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雑誌名 国立西洋美術館研究紀要

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(1)

ヘリ・メット・ド・ブレスと初期フランドル絵画に おける異時同図表現をめぐって

著者 幸福 輝

雑誌名 国立西洋美術館研究紀要

号 1

ページ 9‑31

発行年 1997‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1263/00000098/

(2)

へ リ ・ メッ 卜・ド・プレスと

初 期 フランド

j

レ絵画における 異 時間図表現をめぐって 幸 福 輝

はじめに

ヨーロツノ

f

における風景闘の歴史において、

16

世紀は常に「 前 史

J

て あった。

「最初の風景画家」としてパ テ ィ ニーノ レにそれなりの重要性が与えられ、ま た、後に「理想風景」と呼ばれることになる牧歌的な風景表現がジ、ヨノレジ、ヨ ー オ、の周辺て生まれつつあったのは事 実であるにせよ、それらはロイスダー ノ レ やク ロード・ロランとし、 った画家の名 前と分かち難〈結び付いた

17

世 紀 に おける風景 画の 「 黄金時代」の前段階を体現するものと見なされてきたので ある

[1]

f

テ ィ ニーノレの作品のほとんどすべ てにおいて、前景を占めるのは宗教主 題に由来する人物像である。 い く ら l 直│而にお ける風景描写の比重が高まり、

従 来 の 宗 教 主 題 と 風 景

t

の関係が逆転したとは

L

、え、依然として風景は背 景に広がるばかりであり、その意味において、{皮の

j

風景 J I I

:

n とヤン ・ ファン ・ エイ クの 《 宰相ロランの聖母 〉 との聞に決定的な差 はない。フアノレケンフツレフの

?i(

限をまつまでもなく、彼の作品カ

f1111

止 末 期 の 祈 念 像 の 伝 統 に

EII

来する「 宗 教 的 機 能」 を もっていた こ と、風景表現もまたそのような機能に従属する もの で、、あった ことを忘 れた風景画論は 一蹴されねばならない

2

。 けれども、そのこ とは、決して、彼の作品が専ら宗教的領域において機能し、受容され、それ 以 外 のいわば「非宗教 的 機

riU1J ‑‑tJJ

欠 落 してい たこ と を ) " ' : 1

1:

床するわけで はなし、。あるし、は、そもそも、パティ ニーノレ の作品における「宗 教的 機 能

J

とはど のような機能なのか。例えば、広大な風景の 中をさまよう説話場而の 登場 人物として描かれる聖母子と王 座 に 座る 祈りの対象として の聖母子 とでは、

「 宗 教 的機能」も大きく 異なるはずであ り 、 と す れ ば、「決定的な差はな い」とも 見えたヤン ・ ファン・エイク t パ テ ィ ニーノレの風景 にも、やはり根本的差 異 が あ るとし、うことになるのだろうか。パ テ ィ ニーノ レ の絵を 前にした人 々が 戸 惑いを 党えたのは、おそらく、宗教主題いう意味論的レウ、と

L

ノレにおける表象と風 景 と し 、 う 干

111

写論的レウ、工ノレにおける表象とが、前例のないような奇妙な形式 で桜令さ れているのを無意識のうちに感じ取ったからではないだろうか[ j ;

1it

i 盈l に主題性を付与するのは、なによりそ こに描か れる人物像である。

そ こに捕かれる のが〈エ ジプト逃避途上 の休息〉て。あると理 解されるのは、そ こに旅の途

Itl

の 聖 家 族 の 姿 が十

!?l

かれるからであり 、あか、は、聖母 了 の背 後にく嬰児 虐殺〉 といった関連主題が 押 入されるか ら である。 けれども、

16

1:11:紀フ

ラン

ドノレ風景

の 中に は、

l::J~ 伝

達の機能を担っ

ている

か、単な

H

加 1 的存在なのか明確にはしがたい添景人 物 が多〈登場する。 例えば、

それがくエマオの巡礼者〉と

L

、う型手干の特定の主題に関連するモティ ー フな のか、 ヂ t j

.

邑名詞と しての「巡礼字

;J

とか「 旅人」を表現している のか判然としな い人物像がしばしば描かれることがある

[

九 風景画においては人物像が主

(3)

題伝達の機能を担っているとするならば、これはど奇妙な こ とはなU こ れは どのように型解されるぺきなのだろうか。 確かに、すでに

15

世紀の後半、メ ムリンクは背景に添景人物を好んてソ~II えてはいた。けれ ども、メムリンク の 作

品においては、前景に圧倒的な大きさをもっ聖母や聖人の像が置かれ、い

わば、前対は主題が描かれる意味論的場であり、背景は風景カ )~1WÎかれる

描写論的場とし、う明快な二分法が存続していた。これにたいし、前号 、がそ の意味論的場としての機能を失ってい こ うとするまさに出発点に位置するの がパ ティニーノレの作品であり、従っ て、 ~íí 景 t 背 景 との二分法が前提となっ ていたメムリンクの作品の絵画構造そそのまま パ テ ィ ニーノレ以降の

16

世紀フ ランド、ノレ風景画に適用することはでヨないのである

[5]

こうした点において最も興味深い作例を提供するのが、ヘリ・メッ卜・ド・プレ スである。彼の作品は基本的にはパティ ニーノレの延長上にあ り、彼はその棋 倣に終始した

l

画家である1:.,、つでも過言 ではないだろう。数点の代表 作を 別 にすれば、パティ ニーノレ風な風景画を量産した画家いう以上の評何

jI

を するこ とは困難であるかもしれなレ。 けれども、人物が

W:

んど添景と化してし まった結果、彼の作品においては「非 主 題化

j

が一層徹底され、いささか不 可思議な、そして、実に興昧深い作例が生み

I

i',されることになった。しかも、

ここで見落とすことができないのは、逆説的に聞こえるかもしれないが、まるで

作品のr~1 主題化を補うかのように、異 11寺同図とし、うある意味てやは|時代錯

誤的方法によって、彼の作品では同

11

寺に作品の「主題化」が進 められでも いるのである。本稿はヘトメッ卜 ・ ド ・ プレスの作品に見られる異時間図表 現を出発点に、

16

世 紀フランドノレ絵画の風景表現に内包された主題的合 意の問題をさく守ろうとする試みて。ある。

現在も不

l

切 なところの多いへリ ・ メットゲ ・ フーレスは、しかし、 「チウマエツタ

Jb

、 うイタリア語の愛称が示すように、すでに 生 存 中から高い評価

i

を受け、 その 名 声

I

J:進かイタリア

l

こまで届いていた。 充分知 │ られているとは" , 、 難

L

、 こ の画 家の紹介をも兼ね、まずはヘトメッ卜 ・ ド・プレスに関するファン・マンデノレの 言 葉 に耳を傾けるところから議論を開始することにしよう

[6]0

「 よく知られていな い遠くの場所であっても、なにか新しいものを生み出した いと願う場所に、自然は、時

l

E

こででも恵みをもたらすようだ。こうして自然は へンリク・メットド・フ

a

レスを地の寂し

L

、はてに生み、絵画芸術の星に育て た。メッ卜 ・ド・プ レスという名前が与えられたのは、額にかかる部分にひとか たまりの白髪があったからである 。 彼はテ河ナンからそれほど遠くないブヴペイ ーニュに生まれ、 ヨアヒム・ パティ ニーノレの後継者であったように忠われる 。 博識なランプソニウスの述べる と こ ろによれば、彼は特定の師I i につくことなく 親方画家となった 。 ランプソニウスは次のように述べてし、る。『 テ河ナンの川 は ひとりの曲家を生んだ。その 画 家

I

J :

i

家兼司人によって討句て"1't貸され た。 故国の最も美しし、景観が彼を芸術家とした

I

J : ,、かなる

l

百 │ 家からも指 導を受けることはなかった 。 小さなブウ河ーニュの人々は彼らの隣接する I I J J の栄光を羨やんで、風景画に優れたへンドリクを生んだ。 とはし、え、小さな

10 

(4)

フーヴ河ーニュがテスナンに多くをす~るように、へンドリクもヨアヒムに屈したJ 。

こで

;A

べられるヨアヒムについてあまり 多くの ことを女

11

ることはでヨなかった。

私カサ

11

ることのできたのは彼の絵が 多くのぷ 術愛好家のもとで見

11

ゆれる ことであり、彼は大いなる定、│耐と勤勉さをもって、風景、樹木、持iJ

J

111

' 1 、小さ な人物保がたくさん 1~t カ f る作 品 のために多大の 11手間とジ7・力を世やした

i彼 皮

l

は ま 小

lJl1"

1

こ と て で 匂ある。 こ の画家は円分のすべての作

J

山"

, に小さなふくろうを残した。

H

年 に、そのふくろうは全く巧みに隠されたので、人々はそれを探すのに時間が かかり、それを見つりることができないと賭けたりも し た。ふ くろう探し は彼らに と って楽しい時間つぶしとな った。 ウェイン卜ヒスなる人物 のコレクションに はI !

A

3

点の最も{憂れた)]F,¥対 f J i

il

があり、また、ロトを描

L

、た小さな絵もあった。 アム ステノレダムのウアノレムース通りにあるマノレテン ・ パペンブノレ ーク宅には彼 の 手になるかなり大きな美しくきれいな風景 酬 がある。その絵では樹木のー ト に 寝る行商 人が描かれ、たくさん の猿が彼の道具を丹

l

っ張り , ' + ,,し、木に掛け ることに熱 巾 し て

L

、 る 。 これは教皇についての)!li

U/ilJ

的表現て、あるとも解釈され て し 、 る。 猿はノレターの後継者であるマノレティン主義者てあり、教皇の本刊を あL : t:'こうとしている(彼らは教 皇を 行商人と

l

呼んで

L

t.:)

。 けれども、その解釈 はおそらく誤りであり、へンリクはこのようなな

l

床を込めたのて"はなかったと忠 われる。 と し 、うのは、芸術

l

判 長 、

L

IJ

ではありえないからである 。 アムステノレタやムに はまたメノレキオーノレ ・ ム ー テロン氏宅に卓抜な小品がある。 それはエマオの 巡礼者を摘し、たもので、そこには鷺くべき数の細部が認められる。 エマオの 城と巡礼者は前景に大きく捕かれてし、る。仙の場所で彼ら は食

l+i

IJFI

んで いる。また、他の場所ではエノレサレムての受難の場面、{ダ

JI

Lf

,エッケ・ホ モとか十 字架の見えるゴノレコヲの丘、復

i1i

なども見える。 j l k : の 作

lul

は皇'i

1i

の コレクションにも見られ、また、 イタリアや他 の場所でも 見 られる 。 とりわけ、イタ リ ア て 、

j1

支の作品は求められた。 この小さな ふくろうの 曲家の名戸はきわめて 広〈知れわたっていたからである

j

以上がファン ・ マンテツレが伝えるへリ ・ メット ・ド・プ レスについての記述の すべてて ある。 き わめて

9&

,呼段告て。はあるが、 タ イ

JI

えば、 バティ ニーノレに ついて の文立I もはば同じ長さであり、短いからい、って決して1

71

急にある判断に結 び付けられではならなし、。 とはいえ 、 伝記的事実についてもほとんど触れられ てはおらず、また、 言及されている作!守

1

の数も少ない 。ファン ・ マンテツレにとっ

て、 16111 紀前半のフランド、ノレの画家は、ある ~~I床てやは、 15111: 紀の同家より

も速い作ど

:r

てやあったのカョもしれない

7

ヘリ ・ メッ卜・ド・ プレスがなんらヵ、の

)1

ヲでノ

f

テ ィニーノ レ

t

抜 f q 1 !カ

f

あったことは

111h

! t ; いないが、どこ で

"IIIIL::

長を修行したのか、どうし、った注文1",'カ九、たのかなど についての 4在ß;な情報はない。 こうしたl!正弘11 の 'l';~ の欠 UII と k 付.J !!¥lをなすの が、その膨大な作 ,

1

1

t r . てゃある 。 へリ ・ メッ卜 ・ ド ・ プレスの作品のカタログはイ{ . 在しないが、リュック・セノレクの川上論文には

f

/ l 、

"1

数のイ

7111111

が制載され 討、し かも、引イ

A

もなお、 絵阿同 │ マ一ケツトには恒 ; 市 市

l

リ ; 片 : ; ( 的 句

l

内 に

i

彼 l 皮 主 の { 作

1午主

J 品 山 カ が

t

守 管 ) ; 場 品 . す る

ι

。へ リ ト . メ ツ ト ト . ド . フ ブ ず レ ス の { 行 作

1午三J11

とつ桁

J

J

向向してお〈べべ、きは、 へリト.メツ卜.ゲド.フ、守、レスの

J

場 易 令 、

u

ぷ ノ

.JJ

イ { 作

1

午 刊

1

九 マ 市 市 山

Ji

11hd1iJ

11 

(5)

ri~.l

ヘトメッ卜・ドプレス

エマオの巡礼者世H'Jl¥);() アントウェノレペン、7イヤー77'7' ン・ベノレ7;長郁itii'ii

fig.2 

ヘトメットドプレス (1字架を運ぶキリスト〉

プリンストン大'手附属美術館

質の落ちる模倣作が膨大な数にのぼるとし、う 事 実 である。このことをどのよう に解釈するかはともかく、そのことは「小さなふくろうの画家の名 声はきわめて 広〈知れわたっていた

J

とす るフ ァン ・マンテツレの証 言 と見事に一 致している。

ところで;この短 いファン ・ マンデノレの記述には熟慮に値する一節が含ま れている。それはヘリ・メット・ド ・ プレスの手になるくエマオの巡礼〉に関する 彼の記述である。ファン ・マンデノレによれば、この絵て やは 前 景にエマオの城 と巡礼者が大きく描かれるカえ同時に、背景には巡礼者が復活したキリスト とともに食車を囲む場面が描かれ、さらには、この主題の前提となる受難伝 の諸場面もが描かれて いるという のであ る 。 こ の作品は現存しないが、ヘ リ ・ メッ卜 ・ド・プレスに は くエマオ の巡礼〉を主題とする数点の作 品 が残されてい る

[9]

。 例えば、マイヤ ー・ファン・デン・ ベノレフ美 術館(アントウェノレペン)の所 蔵になる〈エマオの巡礼者を伴う風景 >

(fig, 

1 ) には巡礼者の姿 が 中景の 森の中に見られるほか、背景の丘の上の城てやは巡礼 者と キリスト の食卓を 囲む場面が描かれている。 アン ト ウエノレペン作品がファン・マンテツレが言 及 する「エマ オの絵

J

でないことは

l

明白ではあるが、しかし、同ーの巡礼者が複 数の場面に描かれるという点で共通 し ている

[10]

。また、へリ・メッ卜 ・ ド ・ プレス の代表作のひとつに数えられるプリンス トンに所蔵される〈 十字架を運ぶキリ ス ト> ( f jg

, 

2 ) には背景に受難伝諸場面が描かれ、ヘトメットゲ・ プレスが 複 数 場面 の共存する作品を描

L

、たとするファン ・ マンデノレの証言 を裏付け ている

[11]

12 

(6)

ヘリ

メッ 卜 ・ ド・ プレスを

J

! P . l 長

Illil

家として称揚しながら、その風景 描写がど のような意味において優れている のか については一 言 の説明もなく、専らその

HW の向f~~_見に tj対台するファン・マンデノレの ~IEF;

は奇

k

少なもので はあるカえさ しあたりそのことの当否は問うお、。 ここではファン ・ マンテツレも注1;

1

せざるをえ なかった、ヘリ ・ メット

プレスの不可解な主題の扱い方を問題とした

L

、 。

「驚くべき数の細部」から構成されていた《 エマオの巡礼者 》 は、どのような歴 火的背景から、また、どのような立凶をもって制作されたのだろうか。 そのこ と そ議論する

Hii

に 、

16

世紀フランドル

J!li¥

景画に │ 刻する研究史的現状につ いて 縦認しておこう。 それは こ の時期の風景画における主題の問題を考察する

│ ュ で.の重要な前提ともなるはずである。

I I  

すでに述べたように 、ヘリ

メッ ト ・ ド ・ プレスは

16

世紀前半にアントウエノレペン で活動したフランドノレの画家て、ある。 研究者によって活動時期は多少のず れを見せるが、一応、

1540

年代、

50

年代を 中心に活 動した画家と考えてよ かろう

[12]

。パ テ ィ ニーノレの段年が

1524

年て、あり、ブリューゲノレの風景画の 代表作である月歴画連作が

1565

年に制作されているから、まさしく、この画 家 は バ ティニーノレとフ

V

ュ ー ケツレい、うふたり の 偉 大 な 風 景 画 家 の

rlI

聞に位 向して いたと

L

、えるだろう。ところで;冒頭に述べ、たように、

16

‑ L ! U 己 フ ラ ンド ノ レ の風景画は、あ る意味て非常に│度,*な理解の対象とな ってきた。その理 由 はさまざま考えられるカミ最も単純かつ明白な理由は、

16

世紀の風景画に はすべて主題があ ったからい、う こ

t

になるだろう。こ のこ とはすでにパティニ ーノレの作

1

l

に言 及しながら説明したわけであるが、ブリュー ゲ、ノレの作品を

(91J

にとってもう 一度確認しておきたし、。 彼の作品の多くは

l

長民生前を描

L

、 た

j

風俗的描'13:であったり、あるいは、諺や言

L

1111

しなどの民衆文化に組ざした もので、あった 。 宗教主題、神話主題の作{タ

JI

は少ないとはいえ、ブリューケツレ の場合、必ず、その作品には風長描写にとどまらない主題的な裏付けがあっ

た 。一見 、 主 題 的束縛から解放された

JAHt

!‑i回のように見える著名な月歴画 述作でさえ、そ こ には中世末期以来の多数 の¥1村議書によって述綿と保持さ れてきた月暦表現と

L

、う主題的伝統があ ったの である。従って、ブリューゲ ノレの評価に際し、「風景画家ブリューゲ、ノ レ 」 と

L

、う視点

L

:J:特殊化され、その風

1;ftill

写が'l'1

:11

される こ と はあっても、本質的な

11:1

t

して l [ Xり上げられる こ と は ~kー してなか っ た 。基 本文献とされるグロスマンの研究書が出版された

1955

年以降もブリュー ゲ ノ レに │ 長

l

する多くの研究書が公刊されてきたが、スト リトベツクにもマレイニツセンにも

j

瓜対画への関心はうかがえな

L

、 。 ギブソン の労作が管場するまで、J.ir~\景画の 川題はブリュ ー ケツレ研究の欄外事であ

っ たと

L

、 っ ても過 言ではない

[1:1

この こ とはブリューゲ ノ レの円本における評{ I I I I を例に

t

れば、さらに界易に理

!げされよう。ブリューケツレが

U7

ドで

j

よく受け入れられた理由はさまざまに推

i

則するこ

t

ができる民

1"

野孝次とし、 た作家がブリューゲノレを取り上げたこ と、また、上 } j定 ー とし 、った戦後

11

本を代表する美術評論家が早い│ 時期に そノグラフィーを公J'IJ し たことも少なからぬ )1i~粋をもったであろう。また、アカ

13 

(7)

デミックな分野に身を置きつつも、民衆文化論1:¥、う境界領域的視点から 大部の刷究書を次々に著した森洋子の存在も 忘 れることはで

3

ない

[14]

。け

れども、 これらのブリューヶ ツレ受待者たちにも、

風対iIIT

l

家ブリューゲノりとし、

う視点は基本的にはイ

f

在していなかった。 彼らカ

iir

J ;

J

心をもったのは「大地に 生きる民

L'<':

の姿を

tllj''

¥、たブリューゲノレ

j

て、あったり、「ラプレー 的 祝 祭 の I m l 家 ブリューゲノレ」て、あったり 、あるいは、「民衆文化の代弁者ブリューゲノレ」

て。あったりしたのである。

むろん、その こと は決して手

J::~H~ されるべきことではなし、。

ブリューゲノレ にその

ようなれ! J I

I(II

があったことは紛れもない事尖であり、上記の著者たちがそれぞ れの立場ーからプリューゲノレの作品にアプロ

チをかけたことはむしろ当然 て。あったカ・らてやある 。けれども、

Hn

題はその 先にあったと

L

、うべきであろう。ブ リ ュー ケツレの風景柿写を賞授しながらも、その芸術の組幹は民衆の描写に あったと

L

う 、 言 説は、

iJ;

巣として「風景画家ブリュー ゲ 、 ノ レ 」 と 、 し う ね

L'.

試を消滅さ せ、また、

17

世紀オランダ風景画の前段│ 時?としての

16

世紀フランドノレ風対

J

I

向 とし、う凡

)j

を育んでしまったからである 。

フョリューケツレは

j

瓜 対 版 画 の ド 絵 素 材

l

tlilJ

イ乍者として出発し、初期作品

の 《 種目キ〈人のいる風景

)

( ティムケ ン・ アート・ギャラリ

)から

)1

雌 画 連 作 を 経て、最│ 晩年の作

ていある 〈 絞 行 台 の

J'

,のかさささ' } (ダノレムシュタット)にし、

たるまで。).a,¥景描写を

Ijl

心課題とした画家であった。また、ブリュー ゲノレの

fi:

品に観察されるこのような優れた風景扮l 写は 、同時に、風景に

|刻する同 II~J

ヒストリオグラアィー

代の多くの暦史記

JA

と重なりあう。アルプス景観を

.Nij¥

、た彼の素描がファ

ン・ マンテ ツ レ によって日及されて いることは、

1f

l.なる逸話にとどまるものではない し、多くの片:述家によって繰り返された

f16

世紀フランドノレの画家は風景品 写仁秀でていた

J

  ¥づ定義もまた修辞的市会句ではありえないのである 1 : 。 ブ

リュケツレにとっても、 16 世紀フランドノレ絵同にとっても、風景柿 1~nt 本質的

な意味と機能を担った領域てあったと考えるべきなのではないだろうか

[15

1

f

'tIftil

家ブリューゲノレ」は、また、彼の作品の

日本での受作を説明する

もうひとつ視点を提供するであろう。彼の作品が受容された ことの背景に は、その作品が単にギリシヤ

ロー マ神話やキリスト教の世界から比較 的 距 離を置いたもので。あったためではなく、彼の絵画にしばしば登場する、どこ かプリミティフでしかも宇 宙 的な広大さを実 感 させる風景表現のためていあっ

たように忠われるからである 。例えば、ブリュー ゲノレの風景画と 雪 舟(1

420

1506)

の作品とを比較して みよう。最初の作品はブリュー ゲノレの

雪 中の 狩 人 ) ( ウ ィ ー ン美術火美術館)と雪 舟の

(I

季山水凶)(東京凶立博物

fi'l;i)

より冬の場面である ( f i g ,

3/4)

。ブリュー ゲノレの作

JiI

1

ま前対に大きく農 民 の姿が州かれているが、どちらもに超然とした冬景色カサ

111

カ、れてし、る。ある

L

、 は、ブリュー ケツレの

〈キ~首台の

! のかささき"

}(

タツレムシュタッ卜 )ι

l

i 舟の

(

111

水 図 ) イ│ ( 占!人蔵)とを比

1'

攻してみ よ う ( f i g

.5/6)

。 どちらも両家 の

ilt

晩 年 の 作 品であるが、極度に凝縮さ れた宅聞が

)1

1 :/ 

J

くされているのがJl

.I!

併されるであ

ろう。十日:かふたつの比 較例ではあるとは

L

λ

、ブリューケツレの作 品 に初出ざさ れる峻険たる岩 山の

1;"t

1 [ 見 や

1;1

ー大な空 川柿成、また、大白 然とそ こに添対の ように干

!?l

かれる人物の捕写1:¥、 った絵阿

im:1

. : J : 、 l j i . な る 形 態 │ ¥ の

fji

似を

J

14 

(8)

fig.5 

え、確かに雪舟 の 山 水 @

I

に;wじるよう に官、われる のである。

こうした形態的類似は、しかし相通 じあう理念がもたらしたものでもあっ たことを忘れではならないだ、ろう。ブリューゲ、ノレの時代の風対匝│には「世界 風 景

J

. I :

L

う 名 称 が 与えられ、そ こ には

17

世 紀オランダで成立するいわゆる写 実 的 風説 匝

1

1:.は大きく興なる君

11

念が内在していた と考えられて

L

、 る。引 実の 断片と し ての 写実的風景画とは異なり、 ↑l 卜界風景は自然全体の半

FI

を描くこと を目的としていた。ある意味てや、 こ れは山 水 画の 白 然 観l こ 共通する 認 識 て あ った と

L

、えるのではないだろうか。

E

こか非現実的で二けれども、自然そのもの を描いたかのようなブリュー ケツレの風景描 写 に 多く の 日本 人 が 山 水 同の

11

卜 界に近いものを感じたのは決して偶然で、はなかったので、ある

16

山 水阿1 1:.の ljí 純な 比較は避けなければならないが、ブリューゲノレの lI~i: 代

の 胤 長

11111

が どこかで 米洋の風景表現につながっていたとすれば、それは

ij.iIlhî者に11'1桜の 1;i~ 響|刻係があったかどうかとし、う ~~~tí命 t:.' けて。はなく、ひとつ

の 文 化 のI j

l

における風景表象と

L

、う大きなみ

.I

J . ' Xの l j

'

l で 風 景

plll

を世

λ

,' , [ す こ ともまた必安である こ とを示唆するものとし、えよう。

ブリュ ー ゲノレの

Jwl.

:

r;(

ぷ引と,,; . 舟 の 山 水

111I1

と の

11

¥1に比

n

晴れるま

Ji

紘 性 I J : 、 決して彼らだけの例外的。 l~ 象ではない

f

ティニーノレやへリ ・メッ卜 ・ 1'" ・ プレ スの奇恕 ノ ミ 外 ともし、える日

111

の表引に最も近し、ものは、実はヨ ーロ ッバ絵I '

III

fi~. プリューゲノレ

'1;.tjlのれー人〉

ウィーン美術史 美 術 館

fi".1  '1;')i

問乍111水炉1()(剖i分)

~()jqT~ιI'!;. 物館

fi~,

fi~. ブリューゲノレ

f;lのかささ昔、

タツレムンュ11.:/ト、ヘッセン州い'rR術向1

fil(. lj'))J 

111ノドド1

1111人必

h n

15 

(9)

fig.7 

ヘ リ ・ メ

γ

ト ・ ド

プ レ ス

鍛冶場のある胤;止〉

プラノ、1"1ι美 術 的

fig. (1明。'.1.f切「刈〉

台北、放民間物館

口氏。 羽}~.g

小{川'1).lt.l'iO;';lt'j物航

ではなく、むしろ、中国や日本の絵画に見 出すこ とができるからである 。 仔

JI

え ば、ヘリ ・ メッ ト ・ ド ・ フ

ν

スの 〈 鍛冶場のある風景 } ( フ。 ラハ 国立美術館)と

{I

l

皇 幸局図 } ( 台 北 、故宮博物院) とを 比較 し てみよう

(fig.7/8)

。台北 の作品

は 唐 の 玄 宗 が 安 禄 山 の 乱

(755

' 9 三 )のとき、局の成者

11

に亡命しようとしている ところ制郎、たもので、唐時代の原画に基づく宋、ないし、明時代の模写とし 、 われてしる。 なによりも驚かされるのは、匝 │ 面全体の構図の類似 である。どち らの作品でも前景に 多数の人物が配され、 中景には樹木や野原が見られ る 。 そして、 画而の上半分を占めるのは峻険たる岩 山である。へリ ・ メッ卜 ・ ド ・ フ。レスの作品てやは逼か彼方 l こ いたるまでの奥行きが表現されて いるのにた いし 、台北作品て

1

ま平面性、あるし、は、装 飾性が強制され、遠くの風景描 写

1

.;1:省略されているが、それでも、と こ ろど こ ろに雲 海て隠されたー 遠 山が 描 かれ奥行きが暗示されてし、る。 一方は鉱山!:.' 、う日常性の

5

郎、場耐を描き 、 他は歴史 l 酉

i.:!

,、ってい、

L

、場面を描いているのであるから、 主題の点 からみ れば全く異質な作品とし、うことになるのだが、手│ ニ 現実的な 山岳 景 観 と { 即 日 政

j

図において両者は共通してし、る 。 けれ

E

も、ふたつの作品の類似は、

illil

而 のそ ちこちに描かれる人物モテ ィ ーフによって強調されている こ とを忘れて はならなし、 。 彼らの存在が、

111

岳 景 観 の 険 し さ と こ の │ 立ならね異 貌性を一層 際立たせてし 、 る

[17J

fig fig.8 

風景画といえば、まずそこに描かれる風景描写が問題とされる 。 これは 当 然 の こ とに思われるかもしれなし、。 けれども、

i

羊の東西を問わず、人物が描 かれない風景画と

L

、うものはほとんど存在しないことも事実 であり、そのこ と に も っと注意を 払う必要があろう。

11

世 紀 北 宋 の 画 家郭燃の

林 泉 高 致』 は中 国の代表的な 山水 画論と して有名なも のであるカミそこに 「 山水に 三 大あり。

山は木より大なり 。 木は人より大なり

J!:.

,、う有名な言葉が見 出される

[18J

。こ れは時ごに人間の姿が大きく捕かれる こ ともあった当 H 寺の 山水画にた 、する し 反論でも あったのであるが、同時に、雄大な自然を描写するためには、 そ こ にごく小さい人物が加えられるべきであるという教えでも あった。草

11

県の

早 春 図

H

台北 、故宮 │ 書物館)

(fig. 9)

などを見れば、彼の 言 葉 の 意味 がよ く

*1lI併されるだろう 。 他方、

15'lt

ト紀 の半ば頃にヤン ・ フ ァン ・エイ クの絵画守 'l:t賛する言葉を筏したイタリア人のノカレトロメオ ・ フ ァチオはヤンのある絵 l 叫 に 言 及 し そ の 絵 の 背 景には 「 小 さな入品、さらには

111

や森や村や城カリ!?

妙な技巧をつくして Hi'i かれており、それらは l/~' 、に他から五 )J歩 11111 れている

と信ぜられる程である

J

! : . ! L h べ て い る

[19~ill 限の

言葉 が偉大な自然を讃える

16 

(10)

ものであったのにたいし、ファチオのI~; ~

は村敏な

WJ

rl

描写にたい する1't

f

そであると一 般には:D

I.J

f~平されてし、る

けれども、 1 11 水画が最も重要な 絵 plÎI ジ ャンノ レであり続けた

111

日や 日本の場介とは裂なり、 ヨーロッパの

JA¥

IIIII

に凡 られる添景人物にはも っと複雑なな

l

味や機能があった に違いなし、。まして、そ のほとんどの作品において、 七)国的作品

lI

rll

てい風裁が捕かれたパティニー ノレやヘトメット ・ ド ・ プレスの添う

if

人物の解釈にさいしては、より慎重な態度 が必京ーとなる

f

ごろう。彼らの作品における人物像は風景とどのような関係に あったのだろうカh

I

ファン・ マンデノレが伝えていたように、ヘトメッ卜 ・ ド ・ フザレスの作

J

めには複数 の主題の並ィ?とし、う大きな特徴がある。ヘリ

メッ卜・ド・フ、レスの作品の大半

li111

に由 来する モ テ ィ

フぞ扱っているの

f

ごが、〈十字架を運ぶキリスト〉と 並んで、彼の 好 ん だ主題のひとつにく説教する洗礼者 ヨハオ、〉がある。ク リ ーヴランド、 ドレステ、、ン、ウィー ン、そして、ブリユツ セノレなどにこ の主題をもっ 作

Jiil

が所蔵されているこ と は 、 これカ

f

,、か(こ彼の得意な主題であったカ、を 物 語っ てし、る 。

この│ 曲家 の《 説教する洗礼者ヨハオ、〉 には、けれども、〈説教〉い、う主題以 外のそティ ー フも描かれて

L

、 る。クリー ヴランドの作 品

(fig.10)

を兄てみよ う 。こ の作 品には作品タイトノレの由来となったく 洗礼者ヨハオ、の説教〉という モテ ィ ーフ以外に〈キリストj 先礼〉の 場 而

(fig.11)

が拙かれ、さ らに、

757;f

にはくヨハオ、斬首〉のモティ ー フまてや拙かれている

(fig

.

12) (20 0

ドレステーンや

fig.12 

1 fig.I ヘリメットトプレス

"見教するiiUL円ヨハオ クリーヴランド五l.frtli'i

fig.11  f ig. 10部分 fig.1 fig. 10部分

(11)

fi~. 1 ニコラγサン {マナの収集〉

レーウツレ美術館

ブリュッセノレの作

I511

にくヨハオ、斬"tI>の場面

li

見られなし、ものの、〈洗礼〉の 場面ははっきりと確認することができる。 すでに述べたように、プリンス ト ンの

〈 十 字 架 を 運 ぶ キリ ス ト》 背景にも受事

ff

に│ 刻わる多数の場面が描かれてお り、こうした表現形式がヘトメット ・ ド ・ プレスにとってきわめて親しし、ものであ った ことが示されて し 必。無論、 こ のような表別、すなわち、異│時間図表現は ヘリ・メット・ド・フ、、レスに固有のものであったとし、うわけでは決してない。パテ ィ ニーノレやダフィッ ト の 洗礼 図にも説教場面が加えられているし、著名なブリュ ーケツレのブダペストの作品にも洗礼場面が背景に拙かれており、多くの場

合 、

<i

先 札〉とく説教〉というふたつの モテ ィ ーフが組み合わせ られていたことが 示唆されて し 、る。図像学的に このことがどのように説明されるのか明らかに する こ とはできないのであるが、 ブリューゲノレ以後に 制作さ れた ブル ーマ ー ノレ卜やコノレオ、リス ・ ファン ・ ハ ーノ レレ ムなどの

洗 礼 者 ヨ ノ、ォ、の説教訓こ洗礼場 面 を J ,

G

ること はできず、洗礼場面と説教場而とを同一 作品に描くのは

16

世 紀前半から半ばにかけてのフランドノレ絵画の大きな特徴で あったと考えるこ と カ

7

て。きる

f21]

異な る l侍 I~~l 、 異なる場所で起

った 出来事がひと つの 画面に表現される

という表 現 形 式 は 、 一般に異 H 寺 同図 表現と呼ばれて

L

、 る 。 こ れは物言!?を描

〈場令の常 套手段でも あ り 、 H 寺 代、地域を

nn

わず 、 壁画や写本などに多数 の伊

IJ

Je指摘する こ とが可能 である 。けれども 、一般 的にい って、ノレオ、 サ ンス

以降の絵

問題とする場合、異時間図

表現

と L 、う )I~ 式はどうしても flの文

脈て語られることが多かったよ うに思 われる。ノ

f

テ ィニーノレの作品 が当初より 各地 で賞賛の対象となっていた こ と は多くの記録から明らかであるし、 す で に本杭でも桁摘したように、イタリアてへリ・メッ卜・ド・ プレスの絵画はきわめて 高い人気を誇っていたこ とをファン ・ マンデノレは伝えて

L

、 る。それ にもかかわ ら ず、ブリューゲノレひとりを例外として、

16

世紀フランドノレ絵画に見られる│止界 風景はこれまであまり高〈評価されてはこなかった。 近代的な風景 画 . j @ l . か ら やや逸脱した世界風景の理念に基 づ いて彼らの作品が制作されていたこ と カマ の 最 大 の 理 由であるこ とは疑

L

、えな い のであるが、彼らの作品が過 小 評イ

i

i U されてきたもうひとつの理由は、 こ の異時間図表現という表現形式にも あったのて"はない

f

ごろうヵ,

[22]

18 

(12)

絵|川|における物語ñ',)ぷ JJ~ と L

、 う と 、

PG

i " ' ! " ‑ 絵 l J

flf

においてはすぐ、にアノレベノレティ による物利J l

lfl(

イスト リア)とし、う概念が辿想される。アノレベノ レティは決して児

I

. I

j''

川 │ ヌ │ ぷ引 を何定しているわ けではな

L

けれども 、

i

皮の絵仰│ の 定義 か らする かざり、

II')'I:¥J

と宅聞とが統ー されることは、

"1

然の帰結だったのであり、異

11

年 同 1 : > < 1 表 引 は時 代遅れのものとして

NE

れていかざるをえなカ

3

ったのである。

1667

作、ノレ ・ プランがフ。 ソサンの

マナの収 集

H

ヴノレ美 術 館) ( f i g

13) 

を抗質したのは、 「 登場人物の多様な引きゃ顔の表

'If;'

が、例外な しに絵 の 中 心 的 な 1 4 1 遁に

tr

す び つ けられているため

f

ごけて"はなく、フ。 ッ サンがそ の

多様な感 情 表 現』 を選択するにあたり、 l 副而が非のうちどころな し 、論理!梢 造(舞台上 のドラ?と同級、発端 ・ 展 開 ・ 結末とし、うア リストテ レースの

行 為 の統 一

J

に従うこと) をもつよう配慮、して

L

、 る

J

ためだったのて ある

23 r

発 端 ・ 展 開 ・ 結末とし、うアリストテレースの

行 為 の 統一Jl

J

i : , 、 う 表 引は明らかに

11

寺 聞の経過を前提としており、ノレ・プランの 言 葉は、むしろ、奥時同図表現ぞ 連想させるか

b

しれな

L

。しか

し、時間 の 経過を配慮したうえで、最も 重要な 瞬 間 ノ レ ・ アーランはこの 瞬 間 のことを、アリストテレースの

計 学

J

に由米 す る「ペリペテイア

J

(i::'んてんがえし)とし、う 言 葉て。呼んでいる

ーー

を選択 すべき

であるい、うのがノレ・プランの真意て、あったことはいうまでもな~

f24]0

こ うした 考えは、基本的にはひとつの物語の決定 的 な 瞬 間 営 選 択 し そ の 場面 の人 間ドラマ を摘 出 する暦!5t ! I

ill

の定義に合致するものであ ったとし、えるだろう。

従 って、

2R

間と時間 の統ーがなされていない奥時間図表引は、とりわけ、

lli.

独のタブロー に適用 された場合、混乱に

1tI

:

i

ちたもの と兄 なさ れる ように なっ たのである 。

ヘリ ・ メッ ト ・ ド ・ プレスはなぜあえて「混 乱 に満ちた

J

11

寺同凶 表現を多く の 作 品 て採用した のだろうか。

よく知られたその研究において、ヴァイツマ ンは物 語 的表現を

(a)sill1ulta neoumethod, (b) monoseenic method, (c) cycilmethod

の三 つ に分類しているが[ 刷、 こ の分類を実際の 作例に適用する場 令、さまざま な不 都 合 が生 じるであろうことは容易 に想像される。もし、ひとつの 枠 に 複 数の モ テ ィ ー フが収められた描 写を すべて異時同図表 現と呼ぶので あ れ ば、 ヘト

19  f il(l. 7レ マ ル の1";1'

'¥'(1吐のilHlll

7ラドR術灯l

(13)

fig.1

ロヒール・ファン・デル・ウェイデJ

<!!;~ヨノ、ヰ f長f同 J'lin ベルリン同,j:sli'i1!1i

fig.16  7'1ーリク・ハウツ (!~J.帝オッ卜一\11:のl品;\'1) プリュァ七ノE立美術館

fig.17 

へールトヘンシントヤンス

沈下Lt.ヨハみの1';'の焼却〉

ウィーン美術史美術館

メッ 卜・ド・プレス以前のフラ ンドノレ絵画においてもその作例は著しく増大する ことになる。例えば、

フレマノレの画家」の手になる 〈 聖 母 の 結 婚

H

プラド美 術館)を見てみよう

(fig.14)

。 そこには確かにく聖母の結婚〉の場面とく花婿 に選ばれるヨセーフ〉の場面が描かれており、ひとつの画面にふたつの場面 が描かれている

t

い う 点 て は こ の 作 品 は 異 時 同 図 表 現

simultaneous method

てーあったとい、えるだろう。しかし、この作品は本来聖母伝 の一部 てやあったとも考えられており、その 意味 で は 連 作表 現

cyclicmethod

てあ ったともいえる こ と

l

こなる。ふたつの場面は建築モティーフによって明確に分離 されており、 こ の作品がヴアイツマンがし、うと こ ろの異時間図表現に属すも のなのかどうかはきわめて暖昧なものとなっている。

このように、 異 H 寺同図表現の厳密な定義をすることはなかなか困難なこと なのであるが、初期フランドノレ絵画の異時同図表現を概観するならば、そ こ にかなり性格の 異なっ たふたつのグル

ープ が 共

存 していたことが理 解され よう。ひとつは前景に大きく描かれた聖母や聖人像の背景に彼らの生涯に 関するさまざまなエピソード を小さく描いたもので¥これは中世末期 の 祈 念 像と付加的モテ ィ ーフ

U

、う構造に由来する。 その典型的な例としてロヒーノ レ ・ フ ァ ン・デノレ・ウェイデンの 〈 ヨ ハオ、祭壇画

}

(ベソレリン国立美術館)を挙 げる ことができる

(fig.15)

。画面は三枚から構成され、左からそれぞれ〈聖ヨハ オ、の名付け〉、〈キリスト洗礼〉、〈ヨ ノ寸、斬首〉が描かれている。この作品にお いて、通常の 意 味で 異 時 同 図表 現とし、えるのは右ノサ、ノレだけていある。 すな わち、前景にはサロメがヨ ハオ、の首を受け取る場面が、奥にはサロメがその

fig. 1 fil!1 20 

(14)

i

す をへ ロデ モに 差 し

n..'

す場初

i

が 災 H 年 同図 として 拙かれて

L

、る。左ノ

f

オ 、 ノ レ に は: i , ) )

r

ヨハオ、を抱く聖吋マリアや?ノ

.1

刊を記放しよ うとするず、カリア、ベッドに

以るエリザ、ベツなど洗礼者ヨハえ、の訟~/+: に|民iわる複数のモティフが描か

れてはいるが、必ずしも奥 H 寺同凶表現といえるものではないし、 中 央ノ

f

オ 、 ノ レ にはこうした表現を見 出すことはできない。 けれども、よく知られているように、

三場面ーにはそれぞれ建築モティーフが付けられており、そこに聖ヨハオ、に関

連するさまざ 、 まな エ ピソードが描カ、れてし、る 。 例えば、 中央ノ

f

オ、ノレについて いえば、左から右にく聖ヨハオ、の未来を予言 するザ、カ リ ア 〉、 〈荒 野 の 聖 ヨ ハ オ、〉、〈バリサイ人やサドカイ人に洗礼を

1

J:t'こすヨハヰ、〉、また、 三 場 面にわ たってくキリ ストを誘惑する悪魔〉が描カョ れて 、る し 。 こ のように、 中央ノ叶、ノレて棋 は洗礼い 、 う図像に関わるさまざまな主題が建築装飾の助けをかりて描写さ れて

L

、るのである。これは建築装飾として捕かれているのだから、異 l 侍同 図 表現ではなし 、 。けれども、主題の扱いという観点からみたとき、異時同図表 現と│ 司じ機能をもっと考える こ とができよう。このような作品においては、おそら く、絵の細部を

l

順次読み取っていくことがそのまま宗教的 │ 疾想に 転 化 するよう な絵の見方が期待されていたように忠われる。 こうした表現は、例えば、 《 ミ ラ フロ ー レス祭塩.匝

1>

のく聖母の首

ii

に 現れるキリス ト 〉の背 } f ( にくキリス ト 復活〉

の 場 面 が小さく描 き込まれる こ とと基本的には同じ範時に属すものである。

このような奥H 寺岡図表現は、従って、主として宗教的機能力、ら生まれたと考 え るこ と カ

f

ていきる

[26J

これに対し、伊

IJ

は少ないのであるが、祈念像の伝統とは異なると こ ろに由 ) j と する異時間図表現も存在する。テ 河 ーリック・パワッの { 皇帝オッ ト一 三世 の裁 判

H

ブリュッ セノレ王立美術館)とへーノ レ トヘン・ト ッ 卜 ・ シント ・ ヤンスの

《 洗 礼 者 ヨ ハ ネ の 骨 の 焼 却

H

ウ ィ ー ン美術史美術館)を見ることにしよう

(fig.16/1

7 ) 。 パワツの作品て

l

1.不義の疑いをかけられ処刑 されることにな ったひ 切 の 臣 下と その 安 が二 度にわたって拙ヵ、 れてし、る 。 最 後 の別 れ の場 而と処刑後の場面である 。へ ーノ レトへンの作品てはヨハオ、の遺骨ーに関す る伝説が主題 となっており、画而 の符部分にヨハオ、の技後の埋葬場面から 刊の焼却場面、さらにはその骨が発見される場面までが描かれてしる。こ の 作 品 の 主 題 は 洗礼者ヨノ叶、 に

l

j わるわけで、従って、この作品に 宗 教 的 機能がなヵ、 ったと

1

; 1 :

L

、えないかもしれない 。けれ

E

も 、 ここに描か れているの は 、 こ の作 品が設置されたハ ーノレレムの聖ヨハヰ、騎士団 礼 拝 堂に 型 ヨ ハ オ、の聖造物が伝わることになっ

t:'L

、わば縁起であり、パウツの作品と同じく、

へーノレ卜へンの作品の異時間図表現は、むしろ、物語的関心から

L

I = .まれて いるといえるだろう。

ここで指摘した異

H

キ同図表現のグル ープは、基本的には宗教匝

li:i:!t 1

1111

L

う 、 ふたつの絵[!i

l

ジャンノレに対応するのかも しれなし、。し かし、

f

ごからと いっ て 、 宗教

i

三 題 の 作 品の異 時間凶表現が宗教的機能をもち、非宗教主

i

越の作品の災 H 寺同凶ポ呪が物制的 機 能 をもっと

L

、うわけではなし、。宗 教

i

リ国でありながら、物語的機能含屯要視しているとしカ¥忠、えない多数の異

1

1

年同凶 表引が、とりわけ、メムリンクや

15

世紀末期以 降のフランドノレ絵画を 服巻するようになるからである 。

21 

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