてこれが、前述のように文語助動詞の 伝聞、推定の「なり」か、断定の「なり」のいずれかを語源

とするのなら、体言接続である以上、断定の「なり」である と判定される。「なら」の用法が共潭語の断定の助動詞「です」

によく似ていることもこの結論を裏付けるだろう。もちろん 岡山方言の「なら」は断定の「なり」そのままの活用語とし て働いているのではなく、文中に疑問詞を伴うという特殊な 条件下で、「なら」という固定した形で生き残ったと考えるの である。

4.なぜ未然形なのか

 さて以上のように、その意味や用法の上から、岡山方言 の「なら」は文語文法の断定の助動詞「なり」の未然形を 語源とすると考えられるが、それではなぜ未然形なのかと いう問題が次に生じる。

 岡山方言の「なら」は文末にしか現れないし、肯定文で あろうが疑問文であろうが文末に活用語が来れば終止形で 結ぶのが日本語のルールであるから、これも本来終止形「な

り」という形であるべきである。

 文末の活用語が終止形以外の活用形をとる場合を考える と、文語文法における係り結びの法則が挙げられる。文中 に係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」があれば連体形に、「こ そ」があれば已然形に、それぞれ文末の活用語が結ばれる

というものである。仮にこれと同様に考えるなら、岡山方 言の「なら」は疑問詞疑問文にのみ現れるという点を考え 併せて、文中に疑問詞があることによって文末の断定の助 動詞「なり」が未然形「なら」という形で結ばれた、とい うことになろうか。つまり岡山方言には、係り結びの法則 によく似た、

文中に疑問詞があると文末が未然形で結ばれる

か。)

という、言わば「疑問詞結びの法則」とでも呼ぶべき用法

(4)

津:山高専紀要 第38号  (1996)

が存在するとの仮説がたてられるのである。この仮説に従 えば、文末でありながら終止形「なり」ではなく、未然形

「なら」で結ばれている理由は簡.単に説明できるし、また それが未然形である理由も、係助詞の結びが連体形や已然 形でなくてはならない理由が特にないのと同様に、その未 然形結びという事実だけ.を確認、認識すべきということに なるであろう。

 強いて「疑問詞結びの法則」が未然形結びである理由を 述べるなら、それが疑問文であるという点に要因があるの かもしれない。未然形は、打ち消し、仮定条件、希望など の助動詞を伴うように、本来その動作、事実がまだ確定、

完了していないことを表す活用形である。疑問文は、少な くとも話し手にとってはその動作、事実がまだ確定、完了 していないという認識であろうから、未然形を用いるのは けっして不合理ではなく、むしろ妥当な用法であると言え る。故に岡山方言では、文中に疑問詞があると文末を未然 形で結ぶのであると考えれば、それなりの議論が成立する であろう。

 こうして「疑問詞結びの法則」を打ち立てることによっ て、岡山方言の「…  なら」は説明できるようになるの だが、実はこの仮説にはひとつ難点がある。それは、その 用例が「…  なら」だけに限定されているということで ある。文中に疑問詞を持つ疑問文で、文末が断定の助動詞

「なり」以外の活用語の未然形で結ばれている例、たとえ

ば、

どこへ行か。(どこへ行きますか)

何を飲ま。(何を飲みますか)

どっちがよから。(どっちがよいですか)

という発音の変化がその典型である。特に4番目のou→

oは現代語にも見られ、東京(とうきょう)が(トーキョー)

となったり、盗塁(とうるい)が(トールイ)となったり する。ただいずれも、「riya」が「ra.」と変化する ものではなく、本稿のテーマである「なりや」が「なら」

に変化する裏付けとはならない。

 次に岡山方言には、これに類する独特の音韻変化があっ て曲用と呼ばれる。「あかい」を「アケー」と言ったり「か える」を「ケール」と発音したりするものだが、これと「な りや」→「なら」の変化を比較してみよう。まず曲用をま とめてみると以下のようになる。

L e

Oai−e

(1)a e−e

@oi.e

(エー)となるもの

@oe−e

eei−e

2. i

(Dui.i Cl)ii−t

えらい → かえる → あおい → 来い  → どえらい→

けいけん→

(イー)となるもの      やすい →      きびしい→

エレー ケール アエー ケー デーレー ケーケン

ヤシー キビシー

 このうち1の⑤、2の②は共通語も同様であるが、いず れもe(エー)、i(イー)となるのでは本稿のテ. マに 接近しない。そこ℃、a(アー)となる例を探してみると、

岡山方言の曲用の典型として有名な、次のような用例が

あった。

などという用例が成立するだろうか。もしこれが岡山方言 として成立するのであれば、仮説「疑問詞結びの法則」は、

鮮やかに証明されることとなる。

5.「なら」は「なり」十「や」か

 次に「なら」が断定の「なり」の未然形ではなく、終止 形「なり」に疑問の終助詞「や」が付属した「なりや」の 音韻変化である可能性を検討する。

 「なりや」が「なら」に変化する可能性はけっして小さ くはない。日本語は、特に母音が連続すると実際の発音が 変化することが多く、たとえば文語における

au→yo (やうに→ヨー二)

iu→yu(いふ→イウ→ユー)

eu→yo(けふ→ケウ→キョー)

OU→0 (おもふ→オモウ→オモー)

①ヒャークレルシ(日はくれるし)、

②ミャーミエンシ(目は見えんし)、

③コドマーナクシ(子どもは泣くし)、

④ヵークルシ(蚊は来るし)、

⑤モーイノーイノー (もういのういのう)。

⑤モーイノーイノー(もういのういのう)は、共通語にも ある変化で、

mOU→mo(モー) inOU→ino(イノー)

と、OUが長音0(オー)化したもの。a(アー)となる 例ではないので、これを除外する。残る①〜④の曲用の発 生のメカニズム考察すると、

①hiwa(日は) → hya(ヒヤー)

②mewa(目は) → mya(ミャー)

③kodomoWa(子どもは) → kodoma(コドマー)

(5)

岡山方言考 「おめ一誰なら」に関する一考察  杉山

④kawa(蚊は) →ka(カー)

という変化であり、それぞれ

①iwa→ ya(ヤー)

②ewa→ ya(ヤー)

③owa→ a(アー)

④awa→ a(アー)

と考えられる。②ewa→ya(ヤー)は共通語にも見られ るが(これは困った→コリャー困った)、特に③、④はa

(アー)となるあたり有望である。そこで問題の「なりや」

→「なら」と比較してみると、

nariya(なりや) → nara(なら)

すなわち、iya→aであって、残念ながら上記いずれにも 該当しない。ここまでのところ「なりや」→「なら」と同

じ音韻変化をする例はないようだ。

 「なりや」→「なら」と変化するためには、iya→aと ならねばならないわけであるから、今度は逆に、「iya」と いう音を持つ語がどう変化するかを考えてみよう。「ヒヤ シンス」「木屋町」「丸美屋」といった単語はそれぞれ

1 断定の助動詞「なり」の未然形「なら」

2 断定の助動詞「なり」の終止形「なり」

         +疑問の終助詞「や」の音韻変化

という二つの仮説を立てた。

 このうち仮説1については、文中に疑問詞があると文末 の結びが未然形になるという法則(疑問詞結びの法則と仮 称)が岡山方言に存在していると考えてこれを説明したが、

今後「なら」以外の用例を多く集めることによって、この 法則が証明される可能性を示した。

 また仮説2については、「iya」が「a」と変化する用例 が他になく、結論として否定されることとなった。仮説2 が否定されれば仮説1と断ぜざるを得ないのだか、果たし てどうであろうか。他説、批判等を多くいただきたいと願 いつつ、本稿を終えたい。

①hiyasinsu(ヒヤシンス)

②kiyamachi(きやまち)

③marumiya(まるみや)

と、「iya」という音を持つが、これにiya→aという

変化が起きるとすると、

①hiyasinsu→ hasinsu(ハシンス)

②kiyamachi→ kamachi(かまち)

③marumiya→ maruma(まるま)

ということになるが、もちろんヒヤシンスをハシンスと 言ったり、木屋町をカマチと.言ったり、ましてや丸美屋を マルマと呼んだりという用例は聞いたことがない。すなわ ち、「iya」は「a」とは変化しないのである。結論として 言えることは、岡山方言の「なら」は、「なり」+「や」

一「なりや」の音韻が変化したものではない、ということ になる。

6.ま

 以上の考察をまとめると次のようになる。

 岡山方言「おめ一誰なら」の「なら」の語源的成立につ

いて、

参照

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