S.ウイルダースピンに関する一考察(その2)
一Infant Poor(1824)1)の検討一
佐 藤 実 芳
はじめに
ウイルダースピン(Wilderspin, Samuel:1791−1866)の幼児教育観や教育方法の展開を明 らかにするためには、彼のスパイタルフィールド幼児学校(Spitalfields.lnfant School)の教育 実践を正確に検討することと、彼の著作の記述内容の変遷を明らかにすることとが必要である。
前者の検討は既に別稿において行なった9)後者の吟味に関しては、拙稿「S.ウイルダースピ ンに関する一考察(その1)」において、彼の最初の著作であるInfant Poor(1823)を取り上げ、
彼の最も初期の幼児教育観や教育方法などを明らかにした。そこで今回は彼の2冊目の著作で あるInfant Poor(1824)を詳細に考察する。
Infant Poor(1824)が出版された1824年は、幼児学校運動への人々の関心の高まりが、幼児 学校協会(lnfant School Society)の結成として実を結んだ年でもあった。この協会は、「就業
もしくは他の学校の入学年齢に達していない貧困家庭の子ども達のための学校あるいは保護施 設を開設すること」3)を目的に、「ロンドンの中心部に学校をつくった。……(中略)……その 学校は全国的なモデルとなり、幼児学校を自ら設置して、そこで教える男女の教員を訓練し、
彼らに資格を与える教育機関の役割をも果たす」4)ものであった。その協会は、モデル校が設 立されるまで、要請に応じてイギリス各地を訪問し、当時実践されていた方法で幼児学校の開 校を援助する役割をウイルダースピンに与えた。またスパイタルフィールド幼児学校を当座の 教員養成機関に指定するとともに、設置予定のモデル校の教師にウイルダースピンを任命した。
しかし反面、ウイルダースピンには悲しい出来事があった年でもある。彼が各地を巡回して いる留守中、スパイタルフィールド幼児学校を切り盛りしていたアン夫人(Wilderspin, Anne
:1787−1824)が、1824年10月4日に亡くなったのである。ウイルダースピンは次のように妻 の幼児学校に対する献身的努力を讃えている。
「妻は、人並み以上のエネルギーと精神力によって、非常にうまく私の計画を助けてくれた。
彼女にスパイタルフィールド幼児学校の運営をまかせ、私は全国的な実践活動を行なうよう絶 えず主張してくれたのは、この世を去った私の妻である。このように妻への負担が大きくなっ てしまった。妻は200人もの幼児を何カ月も、まだ子どもである娘のみを頼りに指導していた。
そのうえ驚くべきことは、朝から晩まで訪れる訪問者に説明しなければならないことであった。
しかし妻はこれらすべてをこなしていたのである。……(中略)……それゆえ私は妻の健康が
害され、死期が近づいていることを感じていた。」5)
この妻の死により、彼はスパイタルフィールド幼児学校で教鞭を取ることができなくなり、
1825年以降はスパイタルフィールド幼児学校を離れて幼児学校普及活動に従事することになった。
このように本稿で検討する∬nfant Poor(1824)は、ウイルダースピンが幼児学校の一教師か ら幼児学校運動の中心人物への転換期に執筆した著作である。しかも19世紀イギリスの教育思 想家の代表著作を集めた『19世紀イギリスの教育論(British Educatioiial 7 heory in the 19th Century)』(1993年)6)の中に彼のその著作が収められたことから判断して、 Infant pbor(1824)
がウイルダースピンの代表的な著作として扱われていると考えることができる。というのは、
彼の著作は5種14版7)も出版されているが、150年あまりの間一冊として復刊されることがな く、初めての復刊の機会に∬nfant Poor(1824)が選ばれたからである。
本稿の目的
ウイルダースピンはスパイタルフィールド幼児学校で初めて幼児教育活動に携わり成功を収 めた第1期(1820年一一 1824年)にlnfant Pooγ(1823)と∬nfant Pooγ(1824)の2冊の著作を出 版している。この2冊を比較すると、∬nfant Poor(1823)は彼の教育実践のみに基づいた内容 であるのに対し、Infant Poor(1824)は、1823年版に対して寄せられたさまざまな意見を加味 して執筆されている。出版年は1年しか違いがないが、1823年版が183頁であるのに対し、
1824年版では228頁と頁数もかなり増加しているので、この2冊は版が異なる以上の内容の変 化があると考えられる。したがってktfant Poor(1824)を詳細に検討することにより、この1 年間でウイルダースピンの幼児教育観や教育方法がどのように変化してきたかを明らかにする
ことができる。
1n tant Poor (1824)
出版の経緯
ウイルダースピンは1823年にスパイタルフィールド幼児学校での彼の幼児教育実践を紹介し た著作∬nfant Poor(1823)を出版した。 Infant Poor(1824)の序文に、1823年版が「飛ぶよう に売れたため、更に高い評判を得るために筆を加えて改訂するように勧められた」8)とあるよ うに、∬nfant Poor(1823)は人々の関心を集めて、その内容に対し様々な意見が寄せられた。
読者からの要望に応え、∬nfant Poor(1824)は出版されることになったのである。
ウイルダースピンの序文によれば、次の諸点を考慮して1824年版がまとめられた。まず第一 に、1823年版より記述を詳しくしているということである。これは1823年版の内容に賛同した 読者からの、更に詳しく幼児学校について知りたいという要望に基づくものである。第二に、
宗教問題の取り扱いを慎重にしているということである。これは宗教問題から幼児学校が正当 に評価されない場合があることを危惧してのことである。彼自身スウェーデンボルグ派教会9)
の洗礼を受けていたし、スパイタルフィールド幼児学校の設立者であるウィルソン(Wilson,
Joseph)10)は福音主義信奉者であった。ブキャナン(Buchanan, James:1774−1857)11)をはじ めとする初期の幼児学校関係者にもスウェーデンポルグ派の信者が多かった。このように幼児 学校関係者の多くが宗教的には少数派に属していたため、特に多数派である国教会の反対を恐 れてのことであった。最後に、直接内容とは関係ないが、1823年版の価格が高すぎるという批 判があったため、内容は増加して価格は据え置くという配慮もなされた。なお序文では触れら れていないが、∬nfant Poor(1823)に寄せられた批判に対してウイルダースピンの見解を述べ るという項目が新たに設けられたのも、Infant Poor(1824)の新たな特徴である。
書 名
htfant Poor(1823)12)と比較すると、書名も幾分改められている。具体的には、スパイタル フィールド幼児学校での新しい教育方法を説明することと、ポール(Pole)博士とEdinburgh Review誌のウイルダースピンの幼児教育に対する批判に彼が応えるということとが書名の中 にも明記された。
目 次
∬nfant Poor(1824)の目次は、1823年版のものとどのような違いがあるのであろうか。目次 は以下のような諸項目からなっている。
序論/スパイタルフィールド幼児学校に入学することを許可された子どもの親が守る規則 /教師が守る規則/指図について/アルファベットを教える一般的な方法一300人もの子 どもが15分でアルファベットを如何に唱えるか/アルファベットを教える第2の方法一文 字の書き方と文章の書き方/積み木を用いて算術の法則を教える方法/幼児に楽しく体操 と知育を行なう方法/幼児に絵を書いて教える方法/*ヨゼフの夢/人格形成について/
少年非行の増加について/数々の逸話と事実/play ground/賞罰について/清潔につい て/300人もの幼児を収容することができる学校の規模/子どもを恐がらせることにより 招く悪い結果について/子どもの病気について/学校での事故防止策/2歳から7歳まで の子どもがさらされている危険について/教師の資質/*幾何学図形に関する問答/結び /*付録 (*は∬nfant Poor(1823)にはなかった項目)
項目の名称及び順序に若干の変化がみられる他、1823年版にはなかった項目としてヨゼフの 夢、幾何学図形に関する問答及び付録が加えられている。
著述内容の変化
実際に著述内容がどのように変化したのであろうか。ここでは著述内容が1823年版と異なる 項目及び新しい項目について、項目別に検討してみる。
[序論]
∬nfant Poor(1823)には記述がない内容が3点加えられた。第一に、幼児学校に批判的な意
見に対するウイルダースピンの考えについてである。まず幼児期には子どもを教育することは できないのではないかという批判的な意見を取り上げている。この批判に対しては、早期教育 が及ぼす弊害はないし、性悪説の立場から、悪の芽は幼児の心のなかで早くから育ち、一度そ れが実を結んでしまうと取り返しがつかないことになるので、幼児期の教育こそ重要であると 反論した。特に当時、街頭には犯罪者が数多くおり、彼らと関わりをもった子どもは犯罪へと 導かれるという状況にあった。そこで子ども達を街頭から隔離して教育することは、犯罪防止 に非常に効果的であるということが1823年版以上に強調されている。また、幼児学校が親の義 務である育児を肩代わりすることで、親は育児を他人任せにしてしまうのではないかという批 判もあった。これに対しては、貧困階級の人々は生きていくのが精一杯の生活状態であり、子 ども達を十分に世話することができないので、それは幼児学校に対する反対論にはならない、
とこの批判を退けた。但し、幼児学校の運営費の一部を親に負担させることを提案しており、
それにより親が自らの権利と義務を認識することを期待したのではないかと考えられる。幼児 学校に対するさらに別の批判は、貧困階級の人々が、育児は幼児学校に任せることができるの で経済的なことを考慮せずに結婚するのではないかという不安である。これに対しては、貧困 階級の家庭に子どもが多いのは常のことであり、幼児学校の存在とは関係がない。むしろ貧困 階級の子どもを幸福に、しかも社会に役立つ人間に育てる義務が社会にはあるので、幼児学校 が必要であると述べて反駁した。
第二に、幼児学校での教育方法は障害児にも有効であり、スパイタルフィールド幼児学校に 障害児の入学申し込みがあった場合、経営者であるウィルソンが許可してくれるならば受け入 れたいという姿勢を示した点があげられる。これは統合教育の試みともいえるが、1823年版に はなかった考えである。
第三に、幼児学校の創設者について触れられていることがあげられる。ウイルダースピン自 身、「最初にだれが幼児学校を考えだしたのかわからないが、そのことは重要ではない。大切 なのはだれが最初に実施したかということである」13)と述べて、1819年にウエストミンスター
(Westminster)に設立されたブキャナンの幼児学校を紹介し、次に設立されたのがウイルダー スピンのスパイタルフィールド幼児学校であると説明している。この説明から、幼児学校を創 設したのは誰であるかという疑問が存在していたことが理解できる。また後の幼児学校創設者 論争14)におけるウイルダースピンの発言にもかかわってくる重要な事項でもある。
[指図について]
指図を用いる教育方法はウエストミンスター幼児学校の教師に教えられたものであり、ウイ ルダースピンが考案したものではないことを註として明記した。htfa,tt・Poor(1823)の読者か らこの点に関して問い合わせがあり、それに対応して註を設けたのではないかと考えられる。
[アルファベットを教える第2の方法]
1823年版の執筆以降、ウイルダースピンが新たに考案した教具として、90cm四方の大きさを もつ緑色の布張りのフレームが紹介されている。これは真鍮製の文字をかけるのに用いられた。
また幼児学校関係者が真鍮製の文字や博物や聖書に関する絵を必要とする場合には、スパイタ
ルフィールド幼児学校に直接注文すればそれらが送付されるということも明記されている。こ の記述より、∫nfant Pocr(1824)の出版当時既に、ウイルダースピンがスパイタルフィールド 幼児学校で用いていた教具を入手したいという希望がかなり寄せられていたことがわかる。
[幼児に楽しく体操と知育を行なう方法]
椅子に座り、数字を数えるごとに手をあげさせる教育方法を、鍛治屋(black smith)と名付 けたことが記述されている。Infant Poer(1823)出版以後1年の間に、スパイタルフィールド 幼児学校で実践されている教育方法に呼び名がつけられて、それが定着していたことがうかが
える。
[ヨゼフの夢]
これは1823年版にはなかった項目であるが、幼児に絵を用いて教える方法の具体例がかなり 詳細に取り上げられている。特に聖書の教育例が多く紹介され、ウイルダースピンがどの点に 注意して教育していたかを示している。
例えば、ヨゼフの夢が描かれた絵を用いた場合、最初に絵を見せて、教師が聖書の以下の一 節を読んできかせる。
「あるとき、ヨゼフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎む ようになった。ヨゼフは彼らに言った。『どうか私の見た夢を聞いてください。見ると私たち は畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立ってい るのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。』」
その後、教師は絵を指して次のように質問をするのである。
質問:これは何ですか?
答え:ヨゼフが見た最初の夢(dream)です。
質問:夢とは何ですか?
答え:夢をみるというのは、眠っている間に何かを見ることです。
質問:夢をみたことがありますか?
そこで子ども達は、自分が見た夢の話をして夢が何であるかを理解した後、次の質問に移る。
質問:ヨゼフが最初に見たのはどのような夢ですか?
答え:兄たちの束が彼の束におじぎをしたという夢です。
質問:おじぎをするとはどういうことかわかりますか。
……(後略)15)
このように聖書には幼児にとって難解な言葉が多いので、全ての言葉の意味が理解できるよ う抽象的な言葉は一つ一つその意味を確認しながら授業が進められた。この方法は、聖書を読 むことはできるが内容を理解していないということがないようにという配慮からきたものであ る。しかも幼い子どもの集中力は短時間しか続かないので、単調な授業に飽きないように問答 の間に賛美歌を歌わせるなどの工夫もなされていた。
博物の授業では、子どもたちが対象となるものをその外見で判断することを戒めた。動物の 場合には、その姿ではなく、どれ程人間にとって役に立つかという視点で評価するように教え
られた。同様に人間の場合にも、外見ではなくその人格や行動が重要であることが教えられた。
「労働者階級の人々は、教育とは文字の知識を教えることだけであると考えている。おそらく そのように考えているのは労働者階級の人々だけではない」16)時代に、ウイルダースピンはそ れ以上の教育、つまり物事の本質を見抜く力を養うのが教育の一つの仕事であると考えていた のである。
[人格形成について]
「道徳教育は、子どもにとって何よりの財産である」17)というウイルダースピンの考えを裏 付けるものとして、教育の普及で貧困階級の人々の問題行動が少なくなったスコットランドの 例が取り上げられた。また道徳教育の効果的な方法として、例えば「他人のパンを盗んだこと がありますか」というようなテーマで子ども達と話し合う方法を新たに紹介している。子ども 達はそうしたテーマについて話し合いをするのが好きなため、教師が期待する以上の教育効果 があり、正しい行いを教え込む絶好の機会であると考えられた。
[少年非行の増加について]
犯罪は罰するより防止したほうが良いと考えるウイルダースピンは、少年非行の問題が深刻 な状況であることを考慮して、幼児学校を普及させることで犯罪は必ず減少すると主張した。
罪を犯して刑務所に収容された子どもが、出所後更生施設で教育を受けるという制度があった が、その方法では経費と時間の両面において無駄が大きいことを指摘した。そして犯罪を減少
させるために幼児学校が如何に有用であるかを強調した。
[数々の逸話と事実]
新たに幼児学校が及ぼした良い影響の実例を付け加えた。子どもに聖書を読んでほしいとせ がまれたことが契機となって聖書を読むようになった父親の場合、それまでの飲酒や賭博に 使っていた金で本を購入し妻子に読んできかせるようになったという。また死に至る病に犯さ れた幼児学校の子どもが、幼児学校での宗教教育の教えを理解し、その教えを守って亡くなっ たということもあった。そしてその子の希望で幼児学校の子ども達が葬式に参列し賛美歌を歌 うことになった。6歳以下という幼さでは、何か不都合が生じるのではないかという周囲の人々 の不安にもかかわらず、子ども達の規律正しい姿が参列者の注目を集めた。そしてスパイタル
フィールド幼児学校を知らない人々にまでその教育の成果が認められることになり、入学希望 者が殺到するということもあったIS)しかしこの時スパイタルフィールド幼児学校の定員は充 足されていたため、全員の入学を断わらざるをえなかった。ウイルダースピンは、スパイタル フィールドでは幼児学校1校だけでは収容人数不足であるため、付近にもう1校幼児学校を設 置する必要があることを述べている。
[play ground]
play groundの整備の方法について、新しく記述が付け加えられた。雨天の際の水捌けの問 題から、play groundは瓦敷きにするのが最もよく、塀の近くには果実の木を植え、まわりは 花壇にするのがよいというのがウイルダースピンの考えであった。果実の木や花は幼い子ども の心を和ますのはもちろんであるが、彼の目的はそれだけではなかった。play groundの木に
なる果実は、子ども達の手の届くところにあるが、それは自分の所有物ではないので許可なく 取ることは盗むことになる。そのことを理解させることにより、他人のものを大切にする気持
ちが子ども達に育つように指導することができると考えられたのである。
1823年版から幼児学校の役割は文字を教えることだけではなく、人格形成にあると主張され てきたが、その目的のためにはplay groundが果たす役割は極めて大きかった。その役割を果 たすためにどのようなplay groundが理想的であるか、∬nfant Poor(1823)においてはさまざま な項目に記述されていた事柄が、1824年版では「play ground」という項目に一括して集めら れたのである。
[賞罰について]
∬nfant Poor(1823)で述べられた体罰に関しては、批判的な意見がかなり寄せられた。その ためInfant Pocr(1824)では、体罰についてのウイルダースピンの見解が付け加えられている。
まず註で、聖書を引用して懲罰は肯定されていること19)を説明し、体罰は決して聖書の教え に反していないことを主張した。また可愛い小鳥(Pretty Dicky, Sweet Dicky)20)という罰を用 いたのは1回限りで現在はまったく使用していないので、批判されるような体罰を多様してい るわけではないことも付け加えられた。体罰がキリスト教の教えと矛盾するものではないし、
スパイタルフィールド幼児学校では実際のところ体罰を使用することがほとんどないという実 情によって、体罰についての読者からの批判に応えている。
体罰を用いる替わりに問題行動のある子どもを退学処分にする方法もあり、当時そのように 対処していた学校もあった。しかし体罰を与えてでも子どもを学校に留まらせたほうが教育的 な配慮ではないかというのがウイルダースピンの考えであった。退学処分にされた結果、子ど もが街頭で過ごすことになり、結局犯罪の道を歩むことになった例が数多くあったからである。
実際に「スパイタルフィール.ド幼児学校では、手に負えないという理由で退学処分になった者 21)はいなかった」
という点に、彼の教育方針が貫かれていた。
[子どもの病気について]
病気の子どもは登校を認めないというウイルダースピンの方針で、スパイタルフィールド幼 児学校の病気欠席者は平均20人から34人程度で、ときには50人になることもあった。それでも 同校で天然痘により死亡した子どもは、わずか一年間で1人から3人に増加した。幼児学校の 管理者は、子どもが病気に感染しないように細心の注意を払わなければならないことが一層強 調された。
[2歳から7歳までの子どもがさらされている危険について]
一方Infant Poor(1823)においては、幼児学校の第一の目的は、街頭から子ども達を隔離し て、子ども達が悪い習慣を身につけるのを阻止することであるという犯罪防止の観点から幼児 学校の必要性が説かれた。他方∬nfant Poor(1824)においては、教育の普及と犯罪の発生率と の間には相関関係があることが強調され、アメリカの義務教育制度のある州の方がイギリスに 比べて犯罪の発生率が非常に低いこと22)を取り上げた。
犯罪防止の最善策は、貧困階級の子どもがすべて入学できるように幼児学校を普及させるこ
とである。但し幼児学校は対象となるスパイタルフィールド幼児学校達の年齢が低いので、義 務教育の対象にはなりえない。そこで幼児学校を普及させるために、1家族につき1ジリング の特別な税金の徴収を提案した。貧困階級は幼児学校から直接子ども達がその恩恵を受けるの で1シリング程度の税金なら支払うであろうし、貧困階級以外の人々には直接利益はなくても 少額ゆえにそれらの人々は税金徴収に反対しないであろうということで、1シリングとした。
もし税金の徴収に関して反対意見が出されるとすれば、それは宗教問題が原因と考えられた。
そこで幼児学校において宗教に関してどのような点に配慮したらよいかが述べられた。具体的 には、幼児学校では広義の宗教教育は行なうが、狭義の宗教教育である特定宗派の教育は行な わないこと、幼児学校関係者も特別な宗教観を有する人物はふさわしくないこと、及びどの宗 教の信者であるかに関係なく、すべての子どもに対し幼児学校の門戸が開かれていることがあ げられている。
[教師の資質]
教師がどの宗教を信じているかということより、生き方や性格などの人間性が重要であると いうことが1823年版では述べられていたが、その部分がInfant Poor(1824)では削除された。
かわりに教師には忍耐力が必要であることが強調された。何か問題が起きたときに、子どもの 言い分を理解することができずに判断を誤った場合、子どもの教師に対する信頼を失うことに なる。幼い子どもの主張を根気よく聞くためには、忍耐力が不可欠なのである。教師の判断は 子どもの今後の行動を左右することになるので、教師が子どもを正確に判断することは極めて 重要なのである。
また教師の言動は子ども達に直接影響を与えるため、幼児学校の成功は教師次第である。そ れゆえ教師の選任は慎重にするように助言されている。但し子ども達が敬遠するほど厳格な人 間もまた幼児学校の教師にはふさわしくない。子ども達が何でも打ち明けられる、親しみのあ る人物が幼児学校の教師の理想像としてあげられている。
[幾何学図形に関する問答]
Infant Poor(1823)にはなかった項目として、幾何学図形をどのように教えたらいいのかと いうことが具体的に紹介されている。壁に貼った厚紙の図形を中心に、子ども達を半円形に立 たせ、図形の名称や特徴などを次のように答えさせた。
質問:これは何ですか。
答え:正三角形です。
質問:何故これを正三角形というのですか。
答え:すべての辺の長さが等しいからです。
質問:では辺はいくつありますか。
答え:3辺です。
質問:角はいくつありますか。
答え:3つです。
……(後略)23)
幼い子どもでも、教え方を工夫すればかなり高度な事柄でも理解できるというのが、ウイル ダースピンの考えであった。その秘訣は聖書を教えるときと同じように、難解な用語は必ず幼 児にでもわかる言葉に言い換えさせることであった。例えば角(angle)とか等しい(equal)
という言葉に対してはどういう意味かを必ず子ども達に質問している。
[付録]
ポール博士とEdinburgh Review誌がウイルダースピンの幼児学校に対する考えを批判した ことに対する彼の答弁が付録として載せられている。
まず第一に、幼児学校で体罰を用いることに対する批判である。Edinburgh Review誌は幼児 学校は子ども達が好きなように過ごすことが許され、楽しいだけの場であるゆえ体罰は必要な いという視点から、ウイルダースピンの体罰を批判した。これに対し彼は幼児学校は教育と娯 楽が結合した場であると考えているという立場から、その批判は妥当ではないと答えている。
また本文と同様に手に負えない生徒を退学処分にするよりは体罰を用いてでも幼児学校で教育 したほうがよいと主張した。但し体罰を全面的に肯定しているわけではなく、他の指導法がな い時に限り用いていることを強調している。仮に体罰が禁止されたとしても、子どもとの対応 において教師が冷静ではいられない状態になれば、当然体罰を課すことになってしまう。した がって軽度の体罰を容認したほうがよいのではないかというのがウイルダースピンの見解で
あった。
第二に、幼児学校の教育が賛美歌や祈りを取り入れていることに対する反対意見である。ポー ル博士の批判は、賛美歌や祈りは神の意志というよりも人間が自分自身を満足させるために行 なっているのではないかということにあった。それに対してウイルダースピンは、大人の場合 にはその批判は妥当であるが、幼児は神を純真に尊敬しているのでその批判は当てはまらない と反論した。しかも祈りは神と人間とを結ぶ手段であるから、神への祈りは人間にとっての義 務であると述べて、その教育上の意義を強調した。
おわりに
本稿で取り上げたInfant Poor(1824)は、ウイルダースピンがスパイタルフィールド幼児学 校の一教師から、幼児学校運動の中心人物としてイギリス各地を訪問して、新たに幼児学校を 開校する援助をする立場に変わりつつある時期に執筆されたものである。筆者が把握している だけでも1824年に2校24)の幼児学校の設立に関与していることがわかっている。Infant Poor
(1824)を出版した後、妻と末息子がなくなるという不幸に見舞われ、スパイタルフィールド 幼児学校を去って、幼児学校普及活動のためにイギリス中をかけめぐることになる。それゆえ Infant Poor(1824)は、彼の幼児教育実践の最後の段階で執筆されたものといえる。このこと が第一の特徴である。
本稿では、Infant Poor(1824)の内容を、1823年版と比較して検討した。1824年版のねらい は、Infant Poor(1823)の読者から寄せられた意見に基づき、読者の要求にこたえることにあっ
た。そのため、一方で読者から賛同をえられた内容、例えば具体的にどのように教育したらよ いかということに関してはさらに詳細に解説することが試みられた。他方で、批判を受けた内 容に関しては、ウイルダースピンが反論することができる事柄に関しては反論し、誤解を招く ような点に関しての記述はひかえられた。体罰に関してが前者の例であるし、教師の宗教観に 関することが後者の例といえる。また幼児学校をイギリス全土に普及させたいという願いから、
宗教的な対立が幼児学校の普及の妨げにならないように、幼児学校における宗教の取り扱い、
特に宗教教育をどのように行なっているかを具体的な内容まで紹介し、そこで広義の宗教教育 を行なっていることを強調した。このことが第二の特徴としてあげられる。
最後に第三の特徴として指摘できるのは、Infant Poor(1824)において新たに付け加えられ た内容としての以下の諸項目である。すなわち、まず最初に幼児学校を全土に普及させるため には特別な税金を徴収する案を発表したことである。ウイルダースピンはアメリカの義務教育 制度を理想としているが、アメリカの場合でも義務教育の対象は初等教育であること、及び幼
・児学校の対象は貧困階級の子弟に限定されていることなどから、幼児学校独自の方法を考える 必要があった。そこで考えたのは、貧困階級の子どもが全て幼児学校に入学できるための幼児 学校の設置と運営の費用を捻出するために全戸に1シリングの税金を課したらどうかという案 であった。Infant Poor(1823)では、幼児学校の重要性を主張するだけで、幼児学校を普及さ せる具体的な方法に関する記述はなかったが、Infant Poor(1824)では、いかにしたら幼児学 校を普及させることができるかという具体策まで打ち出している。このことにより、ウイルダー スピンが単なる幼児学校の教師の存在から、幼児学校を普及させることに尽力する幼児学校運 動の中心人物になったという立場の変化を読み取ることができる。
二つ目として、障害児も幼児学校に受け入れるという統合教育の実践が報告されたことであ る。障害児の保護施設としての役割を幼児学校に期待する人々があり、スパイタルフィールド 幼児学校でも、男女一人ずつ視覚障害児を受け入れていた。ウイルダースピン自身統合教育を 試みて、特に問題がないことを確かめている。特に幼児学校での教育方法は、絵や実物などの 視覚教材を用いる機会が多いので、聾唖児に適しているというのが彼の考えであった。当時一 般には聾唖児は「悪戯好きである」25)と考えられていたようであるが、健常児と同じ教育を受 けていない状況で判断するのは誤りであることを指摘し、健常児と同じ教育を受けることがで
きれば、決して悪戯好きになるわけではないというのが彼の考えであった。障害児に対して偏 見をもたず、教育の可能性を健常児と同様に認め、統合教育の実践に取り組む姿勢は、当時と
してはかなり先取的なものであった。
[註]
1)正式書名はOn the Importance of Educating the Infant Poor, from the age of eighteen months to seven years. containing an account of the Spitalfields Infant School, and the new system of instruction there adopted to which is added, a reply to the strictures of Dr, Pole, and those of the Edinburgh Review, re−
specting the authoピs mode of managing the children.
2)拙稿「イギリス幼児学校成立の研究一Spitalfields校の実践を中心に一」(『名古屋大学教育学部紀要第 34巻』1988年)83頁.
3)S.Wilderspin,∬nfant Edtccatian(1825), p、41.
4)Ibid., p.25.
5) H.Hill。 NatiOnal Edttcation:∬ts Present State and Prospects Vot.1.1836. pp.188−189.
6)ウイルダースピンの他には,James Kay−Shuttleworth, Andrew Bell, Herbert Spencer, Matthew Daven−
port Hill, Robert Dale Owen, James Millの著作が収められている.
7)拙稿「Wilderspin評価にみられる教育史研究の特徴」(「名古屋大学大学院教育学研究科教育学専攻一 教育論叢一第31号』1988年)34−35頁.
8)S.Wilderspin, Infant Poer(1824), p.45.
9)スウェーデンボルグ派教会(新エルサレム教会)は,スウェーデンの科学者・神学者であったスウェー デンボルグ(Swedenborg, Emanuel:1688−1772)の信奉者達が,1778年にロンドンに設立したキリス ト教の一派である.
10)スパイタルフィールド幼児学校の設立にあたり,中心となった人物.スパイタルフィールドに住む絹 製造業一族のひとりでロンドン織工同業組合のメンバーで,社会的な活動を熱心に行なっていた.
Spaita!fields National Schoolの建設に協力したり, Westminister lnfant School committee(ブキャナンの 幼児学校の後援会)のメンバーにもなっていた.
11)彼はニューラナークで幼児学校の教師をしていた人物であり,イギリスで2番目の幼児学校 (Westminister Infant Schoo1)がロンドンに設立されたとき,教師として招かれた幼児教育実践のパイ オニアである.
12)正式書名はOn the lmPortance of Educating the∬nfant Children Of the Poor;showing honv three hund「ed ehil d物畑m eighteen脚鋤S to seveりeαrsヅage. may be微uaged b夕ω昭微ster and砺S舵SS:CO吻鋤ng atSO
an account of tんe SPita{fields lnfant Scんool,
13)S.Wilderspin, Infant Poor(1824), pp,22−23.
14)1834年から1835年の下院の貧民教育に関する特別委員会で,幼児学校が貧民教育にいかに有効な手段 かを検討すべく,幼児学校関係者を証人として呼び出して質疑応答と意見の提示が求められた際,本当 の意味での幼児学校を設立したのは誰かということをめぐり論争となった.その際,ウイルダースピン は自分こそ幼児学校の創設者だと主張した.
15)S.Wilderspin,∬nfant Poor(1824), pp.61−62,
16) Ibid., p,76.
17) Ibid., p,85,
18)翌週の月曜日,申込み者が少なくとも49人あったという.
19)聖書から次の文章を引用して説明している.「愚かさは子どもの心につながれている.懲らしめの杖 がこれを断ち切る.」(箴言22−15)「望みのあるうちに,自分の子を懲らしめよ.しかし,殺す気を起 こしてはならない.」(箴言19−18)「子どもを懲らすことを差し控えてはならない.むちで打っても,
彼は死ぬことはない.あなたがむちで彼を打つなら,彼のいのちをよみから救うことができる.」(箴言 23−13・14)「むちと叱責とは知恵を与える.わがままにさせた子は,母に恥を見させる.悪者がふえ ると,そむきの罪も増す.しかし正しい者は彼らの滅びを見る.あなたの子を懲らせ.そうすれば,彼 はあなたを安らかにし,あなたの心に喜びを与える.」(箴言29−15・16・17)「むちを控える者はその 子を憎む者である.子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる.」(箴言13−24)
20)ストーブの柵の中に罰則者をいれ,他の子供達がその子に対し「可愛い小鳥,可愛い小鳥」という罰.
21)S.Wilderspin,1nfant Poor(1824), p.159,
22)ウイルダースピンは,イギリスとアメリカの犯罪の発生率は5:1であると説明している.
23)S.Wilderspin, Infant Poor(1824), p.202.
24)BrightonとWalthamstowの幼児学校.
25)S.Wilderspin, Infant Poor(1824), p.25: