最初のアメリカ石油輸出
その他のタイトル The Early Export of American Oil.
著者 小谷 節男
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 18
号 1
ページ 137‑152
発行年 1986‑11‑04
URL http://hdl.handle.net/10112/00022717
最初のアメリカ石油輸出
小 谷 節 男
The Early Export o f American O i l .
Setsuo Kotani
A b s t r a c t
In August of 1859, the first well drilled by Edwin L.Drake produced oil at Titusville in Pennsylvania.
During 1860, at least 40 casks of crude oi L were shipped from the Oil Region to Britain and the Continent for chemical analysis and trial distillation.
It was in 1861 that the first shipload of petroleum crossed the Atlantic. In November of that year, the 224 ton sailing ship, Elizabeth llatts, was chartered by Peter Wright & Sons of Philadelphia, for a shipment of some 3,000 barrels of crude to London. During 1861, American exports of crude and illuminating oil totaled some 37,000 barrels. All but a small fraction of the shipment went to European ports.
By early 1863, the European market for both illuminating oil and crude was already firmly established. The relative proportions of crude and refined‑oil exports depended on petroleum refining capacity in Europe.
In 1863, crude exports were exceeded by refined oil exports. The increase of the latter stimulated the development of refining industry in the U.S.A.
After the Civil War (1861‑65), the distribution of refined output was drama‑
tically changed and the exported became more than the domestic consumption.
The decisive factor in building up this tendency was the combination of Ameri‑
can currency inflation and the exemption of exports from the domestic tax on refined oils.
Key words: the brig Elizabeth Watts, American petroleum industry, the Oil Region, crude oil, refined oil, illuminating oil, petroleum refining capacity, American currency inflation, exemption from the domestic tax, sales promotion by American consuls.
抄 録
1859年8月,ペンシルベニア州のタイタスビルで,エドウィン ・L・ ドレークによって 近代的な油井が開発された。石油の大量生産は,化学的な分析と実験を経て,照明用と して,ヨーロッパをはじめ世界各地に向け輸出を促進した。 1861年,最初の本格的なア メリカ石油輸出が行なわれ,帆船エリザベス・ワット号が大西洋を横断した。石油の輸 出構成をみると,最初は原油が圧倒的であったが, 1863年以降,精製油(灯火油)の輸出 が優勢となった。また石油の量産はたちまち狭陸な国内市場の限界にぶち当り,南北戦 争後の1866年には,輸出量が国内消費量を凌駕し,外国市場の優位性が確立された。石 油輸出の促進要因としては,アメリカの通貨インフレーションと,精製油輸出に対する 国内課税の免除が挙げられる。また、ヨーロッパ各地におけるアメリカ領事のセールス・
プロモーションが,輸出市場拡大の上で,重要な役割を果したことも注目してよい。
キーワード:帆船エリザベス・ワット号アメリカ石油工業,石油地帯,原油,精製油,
灯火油,石油精製能力,南北戦争時の通貨インフレーション,石油輸出に 対する国内課税の免除,アメリカ領事のセールス・プロモーション
関西大学『社会学部紀要』第18巻第1号
〔 ま え が き 〕
第2次世界大戦前,アメリカは世界最大の石油産出国であり,同時に輸出国でもあった。初期 のアメリカ石油輸出はどのような情況のもとに展開されたであろうか。 1859年に近代的油井が開 発されると間もなく,石油は国際商品としてヨーロッパの先進国をはじめ,世界各地に輸出され た。 1861年には,最初の石油貨物船が大西洋を横断した。石油輸出における原油と精製油の構成 比率をみると,最初は原油輸出のほうが多かったが, 1863年になると早くも比率が逆転して,精 製油輸出が圧倒的な優勢を占めるようになった。精製油輸出の増大はアメリカ石油精製工業の発 展を著しく促進するものであった。また精製油の国内消費量と海外輸出量を比較すると,南北戦 争後に輸出量が消費量を凌駕し, 1870年代に入ると70%を超える勢いを示すに至った。初期の石 油輸出を促進した要因としては,ヨーロッパ各地におけるアメリカ領事のセールス・プロモーシ ョンや,安価なアメリカン・ランプの大量輸出による石油灯火の普及などながある程度寄与した が,決定的な要因としては,南北戦争後の通貨インフレーションと輸出課税の免除が,効果的に 作用したことがあげられよう。なお,ヨーロッパ諸国では,石油灯火の普及にもかかわらず,石 油精製工業は,良質低廉なアメリカ灯火油におされて,フランスを除いて,見るべき発達を遂げ るに至らなかった。
I •
最初の石油輸出 (1860‑61年)近代的油井の開発による大量生産を背景としてアメリカ石油は,ヨーロッパをはじめ全世界に 向けて輸出されるようになった。本格的な輸出に至るまでに石油は,化学的な分析と実験を経て,
灯火油として動植物性油および石炭油よりも優れていることが確認された。
〔A〕実験・分析のためのサンプル輸出
1859年に近代的油井が開発されて間もなく,石油は国際商品として,ヨーロッパの化学者や商 人に紹介された。 1860年の間に石油地帯から少なくとも40カスク(樽)の原油が化学分析や蒸留 試験をするために,イギリスおよびヨーロッパ大陸へ船積みされた。(1)1860年初めに,セネカ・オ イル・カンパニィの幹部は, ドレーク油井から汲み出した石油のサンプルを,フランスの有名な 化学者A・ジュレ (A.Gelee)に分析してもらうため,ニューヨーク=ルアープル間の定期船の 船長チャールズ •H ・タウンゼント(註> (Charles H. Tawnsend)に託した。ジュレは分析の結果,
もし石油を量的に充分確保し得るならば,灯火用および潤滑用の用途からいって,石油は世界を 変革するであろうと確信するに至った。(2) また同年5月に,ビッツバーグの製油業者チャール (1) Harold F. Williamson, Arnold R. Daum, et al., The American Petroleum Industry. The age of
illumination 1859‑1899, 1959, p.323.
(2) Paul H. Giddens, The Birth of the Oil Industry, 1938, p.96 H. F. Williamson, et al., ibid., p. 323.
ズ・ロックハート (CharlesLockhart)は原油および精製油のサンプルを携えてヨーロッパヘ行 き,石油の価値をヨーロッパの商人に説明して関心を惹き起こした。 1861年1月にはアトランテ ィック・アンド・グレート・ウエスタン鉄道 (theAtlantic and Great W estem Railroad)の社 長ウィリアム・レイノルズ (WilliamReynolds)およびペンシルベニア州メドビルの
J . J .
シュリ ョック (JふShryock)は,同鉄道会社の大手契約者であるロンドンのジェイムズ・マックヘンリ‑ (James McHenry)宛に,石油12バーレルを送った。
J .
マックヘンリーは,それをロンドン 商業会議所の会員にサンプルとして分配し,また一部分をパリの化学専門家に送って分析しても らった。石油の実験では,ガス製造の目的にとって素晴らしい結果が出た。ガス会社はガス製造 原料としていかなる他の素材よりも石油のほうが優れていると考えた。もし石油がコスト上安価に入手できれば,貿易は信じられないほどの量に達するであろうことが予測された。(3)
(注〕チャールズ •H ・タウンゼントについて。ドレーク油井を所有するセネカ・オイル・ンパニィの社長で あるジェイムズ •M ・タウンゼント (James M. Townsend)は,チャールズの兄弟である。 (Harold F. Williamson, Arnold R. Daum, et al., The American Petroleum Industry. The age of illumination 1859‑1899, 1959, p.323. 拙稿「アメリカ石油工業の誕生」〔河野通博,小谷節男共著『資源・エネルギ ーの研究』関西大学経済・政治研究所研究双書第52冊, 1983年,所収〕 82頁参照)。
〔B〕石油貨物船による最初の輸出
1861年12月,最初の石油貨物船が大西洋を横断した。フィラデルフィアのピーター・ライト・
アンド・サンズ商会 (PeterWright and Sons)は,帆船エリザベス・ワット号(thebrig Elizabeth Watts)224トンをチャーターして,原油約3,000バーレルを積んで,フィラデルフィアからロンド
ンまで航海した。その時の石油の積込作業には2週間を要した。船員は,積荷が石油であること を知ると,その可燃性から火傷を恐れて逃亡した。それゆえに,荷主は,船員をかき集めるため にデラウエア川沿岸のバーで酔いつぶして船に連れ込むという始末であった。だがこの航海の成 功は,石油貨物船の定期輸送への道を切り拓いて,石油の本格的な輸出をおし進める契機となっ た。(4)
1861年の間にアメリカの原油および灯火油の輸出は約3万7,000バーレルに達した。石油輸出の 大部分は,ョーロッパヘ向けられた。リバプール,ロンドンおよびグラスゴーなどのイギリス 3 港が,輸出総額の半分以上を占め,残りがスペイン,フランス,オランダ,ベルギーおよびドイ
ツに積み出された。ヨーロッパ以外の国では,例外的に多い国としてオーストラリアの4,209バー レルがあげられるが,中国およびラテン・アメリカヘも僅かながら輸出された。そのようにアメ
(3) P. H. Giddens, ibid., pp.95‑96
(4) Christopher Tugendhat and Adrian Hamilton, Oil: The Biggest Business, Revised edition, 1975, p.11. 中原伸之訳『オイル一巨大ビジネス一』1977年, 2829頁。 JulesAbels, The Rockefeller Billions, the Stoか 。ifthe World's Most Stupendous Fortune, 1965, p.41. 現代経営研究会訳『ロックフェラー』
1969年, 55頁。 H.F. Williamson, et al., ibid., p.324.
関西大学『社会学部紀要』第18巻第1号
リカの石油輸出は,早くもこの時点で,グローバルな拡がりを持ち,世界中の32港に配給されて いた。それが,その後数十年間にわたるアメリカ石油貿易の特徴的な性格を形成することとなる のである。(5)
合衆国からはじめてイギリスヘ輸出された石油は,イギリスの新聞や公共団体から反対され,
また石炭油業者の激しい敵意を惹き起こすことになった。新聞や公共団体は,石油の導入にとも なう素朴な恐怖心から石油の高度な危険性を宣伝した。また石炭油製造業者は,アメリカ石油が 石炭油よりも安く販売されたことから,自己の事業が破壊されることを恐れて,輸入石油1ガロ ンにつき 1ペニーの関税を賦課するよう議会に圧力をかけた。だが,石油需要は増大し続けて,
1862年には貿易取引の重要な品目になってきた。(6)
I I .
石油輸出の成長 (1862‑73年)ここでは,石油輸出の推移を統計的に辿り,石油輸出を促進した諸要因について,考察したい と思う。
1 • 石油輸出の推移
統計上の都合から, 1862年から1873年に至る間の,初期のアメリカ石油輸出の情況を,原油と 精製油との輸出比率の変化から,また精製油の国内消費量と海外輸出量との比較から分析し,そ の輸出の特徴を明らかにしようと思う。
第1表は, 1862年から1873年までの原油および精製油の輸出を示すものである。まず,アメリ カの石油輸出は,南北戦争(1861年ー65年)中の多くの不安定要因を抱えながらも,順調に伸び,
戦後は飛躍的に増大し続けた。ただし1872年に一時的な落ち込みを経験するが,それはフランス・
プロシヤ戦争(1870年 71年)の影響によるものであり,増大傾向を阻止するものではなかった。
ちなみに石油輸出総量は, 1866年の169万バーレルから1873年には537万バーレルに達した。つぎ に,石油の輸出構成についてみると,最初は,原油の輸出比率が圧倒的に大きかったが,早くも 1863年にはその比率が一挙に逆転して,精製油輸出は石油輸出総量の71%を占めるようになり,
その後も80%台から90%を超える勢いを持続してきた。精製油輸出量の絶対的相対的増大は,ぃ うまでもな<'アメリカ石油精製工業の急速な発展を反映したものに他ならない。
第2表は1862年から1873年に至る精製油の総生産量,国内消費量および輸出量を示すものであ る。精製油の総生産鐵は,製油工業の発展にともなって着実に増大した。南北戦争中にも1862年 の34万バーレルから1864年には100万バーレルの大台を超え,さらに1873年には675万バーレルに 達した。つぎに精製油の国内消費量と輸出量を比較すると,戦時中の1860年代前半を通じて,絶
(5) H. F. Williamson, et al., ibid., p.323. (6) P. H. Giddens, ibid., pp.97‑98.
第1表 原油および精製油の輸出 (1862‑1873)
(単位1,000バーレル)
年 総輸出量 原油輸出量 精製油輸出量 精製油の%
1862 277 182 95 34 1863 707 202 505 71 1864 777 233 544 70 1865 746 137 609 82 1866 1,686 270 1,416 84 1867 1,677 132 1,545 92 1868 2,473 194 2,279 92 1869 2,537 360 2,177 86 1870 2,872 289 2,583 90 1871 3,389 269 3,120 92 1872 3,210 390 2,820 88 1873 5,368 468 4,900 91
(出所) Harold F.Williamson, Arnold R.Daum,etal., The American Petroleum Industry, The Age of illumination 1859‑1899, 1959,
p.325, p.332より作成。
第2表 精製油の総生産量,国内消費量および輸出塁(1862‑1873年)
(単位1,000バーレル)
年 精 製 油 国内消費贔 輸 出 量 輸出量%
総生産量
1862 335 240 95 28 1863 855 350 505 59 1864 1,266 722 544 43 1865 1,336 727 609 46 1866 2,049 633 1,416 69 1867 2,418 773 1,545 64 1868 3,410 1,131 2,279 67 1869 3,267 1,089 2,177 67 1870 3,875 1,292 2,583 67 1871 4,050 930 3,120 77 1872 4,200 1,380 2,820 67 1873 6,750 1,850 4,900 73
(出所) Harold F. Williamson, et al., ibid., p.322, p.338より作成。
対的には国内消費量のほうが輸出量よりも多かったが,相対的には,輸出量のほうが高い成長率 を持続してきた。戦後の1866年に,輸出量は,絶対的にも国内消費量を凌駕し,精製油生産董の
69%を占めるようになった。あきらかにこの時点で,精製油市場における外国市場の優位性が確 立されたのである。精製油輸出はその後も順調に増大し, 1871年および73年には,輸出比率も70
%を超える状況となった。アメリカ石油精製工業は輸出依存度が高い点で,製造業のなかでもユ ニークな存在として,製品輸出の第1位にランクされる業種となったのである。
関西大学「社会学部紀要』第18巻第1号
2. 石油輸出の促進要因
ここでは,石油輸出の促進要因について,ヨーロッパにおけるアメリカ領事のセールス・プロ モーション,安全なアメリカン・ランプの大量輸出,通貨インフレーションと輸出の課税免除,
および輸出販売を刺激するその他の事情などについて考察しよう。
(a) アメリカ領事のセールス・プロモーション
アメリカ領事がヨーロッパにおける石油灯火の促進に果した積極的な役割について,ここでは ベルギーのアントワープ,ドイツのフランクフルトおよびイタリアのレッグホーンの各領事につ いて述べようと思う。
(1)アントワープの領事
1861年9月にA.w. クロフォード (A.W. Crawford)は,ベルギーのアントワープの合衆国 領事に就任した。彼は赴任する前,ピッツバーグで何ヵ月間かを過ごし,石油の特性に慣れ親し んでいた。それゆえに赴任後,アントワープの商人たちにたいして,石油が経済的にもまた照明 の美しさの点でも,菜種油よりはるかに優れていることを説得したのである。しかし石油にたい する一般的な偏見を打破するためには,もっと劇的な行動をとることが必要であった。クロフォ ードは自分の費用とリスクで,ニューヨークから少量のケロシンと大量のランプを輸入して,展 示会を開き,商人にサンプルを配り,関心を高める努力をした。その結果として商人たちは,間 もなくアントワープに集まり,灯火油輸入業者の最前線で活躍するようになった。そして1862年 にはベルギーで150万ガロンのケロシンが販売された。輸入量の増大は,従来の灯火油原料であっ たあぶら菜と亜麻仁の栽培を完全に破壊するに至った。アントワープは1863年末に,ヨーロッパ 石油市場における最大の中心地となり,石油は今や主要な輸入商品となった。アントワープの石 油倉庫施設は,どの港よりも優れていた。(7)
(2)フランクフルトの領事
1861年フランクフルトの合衆国領事W.W.マーフィー (W.W. Murphy)は,ニューヨークの 商人の要請に基づいて,石油を最初にドイツヘ持ち込んだ。しかし石油が一般に利用されるまで には,幾多の障害を乗り越えなければならなかった。たとえば,ガス会社はライバルとして反対 し,保険会社は引火性について反対し,地方当局は石油利用にたいする劇的な規制を課し,鉄道 会社は臭気と危険性から貨車輸送を禁止した。それにもかかわらず,マーフィーの努力により南 部ドイツでは石油の消費が著しく増大したのである。(8)
(3)レッグホーンの領事
1861年12月A.
J .
スティープンズ (A.J .
Stevens)は,イタリアのレッグホーンの合衆国領事 に任命された。彼は石油のサンプルとランプを持って行ったが,任地ではアメリカン・ランプに ついて何も知られず,石油はまだ導入されていなかった。スティープンズが石油を貿易ルートに(7) P. H. Giddens, ibid., pp.96‑99. H.F. Williamson, et al., ibid., p.324. (8) P. H. Giddens, ibid., p.97
乗せる努力をした結果,石油はたいへん安価で,オリーブ油よりも明るいことが理解された。1862 年にレッグホーンでは,あらゆる階層の人々に石油が使用されはじめた。レッグホーンはイタリ ア中央部に位置すること,国内鉄道網の接点であることから,この国の大部分とくにフローレン ス東北部にたいする配給センターとなった。(9)
上記のようなヨーロッパにおけるアメリカ領事の活躍は,その後も何からの新製品ができると 販路を開拓するために,赴任地で積極的にセールス・プロモーション活動をするというアメリカ 領事のパターンを定着させることになった。(10)
(b) アメリカン・ランプの大量輸出
アメリカン・ランプの製造業者も石油の海外販売を促進するうえで重要な役割を果した。ラン プ製造業者は,大量生産方式の確立に続いて,大量のバーナーを単価25セントまたは 1ダース2
ドルという安値で輸出しはじめた。 1863年にはイギリスのランプ産業は,安価なアメリカン・ラ ンプの大量輸入により,イギリス市場ばかりでなく,フランス,ベルギー, ドイツおよびその他 のヨーロッパ諸国市場においても,圧倒されてしまった。たとえば,ハンブルグのランプ・ディ ーラーは, 1862年にアメリカン・ランプ1万5,000ドル相当量を輸入したが, 1863年には20万ドル にも増大した。ヨーロッパのランプ製造業者は石油バーニングランプの製造を拡大しはじめてい たけれども,それでもなおアメリカン・ランプの輸出は目覚ましく,ョーロッパヘの輸出総額は 1864年に43万9,320ドル, 1865年に38万4,890ドルを記録したのである。(11)
(c) 通貨インフレーションと輸出課税免除
アメリカは南北戦争中に石油の輸出貿易を確立したのであるが,その決定的な要因は,通貨イ ンフレーションと,精製油輸出にたいする国内課税の免除とを,組合わせた輸出促進政策を採用 したことにある。その政策が戦時中の輸出助成にどの程度役立ったであろうか,つぎに考察しよ うと思う。
第3表は,ニューヨークにおける精製油の輸出価格および国内価格を,平均卸売価格で示した ものである。ここではまず,南北戦争と通貨価値の下落についてみよう。輸出価格における通貨 価 格 (currencyprice)と金価格 (goldprice)との差額は,通貨インフレーションによる通貨価 値の下落の度合いを表現するものである。 1862年には,精製油1ガロンの通貨価格36.36セントに たいして金価格32.11セントであり,その差額は4.25セントであった。戦時中その差額は増大して 1864年には精製油1ガロンの通貨価格65セントにたいし金価格32セントとなり,通貨価格は金価 格の倍以上に膨張して差額も33セントとピークに達した。その後1865年の南北戦争終結とともに,
インフレーションも鎮静化の過程を辿り,国内物価水準が低下するにつれて,金価格と通貨価格 との間のマージンが薄れてきた。 1865年から1869年までの間に,差額は 1ガロンにつき21.35セン
(9) P. H. Giddens, ibid., pp.97‑98. (10) H. F. Williamson, et al., ibid., p.324.
(11) H.F. Williamson, et al., ibid., pp.324‑325.
関西大学
r
社会学部紀要』第18巻第1号第3表 ニューヨークにおける精製油の平均卸売価格
(単位:ガロン当りセント)
輸 出 価 格 国 内 価 格
年 通(免貨(1価)税格) 金(免(価2)税格) 差 額 通(免貨(3.価) .税格) 通(税貨(込4価)Il格) l 差 額 (1)‑(2) (4)‑(2) 1862 36.36 32.11 4.25 36.36
1863 44.75 31.10 13.65 51. 74 20.64 1864 65.00 32.00 33.00 74.61 42.61 1865 58.75 37.40 21.35 71.88 34.48 1866 42.50 30.08 12.42 62.00 31.92 1867 28.38 20.60 7.78 44.00 23.40 1868 29.50 21.16 8.34 29 ,50121 41.00 19.84121 1869 32.75 24.59 8.16 32.75
1870 26.38 22.96 3.42 26.38 1871 24.25 21.69 2.56 24.25 1872 23.63 20.97 2.66 23.63 1873 17.88 15.71 2.17 17.88
〔注〕 (1) 1862年9月1日から1864年4月1日までは、課税はガロン当り10セントで あった。 1864年4月1日から1868年4月1日までは20セント、 1868年4月
1日から 7月1日までは10セントであった。
(2) 1868年の前半期の平均価格は41セントであった。 1868年全期間の平均価格 は29ナセントであった。
(出所) Harold F.Williamson, et al., ibid., p.326より作成。
トから8.16セントに縮小し,さらに1873年には2.17セントに減少した。それでもこの差額は,全 体として石油価格が低落するなかで,輸出増大を促進するに充分であった。第2に,精製油輸出 にたいする免税措置は,国内価格と輸出価格との差額をいっそう大巾なものとした。 1863年には 精製油1ガロンにつき,税込国内通貨価格が51.74セントであったのにたいし,輸出免税金価格は 31.10セントであるから,その差額は20.64セントであった。翌1864年には,その差額は税率の増 加変更(1ガロン10セントから20セントヘ変更)もあって, 42.61セントに達したが,南北戦争の終 結後,差額は漸次収縮してゆき, 1868年には19.84セントとなった。そして同年4月には精製油の 国内課税が1ガロン20セントから10セントに引下げられ, 2ヵ月後には完全に撤廃された。その 結果,国内通貨価格は輸出通貨価格と同一になったので,価格差は金価格と通貨価格との差額の みとなった。第3に,その差額が低落傾向にぁったとはいえ,精製油の輸出金価格が1865年の1 ガロン37.4セントをピークにしてその後低下したことは,輸出を促進する大きな要因として作用 した(前掲第1'第2表の輸出実績参照)。ちなみにその後の輸出金価格は, 1867年から1872年 までの間1ガロン20セントないし25セントという低位の水準で推移し, 1873年には 15.71セント に低落した。要するに,上記のような通貨条件,免税措置および輸出金価格の低下などが,国内 通貨価格と輸出金価格との差額を生み出して,それぞれ精製油輸出に有利に作用して,その海外
(12) H. F. Williamson, et al., ibid., p.325, p.332.
販売を著しく増大させることになったのである。(12)
(d) 製油業者および貿易商人にたいする輸出インセンテイプ
多数の製油業者および貿易商人にとって,その他にもいくつかの輸出販売を刺激する事情が存 在した。第1に,製油業者および貿易商人は海外販売にあたって,引渡し業務の責任が輸出港岸 壁までで終了するので,国内販売と同一の手間で済むようになったことである。それはあたかも 巨大な国内市場が,主要な輸出港に形成されたかのごとくであった。第
2
に,外国の輸入業者は 大部分の注文を,大西洋輸送にともなう不確実性から,引渡しのはるか以前に発注する傾向にあ ったことである。それは製油業者および貿易商人にとって,市場変動から生じるリスクを減少さ せる役割を果たしたのである。第3に,製油業者および商人は,国内販売では課税をゴマ化して いる同業者との不公正な競争を余儀なくされるけれども,海外販売では免税措置によってその税 から生じる不公正な競争を回避することが可能となったことである。(13)I I I .
ヨーロッパ石油市場の状況アメリカ石油貿易を特徴づけるものとして次の2つの傾向があげられる。ひとつは,アメリカ 石油の市場としてヨーロッパが特別の魅力をもっていたことである。ヨーロッパ大陸,とりわけ イギリスと西ヨーロッパは,工業化により経済発展が先進段階にあり,都市化された地帯では人 エ照明への需要の増大とランプ生活に対する親近性から,一般に石油灯火の使用を容易に受入れ る素地があったことである。もうひとつは,原油に比べて精製油(灯火油)輸出の重要性が増大 しつつあったことである。(13)
第4表は, 1864‑73会計年度(前年7月1日より同年6月30日まで)における世界各地域への 第4表 世界各地域への合衆国の灯火油の輸出 (1864‑1873年度)
(単位40ガロン=バーレル)
輸出地域 ヨーロッパ 北アメリカ 南アメリカ アジアおよびオセアニア アフリカ その他 合 計 1864 238,433 16,369 17,435 11,996 6,956 291,189 1865 233,017 24,728 12,575 20,900 1,063 80 292,363 1866 711,540 41,915 41,776 31,128 2,277 111 837,747 1867 1,382,663 42,187 49,317 69,307 9,512 151 1,553,137 1868 1,479,299 51,797 50,027 91,523 7,563 124 1,680,333 1869 1,951,901 65,420 38,660 47,578 1,132 5,395 2,110,086 1870 2,212,112 91,518 71,300 58,292 5,353 8,986 2,447,561 1871 2,885,950 84,061 89,158 83,142 6,277 22,556 3,171,144 1872 2,759,951 87,218 90,137 104,401 6,059 15,722 3,063,488 1873 3,538,570 88,810 117,056 167,935 31,547 8,642 3,952,560
(注) 各年度は、それぞれ前年7月1日より同年6月30日に至る会計年度を示す。
(出所) Harold. F. Williamson, et al., ibid., p.740. (13) H. F. Williamson, et al., ibid., p.326.
関西大学『社会学部紀要』第18巻第1号
合衆国の灯火油輸出を示すものである。アメリカの灯火油はヨーロッパ,北アメリカ,南アメリ ヵ,アジアおよびオセアニァ,アフリカなどの全世界の港へ向けて輸出されたけれども,最初か らヨーロッパ市場の圧倒的な優位性が確立されていたことはいうまでもない。なお灯火油輸出総 額は, 1864年度の29万バーレルから1866年度の84万バーレル,さらに1873年度には395万バーレル
と, 10年間に13倍以上の増加を記録した。
1 • ョーロッパ諸国の状況
ヨーロッパは,アメリカ石油の輸出市場として圧倒的な優位を占めていた。ただし原油と精製 油の輸入割合は.各国政府の産業政策によって,また石油精製工業の発展の程度によって異なっ ていたのである。
第5表 ヨーロッパ諸国への原油および灯火油の輸出(1864‑1873年度)
(単位40ガロン=パーレル)
年度 全世界 全 ヨーロッパ イギリス
ヨーロッパ % ドイツ 7ランス ペルギー オランダ ロシア そ の 他 ヨーロッパ 1864原油 249,516 237,104 95 109,598 20,171 56,832 18,114 25,386 4,934 2,069
灯油 291,189 238,433 82 88,167 15,864 34,169 56,004 12,853 8,667 22,709 1865原油 307,347 287,404 94 101,280 27,868 97,432 32,152 12,032 4,066 12,574 灯油 292,363 233,017 80 76,631 26,877 41,770 63,927 7,551 4,536 11,725 1866原油 401,448 372,099 93 128,364 22,633 140,548 35,968 2,049 22,532 20,005 灯油 837,747 711,540 85 230,853 110,907 44,328 182,206 18,521 40,677 84,048 1867原油 183,606 176,357 96 35,142 5,796 113,982 14,794 1,562 5,081
m
由 1,553,137 1,382,663 89 428,917 278,507 115,979 316,709 73,025 21,690 147,836 1868原油 250,741 248,579 99 60,529 22,720 96,930 49,346 3,439 15,615m
貞 1,680,333 1,479,299 88 202,653 397,426 119,327 277,341 105,018 52,454 325,080 1869原油 322,612 321,804 99.7 9,550 71,065 154,022 62,526 9,355 2,725 12,561 灯油 2,110,086 1,951,901 93 276,002 537,521 106,550 323,302 116,816 97,356 494,354 1870原油 248,876 248,769 99.9 4,714 25,442 170,697 36,218 11,698N
油 2,447,561 2,212,112 90 209,653 781,028 73,127 375,575 174,415 50,585 547, 729 1871原油 236,520 228,381 97 28,197 30,459 88,178 59,376 3,248 2,631 . 16,292 K丁油 3,171,144 2,885,950 91 378,617 859,542 56,931 434,615 197,259 179,052 779,934 1872原油 338,994 330,594 98 5,435 40,011 233,197 48,032 3,919 灯油 3,063,488 2,759,951 90 252,203 876,395 53,048 409,082 253,837 133,193 782,193 1873原油 460,985 441,698 96 16,168 71,188 308,008 26,691 14,253 5,390 灯油 3,952,560 3,538,570 90 393,529 1,302,843 17,629 565,414 241,904 185,097 832,154(注)各年度はそれぞれの前年7月1日より同年6月30日に至る会計年度を示す。
(出所) Harold F.Williamson, et al., ibid., p.328, p.335より作成。
第5表は, 1864‑73会計年度におけるヨーロッパ諸国への原油および灯火油(精製油)の輸出 を示すものである。まずヨーロッパは,アメリカ石油の主要な輸出市場を形成してきた。石油輸 出におけるヨーロッパのシェアは, 1864年度から1866年度までの間に,原油輸出総量の93‑95%
を,灯火油輸出総量の80‑85%の間を推移していたが, 1869年度以降になると,原油輸出のほと んど全部を,灯火油輸出の90%以上を占めるようになった。ヨーロッパヘ輸出された原油および
精製油は,小部分を除くほとんどがイギリス, ドイツ,フランス,ベルギー,オランダおよびロ シアなどの諸国に配給された。つぎに,原油と精製油の輸出割合についてであるが,その割合の 変化はヨーロッパ諸国における石油精製工業の発展の度合を強く反映するものであった。(14) こ の点について以下第5表に依拠しながら,アメリカ石油輸出市場としてのヨーロッパ各国の情況 について分析しようと思う。
(1)イギリス
原油と精製油の輸入割合をみると, 1864年度および1865年度の間に,原油輸入はそれぞれ11万 および10万1,000バーレルであったのにたいして,精製油輸入は, 8万8,000および7万6,000バー レルであり,原油輸入はかなりの割合で精製油輸入を超過していた。しかし1866年度には原油と 精製油の輸入バランスが逆転して,原油輸入は12万8,000バーレルと絶対量では増大したとはい ぇ,精製油輸入が23万1,000バーレルヘと飛躍的に増大したので,相対的には精製油輸入量のほと んど半分近くまで低下した。そして 1年後の1867年度には,原油輸入は絶対量でも減少して3万 5,000バーレルヘと前年の3分の1以下になったばかりでなく,相対的にも精製油輸入42万9,000 バーレルの12分の1以下に低落した。そのような原油と精製油の輸入比率の逆転は,イギリス石 油精製工業の実質的な崩壊を物語るものに他ならなかった。その後におけるイギリスの原油輸入 は,国内の化学工業からの比較的わずかな需要に限定されていた。 1869年度以降のイギリスは,
アメリカの原油輸出市場の第4位に転落して フフノス, ドイツおよびベルギーにも及ばなくな ったが,精製油については, ドイツ,ベルギーに次いで主要な輸入国であることには変わりなか った。しかしながらイギリスの精製油輸入が相対的に低下したことは,ある程度まで,国内石炭 油工業との競争によって惹き起こされたものであるといってよい。(15)
上記のようなイギリス石油精製工業の凋落の要因としては,次の3点があげられよう。第1に その凋落は,石油精製工業が国内石炭油工業との競争に敗退した結果としてもたらされたもので ある。イギリスの石炭油業者は,精油原料を石油に転換する意志を持っていなかった。石炭油工 業を独占していたジェームス・ヤング (JamesYoung)は,石炭油が品質上石油灯火に充分競争 しうる自信を持っていたからである。そのうえ, 1864年にジェームス・ヤングの鉱油精製特許の 期限が切れて,新規参入が容易になったこと,同時に精油原料をボグヘッド炭から,埋蔵量の豊 富で安価な油頁岩へと転換したことにより,石炭油工業ではプームが起こった。石炭油生産への 新規参入は, 1864年に38件, 1865年に120件を数え,石炭油生産量は年間50万バーレルに膨張した のである。第2に,イギリスの石油精製業者は,関税によって保護されていなかったことである。
(14) H. F. Williamson, et al., ibid., p.327, p.333.
(15) H.F. Williamson, et al., ibid., p.327, pp.329‑330. p.333.
関西大学『社会学部紀要』第18巻第1号
1860年5月初めに,イギリスは原油および精製油の輸入にたいして1ガロン約2セントの関税を 賦課した。だがこの関税は,国内石炭油工業を助成したり,石油輸入に対抗したりする目的の差 別課税ではなかった。それは歳入手段としてあらゆる船積商品に適用される性格の課税であった が,それすら1863年6月には早くも廃止されてしまったのである。(15)第3に,イギリス石油精製 工業のリーダーシップをとっていたロンドンの金融機関ビトー・アンド・ベッツ (Petoand Betts) が, 1866年の金融恐慌で倒産したことである。(16) ピトー・アンド・ベッツは, 1861年にアメリカ のアトランティック・アンド・グレート・ウエスタン鉄道をテーク・オーバーし,石油地帯との 関係を深めるなかで,ペンシルベニア原油をイギリス石油精製工業と直接結びつけて,イギリス をヨーロッパ全土にたいする精製油供給基地にしようという大計画をたてた。そして1863年はじ めに大西洋の原油ばら積輸送を行う目的で.ペトロレアム・トレーディング・カンパニィ (the Petroleum Trading Company)を設立した。同年の間に会社は,ラムジー (theRamsey) , ァ
トランティック (theAtlantic)およびグレート・ウエスタン (theGreat W estem)など.それ ぞれ4,000トンの鉄製船舶3隻を建造し,原油ばら積輸送を開始した。だが,輸送における火災と 爆発の危険性を除去できず, 2, 3回の航海の後に,儲けの多い貨物輸送へ転換するに至った。
ただしこの原油のばら積輸送の失敗は,ピトー・アンド・ベッツの倒産を招いた直接的な原因で はなかった。石炭油生産が増加したとはいえイギリスでは,なお精製油の輸入量が高い水準にあ ったことを考えれば,ピトー・アンド・ベッツの倒産は,石油輸入国で大規模な石油精製工業を 成立せしめるためには根本的には,保護関税の賦課なくしては不可能であることを,明確にした
ものといってよい。(15)
(2) ドイツ
ドイツでは1864年および65年度まで,原油輸入のほうが精製油輸入よりも多かったが,精製油 輸入は一貫して目覚ましい増大を続け, 1868年度以降は第1位の石油輸入国に成長した。その背 景として, ドイツ経済が19世紀後半に急速に工業化したことをあげることができる。経済成長に よる都市化の発展,人工照明にたいする需要の増大,および動植物油の供給不足など,消費者は 石油灯火に誘きつけられ,ドイツ商人は積極的に貿易を推進することに努めた。(17)
(3)フランス
フランスの製油業者はいち早く,原油を原料として使用する可能性に取組んだ。 1863年初めに マルセーユ港の近くにある 3大製油工場が,アメリカからの輸入原油の加工をはじめた。しかし ながら,フランス石油精製工業の成長は,精製油に課せられた輸入関税に負うところが大きい。
石油輸送が外国船によるかフランス船によるかにしたがって,精製油1ガロンにつき約1.4セント から2.3セントの関税が賦課されたが,原油には賦課されなかった。原油輸入が1866年度まで精製
(16) 拙稿「創成期のアメリカ石油工業」(小谷節男•河野通博共著『資源・エネルギーの研究(2)』関西大学経済・
政治研究所研究双書第55冊, 1984年,所収) 35頁参照。
(17) H. F. Williamson, et al., ibid., p.334.
油輸入を超えていたことは,石油精製工業がかなりの程度,そうした関税による保護を受けなが ら,成長してきたことを意味する。同年にフランスは世界最大の原油輸入国となりイギリスを凌 駕した。しかしながら,石油関税はフランスの精製油輸入を閉め出した訳ではない。実際上, 1867
年および68年度には,精製油輸入が一般的に原油輸入を超えていた。だが1869年度には,原油輸 入は15万4,000バーレルに増大して,精製油輸入10万6,000バーレルに大きく開きをつけることに なった。 1871年にはフランス・プロシヤ戦争に破れて,ナショナリズムが高まるなかで,フラン ス国会は新しい税率の関税を立法化した。それは原油にも軽い課税をしたが,実際上精製油の輸 入を排除するものであった。すなわち新関税は,原油1ガロンにつき 1.25セントであるのにた いし,灯火油14.8セント,ベンジンおよびナフサ18.5セントであった。このような保護関税のも とに,早くも独占企業,カルテル・デ・ディックス (theCartel des Dix)が形成されて国内石 油精製工業が確立されることになったのである。(18)
(4)ベルギー
1864年度から73年度までの間,ベルギーの原油輸入は, 1864年度の 1万8,000バーレルから出発 し, 1867年度には1万5,000バーレルで最低に落ち込み, 1869年度には6万3,000バーレルでピー クに達した。その後低落傾向を辿ることになったとはいえ,アントワープ港における原油輸入は,
1869年および70年度には,それぞれイギリスおよびドイツを追い越して,フランスに次ぐ第2位 を占めるまでに成長した。原油の一部はアントワープ周辺の20社ばかりの小規模製油業者群へ流 れ,残りは近くのドイツ諸邦における小規模製油業者へ配給された。 1870年度から72年度までの 3年間,原油輸入においてベルギーは第2位を維持したが, 1873年度に2万7,000バーレルに落込 み,再びドイツに抜かれて第3位となった。つぎに精製油輸入をみると, 1864年度から73年度ま での全期間を通じ,一貫して第2位の立場を維持してきた。最初の1864年度および65年度ではそ れぞれ5万6,000および6万4,000バーレル程度であったが,1866年度には18万2,000バーレルヘと 飛躍的に増大し,この年度以降ベルギーは原油を含む石油輸入国の第2位の座を確保して,アメ リカ石油のもっとも重要な市場のひとつとなった。それはアントワープ港を通じて石油を供給さ れるローランド地方およびドイツ諸邦において,石油市場が急速に拡大したことを反映するもの であった。ちなみにその後の精製油輸入は, 1867年から70年度までの間, 23万ないし38万バーレ ルの水準で推移したが,翌年度は40万バーレルを超過し, 1873年度には57万バーレルに増大し た。(19)
(5)オランダ
石油は主にロッテルダム港を通じて輸入されてきたが, 1870年代に入るとアムステルダム港も (18) H.F. Williamson, et al., ibid., p.327, pp.333‑334.
(19) cf. H. F. Williamson, et al., ibid., p.334.
(20) cf. J. T. Henry, The Early and Later Histoか 。ifPetroleum with Authentic Facts in regard to Its Development in Western Pennsylvania, 1873, p.311.
関西大学『社会学部紀要』第18巻第1号
使用されるようになった。(20)さて,原油と精製油の輸入割合についてみると, 1864年および65年 度には,原油輸入は 2万5,000および1万2,000バーレルであり,精製油輸入の 1万3,000および 8,000バーレルを超えていたが, 1866年度以降は,精製油輸入のほうが圧倒的に多くなり,原油輸 入は, 69年度の9,000バーレルを除くと, 2,000ないし3,000バーレル程度の水準に落ちた。精製油 輸入は,1866年度の1万9,000バーレルから68年度には10万5,000バーレルヘと増大し,さらに1870 年代に入ると17万ないし25万バーレルの水準に達した。
(6)ロシア
ロシアは距離的に遠いこと,輸送ルートに難点があることなどを考えれば,精製油需要の実績 は,ヨーロッパにおける経済的後進地域のなかでも,恐らく桁外れに低かったものと思われる。
最初の石油サンプルがオデッサ港に着いてから 4年後の, 1866年度における精製油輸入量は,ゃ っと4万バーレルを超えたばかりであった。 1868年度から70年度の間,輸入は 5万ないし9万バ ーレルの水準で推移した。そして1871年度に17万9,000バーレル, 73年度に18万5,000バーレルに 達した。ここにロシアは,ヨーロッパにおけるアメリカ石油の第2次市場のひとつとして拾頭す
ることになったのである。(注)(21)
〔注〕ロシアにおける国産石油の開発と市場について。 19世紀の初めからバクーの石油は,ロシア皇帝から ミーアゾェフ家 (theMeerzoeff family)に独占権を賦与されてきた。ミーアゾェフ家は石油開発の有効 な方法を持たず,少址の原油を販売するだけであった。石油精製は1858年に小規模で進められたが, 1873 年まで,産出址は少拭にとどまった。しかしながらロシアの国産石油にたいする関心は次第に大きくなり,
灯火用としてでなく石炭の代用として求められた。なぜならば,石炭の大部分は高価格でイギリスから輸 入されていたからである。数人のロシア技術者はバクーのロシア海軍の幹部と,カスピ海の商船隊の保有 者の支持を得て,1865年頃に船のポイラーで石油を燃やす装備を開発しはじめた。2人の技師が効率的なバ ーナーの開発に成功した。 1870年に最初のバーナーが蒸汽船イラン号 (thesteamship Iran)に取り付け られた。1873年に6隻の商船が,その後間もなく40隻の全カスピ海商船が,オイル・バーナーに転換された。
石油燃料への転換は,国産石油の市場と,工業発展に必要な輸送便益を確得する手段とを,提供すること になった。この燃料転換の成功はロシアの灯火油市場に何ら影響を及ぼさなかったが,石油精製工業発展 の基礎を築くものであった。 (HaroldF. Williamson, Arnold R. Daum, et al., The AmeガcanPetroleum Industry. The Age of ilium切ati畑 1859‑1899, 1959, pp.170‑172, pp.177‑178)。
(7)その他の地域
1870年代に入ると石油の輸出市場は,ョーロッパのなかでも通信交通の不便な地域,通商貿易 の中心から離れた地域へも拡大していった。まず,イタリアおよびスペインは1868年度まで少量 の灯火油を輸入するにすぎなかったが, 1871年度には両国の年間輸入合計は約20万バーレルに達 した。また,スカンジナヴィア諸国は大陸でもっとも遅れた灯火油市場であり, 1867年および68 年度の輸入量は 8,000バーレル以下であり,続く 2年間は全く輸入が行なわれなかった。スカン
ジナヴィア諸国が第2次市場として意味をもつようになるのは, 1870年代半ばまで待たなければ ならなかった。(22)
(21) H. F. Williamson, et al., ibid., p.336. (22) H. F. Williamson, et al., ibid., p.334, p.336.
2. 海上輸送組織とマーケティング・チャンネルの改善
石油輸出の増大は,海上輸送能力を向上させるために輸送組織の改革を迫るものであり,また 石油輸出業務の改善が,外国のマーケティング企業により実行されたのである。
(a) 石油の海上輸送組織
初期における石油の海上輸送は,輸送能力のあまり大きくない低速の木製帆船で行なわれてい た。すべての原油はバーレルかカスクで,また大部分の精製油はバーレルで,輸送されていた。
そうした石油の樽詰海上輸送は,一般に油漏や火災による大量損失の可能性を免れ難かったばか りか,そのうえ貿易港における樽積および樽卸にはなはだしい労力と長時間を必要とした。それ らの難点を克服するために次のような改善策が採用された。第1は,積荷様式の改善である。石 油の輸出貿易が開始されてから間もなく,油漏や火災を防止するために灯火油は, 5ガロン入り の缶に詰めてさらに2個の缶を木製のケースで梱包するようになったが,特に目的地や航路が熱 帯地域を通過するばあいには,その梱包が慣行となってきた。それは,効率的で安全なばら積輸 送システムが開発されるまで,支配的な積荷様式となったのである。第2は,輸送船団の大規模 化である。 1860年代中頃までに進展したこの海上輸送組織の重大な改革は,貿易量の増大にとも なって,木製帆船の積載能力不足を緩和するために大いに役立ったのである。第3は,ロンドン,
リバプール,アントワープおよびアムステルダムなどのヨーロッパの主要な貿易港では,石油積 卸の計画化,および港湾施設の改善がなされたことである。それらの改善は,貨物料金および保 険料の低下に反映された。たとえば1863年から65年の間に貨物料金は,フィラデルフィアからロ ンドンまで1バーレル8シリングプラス 5 %の割増運賃から, 5シリング6ペンスないし6シリ ング3ペンスまでに低落した。またイギリスの保険会社は,アメリカから輸出される石油貨物に たいして,保険料金を7ポンド7シリングから2ポンド10シリングヘと引下げたのである。(23)
(b) 石油のマーケティング・チャンネル
輸出貿易のマーケティング・チャンネルも,輸送組織の改善にともなって,重要な発展をとげ た。初期における石油輸出業務は,主としてボストンのサミュエル・ドーナー(SamuelDowner) やビッツバーグのチャールズ・ロックハートのような国内の製油商人 (refinermarketer)か,あ
るいはニューヨークのハラシオ・イーグル・アンド・カンパニィ (Haratio Eagle and Company) のようなマーケティング企業 (marketingfirm=貿易商社)などの国内業者によって推進されて いた。しかし1860年代中頃になると輸出業務は,外国のマーケティング企業にとって代られた。
それらの企業はすでにスパーム油,鯨油,ラード油などの取引に長い経験を積んでいた。外国の マーケティング企業のバイヤーたちは,自社の従業員またはパートナーを買付業務代理人として 合衆国へ送り込むばあいもあったが,一般的には当時の外国注文を捌く専門家として拾頭してき たニューヨークの仲買業者(プローカー)や卸売業者を通じて,買付を行なったのである。それ
(23) H. F. Williamson, et al., ibid., pp.330‑331.
関西大学「社会学部紀要』第18巻第1号
らの業者は顧客である外国マーケティング企業のために,石油を買付けるばかりでなく,石油の 検査,船積および保険などの手続きも行なった。外国バイヤーの力は強大であった。彼らは, 1863
年には製油業者に圧力をかけて,灯火油の出荷にたいして,華氏115度の点火テストを課し,それ を輸出貿易の基準とすることに成功した。また彼らは1867年には,輸出業者に圧力をかけて,木 樽の仕様を改善し,そのサイズを4046ガロンの間に標準化することにも成功した。(24)
(24) H. F. Williamson, et al., ibid., p.331.