埼玉大学紀要 教育学部,5
6( 2):5 9‑7 2( 2 0 07 )
新概念
日本語教学法 第二部 ( 1)
竹長 吉正*
キ‑ ワー ド :説明文読解、言語発達 、 ピア ジェ、 ヴ イゴツキー、 コ ミュニケー シ ョン、国語 教育
[内容 目次]
今回のテーマ :学習者の発達 を見据えた言語教 育の基礎理論
第
8
講 大学生対象の説明文読解授業第
9
講 日本語 を母語 とする学習者への母語教 育 と外国語教育一差異点 と共通点一第11講 子 どもの言語習得過程一思考の発達 に
第1
2
講 ピアジェとヴイゴツキー第
1 3
講 言語教育の 目標 と方法‑ 「個人の思考」と 「コミュニケーション」一
第
1 4
講 認識の各段階 (感覚及び運動 ・イメー ジ ・概念)に関わる言語第
8
講 大学生対 象の説明文読解 授業説明文を教材 とした授業を大学
2
年生 を対象 に行 った。説明文の授業は日本の国語教育で も なかなか難 しいと教師の間で話題になっている。そ して、授業を受ける子 どもたちの問で も 「つ まらない
」
「面 白 くない」 との反応がある。 な ぜ なのか ?教師は説明文の授業を余 り工夫 しな い。従来か らのマ ンネリズムで行っている。そ れは多 くの場合、次のようなものである。すな わち、教科書の説明文教材 をまず児童 に音読、● 埼玉大学教育学部国語教育講座
或は黙読 させ、その後、意味段落 と称せ られる
「ある程度の まとま り」部分 ごとに区切 って読 解 を進めてい く。その部分 ごとに 「キーワー ド」
や 「キーセ ンテ ンス」 をあげさせ、その部分の 内容を手短にまとめ させてい く。例えば 「小見 出 し」 をつけるとい うふ うにである。 こうして 最後 まで行 く。そ して最後にもう一度全体 を通 して読み、各部分 ごとの 「小見出 し」 をつなげ て文章全体の要約 をする。そういうかたちで説 明文の授業が終了するのである。子 どもたちは、
教師が 「はい、今 日は第
5
の (意味段落の)部 分 を読んでい きましょう。」 と言って も、それ までの部分 を忘れて しまっていて今 日学習する 第5
の部分に限って詳 しく読むことになる。 ま た、教師 も子 どもたちに前に学習 した第3
や第2
の部分を想起 させて学習 させることをせず、さらに、 この先に書いてある第
6
や第9
の部分 を読 ませて今やっている第5
の部分を考えさせ るというような授業展開を取 らない。 したがっ て、教師 も子 どもたちも今 日学習する第5
の部 分に限って読むことになる。 こうして細切れ的 に最後の12
段落まで読解 してい くのだか ら、文 章 というものを大 きく全体 を僻轍 しなが ら読む という習慣がいつ までたって も形成 されないの である。また、 もう一つ今の説明文授業 をつ まらな く しているのは、教師が 「叙述 に即 した読み取 り」
ということを強調 しす ぎて、子 どもたちが 自分
5 9‑
の言葉で考えた り疑問をもった り自分で判断 し た りすることを禁 じているという事態である。
「それはどこに書いてあ りますか ?
」
「それほど の言葉か らわか りますか ?」 というのは読み取りを 「ある根拠」 に基づいて行わせ るという点 で有意義である。 しか し、そのことを余 り厳 し
くしつけると子 どもたちは 「読み取 ったこと」
を自分の言葉で言わな くなる。教科書の教材文
お うむ
に書いてある言葉や表現 をただ紫鵡返 しに言 う だけである。 これでは説明文を子 どもたちが 自 分の頭を通 して読んだ と言うことがで きない。
どんなに稚拙な言い回 しであれ、子 どもたちが 自分の身の丈にあった、 自分な りの言葉 と表現 で、教材文に触発 されたことを語った り香いた
りするということが大事なのである。
以上の考えか ら私 は説明文授業の改革 をめざ して大学生対象 に実験授業 を試みた (注 1)。
以下は、その記録である。
まず、教材文 を始めか ら最後 まで全部を一挙 に提示することをしない。少 しずつ与え彼 らに 先 を予想 させ ることに した。次に、教材文は大 学生用に表記 を改めた。漢字を多 くし、かつ、
読点を少な くした。 こうして彼 ら自身、今の大 学生 としてこれ らの説明文をどう読むかの構 え を作 らせた。取 り上げた教材文は 「タンポポの 知恵」 (小学
2
年国語教材、光村図書)である。[Al]春 になると、 タンポポの黄色 い きれいな花が咲 きます。二、三 日たつ と、その 花 はしぼんで、だんだん男っぽい色 に変わって い きます。そうして、 タンポポの花の軸は、 ぐ った りと地面に倒れて しまいます。けれ ども、
タンポポは枯れて しまったのではあ りません。
これを捷示 して私は 「タンポポは どうしたの で しょうか ?」 と間を発す る。学生たちはタン ポポが どうなったのかを推測 して各 自、 ノー ト に予想を書 く。「枯 れたのではない とい うこと は、いったい、 どうしたのだろう ?」 という読 み手の疑問を大事 に したいのである。予想が書
けた学生 もいれば、書けない学生 もいる。予想 が書けて嬉 しそうに目をきらきら輝かせている 学生 もいれば、 うつむいたまま何 も思いつかず 苦 しげな表情の学生 もいる。また、友だちと予 想 を出 し合 って 「そんなのおか しい よ
。
」 と言 って笑っている学生 もいる。そんなころあいを 見計 らって私は次の部分 を板書す る。[ AZ
] タンポポは花 と軸 を静か に休 ま[=ね
せて、種子にた くさんの栄養を送っているので す。 こうして、 タンポポは種子 をどん どん太 ら せるのです。
私 はこう言 う、「さあ、皆 さん、予想 は当た りましたか ?」意外 に、外れたという学生が多 かった。「何かわけがあると思ったが、種子 を 太 らせ るため花 と軸を休 ませていたのだ とは知 らなかった
。 」
「小学生の説明文 も、意外 に奥が 深い。」などの声が聞かれた。私 は先 を読 ませ る上で、次の ように言 う、
「ところで、 タンポポはなぜ、 こんなことをす るので しょうか ?
」
「種子 を太 らせ るって、ち ょっと変です。」あ る学生が こう発言 した。「どうして ?」 と私。
「だって、 タンポポの種子 ってそんなに太かっ たかなあ。あんまり太いって感 じが しないんで す
。 」
「それ もそ うです ね。」別の学生が発言 し た、「この場合、 タンポポの種子が太 るとい う のはリンゴや柿の実が大 きくなるように目で見 て大 きな形になるということでな く、種子 自体 が十分に成熟す るということだと考えました。」[ B
]やがて、花 はす っか り枯 れて、そ の後 に白い綿毛がで きて きます。この綿毛の一 つ一つは、広がるとち ょうど落下傘のようにな ります。 タンポポは、 この綿毛についている種 子 を、ふわふわと飛ばすのです。この部分については、「落下傘」 とい う言葉 の意味について確認 し、 また、次のような要点
‑ 6 0 ‑
を板書 して確認 した。
花は
( *
「どうなる ?」
) と、( *
「何が ?」
)がで きる。タンポポは
、( *
「何に ?」
) ついている種子を( *
「どうす る?」
)「落下傘」 とい う言葉 は今の子 どもにはわか りに くいのではないか、む しろ、「パ ラシュー ト」 という外来語 (原語はフランス語)のほう が親 しみ深いのではないか、などの意見が出た。
また、平仮名 「らっかさん」 よりも漢字 「落下 傘」のほうが意味を説明 しやすい との意見 も出 た。
[ C]
この頃になる と、それ まで倒れて いた花の軸が、 また起 き上が ります。そうして、背伸 びをするように、 ぐん ぐん伸 びていきます。
なぜ、こんなことをするので しょう。
それは、花の軸を ( イ )する ほうが、 ( ロ )か らです。
[ D] ( *
「どの ような ?」
ハ ) 日に は、綿毛の落下傘は、いっぱいに開いて、遠 く まで飛んでい きます。で も、湿 り気の多い日や、雨降 りの 日には、綿毛の落下傘 は
、( *
「どう なる ?」
ニ )。それは綿毛が湿 って重 くなる と、( *
「どうなる ?」
ホ )か らです。学生たちに空欄のイ〜ホを埋 める言葉を考え て もらった。イの答えは 「高 く」「長 く」。 ロの 答 えは 「綿毛 を広範囲に飛ばせ る」「綿毛 をよ り遠 くまで飛ばせ る」。ハの答 えは 「晴れて、
乾燥 した」。この答えは 「閉 じて しまいます」。 ホの答えは 「種子は飛ばな くなる」。
原文を見せて彼 らが気づいたことの一つは、
ハの部分が 「よく晴れて、風のある日」 となっ ていて、自分たちが 「風のある」 を落 としてい たことである。「綿毛 を遠 くまで飛 ばすには、
「晴れていること」の他 に 「風のあること」 も 必要だと気づいたのである。 「だけ ど、ぼ くた
ちはこの文の筆者が書いていない、乾燥 してい ることという条件 に気づいた
。
」「それは、 どう して思いついたの ?」「この後の文に湿 り気の 多い 日とあるので、湿 り気の多い 日の反対は乾 燥 した 日だと思った。
」「なるほ ど、後の文では 湿 り気の多い 日や、雨降 りの 日と二つの条件 を 出 しているか ら、 この二つのそれぞれの逆を考 えてハの答 えを考えたのですね。
」「そうです。」原文を見て学生たちが気づいたことの第二は、
この部分が 「すぼんで しまいます」 となってい て、彼 らの答え 「閉 じて しまいます」 と違って いたことである。「すぼむって言葉、 よく使い ますか ?
」
「しぼむなら使いますが‑・ ‑ 」
「しぼ む とすぼむは、意味が違 うんだ よ。」ある学生 が電子辞書 を見 て、そう発言 した。「どう違 う の ?」 と私はその学生に聞 く。「しぼむは、植 物などが生気 をな くしてちぢまること。なえ し なびるという意味なんです。それに対 して、す ぼむは、ちいさくちぢむことや、開いているも のが閉 じることを意味 します。
」「それ じゃ、す ぼむは閉 じると大体 同 じとみていいのかな ?」
「いいと思います。」
こうして学生たちは説明文「タンポポの知恵」
を少 しずつ、 自分の頭で考えなが ら、「自分な らこう読む」 という構 えで読んでいった。それ は書いてある言葉や表現 をそのままなぞるよう にして読み進める、いわゆる 「コピー的な読み」
ではな く、今の自分、つ まり、大学生の語嚢 と 思考 とで読み進 める ものである。 この ような
「読み方」「読 ませ方」が小学生や中学生にもで きないものだろうか と考える。そうなれば彼 ら は説明文 をもっと主体的、意欲的に読むのでは ないだろうか。
今回の実験授業では説明文の教材文全体 を傭 轍 しなが ら部分 を読み込んでい くという試みに ついては、時間の制約上、実施で きなかった。
今後の課題 とする。 しか し説明文教材の読解 を、
ただ文中の言葉や表現 をなぞるだけの、いわゆ る 「コピー的な読み」か ら脱出させ るという試 みについては幾 らか具体的なものを示 し得たと
61‑
判断する。
ところで、小学生が学校で説明文の読解 を学 ぶ ということは、それまでの 日常会話な どで使 う言語 とは異 なる言葉の使い方を学ぶことであ る。 日常生活で話 した り聞いた りする言葉 と国 語教科書の説明文の中に出て くる言葉は、 とも に 日本語 という言語であ り、 この二つに本質的 な差異はない。 しか し、その言語の用い られ方 が異 なるのである。つまり、小学生の場合、家 庭であれ学校であれ、親 ・兄弟それに友だちと 話す場合、それほ ど複雑な思考を伴った言語の 用い方 をしない。 しか し、小学校の各教科の学 習において、例 えば国語で説明文の読解法 を学 んだ り、算数で文章題の解 き方を学んだ りす る とき、 日本語の言語は学習思考語として用い ら れているのである。 したがって、子 どもたちが 小学校の各教科の学習を通 して習得 してい くの は 「考える言葉」 としての 日本語である。 ここ に彼 らの乗 り越 えねばならない一つのハー ドル が存在するのである。発達心理学者の岡本夏木 はそれを 「二次的ことば」 と命名 し、彼 らにと ってそれまでの 日常生活語 としての会話言語 を
「一次的ことば」 と呼び、両者 を区別 している (注
2
)。私 もこの岡本の説に倣い、説明文の読 解学習を通 して小学生児童に 「考える言葉」 と しての 日本語能力 を身につけさせたい と願 うの である。注
(1) 2 0 0 6 年 1 0
月〜1
1月、埼玉大学教育学部の 「国 語科指導法A
」の講義の中で行った。(2
)岡本夏木 『ことばと発達』(岩波書店 *新書、1 9 8 5
年1
月*第1 刷)参照。
第
9
講 日本 語 を母 語 とす る学習者 への母 語教 育 と外 国語教育一差異点 と共通点一
母語教育 と外 国語教育 との違いは何であろう か。それを我が国における国語教育 と日本語教
青 との違いとして考えてみ よう。国語教育は日 本語 を母語 として教 えるわけであるか ら、外国 語 として 日本語を教 える日本語教育 と異な り、
日本語及び日本語による言語文化 (日本文学な ど) を 「文化遺産の継承」 という教養的な面か ら教 えることが重視 される。 また、 日本語に関 す る言語能力の習得 を 「人間性の陶冶」 (学習 者個 々の人格形成) と関係付 けて行 うという教 育方法が濃厚である。以上の二点が国語教育 と
日本語教育 との相対的な差異である。 もちろん、
ここで 「相対的な」 と断っているのは、それ ら が絶対的な差異であると断定で きないか らであ る。 日本語教育において も 「文化遺産」の面や
「人格形成」の面 を重視 して もいいわけである し、そうした指導観は大いに歓迎 されるべ きだ と思 う。ただ、国語教育 と日本語教育、 この両 者 を並べて比較 した とき、学習者の一般的なニ ーズ (要求)、 また、それ らの教育に携わって いる教師の一般的な指導観 (指導 目標) を推測 すると、前述の二点が 「相対的な差異」 として 指摘で きると言うのである。それは母語教育で あれば学習者の民族的なもの、文化的なものを より強 く意識せ ざるを得 ない ということであ り、
「言葉 を教 えること」が学習者の 「人 としての 精神的帰属地点」 を自覚 させ るという使命 を担 わされていると教師自身が思い込むことがある し、 また、そのように学習指導要領などで規定 されているか らである。 これに対 して、 日本語 教育の教師は外国語 としての一つの言語を教 え るのだか ら、ある特定の民族的なもの ・文化的 なものをより強 く教 えるということを意識 しな くてすむ。つ ま り、「人 と人 とが考えや感情 を 通 じ合 うための道具」 を教 えるのだと割 り切 る ことがで きるか らである。 さらに、外国語を学 ぶ学習者は、 自分の 「精神 的帰属地点」を自覚 す る上でその外国語 を学ぶ という意識か ら解放 されている。 よって、「言葉 を学ぶ
」
「言葉を教 える」 という点で、混 じり物がな く純粋 に 「言 葉学 び」
「言葉教 え」が行 えるのは 日本語教育 の方であるか もしれない。‑ 6 2 ‑
ところで、その ような差異が存在するにもか かわ らず、国語教育 と日本語教育にはある共通 点 (互いに一致する指導 目標)が存在する。そ れは共に、 日本語 とい う言語の能力を学習者に 身につけさせ ようとしているということである。
「日本語の能力」 とは、 日本語 を充分 に使いこ なす ことがで きる力 (日本語運用能力)のこと である。ここで 「能力」 という言葉を用いたが、
一般的に 「能力」 とは、言語能力以外にも様 々 なものがあ り、言語能力はある個人が もつ様 々 な 「力
」 ( abi l i t y)
の一つである。ある個 人に ある特定の仕事 を与えた とき、それを成 し遂げ ることができるか どうか という点で、その個人 の 「能力」の有無が判定 ・評価 される。そ して、この 「能力」 を自然習得
( nat ur all ear ni ng)
に任せるのでな く、教師が意図的計画的指導に よって育成 し、その指導の結果、学習者にある「能力」が身についた とき、その身についた能 力のことを 「学力」 と呼ぶ。国語教育及び日本 語教育の教師は共に、学習者に 「学力」がつい たか どうかを判定 ・評価する。その前提 として、
教師の意図的計画的な取 り組みが必要であるこ とは言 うまで もない。
第 1 0
講 言語教育 にお ける学力 ー知識 ・認識‑「学力」 という言葉 を出 したので、い ささか、
その 「学力」について考察する。昔は学力 とい うと知識が中心であった。すなわち、知識中心 の学力 を考 えていた。 そ うい う時代 において
「学力低下」が問題 になると、教 師は知識の詰 め込みや、暗記 ・暗諭を強調する.教師はそう やって学習者の知識不足 を解消 しようとする。
こうした展開は一概 に 「悪い」 と否定で きるも ので もないが、 こうした学力観を持つ教師はと か く、学習者を受動的 ・静観的態度にさせて し まう。そうした状態に学習者が満足 していれば よいのだが、学習者が不満を感 じ飽 き足 らぬ も のを感 じているとすれば、教師としては指導観
‑ 6 3
や指導方法 を変える必要がある。特に近年の学 習者、個 としての 自我意識に目覚めた学習者は そうである。
「知識」が、例 えば大学教育が求める 「知識」
の天下 り的な面がなかったであろうか。「知識」
が例 えば、小説家の名前や有名な作品の題名を どれだけ知っているか、あるいは、古文の言葉 をどれだけ覚えているかである場合、 これ らの 知識は本当に必要 なものであろうか (注
1
)。ある人はそんなものは 「趣味」に属することで あ り、「知 っていて さしつかえない というぐら いなもので、べつに試験 に出す ようなものでは ない」 と言 う。 これに対 してある人は、「いや、
これ らの知識は重要であ り、 また、試験 に出す にふ さわ しい ものである」 と言 う。特に後者の 人は 「国語教育の学習指導における評価項 目の 中には明確 な点数をつけに くい ものが多いが、
これ らの知識事項 は明確 な点数をつけ られるか ら重宝なのだ」 と言 う。試験で公平に点がつけ やすいという教師側 ・学校側の言い分か らこれ らの知識事項が重宝が られて きたことは紛れ も ない事実である。 しか し、学力の中で知識事項 を重視するにはもう一つの理由がある。それは 高等教育の頂点に立つ大学が知識事項 を重視す る学力観に立っていたか らである。小 ・中 ・高 の諸学枚 において知識を学力 として重視するの は大学教育の学力観の天下 りだったとも言える。
したがって、本来は小 ・中 ・高に学ぶ学習者の 生活や学びに即 して学力の中身や構造が考えら れるべ きである。
小 ・中 ・高 という、いわゆる高等教育以前の 初等 ・中等教育における学力の中身について勝 田守一は 「認識 という知的能力」 とそれを規定 している (注
2) 。
「事物 ・世界を認識する能力」
を学習者個 々の 「自己の うちに」育てることが 初等 ・中等教育の使命であると考えるのである。
さらに勝田によれば、そうした 「認識能力」は
「手を用いる労働過程」 と 「頭 を用いる知的過 程」 との 「統一」 によって 「発展」する。 した がって、 この二つの過程 を統一的に仕組むこと
が学習成立の条件 となる (注
3
)0勝 田編の 『岩波小辞典 教育』で は 「認識」
を次の ように説明 している (注 4)。
感覚的知覚か ら、記憶 ・想像や思考 にいたる までの意識のはた らきを認識 とい う。子 どもの 認識の発達 は、学習の過程では根本的に重要 な 位置 を しめている。感性 的認識の段 階か ら、理 性的認識の段 階へ進む過程 は、すでに幼児期 に おいてある程度 まで見 られるのであるが、小学 校 の段 階か ら、文字記号の学習 と結合 して組織 的に進め られる。いいかえれば、生活現実 ・行 動の場 における感覚的 ・具象的認識 を、人類 や 国民が到達 した文化的水準 において蓄積 し組織 して来た知識 と結合 し、それによって生産的思 考 を発達 させ ることが、認識の発達の指導の過 程 になる。教授 とはこれを意味す る。認識の結 果が知識であるが、知識 は正 しい認識 と、それ に もとづ く行動の方向づけ という観点か ら、そ の意味 をもつ。 したがって、それに関係づ け ら れない知識は、客観的に正 しい として も、認識 の主体 (子 ども) にとって必ず しも 「生 きた知 識」 にな らない場合 もお こる。詰め こみやそれ に もとづ く知識の暗記が価値がない といわれる のはそのためである。 しか し知識の中には、そ れ を道具の ように使用 して よ り高度の認識作用 を営 ませ るものがある。た とえば文字 について の知識や掛算九九がそ うである。語学が暗記学 習だ といわれるのは、その面 を語っている。 し たが って高度の理性的認識 と現実的生産的思考 とをどの ように統一的に成長 させ るかが、 もっ とも根本的な問題である。 (後略)
文字 を 「道具の ように」使用 して 「よ り高度 の認識作用」 を営 ませ る場合 とい うのは、た と えば母語教育や外 国語教育 において 日本語や英 語の文字 を 「記号
」 ( s i gn)
と して習得 させ る 場合である。「記号」 とは、周知の ように、「意味 される も の
」 ( s i gni f i e.
所記) と 「意味す る もの」 ( s i g‑
ni f i an
t.能記) との関係が窓意的で、かつ、社 会的習慣 (慣行) としての約束事 に従 っている ものである。文字のみな らず道路標識や交通信 号 も、ある意味では 「記号」 とい うことがで き る。 しか し、文字 に比べ て道路標識や交通信号 は 「意味 される もの」 と 「意味する もの」 との 関係が類似の関係 に立っている。それ故、それ らは 「記号」ではな く 「象徴」 ( s ymbo
l) と呼 ぶべ きである。殆ん どの文字 は象徴 ではな く記 号であるがゆえに暗記学習 もある程度やむをえ ないとの判断が可能 となるのである。注
(1)例えば、さいたま文学館 (埼玉県桶川市)が 展示室の 「文学クイズコーナー」で出してい る
間 ( 2 0 0 6
年)に次のものがある。むね
Ql
質素を旨としていた宮沢賢治 (明治29
年〜昭和8
年)が意外にも好んでいたものと いえば何でしょう?①宝石 ②鉄道模型 ③古陶磁器
Q2
幼少の頃か ら怪談を聞かされて育った 小説家、芥川龍之介 (明治25年〜昭和2
年) が特にこだわ りをもっていた妖怪は何でしょ う?か っ ば てん ぐ
①鬼 ②河童 ③ 天狗
Q3
次の空欄にあてはまる言葉は何で しょ う?柿 くへば鐘が鳴るな り [ ]
正 岡 子規 ( 慶応 3
年〜明治35
年)①金閣寺 ②法隆寺 ③ 光堂
これらはいずれも文学に関する知識を問うも のである。
(2
)勝田守一
F能力 と発達 と学習』 (国土社、1 9 8 3
年2
月*第19
版。初版19
64年)
72ページ。(3
)前出 (2
)勝田 『能力 と発達 と学習』72‑7 3
ページ参照。(4
)勝田守一編 『岩波小辞典 教育』 (岩波書店、1 9 5 6
年12
月*第 1版第1 刷 ) 1 5 4
ページ。ー 6 4
‑第
11講 子 どもの言語習得過程一思考の発達 に随伴する言語発達‑
ところで、人間の子 どもははじめか ら言葉 を 記号 として暗記学習によって習得 したのであろ
うか。 この推測 はどうも外れそうである。
人間の子 どもは生後2、 3ケ月にして、泣 き なん 声 とは別の 「さえず り」発声 を行 う
。
「噛語」と呼ばれる発声である。幼子は自分の内部を突 き動か して 「意味のない音声」で快感や不快感 を表 した りする。 また、 自分の周囲において発 せ られる人間の話 し声、動物の鳴 き声、お もち ゃの音 などに耳 を澄 ます。そ して、聞 き取った それ ら様々な音 を自分で発 しようとする。いわ ゆる、模倣行動を起 こすのである。 さらに、幼 子 は自分の体 を動かすことによって思考能力を 身につけてい く。例 えば、 自分の手が届かない 高い ところにあるお もちゃを取ろうとして、そ ばにある棒を用いて取ろうとする。 これは発達 心理学でよく行われる、幼子に対する実験であ る。 こうした実験 ・観察を通 して明 らかになる のは、人間の子 どもは未だ完全な言語による思 考 を行 ってはいないが、 ピアジェのい う 「感 覚 ・運動的思考」 によってある程度の思考能力
を発達 させるということである。
子 どもが抽象的な記号であ り、かつ、社会的 な記号である 「言語」に近づ くには未だ、幾つ かの過程を経なければならない。それはたとえ てみれば、単なる紙一枚が千円 という貨幣 とし ての価値を持つ ということを理解するプロセス である。つまり、言語 というのはそれが意味す るもの と同一でな く、 また、同等価値 を持つ も のでないが、一種の社会的な約束事 として承認
されたものである。言語を認識するということ は、その契約的な約束事を承認 し、それを使 う 集団の中に自ら入ってい くことである。子 ども には当初、 自分がそのような社会の一員である な どという自覚がない。それは当然のことであ り、 また、自然なことである。 しか し、子 ども は徐 々に社会の約束事である言語を覚 え、それ
を用いることによって徐 々に大人社会の仲間入 りをしてい くのである。
さて、子 どもの思考発達において 「感覚 ・運 動的思考」段階の次に来るのは 「象徴」段階で ある。子 どもたちが ままごと遊びをしている様 子 を観察 してみよう。その中で、平べ ったいイ チジクの葉はお皿 と見 なされ、すべすべ した丸 い石 はお団子 と見 なされてい る。 「意味 される もの」がお皿やお団子であ り、「意味するもの」
がイチジクの乗や丸い石である。 これ ら二つの 間には類似の関係が成立 している。
ある二つの事物の間に共通 した類似の要素を 見出すのは、「比倫 をつ くりだす」能力である。
さらに、 この場合、子 どもは 「お皿」や 「お団 子」 という実際に存在 しない ものを心 に呼び起 こす想像的思考活動を行 っている。ある面では 現実の知覚 に依拠 しつつ、 しか もある面では現 実の知覚 にとらわれずイチジクの葉 をお皿 とみ なす という段階が、一歩、「ことば」 という抽 象的記号の理解 に近づいたと言える。 しか し、
社会的慣行 (約束事) としての 「ことば」の理 解には未だ十分 と言えない状態である。そ して、
この時期 には子 ども自身が 「自分だけの言葉」
をつ くるという傾向が見 られる。次の事例 を見 てみよう。
私の長女について、 こういう経験があった。
私のうちは古い家だったので二つの玄関があっ た。一つの方は、子 どもたちの専用になってい
ない
て、「内玄関」 とよんでいた。 もう一つの方は、
とくべつに名称はな くて単に 「玄関」 とよんで いた。 四才 くらいの長女 は、あ る 日しきりに
「ある玄関」 とい う名称 をつかって しゃべ るの だが、だれ も理解で きなかった。 よく考えてみ ると 「ない玄関」 に対 してまさにもう一つの方 は、「ある玄関」でなければならなかった。「な い」 (内)はかの女 にとって、「ある」 (有) に 対する 「ない」 (無)であった (注
1 ) 。
この事例の場合、子 どもはこの家の大人たち
‑ 6 5 ‑
の 「ことば」の慣行 にどうして も入っていけな かったのである。そこでこの子 どもは自分 な り に思考 し判断 して、「ある玄関」 という 「こと ば」 を勝手に作 り上げたのである。そ してそれ は、説明にもあるとお り、「ない」 (蘇) に対す る 「ある」 (有) という、その子 どもな りに筋 の とおったものだった。つ ま り、その子 どもな りの論理の必然性 を備えているものだった。 し か し、それは 「ない」は 「無」でな く 「内」 を 音読み したものであるとい う知識が欠如 してい て、 この家の大人たちの 「ことば」の慣行にそ む くものであった。社会的な記号である 「こと ば」 を子 どもが習得するとき、 このようなこと が しば しば起 こり得 る。歌曲 「荒城の月」の一 節 「春高楼 の花の宴 め ぐる盃 かげさ して」
を 「春高楼の花の宴 盟星盃 かげさして」 と 歌ってす ましている子 どもも同 じである。
「ことばを覚 える」 とはまさに、社会的な記 号を自分の方に引 き寄せ、それを自分の所有に することである。そのとき、子 どもは驚 きの 目 を持って、文字通 り、「ことば」 を 「発見する」
のだが、その発見の仕方は自分の経験や知覚 と
「ことば」 とを結び付けて行 うとい うものであ る。 この ように見て くると、「ことば」 は子 ど もにおいて、ただ闇雲な暗記などによって習得 されてい くのではな くて、子 ども自らの行動的 な生活経験や 「出会い」によって発見されてゆ
くものなのである。
子 どもは象徴化の思考や、実際に目の前 にな いものを心に思い浮かべ る想像的思考が可能に なったとき、社会的記号 としての 「ことば」の 存在に気づ き、それ らを自己の経験や知覚 と結 びつけ自分の所有物
(
「道具 としてのモノ」) に す るのである。こうして子 どもの頭にた くさんの 「ことば」
が貯蔵 され、それ らは層化 され体系化 されてい く。あたか も一冊の辞書が頭の中に出来上がる のである。 こうなると子 どもは、一つ一つの
「ことば」 を初めか ら社会的な記号 として形式 的に取 り扱 うことがで きる。 こうして子 どもは
‑ 6 6
発達の第三段階、 「形式的 ・抽象的操作」の段 階に入るのである。
この ように見て くると人間の子 どもは、「感 覚 ・運動的思考」‑ 「象徴化思考、想像的思考」
‑ 「形式的 ・抽象的操作の思考」 という三段階 を経て思考を発達 させてい くと言える。そ して、
「ことば」の習得過程 はおおむね、 こうした思 考の発達に随伴 している。特 に 「象徴化思考」
以後の思考が発達 してい くのに随伴 して 「こと ば」の習得が加速化す ると言える。
注
(1)勝田守一 『能力 と発達 と学習』 (国土社、
1 9 8 3
年2
月)1 1 8
ページ。第
1 2 講
ピアジェとヴイゴツキー人間の子 どもにおける 「ことば」の習得 ・発 達に関 して、 よく知 られた意見の対立がある。
ピアジェ
( J e anPi a j et 、1 8 9 6 ‑ 1 9 8 0 )
とヴイゴ ツキー( Le vVygot s ki i 、1 8 9 6 ‑ 1 9 3 4 )
の対立で ある (注 1)。ピアジェに よれば、子 どもの 「ことば」 は
「自己中心 的 (ェ ゴ ・サ ン トリック) な言語」
か ら 「社会的 (ソシアール) な言語」‑ と発 達 ・移行するとい う。 ピアジェは次のような観 察を行った
。 3‑ 4
歳の子 どもが2 、 3
人で一 緒に遊んでいる。そ して、お互いに何か話 し合 っている。 この会話 を記録 して後で分析 した。すると、彼 らの間で 「かみ合 う」話 し合いがほ とんど行われていなかった。彼 らは何か しゃべ っていたけれ ど、ほとん ど自分勝手に言い合 っ ていたのである。 こうした観察 と分析 を何度か 繰 り返 してピアジェは次のような考えに到達 し た。すなわち、そ うした自分勝手な話 し合いと いうのは、 こうした年齢の子 どもたちに共通 し た特徴であ り、 しか もそれはその年齢の子 ども たちの 「心の働 き」 (心理)の反映であろう。
つまり、 自己中心的である彼 らの心理が このよ うな言語行動をとらせたとピアジェは考えたの
である。それが
7‑ 8
歳 になると 「脱中心化」し他者の立場に立って考えた り他者 と共同で作 業 した りすることが可能になる。そ して、子 ど
もの言語活動 も 「社会的なもの」へ と変化する。
こうした変化が何 によって もたらされるのかに ついて ピアジェは、周囲の大人や年長の子 ども による影響 と述べている。すなわち、子 どもが 周囲の教育的環境 によって影響を受け、 しだい に 「社会化する」のだというのである。
この ようなピアジェの考えは大変強い説得力 を持つ。それは未熟な人間が狭い自己か ら広い 社会 に向けて出て行 くという、「人間の社会化」
とい う像 を 「理想像」 (モデル) とす る もので ある。そ して、その場合、言語の役割は個人が 他者 と通 じ合 う手段 (道具)である。他者 との コミュニケーシ ョンを考えたとき、 ピアジェの 考えは強い支えとなる。
しか し、ピアジェの考えは次のような疑問を 招 く
。 第 1
に、子 どもの自己中心的な言語活動 は無価値 ・無意味なものと言い切れるか どうか。第
2
に、子 どもの 自己中心的な言語活動は次に 現れる社会的な言語活動によって消滅 して しま うものなのか どうか。 これはピアジェ説の盲点 である。ピアジェ説それ自体が持つ盲点 という よりも、 ピアジェ説を理解する上での盲点であ る。ピアジェの説において、子 どもが 「自分だけ で話す」 ということを 「自己中心性」 というこ とばであらわ したことは、少なか らぬ誤解 を生 む。それは子 どもが社会 とまった く関係 を持た ない 「個人主義者」であるかのような印象 を与 える。個人主義者である子 どもが、大人や年長 の子 どもを見習って 「社会的関係」 を学 び、そ して言語活動を社会化 してい く。そのように理 解 されやすい。はた して、 ピアジェはそう考え たのであろうか ?
ピアジェは子 どもは
3‑4
歳の段階では自己 と他者が未分化 なのだ という。 したがって、そ の段階の子 どもは他者 を無祝 して自分勝手に話 しているのではな く、「自分に沿って」 (自分に寄 り添いなが ら)話 しているのである。それが
7‑8
歳になると自己と他者 とが分化 し、 自己 の観点のほかに他者の観点 を思考活動に反映さ せ ようとす るようになる。 これを ピアジェは「脱中心化」 と呼ぶ。すなわち、「脱中心化」 と は自己のことしか眼中にない個人が社会化 され るという意味ではな く、主客 (主 ‑自己、客 ‑ 他者)未分の融合状態が分化 しもう一つ別の観 点か らものを見た り考えた りするという相対的 認識の芽生えの意味だったのである。
このようなピアジェ理解 を前提 として子 ども の 「自己中心的な言語活動」の価値 を再発見す ることを提唱 したのがヴイゴツキーである。彼 は幼い子 どもの 「自己中心的な言語活動」が後 には大人の 「内言」 に発達す るものであると考 えた。つ まり、子 どもの自己中心的な言語活動 はそれな りに意義のある ものであ り、それは
「内言」発達途上の一形態であると位置づけた のである。
ヴイゴツキーによれば、人間の子 どもの最初 の 「ことば」は社会的な言語であるという。そ れは周 りにいる母親 と何 らかの意思疎通 を求め ているか らである。それが
3‑ 5
歳 になると「社会的な言語」 (他者に働 きかける、 コミュニ ケーション的な言語) と 「自己に働 きかける言 語」 とに分化する。つ まり、 この段階の子 ども はそれまで持 っていた 「周囲に働 きかけること ば」のほかに、「自分 自身に働 きかけることば」
を持つ ようになるのである。「自分 自身に働 き かけることば」 とは、 自分 自身 と議論 した りし て自分の思考を働かせる言葉であ り、それはい わゆる 「自分の心内の思考 ことば」である。 3
‑ 5
歳の子 どもは 「自己心内のことば」 を外に 出 して操 る。つ まり、声 に出 してぶつぶつ言 う のである。それが7‑8
歳 になると、声 に出 し てぶつぶつ言 うことをしな くなる。その とき、そばにいた実験者が子 どもに向かって 「今、何 を考えていましたか ?」 と尋ねると、「今、 こ んなことを考えていた」 と答 える。つ まり
、 7
‑8
歳の子 どもはぶつぶつ声 に出 して言わな く‑ 6 7‑
で も 「内言」でそれが可能 になる。 こう した観 察 ・実験 を繰 り返 した結果、 ヴイゴツキーは子 どもの ことば は、 「社 会 的 な言語」‑ 「自己 に 働 きか け る言語 (外 言
)
」‑ 「自己に働 きか け る言語 (内言)
」 とい う順序 で発達す る と結 論 付 けた。ピアジェとヴイゴツキー とで は、 「社会 的 な 言語」及 び 「自己中心 的な言語 (自己に働 きか け る言語)」 に関 して、 それぞ れ意 味概念 や価 値 の比重 のかけ方 に違 いが ある。子 どもの言語 習得 に関す る両者の発達仮説 はそれぞれ教育観 の違 い を反映 してい る と判断す ることがで きる。
ピア ジェにあって は子 どもを 「社会化す る」
ことが究極のね らいであ り、 ヴイゴツキーにあ っては子 どもを 「自立 した個人 にす る」 ことが 究極 のね らいである。前者 においては子 どもが 社 会的記号である 「ことば」 を習得 し、他者 と 円滑 な コミュニケー シ ョン活動 を行 ってい くこ とが理想 である。それ に対 して後者 においては 子 どもが 「内言」 を形成 し外界 を正確 に把握 ・ 認識す るのみ な らず、 自己の思想 ・意見 を論理 的に表現す ることが理想 であ る。教育観 として
「コ ミュニケー シ ョン」 に重点 を置 くのが前者 であ り、片や 「自己表現」 に重点 を置 くのが後 者であ る。 また、言語観 と しては コミュニケー シ ョンの道具 としての 「ことば」の機 能 に注 目 す るのが前者であ り、個 人の思考 を深 め る道具 としての 「ことば」 の機能 に注 目す るのが後者 である (注
2
)。注
(1)ピアジェの著作については滝沢武久訳による
『思考の心理学』 (みすず書房、1
968
年)、波 多野完治 『ピアジェ一人 と思想‑
』 (小学館*波多野完治全集第4巻、1
99 0
年9
月)があ る。 また、ヴイゴツキーの著作 については柴 田義松訳による 『子 どもの知的発達 と教授』
(明治図書、1
962
年)同訳による 『思考 と言 語』上 ・下 (明治図書、19 6 8
年)がある。本 稿での記述は主にこれ らの著作か ら恩恵 を受 けている。(2
)本稿ではピアジェとヴイゴツキーとの対立を「コミュニケーシ ョン」 と 「個人の思考を深 め表現する」 としたが、他に次のような対立 として捉えることも可能である。すなわち、
ピアジェは子 どもの心理発達 と言語習得 ・言 語使用 との対応 を明 らかにし、子 どもがこの 年齢ではこのような言語使用が可能であると いうことを一般的傾向として段階的に示 した。
これに対 してヴイゴツキーは子 どもの精神機 能の発達 (言語習得 ・言語使用)が心理学的 な、かつ、一般的なものでな く、子 どもが関 わる大人や環境 に左右 されるという社会的な ものであ り、かつ、それはケース ・バイ ・ケ ースである
( C as ebyc a s e
、子 どもそれぞれ によって異なる個別的なものである) と主張 した。つ ま り、 ピアジェの考えに即せ ば、「これがで きるようになった ら次はこれをや らせる」 という系統的指導の立案が可能 とな るが、ヴイゴツキーの考えに即す と、子 ども が どの ような大人 (教師や親)の質や環境 (学校や教室や家庭)の質の刺激 を受けるか によって言語能力の発達が異なるというふう になる。子 どもたちをマス
( ma s s
、集団) と して見るのであればピアジェ理論は有効だが、子 ども一人ひとりを見据えて支援的な指導を 行おうとするとヴイゴツキー理論に依拠せざ るを得ない。なお、この点の具体については 佐渡島紗織 「一人一人に確かな 「書 く力」 を 身につけさせ る」 (光村図書 『小学校 国語教 育相談室』第1
05
号、20 0 5
年10月)が詳 しい。第 1 3
講 言 語 教 育 の 目標 と方 法 ‑ 「個 人 の 思考 」と 「コ ミュニ ケ ー シ ョン」一以上見て きた ことか ら考 える と、言語教育 を 行 う上で次の ことが重要である と判断す ること がで きる。す なわ ち、 「ことば」 の教 育 を行 う には人間におけ る 「思考の発達」 とい う観点が 不可欠であるとい うことである。
また、 ピアジェ とヴ イゴツキー との対立か ら 言語教育 には二つの面か らの 目標が考 え られる とい うことであ る。す なわ ち、 「コ ミュニケ‑
ー 6 8‑
■
シ ョン」 を目標 にする面 と 「個人の思考を深め 表現す る」 を 目標 にする面である (注 1)。 こ の二つの 目標 は一元化することがで きるとある 人は言 うか もしれない。すなわち、望 ましいコ ミュニケーシ ョンを行おうとすれば必然的に当 事者である個人が よく思考 しよく表現 しなけれ ばな らない。 また、個人が思考を深め表現 しよ うとするのは 「自分だけ」 という閉 じられた活 動でな く、その先には相手を意識 したコミュニ ケー ションが想定 されている。個人の思考を前 提 としないコミュニケーションは考え られない し、 また、 コミュニケーションを前提 としない 個人の思考は考えられない。 この ような判断に 立 って、ある人は 「コミュニケーション‑個人 の思考」 という一元論を主張す る。 しか し、は た して、その主張は説得力を持つだろうか ?そ れはあ くまで も言語教育の方法に関する主張で あ り、言語教育の内容 としてこの二つの面が存 在す ることを否定 した り無視 した りすることは で きない。
「ことば」の教育がそこに現前 している姿 と しては、学習者が自分の意識 を内側 に向けてい る もの と、他方、それを外側に向けているもの とがある。つ まり、学習者の言語活動の実際の 姿 としては 「個人の思考を深めてい くもの」 と
「他者 とのかかわ りを深めてい くもの」 との二 つが存在す るのである。 しか し、「ことば」の 教育 を指導する方法 としてはこの二つを別々に 行 うことな く両者を結合 させて行 うことが可能 である。ある人が 「個人の思考 ‑コミュニケー シ ョン」 とする一元論を主張するのは、このよ うな指導方法における可能性の言明である。
注
(1)学習者に言語表現を行なわせるとき、相手意 識 ・員的意識などを持たせることを強く主張 するのはコミュニケーションを重視する立場 である。これに対 して、「自分の言葉で表現 せよ」などと学習者に表現者としての主体性 や個性を強く求めるのは学習者自身の個人思 考を重視する立場である。
第
1 4
講 認識 の各 段 階 (感 覚 及 び 運 動 ・イ メージ ・概 念 ) に関 わ る言語「ことば」の能力が深 く関与 しているとされ る 「認識」の内実について、いま少 し考察 して み よう。
人間が外界の物事 を認識す るにはさまざまな 段階がある。第一に感覚器官 (日や耳などの五 官)や運動器官 (手や足) を通 して物の形 ・ 色 ・音 ・手触 りなどを知覚す る。第二に、ある 種の記号 (表象、イメージ) を用いて認識する 段階がある。た とえば、ある三毛猫 をその特殊 性 ・個別性 に即 して認識す る場合である。 この 猫は眉間の ところに三 日月形の模様がついてい たと認識するような場合である。第三の段階は、
概念的認識の段階である。 この段階では物事の 特殊性 ・個別性 を捨象 し、本質的な共通性に着 日する。自 ・黒 ・褐色など三色の毛色 を持って いる猫がいれば、 どれ もみな 「三毛猫」である と認識する、そのような認識のあ り方である。
「ことば」は記号であるが、それは単 なる記号 ではな く社会的に認知 された記号である。そ し て、「ことば」 はそれを用いる当事者の間に概 念 的認識 を もた らす。概念 的認識 を もた らす
「ことば」がいかに重要であるかは次の実験か ら明 らかである。
ある学者は次のような実験 をや ってみた。 ま ずチ ンパ ンジーをつかって、複雑 な装置で行動 させてみる。その装置は機械仕掛 けの箱である。
この箱 には二つの窓があ り、その窓には各々赤 か緑の板が不規則な順で出るようになっている。
ちょうど赤い板が出た窓の上にあるボタンを押 す とこの色板が消えて、一定の時間ののちに餌 が出て くる仕掛けになっている。 ところが、緑 の板が出ている方の窓の上のボ タンを押せば、
その板は消えるけれ ども、餌 はいつ までたって も出てこないようにで きている。 しか も、前に いったように赤 と緑の色板 は不規則に変わるの だ。