建築空間 の 境 界と打出 の 装 束
――
附・宮内庁書陵部蔵『女房装束打出押出事』翻刻――
赤 澤 真 理
要旨
本稿は、「境界をめぐる文学」の共同研究のなかで、建築空間の境界に着目する。平安時代から江戸時代における上層住宅
に存在した境界において、女性の領域を外部に示した打出の装束をとりあげる。打出は、二つの領域を分割させ「覗かせる」
作為のある境界とされている。本稿では、宮内庁書陵部蔵『女房装束打出押出事』に導かれながら打出の用法を整理した。
打出の用法と領域は、①妻戸に設置する(使者のための明示など)、②儀礼の空間を装飾する、③女性の座を示す機能がある。
従来絵巻等では、外部の簀子や庭に向かって装飾された打出が表現されることが多いが、内部空間に出されている事例を確
認できる。打出の意匠は、制約のなかでも多種多様な選択がある。特に『兵範記』仁平二年(一一五二)三月七日条
鳥羽天
皇五十算賀における女院の女房達の打出は、四色に限定しながらも、一人ひとりがすこしずつ色彩が異なるなどの院政期の
趣向がみられる。女房装束の打出は、室町後期以降、王朝主題の絵画にも示されなくなるが、本史料から、江戸末期の学者
に関心が復活したことを窺うことができる。現実に江戸後期に復原されなかったのは、あくまでも私的な装束と考えられた
ことが予見され、今後の課題としたい。
はじめに
中 世 絵巻 を 鑑 賞し て い ると、 貴 族住 宅にお け る儀 式空間 、 仏事 の聴聞 所 に垂 れた御 簾 の下 から、 几 帳 や 女性 の 装 束
が出 さ れ て い る ( 図
1) 。 御簾か ら こぼ れ た 装 束 は打 出 あるい は 押出 と称され 、 内 部に座る 女性 の存在を 想起 させる。
うちいでおしいで本稿は、 境界を め ぐる 共同 研究の 一 環と し て 、中世絵 巻に示された 御簾からこ ぼ れた 打出の意味を 、物 語・ 指 図 ・ 古
記録から 検討 する こ と で 、 中 世 における空間構造の一 端 を 明 ら かに し て い き たい。
建築史 家 ・ 伊 藤 て いじは 、 寺院の 内 陣 と 外陣、聖域 に ある 注
し連
め縄
なわ、男と 女 風呂の 間 に 引 かれた 一 本のロープ な ど 、
日本 の空 間に存在する 物 体 を 「 結界 ( こ こ ろ のけじ め )」 とし、 人 が物体の意 味 を認 識する こ と で 結界 が生ま れ 、 結 界
によっ て 生まれた二つの空 間は分断 され ながらも 何ら かの形 で 通い合 う と い う。
(1)
打出に対し褻 の 作 法 で ある押 出 は 、
女性が自 らの 存在を暗 示さ せる作法とす る。 伊 藤 の見 解に触発 され た垂 水稔 は、 「 覗 き見 る結 界」 には、 不 作為 と作為
があり、 打出衣( 押出衣)は「覗か せる」作為の ある結 界 と す る。
(2)
一 方 では 覗 き 見る こと を 許 し な が ら 、 他 方 で は覗
き 見 てはい け な い 表 示 であり 、 受動的 に 見る ことは で きる が 、 能動的 に 見 て は い け な い の が ( あ る い は 見る こと が で
きな い の が ) 、日本 的 結 界 の特色 と し て いる 。
前稿 で は 、
( 3)
平安 時代 か ら 鎌倉 時代 に か け て の上 流住 宅に 示さ れ た 境界 につ い て 、 ① 門と中 門 廊の 二重 の 境 界、 ② 寝
殿 ・ 対、 母屋・庇・孫 庇・ 簀子、庭などの場によ る階層の 境 界 、③ 塗籠・ 御 帳に よる日常 と 非 日常の 境 界に つい て 述
べた。固 定的 な建具が登場 し て いな い平 安時代に おいて 、 女性の領域を 囲 み 、 外 に 示す調度と し て 、 院 政 期から鎌 倉
時代に発 展した 打 出に着目 し た 。 物 語文学・女房 日記 ・古記録を 基 に、打出の内 部に座り 装束の意匠 を 競い合 う 女 房
達と、 渡 殿や簀子に座る公卿 ・ 殿 上 人 の 無関心 と いった 、 打出 を境界とした当 時 の 男 女の心 性 に注 目 し た。 本稿 では、
宮内庁書 陵部 蔵『女房 装 束 打 出押出事』の翻刻 を 示 す と ともに 、 古 記 録に所収された指図を 通 し て 、 打 出 に よ り装 飾
され た 空 間の 実 態 を 明 らか にす る。
一建築空間の境界
まず 、 日 本 の 建築空 間 の 境 界を 確 認 す る 。 隈 研 吾 は 、現 代建 築家 の 視 点か ら 日 本の 建築 空 間 に存在す る境 界にふ れ
てお り 、
( 4)
同書に導かれなが ら 、 日 本 の建築空間の境界 を 述 べて い き た い 。
(一)住宅における内と外の境界
建築空 間 に お ける境 界 の 一 つとして 、 建 物の内 部 と 外 部があ る 。 煉 瓦造や 石 造 の 建築と 異 な り 、柱と 梁
はりで構成 さ れ た日本 の 木 造建築は、開口 部 が大 き く とら れ て いる 。 座 敷 か ら 縁 側 、 鞘
さやの間、玄関、軒 先 、門、垣根、 犬 矢 来など 、
段階的に 内と外とを つ ないで ゆ く。こ の ような日 本の 住宅を 、 隈は「曖昧な 領域」と捉えて い る 。 し か し、かつ て 境
界には、今日で は 忘 却さ れ た 精神的 な 固 い 仕切り が 存 在 し て いた。 例 え ば 「 敷 居をま た ぐ」 こ と は、 今 日 で も 家族の
境界 とし て 重 要な意 味 を 持 つ 。
( 5)
内 と 外と の境界 は 、日本の生 活 文化 を 基 に 形 成さ れてきた 。平安時 代 の 寝殿 造は 、 庭 と殿 舎内 部 が 一 体 とな る よ う
に儀式空 間が展開する。 皇 族 や 公卿 が庭に近い殿舎内の廂 に、 殿 上 人は簀子(縁 側)に、楽人 などは庭に座 っ た 。 儀
式は南面 ある いは東と 西 で 行 われ 、北面 に は台盤 所 等 の 女房の 居 所 が あった 。 中世になる と、 殿舎を並 戸に より区 切
り、南側をハレ、北側をケ とする使い方が固定化 し て くる 。近世にお け る 上 流 の 武家住 宅 では、 表 と奥の 機 能 か ら 殿
舎 が 別に 造ら れ る よう にな り ( 表 ・ 中奥 ・ 大 奥) 、 殿 舎 が 後方へと 雁行 型に建設 され るように なる。 ま た 、 縁側 の内側
にも畳 敷 き の 廊下 ( 鞘 の 間 ) が で き 、 居 住 空 間は内 部 に 包 み こ まれて ゆ く。 建 具 は、 平 安 時代 には 釣り上 げ た格 子 ( 蔀
戸) で あ っ た ものが、 中世 以降には 、片 側を 引く 遣戸 と光を採 り入れ る 明 障 子が登場する。平 安時代の 玄関 は、寝 殿
から 中門 にか け て 延 び た 中 門廊 で あ るが 、儀式 の 際は 、皇族 は 庭か ら 階
きざはしにより直接 、 寝殿に昇殿 し た。 中世に 玄 関
は、中 門 廊か ら車寄と なる。 こ のよ うに 庭と一 体 で あ っ た 寝殿 造の 空間から 、書 院造の空 間に なるにつれ 、 玄関か ら
居住空間 にか け て 、幾 重も の物理的 な境 界が設置 され るように なる。町屋 や 農家で は 、土 間と 床からな る生活が展 開
し、三和土
たたきや 通 り庭を有する。 近 世以前の 農家 は土座と 土間の間に段 差は 少ないが 、履 物が普及 し て から土間で 足 を
洗い、床 に昇 っ て 素足で 生 活するよ うに なる。
(6)
炊事 や 荷 卸しは土間空 間 で 行 わ れた 。
(二)調度による境界
日本 の木 造住 宅に は壁 によ る 仕 切り がな く、 人の生活 空間 を創 り出 す た めに 、調 度 が 発展し た 。奈 良時 代か ら衝立
障 子 が確 認で き る 。平 安時 代の 寝 殿 造の 空 間 で は 、御 簾・障 子 ・ 几 帳・屏 風 ・ 衝 立・畳 な どの 調度があ り 、 季節や 通
過儀 礼 に 伴 い 、 色 彩 や 素材 を取 り替え た 。調 度類 で空間 を 仕 切 る こ と を 舗設
しつらいという 。 本稿が着目す る打出 の 装束は、
儀礼空間を装 飾し、装 束の 内側に女 房が 居る こ と を 明 示し た。 中世 以降、調度は場に固定 化され 、 建築の一 部とな っ
て ゆ く。 座臥 具 で あった畳 は敷き 詰 めと なり、襖 障子 が確 立し 、掛軸や花瓶 を 飾 る空 間と し て 床の 間や 棚な どの 座 敷
飾 が 設備さ れ 、 書 院造の室内 空 間が成立する 。また、寝殿 造の空間は、天井 がなく化粧屋根裏をみせ て い た ため 障 子
や屏風の 上 部 には隙間 があ っ た 。 中 世に 天井が吊 られ るように なり 、生活空 間は 立面上で も包 み込まれて ゆ く。
(7)
部屋
ごとに境 界と し て の仕切り が強まるが、座敷と座敷の 間 を つな ぎ、 あるいは 分断 する装置 として 、 長押上の 欄間の 意
匠が発展 す る。
(三)寺院・神社・茶室の境界
宗 教 建築 を み てい くと、寺 院 の 内陣と外陣は、仏 の空間 と 人の 空 間 を分 け、そ こ に 格 子や段差 が設けら れた。奈良
時代に、 土間からなる 仏堂の前方に 板敷の礼堂が 付加 され 、双 堂と 称された 。 次 第に、仏 の空 間(内陣 )と 人の空 間
(外陣) が同じ 屋 根の内 部 に 造 られ る。 奈良 時代末 か ら 平 安 時代初期にかけ て 、 人 々の 仏への距離感 に 変 化が芽生え 、
仏との交 感を 通し て 夢 見を 求める礼 拝方 法が新た に誕 生する。
( 8)
いっぽ う 神社の境内は、橋・鳥居・御 手 洗、注連縄 ・
白砂壇 等 のように、 各 所 に 境界があ る 。 茶室におい て も垣根 ・ 枝 折 戸 ・ 飛び石 ( 路地) ・ 沓脱石 ・ にじり口 へ と 、 茶 室
内部へと 誘 導 がなされ る。 以上のよ うに 、日本の 建築空間は、 各々 の要素に 意味 を与え境 界と する こ と で 、 場の秩序
を整え演 出したの で あ る 。
二打出の境界
(一)打出の定義と変遷
打出は 、「うち い だす」 、「 う ち い だ し 」 が 名詞化さ れ た もの で 、 『宇 津保 物語 』 『 源 氏 物語 』 に は 、 御簾から 女房 の装
束 を 自然 に出す用 例が 確認でき 、儀 礼 や 行事時に高貴 な女性に 仕え る女房達の座所を暗示 する 役割があ っ た 。
( 9)
それ は
次第にしつら いと し て の「 打出」となり、儀礼 空 間の公卿 座 ( 男性貴族) に も使用されるようになる 。 古記録 で は、
『中右記 』( 藤 原 宗忠日記( 一 〇六二 ~ 一 一 四一) 、 物語で は 『栄花物語』続 編 (一〇六二~ 一一〇七)に用例が散見
され るよ うに なる。① 儀礼 時の女院・后 の座所周辺を 装飾する。② 拝礼・ 通 過儀 礼の空間を装 飾する。 ③御 使 を 迎え
る際の 妻 戸口 等を 明示 する などの用 例が ある。 当 初は 女房が実 際に 着用 し装 束を 出し て い たが 、几帳に架けて 設 置 す
るように なる(女房は 不在) 。
・打出の定義
十 二 世紀後半 の有職故 実書 『 雅 亮装束 抄 』 に は、 「打出」 の項 目があ り 、 柱 間一間に、 二 具 の 装束 の片 袖 ず つを出す。
姿良 き 女 房が柱の際に 居 て 、向かい合わ せになり 、片 側の女性 の身 体を 、御 簾の 外側に押 し出 し て いる よう に見え る
よ う に す る と ある 。 「 紫式部日 記 絵 巻」 日野原 家 本に 示さ れた半分 が萌黄 様 、 紫 薄 様 とする打出も、 柱 間一 間に 二具の
装束 の片袖が 出 て いる状態で あ る ( 図
2) 。
鎌倉 時代中期『 三 条中 山口 伝』 には、打 出 は 大臣 家・ 摂関 家の家格、 院 ・ 法 皇が、正 月三日の拝礼に打出を出 す 。
大臣家の祭り の出立 の 際に 出す。北 政所・后宮が 不在の際 は出さな い、そ れ は女房の有無 が要 因 で ある。納言以下 は
出さない 、と ある。す な わ ち 、 打出は、北政所や 后宮 などの高 貴な 女性に仕える 女房の座所を 示す道具で あ っ た 。
『今 鏡 』 ( 巻 第四 ・ 藤 波の上 ) に 打 出 の 背を 切 る 話 し が あ る。 白河 院が小 野 の后 ( 歓 子) の元 に、 御幸 し よ うとした 。
歓子の元 には 、打出が 十具 しか なく 、寝 殿の間に 飾る 数が足ら なか った。 皇 太后 は、装束の 背 を 半 分に 切り 、二十 具
と し てし つ ら う こ と を 指 示 し た 。 「 も し 室 内 に 入 る こ とが あ れ ば、 見 苦 し い ことに な ら な い だ ろう か 」 と 女 房 が 言っ た。
御幸があり、 門より院 の車を 入 れて 、 階 隠の間に 立 て て 、 雪 を 御覧 になっ た 。 退 出し た 後 、「 雪見に来 て 、 室 内 に入 る
人はいな い」 と お っしゃ っ た と ある。 打 出は室内 側に も装 飾が なされて いた 。
十四 世紀 「駒競行 幸絵巻 」 (和泉 市 久保惣 記 念 美 術館蔵 ) は、 高陽 院に お い て駒 競が な さ れた際に 、 上 東 門 院彰 子等
が行幸し た場面 で ある (図
3) 。 左(西)側を みると、中央の座所に近い 一間は几帳のみが出され 、 端の柱二間に は
女房装束の打 出が出されて いる。 几 帳だ けがはみ 出した柱間が 女院で あ る彰 子の 座所 で あ り、 打出が出て い る柱間 は
女房の座所と 考えられ る。
・内と外を演出する打出
『た ま き は る 』承 安 三 年
( 一一七三
) 十月二十一
日 最 勝 光院堂供養にお い て 、建春門院中納言は打出 の 前 に 、装束を
身に 着け て座らさ れ て い た が、 打出の丈が背 よ り も 高 かっ たの で、外 を 見る ことが で きなかったとある。十二世 紀 後
半には打 出の 内側に、装束を着た女房が 居並ん で いた 事例が確認 で き る (図
4) 。
・打出の先行研究
打 出 につ い て の 先 行研 究は 鈴木 敬三、笹岡 要 一の研究 を基 礎に 、近 年 展 開が みら れる 。
(
院政期から鎌倉時代に打 出
10)が 発 展した要因とし て 、 服 飾の美意識の 変 化 が 指摘さ れて いる 。 服 飾文化 史 の立場から清 田倫子は、 「 『源 氏 物 語』 『枕
草子』の 内面 的なみ や びの冴え、心ばえ の 深 さ、個性 的なもの の反 映より逸脱し て 、 宮廷の豪華さを誇 示す る過剰な
装飾 の 集 団美となっ た とする 。
(
「 華 麗 な 装束 の平 家 が 摂関 家に 代 わ っ て 外戚 と な り、 平氏 の 后 妃、 建春 門 院 、建 礼門
11)院が宮廷 文化の中心と なり 、 武 士階級あるいはその縁故 者 が 宮 仕 え する 者が増 え た こ と が 、 服 飾 要 素 の 変化に 影響し
たの で は な か ろ う か」 とし て い る 。
歴 史 学 の 野田由 紀 子は、摂関期には男性官人 の 日 記 に は 登 場 し て お らず、公的な性 格 とは 認 知 さ れ て い なかっ た 。
院 政 期 に な る と 、「 家 」お よ び 「 家 格 」 の 成 立 に 伴 い 、女 院 や 三 后 、内 親 王 な ど に 仕 え る 女 房 間 の 秩 序 が 定 ま り 、そ れ
ぞれ の位置づ けや 果 た すべき 役 割が 明確 化した。 女房 間に こ う した 秩序 が成 立した結 果、統一的・ 組 織 的な「 打 出」
「出衣」 を事 前に準備 し て 、大規模 に施 す こ とが 容易 になっ た として い る。
(12)
建築史 学 の 川 本重雄 は 、 打 出は、 あ く ま で も 儀式空 間 の装 束の一つ であっ て 、決し て 女性 のため に 設 け ら れた空 間
では な い こと を 主 張す る 。
(
「年 中行 事 絵 巻」 別本 正 月 大饗 は、 東 三 条殿 にお け る 正月 大饗 の 場 面 で あり 、 寝 殿 東 側 に
13)打出が見 られ るが、 こ れ は 女性のた めに 設けられ た空 間 で はな く、 あくま で も儀式空 間の 装束の 一 つ で ある とする。
いっぽう 「年 中行事 絵 巻 」 巻 一朝勤 行 幸 ( 天皇が上皇御所に行幸す る ) 場 面で は、 几帳帷 子 一間 、 打 出 二 間分があり 、
帷子の空 間が国母の座 で あった( 図
5) 。
た だ し
、 国 母 の 席 は 院 御 所 で 行 わ れ る 朝 勤 行 幸 と い う 儀 式 な ら で は の も の
であ り、公 式 の行 事にお い て女 性 のための 空 間 が 設けら れ る こ とはな か っ た とする 。
近年、 歴 史 学 から打 出 に 関 し て 、 吉 住恭子と周 成 梅の研究が発表さ れた。 吉 住は、 『 栄花物語 』 古 記録や絵 巻、 有 職
故実書を 博捜 し変 遷を 明ら か に する。
(打出は、 後一条天 皇 の 治世下 で 頂 点 をむかえ るが 、後 三条 天皇の治世下で は 過
14)差に対 す る禁 制 が 強 化 され る。 『 玉 葉 』( 一 一六四 ~ 一 二 〇二 年 ) を 事 例に 、 打 出 に 対 し て 、 押 出 は 女 房 が 実 際 に着 用
するもので あ り、打出が妻戸口に置 かれ たのに対 し、 押 出は柱 間に 広い範囲で な されて い る こ とを見 出 す。 また 、 男
性官人が 御簾 の外側か ら装 束を 引 き 出す 作法 を指 摘す る。 次稿で は 、 『 台記』 ( 一一三六~ 一 一五 五年) の 頼長が 関 わ っ
た打出 に 着 目 する 。
(
晴 儀 に際 し て は 打 出用 の 装 束は 統 一 され た も の が 主 人 から 支 給 され た。 『台 記 』 に 示 され た 「 打 出 」
15)は、 「女房出 袖」 とあ り 、 柱間一間に 二 人 が 座 り 、 女 房が袖 を 出し着座する様 と する。 続 い て 、 近 衛天皇 を めぐる後 宮
争いとし て 、 皇 后 多子(頼 長 養 女)と女御 呈子につい て 、 清涼 殿 で 宮中最勝 講を 聴聞する 際に 、皇后多 子の 打出の 装
束は過差の禁 制の対象と指 摘さ れ 、 女御呈子の二 重 織 物 で 仕立 てた 豪 華 な几 帳は禁制とされ な かっ た こ と を あげ、 打
出が調度 化して ゆ く 背 景 に 禁制から の 逸 脱を あげ る。
周成梅は、 『 雅亮装束抄』を基に打 出 の 作法 を詳細に 明 ら かにするとともに 、 『 台 記 別記』等の史料に着 目 し、男性
官人が外 側 で 打出の装 束 を 刷っ て音 を 出 し て 引 き 出すこ と で 、 頼長に 伝 え て いた とする 。
(
妻戸に 置 か れ た 打 出 は 、 勅
16)使が寝殿へ御扇を 届け る際 に受け渡 し を する柱間で あ り、女房 が主 人の場所 へ参 入する間 には 、女房が 御簾 から離れ
るの で 、 打出を引 き 入 れた とする 。 こ の ほか、打 出の整え 方 や 室町 後期『女官飾抄』打出に袴を 出 し て はいけないと
あり、裳を 出 す こ とが 格式 が高か っ た 室 町以前か らの 変質を指 摘す る。
筆 者 は、 平安 時 代 にお ける 歌 合 の空間の復 原 に取 り組 ん だ 際に 、后 や内 親王 など の 女 性 を 主催 者 と する 催し に 、 女
房歌人が 自ら の存在 を 示すために、 装束 を 出 す事例を確認 し た 。 さ らに 、 『 栄花 物語』 か ら打出の用 例 と範囲を 分 析 し 、
晴儀の際 には 、打出の 領域 は、寝殿の西 あるいは 東か ら渡 殿、 対の 東あるい は西 面、南面 へと 広がり、公卿 が渡 殿・
簀子・ 廂 から 鑑賞したこ と を指 摘 し た。
(御 簾 内の女 房 達は、渡殿 や 簀子に座 る 貴 族達 、他 の女 房も意識 の対象 で あ っ
17)たと考えら れ る 。
大 宮 (彰子) の女 房は、寝殿 の 北面 、西 の 渡 殿かけ て 打 ち 出 で たり 。皇 太后 宮の (妍 子) は西 対 の 東面 なり 。殿の
上の御方(倫 子)は寝 殿の 東面、中宮の 御方(威 子) は東の対 の西 面、督の 殿の 御方(嬉 子)の女房、東の 対、西 南
かけ て 打 ち 出 したり。 御方 々の女房こ ぼ れ 出 で た るな りども 、 千 年 の籬の菊 を 匂 はし、四 方の 山の 紅葉 の錦をたち 重
ね、すべて ま ねぶべき あら ず。 色色の織 物 ・ 錦・ 唐綾 など、すべ て 色 を かへ 、手を つ くしたり 、袖口に は銀・黄金の
置口、 縫 物、螺鈿 をしたり。御几帳ど も 色 々 さまざまな り 。こ の 宮 あの 宮 、 同 じ 色、 一つ さ ま にも あら ず 、 聞こ え さ
せ合せた まへ らんや う に見 え て 、さ まか はりいみ じう め で た し 。
倫子六十賀( 治安三年
( 一〇
二三
) 十月
十 三 日) 御 賀 (土御 門 殿 ( 第 二 期 ) )
試みに図を描くと、寝殿から渡 殿、対に わたり壮麗な景観が想定され る ( 図
6) 。
本 稿 で は
、 有 職 故 実 書 の 翻 刻 を
通し て 、 さら に打出の 実態 につい て 明 ら かにし て い き たい。
(二)『女房装束打出並押出之事』の内容
本 史 料は 、宮 内 庁 書陵 部蔵 『 萬 機井 蛙 』 (鷹 司 政 通 写 ) 九 九 冊 のう ち、 (六〇 ) 『女 房 装 束打 出押 出 事 』 で ある 。 『 萬
機井蛙』 は、 行幸や公 家の 行事、和歌・ 装束・輿 など の有職故実に 関 わ る書で あ る。 文政 七年修学院御 幸 の 冊 子が二
図 1 融通念仏縁起上巻
図 4 打出の想定図
図 6 倫子六十賀 打出の領域 図 2 紫式部日記絵巻日野原家本
図 3 駒競行幸絵巻(和泉市久保惣記念美術館蔵)
彰子
図 5 年中行事絵巻巻一 国母
部 あ り、 江戸後 期 制 作と 考え ら れ る。鷹司 政 通 ( 一 七九 六 ~ 一八 六八 ) は 、幕末の 公 家 で あ り、 関 白 、太 政大 臣 を 歴
任し、 仁 考天皇の崩御に 接 して 准 摂 政とな っ た。 関白在職 中は、 学 習所 ( 学 習院) の 設立や薄 禄延 臣の 救済に尽力 し 、
公家社会 の向 上を はか った 。 将 軍 世 継ぎ 問題で は 、一橋派を支 持し 幕府により落 飾させられ る が、その 後、参朝を 許
され る。 朝 廷 の制度 ・ 故 実 に 深 い関 心 を 持 ち 、 関 係 資 料を収集 書写 し、 家蔵の 転 籍 ・ 記録を 整 理した 。 自 筆 日記には、
『鷹司政 通記(鷹司政 通記 草) 』が ある 。
( 18)
本 書 は 、院政期 か ら鎌 倉時代 の 古記録、 有 職 故 実 書からの引 用 が 中 心 で あり、 一 条 兼 良 筆 『 桃 華蘂葉』 (文明
十二
( 一
四八〇
) 年成
立)等 の 室町 時 代 の史 料も 散見 され る。 な お 、同 様の 書 名 に国 立歴 史 民 俗学 博 物 館 蔵 ( 高 倉家 旧 蔵 装 束
記録類) と東 北大 学 狩 野文庫 蔵 『打 出并 車出衣事 』 が ある 。 歴 博本は、 『 雅 亮 装束抄』 から の打 出と車出衣の 引用 で あ
る。 狩野 文庫 本等 は 本 宮 内 庁 本 と同 様の 江 戸 期の 故実 書 と 考え られ るが 、詳 細 は 別 稿 で 紹 介 し た い 。
①打出事
打 出 の 行 事 、 場 所 、参加 者 、 作 法、定 義 な どを 引用 し て いる。 『 猪 熊 関 白記 』( 近衛 家 実 筆 、 一 一 九 七 ~ 一
二一 七
) 正
月 拝礼 時 の 寝殿 の装 束 ( 東妻 一間 に 女 房の 袖が 出 て お り 、 北 政 所 の御 座 所 が 寝 殿階 から 東 側 にあ っ た )。 『玉
葉』正月 拝礼、 『定家朝 臣 記 ( 平家) 』 師実 公内大臣装束始(寝殿 階 間から東間並び に 東面に 御 簾を 懸け て 北 政所御 在
とする) 、 『 三 長 記』良経公 内 大臣就任( 寝 殿南溜 二 間東面一 間に 打出 ) な どをあげ てい る。また、 寛 政三年政 所 雑 記
から 「内大臣申事由給」 を 引 き 、 家 司が 沓 脱 を昇り、 乾妻 の簀子から妻 戸 口 ま で 進 む 作法を、 『勘 仲記』 弘 安 年 間 の 記
事に求めて い る。 次に 『類 聚雑要抄 』巻 二、東三 条殿の挿図に おいて 、 寝殿の東 庇に打出が設置されて いる 図 を 引用
する 。 「 有打出時 者、副妻戸畳ミ」と注記がある (図
7) 。
最 後 に
『 桃 華 蘂 葉
』 ( 一 条
兼良 著) の「打出 於ハ不可 勝事
也 云 々 」 及 び 『三条中 山口 伝 』 の打 出事 を あ げ 、 打出 が后 宮 ・ 北政 所が不 在 の場 合は出 さ ない 、 納 言 以 下は出さな い 、
押出は褻 儀の 事などを あげて い る。
②打出色目色々目
多様 な打 出 の 色目 を 紹 介し て お り、 本 史 料の中 で 大 部 を 占 める 。頭 注に は、 唐 衣 二具 二人 、 不 出
袴 例 、家 拝礼 例、二人 出例 、門院打 出、 姫宮打出 、斎 院打出、 無打 出例、衣 無し 掛(袿か )例 、四具色目不同 例 、 八
具同色例、打 出 同 色例、打 出六具同 色目之 例 、華 美 な どを あげて お り 、 以下 に紹 介す る。
・唐衣二具
『山槐 記 』 治 承四 年四 月二 十二日条 、「 即 位 塞帳女 王 、 休 幕并典 侍 等 典 侍等取 要 」 に おい て 、 柱 間 二間 に
打出があ り 、 表着蒲萄 唐衣 と薄 様薄 青 唐 衣がなされて いる こ と が記 されて い る。
・不出袴事
玉葉承元 年三 月二十 五 日 条 、 「故相国 女 ( 良経 女) 入官 、 寝 殿南廂 西 面 妻 戸女房 出 袖 及 、 妻 不 出 袴 他 間不
出 衣 、 打 出 色 」 と あ り 、 袴 を出 さ な い 事 例 を あ げ ている 。 女 房 出 袖 と あ る の で、 自 ら が 着 用し た 装 束 が こ ぼ れ ている
可能性が 高い。 『 兵範記 』 保元二 年 十 一 月 十 六日条 五 節 舞 、 『 玉 葉 』文治六年三 月十 八日条岩 清水 臨時祭 な どが あり 、
袴を 出さ ない 事例は、 比較 的内 向き 行事 の 可 能 性 があ る。
・二人出例
『後二 条 殿師 通記 』寛 治 六 年三 月二 十三 日条 、御 記 南 祭( 岩清 水八 幡 臨 時祭 ) 、 女 房 二 人 東 向 戸 打 出之 、
躑 躅 、 蘇 芳 色 也、 紅 打 衣唐 衣萌 木と ある。 こ の 打 出は 、 「 紫式 部 日 記 絵 巻」 に示されて い る よ う な 左右 で 異 な る 装 束 が
妻戸に設 置されて いる( 図
2) 。
柱 間 に は 一 人 を 出 す 例 と 二 人 を 出 す 例 が あ っ た こ と が 想 定 さ れ る
。
・白腰海浦裳、紅張袴
『山 槐記』 治 承三 年正月六 日に閑院内裏 にお い て 、 春 宮五十日、 「 有打出 松 重濃青 中 薄 青 中 紫
濃 紫 紅 単 衣 」 とあ り、 海浦の景 を描 い た 白腰 裳 と 紅 袴 をあげ て いる 。 『 山 槐 記 』 同記事に は指図がある (図
8) 。
指 図
におい て 、大 床子・御 座間・夜御殿は、 「 無 打出 」 と あ る 。また 、「巳 南三ヶ間下御 簾有打出」と ある。
・華美
『兵 範記 』 保 元 二 年八月十 七日 、 任 大臣大 饗 。 「 寝 殿 南 庇 東 三 ケ間 、 西 庇 北 第 一 垂 翠 簾 出 尋常 几 張 、 帷 女房有
打 出 、女 郎 花 単 重 、紅 打 出 、朽 葉 織 物 、 表 着 蘇 芳 、 唐 衣 薄 色 、 裳 白 腰 、 依 新 制 無 華 美 事 」。 す な わ ち 、 新 制 に 従 っ て お
り 、 華美で は 無いと し て い る。 『兵 範記 』同記 事 に は 指 図 がある 。 東 庇 三 ヶ 間 に 打 出 があり 、「 年 中行事絵 巻 」 別 本正
月大饗 に 示 さ れる庭 に 向けた打出 と 同様 である 。 西庇北第一 間 に は 「打出 放 扉 」 とあ り、妻 戸 口に打出が 設 置さ れて
いる(図
9) 。
・打出四具同色目不同例
『兵 範記 』仁 平二 年三 月七 日条 、鳥 羽 法 皇五十算 賀 は 、紅・青 ・紫 ・ 山 吹の 四 色 の 色 目 に
限定し、村濃を織り交ぜるなどの趣向をこらし た 装束 で あ る 。 ①紅村濃衣、青村古単衣、 紅打衣、青村 濃表着、山吹
村古唐衣 紫 村 古裳腰 、 山 吹村古、 表 差糸。②紫 村古 衣、紅村 古単 衣、紅打 衣、 山吹村古 表着 、青村古 唐衣 、紅村 古
裳腰 青 村古 、表差糸 。③ 青村古衣 、紅 村濃単衣 、紅 打衣、紅 村古 表着、紫 村古 表唐衣、 山吹 村古裳腰 、紫 村古、 表
差糸。④ 山吹 村古衣、青村 古単衣、 山吹 打衣、紫 村古 表着、紅 村濃 唐衣、青 村濃 裳腰、紅 村古 表差糸。 西対 代には 前
斎院が あ る打 出を し て おり 、花 山 吹 衣 、 青単 衣 、 萌 木 表着 、蒲萄染 唐衣、山 吹打 衣、樺櫻 裳腰とあり、 山吹・青・ 萌
木 ・ 葡萄の四 色 で ある。 翌 日の後宴で は 、 美 福門院は 、 紅 匂衣 、 青 単 衣 、 蘇 芳表着 、 可云紅 躑 躅歟とある。 前斎 院は 、
村 濃 を混ぜ た 古紅 色 々 村 古 (紅 ) 、 紫山吹青已 上 各一 具。 姫宮 は 樺櫻衣、 櫻 萌木表着、 山 吹 唐 衣とあ り 、 村 濃はな く 桜
と山吹の み で ある 。
『 兵 範 記 』 同 記 事 には 指図 が あ る 。 北面 の中 央に 主上 御 座 、院 御座 、 女 院御 座が あ る 。西 北面 に 入 道座 、西 対 代 に
前斎院御所が ある 。 趣 向を凝らし た 村 濃 の 打 出は、 女 院御所の 「高 麗縁女 房 座」 の 周 囲に 設置され たと 考えられ る ( 図
10 )。 女院 ( 美 福門院) の 御 所 は 、 樺 桜織物の几帳、 女 房候所は、 桜 織 物 の 几帳 、 そ の東面に 打出があると記され る 。
西 対 代 の 斎 院 御 所 は 、 渡殿、 坪庭 、入 道の御 所 から鑑賞 できたと 考え ら れ る。院政 期 に おけ る打 出 に より 装飾 さ れ た
場を 理解 する上で 貴重で あ る。
・八具同色目例
『兵 範記 』保元二 年十 一月十六 条
五節舞は、
「 同第三四及東 面南 第一 二間 出打八具、不出南 面日 御
座間、折 紅葉 衣五上山 吹匂 シ、次黄 土青 単衣、萌 木織 物唐衣、 濃蘇 芳表着、 中倍薄蘇芳単 衣、 紅打衣、 摺裳 、黄紅葉
打出
図 7 『類聚雑要抄』巻二東三条殿 (翻刻図 1)
打出
図 9 『兵範記』保元二年八月十七日、任大臣大饗
打出 打出
図 10 『兵範記』仁平二年三月七日条、
鳥羽法皇五十算賀
女房座 女院御座 斎院御所
打出
図 8 『山槐記』治承三年正月六日 閑院内裏で春宮五十日
打出
無打出
腰、 不 被 出 袴 」 は 、 八 具が 同 じ 色 目 の装束 で ある 。 『 兵範記』 所収の指 図 を みると、 常寧殿 の 五 節 所 を 取り 囲 む ように
しつらい がな され る こ とが 分かる( 図
11 ) 。
・不被出袴六具同色目例
『 兵 範記』 仁 安四年 四 月二十八 日 条 朝勤行幸 では、 寝 殿南庇 東 第一 二間 為建 春門院御 所に、
「袖出白薄物泥 繪 几帳 、帷東面南第二三 間妻切間格子 也、 南間 妻戸 不開同、有打 出出例几 帳 薄 色掛五領 、敦綿如、祭
時、 紅梅 単 衣 、 紅 打衣、 松 朽葉生 織 物、 唐衣棟 色 裳、 付濃腰紅 張 袴 」 と あり、 「 三 間 六具一同 色目也 」 とし、 袴 が出な
い 。 こ の 打出は「年中行事絵巻」巻 一朝 覲行幸に みられ る 打出を想 起させる(図
5) 。
図 12 寛政四年(1792 )四月二十八日 内裏小御所 管弦の舗設図 図 11 『兵範記』保元二年十一月十六条 五節舞
打出
『 玉 葉』 承元 三年 三月 二十五 日 (二 十三 日 ) 良 経 公女 入 宮 で は 、寝殿 南 庇西 向面妻 戸 女房出袖 及妻 ( 褄 ) 、 (不出袴
他間不出衣) 、 打 出色 、 紅 薄 様 五領 、 白 単 紅 打衣 、 梅 織 物 表着 、 葡 萄 染 織 物 唐衣、 白 腰裳を あ げて いる。 女 官 の 入宮 に
袴を 出さ ない 例は、前 述 し た「 不出袴」 の 例 にも ある。
(3)打出・押出・女房装束之事他
『桃華 蘂 葉 』 の 打 出事 、 押 出事を と り あ げ 、 打出 に 対 し て 褻の 作 法 で あ ったこ と を述べ る 。 さ ら に 、「 衣袿 錦厚薄之
事、 無 出 座 有 打出 無益之事 」 。 すなわち 、 七 条院が 障 りのため 昇殿しなかっ たが 、 女 主人が不在 で ある のに打出し た こ
とが無益 かど うかを説 い て いる( 『 玉葉』 建 久四年四月 二 八日条 )。最 終部に女 房装 束之事、細釵之事、髪 上櫛 之事 、
海浦紋 之 事、女房装束之事 、唐衣裳之事 、小袿 物 具着用之 事、掛 帯 之事、八月放 生 会 後 衣 之事、八月 冬 扇之 例、捻 重
之事、女装束之事 等の 内容が続 い て いる。
おわりに
本稿 で は 、平安時代から 江 戸時代 に おける上層 住 宅 に 存在した境 界とし て 、女 性の 領域を外 に示した 打出の装束を
とりあげた。 宮内庁書 陵部 蔵『女房 装 束 打 出押出事』を検討す る と 、 ①妻戸 に 設置する、②拝 礼 の空間を装 飾 する 、
③儀 礼 や 仏事の際 に 女 性 の 参 加 を示し 装 飾 す る 機 能 を 見出 す こ とが できた 。 打出の意匠につ い ては、 全 て同 色 、 全 て
異なる色、 四 色などに限定 、 袴 の 有 無 、 裳など 、 多種多様があ る 。 特に 『兵範記 』 仁 平 二 年 三 月七日条
鳥羽天皇
五十
算賀の女院は 、 四 色に 限 定 し一人 ひ とりがす こ し ず つ 色彩が異なり 、 村 濃 を 使うなどの趣向が み ら れた。 天 喜 四 年 ( 一
〇五六) 皇后 宮寛子春 秋歌合などの 十一 世紀の女 房 文 化を継承 しな がら 、
(
女院 や斎院、姫宮など に も 個性が発 揮 さ れ
19)てい る 。『 女 房装 束 打 出押 出』 の 存 在 に よ り 、 古 記 録 所収 の 指 図が打出 の分 析に 有効 であ る こ とが再 確 認さ れ 、 今後検
討し て い きた い 。
打出の消失 に は、
( 一 ) 后や女院文化
の消失、
( 二 ) 男性と女性の儀礼
・遊興空間の別 離 、 ( 三)空間構成・建具 ・ 服
飾といった 物 理的変 化 から 、女性の 儀礼や 文 化の 場が 邸宅の奥向で 展開 し て ゆくこ と が予見され る 。 可 動式 の し つら
いから 、 建具で 仕 切ら れ た 空 間 へと 、人 の身の 回 りの 境界 が 変 容す る過程 を 解明する こ と が課題 で ある 。
( 20)
本 史 料は、 江 戸末 期に 編纂さ れ た。女房 装束 の打出は、 室 町後 期以 降、源氏物語 絵な どの王朝 主 題 の絵画に も示さ
れなくなる 。 寛政 度内裏復古造 営に おい ても、管見の限り、 考 証 を 担当し た 公家・裏松 固 禅は 、打出 の 装束を復原し
てい な い 。例 え ば 、 寛 政 四 年
( 一七
九二
) 四月二十
八日 における内 裏 小御所の 管弦の舗設図 におい て 、女房候 所は襖 に
より締切り 、 出衣などはみられ ない( 図
12 ) 。 打出は公 的な儀式 に不可欠 な装 束 で は な く 、 あくまで も私 的の装束 で
あった と 故実 家が捉え たた めと考え られ る。た だ 、寛 政度・ 安 政度 の 復 古内 裏 造 営 に おいて も 、皇后の 儀式 空 間 で あ
る飛 香舎 が平 安様式で 建設 されて お り 、 その なかで 打 出が 復古 され たのか 、 検証 の 余 地が ある。 打 出は 牛車 の 車 衣 等
とと もに、
(完全に忘 却された の で はなく、江 戸 後期の学 者 に おい て は 、理 解が共有 され て い たこ とが 本史料を 通して
21)窺い知る ことが で きる。
〔注〕
(
1)伊
藤て い じ 『古 都 の デ ザ イン
結
界 の 美 』淡交社、 一 九六六 年 。
(
2)
垂 水 稔 『結界 の 構造 ―一 つ の 歴史民俗 学的領域論』 名 著 出 版 、 一 九九 〇 年 。 本 書につい て は 、 ハ ル オ シラ ネ氏
のご 教 示 を 得 た。
( 3) 本 共同 研究の英文 ジ ャーナル で 発 表予定。 「寝 殿造に お ける境 界 ー 女 房装束の打 出 により 演 出さ れ る 内 と 外 ― 」
(
4)
隈 研 吾 『境 界 ― 世界 を変 え る 日本 の空 間 操 作 術 』淡 交 社 、 二 〇一 〇 年 。
(
5)柏木博『
「 し き り」 の文 化論』講 談社 現代新書 、二 〇〇四年。
(
6)
安 田徹也「近 世 民家 の境界 に つい て 」 日本 建築 学会近 畿 支部 建築 史部 会報 告、 二 〇 一七年七 月
(
7)平
井 聖 『 日 本住宅 の 歴 史 』
N H K ブックス、一
九七四 年 。
(
8) 藤
井 恵
介 「
夢 見 と 仏 堂
― そ の 礼 堂 の 発
生に関す る試 論」 『空 間史学 叢 書
1 痕跡
と叙 述』 岩 田 書院、 二 〇一 三年 。
(
9)鈴
木敬三「 打出」 『 国史 大辞典』 、笹 岡洋 一「 『雅亮装束抄』の 周辺 ―か さね・ 打 出ー」 風 俗史学 、 二 十 五号 、
二〇〇三 年 。
(
10 ) (
9)前掲書
。
(
11 )清 田 倫 子 『 宮廷女流日記文 学 の 風 俗史的研究 』 中央公論事業出版、一九 八 一 年 。
(
12 ) 野 田有紀子 「行 列 空 間に お け る女 性―出 車 を 中 心に ― 」 古代文化 五 十 六号、 二 〇 〇 四年 五月 。 同 「 平 安貴族 社
会 に おける「襲の 色目」 」 「 「 対話と深 化」の 次 世 代 女性リ ー ダーの育 成: 「魅力 ある大学 院 教育」平 成十八 年
度活動 報 告書 、お茶の 水女子大 学、二〇 〇六年 。
(
13 ) 川 本重雄「寝殿造の中の女性 の空間」歴博、NO 一 五一、二〇〇八年
(
14 )吉住 恭子「 「 打出 」ー女 房 装束による 美 の演出 と そ の 歴 史 的 変 遷 」 『瞬時 を うつ すフ ィロ ソフ ィー
風俗絵
画 の
文化 学Ⅲ』 思 文 閣 出 版 、 二 〇一 四年。
(
15 ) 同 「藤原頼長 の 見た 「 打 出 」 ― そ の 日 記 『 台記』 を 中心に」 京 都 女子大学大学院文 学 研 究科 紀要、 十 四号、 二
〇一五年。
(
16 ) 周 成梅 「寝 殿 造 にお ける 女 房 装束 の打 出 」 史学研究 、 二 八六 号、 広 島 大 学 、 二 〇 一 四年 。
(
17 ) 赤 澤 真 理 「 女 房 装束 の打出 に みる 寝殿 造 の しつ らい ― 『 栄 花 物語』 を 中 心 に― 」 日 本 建 築学 会近 畿支部研 究 報
告集、計画系、二〇一三年 。同「 『 中右記』にみる打出 による空間演出とその性格―女房装束にみる寝殿造の
しつら い 」日 本建築学 会 大 会学術講 演梗概集 、建 築歴 史 意 匠、二〇 一三 年。
(
18 )国史 大 辞 典 、「 鷹 司 政通」 。
(
19 ) 寛 子春秋歌 合の装束 表現に つ い て は、 森 田 直 美 『 平 安 朝 文 学 におけ る 色彩 表現の研 究』 風 間 書房、 二 〇一 二年があ る 。
(
20 )仏像を覆 う 御帳から 厨子への変 遷 を 明 らか にする研究に、永友貴博・ 野村俊 一 「 『 石山寺縁起絵巻』にみ る 御
帳とその 空 間 施 入 と参籠を 中心に」日 本 建築学 会 学 術 講演梗概集 、 建築歴史意 匠 、二〇 一 七 年 がある。
(
21 )京 樂 真 帆 子 『 牛 車 で 行 こ う ! 平安 貴族と乗 り物 文化』 吉 川弘 文館、 二 〇一七年は 、 松 平 定信によ る牛 車の考
証を し て おり 、車出衣 につ い て もふれて いる。
〈付記〉
本 稿 は、 国文 学研 究資 料館 国際 共同研究 「境界 を めぐ る 文 学― 知の プ ラ ット フォ ー ム 構築 を め ざし て ― 」の研 究 会
における報告 にその後知 見 を加え て まと め た 。研 究の 機会をく ださ っ た 研究会の 皆様に心 より感謝 を申 し 上 げます。
史 料 の 翻 刻 に あた り 、 樋 笠 逸人氏 ( 奈 良 国 立 博 物 館) 、 中 村健 太郎 氏( 帝京 大学 短期 大学 部) 、 坂 口 太 郎 氏 ( 高 野 山
大学 ) 、 伊 永 陽 子 氏( 文 化 学 園 大学 ) か ら ご 教 示 を 得 た 。
本 稿 は、 JS P S 科研 費二 六 八 二〇 二七 六 「 宮廷 女房 日 記 にみ る中 世 前 期寝 殿造 の復 原的 研究 ― 王 朝文 化 の 変容と
空間演出を視点とし て ― 」 の成果 の 一部 で あ る 。
凡例
本翻刻は、宮内庁書陵部蔵萬機井蛙 鷹司政通 写 九九冊 鷹(函 ) 七 一 九(号 )
(六〇)『女房装束打出押出事』 を 底本とする。
翻刻にあ たっ て 、 旧漢字は新漢字に改め、異 体は通行字 体 に統一し た。
清濁・ 仮 名遣いが不統一 で ある場合も 、 底 本 のまま示す。
傍記等につい て も 底本 のまま示す。
翻 刻
萬機井蛙 女装束并打出押出 之 事
」一
オ
」一
ウ
」二
オ
」二ウ
打出事
猪熊関白承元二年正月一日御記云
今日寝殿 東妻一間女房出 衣 袖 此 外 皆爲 上達部座也
折(柳)色衣紅打表(衣)紅梅衣着葡萄染唐衣白腰裳
王海文治三 年 正月 一日家拝礼
今日打出紅梅匂青単 濃打 (衣)梅表着 蒲萄染 唐 衣
定家朝臣記康平三年七月十三日
師実公内大臣装束始
」三ヲ
御
寝殿 階間以東間并東面懸御廉爲北政所御在
所
南面出女房袖妻三長 記建 久六年 十 一 月 十日 良経 公 内 大臣券 慶
寝 殿 南 庇 五箇 ヶ間東 庇 三 ヶ 間卷上 御 簾 母 屋垂 御
簾傍立 屏 風儲公卿并幷少納 言座 如例 南留 二間 東
面一間有打出
黄青裏紅単同色打衣蘇芳表衣葡萄染――唐衣
」三ウ
寛政 三年政 所 雑 記 云
家拝礼取要
内大臣 申 事由給
家司直ニ 昇沓 脱ーー 寝殿 等之簀 子 於乾妻
御座ヨリハ 御拝賀十七日入夜■■■事是大臣也入自東間前伊与守■■卿■■■於殿下郎■也返■再拝之后重昇自南階給有御対面此間諸卿已下率参入ーー主人下立階下■ 所々■■十九日高倉殿装始先衣申北政所即於中門廊有御拝
戸申事由此妻戸垂簾也遥ニ隔之
雖然只為其儀也尤御簾動ク家司則起座也
照念院殿
此家司之 進退并道等 弘 安 比 年々勘仲 記之
」四ヲ
通也 申次 常ハ蔵人所昇降只今ハ正敷寝殿 下寝
殿母屋 之 御座出御為理然之故無家司作法也
同七年
記 云
元三之間寝殿御装束 之 様
常之放出之間■■■所也政所不在御之故無押出也玉海建久五年■■
取要北第一間 垂簾出几帳 依為廣間北面妻戸
此間主人在御之由玉海文治三正一所見
間亦垂簾自飾対公卿出居座ーー
一桃花 蘂 葉 云
一打出於ハ不可勝事也云々 」四ヲ
〈翻刻図
1及び
図
7〉
」五 ヲ
■■考弥此妻戸宜也遥ニナシ正敷此所ニ在御之例玉海文治三正一南面西第二間余在件間簾中東三条儀在対東庇南面妻戸簾中是於対南庭有拝礼時之例也於寝殿有拝礼之時在簾中又例也件間及西一間有打出三中 口傅
打出事
大臣家以上出 之納言已 下不然院中并関白家ニハ
元三拝礼尤可出此 外関白家二ハ賀茂詣時大臣家ニハ
祭使 ヲ出シ 立 ル時 又出 之伹 院中 二ハ后 宮 不 御 時関
白家ニハ北政所無同居時共不出 之所詮随女主有
無出彩 袖 之故也 元 三拝礼時東礼 所者寝殿
」五
ウ
南面
除階隱間同東南二棟南面毎間出 之西礼所可
准知 スル者女房可所ト見ル方ニ可出 之也居所
ニハ主人雖不著 色 々祇候輩令出其袖之條唯似有
其謂先規只今 不許 上西門院法金剛院御堂供
養時 御 聴 聞 所 西庇 被出 彩 袖 若本 院女 房 候 歟
将又建春門院女房候所歟其時寝殿 東南二面
毎間押出二テ有シカ ト 覚ユ押出ハ打出ヨ リハ褻儀也
當時所着之 色 々衣毎間二人出 之 也此儀 猶 以納言
已下 不然 歟 」六 オ
」六 ウ
打出色目色々例
山槐記治承四四廿二
即位塞帳女王休幕并典典侍等 取要以恭礼門外三箇 間 為休幕
東二ケ間有打出 白 褂五領 白 単衣濃打衣 裏 濃蘇芳表着蒲萄染
唐衣濃袴白 腰 裳
典侍休幕
以明義門外以三ケ間為休幕西二ケ間有打出藤 褂五領紅 単衣打 単 山吹
唐衣二具■二人歟
表着蒲萄唐衣紅張 袴薄 様 薄 靑唐衣
紅張袴例
人車記仁安二十一十四
殿上渕酔中宮御方
弘徽殿南庇 被儲座其様如尋
常南第一間有打出
山吹匂 不出袴事玉葉 承元三廿 五
故相国女入官寝殿 南廂西面妻戸女房出 袖 及妻
不出袴他間不出衣打出色
中 右 記承 徳二十一 十一
女御後朝御使之日ーー
西渡殿西庇敷筳女房打出紅梅衣家拝礼例
猪熊承元ニ
正朔家拝礼有上」七 オ
王海文治三 正 三
臨時客打出 紫匂紅 単 衣紅打衣裏山吹表着萠木唐
衣也
二人
出例
後二条殿 寛治六三廿三御記
南祭女房 二 人 東 向 戸 打 出之
躑躅
蘇芳色也
紅打衣唐衣 木
紅薄様五領白単衣紅打衣梅織物表著蒲萄染織物唐衣白腰裳
人車記仁平二正三
朝勤行幸
寝殿 東面美福門院女房打出 紫 薄様紅打衣其
東卯酉姫宮女房打出紅 薄様 同打衣寝殿西北卯酉対代廊南面前斎院女房打出
梅重衣
赤色蘇芳紅(白三)之
白表着萌木唐衣濃張 袴 無打衣
長秋記保延二 正月廿六
姫宮五十日
寝殿東西ーー出几帳除 中央間出女房衣
裏 濃 蘇芳衣青単 濃 打衣薄蘇芳亀甲文織 物 表着裏 濃 蘇芳青単衣萌
木唐衣蘇芳腰裳也
吉記前記久安六三 五
南祭打出 紅躑躅衣五領濃蘇芳単 紅打衣煽躑躅表着
蒲萄染 唐 衣 山吹腰裳 紅袴
玉海文治三 正 元
家拝礼有前 山槐記治承三 正六
春宮五十日有打出松重濃青 中薄青 中 紫 濃 紫 紅 単 衣 」七 ウ
白亀申表着蒲萄染亀申唐衣白腰海浦裳 紅張 袴
二月廿三日同百日打出 紅薄 様 萌木表着 蘇芳 唐衣 紅打衣 白腰 裳
同記同年五 廿
最勝講中宮打出
二藍 織物唐衣
文筥形白腰裳
朽葉表着
文同薄青紅張 袴
廿四日
結願同打出五ケ日ヨリ以後
青松葉唐衣二藍表着花橘捻重紅張 袴白腰裳
中右記 大 治四 正十六
崇徳院女御入内正九
御々方女房打出
つほみ紅梅上衣青単 衣 海 老 染 唐 衣
人車記仁平二三七
太上(鳥羽)法皇五十宝算 門院打出姫宮打出斎院打出濃張袴無打衣例
衣ナシ掛例
白腰海浦裳紅張袴
紅張袴
紅張袴
紅村濃衣 青村古単衣 紅打衣 青村濃表着 山吹村古唐衣 紫村 古裳腰 山吹村古
表差 糸
紫村 古衣 紅村古単 衣 紅打衣 山吹村古表着 青村古唐衣 紅村古裳腰青
村古表差糸
青村古衣 紅村濃単 衣 紅打衣 紅村古表着 紫村 古表唐 衣 山吹村古裳腰
紫村 古表差 糸
山吹村古衣 青村古單衣 山吹打衣 紫村 古表着 紅村濃唐衣 青村濃裳腰
紅村古表差糸 」八 オ
西対代前斎院女房打出
花山吹 衣 青單衣 萌木表着 蒲萄染 唐 衣 山吹打衣 樺櫻裳腰
八日
後宴美福 門院
打出紅匂衣 青單衣 蘇芳表着
可云紅躑躅歟
前斎院
古紅
色々村古( 紅 )紫 山吹青
已上各一具
姫宮
樺櫻衣櫻萌木表着山吹唐衣
四具色目不同例人車記保元二十一十六
五節所同第三四及東面南第一 二間出打八具
不出南面日御座間
折紅葉衣五
上山吹匂シ次黄土
青単衣萌木織 物唐衣濃蘇芳表着
中倍薄蘇芳單衣
紅打衣 摺裳
黄紅葉腰
不被 出袴 」八 ウ
同記嘉應元十一 廿 一
打出女院女房衣
紅梅匂靑單衣紅打衣二間中南間為御所不出之北ニノ間ニ具被出云々
玉海文治 六三十八南祭 色同 打出
打出衣 萌木匂五領ーーーー 紅単 衣 紅打衣 裏山吹 表 着 蒲萄染 唐 衣
白腰 裳 不出袴件ーー石
薄萌木褂八領紅單衣紅打衣樺櫻ニ重 織物表着
無小褂依具唐衣也唐衣并 裳 腰 同 ニ 重 織 物 也
同記建久四四廿八
南祭中宮打出如例蘇芳織 物 几帳
有下絵ーー
紅薄 様褂 五 領 白単 衣
已以練之綿薄例ーー
紅打衣
青朽葉生 織物 表着ニ藍生 織 物唐衣白腰裳也出例几帳
七条院依為一間出例几帳有打出菖蒲五領朽葉表着二藍唐衣其厚例打出
不知案内也 同 間哉引入了儲女院座但依月障不昇彌打出無益歟如何
人車記仁安三三廿七
立后寝殿 南面八間
除階間
西面四間女房有打出事
紅薄 様萌 木 表 着 蒲 葡萄 染 唐 衣 間 同 色 打衣
不出袴例打出同色例裳以緑青画事袴不出例掛之事 八具同色例
御衣 荒海如例以緑青
画厳石
同記保元二八十七
任大臣大饗寝 殿 南庇東三ケ間西庇北第一 垂 翠簾出尋 常几張 」九 オ 帷女房有打出
女郎花単重紅打出朽葉織物表着蘇芳唐衣薄色裳白腰依新制無華美事三歟
同記仁安四八廿八
朝勤行幸寝殿南庇東第一 二 間為建春門院御所 袖出 白 薄 物 泥 繪几帳帷 東面 南第 二三間
妻切間格子也南間妻戸不開同有打出出例 几帳 薄色掛 五領
敦綿如祭時紅梅 単衣紅打衣松朽葉生 織 物唐衣棟 色裳付濃腰紅張 袴
三間六具一 同 色 目 也
同記仁平二八廿八
法皇五十算賀女房出袖 同記同三八四
朝勤行幸東間女房打出其 東 面母屋 巡 二間 同打出幷六具色 目
紅張 単 重 同 色 引倍木女郎花表着萩唐衣朽葉腰張 袴
玉葉承元二 一 廿三
良経公女入宮
寝殿 南庇西面妻戸女房出 袖 及妻
不出袴他間不出衣
紅薄 様 五 領白単 紅打衣梅織 物 表着蒲萄染 織物 唐 衣 白腰 裳
打出色
紅薄様五領白単織物唐衣白腰裳
紅打衣梅織 物 表着葡萄染
三長 記建 久六
右例
■家朝臣康平三記 右例
華美掛五領紅張袴打出六具同色目之例女郎花唐衣単衣同打衣朽葉表着萩唐衣龍膽裳村濃腰