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回 心 と し て の 自 己 の 技 術

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ロマンティックラブと回心

中 村 英 男

回 心 と し て の 自 己 の 技 術

デイヴイッド・トロツターはその著作『循環 j においてピューリタン的な回 心としての自己の技術について次のように語っている。

ピューリタニズムにおいてはこれらの重要課題の焦点は回心である。自 己吟味と聖書読解が集合的組織的ではない個人的な達成、すなわち正し い信仰への回心を産み出すのである。そしてその正しい信仰への回心こ そ、まさに聖害の具現であり最善の証拠なのである。回心の唯一の証拠 は、それがどのように起こったかを描写するという魂に関しての自伝で ある。その回心がどのように始まり、どのような抵抗を克服し、どのよ

うな真正さを示し得るか、魂の自伝はそれを語る。 ο 0 )

トロツターはこの回心の問題を世俗の世界におけるテキストの読解行為に当

てはめてみせる。ジェイン・オースティンの『自負と偏見j において求婚を拒

絶をした後にダーシーから渡された手紙を読むことで、エリザベス・ベネット

がそれまで知らなかった視点を獲得する過程を上記のピューリタニズム的回心

の世俗版と見なすのである。手紙を読むことでエリザベスは過去の自分の行

為、自分がそれまで抱いていた世界認識の再構成を迫られる。過去の出来事を

手紙の与える光の下で再吟味することで、エリザベスの脳裏にそれまで考えて

いたものより真実に近いと思われる世界の別の意味が浮かぴ上がってくる。つ

いにエリザベスはその真実を認め「この瞬間まで私には自分というものがわ

かっていなかったのだわ J と口にする ( A u s t e n2 0 2 ) 。

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2 4   ロマンティァクラブと回心

読む行為が自らの行為と自らの経験の再吟味につながり、それまでの自分と は異なるあり方が見いだされる。自らの行為と経験が再解釈され、これまでと は違った視点が獲得され、異なった読みが可能になる。新しく可能になったこ の解釈こそが「回心 J によって得られた自分なのである。聖アウグステイヌス の有名な「取りて読め」のエピソードから G ・エリオットの「ミドルマーチ』

のドロシアの経験に至るまで、トロツターの描くピューリタン的な自己の技 術、 ~O ち自己吟味と過去の再定義という形での新しい自己の獲得の物語は、確 かに英国の小説の大きな伝統の一つであるようにも思われる。トロツターは

「集合的組織的な達成」しかなかった世界に如何にして初めての個人が生まれ てきたかを説明しようとしているとも言える。

しかしながら、権威への帰依としての個人の成立はある意味では個人の消失 という側面を持っている。それはたとえばスティープン・グリーンブラットが

『ルネッサンスの自己成型』に描いたヘンリー 8 世という圧倒的権力に直面し たトマス モアの究極の選択の場合と似ている。モアはそれまで権謀術数渦巻 く宮廷で彼を生き延びさせてきた即興演技的自己を捨て去って「集団全体に よって揺るぎなく確立されその全体の投影としてのみ理解できるあり方 ( G r e e n b l a t t  1 5 7 ) J を選び取り、王の離婚に対して不承諾の意を示し、当然の帰 結としてロンドン塔へ送られることになる。死を持って脅かす権力に対峠した モアはそれまで自分を助けてきた洗練された即興演技的自己ではなく、彼の内 奥の真理に対しての恭順を示す。モアの選択はその中では彼が隠れ場を必要と しないと考えていたカトリックという集団への回帰であった。彼にとって信仰 とは「社会的な現象であり、共同体によって共有されたもの ( G r e e n b l a t t 6 0 )   J であり逆に個人的確信は「どんなに強固なものであろうとも、どんなに 見たところ反駁しようのない『証拠』で固められていようとも、一般の合意が なければ、良くて的はずれ、悪くすると犯罪的なものか、さもなければ狂気の 沙汰 ( G r e e n b l a t t6 0 )   J であった。他者、そして共同体と共有されるか否か、

その点がモ 7にとっての真理の試金石であったと言ってよい。

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ロマンティックラブと回心 2 5  

『自負と偏見 j におけるエリザベスの「回心」は彼女の個別の体験であり、

その意味で正しいあり方を発見したその経験はトロッターが考えているように 彼女という個人を作り上げた経験と見なすことも、もちろん可能である。だが 同時にその行為によってダーシーという他者の見方との共有が達成され、さら に言えば手紙の読解後ダーシーの存在はエリザベスにとって依って立つべき権 威とも感じられている。ダーシーの姿はその意味で社会的叡智とも言うべきも のを代表しているのであり、エリザペスの行為はダーシーという個人への恭順 であると同時にダーシーが代表する全体への回婦という側面があると言うこと を認識する必要がある。その点において個人の自由な意志の否認という側面を

f 半っているのである。モアの行為が完全に彼という個人を形作る上での決定的 なものでありながら、同時に殉教者という型の中に自分を流し入れそれまで彼 がそこから逸脱していた想像上の共同体へと回帰していく身振りであるのと同 様に、エリザベスはダーシーへの回心を通して、一方では個人として自己を作 り上げながら同時に彼女が個人としてある意味で超越していると思っていた大 きな集団に悔悟と共に戻って来ているとも言える。その点、彼女の回心も個人 の生成とも個人の消失とも見えるのである。

モ 7 やエリザベスの経験した回心を自己の技術とみるかあるいは自己の消失 の過程とみるかは別にして、ここでその問題の射程として念頭において置きた いのは、同様の過程と見えるものが 20 世紀の初頭に至っても繰り返されてい るということである。一つはヘンリー‑ジェイムズの『鳩の翼』において描か れたマ一トン・デンシヤ}の死んでいく女性ミリーに対する回心であり、もう 一つはジョゼ 7 ・コンラッドが描く『西欧人の目からみれば』の主人公ラズー モ7の回心である。

マ一トン・デンシャーは恋人のケイトから暗黙の内にミリーという大金持ち

だが、不治の病に冒された女性に親切にするようにと勧められる。やがてそれ

がケイトの計画でミリ}に恋愛を経験させた見返りにデンシャーが遺産を受け

取る事を目指していることを知る。事実が暴露された後にミリーと最後の会見

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26  ロマンティックラブと回心

を果たしたデンシャーはミリーがすべてを知った上で自分を許してくれたと感 じ、やがて生きているケイトから死んだミリーへとその忠誠の対象を変えてい く

o

ミリーによって自分は赦された存在となれたというデンシャーが経験する 感覚はそれまでの誤っていた状態から正されたという意味でそアやエリザベス の経験した回心の経験に近いもののように見える。

ラズーモ 7の物語はより複雑である。帝政ロシアという政治的に遅れた空間 で体制に従い立身出世を目指す青年ラズーモフ。ある日彼の部屋にかりそめの 知り合いに過ぎないはずのハJ レディンが逃げ込んでくる。彼は政治体制の改革 を目指して政府の要人を暗殺、逃げ場を求めてラズ}モ 7の部屋に逃げ込んで 来たのだ。相手の盲目的な信頼にとまどいながらも最初ハルデインを救おうと するラズーモ 7だが、うまくいかず結局ハルデインを裏切り政府に密告する。

やがて政府のスパイとなってジュネ}プに向かい、そこでハルデインの妹ナ ターリアと出会う。ハルデインは自分の盲目的な信頼を妹にも伝えていた。ナ ターリアの眼にはラズーモ 7は兄の信頼する革命の同士と映っている。三人の 聞に育つ恋愛感情は当然の事ながら決定的な阻害要因を持つ。それはナターリ アの考えるラズーモ 7と現実のラズーモ 7の話離である。ついにその自分の抱 える欺臓に耐えられなくなったラズ}モフはナターリ 7 にすべてを打ち明け る。これはナターリアに対しての回心であると同時に一度は裏切ったその兄ハ ルデインと、そしてスパイとしての役割を引き受けることで一度は裏切ったハ ルデインが信じるロシアの民衆に対しての回心でもあった。

集団的なものであれ個人的なものであれ、回也、という枠組みが 20 世紀の初

頭において依然として機能しているという事実は何を諮るのであろうか。何が

その回心の対象、帰依すべき権威なのであろうか。この問題をさらに考える前

に確認しておきたいのは、 1535 年にモアがその即興演技的自己を消失させ

て獲得した集団的アイデンテイティが当時のイギリス社会を含めてヨーロツノ守

の空間全体に浸透していたカトリックという集団の有する権威だったのに対し

て 18  1  3 年のエリザベス・ベネットが帰依した対象はあくまで個人であり、

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ロマンティックラブと回心 2 7   その個人がエリザペスの「紳士らしくない」という批判を受けて自分の内奥の 秘密を明かしてまで説得しようと試みた結果として彼女の回心が起こったとい う事である。 16 世紀のモアの最後に帰依した権威は伝統的な宗教共同体で あったのに対してエリザベスの権威の対象は、あくまでも彼女が後に恋愛感情 を抱いていたことを認める個人であり、この二つの世界が公と私、魂の救済と セクシュアリティというそれぞれ大きく異なる真理を中心に回転しているとい

う事を示している。

ロ マ ン テ ィ ッ ク ラ ブ と し て の 自 己 の 技 術

1  6 世紀と 19 世紀初頭の聞に生じたこの権威の在処の移動について社会学 者アンソニー・ギデンズはその『親密性の変容jの中でヒントを与えてくれて いる。彼はそこで 18 世紀後半以後小説の発生と共に今日に至るまで発達して きたロマンティックラブという概念を紹介している。彼は 7ーコーが近代性を 考える上で軽視していたものとして近代以降の愛情の変質を指摘し ( 3 8 ‑ 4 1 ) 、 婚姻関係に関し近代に特徴的な趨勢を産み出した流れとしてのロマンティック

ラブについて以下のように説明する。物語を読むことが現実の世界での個人の 未来を作り上げる際の経験を構造化する基礎として利用される。伝統的世界観 が絶えざる反復と見ていた場に姿を現してきた近代世界における解放され空白 となった未来を個人がどのように制御していくのか。それは自分をいわば主人 公とした物語を思い描き、再帰性を通して空白の未来をコロニー化すること、

言い換えれば反事実仮想的推量によって未来の可能性の領域を作り出すことに

よってである。その際小説に描かれたロマンティックラプが多くの女性にとっ

ての指針となった、ギデンズはそのように考えているように見える。小説が読

まれ、その読まれた小説が未来の枠組みを提供し、それに基づいて経験が構造

化されていく過程を再帰的と呼んで良いのだとしたら、権威への帰依とも呼ぶ

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2 8   ロマンティックラブと回' C 、

ベき形で形成される回心としての自己の形成とは異なったこのロマンティック ラブを通しての自己の形成を仮に再帰的自己の技術と呼んでもよいかも知れな い。ギデンズ自身がロマンティックラブと言う際には女性の「感情的な征服 J

という側面が重要な意味を持っている。ロマンテイアクラブは確かに女性の側 の願望充足的な側面を含んでいることは否めない。彼が典型的と考えるロマン ティックラプの物語とは次のようなものである。

だからこの点で近代の空想文学は、通常ヒロインがどちらかと言えば 受け身の立場にいた中世の騎士道物語とは著しく対照的である。近代 の空想恋愛小説は女性をほとんどの場合独立心が強く、意気盛んな存 在であり、また、一貫してそういう形で描写してきた。こうした小説 が描く異性の征服というモチーフは男性版の性的征服とは明らかに異 なるものである。ヒロインは最初自分に無関心で冷淡な、あるいは明 らかに自分に反感を抱いている男性と出会い、その男性の心を解きほ ぐしていくからである。だからヒロインは積極的に愛情を産み出して いく。ヒロインの寄せる愛情によってそれと引き替えにヒロイン自身 が愛されるようになり、相手の無関心な態度を打破し、反目にとって 代わり深い愛情が生じていくのである。 ( G i d d

s , T : 日 n f o n n a t i o n4 6 )  

結果的にそれが女性の読み物を元にした女性の願望であり、女性の未来の描 き方であったのだとしても、より重要な変化はそれがセクシュアリティを核と した経験を巡って正しい権威へのいわば帰依ではなく、権威の存在しない空白 のページを自らのセクシュアリティを満足させるような形で記述していくとい う行為への関心の移動の問題だという点であると思われる。恋愛小説は現実に は自由な恋愛も社会参加もできなかった多くの女性の「反事実的な仮想 J によ る新たな未来の記述であったが、その物語を青写真としてドグマ的正しさ古切=

在となっていく世界に意味のある叙述を行うことで個々人に心理的安定と未来 に対する統制を与えるロマンティックラプという枠組みは女性だけに限らず男 性にとっても、近代世界における個人のアイデインティの見取り図とも言える

ものを提示することになる。

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ロマンティックラブと固化、 2 9   聖書の影響の退いていく世俗の空間に新しい人間の権威の根拠が書き込まれ ていく。 18 世紀に始まった小説の歴史は確かに男女関係を搭き、そのセク シュアリティの行方に関心を抱いていた。サミュエ J レ・リチヤ}ドソンの露骨 とも言える『パミラ』ゃあまりにも悲劇的な『クラリツサjがその鳴矢であり その後のイギリス小説の大きな流れを産み出したことは疑いがない。男女の関 係は現実の世界においてセクシュアリティを巡る関係へと変容していく。財産 の保持や労働力の確保という側面が背後に退いて、セクシユアリテイの充実が 個人の関係を規定する際の主要なテーマとなっていくのである。それは伝統的 な社会が持っていた婚姻の原理に代わって人と人をより深くしかし同時に、制 度への依存の低下に伴いより脆い形で結びつける。近代世界においてより根源 的な新たな関係の基礎となるものとしてのセクシュアリティについてギデンズ は次のように説明する。

その時セクシュアリティは、人間存在の幅広い欲求に統合された現象で はなく、ルーマンが述べているように「コミュニケーション的なコー ド」となる。性行動において快楽と生殖の聞には常に境界が引かれてい た。しかしながらセクシュアリティと親密な関係との聞に新たなつなが りが形成されたとき、セクシュアリティは以前よりずっと完全に生殖か ら切り離されるようになった

o

セクシュアリティは、自己実現の手段、

そして親密な関係の主な手段およびその表現として、二重に構成される ようになった。セクシュアリティはここにおいて、それを囲む伝統や道 徳とのそして世代の継承との外的なつながりを失った。セクシユアリ テイは「経験」にとっての中心的問題で有り続けるというより、そう なったのであり、 「経劇という言葉は特に性生活に関する意味を持つ ようになった。 (M 吋 町 l i t y a n d  S e l ι l n d 閉 山 y1 6 4 )  

エリザベスのダーシーの手紙による回心はその杜会的判断の正当性への帰依

であるが、我々は『自負と偏見』という物語が単にエリザベスのこのような自

己覚醒によって終わるのではないという事実を思い出す必要があるかも知れな

い 。 r エマ J や『ノーサンガーアピー J などが典型的にダーシー的な男性優越

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3 0   ロマンティックラブと回' L '

者の持つ権威への帰依という終結を迎えるのに対して、 『自負と偏見』には上 に見たようなエリザベスの回心に加えて、その回心の起源である権威者自身の 自発的な変化も見られるのである。エ>Jザベスがそれまで知らなかった自分を 知るのと同様、エリザベスにとって立ち戻るべき権威として機能している手紙 の執筆者ダーシー自身が、それまでとは異なる自己の存在へと自らを書き換え ていく過程がこの小説の中には同時に描かれている。愚かな娘リデイアと悪漢 ウイカムとの駆け落ちでベネット家の名誉が危機にさらされているのを知る と、この幾分道徳的潔癖家とも見える人物が、恐らく我慢しがたい程いとわし い人物に違いない自分自身の妹も誘惑しようとした男と差し向かいで交渉を行 い、結婚の話をまとめ上げ致命的になりかねなかったスキャンダルの回避に成 功する。そのような振る舞いに見られるような彼の内的な変化を引き起こした 力とは、結局彼自身が「我慢しようとしたが無駄でした(1 8 5 ) J と認めた力で あり、ピューリタン的な正しい認識の獲得という意味での「自己の技術」とは 異なる別の「自己の技術」であるように恩われる。

ダーシ}の中で育っていったエリザベスに対する欲望、彼は最初それを押さ え込もうとする。何故ならエリザベスの父、母、妹遠の振る舞いが自分が背 負っている家名に禍根を残しかねないと判断したためである。その彼が結局

「我慢しようとしましたが無駄でした」と家父長として自らに許すことの出来

ないと最初は考えていたあり方に向かつて歩き始める時、物語はエリザベスが

オーステインの他の小説の女性主人公同様経験するのとは異なる種類の「自己

の技術」を巡る局面へと入っていくように思われる。ここにあるものを単純に

セクシュアリティへの屈服と見るのであればダーシーは転落した英雄、サイレ

ンの呼び声に耳をふさぐことが出来なかったオデッセウスということになるだ

ろう。しかし実際にはダーシーはエリザベスとの関係を深化させることによっ

て、それまで彼が父親から加えられた教育によって現に自分がそうなった存在

とは異なった自分というもののあり方を自らの選択で作り上げていく。統治者

として自分以外の人間すべてを蔑視するよう教えこまれた自分とは異なった自

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ロマンティックラブと回心 3 1   己像を手に入れていくのである。回心という自己の技術においてはエリザベス に対してダーシーが立ち戻るべき権威として機能するのと同様、ダーシーに とっては逆にエリザベスが自らの行為の根拠として機能する。その意味でここ には単純な唯一の権威への帰依としての回心とは別の種類の自己の技術が描か れているように思われる。権威は相互的に存在しているのである。

注意すべきはこの枠組みにおいては、読む行為が回心の場合にそうであった ような単純な権威への帰依とも呼ぶべきものへとはつながらないという点であ る。依って立つべき権威への立ち返りではなしいわば自己のセクシユアリ ティをどのように現実の場面において具現化していくか、という適用の側面に より注意が注がれる。ダーシーが彼の背負った家父長としての責任の壁を乗り 越えて、彼のセクシユアリテイの充実の方向へ乗り出すという展開は一面では 男性の「感情的征服j をめざす女性の側の願望の充足に過ぎないが、それを単 に女性の側の都合の良い白昼夢実現とのみ見るべきではないだろう。少なくと も 19 世紀初頭、ダーシーがその代表である土地本位の社会体制は多かれ少な かれ転換を余儀なくされ、 『自負と偏見jの世界ではある種軽蔑の対象となっ ているエリザベスの叔父のような商売をする中産階級の社会的経済的地位が急 速に上昇していく未来がわずか先に待ちかまえている。その意味で社会的な変 化に対応するためにだけでもダーシーが変化しなければならない立場にあるこ とは明らかで、その変化により適合する方向へ歩み出す事とセクシュアリテイ という領域で彼がそれまでの自己とは別の自己へと変貌しようとすることは、

幾分か通底しているのだと考えられる。古い教えられた硬直化した自己を維持 するために我慢しなくてはならないと考えた欲望にダーシーが身を委ねていく

ことは社会的にも重要な意味を持つのである。

実際彼は最初の舞踏会の場面で見せたような他者に対する拒絶の垣根を積極

的に乗り越えてエリザベスの叔父夫婦と親密な交わりを持とうという変化を見

せる。この彼の変化をエリザペスの魅力への単なる屈服、 『パミラ』の B 氏の

結婚の承諾と同一次元のものとのみ見なすのカ羽三適切なのは明らかであろう。

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3 2   ロマンティックラブと回心

彼は明らかにそれまでとは異なった習慣、異なった身振り、恐らく異なった考 え方を獲得する。その意味でここには確かに女性にとってのみならず、男性に とっての新しい自己の技術が描かれているように思われる。依って立つべき権 威が必ずしも絶対的なものでなくなっていく新しい世界に適合するように自己 を適切に変容させていく能力がここでは問題とされる。エリザベスから見た ダーシーとの関係に回心というより伝統的な自己の技術の問題があるとすれ ば、ダーシーから見たエリザベスへの関係には、より意識的な自己の変容の問 題が猶かれている。単純化すれば、権威の存在しない領域への試行錯誤を伴っ た自己生成への身振りをダーシーの行動は描いているように思われる。

重要なのは一見ダーシーの行為は 20 世紀における『鳩の翼』におけるデン シャーや『西欧人 J のラズーモ 7の行う女性への回心とも言うべきものに見え ながら、実は大きな違いを苧んでいるという点である。ダーシーの身振りには 権威からの脱却、権威の否認の要素が多く含まれている。彼はどこかに帰るの ではなく出ていくのである。確かにエリザベスの姿がその際の指針になるのは 事実だが、エリザベスは完壁な存在として認められているのではない、彼女の 中に愚かな母親という不完全な部分があるのを知りながら、ダーシーはそれを 欲望しないではおれないのである。

恋愛からの疎外

1  9 世紀と 20 世紀の恋愛における意味の違いに注目する必要があると感じ るのは、確かにイギリス小説の中に繁茂すると言っても良い恋愛をめぐる物語 の量を考慮に入れると、読者としての中産階級の女性が再帰性を通して自己の 未来を植民地化していくというギデンズが提示するロマンティックラブという 枠組みが一方では説得的であると感じられながらも、他方、現実の小説の歴史

に眼を転じると必ずしもギデンズが提示するそのようなセクシュアリティをめ

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ロマンティックラブと回心 3 3 ぐる枠組みが小説の現実の歴史の中にはそれほど優勢とは見えないという事実 カさあるからである。

7ーコーがパノプテイコン的監視をセクシュアリティに当てはめた事に対し ての一種のアンチテーゼとしてギデンズは自由に選ひ耳 Eることのできる個人の 意志に基づいた自己の記述の可能性としてロマンティックラブという枠組みを 考えたと推察できるが、少なくとも小説の中に記録された意識においては 7 ‑ コーの枠組みの方が有効であるように見える。例えば『大いなる遺産 j におけ るオナニ}の監視の視線のようにセクシュアリティが個人を監視によって作り 上げる規律の手段として機能しており、その意味でセクシユアリティは自由な 自己の記述、空白の未来を能動的に植民地化するための手段と言うよりも個人 を自分自身が産み出す自己への権力の監視に対し従属させる装置として働いて いるように見えるのである。又イギリス小説においては確かに盤数の恋愛を主 題とした小説が存在する一方、傑出した作品においては特に親密性の深化とい うよりも親密性からの疎外ともいうべき状態が繰り返し描かれているように見 え、そしてそこにはダーシーが経験したような親密性に向かつての物語性を 持った自己の変容の記述はほとんど存在していないようにも見える。

親密な関係からの疎外は 20 世紀初頭のへンリー ジェイムズの描いた世界

にも重要なテーマとして残存している。典型的な例は後期の重要な作品の一つ

である『鳩の翼jでのミリー・シールが置かれた状況である。ケイトとデン

シャーという恋人同士の関係を外から眺め推量することを強いられていたミ

リーは最終的に自分が決定的に疎外されていた事を思い知らされる。ほぼ同様

の構造が同時期に書かれた「大使たち J に存在していることは容易に見て取れ

る。チャドを明らかに変貌させたはずの素晴らしい女性ヴィオネ夫人との恋愛

体験。ストレザーはその経験を外側からミリ一同様に挑め、推量し、憧れ、そ

の経験こそが自分が経験することのかなわなかったそれ故に彼が「生き損ね

た J 原因である決定的な経験だと感じている。ミリーについても彼女が結局は

外側から眺めねばならなかったその恋愛経験こそ「生きた」という感覚を彼女

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3 4   ロマンティックラブと回心

に与えうるものだと小説の世界の中で一様に信じられている。いずれの場合で もここにあるのはセクシュアリテイの充実が経験の核と見なされる事態であ る。ミリーは不治の病故にそれを経験できない、ストレザーはピューリタン的 な文化の故にそこから排除されている。従って彼らは生きたという感覚を持て ないと見なされるのである。

恋愛から排除された経験の重要性の問題が後期作品だけに限られたものでな いことは、 『ある夫人の肖像画 J (以下『肖像画j と略記)のイザベルがオズ モンドとマール夫人の聞の関係に最終的に見いだした親密に対して抱いた疎外 感を思い出すだけで十分だろう。イザベJ レの置かれた状況は『リトル・ドリッ

ト』においてクレナム夫人の置かれた状況の反復である。結婚の後に夫に深い 親密さを有した人物がいたことが判明する。イザベ J レはもちろんオズモンドの 娘パンジーの存在を前もって知っていたが、オズモンドとマー J レの深い関係に ついては物語の終わり近くに至ってようやく一種の啓示としてその関係を知る

に過ぎない。

その意味でイザベルもまた、激しく親密な男女関係から疎外された存在なの である。イサーベルのオズモンドとの関係は彼女の「他の何ものによっても表現 できない J 自己への探求の姿勢にもかかわらず根本的に伝統的である。年齢差 を抱えた(連れ子までいる)男性への婚姻関係は、後に見るように、 『フラン ケンシュタイン』において怪物=ヴイクタ}がそこから逃れようとした伝統的 な安定したセクシュアリティの充足を求めて結ぼれたのではない男女関係への 後退とも見なしうるように思われる。イザベルが「他の何ものによっても描く

ことの出来ない自己 j を記述することを意識的に求めた存在であるだけに、彼 女が取り結んだセクシユアリティの充足とは畳縁に見える関係と、最終的に見 いだした親密さからの疎外感は特筆に値する。なぜなら物語全体を通してみる とイザベルが求めていた意識的者自己の生成よりも、彼女古苛見実に経験した疎 外惑の方がより大きな意味を持っているように感じられるからである。

ジェイムズが『肖像商』で描こうとしていたイザベJ レの希求する「作り上げ

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ロマンティックラブと回心 3 5   るものとしての自己」に対して、それに対しての回避とも見える態度は、自己 を作りあげる行為から意識的に逃れようと歴史に己を埋没させようとするオズ モンドの極端な自己滅却としての伝統志向という形で描かれているように見え る。自己についての自由な新しい記述ではなく、伝統的で正当化され是認され てきたあり方か V住ーの頼るべき権威として存在する空間。オズモンドが自らの 娘パンジーとの問に築き上げたその密閉された関係こそがある意味で彼がマー J レ夫人やイザベルに求めながら得ることの出来なかった伝統的な女性性の完成 された形なのである。男性のそして女性のセクシュアリティが変化を被ること がないように閉じこめられている。そこから逸脱して自由に自己を記述しよう とするイザベルの振る舞いをオズモンドは逸脱としてしか見ることが出来な い。彼には死に瀕した従兄弟への面会というイザベルの求めた極小の女性の自 由すら許すべからざる逸脱として認識される。

権威を見失って常に書き換えられる可能性の中に置かれていること。オズモ ンドが拒んでいるのはその不安定きである。その意味でオズモンドは「自負と 偏見jのダーシーの対極に位置する人物と言える。仮に瞬間的ではあったとし ても(というのは『自負と偏見』以外の作品では基本的に女性が男性の権威に 対して帰依するエリザベス的な回心のみが存在するからである)オースティン が垣間見た男女のセクシュアリティの書き換えの可能性はオズモンドの世界に おいて拒まれ否認される。オズモンドの支配する空間とは書き換えられる事へ の恐怖が支配する空間である。

2  0 世紀初頭のヘンリー・ジェイムズと異なり、直接ロマン主義一般の思想 がフランス革命の引き起こした暴力や社会の転覆の可能性と結ぴつくものと感 じられたはずのヴイクトリア朝の作家チャールズ・デイケンズにおいて、セク シュアリティの解放につながる自由な恋愛のもたらした廃壌としての個人の経 験が描かれるのは、あるいは自然なことに見えるかも知れない。 r 大いなる遺 産 j のハヴイシャム夫人は婚礼の朝に夫となるはずだった男性から拒絶され、

それ以降花嫁姿のままで暮らし続けながら自らの味わった苦痛を男性に味わわ

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3 6   ロマンティックラブとIl! H 、

せようと復讐の為に美しい娘を引き取って育てようとしている。恋愛から排除 された事が彼女と彼女に関わる人の運命を形作っていく。より典型的なのは

「リトル・ドリット』において作品の中心に謎として存在するクレナム夫人で ある。彼女は一方ではドリット嬢に対しての何らかの不正とも結びついている が、より本質的にはアーサーという「息子」の精神的な麻揮を引き起こした人 物として作品内の世界において設定されている。彼女がアーサーの精神的な麻 障とも言える状態を作り出してしまったのには理解可能な理由が存在したこと が、物語の最後に至って明らかにされる。新婦として家庭に入ったクレナム夫 人は自分の夫となった男性に愛人とその子供まで存在していることを知る。丁 度『肖像画jのイザベルがいわば間接的に経験したような疎外の衝撃を直接に 経験した彼女は、その際に受けた衝撃から身を守るために恐らくメソデイズム への信仰と結びついた形で Z L 町民の感覚を強化し、自由に取り結ぼれた夫と愛人 を結びつけたもの全体に対しての非難を先鋭化させ、最終的には「息子」ァー サーの内にセクシュアリティに対しての罪の感覚を植え付けていく。その事が 成人したアーサーの精神の麻庫、即ち愛を感じる女性への気持ちを抑えつけて

しまうことをもたらすのである。

デイケンズ作品の中に描かれた恋愛から排除された人物達と『フランケン シュタイン j の怪物の絶望をつなぐのは『ジェイン・エア』の中で描かれた屋 根裏の狂女パーサ・メイスンの姿である。この作品にもセクシュアリティをめ く自つての二種類の関係が存在している。一つはジェインと従兄弟リバーズとの 聞の深い愛情とは無縁の(結局はジェインによって拒絶される事にをる)同士 的な結びつきであり、もう一つはジェインがロチェスタ}の聞に結ぶ、 度は 拒絶されるが最終的には選び取られることになるセクシユアリテイの充実と関 わった関係である。

パーサの姿はこの作品の中で二重の意味を帯びているように思われる。現実

のセクシュアリティのレベルにおいては事実上正妻パーサを排除するジェイン

だが、法的なレベルにおいてはパーサという正妻から疎外される立場に置かれ

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ロマンティックラブと回

4

レ 3 7   る存在でもある。その意味で最終的に屋敷に火を放ちロチェスターの目を損な う、この長〈閉じこめられていたパーサの姿は主人公ジェイン自身の心理的相 関物として眺める事ができるように恩われる。互いが互いにとって疎外し疎外 される原因であるという意味で、ジェインとパーサとはそれぞれが互いにとっ ての鏡像なのである。このように親密な関係から排除された女性の抱く破壊的 な激情を一方で表現しながら、最終的にはその激情が押さえ込まれて幾分ご都 合主義ではあれセクシュアリティに基づいた関係が成就するこの作品は、ジェ インとロチェスターの関係においてはロマンティックラプを通しての自己の構 築に関わる物語の一つに数えることも可能だろう。しかし『自負と偏見』にお けるようなセクシユアリティに基づく自己の書き換えの部分は比較的弱い。む しろその魅力はパーサ=ジェインの置かれた恋愛からの疎外の方にあるように 感じられる。

デイケンズ古りミーシイ・ピシィ・シェリ( r デイヴイッド・カッパーフィー J レド J )やリー・ハント( r 荒涼館 J )などロマン主義の典型と見える人物を あるいは悲劇的あるいは喜劇的に批判の対象としているのは時代の求めた判断 であった。恋愛故に傷つけられた人物や家庭の姿はある意味で恋愛の危険性に ついての首尾一貫した記述であるようにも見える。エドワード朝にまで生き延 びたジェイムズやコンラッドの描いたものもある意味でヴイクトリアニズムの 産物という見方も可能であろう。しかしながら事は単なる反動的な抑圧という 問題ではすまない。というのは恋愛からの排除の構図は実の所、フランス革命 後の自由のもたらした混乱に対しての反動という形で生成されていくヴイクト

リア朝という保守化した時代においてではなくて、ロマン主義の中心といって も良い地点から始まっているからである。

メ 7' ) .シェリの描いた『フランケンシュタイン J の怪物は最初拒否された

子供として養育者的存在を求めるが、やがては女性との親密さに執着を見せる

ようになる。もちろん最終的に怪物が自分の配偶者を創造するようにヴイク

ターに求めるという展開が決定的だが、それ以前の段階で例えば最初の犠牲者

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3 8   ロマンティックラブと回,レ

ウィリアムが手にしていたミニアチユアの女性(ヴィクターの母カロライン) への関わり方がそれであり、さらに言えばジュスティーヌに対しての関係も怪 物の想像においては一瞬の妄想の問、恋人間の関係なのである。

もちろんそのような関係は夢想に過ぎず、怪物が自分の不適切性を強く意識 する機縁となるに過ぎない。自己を構築する物語の核心におかれるべき経験と しての熱情的な恋愛、その物語にとって自分カ司 t 適切であることを怪物は発見 する。怪物の最初の殺人は二重の絶望によって引き起こされる。怪物が最初 ヴイクターの幼い弟ウィリアムへ接近を試みた時、怪物か期待していたのは小 屋の老人とその盲目故に結ぶことが出来た親密さだった。しかし、幼いウィリ アムが釦心に自分の醜さを受け容れてくれるのではないかという怪物の淡い期 待は空しいものであった事が判明する。この場面で怪物を殺人へと駆り立てる より深い絶望を与えるのが、別のものであったことを確認したい。それは少年 の持っていたヴィクターの母カロラインのミニアチュアに納められた姿を見て その姿に憧れを感じながら、その瞬間に怪物が己の醜い存在への決定的な拒絶 を予想した為だという点である。

私はそれをとりあげた。それは大変愛らしい女性の肖像だった

o

内なる 悪意にも関わらずそれにゆ lA 日んで惹き付けられた。ほんのわずかの向 私は黒い瞳とそれを縁取る長いまつげ、愛らしい唇を喜びの念を持って 眺めていた。けれどもすぐにまた怒りが戻ってきた。自分にはこういう 美しい存在が与えてくれるような喜ぴが永遠に奪われているということ を、そして、その肖像を自分がこうやって眺めている女性も、私を見れ ば、神々しい慈愛に満ちたそのお宵を嫌悪と恐怖を示す表情に変えて L まうだろうと思い出したのだ。 ( 1 2 7 )

怪物はセクシュアリティに基づいた深い関係を他者と取り結ぶことが出来な

い。その事への絶望が怪物をさらなる殺人へと駆り立てる。怪物が書物を通 L

て学んだロマン主義的恋愛への憧れは生身の女性ジュスティーヌに対して試み

られようとする。ただしそれは眠る彼女に対してである。怪物はジユスティー

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ロマンテイァクラブと回心 3 9   ヌに対して妄想的に恋人としての呼びかけを行うのだが、すぐに目覚めた女性 が自分を受け入れないことを自覚しその正しい予測に基つ'いてジュスティーヌ への不合理な憤怒を深める。罪のない彼女に罪を負わせようと怪物カ有正拠とな るウィリアムが身につけていた祖母のミニアチュアを眠り込む女性の衣服に隠 し入れて逃げ去るとき「犯罪の起源はこの女にあったのだ(l 2 7 ) J と考えるの は、怪物が求めていたものが実は物語の背景である現実には充満していた強〈

激しい恋愛関係であったことを示しているように思われる。

ダーシーのセクシュアリティに対してのある種の屈服が I 自負と偏見 j に おいてもロマンティックな行為か否かの分岐点となっている事をここで思い出

しておきたい。シャーロットのコリンズ師との結婚は彼女自身が認めるように

「ロマンティックなもの」ではない。なぜならそれはダーシーがエリザベスに 示したような欲望が互いの側に不在でありどこまでも財産の保全と役割の引き 受けという形での婚姻関係、すなわち伝統的な関係の引き受けであり個人の生 成とは関わりのない振る舞いだからである。少なくとも伝統的な婚姻関係はそ の意味で自己の生成と結びつきにくい側面を有していると言えるだろう。

この事をここで言う必要があるのは『フランケンシュタイン』という作品の 中にも『自負と偏見 j の場合のような 2 種類の男女関係の結びつきが意識して 書き込まれていると見えるからである。そこに描かれた実際の男女関係は驚く ほど保守的である。まずヴイクターの父母の婚姻関係。零落した親友の娘を困 窮から救い出した親子ほども年の離れた、それ故に怪物が望むような激しい恋 愛感情に基づかない婚姻関係は非常に安定している。次の世代の関係もそれに 劣らず伝統的なものである。両親の深い愛情に充ちた家庭で育てられたヴイク ターは死の床の母から妹同然に育ったエリザベスとの婚姻を求められる。つま り親の世代以上に保守的伝統的な婚姻関係が取り結ぼれようとするのである。

このような作品内の保守的な男女関係が奇異に感じられるのは書き手メアリと

その暫助者である夫の詩人の関係がまさにそのような物語内で幸福の源である

かのように描かれる安定した伝統的な男女関係をいわば踏みにじるような形で

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4 0   ロマンティックラブと回心

の強烈な恋愛を志向し実現していったものだからである。

この物語が書かれていた時点で著者と詩人は正式な婚姻関係を結べていな かった。詩人の法定上の妻の自殺をもって彼らは婚姻関係を結び得たのであ る。ある意味で怪物はそういう伝統的な男女関係からの脱却の身振りを示して いるのかも知れない。怪物を産み出す電気の力は一見すると科学の最先端を暗 示しているが、その実、ヴイクターにそれを思いつかせたのが樫の木を粉みじ んにした稲妻 ( 4 8 ) という典型的なロマン主義の自然の力の表象でもあったこ とを考えれば、怪物がヴイクターの隠された欲望を表現しているように思われ る。怪物が要求した怪物と同様に醜い女の怪物をヴイクターが破壊するのは怪 物がヴイクタ}の許嫁を殺すのと同じ理由なのである。伝統的な激しい恋愛感 情に基づかない関係の破壊である。

身もだえするほどに恋愛の至福に憧れながらその外に怪物が置かれていると いう状況は、コンラッドの描くラズーモ 7が置かれた状況と重なっている。ラ ズ}モフの境涯はそもそも孤独という点で『フランケンシュタイン』の怪物の それに似ている。貴族の親から正式には認知されず暖かい家庭を知らずに育つ 彼が仮に学業に励んだ結果銀のメダルを得られたとしても、それを我が事のよ うに喜んでくれる家族は一人もいない。逆にラズーモ 7 の前に突然現れた側の ヴイクター・ハルデインは、家庭において大事に育てられ妹から尊敬され母か らも愛されているという点で怪物の創造者ヴイクタ‑.フランケンシュタイン に近い存在である。ある運命の日に訪れられる者と訪れる者の設定は二つの作 品で鏡像を結ぶように逆転している。また『西欧人』後半部分で舞台がベテル スプルグからジュネーブに移るという展開も、ハルデインの名前がヴイクター とされているのも単なる偶然ではなく、コンラッドがヒントを得た起源を推定 させるために意図的に残した痕跡なのではないか。

いずれにしてもラズーモ 7がその恋愛との聞に有する関係は『フランケン

シュタイン j の怪物のそれと類似である。彼らはそれぞれ決定的に彼らの経験

しようと願うセクシュアリティの充実に不適格なのである。怪物の場合に比べ

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ロマンティックラブと回心 4 1   ラズーモ 7 の状況は複雑である。なぜなら彼は形の上でセクシュアリテイの充 足を望めば手に入る立場にいたからである。兄の無二の親友にして草命家であ るという偽の自己を演じきるならば、ナターリアとの経験は彼のものとなる。

しかし彼はその幸福から決定的に疎外されていると感じている。彼の事実はナ タ}リアの兄を裳切って処刑に至らしめた政府側のスパイだからである。ある 意味で壬物の外見以上に親密性の充実を徹底的に不可能にするような不適切性 がラズーモ 7とその愛の対象であるナヂーリアとの聞に横たわっている。

ロマンティックラブへの回 I L '

冒頭で紹介したデンシャ}やラズーモ 7のそれぞれの愛する女性への身振り は一見するとギデンズの言うロマンティックラブの当然の結末のようにも見え る。深い恋愛感情故にデンシャーがミリーからの遺産の受け取りを拒否するこ とを選ぴとり、ラズーモ 7が自分に不都合な税事な事実を告白するのだとして も何の不自然もないようにも見える。その点で彼らの行為はセクシユアリテイ に基づいた親密性の変容というギデンズが古里示した枠組みのうちに置かれてい るようにも思われるのである。しかし彼らの身振りにおいては、既に示唆して いるようにセクシュアリティに基づいた自己の書き換えは不在となっており、

そもそもその欲望の対象自体が不在であるか、あるいは告白それ自体によって 獲得不能になっていくという点が決定的に異なった意味を帯びさせているので はないか。

一見新しい自己の技術と結びついたロマンティックラブのように見えるもの

が、より古い自己の生成の技術である回心にも似ているように感じられるのは

何故なのだろうか。言い換えれば彼らの行為は何故、誤った状態から正しい状

態への回帰のように感じられるのであろうか。この問題はイギリス小説におい

て、繰り返しギデンズの言うロマンティックラブに基づいた物語が一方で描か

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4 2   ロマンティァクラブと回心

れながら、同時にそのような親密な関係佳からの疎外と見える状況が同じよう に説得的に描かれている矛盾とも見える状況についての一つの答えとなりうる のではないかというのが私の考えである。

その答えとはロマンティックラ 7 ・をめぐる再帰性がロマンティックラブ自体 のあり方を規定し、それが同時に不適切さを作り上げていくという事態が起 こっているというものである。つまりデンシャーやラズーモ 7が相手にしてい るのは、現実の等身大の女性ではなく、自分自身の振る舞いを含めた恋愛物語 それ自体と考えることが出来るのではないか。彼らの取り組むその対象は、

ダーシーにとってエリザベスがそうであったようなその不完全さにも関わらず 彼が欲望を感じそれ故に自身を変えたいと願う相手それ自身でなく、彼ら自身 の存在のあり方それ自体であるかのように見える。彼らのセクシュアリティが 現実に充足させられるかどうかは、そこでは二義的な問題に転落してしまって いるのである。本質的な要件は、彼らが求められている物語において適切な存 在か否かなのである。

彼らの振る舞いが女性の実際のセクシュアリティが実質上不在となった状態 で行われるのは、彼らのいわば回心の対象が女性を権威と見なす物語それ自体 だと考えれば、理解可能となる。逆に言えば多くの恋愛をめぐる疎外の物語 は、適切さの規定がその裏面に自然と産み出していく不適切さの積み上げられ た例証と見ることができる。 r 自負と偏見』においてシャーロットがエリザベ スに対してコリンズ氏との婚姻について弁解をする必要に迫られたということ 自 体 ( r 私はロマンティックではないのです ( 1 2 3 ) J  )が典型的な例として 考えられる。ジェインでもエリザベスでもシャーロットでも結局相手は誰でも 良かった事が明らかなコリンズ氏の求婚。それは財産の保全と家庭の構築とい う、個人を産み出す事とは何の関わりも持たない伝統的な役割の引き受けとし ての結婚の姿だった。エリザベスの批判的視線へのシャーロットの弁明が 19  世紀初頭の財産を有した階級の女性の間での再帰性をとおしてのロマンティッ

クラプの権威の深化の程度を示しているように思われる。適切な物語なしに婚

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ロマンティックラブと回心 4 3 姻関係を結ぶことが個々人のレベルに差はあるにせよ、それぞれ幾分か不適切 なものと感じられるようになっているのである。

男性の内部においてもロマンティックラプが一種の権威として個人の身振り を規定している様はコンラッドの『閣の奥』の伝説の英雄にして即興演技者で あるクルツが自国に残してきた許嫁との間に結んでいた関係にも映し出されて いる。彼の死後、その最後を伝えるべく面会した語り手マーロウはクルツの最 後の言葉が許嫁の名前であったと偽りの報告を行う。クルツはこの報告におい て彼の許嫁が期待していた役割の中に埋め込まれる。彼はそこから一時的に解 放されていたコンゴの密林で経験した無軌道な性的な解放の状態から、ロマン ティックラプイデオロギーにおいて男性の本来あるべき姿へと引きずり戻され るのである。

恋愛物語のそもそもの起源のーっとみなしうる『フランケンシュタイン』に おいて怪物が親密な関係から絶対的に疎外されている有様は上記の 20 世紀初 頭のクルツの経験まで続く現実とイデオロギーとしての恋愛との聞の断絶を予 兆するものと考えることができるのではないか。ク J レツが 19 世紀末の他の男 性同格抑圧と感じていたに違いないセクシュアリティのあるべき姿は小説とい う媒体を通した再帰性を通して男性と女性の中に共有される。オナニーへの監 視が中産階級の男性のあるべき姿を規定するように、ロマンティックラブは男 性と女性の肉体、欲望、振る舞い、言語をその最も根源に近いそのセクシュア リティのレベルから規定し、そして産み出され共有されていく理想の姿が現実 の不適切さをあぶり出していく。達成すべき基準の高きが個人の現実の存在の 不適切さを露わにする。あたかもオナニーを我慢することで中産階級の子弟と しての存在証明を得るように、ロマンティックラブの理想にそった形でのセク シユアリティの充足が希求されるのである。

デンシャーやラズーモ 7 の経験はそのような共有されたイデオロギーとして

のロマンティックラブのあるべき状態への回心の様を描写していると見ること

が可能だと思われる。彼らは性的な充足を求めない。むしろそれを断念し、そ

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4 4   ロマンティックラブと回;l.'

れを乗り越える形で彼らに暗黙のうちに求められている正しい恋愛の登場人物 として自己を提示しようと望む。恋愛による絶対的な親密性という真理に対し て自己が回収されていくことを二人は選ぴ取っていくのである。デンシャーの 場合もラズーモ 7の場合も、それがどこへ向かうのかは知らぬまま自己を書き 換えるよう促すセクシユアティが彼らの内部に充実して存在してはおらず、な により現実の欲望の対象自体が不在となった状況で彼ら治宝証明しようとしてい るのはむしろ、自分自身に対して要求される適切性の方であるように見える。

引用または参照した英語の著作

A u s t e n ,  J a n e .  

Pride 剖dP町~judice.

E d .  by V i v e n  J o n e s .  P e n g u i n . 2 田 3 .

C o n r a d ,  J o s e p h .   Under Westem E y e s .   E d .  by J e

nyHawthom. O x f o r d  a n d

, 

Lo n d o n :  O x f o r d   U n i v e r s i t y   P r e s s . 1 9 8 3 .  

一一一一一一 H e a r t o f   D . 白 衣 n e s s . E d .  by Ro

C . Lo ndon a n d  B 0 5 t O O :  B e r f o r d / S t . M a r t i n ' s   1 9 9 6  

G i d d e n s ,  A n t h o n y .   Modemity and S e J f ‑ I d e n . t 町 Self and  S O C I e t y   i n   r h e  L a t e  Modern Age. 

S t a n f o r d .  C a 1 i f o m i a .  S t a n f o r d  U n i v e r s i t y  P r e s s .  1 9 9 1  

G i d d e n s ,  An t h o n y .   Tranfonnarion  of  I n timacy:Sexu a 1 i t y ,  Lo v e   and E r o t i c i s m   i n  Modem  S o c i e t ‑ i e s .   S t a n f o r d ,  C a l i f o r n i a .  S t a n f o r d  U n i v e r s i t y   P r e s s .  1 9 9 2  

G r e e n b l a t t ,  S t e p h e n .   Renaissance S e l f ‑ F <

hioning:  From Mo

t oS h a k e s p e a r e . .   C h i c a g o  a n d   Lo n d o n :  U n i v e r s i t y  ofChicago P r e s s .   2005 

James ,  H e n r y .   The Wings  of t h e  Dove. E d .  by J . D . C r a w l e y  and R i c h a r d  A. H o c k s .  New  York:Wλ N .   N o r t o n   &  Comp

y , [ n c .  1 9 7 8  

S h e I I e y ,  M a r y .   F r ョ n k e n s t e j n , o r   t h e  Modern Prometheus.  E d .   by J o h a n n a .  M. Smi 出 B o s t o n  a n d  New  Y o r k :  B e d f o r d / S .   t M 副 i n ' s . 2 ∞ o

T r o t t e r ,  D a v i d .   C j r c u l a t i o n : D e f o e ,  Dickens ,  and  t h e  Economi

of r h e  Novel.  L o n d o n :  t h e   Macmilan P r e s s .  L t d . 1 9 8 8  

参照した日本語の著作

ギデンズ、アンソニー 『モダニティと自己アイデンティティ』秋雪美都他訳東京、

ハーベスト社。 2006 年 。

ギデンズ、アンソニー 『親密性の変容 J 松尾精文他訳 東京、市立書房。 19  9  5 

(23)

ロマンティックラブと回心 4 5

年 。

グリーンプラット、スティーブン『ルネサンスの自己成型』高田茂樹訳 東京、みすず 書房。 199 2 年 。

コンラッド、ジョゼ 7 年 。

中 村 英 男

『西欧人の自に』 中島賢二訳東京、岩波書底。 1999 

「反復と自己 『小さな永遠 j と死 J 3  9 頁 ‑63 頁

人文学報 389 号 首都大学東京

参照

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