• 検索結果がありません。

withoneofthecongequencesofmyprevlousessayconce】mingtheenhancementof thesignihcanceofthelifeofdigastervictms、Ihavea1readydealtwithanother conseqUenceinthefieldofbioethics,whilethisessaytreatstheprOblemgof

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "withoneofthecongequencesofmyprevlousessayconce】mingtheenhancementof thesignihcanceofthelifeofdigastervictms、Ihavea1readydealtwithanother conseqUenceinthefieldofbioethics,whilethisessaytreatstheprOblemgof"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

生きとし生けるものとのつながりと将来世代への責任一恩の思想の視点から

高橋 隆 雄

ljnkageamongAntheljvingThingsandRespo皿gibilityto恥tureGenerations

・EhPomtheStandpointoftheldeaof‘”‐

’'昭lkaoTVnk盆h月Rhi

Abgtract

SincethegreatearthquakeonllthMarch2011,themediainJapanhavepaid

muchmoreattentiontothegurvivorsofthedisasterthanvictims・ThisegBaydeals

withoneofthecongequencesofmyprevlousessayconce】mingtheenhancementof thesignihcanceofthelifeofdigastervictms、Ihavea1readydealtwithanother conseqUenceinthefieldofbioethics,whilethisessaytreatstheprOblemgof

eni刃hellltongaeamkag,alinngs(1)thivlly;ingciaspes,ethjcalenentonm]rd②

responsibi]itytofUturegenerations・Iwinshowthatatthebasisoftheargument

conCerningtheenhancementofthesignihcanceofthelifeofthedeadliestheideaof

‘αf,Byvirtueoftheideabzf,wecantumtheecologicalrelationshipsintoethical one,andwecanalsoestablightheintergenerationalrelatio配hip8associatedwith dia]ogues、InthiBway5thisidealeadstoreconSidera1jonofthosebasicproblemsof

envirnT1memtalethic昼

は じ め に

2011年3月11日の震災後、私は、ある人の生(生きてきたということ、あるいは生 きたということ)の意義について語ること、とくに死後にそれを語ることについて思索

してきた。これまでメディアや論者は、主として震災を生き残った人々や放射能汚染に 不安を募らせている人々に焦点を当ててきた。震災犠牲者については、生前の言葉や行 動の記録も出版されたが、一部の犠牲者にとどまっている。このような状況の中で、私

は、無念の思いをもって亡くなった犠牲者について語る仕方を考えてきた。

その中で重要なこととして浮かび上がってきたのは、悲惨な死に方で終わったという 最期を含め、死者の生が今生きているわれわれに及ぼす影響であった。たとえば、故人

となったAさんが生きたことの意義は、Aさんの経験や言動によってAさん自身がど れだけ幸福を感じたか、感動したか、自己実現したか、希望を実現できたか、またそれ らが生前あるいは死後に他の人々にどれだけの影響を与えたか等による。ふつうそうし

-1-

(2)

た他者への影響は、過去から現在へと至る因果連鎖の端にある受動的なものと考えられ ているが、実は、そうではない。われわれは、Aさんが生きたことからたんに受動的に 影響されるだけでない。行為も影響のうちに含まれるのであり、われわれの能動的行為 も影響の一種となりうる。Aさんの生きてきたこと、人生に影響されて、われわれの生 き方が変わるという場合がある。すなわち、われわれの行為や生き方によって、Aさん の生きたことの意義は高められたり砥められたりしうるのである。その意味で、ある人 の生の意義(その生が当人にとって、また他者にとってもつ意義)は死後も変化するし 更新し続ける(注1)。

つまり、われわれが死者とかかわる仕方が、死者の生の意義を高めたり艇めたりしう る。この変化を死後の霊や魂を想定する神秘的なものと考えることもあるだろうが、必 ずしもそう考えなくてもよい。こうした変化は、哲学的には、「実在的変化」に対する

「ケンブリッジ変化」といわれる変化に属する(注2)。この変化は、主体自体に何ら の実在的な変化がないにもかかわらず、主体と他の存在者との関係や他者からの評価の 変化に起因する変化である。たとえば、X氏をYさんが好きになったとき、そのこと

をX氏が知れば、X氏には嬉しいとか有難迷惑といった感情が生じるだろう。その場 合、X氏には実在的変化、すなわちわれわれがふつうに変化と呼ぶものが生じたといえ る。そうではなく、X氏のまったく知らないところでYさんがX氏を好きになったと しよう。その場合、X氏自身には実際の変化はないが、Yさんから好かれているという 性質が新たに付け加わることで、X氏の性質はある意味で変化するといえる。

こうしたことはX氏の死後にも生じうる変化である。たとえば、X氏が犯罪者とし て亡くなった後に、遺族の意思が通じて再審が認められ、無罪判決が出ることでX氏 の名誉回復がなされたとしよう。故人であるX氏には実際に被る変化はありえないが、

X氏を犯罪者としたのは誤審だったということは、彼の性質、あり方を変化させるとい える。ここでは、死者について語っているが、死者の霊魂の存続という宗教的な前提は 必要ない。このようにケンブリッジ変化は、死後の霊魂の存続を必要としていない。そ れゆえ、死者の生の意義をめぐるこうした変化が、宗教ではなく倫理の領域においてい かなる意義をもつのかは、十分に考察に値する(注3)。

生命倫理の領域での考察は『人間と医療』(日本医学哲学倫理学会九州支部紀要2012)

に書いた。そこでの論点は、死者の生の意義の高揚は、殺害を正当化する文脈に登場す べきではなく、悩みぬいたうえで殺害を選択したのちに、心の痛手を軽減する文脈に登 場すべきというものであった。殺害を正当化する文脈に登場すべきではない理由は、ま ず、正当化される殺害についても正当化されない殺害についても、ひとしく死者(殺害 の犠牲者)の生の意義の高揚を語ることができるので、死者の生の意義の高揚について 語る文脈は殺害の正当化の文脈と異なるからである。さらに、それが殺害の正当化の文 脈に登場することで、殺害のもつ負の性質が希薄化し、殺害の正当化の方向へ議論を導 くことになるが、これは人間の生命の尊重を重視する生命倫理や現代法の基本姿勢に反

-2‐

(3)

するからである。

本稿では、死者の生の意義の高揚ということが、環境倫理の基礎にある「生きとし生 けるものとのつながり」や「将来世代への責任」といかなる関係にあるかを考察してみ たい。それぞれ十分な準備を必要とするテーマであるが、本稿では概観だけを述べてみ る。

1.生きとし生けるものとのつながり

自己実現や自律、自立、連帯、健康、安全等は、われわれが望むものであり、それを 得ることは、生を充実させ、幸福感を生み、生きていることの価値を高めるだろう。そ の意味で、それらは生の意義を高めるだろう。それだけではない。他者にそのようなこ とを確保させた側は、他者の生の意義の高揚に寄与したという意味で、自らの生の意義 が高められるといえる。すなわち、自己実現や自律、自立、連帯、健康、安全といった 善いことは、それを他者に行った、あるいはそのような影響を与えた側の生の意義も高 めるといえる。影響を与えた側での生の意義の高揚は、よい影響を与えたということに もとづくので、与えた側に充実感や幸福感が伴わない場合でも可能である。そして、よ い影響を与えたということにもとづくかぎり、そのような影響を与えたことを当人が知 らない場合でさえ、生の意義の高揚はありうる。それゆえ、生きている人だけでなく、

影響について知ることのできない亡くなった人が、そうした影響を与えることでその生 の意義が高まる場合もある。すると、死者の生の意義を高めることには、少なくとも、

他者の自己実現や自律、自立、連帯、健康、安全などといった、いわゆる善いこと、善 への影響が含まれることになる。

ここで、言葉の意味の拡張を行うことにしたい。それによって、ふつうには関係ない とされている事柄を連関させることが可能となるだろう。他者に対して、自己実現や自 律、自立、連帯、健康、安全などといった、いわゆる善いことをすることは、広い意味 で「養う」ということをしているといえる。

たとえば『広辞苑』では、「養う」の意味として以下が挙げられている。①子供をそ だてる。養育する。扶養する。②餌を与えて動物を育てる。飼う。③体力・気力がおと ろえないように保つ。養生する。④だんだんに作りあげる。つちかう。⑤飲食する。⑥ 箸をとって子供などに飲食させる。この中の①の意味の拡張、また、自動詞の用法であ る③と④を他動詞的に使うことで、上述のような「養う」の拡張を行うことができるだ ろう。すなわち、通常の意味を拡大して、他者の生き方によい影響を与える、よい方向 へ導くというのは、養うことの一種といってよいだろう。

養うことをする者の典型は親である。ところが、「親」という言葉も多義的である。

親には「生みの親」と「育ての親」があるように、親子には血縁関係がなくてもよい。

また、「親会社」のように、会社にも親子関係がある。「親芋」のように、何かを生み出 す元になるものも親と呼ばれる。このように「親」は多義的なので、養う者・養われる

-3‐

(4)

者の関係(略して「養い関係」と呼ぶ)を親子関係と呼ぶことは、多少の飛躍があるに しても、許されるだろう。

養い関係が広義の「親子」関係を表すと言えるならば、死者と、その生によってよい 影響を受ける者の関係は、上述の意味の拡張に従えば、養い関係であり、ある意味で、

親子の関係ということになる。震災の犠牲者の中に血縁関係の人がいないとしても、災 害死という形で終わった彼らの生が、ある人に影響を及ぼし、その生きかたを変えたと すれば、彼らはその人にとって(複数の)親とみなすことができる。奇妙なことかもし れないが、「養う」、「親」の意味の拡張を行えば、そう言えることになる。(さらにいえ ば、虐待や無視、過保護などの仕方で子を悪い方向に養い導く親もいるように、「養い」

関係はネガティブな結果をもたらす場合にも使うことができるだろう。)

さらに考えてみよう。上で述べたことは、栄養となる多くの生き物と、彼らによって 生命を維持してきたわれわれの関係とも類似している。われわれは彼らの命を奪ってき たが、見方を変えれば、彼らは自らの身体をわれわれに差し出すことでわれわれの栄養 となり、われわれを養ってきたのである。そのことを、少なくとも日本人は自覚してき た。たとえば、食物を摂取することに対して「いのちをいただく」と言うとき、生き物 の命を犠牲にしてわれわれの生があることが自覚されている。このように、栄養となっ てきた生き物たちは、われわれを養ってきたのであり、ある意味で親の役割を果たして きたといえる。

これはまことに奇妙な説に思えるが、こう考えることで、少し見えてくることがある。

仏典に現れる「一切の有情はみなもて、世島生島の父母兄弟なり」という言葉は、

本来は輪廻を前提にしてはじめて理解できる。ところが、上のように考えることで、輪 廻思想なしでも解釈できると思われる。

経典のその文句は『歎異抄』にも引用されている。

親驚は、父母の孝蕊のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず°そのゆ

へは、一切の有憎はみなもて、世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれもこの順次生に仏にな りてたすけさふらふべきなり。

(親鷲は、亡き父母の追善供養のためであるといって、念仏を称えたことは、かつて一度もない。

そのわけは、すべての生きとし生ける者は、生まれかわり死にかわりして、父母となり兄弟とな ってきているから、父母といってもこの世の父母だけに限らない。だから、つぎの世には浄土に 生まれてほとけとなって、それら輪廻の生存をくりかえしている人びとをすべて、浄土へ救いと るのである。(早島鏡正『歎異抄を読む』講談社学術文庫1992、p,108)

「一切の有情はみなもて、世々生々の父母兄弟なり」は、「すべての生きとし生ける者

-4‐

(5)

|ま、生まれかわり死にかわりして、父母となり兄弟となってきているから、父母といっ てもこの世の父母だけに限らない」という現代語訳が示すように、本来、輪廻思想を前 提している。過去における輪廻という不定に長い時間を設定することによって、現在た だ今存在するものどうしが、いずれも過去からの浅からぬ因縁にもとにあることが示さ れる。現在の時点に存在するものがすべて、親子兄弟関係という経歴を過去のいずれか の時点にもっただろうことをそれは述べているのである。生きとし生けるものは、この ように不定に長い過去の間に親子兄弟の経歴をもつことになる。

栄養となってきた生き物たちは、われわれを養ってきたのであり、ある意味で親の役 割を果たしてきたという上述の考えは、「一切の有情はみなもて、世々生々の父母兄弟 なり」を、輪廻思想なしに解釈するものである。この考えによれば、現在の生きとし生 けるもののつながりが、養う・養われるという養い関係として把握され、そこから親子 兄弟関係として把握されることになる。ただし、実際に栄養となった生き物たちはすで に存在しない親としてある。現在の生きとし生けるものは、栄養としたりされたりする 可能‘性をもつものとしての親兄弟としてある。すなわち、ここで捉えられているのは、

可能4性としての親兄弟関係である。

可能性としての親兄弟という捉え方は一見不可解なことと思えるかもしれないが、輪 廻を前提する場合でも、同様のことが生じている。というのは、過去のいつかのときに 親や兄弟であったというのは、実際にはそうした記憶をもたない以上、あくまで可能‘性 にとどまるからである。可能性であるが、不定に長い過去の遍歴という想定により、き わめて確からしい可能性とみなされる。実際の親兄弟とは、いわば実在的関係にあるが、

輪廻の経歴にもとづく親兄弟とは可能的関係にある。つまり、輪廻を前提すること、あ るいは、養い関係に訴えることで主張する現在の生きとし生けるものとのつながりは、

実在的なものではなく、可能的なものであるといえる。経典や親鴬の考えは、生きとし 生けるものとのつながりを、いわば時間軸に沿った可能性としているのに対して、養い 関係に基づく説は、空間軸に沿った可能性として捉えている。そして、両者は輪廻と生 態系という(宗教的)事実にもとづく可能性という点で共通している。

ここで注意すべきは、「一切の有情はみなもて、世々生々の父母兄弟なり」を感じた り、想像したりすることは必要でないということである。むしろ、そのような「論理」

を知ることが肝心である。

そのことについては『歎異抄』での親鷲と弟子の唯円の対話が参考になる。あるとき 唯円は親鴬に尋ねる。念仏を唱えれば浄土に生まれるはずであり、本来喜ばしいことで あるのに、幸福感が生じないのはどうしてでしょうかと。普通の師匠ならばここで、お まえの信心が足りないからだと叱姥することだろうが、親駕のすごいところは、実は親 驚自身もそれについて悩んできたが、いくら念仏を唱えても幸福感がわいてこないのは 煩悩がそれほど強いからであり、それゆえ他力にすがるしかないのだと諭すところであ る。

一s‐

(6)

念仏まふしさふらへども、踊躍歓菖のこ坐ろおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひ

りたきこ>ろのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらうやらんと、まふしいれて さふらひしかば、親鷲もこの不審ありつるに、唯円房おなじこ>ろにてありけり。よくよく案じ みれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一 定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこ>ろをおさへて、よろこばざるIま煩悩の所為なり。

(前掲書pp137.138)

ただし、ここでは別の読み方もできると思われる。すなわち、信仰にとって本質的な のは、幸福感や充実感といった心理的ことがらではなく、かくかくしかじかのことをす れば救われるという論理であるということが、そこから読み取れると思われる。宗教的 真理、あるいは宗教的因果関係は、心理的状態の如何にかかわらず厳然として成り立つ ということを、『歎異抄』のその箇所では語っているとも読むことができるのである。

これまで述べてきたことは、一見したほどには奇妙な議論ではない。というのは、た とえば人間と動植物の関係を「食べる.食べられる関係」と規定してみたが、それを食 物連鎖や物質循環と考えれば、生態学においても述べられていることである。そして、

生態学的つながりにまで話が及べば、生きとし生けるものは、生物だけでなく、無生物 である山、海、川、水、石、土、空気、酸素、窒素などともつながっているといえる。

震災犠牲者の生を意義あるものとすることは、生きとし生けるもののいのちのつなが りを介して、震災で犠牲になった家畜、ペット、魚、貝等の動物たち、野菜、松林、雑 草、若布、藻等の植物、さらには海と陸の生態系の死や破壊を意義あるものとするかも しれない。これは、アニミズム的自然観の残る日本では、けっして傍い幻想ではないだ ろう。

2.孝の思想との関係

このような仕方で生きとし生けるものとのつながりを導く際のキーワードは「養う」

という関係であるが、これは儒教思想での「孝」を容易に連想させる。そこで、孝を重 視した思想家として知られる中江藤樹の説を見てみる。まずは、『孝経』における親へ の孝とそれへの中江藤樹の注釈を挙げてみる。

そ 三 だ や ぶ

身体髪膚これを父母に受く。敢て殿ひ傷らざるは孝の#台なり。身を立て道を行ひ、名を後世

〃-jかえレーン

に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終なり。それ孝は親に事るに始まり、君に事るに中す。

身を立つるに終す。(『孝経』)。

吾と父母と、本一体にしてしかうして間隔なし。ゆゑに、吾、身を立て道を行ふときは、則ち

-6‐

(7)

父母の鬼神箸はれてし力、うしてこれを享く°吾が名、伝へ播<ときは、則ち父母の名も亦た因り てもって光顕なり。(中江藤樹『孝経啓蒙』、日本思想体系『中江藤樹』岩波書店1974p、190)

わが身は父母にうけ、父母の身は天地にうけ、てんちは太虚にうけたるものなれば、本来わが

へ ん 。 v

身は太虚神明の分身変化なるゆへ{こ、太虚神明の本体をあきらかにしてうしなはざるを、身をた つ る と 云 也 。 太 虚 神 明 の ほ ん た い を あ き ら め 、 た て た る 身 を も っ て 人 倫 に ま じ は り 万 事 に 応 ず る を、道をおこなふといふ。かくのごとく身をたて道をおこなふを、孝行の綱領とす。(『翁問答』

前掲書p、26)

子が身を立てて道を行うとき、父母の霊魂(鬼神)がそれを享受する。「身を立てて 道を行う」といっても、世間的な意味でのものだけではなく、本来的な意味での「身を 立てて道を行う」を藤樹は挙げているが、いずれにせよ、それらは父母が亡きあとでも 父母のためになるとされる。また、子の名が有名になるとき、父母の名も有名になる。

父母の亡きあとである場合、これらは父母の霊魂の存在を前提にしているが、そうした 前提なしでも、子の行為が親に及ぼすケンブリッジ変化と解釈できる。すなわち、子の 行為の如何によって親の性質が変化するといえる。

中江藤樹の孝の思想は、上の『翁問答』に見えるように、親子、君臣、兄弟、夫婦関 係だけでなく、宇宙の全存在者に孝の道理があるとするものである。しかし人間は天地 の徳、万物の霊であり、宇宙の中でも特異な存在である。

元来孝は太虚をもって全体として、万劫をへてもおはりなく始なし。孝のなき時なく、孝のな きものなし。全孝図には、太虚を孝の体段[本体の枠組み}となして、てんちばんぶつをそのうち の萌芽となせり。かくのごとく広大無辺なる至徳なれば、万事万物のうちに孝の道理そなはらざ るはなし。就中人は天地の徳、万物の霊なるゆへIこ、人の心と身に孝の実体みなそなはりたるに より、身をたて道をおこなふをもって功夫の要領とす。(『翁問答』同書pp、25-26)

宇宙に孝の道理があるとはいえ、藤樹には熊沢蕃山の「万物一体の仁」や人間と生態 系の密接な関係を説く思想はなく、人間関係のあり方が説かれるのみである。生きとし 生けるものとのつながりは、理念的には含意されているのであろうが、倫理的行為とし ては現れない。現れるのは人間関係に関わる規範であるが、その場合、自然的にすでに 存する関係を自覚することで倫理的行為が生じる。そして、それを自覚し倫理的に行為 できる点に人間の尊さがあるとされる。これは、藤樹の思想に限定されるものではなく、

自然的関係にもとづいて倫理的行為を捉える際の基本的なことがらを示している。

たとえば、Rテイラーが、生き物に共通の性質やそれらの相互関係という信念体系か ら、「生命中心主義(biocentrism)」という立場を導く際にも同様の論理が働いている(注

4。)

-7‐

(8)

A・レオポルドの「土地倫理」には恩による解釈が可能であろう。レオポルドは、倫 理の三段階を主張する。第一段階は、個人対個人の段階で、「殺すなかれ」、「うそをつ

くなかれ」が典型的な倫理規則である。第二段階は個人対社会の段階であり、「人から してほしいことをなせ」が倫理規則の典型である。そして、彼は新たに第三段階として、

人間対土地また土地に生息する動植物の段階を提示する。これらの根底にある考えは次 のごとくである。(1)人間は他の個人なくして生存できないゆえ、個人への義務が生 じる。(2)人間は社会なくして生存できないゆえ、社会への義務が生じる。(3)人間 は生態系なしに生存できないゆえ、生態系・土地への義務が生じる。こうした立場は、

生存の条件となるものに倫理的に配慮するものであるが、恩を知ることによる倫理と解 釈することもできるだろう(注5)。

藤樹の孝の思想では、わが身を生み養ってきた存在への恩が倫理的行為の基盤となっ ている。H・ヨナスの「乳飲み子の倫理」(『責任という原理』)が養う責任、保護する 責任としての倫理だとすれば、これは養ってもらった恩を知ることに基づく倫理といえ るだろう。このように、養う責任としての倫理と恩を知ることによる倫理の両方とも、

環境倫理の基盤となりうるといえるだろう。

恩を知ることによる倫理では、養い関係の自覚から生きとし生けるもの、さらには生 態系とのつながりが捉えられた。そこから、テイラーの生命中心主義、レオポルドの土 地倫理へ向かう道も考えられる。私が恩を知ることによる倫理ということで考えている のは、生命中心主義や土地倫理よりも人間を中心とする立場である。それは、動植物へ の無益な殺生を排することを前提にしてではあるが、動植物を食べざるを得ないという ことにもとづくものである。生きとし生けるものとのつながりの自覚から、菜食主義を 導くのではなく、生きとし生けるものを食べざるを得ないという根本的ジレンマの中で、

死を無駄にしない生き方をする、死者の生の意義を高めるように生きるという点に主眼 がある。人間の自然性を肯定しつつ、その否定的側面を乗り越えていくような倫理であ

り、この立場は、上で言及した生命倫理の領域への適用と同じ方向にあるものである(注 6。)

ここで、上で私が述べた「養い関係」と「親」概念の拡張にもとづく説と孝の思想の 相違点について見てみたい。孝の思想においては、上に述べた説と同様に親子概念は拡 張されうるが、その関係項は確定している。すなわち、親は親、子は子であり、子が親 になることはなく、他人が親になることもない。そうでなければ世の中の秩序が維持で きないだろう。それに対して、私の立場は、「養う」関係が基盤にあり、現在の行為が いかなるものであるかに応じて養い関係、そして親子関係のあり方が変化する。ある人 からよい影響を受けた時に、他人であってもある意味での親に転化するし、誰でも親兄 弟の関係になりうる。その点で、親子、兄弟、君臣、夫婦といった秩序正しい自然的関 係から離れる側面をもっている。

このように、中江藤樹のような宇宙論的であるが固定した親子関係を超えて、もつと

-8‐

(9)

融通無碍な親子兄弟関係が私の立場の基本にあるが、それはどのようなことを前提とし ているのだろうか。私の説の最終的基盤にあるのは、すべての存在はすべての存在のお かげで存在しているということであるといえる。これは生態学的事実とも両立すると思 われる。ただし、実際に恩を感じてそれに反応する主体はおそらく人間だけだろうし、

そうした反応が向かう対象もたいていは限定されている。たとえば、われわれはうっと うしい天気に恩は感じないが、爽快な晴天には恩を感じるかもしれない。また、ふつう は見ず知らずの人に起きる出来事に恩を感じたりしないだろうが、震災の犠牲者に恩や 負い目を感じ、その生の意義の高揚を意図することがある。「誰々の死を無駄にしない」

というとき、同朋としての誰々を問題にしているという意識がそこにはある。相互に助 け合う仲間、たがいに恩を感じるべき存在としての同胞が意識されている。そして、報 恩の対象は、広がれば人間を越えて生物や生態系にまで至りうる。このように、恩を感 じる対象は一般には種々の仕方で限定されているにしても、だれでも親子兄弟関係にな る可能性があるのであり、そのことは、すべての存在はすべての存在のおかげで存在し ているという普遍的な相互関係を基盤にして初めて成立する。

3.将来世代論

これまでの将来世代論では、将来世代への責任ということが議論の中心であった。そ こでのネックは、そうした責任の理論的根拠の暖昧さとともに、将来世代の置かれた政 治的、経済的状況、科学の進展度合いの予測困難さ、および彼らの価値観、幸福感が予 測困難なことにあった。将来世代への責任ということは、現在、多くの人が念頭に置い ている倫理的原則であり、いわば現代という時代の生んだ倫理であるが、それには以上 のような難問がつきまとっている。

こうした困難は、現在世代が将来世代について、将来世代のもつ要求を知ることなく 配慮せざるをえないという帰結を生む。ただし、子や孫の代への責任の話であれば、そ れらの困難は小さい。子や孫の世代と話し合うことは不可能ではない。そのように子、

孫から出発して将来世代について考えることは情にもかなっていて自然であるが、孫の 世代あたりより遠くへ及ばないという欠点をもつ。それ以上遠くの世代に配慮しようと すると、「将来世代の幸福に配慮する」といった原理的抽象的な配慮はできても、具体 性を伴わないものとなるだろう。

ここで発想を変えて、現在世代が将来世代について配慮するという、いわば一方的な 関係ではなく、将来世代との対話ということを基盤にもつ将来世代論を構想できないだ ろうか。これに対しては直ちに、同時代を生きる子や孫ならば対話が可能だが、同時代 を生きることがない未来の人々との対話はできないという批判が寄せられるに違いな

い。

その反論に応えるために、まずは別の問いを出すことにしよう。すなわち、将来世代 ではなく、過去の人々との対話は可能だろうか。過去の人々はすでに存在しないので、

-9‐

(10)

対話など不可能という人も多いだろう。本当にそうだろうか。たとえば、私の知ってい る哲学者はソクラテスから学びつつソクラテスと対話していると語ったことがある。こ の主張には無視できないものがある。ここにあるのは、ソクラテスについての単なるケ ンブリッジ変化ではなく、それ以上のことである。すなわち、そこには、ソクラテスと いう存在者の生を解釈することで、彼の生の未完部分を補完するとでもいえるものがあ る。それは、彼についての資料を頼りに、何度も試行錯誤しながら、その言動の意味を 明確にすること、彼の人となりを理解すること、彼の意図したことを読み取ることを含 んでいる。ソクラテスの言動から推測すると、彼は当時の人々だけでなく、おそらく後 の世の人を意識していたと思われる。後の世で解釈されることを意識した人がいて、そ の解釈を試行錯誤しつつ死後に行う。彼はすでに存在しないにしても、ここにはある種 の対話があるといってよいだろう。ここでは、ソクラテスと後の時代の人の間に共通の テーマがあり、しかも両者ともそのテーマが話題になることを意識している。さらには、

そのテーマについて掘り下げることまで行われているからである。

上で述べたように、現在世代から将来世代への原理的抽象的配慮や責任ははるか先ま で及ぶが、具体的配慮は、せいぜい、子や孫までしか及ばない。ところが、ソクラテス の例からわかるように、現在世代から過去世代への具体的配慮ははるか過去まで及びう るし、そこにはある種の対話が可能であると思われる。このように、過去の世代との対 話が可能であるとすれば、それと類比的に、将来世代との対話も構想できるのではない だろうか。

私はそうした構想を「恩」の概念をキーワードにして述べてみるつもりであるが、将 来世代論と恩の思想の関係については、日本語訳がある関係でシュレーダーーフレチェ

ットの説がよく知られている。まずはそれを紹介しておこう。シュレーダーーフレチェ ットは、J・ロールズが『正義論』において公正な正義の原理を導くために提示した社 会契約の説を、将来世代論にも適用しようとする。恩にもとづく議論は、世代間の相互 性を可能とする議論の例として挙げられるが、ロールズのいう「原初状態」での契約を 適用する立場では、そのような相互性は必要とされない。それゆえ、恩への言及はその 説の中核をなしているわけではない(注7)。

世代間の相互性のこの特殊な概念は、「恩」という日本語の概念によってもっとはっきり定式 化されてきたように思う。この概念の意味は「義務」(obligation)という西洋の概念と近い。あ

る著者は、恩について議論しつつ、次のように述べた。「ひとは、等しくよい、あるいはよりよ い」ものを子孫に「与えることによって昔の恩を」そのひとの先祖に「返すのである」。したが って、過去の世代に対して有している義務は、未来の世代に対する「恩に包摂されるにすぎない」。

換言すると、未来の人々は、われわれが恩義を感じている過去の人々の代理人と考えられるよう だ。われわれはこの負債を、われわれの先祖がわれわれのためにしてくれたことをわれわれの子 孫のためにすることによって、返済するわけだ。(シュレーダーーフレチェット編『環境の倫理

‐10‐

(11)

上』京都生命倫理研究会訳晃洋書房1993年p、126)

シ ュ レ ー ダ ー ー フ レ チ ェ ッ ト が 引 用 し て い る 文 は 、 ダ ニ エ ル ・ カ ラ ハ ン の 論 文 か ら の 孫引きで、ルース・ベネディクトの『菊と刀』の一節である。シュレーダーーフレチェ ットは引用するに当たり、「先祖」、「子孫」という言葉で補っているが、実際にベネデ ィクトが使っているのは「両親」と「子供たち」である。つまり、これはたんなる孫引 きではなく、ここにはシュレーダーーフレチェットの立場が表れている。カラハンも、

過去と将来は両親と子供たちに限定されないという立場をとるとともに、恩の立場から の議論を次のように展開する。

われわれが存在すること自体、われわれを生んだ両親のおかげであるし、われわれが生まれた 社会のおかげである。社会なしでは、われわれは生まれたとしても(両親だけでは不十分であり)

生き続けることはできないからである。(中略)そもそもわれわれが過去に負っているかどうか の問いを発することが可能なのは、(両親と社会に具現化された)過去が、われわれを存在させ 存続させるという義務を引き受けたからにほかならない。われわれは自らの生を価値あるものと みなすとき、その生を可能にしたものを価値あるものとみなすとともに、それらに対してある種 の義務を感じなければならない。(DanielCallahan,"WhatObligationsDoWeHavetoFuture

Generations?'',inE、Partridge(ed.),RPSp”sjbiIjZjes恥FiJ如肥GBI]e”tjひJ]S,Prometheus B

o o k s , 1 9 8 1 , p77)、

カラハンはさらに、過去への義務から将来への義務が生じると述べ、将来世代への義 務として、過去によって与えられたものである生と生存の可能性への義務、また、われ われの生を阻害する状態の改善義務を挙げる。また、将来世代の価値観等を知りえない としても、彼らにとって害となることを回避する義務があるとして、放射能汚染、環境 破壊、人口膨張などの回避を挙げている。

ここにある「恩」にもとづく将来世代の義務は、過去への恩を過去の代理人としての 将来に返すという構造をしている。すなわち、それぞれの世代は、以前の世代から受け たと同様の恩恵を将来の世代に施す義務があるという構造である。その場合、過去と将 来がどれほどの幅をもつかについては論者により異なるが、それを広く解するとすれば、

過去の世代を親の世代に限る必要はないし、将来世代も子や孫に限られるわけではない。

このような立場では、過去から現在、将来へと続く恩と報恩の連鎖が語られているが、

現在と過去世代、そして現在と将来世代との関係は、一方向的なものにとどまっている。

ところで、過去世代からの恩を恩と自覚するには、単に過去世代がわれわれを生み育 てたことだけでなく、過去世代が現在世代に対して行ってきたことや影響についての解 釈が必要となるだろう。そこには、さきほど引き合いに出したソクラテスの場合のよう

‐11‐

(12)

に、ある種の対話が存在するといえる。その種の過去との対話は、亡くなった両親、そ の 先 祖 、 歴 史 上 名 を 残 し た 人 々 と の 間 に と ど ま ら な い 。 見 ず 知 ら ず の 人 を 含 む す べ て の 過去世代の人々との間でも不可能ではない。過去世代の人々は、その当時を歴史の中に 位置づけ、自分たちが行っていることが将来いかなる結果を及ぼすか考慮したことがあ るだろう。そのようなことを探ることは、過去世代による恩を理解することの実質をな すだろう。つまり、恩と報恩の連鎖においても、過去との対話が存在する。同様のこと は将来世代についてもいえるのではないだろうか。

現在世代と過去との対話は、親世代やそれ以前の世代の生き方を解釈することから成 ると述べたが、それと同様のことは将来世代においても生じる。つまり、まず間違いな く、将来においても過去とのある種の対話が生じ、その過去の一つに現在のわれわれの 世代がいる。われわれが過去の世代とある種の対話を行うといえるとすれば、同様に、

将来世代はわれわれを含む過去世代とある種の対話を行う。一般に、AとBが対話す る と き 、 B と A は 対 話 し て い る 。 こ の こ と を 今 の 場 合 に 適 用 す れ ば 、 将 来 世 代 は わ れ われを含む過去世代とある種の対話を行うのだから、われわれは将来世代とある種の対 話をすることになる。

将来世代への責任や義務の根拠の一つは恩の自覚とそれにもとづく報恩である。その 点で上の考えはカラハンと同様であるが、過去、現在、将来の世代間の連鎖は、恩と報 恩を基軸にしつつも、一方向的ではなく双方向的、対話的である点が相違している。

対話的であることが有するひとつの意義は、将来世代への義務や責任について論じる 際に当然のこととされる考えの再考につながる点にある。それは、現在世代が将来世代 に対して行った悪や罪を将来世代は罰することができないという考えである(注8)。

世代間に対話を認めると、たとえば現在世代であるわれわれが将来世代に対して行った 悪に対して、将来世代はわれわれを相手にして、その基本的姿勢や原則の不十分さを語 ることになる。そのときにわれわれはもはや存在しないのであるが、死者が死後に不名 誉を帰せられるように、われわれの世代の生の意義は砥められることだろう。先述のよ うに、自己実現や自律、自立、連帯、健康、安全といった善いことは、他者にそのよう な影響を与えた側の生の意義を高めるが、逆に、それらに反する影響を与えた場合、そ の生の意義は損なわれる。これは他者からの批評なしでも成立するが、将来世代への悪 は、間違いなく将来世代から現在世代への批判を生むことだろう。ここにあるのは、わ れわれの世代が被るケンブリッジ変化ではあるが、その変化はわれわれの世代の存在意 義にもかかわるものである。その意味で、ここには、われわれに対する将来世代による 罰が存在するといえる。すると、「義務とその違反への罰」という関係が曲がりなりに も成立するので、将来世代に対してわれわれが資任というよりも義務をもつという主張 が可能になるかもしれない。ただし、本稿ではその問題に立ち入らないことにする。

以上のような、恩と報恩を軸にした双方向的な過去、現在、将来の世代間の対話を伴 う連鎖という考えは、新しい活動の提唱というよりもむしろ、これまで人間が行ってき

‐12‐

(13)

たことを捉えなおしたものである。その意味で、過去世代や将来世代との間のやりとり が「対話」と呼べるかどうかには疑問が呈されるとしても、その主張は大きく間違って はいないだろう。しかし、そうなると別の問いが生じてくる。すなわち、それがこれま で行ってきたことの解釈であるのならば、1970年代から主張されてきている将来世 代への義務・責任とは、新しいことではなくなるだろうか。つまり、現在われわれが将 来世代への責任ということで行おうとしていることは従来と同じことであり、その解釈 だけが異なるのだろうか。そうではないと思う。

20世紀後半に登場した将来世代への責任や義務は、これまでにない新しい倫理原則 である。それは、ひとつには、将来世代への責任は一家の長や官僚など特定の人ではな く、今や全人類が自覚すべき倫理原則である点にある。次に、それは時間的には子や孫 の世代を超えて100年、200年あるいは、半減期が24,000年であるプルトニ ウムの汚染などを考えれば、数万年の範囲に及ぶ。そしてさらに、空間的にも、自分の 家族、地域、国家を超えて全人類の将来を対象としている。このような点において、そ れは従来にない新しい倫理原則といえる(注9)。このような新しい意味での将来世代 への責任を自覚したことに、現在という時点の特徴がある。そこには、地球規模での環 境汚染、エネルギー枯渇、人口膨張といった、現在の幸福を制限してまで将来を案ずる

ことが必要な状況の出現という背景がある。

このように現代という時代において、将来世代への責任という新しい倫理原則が登場 した。そして、われわれの時代に初めて、人類は将来の人類について配慮するようにな ったのであり、このことは、将来世代へ向けての新しいメッセージとして残るであろう。

将来世代と対話が成り立つためには、恩の自覚を基盤にしつつ、相手と対話しようとい う意図が両者にあり、しかも語る同じテーマがなければならない。現在世代が将来世代 に配慮してかくかくしかじかのことを考え実行したということは、共通のテーマになり

うる。われわれにはそうした対話を行う意図があるが、将来世代はどうだろうか。そこ には、われわれの世代を含む過去世代からのメッセージが間違いなく届くだろう。将来 のために現在このようなことをしたということは、いやでも将来世代に知られるはずで ある。その中には的外れなものもあるだろうし、的確なものもあるだろう。それらすべ てを将来世代は評価するだろう。そこに対話が成立するといえる。すなわち、将来世代 の経済、科学技術の状況や価値観を正確に知らなくても、対話は成り立つのである。将 来世代についての未知にもかかわらず、その未知を可能な限り埋める努力をしたうえで ある理想を描いたことを、将来世代は理解するだろうし、おそらく彼らもわれわれと同

じように行動することだろう。

お わ り に

本稿では、死者の生の意義の高揚についての議論から展開してくる事柄について考察 してきた。生命倫理の領域での帰結については別稿で論じたので、ここでは、「生きと

-13‐

(14)

し生けるものとのつながり」と「将来世代への責任」について述べてみた。これはこれ で ひ と つ の ま と ま っ た 話 で あ る が 、 こ れ ら を さ ら に 広 い 脈 絡 の 中 に 位 置 づ け て み る こ と で、「養い関係」や「恩」の思想への言及がたんなる思いつきではないことを示すこと ができるだろう。

それは、倫理原則や倫理的判断の究極の基盤はどこに存するかという倫理学の本質に かかわる脈絡である。『共災の思想』ですでに述べたように、そうした基盤は大別して 自然的生命の世界と理性的理念的世界の二つである。前者は生命現象や生物の基本的在 り方の延長上に倫理を捉える立場であり、後者は正義、平等、公正といった理念を倫理 の基本とする立場である。私は自然的生命の世界を基盤とする立場を採っている。そし て、ごく簡単に言うと、その立場では「不均衡の均衡化」が自然的生命から倫理を貫く 主たる原則としてある。

死者の生の意義の高揚は、あらゆる死者に妥当することであるが、まず私の念頭にあ ったのは、東日本大震災で亡くなった人々であり、さらには、災害、事故で亡くなった 人々であった。そうした人々の死の報に接して私はある種の不均衡を感じた。こうした 感覚はけっして個人的なものではないと思う。というのは、身もふたもないような客観 的描写と言われるかもしれないが、そのような災害や事故に際して出動するボランティ アの人たちの行動も、不均衡の均衡化をめざす行動と捉えることができるからである。

そのようなわけで、本稿の出発点である死者の生の意義の高揚の議論は、不均衡の均衡 化という倫理の基盤から発しているといえる。

さ ら に 、 生 き と し 生 け る も の と の つ な が り や 将 来 世 代 へ の 責 任 に つ い て 論 じ る 際 に キ ーワードとした「恩」、「孝」ということも、生命を犠牲にしてわれわれを養ってきた動 植物、さらには生態系への「負い目」、また前の世代への負い目、またその解消が核と なっている。そして負い目の自覚とその解消とは、同様に不均衡の均衡化の一種である

といえる。

そのようなわけで、本稿での議論はすべて自然的生命の世界を基盤とする倫理という 脈絡のうちにあるといえるだろう。

1)詳しくは次の拙論を参照。「「共災」の時代へ向けて‐大震災への思想的応答の試み‐」

(高橋隆雄編『将来世代学の構想』九州大学出版会2012年、第5章)

2)「ケンブリッジ変化」の名の由来やその意義については次を参照。一ノ瀬正樹『死の所 有』東京大学出版会2011年、第5章。

3)このようなことをある授業で話したところ、終了後、「先生は天国や地獄があると思い ますか」という面白い質問が出た。それに対して、一つの答えは「それらは心の中にある」

‐14‐

(15)

であり、もう一つは「宗教を信じるということは、天国も地獄もあるという新たな世界観 をもつこと」だと答えた。そして、もうひとつ別の答えをする前に逆に質問をしてみた。「あ るグループがあなたのことを嫌っているが、そのことをあなたは全く知らないとします。

それでもそんなことはいやですか。」即座に「いやです」が返ってきた。そこで、次のよう に答えた。「同様に、死者は何も感じなく何も知りえないにしても、死んだあとで名誉を損 なわれたら死者にとってよくないことでしょう。死後の魂や霊を仮定しなくても、死者に とってよいこと、わるいことがあります。天国、地獄をこのように考えることもできるで しょう。」

4)RW蝿ylor,』?BSpe“わI。jV2WtZme,PrincetonUniversityPress,1986,chap,3

5)A・レオポルド『野生のうたが聞こえる』新島義昭訳(講談社学術文庫1997,原著1949)

6)養い関係、恩の自覚は、人間を道学者にしてしまいがちであるが、災害をつねに自覚 すべき「共災の時代」においてはもっと自然的、野性的生き方が求められる。生きとし生 けるものはつながっているが、基本にあるのは捕食関係であり、ここで必要とされるのは、

自然への感謝や畏敬とともに、猛威を振るう自然に対応できる人間の強さ・意気である。

たとえば、釣りを楽しむ、食物採集をする、うまいものを楽しく食べる、といった命のや り取り、また、恋をするといった生物のもつ本能、自然性の肯定である。自然の営みと人 間の内なる自然性の肯定は、自然のもつ猛威と恵みの両方を自覚させる。猛威も恵みも自 然と深く接しないとわかりにくいのであり、人間と自然の共生の夢に浸るのではなく、荒々 しい自然に向かう意気が必要である。共生の甘い夢は空想上のことであり、あえていえば、

意気の弱さの現れでもある。共災の時代に必要な野太い倫理とは、自然性を肯定した生き 方をするところに生じるジレンマを生きること自体をさらに肯定する(痛手を軽減する)

倫理とでもいえるものであろう。

7)加藤尚武は『現代倫理学入門』(講談社学術文庫1997)第13章で、シュレーダーー フレチェットの説を批判して次のように述べる。「フレチェット女史の試みには、便乗主義 の匂いがある。それにもともと社会契約説が世代間倫理を葬るために作られた代案だった という歴史的経緯について無頓着すぎるのではないかという気がする。なぜならば社会契 約の前提は、無限の空間の中のアトムである個人が、なぜ共同生活をするかという理由の 追求だったからである。環境倫理は、環境という共同の世界に参加しない自由がないとい

う状況の倫理である。」(p、214)また、将来世代との「対話」については次のように述べる。

「東洋には「先人木を植えて、後入その下に憩う」という言葉がある。木を植えた人と木 の下に休む人は、膝詰めで話し合うことはない。しかし、ここに時間を隔てた対話がない

とは言えない。」(pp、217.218)ここで、ロールズ自身が『正義論』でとった立場について触

れておこう。彼の立場は、無知のヴェールの想定(だれがどの世代に属するか知らない)

のもとで、より身近な子孫を大事に思う集団を代表する当事者が、先行する世代が従って きたとみなされる後続する世代への貯蓄率について合意するというものである。ここでは

「より身近な子孫を大事に思う」ことが強調される。また、将来世代の価値観は不可知と

-15‐

(16)

Iまされず、すべての社会がめざす公正な状態があることが前提されている。すなわち、子 や孫を越えた将来世代に関わることや将来世代の価値観に関する問題は、ここでははじめ から回避されている。また、ロールズの立場は恩と報恩の関係に依拠している。「彼らは、

より身近な子孫のためにどのくらい貯蓄する意欲があるだろうかということと、より身近 な先祖から何を受け取る権利資格があると思うだろうかとの、バランスをとりながら、正 義にかなった貯蓄率の科率一覧表を編成する。したがって、おのれがたとえば父親世代に 属すると想像し、自分たちの父親たちや祖父から何を受け取る権利資格があると考えるだ ろうかということに留意することを通じて、息子たちや孫たちのためにどれだけ取り分け ておくべきかが確かめられることになる。彼らが先行世代および後続世代の両方の側から 見て公正だと思われる見積もり額(状況改善のためになされる正当な引当金もそれに合算 される)に到達したところで、当該段階の公正な貯蓄率(あるいは貯蓄率の値域)が特定 される。ひとたびこのことが全段階に対してなされると、正義にかなった貯蓄原理が定ま る。もちろん、当事者たちは蓄積過程が目指す対象一すなわち、すべての基本的諸自由が 実現されうる実効的で正義にかなった制度を確立するためにじゅうぶんな物質的基盤を備 えた社会の状態一を一貫して銘記しなければならない。貯蓄原理が以上のような条件を充 たしていると想定した場合、どんな世代も他の世代がその原理に従っている限り(両方の 世代が時間軸上でどれほど隔たっていようとも)お互いに揚げ足をとることはできない。」

(J,ロールズ『正義論改訂版』川本隆史・福間聡・神島裕子訳紀伊国屋書店2010§

4 4 )

8)加藤尚武は前掲書で次のように書いている。「現在の世代が未来の世代の生存のために、

環境と資源の保護という義務を負うとしよう。現在の地球人と未来の地球人との間には、

相互的な関係はない。未来の世代は否応なしに、劣化した環境と資源をバトンタッチされ る。未来世代はどんなにひどい仕打ちを現在世代から受けても、文句も言えない。(中略)

未来の世代を被害者とするような犯罪は、現在のわれわれの文化の使っている倫理システ ムではチェックできない。」(pp、204-205)

9)この点については、前掲『将来世代学の構想』序章を参照。

‐16‐

参照

関連したドキュメント

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

職員参加の下、提供するサービスについて 自己評価は各自で取り組んだあと 定期的かつ継続的に自己点検(自己評価)

第三に﹁文学的ファシズム﹂についてである︒これはディー

 此準備的、先駆的の目的を過 あやま りて法律は自からその貴尊を傷るに至

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

「あるシステムを自己準拠的システムと言い表すことができるのは,そのシ