山東 仏 教 の成 立 と変 容 過 程
町黎
継 生
1.仏 教 東漸 の分析 視 点 2.中 国仏教 寺院 の誕生 3.仏 教 寺 院の配置 と構 造 4.イ ン ド仏教 の受容 期 5.中 国仏 教 の確 立期 6.山 東仏 教 の成立 7.霊 巌寺 の変遷
8.山 東仏教 の限界一儒 教 と道教 の聖地
1仏 教東漸の分析視点
釈 尊 の初期 の説法 と布 教 は 口授 伝承 であ っ た。 釈尊 が80歳 に して ク シナ ガ ラの 地で 入滅 し,遺 骨 は信 者 た ち に分 け られ,塔(ス トゥーペ 舎利塔)に まつ られ た。
その3ヵ 月後,最 長老 の弟 子摩 詞迦 葉(マ ハーカッサパ)を 中心 に500名 の弟 子 は, 王舎城 で集 ま って生前 聴 聞 した法 と律 を調 出 し,釈 尊 の教 え を確定 しよ うと した。
これ を第一 回結集 とい い,編 集 された内容 は初 め ての仏 典 となった。 ゆ えに仏 典 は 釈 尊の滅 後 まもな く出現 した と考 え られ る。 ところが,仏 像 はそれか ら数百年 間 も 表現 されず,信 者 の礼 拝対象 は塔 だ けで あった。 また仏 陀 の事 跡 を描 いた仏伝 図で は,菩 提樹 台座 足 跡,法 輪,そ の他 で釈 尊 の存 在 を隠す よ うな間接方 法が と ら れ,主 役 の仏 陀が表現 され るこ とはまった くなか った。 これ を破 って は じめ て仏 陀 の姿 が表現 されたの は,紀 元後100年 ころのガ ンダーラ地 方 にお いてで あ った。仏 像 が 出現 した北西 イ ン ドで同 じク シャーナ朝 時代 に大乗仏教 も興 った こ とか ら,仏 像 の 出現 に大 乗仏教 が 関与 した こ とが説 かれ てい る。 しか しなが らこれ はい まだ に
証明 され てい ない。 いず れ に して も仏像 を誕生 させ た ガ ンダー ラ美術 は,ア レキサ ン ダ ー 大 王 の 遠 征 に 伴 っ て 広 ま っ た ヘ レ ニ ズ ム な ど の ギ リ シ ア 文 化 の 影 響 を 受 け た。 この点 は確 か であ る。 前3世 紀 に ア シ ョー カ王 の帰 依 に よって仏教 はイ ン ド国 教 とな り,イ ン ド仏教 は全 盛期 を迎 え た。前2世 紀 ころ,仏 教 は世界 屋根 とい われ るパ ミール高 原 を こえて西域 に入 った。 同時代 に中国で は,漢 武帝(前156〜 前87) が,西 域経 略 を打 ち出 し,張 審 を大 月氏 に派 遣 して,旬 奴 を漠 北 に追い,パ ミー ル
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劉 継生 山東仏教の成 立 と変容過程
高原 か ら長安 までの西域(シ ルクロー ドの東部)を 開通 しよ うと していた。
仏 教 は西域 の高 原,雪 山,草 原,砂 漠 の よ うな厳 しい 自然 環 境 を克 服 し,大 月 氏,パ ルテ ィア,ソ グ ド,ホ ー タ ン,ク チ ャ,ト ゥル フ ァン,楼 蘭,敦 煙,河 西 回 廊 を通 って前2年 に は長 安 にた ど り着 い た1)。 この段 階 では大 月氏 王の使 者 が漢 の 官 吏 に仏 法 を口授 した にす ぎず,仏 典 も将 来 されず,寺 院 も建 立 され なか った。 そ うなる と,仏 典 と寺 院 は どの ように して中 国に伝 わった のか。 これ につ い て 『高僧 伝』 巻 一 には次 の よ うに記 され てい る2)。65年 ごろ,後 漢 明帝(25〜75)は 金 人が 空か ら飛 んで きた こ とを夢 に見,翌 日群 臣 を集 め夢 の意味 をたず ねた ところ,傳 毅 は 次 の よ うに答 えた。 西域 に神 が あ る と聞 い た こ とが あ り,そ の名 を"仏"と い い,陛 下が 見 た夢 は きっ とそれ であ る と。 明帝 はそれ を信 じて,票 惜 と秦 景 らの大 臣 を遣 わ して仏 法 を天竺(イ ン ド)に 求 め させ た。察 惜 らは中 イ ン ドで 迦葉 摩騰 と 竺 法蘭 にあ っ て洛 陽 に招 来 した。2人 の高僧 は仏典 と仏伝 図 を将 来 した。 明帝 は一・
行 を受 け入れ るた め寺 院 を建 立 した。 そ れ以来,中 国仏教 は波 瀾万 丈 の経 過 をた ど る こ とに な った。 中 国 は イ ン ドとは まっ た く異 な る文化 体系 を保 持 す る社 会 だ け に,仏 教 は変容 を余儀 な くされた のであ る。仏典 漢訳 だけで な く,寺 院の建 立,仏 像 の表現 に もそ れが及 んだ。 その変 容 は,地 域 の伝統 文化 が弱 い ほ どイ ン ド的 な要 素 の残存 が多 く,地 域 の伝 統 文化 が強 いほ どイ ン ド的 な要素 の残 存 が少 ない と考 え られ る。 この よ うな仮 説 を もって小 論 で は,儒 教 と道教 の 中心 地 であ り中国伝統 文 化 が もっ とも守 られ てい る地域 であ る山東 に焦 点 をあ てて,山 東仏教 が どの ように
成立 し,ど の ように変 容 した のか を分析 してみ る こ とに したい。
2.中 国仏 教 寺 院 の誕 生
教 団 の 活 動 に は,出 家 僧 と信 仰 者 の 修 行 の た め の 諸 施 設,仏 像 を ま つ り仏 事 供 養 を 行 う諸 堂,仏 舎 利 を ま つ る 塔 な ど の 建 物 や 空 間 が 必 要 と な る 。 そ れ を 提 供 す る の は 精 舎 で あ る 。 精 舎 は イ ン ドで 比 丘 た ち の 修 行 の た め,雨 季 に 一 定 の 土 地 を 画 して 止 住 さ せ た こ と に 始 ま っ た 。 こ の 止 住 地 を ビ ハ ー ラ と い い 精 舎 と訳 す 。 ま た 衆 僧 の た め の 園 地 の 意 で 僧 伽 藍 と よ び,伽 藍 と 略 す る 。 初 期 教 団 の 活 動 に 使 用 さ れ た 代 表 的 精 舎 と して 仏 典 に 記 さ れ た も の に,舎 衛 城 の"祇 園 精 舎",王 舎 城 の"竹 林 精 舎"
な ど が あ る 。 釈 尊 の 入 滅 に 際 し,そ の 仏 舎 利 を ま つ る た め の 塔 が 各 地 に 建 て ら れ た 。 や が て そ こ が,仏 陀 を 供 養 し,説 法 を 聴 聞 す る 場 と し て,在 家 信 者 た ち の 信 仰 の 中 心 と な っ た 。 仏 塔 は の ち に伽 藍 内 に も 設 け られ る よ う に な っ た 。 ガ ン ダ.̲̲.ラで 仏 像 が 製 造 さ れ る と,仏 塔 の 前 あ る い は 塔 内 に 仏 像 を まつ る よ う に な っ た 。 仏 像 の 礼 拝 は 大 乗 仏 教 や 密 教 の 発 達 に 伴 い,諸 菩 薩 諸 尊 も加 え て 盛 ん と な っ た が,伽 藍 の 原 点 は あ く ま で 塔 に あ っ た 。 ま た,い くつ か の 大 規 模 な 伽 藍 は 大 学 の 機 能 も 果 た し た 。 た と え ば,最 大 規 模 の 伽 藍 と い わ れ る ナ,̲.̲.ラン ダ ー に は,イ ン ド各 地 の み な らず,外 国 か ら も比 丘 た ち が 集 ま り,し か も,所 属 部 派,大 ・小 乗 は 問 わ な い 。 学 ぶ の は 大 ・小 乗 の 教 学 の ほ か,サ ー ン キ ヤ な ど の 外 教 の 学,論 理,医 学,さ ら に 建 築 な ど を 含 み 学 芸 万 般 に わ た っ て い た 。7世 紀 に ナ0ラ ン ダ ー で 留 学 し た 玄 婁 は,
通 信 教 育 部 論 集 第11号(2008年8月)
学 ぶ者 の数 は1万,教 授者 は4,500と 報 じて い る。
白馬 寺 は 中国最 初 の仏 教伽 藍 で あ る3)。後 漢 明帝 が迦 葉摩 騰 と竺 法 蘭 の ため に, 67年 に洛 陽城 の西 門外 に建 立 させ た もの であ る。 白馬 の名 は,仏 典 を白馬 に乗 せ て きたか らと もい う。歴 代 の重 修 を経 て近年 も大修 築が加 え られ て観 光 の名所 とな っ てい る。"寺"と は 中国古代 の官舎 の意 であ る。仏 教伝 来 に際 し,イ ン ドや西 域 の伝 法僧 が 中国 に入 った。伝法 僧 は外 国人で あ るため,朝 廷 の外 交官署 で あ る"鴻 臆 寺"に 接待 され仮住 まい した4)。 その後,伝 法 僧 が ます ます 増 え,朝 廷 の官舎 か
ら"寺"の 字 が はず され た こ とに加 え,"寺"は 僧 の居 住 と活 動 の拠 点 の専 用 名称 に な った。 白馬寺 が建 立 され た 当初,寺 内 に経 蔵,訳 経 居 住 な どの殿 を築 い た が,仏 舎利塔 を建 てたか どうか は不 明で ある。仏教 建築 にイ ン ド的な要 素が導入 さ れ た最 古 の例 は,『 三 国誌 ・呉 誌』 に記 され て い る後漢 の筆 融(ア 〜197,後 漢末期 の武将)が 彰城(い まの徐州)で 建 造 した浮屠祠 であ る。 浮屠 は浮図 とも書 き,仏 陀 や塔(ス トゥーパ)の 意 味 で あ る。 浮屠 祠 に金色 の仏像 を まつ る九 重銅 葉 か らな る 相 輪 を掲 げた楼 閣が あっ た。 この楼 閣は中国独 自の仏教 建 築 に類 型 を与 えた といわ れ る。
三 国時代 か ら西晋 まで の200年 間 に敦煙,開 封 ,長 安,建 業(い まの南京),呉 県 (いまの蘇州)で も新 しい寺 院が建 立 され たが,そ の 数 は少 なか った。寺 院が激 増 し たの は南 北朝 時代(439〜589)で あ る。 南北 朝 の150年 間 に,仏 教 は社 会 に広 く普 及す る よ うに なった。 数多 くの仏 教建 築 がつ くられ,500以 上 の寺 院 を擁 した南 朝 の都建 康(南 京)や,1,000を こえ る寺 院が林 立 した北魏 の都 洛陽 の ような都 市 も出 現 した5)。北 魏 の献文帝 が516年 に洛 陽で建 造 した永寧寺(塔 刹に30重 の承露盤をそ びえ立たせた九重木塔があ り,僧 坊千余を有 した大寺),梁(502〜557)の 武 帝が しば し ば捨 身 した 同泰 寺(533年 同泰寺で行なわれた 「般若経」の講経では,無 遮大会 と併設 さ れたため,30万 余の僧俗が参集 した という)な どは歴 史上 に名 高 い 寺 院 であ る。 階 の 文帝 は全 国 に寺院 を建 てて仏教 に よる国家振 興 を図 った。 その政 策 は唐 に受 け継 が れ,州 ご とに則 天武后 は大 雲寺 を,中 宗 は中興寺 の ちの竜興 寺 を,玄 宗 は開元寺 を 建 て,国 家 の安 寧 と皇 帝 の長寿 を祈 願 させ た。
唐 まで の寺 院の組織 は次 の とお りであ る。 寺 内の衆僧 を管理 して寺 務 を執 る役 僧 に上座,寺 主,維 那 の三綱 があ り,と もに寺僧 の推 薦 に よって選 ばれた。 寺 院に は 僧 のほか に,得 度前 の童行,清 掃 や耕作 な どに従事 す る寺 奴,寺 戸 がい た。寺 の共 有 財産 を十 方常住物 といい,そ の最 大 の もの は土地 で あった。朝 廷,貴 族 た ちの施 入,寺 院 みず か らの買収,開 墾 に よって広 大 な田十 を占有 し,寺 院 は貴 族 とな らぶ 大 地主 で あった。 また,仏 教が 中 国社 会 に浸 透 してい くにつれ て,寺 院 はそれぞ れ の地域 におい てい わば文化 セ ンターの役 割 を果 たす ように なった。4月8日 の灌仏 会,7月15日 の 孟 蘭 盆 会 な どの 法 会 に は 多 くの 民 衆 が 集 い,境 内 で は縁 日が 立 ち さ まざ まな演 芸が催 され て,に ぎわい をみせ た6)。宋 の時代 にな って禅宗 が興 隆す る と,寺 院制度 に も変化 が起 った。寺 院 を代 表す る僧 を住 持 とい い,そ れ には師か ら弟 子へ と伝 え る甲 乙徒 弟 院 と,広 く諸 方か ら名 徳 を招 く十 方刹 との区別 が あ り, と くに大刹 の住持 は勅命 に よって任 ぜ られ た。 寺 院 は宗派 に よって禅,教,律 に分
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劉 継生 山東仏教の成立 と変容過程
類 され,南 宋 中期 には五 山十刹制 が定 め られた。 さ らに禅 寺 の行事 規範 で ある清規 は,元 代 に 『百 丈清規』 の重編 があ り,こ れ にな らって律 宗,教 宗 で も清 規 をつ く った。
3.仏 教 寺 院 の配 置 と構 造
西晋 まで の仏教寺 院は構 造 が単純 で決 ま りが なか った。 しか し,仏 教 の広 が りに 伴 い寺 院 に建 て られ た殿 堂 も複雑 に な り,さ らに階か ら寺 院 の構 造 もパ ター ン化 さ れ る よ うにな った。 寺 院 を構成 す る主要 建 築 は山 門,天 王殿,大 雄宝 殿,蔵 経楼, 鐘 楼 塔,僧 坊 が あ り,"七 堂伽 藍"と い わ れ る。 建 物 の 配置 は庭 園式,自 由式, 縦軸 式の3つ のパ ター ンが あ る。① 庭 園式 は,塔 あ るい は仏殿 を中心 に して まわ り に建 物 を配 置す る方 式 で あ る。② 自由式 は,複 雑 な 地形 変化 に応 じて建 物 を配置
し,変 化 の なかで整合 と均 衡 を求め る方式 で ある。③ 縦軸式 は,主 要 な殿 堂 は一本 の縦軸 線(南 北線)に 配置 す る方 式 で あ る。 つ ま り,山 門,天 王殿,大 雄 宝殿,蔵 経楼 な どの順 で縦軸 線 にそ って七堂伽 藍 を南 向 きに設置す るこ とで あ る。 さ らに重 要 な仏 殿 にはそ の前 あ るい は左 右(東 西)に 伽 藍殿,祖 師殿,観 音殿,薬 師殿 の よ うな配殿 が設 置 され る。僧 侶 の生活 区 は東 西両 側 に配 置 され る。左側(東 側)に は 僧 房,厨 房,食 堂,庫 院が あ り,右 側(西 側)に は朝礼 者 の宿 泊 区が あ る。 仏塔 の 位 置 は 中心 部で は な く,寺 院 の後 方 あ るいは離 れた場所 に設 置 され る。多 くの寺 院
は,整 列,対 称,一 目瞭然 の縦軸 式 となってい る7)。
(1)山 門 と天 王殿 の内部 構造
寺 院 に入 る門 を山門 といい,寺 院一 山の正 門 を意味 す る。 山門 は大 きな中央 の門 と左 右 の 門 と三 つ連 ね一 門 と した もので あ り,三 門 と もよばれ る。3つ の 門 はそれ ぞれ違 う意 味が あ る。真 ん 中は空 門,左 は無相 門,右 は無作 門で ある。 これ を"三 解 脱 門"と もい う。 門か ら入 った人 は解 脱 を得 る こ とが で きる。大 寺院 の 山門 は殿
堂式 に建 て られ てい る。 これ を山門殿 とい い,殿 内両脇 には金 剛力 士像 が安置 され る。 金 剛力 士 は伽藍 守 護 の神 で あ り,口 を開 けた 阿形(あ ぎょう)と 口 を閉 じた畔 形(う ん ぎょう)に 作 られ,手 に金 剛杵 を持 ち,勇 猛 ・威 嚇 ・半 裸 の相 とな って い る。山 門の脇 に は鐘楼 鼓楼 が建 て られ る。鐘楼 には時刻 や緊急情 報 な どを知 らせ るた め鐘 が あ る。太 鼓 を置 い た楼 を鼓楼 とい う。鐘 楼 は高 層 とされ る こ とが多 く, 重 い鐘 を支 え る補 強の構 造 を もつ。
山門 に入 った 後,最 初 に設 置 され た仏 殿 は天 王殿 で あ る。 天 王殿 は破 邪 顕 正 を し,仏 ・法 ・僧 の三宝 を守 る役 割 であ る。殿 内 には弥勒菩 薩像 は南 向 きに安 置 され る。 そ の 背 後 に は 護 法 神 で あ る章 駄 天 菩 薩 が くる 。 弥 勒 菩 薩 の 両 側 に 四大 天 王 が 安 置 され る。 弥勒 は釈尊 に次 いで仏 に なる と約 束 された菩 薩 であ り,兜 率 天 に住 み, 釈 尊 入滅 後56億7千 万 年 の後 この 世 に下生 して,竜 華 三会 の説 法 に よって釈 尊の 救 い に漏 れ た衆 生 を こ とご とく済 度す る とい う未 来仏 であ る。章駄 天 は も とも とバ ラモ ン教 の神 で,シ ヴ ァ神 の子 とされ る。仏 教 に入 って仏法 の守護 神 とな り,と く
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に伽藍 を守 る神 とされ る。 四大天 王 は四方 を守 る護 法神 であ る。 四大 天王 は 甲冑 を つ けた葱怒 の武将 形 で邪 鬼 を踏 む形 象 で須 弥壇 の 四方 に安 置 され る。 これは須弥 山 の 中腹 にあ る四天 工天(ま たは四大王天,四 王天)の 四方 に住 んで仏法 を守護 す る護i 法 神 で あ る。 東 方 に持 国天(提 頭頼陀),南 方 に増 長 天(毘 楼勒叉),西 方 に広 目天
(毘楼博叉),北 方 に多 聞天(毘 沙門)。 『増一 阿含経』 や 『阿育 王経』 には,四 天王が 釈尊 の も とに現 れ て帰 依 した ことや,釈 尊 の浬葉 の後 に仏法 を守 護す る こ とを釈 尊 か ら託 され た こ とが記 され,『 金光 明最 勝 王経』 には,四 天王 が釈 尊 に対 し本経 を 信奉 す る人 々 とそ の国家 を守護 す る こ とを誓 った こ とが 説 かれ てい る。
(2)大 雄 宝殿 の内部構 造
天王殿 の北 には寺 院の 中心位 置 を占め る大雄 宝殿 があ る。 なぜ"大 雄"が 付 け ら れ たの か。 『法華 経 ・涌 出 品』 に は"善 哉 善 哉,大 雄 世尊",『 法 華経 ・授 記 品』 に は"大 雄 猛世 尊,諸 釈之 法王"と 記 してい る。 す なわ ち,大 雄 は仏 に対 す る尊称 で あ り,仏 は偉 大 な法力 を もち 四魔(煩 悩魔 五陰魔 死魔 自在天魔)を 降 し伏せ る ことが で きる。 これ を拠 り所 と して,寺 院の正殿 が大雄 宝殿 と呼 ばれる よ うになっ た。 大雄 宝殿 は本尊 を安 置す る主要堂 で あ り,伽 藍 の中心 をなす正殿 であ り,仏 殿 ともい われ る。大雄宝殿 は,本 体 は五 間 に裳 階つ きの大 型殿 で,中 央 の天井 を高 く 張 り,減 柱 造 で内部柱 を少 な くして広 く高 い空 間 をつ くり,組 物 は唐 様三 手先詰 組
とし,外 観 は重層 の荘厳 な殿 堂 であ る。
大雄 宝殿 で供養 され る本尊 は時代 や宗派 に よって違 うが,一 尊仏 と三尊仏 の どち らか であ る。 一尊 仏 の場 合 は釈 迦如 来 であ る。 よ くあ る姿 勢 は成 仏相 ,説 法 相,施 壇 仏像 の3つ で あ る。① 成仏相:釈 尊 の菩提 樹 下成仏得 道 を表 す。結珈 鉄坐 定 印
(左手の上に右手を重ね謄前 にお く)あ るい は触 地印(右 手を膝の前で垂れ指先 を地に向け る。釈尊 の修行中に悪魔が悟 りを開 くことを妨害 したが,こ の印によりそれ を退 けた とい う)。② 説 法相:釈 尊 の弟子 た ちへ の説 法時 の状況 を表す 。結珈 跣坐,転 法輪 印(説 法印ともいう。両手を胸の前 にあげ 掌を対向させ,大 指 と他の1指 とを捻ずる)。③旋 壇 仏像:釈 迦 如来 立像,施 無 畏印 また は与願 印。施無 畏 印 は諸仏 の通 印 と称 され,五 指 を伸 ば し,掌 を外 に向 け肩 の前 にあげ る。 衆生 を苦難 か ら解 脱 させ る意味が 表 さ れ る。与願 印 は,五 指 を伸 ば し,掌 を外 に向けて垂 下 し膝 の辺 りにお く。 衆生 に願 望 を実 現 させ る意 味が表 され る。
三尊仏 には三 身仏 と三 世仏 の2パ ター ンが あ る。 三身 は仏 の法 身 ・報身 ・応 身の ことであ る。 中尊 は法 身で あ り,宇 宙 の真 理 と しての仏 で あ る。 た とえ ば毘盧 遮那 仏 。左 尊 は報 身で あ り,修 行 に よって得 られ た功 徳 に荘 厳 され た仏 で あ る。盧 舎那 仏 や阿弥 陀仏 な どと して具 象化 された仏が これ に相 当す る。右 側 は応 身で あ り,衆 生 済 度 の た め に種 々 に 身 を変 化 し て姿 を現 した 仏 で あ る 。 釈 尊 は この 応 身 に含 ま れ
る。
三世 仏 は さ らに2つ に分 け られ る。 まず は3つ の空 間世 界 に同時 に存在 す る仏 で ある。真 ん中 は娑婆 世界(苦 しみ と忍耐が多 く,人 間の住む世界)の 釈 迦如 来で あ り, 脇 侍 は文殊,普 賢 の2菩 薩 であ る。左 側 は東 方浄瑠璃 世界 の薬 師如来 で あ り,脇 侍
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劉 継生 山東仏教 の成立 と変容過程
は 日光,月 光 菩薩 で あ る。右側 は西方 極 楽世界 の阿 弥陀如 来 で あ り,脇 侍 は観 音, 勢 至菩 薩 であ る。 もう1つ は竪三世 仏 であ り,過 去 ・現在 ・未 来 の三世 に存 在 す る 仏 であ る。真 ん中 は現在 世 の釈迦如 来,左 側 は過去 世 の迦 葉仏,右 側 は未 来世 の弥 勒仏 となって い る。
4.イ ン ド仏 教 の 受 容 期
(1)後 漢 に始 ま った仏教伝 来(前2〜219年)
仏 教 の 中国初 伝 は前2年 で あ っ た。67年 に 白馬寺 が建 て られ た後,迦 葉 摩 騰 と 竺 法 蘭 は白馬 寺 を道 場 に仏 典 漢 訳 に励 んだ。 漢訳 され た最 初 の 仏 典 は 『四十 二 章 経 』 で あ っ た。後 漢 末期 に な ってか らイ ン ドと西 域 の伝 法 僧 は相 次 ぎ中 国 に到 っ た。 パ ル テ ィアか らの安 世 高8)と 安玄9),大 月氏 か らの支 婁 迦識10)と 支 曜11),イ
ン ドか らの竺 僧 塑12),康 居 か らの康 孟 詳13)な どが あ げ られ る。 これ らの高僧 は た くさんの仏 典 を訳 出 した。 高 い評価 を得 た安 世高 は,147年 洛陽 に至 り,167年 ま で の20余 年 の 間 に 「安般 守 意経』 等34部40巻 の仏 典 を訳 出 した。
こ う した訳経 の ほか に,後 漢 の仏教 の特 徴 と して次 の3点 を上 げ る こ とが で き る。①皇 家 の信 仰 と中 国人の 出家 が は じまった。明帝 の義弟 の楚 王英 が熱心 な仏教 者 で あった ことは 『後漢 書』 に記 され てい る。 また,陽 城侯 劉 峻が 出家 した こ とは
『僧 史略 』 に記 されて い る。② 明帝 求法 の伝 説 は,全 身 よ り光 明 を放 って空 中 を自 由 に飛翔 す るこ とが で きる仏教 の神 通力へ の魅 力 と重 なった。 しか し,神 通力 を修 得 す る には持戒 や禅定 を積 む必要 が あ る。 この実践 の広 が りも仏教 の定着 を促 進 し
た。③ 仏法 が 中国伝統 の神仙 方術 に結 びつ けて受 け止 め られ た。 人 間の苦悩 を解 決 して民衆 を救 う道や法 で あ る とい う仏 法 の本 質 は,ま だ認識 で きる よ うになって い なか った。
(2)北 方 か ら南方 へ広 が った三 国の仏教(220〜265)
三 国は魏,蜀,呉 が 中国 を統治 して いた時代 で あ る。 この45年 間の仏教 伝 来 は, 地域 範 囲が魏 か ら呉 に広 が り,訳 出 され た仏典 も量 と質 の両 面 にお いて 高 ま った。
そ の特徴 は次の3点 に ま とめ られ る。
① 仏法 が 長江 を渡 っ て南方 に浸 透 した。 支婁 迦識(支 謙)は 呉 の支 配者 で あ る孫 権 に仏 法 を説 き,孫 権 の信 頼 を得 て博 士 の高 官 を与 え られ た。 また康 僧 会14)の た め に孫 権 は建 業(い まの南京)に 仏塔 を建 て させ た15)。また,孫 権 の意 思 で儒 教, 道教,仏 教 につ いての優 劣 議論 が展 開 され,仏 教 が呉 で もっ とも尊重 され る宗教 と な った。
② 仏 典 漢 訳 が 充 実 し た。 魏 の 訳 経 僧 は 主 に 曇 何 迦 羅16),曇 帝17),康 僧 鎧18),畠 延19)な どで あ り,洛 陽で 訳 経 を行 った。 呉 の訳 経僧 は主 に維 祇 難20),支 婁 迦 識, 康 僧会 な どで あ り,仏 典 漢訳 は武 昌か らは じま り建 業 の地 で完 成 した。 と くに支婁 迦識 と康 僧 会 は,祖 先 が西域 で あ り,生 まれは 中国で あ ったため 自身の 中国文化 へ の 造詣 が 深 い。 支婁 迦識 は 『維 摩 詰 経』 『阿弥 陀経 』 『法句 経 』 『太 子瑞 応 本 起 経』
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な どを訳 出 した。訳 出 された般若 部経典 は,仏 教 と玄学 との結 びつ きを促 し,仏 教 の民衆 へ の広 布 に貢献 した。
③ 戒律 が は じめて伝 来 した。 イ ン ド仏教 で は,戒 律 はす べ ての信仰 者 の必 須条件 であ る。 しか し,後 漢 か ら三 国 までの 出家 は髪 を剃 るだ けで,仏 の定 め た戒律 を受 け なか った。250年 にイ ン ド律 学僧 雲珂 迦羅 が洛 陽 に来 て,入 門 は仏 が 定 めた一・切 の戒律 を守 るべ きと唱 えた。 この ため洛 陽 にい る衆僧 は共 同で戒律 を ま とめた。 し か し,迦 羅 は これが複 雑 す ぎて社 会 に受容 され ない と考 え,自 ら 『僧祇 戒心』 を訳 出 した。 これ が 『摩詞 僧祇 部』 の戒本 一・巻 であ る。そ れ以 来,中 国の仏教 入 門 は戒 律 を受 け る よ うに なった。 一・方,パ ル テ ィア出身 の僧 で律 学 にす ぐれた雲諦 も255 年 に洛 陽 に入 り,白 馬寺 で 『四分 律』 を訳 出 した。 その後,『 四分律 』 は中国律 宗 の経典 とな った。
(3)大 乗 思想 が伝 来 した西晋 の仏教(265〜316)
西晋 の仏教 は265〜316の51年 間 であ る。以 下 にその特 徴 をあげ るが 大乗仏 典 が大 量 に訳 出 されたのが その最 大 の特 徴 であ る。
① 西晋 の 時代 には333部 の仏典 が訳 出され た。 洛 陽に は安 法欽 ・法立 ・法炬,陳 留 に は竺 叔蘭,広 州 には彊 梁婁至,長 安 には支法 度が い たが,も っ とも貢献 の大 き
い訳 経僧 は敦 煙 に住 んで い る竺 法護i(239〜316)で あ った。敦煙 菩薩 月 支菩 薩 と 称 され た竺 法護 は,数 代 にわた って敦煙 に定住 した月支 の末喬 で,幼 少 か ら六経 な どの 中国 の古典 を広 く学習 した。彼 の生 きた時代 は,イ ン ドで はク シャーナ朝 で大 乗仏教 が興 隆 し,大 乗仏 典が 陸続 と創作 された時代 で あった。 しか し,そ の大乗 仏 典 の多 くは中 国へ伝 来 しなか った。 この状 況 の改善 を志 した竺 法護 は,師 の竺 高座 と と もに西 域 諸 国 を遊歴 して諸言 語 を習得 し,仏 典 の原 本 を収集 して長 安 に帰 っ た。 中 国各 地 の熱 心 な帰 依 者(た とえば長安の最承遠,最 道真父子)の 助 力 を得 て, 竺 法護 は重要 な大 乗仏 典 を翻 訳 しつ づ けた。竺 法 護 は40余 年 に わた って150部 に お よぶ 仏 典 を翻 訳 した大 訳 経 家 となっ た。鳩 摩 羅什 の訳 経 活 動 が 『光p般 若 経』
『法華経』 『維摩経 』 『首樗 厳経』 な どの諸経 の改 訂 か らは じまった こ とを考 える と,
『出三 蔵記 集』 に記 され る よ うな 「経法 の 中華 に広 流す る所 以 は護 の力 な り」 とい う評価 も過 言 では ない。
②西 晋 では般若 思想 と大乗仏 教 の 中国社 会へ の浸 透が は じまった。 『賢劫経』 『大 哀経 』 『十住 毘婆 沙 論』 な どの訳 出 は般 若性 空 の 思想 の 広 が りを促 した。 『維 摩 詰 経 』 は清 談全 盛 の西晋 か ら東晋 にか け ての貴族 社 会 に受容 され,『 光 讃般 若 経』 も 老 荘 思想 が もて はや され た西 晋 の思 想界 に受 容 され た。 また,竺 法 護 が訳 出 した
『正法 華 経』 は鳩 摩羅 什 訳 の 『妙 法蓮 華経』 の登 場以 前 に,法 華信 仰 お よび観 音信 仰 を 中 国 に もた ら した 重 要 な経 典 で あ る。
③ 道教 との摩擦 の 中で偽 仏典 が現 れた。西 晋 の時代 に仏教 は広 く信 仰 され多 くの 民衆 に受 け入 れ られ た。 当時の2大 都市 の洛 陽 と長安 だけで寺 院が180ヵ 所 があ っ た。 この よ うな仏 教 広布 の勢 い に道 教 は危 機 を感 じる よ うに な った。 老子 化 胡 説 は,老 子が仏 教 を説 いた とい う虚構 の説 で ある。す なわち,西 方の 関所 を こえて姿
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劉 継生 山東仏教の成立 と変容過程
を隠 した と伝 え られ る老子 は,実 は胡 地 に赴 い て胡 人 を教化 す るため に仏 教 をは じ め た のだ とい い,し た が って仏 陀 は老子 の変化 身 に ほか な らな い と説 か れ た。166 年 の後 漢 の裏楷 の上 奏 の一・節 に,「 老 子 は夷秋 に入 りて 浮屠 とな る」 とあ った。西 晋 の 道士 の王 浮が 道 仏二 教 の 邪正 をめ ぐる僧侶 との論 争 に敗 れ た嫉 妬 で偽 造 した
『老子化 胡経 』 がそ の最 初 の説で あ った。
5.中 国仏 教 の確 立 期
317〜420年 は東晋 五 胡十 六 国の時代 であ る。 南方 は漢民族 が 中心 となって い る 東晋 政権 であ り,北 方 は五 つ の異民 族(旬 奴,錫,鮮 卑 テイ,禿)が 中心 となっ た 16を 超 え る政権 が あ っ た。 これ を五 胡十 六 国 とい う。 五胡 十 六 国 の君 主 は中 国伝 統 の儒 教 よ りも西方伝 来 の仏教 を好 み,仏 教 を利用 して社 会統 治 を安定 させ よう と
した。 この104年 間に仏教 は南 方 と北 方 で異 なる発 展 を辿 った。 と くに,一 時華北 を統 一 して西 域 に及 ん だ前秦(351〜394)お よび長 安 を都 にす る後 秦(384〜417) の仏 教 は,中 国仏教 史 におい て きわめ て重 要 な地位 を占めてい る。
(1)仏 法 の実践 を重視 した仏 図澄 の大 宣教
イ ン ドや西 域 か らの伝 法僧 の ほ とん どはサ ンス ク リ ッ ト仏典 を将 来 して翻訳 に努 め る訳 経僧 で あったが,中 に は訳経 を全 く行 わず,実 践 だ け を重視 す る伝 法僧 もい た。 そ の代 表者 は仏 図澄(232〜348)で あ る。仏 図澄 は西域 の亀 藪 出身で,9歳 で 出家,敦 煙 を経 て310年 に79歳 で 洛陽 に到 った。 『高僧伝 」 の記載 に よる と,仏 図 澄 は,華 北 を制圧 した暴虐 非道 の後趙 君主 であ る石 勒 と石虎 に仏法 を説 き,国 の軍 師 として重 用 され,戦 地 にお いて 数 々の予 言 を行 っ た神 通力 を持 っ た高僧 で あ り, 石 勒 よ り"大 和 尚"の 称号 を与 え られた。 また,『 晋書 』 の記 載 に よる と,仏 図澄 が 凶暴 な性格 で あった石勒 と石 虎 の信 頼 を獲得 し,深 い帰依 を受 けた理 由は,高 適 な教理 や人 目を引 く神通 力 で はな く,仏 図澄 の持戒 堅 固な生活 態度 にあ った。 自 ら の持戒 は言 うに及 ばず,石 勒 や,石 虎 の よ うな残虐 さで知 られ る五胡 の君 主 に対 し て も,五 戒 の堅持 を求 め た とい う。
仏 図澄 に は訳経 や著 述が ない に もか か わ らず,外 来 の仏教 が 中国 に根づ き発展 し た の は,彼 の79歳 か ら117歳 までの38年 にわ た る実践 的 な宣教 に負 うところが大
きい21)。中国 の仏教 史 にお け る仏 図澄 の貢献 は次 の3点 に まとめ られ る。①石 虎 に 対 して漢 人 の 出家 を公 許す る よう導 い た。②893ヵ 所 の寺 院 を建 立 し,1万 人 の弟 子 を育成 した。③弟 子 たちが 中国仏教 の基礎 を築 き上 げ た。竺法 護 の ような訳 経僧 の もとで はな く,仏 図澄 の ような宣教 僧 の 門下 か ら正 統的 な 中国仏教 の提 唱者が 現 れ た と こ ろ に,天 台 宗 や 禅 宗 に代 表 さ れ る よ う な後 の 実 践 的 な 中 国仏 教 の原 形 を見
るこ とがで きる。
(2)伝 法 僧 と 求 法 僧 に よ る 空 前 の 訳 経
五 胡 十 六 国(北 方)の 仏 教 の 代 表 者 は 道 安22)と 鳩 摩 羅 什23)で あ り,東 晋(南 方)
通 信 教 育 部 論 集 第ll号(2008年8月)
の仏教 の代表 者 は慧 遠 と仏 陀蹟 陀羅 であ った。南 北 の両地域 で行 われ た仏典 漢訳 は 前代 未 聞の成 果 をあげ た。 五胡 十六 国の仏教 の特徴 と して次 の4点 を指摘 す る こ と が で きる。第1は 『阿含経』 と 『阿毘 曇』 の創訳 で あ り,こ れ は主 に仏 図澄 の弟 子 道安 と道 安 の弟 子慧遠 の貢献 であ る。 第2は,大 乗 重要 経論 の訳 出で あ り,こ れ は 主 に鳩 摩 羅 什 の貢 献 で あ る。 仏 図澄 と同 じ亀 菰 出身 の鳩 摩羅什 は,『 大 品般 若 経』
『金 剛経 』 『法華 経』 『中 論』 『成 実 論』 な どの74部384巻 の 重 要仏 典 を訳 出 した。
中 国仏 教 の発 展 と各種宗 派 の形成 に巨大 な貢 献 を与 えた。 第3は,密 教経 典 の訳 出 で あ る。 吊屍 梨蜜多 羅 は西域 か ら中国 に赴 き,建 康(南 京)建 初 寺(孫 権 は康僧会の ために建てた寺院)に 住 み,317〜322年 の6年 間 に 『大 孔雀 王神 呪経 』 『孔 雀 王雑 神 呪経 』 『大 灌 頂 経』 な どを訳 出 した。 第4は,中 イ ン ド出身 の僧 で あ る曇 無 識 (385〜433)は,カ シ ミー ルや亀 弦 をへ て敦 煙 に至 り,412年 に北涼 に よ り武威 に 迎 え られ,『 大般 浬葉 経』 「金光 明経 』 『大 集経 』 『大 雲経』 『海 竜 王経』 な どを訳 出 した。 これ らの仏 典 は 中 国仏教 の発展 に とって重 要 な意義 を もち,と くに 「浬 桀 経』 の影響 が大 きい。
一 方,イ ン ドへ 求法 す る中 国人僧 も増 えた。 この なかで法顕 の功 績 は もっ とも大 きい。 法 顕(337〜442)は わず か3歳 で 沙 弥 とな り,20歳 の と き大 戒 を受 け た。
法顕 は 中国 に律蔵 が完 備 してい な いの をな げ き,399年 に63歳 で 同学 の僧4人 と 長安 を出発 してイ ン ドへ 向か った。敦煙 か ら西 域 に入 り,ヒ マ ラヤ を越 えて北 イ ン ドに至 り,イ ン ド各地 や ス リラ ンカで仏典 を求 め,仏 跡 を巡礼 す る旅 をつ づ けた。
30余 国 を遍歴 した の ち,戒 律 な どの サ ンス ク リ ッ ト経典 を もって,海 路帰 国の 途 につ いた が,暴 風 雨 に遭 い,412年 に 山東省 に ひ と り無事 に帰 着 した。 この14年 間 にわ た る旅 行 中の見 聞 を著 した のが 『仏 国記』(別 名,r法 顕伝』,r歴遊天竺記伝』) であ る。建 康 の 道場 寺 で仏 陀蹟 陀 羅 と ともに 『摩 詞僧 祇 律』 『大般 泥香 経 』 な ど6 部63巻 にの ぼ る経 律 を漢訳 した後 荊 州 辛寺 で86歳 で 没 した。 『大 般 泥香 経』 は 竺道 生 らに よって研 究 され,浬 葉 宗成 立の契 機 となった。法顕 は また,西 域 やイ ン
ドの弥勒信 仰 を中 国に伝 えた こ とで も知 られ る。
(3)新 しい論 と教義 の形成
慧 遠(334〜416)は,中 国浄土 教 の祖 師 といわ れ,念 仏 の結 社 白蓮社 の 開祖 とさ れ る。13歳 で 故郷 の 山西 省 寧武 を離 れ,許 昌,洛 陽 に遊 学 し,儒 教 の六経 と老荘 の玄学 を修 めた。21歳 で恒 山の寺 院で道安 の弟子 とな り仏 門 に入 った。379年 に盧 山で先輩 の慧 永 に と どめ られ,江 州刺 史 の桓伊 の寄進 で東林 寺 を建 て,そ こに住 し た。 そ れ以 後416年 に83歳 で 没 す る まで 「影,山 を 出 でず, ,俗 に入 らず 」 の生 活 をつ づ け た。 盧 山 での36年 間,慧 遠 が広 げた仏 法 の感化 は江 南 全域 に及 ん だ。 慧 遠 は,盧 山 に 赴 い た イ ン ド僧 伽 提 婆 に 『阿 毘 曇 心 論 』 『三 法 度 論 』,曇 摩流 支 に 『十諦律』,仏 陀蹟 陀羅 に 『修行 方便禅経 』 な どの仏 典 の訳 出 を依頼 した。 また, 鳩摩 羅什 が長安 に迎 え られる と,慧 遠 は鳩 摩羅 什 と往 復書 簡 を交 わ し,経 典 につ い ての疑 問点 等 をただ した。 その書簡 集が 『大乗 大義 章』 であ る。 また,慧 遠 は道安 の般 若学 を継 承 し,"念 仏 三 昧"の 教 義 を説 い た ので あ る。念 仏 三昧 は,無 常 観 と
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劉 継生 山東仏教 の成立 と変容過程
三 世 因果応 報 の本 質 を理解 し,『 般舟 三 昧経』 を も とに した もので あ る。 慧遠 を中 心 とす る盧 山教 団が 隆盛 となる につ れ,当 時 の国家権 力 との摩擦 は避 け られ なか っ た。東晋 の実 力者桓 玄が,仏 教教 団の王権 へ の従 属 を要求 したが,慧 遠 は 『沙 門不 敬 王者論』 を著 して反対 した。
道 生(355〜434)は 幼 少 時 か ら竺 法 汰 に随 い 出家 し,15歳 で講 座 に登 った。 当 初 は盧 山で慧遠 に師事 した。401年 に鳩 摩羅 什が 長安 に到 来 し経論 を翻 訳す るこ と
を知 り,慧 観 慧叡 慧厳 らの僧 た ち と共 に北へ 向かい,羅 什 の弟 子 とな り,羅 什 門下 四聖 の1人 に数 え られ た。 羅什 は法 華経 を訳 した こ とで高 く評価 され たが,道 生 は羅什 の思 想 を受 け継 ぎ,法 華経 義疏 を著 し,後 の天台智 顕へ と繋 が ってい く法 華 経解釈 をは じめた。 この ことに よ り当時 は,唯 識 また般 若教学 に傾 い ていた教 学 を法華 経へ と導 いた といわ れ る。羅 什 が413年 没 した後 に,法 顕 が訳 した大 般泥.S 経 六 巻(浬 桀経の前半部)が 伝 え られ,羅 什 門下 の衆僧 は泥 沮経 の研 鑛 をは じめ た。
しか し,衆 僧 が経 典 の表 面 に固執 して深 く仏 意 を思 惟 しない こ とに対 し,道 生 は
"悉有仏 性 説"に 基 づ い て"頓 悟 成 仏"の 義 を主張 し
,二 諦 論,法 身無色 論 善 不 受報 仏 性 当有 論 な どを著 した。 また,当 時 の浬 葉 経 は前 半 部 しか伝 わ っ てお ら ず,そ こ に は關提(仏 法 を否定し誹諺 し悔悟 しない人)は 成 仏 しに くい こ とが説 かれ て い たので あ る。 ところが,道 生 は泥 恒 経か ら仏 意 を悟 り,"關 提成 仏"の 義 を宣 揚 した。 しか し,こ の義 は他 の衆僧 に理 解 され なか ったため道 生 は追放 され た。そ の時 に道生 は 「我 が所説 は,も し経 義 に反す れ ば現 身 におい て痛 疾 を表 さん。 も し 実相 と違背 せず ば,願 わ くば寿終 の時,獅 子 の座 に昇 らん」 と誓 い,蘇 州 の虎 丘寺
に立 ち去 った。430年 に道生 は再 び盧 山に戻 った。 同年,南 宋 に曇 無識 訳 の北本 浬 葉経(泥 沮経 に書かれていない後半部を含む浬葉経)が 伝 わ り,慧 観 らが法 顕訳 の 六巻 泥沮 経 と統 合訂正 して 『南本 ・大 般浬葉 経』 を完成 した。そ こには關提 も成仏 す る こ とが説 かれ てお り,道 生 の唱 えた 關提 成仏 の義 が正 しい ことが証 明 され,衆 僧 た ちは その 先 見 の明 に感嘆 し服 した とい わ れ る。道 生 の 業績 は,唯 識 ・般 若 か ら法 華 また浬 葉へ と導 いた ことは,後 に智顕 が開 いた天 台宗 に も影響 を与 えた とい わ れ る。
僧 肇(374〜414)は 長安 の人で あ り,若 くして中 国古 典 に通 じ,と くに老荘 思想 を好 んだ。 しか し,『維 摩経 』 を読 ん で深 い啓発 を受 けた こ とを きっか けに仏教 に 帰依 した。 のち鳩摩羅 什 に師事 して羅 什 の伝 えた竜樹 の大乗教 学 を学 び,師 の訳経 事 業 も手伝 った。物不 遷論 ・不真 空観 ・般 若無知 論 ・浬葉無 名論 ・宗本 義 の五 論 か らな る 『肇論』 は,仏 法 の新 しい論 と して,老 荘 的表現 を取 り入 れ なが ら般若 空 の 立場 を鮮 明 に し,中 国仏教 史 のみ な らず 中国思想 史 に も多大 な影響 を与 えた。
(4)造 像 技 術 の 発 達 と石 窟 彫 刻 の 盛 行
東晋五 胡十 六 国の時代 に寺 院 に仏像 を安 置 して信仰 す る こ とが広 まった。 その た め多様 な材 料 を用 いて仏像 をつ くる技 術が 発達 した。 有名 な作 品 には,道 安 が嚢 陽 檀 渓寺 で造 った丈六 の釈迦 金像 竺 道隣が 山陰 昌原寺 で造 った無 量寿像,戴 逡 と息 子 が 山陰霊宝寺 で造 った阿弥 陀仏 と脇 侍二 菩薩 木像 な どが あ る。 また,銅 造 菩薩立
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像 をは じめ い くつか の ガ ンダー ラ風 の金銅仏像 も造 られた。 中 には まだ現 存 して い る仏 像 もあ る。 た とえば,サ ンフ ラ ンシス コ ・ア ジア美術 館 蔵 の銅造 如 来座 像 は, 後 趙 の建 武4年(338)の 銘 を もち,ガ ンダ.̲̲̲ラ風 を基 に した 中 国化 の様 式 が認 め られ る。 さ らに,366年 に敦 焼 で莫高 窟が 開難 された。 以後 中 国で は石 や銅 を主 な 材料 とす る単独像 と,石 窟や磨 崖 の造像 が盛行 す る。 また,著 名 な画家顧 榿 之(344
〜408)は 中国最 初 の仏 画家 で もあ る。作 品 に は 『浄名 居 士 図』 「八 国 分仏 舎利 図』
『康 僧会像 』 な どが あ る。
6.山 東仏 教 の成 立
(1)泰 山僧 朗 が開 い た山東仏教
仏 図澄が348年 に没 した後,弟 子 たち は各 地 に赴い て宣教 をつづ けた。 道安 は 山 西 ・河 南 ・湖北 な どに入 り中国仏教 の確 立 に尽 力 した。 法和 は四川 に行 き西南仏 教 の教学 を開い た。法汰 は南京 に行 き江南 般若学 の大 家 にな った。そ の なか に京兆 人 (現在の陳西西安)竺 僧朗(生 死年不詳)も い た。竺僧 朗 は 中国伝 統 文化 の 中心 地一 山 東 での宣教 を決心 し,351年 に山東泰 山に入 った。 か くして山東仏 教 の幕 が 開け た と 『高僧 伝』 には記 され てい る。外 来宗教 の伝播 が ほぼ不 可能 と思 われ る儒 教 ・道 教 の聖 地 に仏 教 を広 げた勇気 あ る行 動 は後 世 に敬 われ る ところ となった。
漢 武帝 以後 は,儒 教 が 国家 治世 の原 理 と して圧 倒 的 な勢 力 を もつ よ うにな った。
漢の朝廷 で活 躍 した儒者 の多 くは山東 出身で あ った。東晋 五胡 十六 国の時代 は弦 学 が興 隆 した に もかか わ らず,儒 教 の発祥 地お よび大 本営 であ り,道 教 の 中心 で あ る 山東 で は伝統 宗教 が依然 として支 配的存在 だ った。 と くに泰 山は,孔 子 の生誕地 曲 阜 に近 く,道 教 の もっ と も重 要 な霊 山であ り,黄 河 文明 の シ ンボル で もあ る。泰 山 主峰 の 玉皇 頂 は標 高1,545m,山 麓 地帯 は安 定 した 自然 を もち,大 波 口文 化,竜 山 文化 な どの新 石器 時代遺 跡 も多 く分布 す る。平坦 な華 北平 原 の東 にそび え立 つ ため 古 くか ら注 目され,五 岳 の うち の東 岳 と して岱宗(五 岳の首峰)と も呼 ばれ た。 『詩 経』 悶宮 に 「泰 山巌 巌 魯 邦所 坪(け わしくそびえる泰山は,魯 の国か ら行 くところ)」
とあ る よ うに,多 くの古 典 に も記 され てい る。泰 山は伝 説 の聖 人や孔子,孟 子 も登 り,中 原 諸侯 の会盟 が行 わ れる な ど,黄 河 文 明の象徴 的存在 で あ る。 天子 の行 う最 高の儀 式 と され る封 禅(皇 帝が天 を祭 る)は,泰 山 で行 う もの とされ,秦 の始 皇帝 か らは じまった。以 後,漢 の 武帝,後 漢 の光武帝 ・章 帝,唐 の 高宗 ・玄宗,宋 の真 宗,清 の康煕 帝 な どが これ に倣 った。泰 山の 山上 山下 に堂廟 が建 て られ,露 岩 には 題 字が刻 まれ るな ど,文 人墨客 の訪 れ る名勝 の地 とな ってい った。 これ らの訪問者 の残 した詩詞 の類 も数 え きれ ない。 山下 の天既殿 は宋代 に建 て られ た宮殿 式建 築 で あ り,そ れ よ り山頂 に至 る ま で 紅 門宮,万 仙 楼,壺 天 閣,普 照 寺,中 天 門 な ど は著 名 な道観 で あ る。
山東 に仏教 を広 め るため,僧 朗 は仏 図澄 と同 じよ うに,仏 典漢訳 で は な く,寺 院 を建 て教 団 を形 成 し,そ れ を拠 点 に して活動 す る方法 を とった。僧 朗 は351年 に泰 山西北 の金 輿谷 毘 瑞 山に最 初 の精 舎 を建 て た。 この精 舎 は"朗 公寺"と よば れ た
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劉 継生 山東仏教 の成立 と変容過程
が,階 の時代 に神通 寺 に改名 され た。神 通寺 に は階代 に建 て られ た四 門塔 と唐代 に 開繋 され た千仏 崖,お よび朗 公塔 が あ る。611年 に建 て られ た 四門塔 は 中国で現 存 す る もっ と も古 い塔 の一 つ といわれ てい る。金輿 谷 には虎 が 出没す るため 人 々は1 人で 山 を歩 くこ とが で きなか った。必ず杖 を持 ち,群 集 で歩 か なけれ ば危 険 であ っ た。 しか る に僧朗 が この谷 に住 む よ うに なっ てか ら,虎 は 人 に危 害 を加 えな くな り,夜 も無 事 に通 行 で きる よ うにな った。 その ため百姓 は僧朗 の神 異 とその高徳 を た た え,こ の金輿 谷 を"朗 公谷"と 呼ぶ ようにな った24)。朗公 の神 異 は 『神僧 感通 録』 の な か に次の よ うに記 されて い る。「旧谷 虎 多 し。朗 の之 に居 す る よ り,家 犬 の 如 し」。北 魏 鄙道 元(?〜527,中 国はじめての地理学者)は 『水 経注』 巻八 で 次 の ように記 してい る。 「沙 門竺僧朗 あ り。 少 に して仏 図澄 に仕 え り。碩 学 に して淵 通, 尤 も気緯 に明 らか な り。此 の谷 に隠 る。 因 りて之 を郎 公谷 とい う。」
僧 朗 は 『放 光般若 経』 につ いて も造 詣が 深か った。 これにつ いて は 『高僧伝 』 巻 五 に次の よ うな記述 があ る。 「竺僧 朗 は幼 少 よ り諸方 を遊 歴 したが,の ち には長 安 にお いて放光 般若経 の研 究 と講義 に励 んだ」 と。僧朗 は泰 山 に入 ってか らも講義 を つ づ け た。前 秦 永興 時代(357〜358),隠 士張 忠 は"永 嘉 の乱"を 避 け るた め泰 山 西 北 の 支脈 で あ る霊 巌 山の 主峰 で あ る方 山(別 名,玉 符山,海 抜668m)に 入 り,生 気 を吸 い込 み仙 人 にな るため の修行 に励 んだ。 隠士 張忠 は道術 にす ぐれた道士 で あ
り,彼 の伝 記 は 『晋書』 巻 九十 四 「隠逸伝 」 に記 され てい る。僧朗 は張 忠 と議 論 し た り交流 した りす る仲 間 とな り,彼 の道 場 で しば しば 『放 光 般若 経』 を講義 した。
『神 僧伝』 の記 載 に よる と,朗 公 の説 法 は,毎 回,聞 く者千 人余 。 ある説法 の とき, 精彩 の ところに なる と,周 りの石 も感 動 して うなず いた とい う。朗 公 は,こ の 山に は霊 が あ り,説 法 に感化 され てお り,浬 葉 した らこ こに骨 を埋 め る と決意 した。 そ れ以来,こ の山 は霊巌 と呼 ばれ る ようにな った。僧朗 は霊巌 山 を切 り開 き,霊 巌寺 の建 設 を始 めた。
(2)六 ヵ国の君主 に尊信 され た僧 朗
碩学僧 朗 は,仏 法 に精 通 す るだけで は な く,占 トに も通 じてお り,吉 凶の予 言 に 卓越 した能力 を もって い た。 さ らに,虎 を征 服 して石 を感 化 させ た とい う神異 は, 僧 朗 の名 を広 く伝播 させ,神 聖 と して崇拝 され る よ うに なった。戦 争 に勝 つ ため前 秦皇 帝符 堅(351〜384)は 僧朗 を招 こ う とした。符 堅 は深 い敬 意 をは らった書 簡 を 送 り,僧 朗 を都 に迎 え るため の使 者 と車 を派 遣 した。 その 時の土 産品 は紫金 数斤 の 金 の仏像 お よび あや絹30疋 であ っ た。 これ に対 して僧朗 は,自 分 の体 力 の衰 えを 理 由に符 堅の 要請 を断 った(唐 ・道宣r広 弘明集』)。363年 に符 堅 は仏教 教 団 の粛清 にふみ きったが,僧 朗 の教 団 は戒律 を厳正 に守 ってい るので,そ の粛清 の対象 か ら 外 した の で あ っ た。 こ の事 実 は 『高 僧 伝 』 に記 さ れ て い る 。 僧 朗 は さ ら に北 魏 の初 代 皇帝拓 蹟珪(371〜409)か らも尊信 を受 け た。拓践 珪 も軍事 顧 問 として僧朗 を迎 え よ うと した。胡族 の君 主 たちだ けで な く,東 晋 の孝 武帝 司馬 曜 も僧朗 に書 簡 を送 っ た。 そ のほか,後 燕皇 帝慕 容垂,南 燕 皇帝慕 容徳,後 秦 皇帝銚 興 も竺 僧朗 に書 簡 を送 った。 と くに南 燕皇 帝 の慕容 徳 は使 者 を派 遣 して,僧 朗 に東斉 王 とい う称 号
通信 教 育 部 論 集 第11号(2008年8月)
と,奉 高(い まの泰安)と 山荏(い まの長清)の2県 を下賜 しよ うと した。 そ こで僧 朗 は東斉 王 の号 を辞 退 し,2県 の租税 だけ を受 け た。
多 くの君 主 か らの招 きがあ っ た に もかか わ らず,僧 朗 は85歳 で没す る まで霊 巌 寺 か ら一歩 も外 へ 出 る こ とはな く,ひ たす ら修 禅 と読経 に はげん でい た。僧 朗 は, 朝廷 か らの高 い評価 と財 政支持 を生 か して霊 巌寺 の建設 と山東教 団の拡 大 を大 い に 促 した。霊 巌寺 を初期 には十 区 しか なか った精舎 を数百 区 まで に拡 張 し,多 くの僧 が 同時 に修 行 で きる よ うに なった。
(3)山 東 仏教 に お ける教 団の変 容
北魏 太武 帝 は446年 に寺 院か ら武器 を見つ け 出 した ことを理 由に,中 国 は じめて の 国家 権力 に よる仏教 迫害 を発 動 した。 これ を魏武 の法 難 とい う。多 くの僧 尼 は寺 院 か ら追 い 出 され還 俗 し,大 量 の寺 院 が壊 された。 霊巌 寺 は520年 まで の約70年 間 にわた って荒廃 したが,そ の後 は法定禅 師 の努力 によって再建 された。 そ の後 の 50年 間 は,霊 巌寺 は拡大 をつづ け て全 国的 に有 名 な大 寺 院 に な った。第2回 の周 武の法 難 は574年 と577年 の2回 にわ た り,こ の と きは文 武百 官 を集 めて儒 ・仏 ・ 道の三教 の優 劣 を論 じさせ たの ち,仏 教 のみ な らず 道教 も廃 され た。...巌寺 も2度 壊 され 衰退 した。 しか し周 武帝 が没 した後 法 難が解 除 され,仏 教 は復 興 の道 を再
びた どった。 これ に ともない霊巌 寺 も復 興 して更 なる発 展 を遂 げた。
595年 に階文帝 は岱 岳 を参拝 したの ち,仏 を表敬 す るため霊巌 寺 を訪 れ た。 皇帝 の来訪 は霊 巌 寺 の地 位 と知 名 度 を大 き く高 め た。唐 の 貞観 時代(627〜649),高 僧 慧崇 は霊巌 寺 を再建 す るための新 しい計画 を打 ち出 し,敷 地 をさ らに拡張 し,千 仏 殿 や御 書 閣 な どの建造 をは じめ た。 この大規模 な建 設 に よって霊巌寺 は大 き く発 展 した。 その後 も般 舟殿 や辟支 塔 な どが陸続 と建 立 され た。665年 に唐 高宗 と皇后 武 則 天 は封禅 の ため泰 山 に行 く途 中で霊巌 寺 に10日 間 も滞在 した。皇帝,随 行 官員, 数千 人の兵 隊 を同時 に受 け入 れ て接 待 で きる霊 巌寺 は,そ の地位,規 模,実 力 を世 に示 した。唐 元和 年 間(806〜820),宰 相李 吉甫 は 『十道 図』 を編纂 し,霊 巌寺 を, 漸 江 省 天 台宗 の国清 寺,湖 北 省江 陵 の玉泉 寺,江 蘇 省 南京 の棲 霞寺 と一緒 に"四 絶"と 称 した。 しか しなが ら,唐 武 宗 は会 昌五年(845年)に 第3回 の会 昌 の法難
を発動 した。霊 巌寺 も逃 れ られず6年 間の 荒廃 を経験 し,851年 に,住 持 が朝 廷 に 陳情 して霊巌 寺 の修復 が認 め られ た。
宋 代(960〜1279)に 拡 張 整備 され た霊 巌 寺 は 史上 最 大 規模 に達 した。1008年, 宋 真宗 が 泰 山封 禅 に行 く途 中で霊 巌 寺 を訪 れ た。1066年 か ら彩絵 塑像 羅漢 像 の造 像 が始 まった。殿 閣50余,禅 房500間,僧 侶500人 を擁 した霊 巌寺 は,"四 絶 之 中 処最 先"と 称 され,四 絶 の トップの位 置 を占め る にいた った。元 の初 代皇 帝 フビラ イ は,元 至4年(1267),霊 巌 寺 に副 長 老 と な る 正 広 副 寺 の 編 制,税 金 免 除 な ど の 特別優 遇措 置 をとった。 同年 に正 広長 老 に"普 覚大 禅 師"の 称 号 を授 与 した。 これ らの点 は霊巌 寺 内 の 『元 聖 旨碑 』 に刻 まれ て い る。 また,明 代 皇帝 明英宗 は1455 年 に 『大 蔵経』 を霊巌 寺 に授与 した。清 代乾 隆皇 帝(1736〜1795)は9回 も霊巌 寺 を訪 れ,百 余 の詩 を残 した。
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劉 継生 山東仏教の成立 と変容 過程
(4)山 東 仏教 にお ける教義 の変 容
僧 朗 は泰 山に身 を寄せ なが らも,仏 法 教 義 にお け る外 部 との交流 を図 った。363 年,僧 朗 は 同窓であ る道安 を長安 か ら霊巌寺 に招 き,仏 法教 義 を討 論す る"金 輿谷 の 会"を 開い た。 そ の状 況 は 『高僧 伝 』 巻五 「法和 伝 」 に次 の よ うに記 され て い る。道安 はか つ て弟 子 の法和 とと もに泰 山の金輿 谷 で 法会 を営 んだが,そ の とき, 2人 は 山頂 で遥 か彼 方 を望 み つつ,死 後 の帰 趨 につ い て論 じた。 道 安 は,「 法 師 は 心 を持つ こ と在 る有 れ ば,何 ぞ後 生 を催 れん。若 し慧 心萌 さざ らば,す なわち悲 し むべ し」 と語 った。 つ ま り,修 行 して智慧 が備 われ ば,そ の ま ま解脱 に到達 で きる ので あ り,も う輪廻転 生 す る ことを畏れ る こ とはない,と い う意味 であ る。
僧朗 が かつ て長 安 で 『放 光 般若 経』 を講義 してい た とき学僧 の 中に僧叡 が い た。
僧 叡が さま ざまな意味深 い質 問 を して僧朗 か ら高 い評価 を得 た こ とが 『高僧伝 』 巻 六 に記 されて いる。僧叡 は性 空 につ い て深 く理 解 した のち鳩摩 羅什 の翻訳助 手 にな り,羅 什が訳 出 した 『智 論』 『中論』 『十 二 門論 』 『小 品般若経 』 『大 品般若 経』 な ど に序 を著 した。羅什 門下 四聖の1人 に数 え られ た僧 叡 は霊巌寺 に到 り僧朗 の講 義 を 聴 いた こ ともあ るとい う。 こ うした ことか ら,僧 朗 の 時代 に山東仏教 は般 若経 を中 心 に教 義 を展 開 した こ とが わか る。 その後 も,羅 什 の弟 子 たち との交流 が続 い たた め,山 東仏 教 は天台宗 の教 義 も取 り入 れ,中 国仏教 の主要教 団 の1つ に なって いた
と考 え られ る。
713年 に禅 宗北 宗 開祖神 秀 はそ の弟子 降魔 禅 師 を霊 巌寺 に派 遣 した。 以来,霊 巌 寺 は禅宗 北宗 の北方 にお け る活 動 中心 とな った。禅宗 の教 義 は,仏 法 の真髄 は坐禅 に よって直接 に体得 され る とし,教 外 別伝 ・不 立文 字 ・直 指人心 ・見性 成仏 の4点
を主張す る。 霊巌寺 は,降 魔禅 師が 中心 となる禅宗北 宗 か ら,浄 如 や道詞 が 中心 と な る黄龍 宗,玄 公 が 中心 とな る雲 門宗,広 深 が中心 となる臨済 宗へ と変遷 した。元 代 に入 ったの ち霊 巌寺 は曹洞 宗の 中心地 となった。 したが って713年 か ら現 在 まで の1200年 間,山 東仏教 の教 義 は主 に禅宗 であ った とい える。
7.霊 巌 寺 の 変 遷
霊 巌寺 は 山東 仏教 の 中心 で あ り教 団 の拠 点 であ った25)。僧朗 の時代 か ら現在 にい た るまでの約1700年 にわた って4回 の法 難(三 武一宗)と 多 くの戦 乱 に遭 い,破 壊 され荒廃 した精 華が た くさんあ った に違 い ない。 しか し,霊 巌寺 はすべ ての苦難 を の り越 えて現在 で も生 命力 を保 って い る。 現在 も数十 名 の 出家 僧 が修 行 してお り, 毎 年,仏 教 活動 と法事 に多 くの信 者 が集 って い る。筆 者 は2008年3月 に霊巌 寺 を 再 訪 した。筆 者 が撮 影 した写真(図1〜6)を 用 いて,よ く利 用 され て い る主要 仏 殿 の実 態 に つ い て 考 察 して み る。
(1)世 界 一の彩絵 泥 製羅漢 像
霊巌 寺 の 山 門は金剛殿 とよばれ,元 代 に建 て られ たので あ る。2体 の金 剛 はす で に壊 れ て,現 在 の金 剛 は1985年 に新 た に造 られ た もので あ る。 山門 に入 る とす ぐ