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6. 臨床キャンパスの惨劇 - 1

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This document is downloaded at: 2016-09-30T22:33:38Z Title 6. 臨床キャンパスの惨劇 - 1 Author(s) 小路, 敏彦 Citation 長崎医科大学潰滅の日 救いがたい選択"原爆投下", pp.60-78 Issue Date 1995-11-15 URL http://hdl.handle.net/10069/23312 Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

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臨床キャンパスの惨劇

附属病院は基礎棟の建つ正から谷一つ越えた南側の小丘に建っていた。鉄筋コンクリート三階建て の各診療科が南向きに東西に並列し、各棟は中廊下で結ぼれていた(六三ページ図参照 ) 0 爆心は北西にあたる上空だったので 、北側の部 屋にいた者は爆風 、 熱 線 、 一次放射線を まともに受 け、南側の者に比べ格段に死者は多かった 。 木造のような全面的倒壊はなかったが、精神科別館、看 護婦寄宿舎は木造二階建てのため全壊した。 八月一日の空襲以後、多くの入院患者は退院させ、外来患者も制限していたので、患者の死傷者は 予想外に少なかったと思われるが、それでも重症入院患者、緊急に外来を訪 れた患者の中から相当数 の犠牲者が出たことは疑いない 。 一 説には約二百名といわれているが、 一 切の記録文書が焼失してい るためその実数が把握できないのは遺憾の極みである 。 学 部 二 一 、 四 年 生 は空襲警報解除後、角尾晋学長の内科臨床講義を受けた 。十時二十分に講義 は 終 り 、 グループごとに、三年生は臨床実習へ、四年生は卒業試験期間中であったので各科の予定にしたがっ 一 方防空当番の学生は所定の監視所で授業、試験ぬきで上空をにらみ、あるいは指 て散って行った。

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揮所で待機していた 。 外来予診室に散る 外来本館の古屋野外科外来予診室では片山道生君ほか五名の学部三年生が患者の予診をとっていた。 運命の瞬間、閃光、爆風、熱風のため室内の備品はすべて打ち倒され、狂奔しつつ人々を打った。塵 挨、爆風の運ぶ土砂などで室内は暗黒と化し視覚は奪われた。無限とも思われる自失の時聞が過、ぎて 、 ぼんやりと周囲が認識されだした時、学友たちの眼に映ったのは、机の破片で強打されたのか腹が裂 け腸が露出し鮮血にまみれている片山君の姿だった。同君は重傷に屈せず﹁眼をやられた L と叫びつ つ、窓に近寄り室外へ跳んだ 。 しかし窓の外階段の踊り場への着地に失敗し、地下薬品庫に通じるコ ンクリート床に激突死亡 。 二十歳であった 。 視力も奪われていたのが致命的だった。クラスの信望を 61 一 身に集めた秀才であり、五高ホッケ ー部の 名ゴールキ ーパーで鳴らしたスポーツマンでもあり、体 力に自信があったので跳躍にも跨跨しなかったのであろう。 外来処置室では宮本精 一 君ほか五名の四年生が卒業試験にそなえて待機 していた 。空襲警報解除中 なのに飛行機のキ l ンという高い金属音につ ε ついて爆弾の風を切る落下音が聞こえたので ﹁ そ れ っ 伏 せろ L と皆が動き出したとたんに眼の底を焼きえぐるような閃光、鼓膜をつんざく爆音 、と同時に全 身が強打され意識を失った 。 宮本君は外傷や火傷は軽くてすんだが、急性放射線障害が強く、食欲も なく食べてもすぐ阻吐した 。 香川県の郷里に向かう汽車の中では、何を食べても吐き、水も飲めない

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│附属病院および東側丘陵の見取図│

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¥ ¥ J

@ ¥ 調教授待機地点 一 一 ¥ ¥ ¥ 放 射 線 科 急設バラック @ 学長野宿地点

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小 児 科 眼 科 外 科 内 科

~一

63

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程であった 。 十二日朝、自宅に帰りついた時は衰弱がひどく家人を驚かせた。同月二十三日夜、家族 を 呼 び 、 一富士に桜紅葉 と散らんかな 人生の目的は真理への道の美的探求にあり の辞世を残し翌二十四日死亡 。 哲学者、詩人の一面の濃い二十四歳の一期であった。

遺族の手記の中から

-片 山 道 生 品ム.. 千 部 年 生 父 片 山 愛 而 ︿おもいで﹀ あれから二十五年の星霜は夢の聞に過、ぎ去りましたが、その間の世の変遷は、まことに想像もつかぬも のばかりで、ことに科学の進歩に乗じて、原子の跳梁は驚異の外ありません。 神のお指図で、人間は或る感情にぶつつかっても、時日を経過するにつれて、忘れる運びとなりますこ とは、人生を送るに於て、実に最上の至楽と思われます。 長男大一は御国に差上げた軍医としての戦死で 、その意味で、ある程度致し方のないことというような 感情のゆとりがありますが、それに反して、常に脳裡を去らず 、原爆の原の字を聞いても、想いはいつも 道生の事が生き返って、片時も忘るる事なく、綿々として絶える時がありません。(中略)

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兄妹が集えば誰いうとなく、原爆の話は次から次へと纏々として尽くることなく時を移します 。 ことに 道生は何事も整然とした性格の持主で、赤ん坊の時より大学迄の写真を、順序正しく、かつ一々註を入れ たアルバムもあり、これを見る度に、想いは新しくなります。 また、日誌の外にメモもありまして、幾度となく繰返し読むことによって、本人と対話する感じが致し ます 。 その一節を左に記します 。 久住を憶う俳句と短歌 草光る嶺には遠き牛牧場 枯すすき久住は空の彼方にて 月明下大船淡く黙したり 月岐に瀬音は高し坊ケつる 香もえず久住は悲し遭難碑 かげろ 秋粛々高原空は緊いて 今宵又月はすすきの原を照り 大船も見よ三俣もひれ伏しよ ー 布 望 こ わ く ﹁希望は人を生へ導き入れる 。 それは少年の頭を離れず、量惑の光は青年を誘い、老年に到るも希望は 葬られない 。 疲れたる歩みを墓に息めても、墓に於て人はなお希望を樹てるのである。

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6う

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亡びしものは美しきかな

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瀬 音 は 高 し 五 口 が 胸 を 打 つ いま高原に月は出たり

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メ 布 望 メ 布 望 美しい言葉、尊い言葉 。 ﹂

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. 宮 本

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せ い 生あらば希望はいつか成るものを 九十翁 ( 昭 和 白 年 3 月)︿﹃忘れな草﹄第 三 号より﹀ ﹁ メモ﹂のみ残る事のかなしさ 精 ,>.u,

+

部 四 年 生 弟 ︿ 亡き兄の日記より(抜辛)﹀ 日 本 人 日本人という感情が我々をおおい そのいだいている美しきものに向 っ て 我々の全いのちを爆砕せしめる 我は国家という理論も 軍隊というでたらめも 決してごまかさないでみつめる 我は強大さをみとめず 人間の最後まで死守すべきは 美にあらずして理にあり 否大いなる美を含む大いなる真にあり 悲壮さを知る あ る 日 友すでに剣を把りて立ち 片山愛而しるす 宮 本 文 助

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真友植岡氏遂に召されたり 戦雲は国をおおい 腫風は巷にみちたり 営みはすべて人を殺毅すべく努められ すべての魂は国という機構のもとに消え行く 若 き い の ち を 惜 し ま ず 若 き と き を 惜 し む の み 殺風将に鬼神によって凄く 阿鼻誰か眼をおおわざらむ かくてこそ 終んぬるか おお 人生の謂 67 ( 昭 和 初 年 3 月)︿﹃忘れな草﹄第三号より﹀ 外来診察室では古屋野教授の診察が始まっていた。悪魔が通り過ぎた荒廃の室内で教授は前頭部と 肘関節部に負傷したが幸いにも軽傷ですみ、額に白いハンカチで鉢巻をしめて血止めをすると、瓦礁 を分けて外に抜け出し、以後、調教授とともに救護活動の指揮に全力をあげた。自宅で被爆した夫人 は重傷を負い死亡した。古屋野教授の診察室は一階で爆心に向かって一室と廊下があり、窓は南向き だったので一次放射線をコンクリートの壁三つで防いだことになり幸いだった。これに反して病棟、 医局は落下地点に向いていたため被害は大きかった。

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目前、後輩にあてて手紙を出し、 古屋野教授の診察 石崎戊助教授(長崎医大卒)は、附属医専二年生に外科学 を講義した後自室に帰っていた。助教授室でちょうど北面の 窓に面してレントゲンフィルムを見ていたため、顔面、両腕 に大火傷を負い、這って室外、そして院外へ逃れた。顔面皮 ふは破れて腫脹が著しいため、助けを呼びかけられでも誰も 同助教授と分からなかったという。痛みは激しいが薬品はア ルコール、ヨードチンキ程度しかない 。 十二日、学内の救護 所で絶命 。夫 人と一児も自宅で被爆死亡し一家は全滅した。 大和田野浩一講師は外来診療中に被爆し、負傷の身を金比 羅山近くの草原上に横たえていた。救護所へ担架で運ぶため 学生が迎えに来ても﹁いや、僕は医者、だから何とか自分です る。ほかの人を助けてやってくれ﹂と承知しなかった。三日 後、徒歩、そして汽車で県北部の自宅に帰りついたが、口内 炎、歯ぐき出血、下血、高熱が続き、九月六日死亡。死の数 その中に﹁あと数日の生命と観念しましたが、やはり気持よくない ですぞ

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と書いた 。 古屋野外科は、このほか十一名の職員を失ったが、うち六名は看護婦であった。

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松岡トシエ主任は落下した梁の下敷きとなって看護室入口で死亡した。 菅ハルヨ主任は顔面、上牌、背中とほぼ全身に重傷を受けており、他の二人の重傷看護婦とともに 郊外の岩永光陸医師の自宅へ運び治療したが相ついで死亡した。 武藤ミサエ看護婦は妹のサトエ看護婦養成所生徒と互いの傷を労りながら雲仙山麓の自宅に辿りつ い た が 、 一 ヵ月以内に相前後して急性原爆症により死亡した。姉ミサエは二十歳、妹サトエは十六歳 であった 。 窓ぎわにいたため、無数のガラス片が頭に刺さったサトエの血糊で固まった頭髪を何度も 何度も洗って手当してやった母の号泣は止むことなく続いた。 一方、古屋野外科外来では附属医専三年生の繰り上げ卒業試験のス ケジュールも進行していた。患者の予診を取っている時間帯に原爆が 昨裂し、深山隆君は頭部に負傷した。負傷のひどい学友の看護に十一 日まで元気に働き、薬品を探しに山を上り下りしては皆に感謝されて いた。その後郷里に帰ったが、原爆症により死亡した。 69 血染の遺書 調外科は入院患者十数名を収容していたが、重症患者は地下倉庫を 即席の病室に変えて収容されていた。被爆時、調教授は附属医専三年 生の講義を終え、教授室で論文に手を加えていた。閃光が眼に入ると

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すぐに伏せたが、激震、大爆音とともに体中に物が落ちてきた。幸い軽い物が多く、やがて夜明け前 のような暗がりの中を手さぐりで倒れた物をかき分け室外へ出た。その後、即製救護班の陣頭指揮を とることになる。 木戸利一助教授(長崎医大卒)は、学生数名、看護婦を連れて地下室の病室で包帯交換中であった。 附属医専三年生の松永信之君は閃光と爆発はおぼろげに覚えているが後は空白である。材木の下敷 きになった松永君を友人が助け出し病院上の芋畑に運んだが、背中のガラス破片傷が深く出血もひど いのでそれ以上の移動は無理だった 。 松永君が夜中に意識を回復し、夜が明けてみると学友芳賀久君 が上半身火傷で隣りに横たわっていた 。 二人は最後の勇気を振りしぼって歩き出し、焦土の町を線路 にたどりつき辛うじて貨物列車で長崎を離れ故郷を目指した。凝血と挨にまみれ、杖をついて放心し た松永君は家族の者も識別できないほどだった 。 九月まで四

O

度の高熱、口内炎で苦しんだが奇跡的 に回復した 。 小倉市の自宅に帰り着いた芳賀君は十五日死亡し、二人は明暗を分けた 。 木 戸 助教授たちの後を追って地下室へ行きかけた学部四年生の久野文次郎君は、その日午後の手術 予定患者の採血検査を思い出し普通病室へ行った 。 そこで患者の耳采から血液を採取し、ベッド脇で 白血球検査のため血液と試験液を混和していた 。 突然、病室の内外がまばゆく輝いた後、百雷が一時 に迫る轟音とともに 全 身が何かになぐりつけられたような感覚の後、記憶は途切れた。 ふと気がつくと天井は落ち、窓ガラスは散乱し、部屋は見るかげもない 。 左手をみると手背がくだ けで骨が露出し、二本の指がぶら下が っ ている 。 傷口からは止めどもなく出血している 。 後頭部から

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の出血もひどい 。患者 はどこに飛ばされたのか影も形もない 。 もはやこれまでと右の人差指に流れる 血をひたし、正座して遺書を書き出したが出血のため気が遠くなった。 そのうちに隣りの病棟が燃えだし、黒こげで死にたくないと思い、右手で左手首を押さえ何とか建 物の外へ出た 。 附属病院の建物を連結していた廊下はすべて木造だったので跡形もなく吹き飛ばされていた。歩い ていると尾立源和君に会った 。今 夜も生きていたら少し遺書の続きを書きたいと思い﹁万年筆を持っ ていないか﹂と聞くと、﹁持っている﹂という 。 ﹁じゃ、借りるよ﹂といって万年筆を受け取った。 たくさんの人が山へ山へと火を避けて登っていた 。 山道を登って避難所へ向かう途中ふり返ると、 浦上の家々がほとんど火を発していて熱気が伝わってきた 。 時刻はすでに夕刻である 。 久野君は穴弘法の方へ段々畑の中を歩き続けた 。 さつま芋ゃなす畑はみな吹きちぎられ焼けただれ ている 。 横穴壕をみつけて入り横になった 。 出血のためかただ無性に水が欲しい。﹁水、水﹂と叫ん 71 でいた 。 ﹁はい、水 L 女の人の 声である。むしゃぶりついて飲む。どんな女の人か暗くて分からないが 、 神 様のように思えた 。 、 だんだん出血が少なくなり長い長い 一 夜が明けた 。 もちろん一睡もしていなかっ た 。 とぼとぼと附属病院の方へ歩き出す 。 この目、調教授、木戸助教授から応急の外科的処置を︾つけ た 。 その後、故郷の病院で左手 三 指を切断する手術をうけ、久野君は奇跡的に 一 命を取りとめた。戦 後、小児科助教授、福岡県下の病院長などを勤めたが、左手に巻いた包帯は外れることがなかった。

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角尾教授(前列左)の病理解剖授業 医学書のぺ l ジにない病気 角尾晋学長は、同時に第一内科教授でもあった。空 襲警報が解除されると、ただちに中講堂で学部学生に 対し臨床講義を行い、十時二十分頃まで続けた。その 後内科病棟に帰り、ちょうど外来診察目だったので診 察室に入った。ここは外来本館三階西端、しかも北側 にあったので原爆の直撃を受ける位置といえた。 前田ハルエ婦長は学長から﹁空襲があったら僕は本 部へ駆けつけなくてはいけないので上衣と帽子をここ に持ってきてくれ﹂といわれ退室した。新患患者を診 るため北側の窓を背にした位置に学長はすわり、教室 か た ず 員、学生は学長の名診察に回唾をのんだ。その瞬間、 爆発の閃光が走り爆風と轟音が室内を満たした。 学長は背中に一面のガラス傷を受け、白衣は血で染めあげられた。その他後頭部、左大腿部後面、 左手にそれぞれ数カ所の深傷を負っていた。学生、教室員が交代で学長を背負い院外の裏山へ避難し ふ / ﹂ O

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学長診察に同席した村田千秋副手、黄過伝副手、鈴木四郎副手、木田橋良道副手補、清田和之副手 補、内尾文子看護婦、学部四年生の日高和郎君らも皆重傷を受けた。村田副手は記載係で、瀕死の重 傷を負い裏山に避難の直後死亡。同氏は慶応大医学部から長崎医大へ転学して角尾内科での研究を望 んだ意志強固、九帳面な篤学の士で、結婚わずか九ヵ月目だった。 鈴木四郎副手も火傷は軽微だが背中一面のガラス創で動けず、自宅でもオキシフル消毒の上に赤チ ンを塗る程度の治療しか出来なかった。それでも傷は段々良くなり喜んだのも束の間、二週目頃より 原爆症の症状があらわれ、八月二十九日、二十五歳で死亡。残り五名も旬日を出でずに死亡した。 時成島四郎助教授(長崎医大卒 、のち第 二 内 科 教 授 、 一 九 一 O │ 九四)は、附属医専三年生七人のグルー プが外来の予診室で卒業試験のカルテを書き上げるのを待って、第一内科三階病棟の記載室で高橋博 講師(長崎医大卒)らと話していた。幸い爆心地側にエレベータがあったため、皆軽傷ですんだ。看 護婦の何人かはガラスの破片で負傷 し、髪は乱れ顔は挨で見分けがつかなくなった。一七名の入院患 者も無事であった。附属医専の学生も切傷や火傷を外来棟で受けたが死者はいない。 しかし、検便室、寄宿舎、外来で計六名の看護婦、生徒が即死あるいは急性原爆症で死亡した。と くに部下から慕われていた高南病棟の江下スム婦長の死去は若い看護婦、生徒を悲しませた。その時、 入院患者の出血の包帯代りに自分の新しいゆかたを惜し気もなく裂いてつぎつぎと手当していった気 丈な女性は眉の濃い色白の一番年若の婦長だった。 73

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再び角尾学長の容態を追う。 学長は避難途中から吐気を訴えていたが、調教授はじめ筏島助教授、高橋講師らの懸命の手当で次 第に元気を取りもどした。口を開けば大学の状況を問、ったが、基礎教室、附属病院、看護婦寄宿舎 は 一面火の海であり、教職昌れ、学生の生死もわからぬ混乱の極であった。 夕方、解剖の高木教授も学生に背負われて見え、学長の側に並んで横たわった 2 合 一 ペ ー ジ 図 参 照 ) 。 学長は同夜を丘上で過ごした後、翌十日、大学病院古屋野外科裏の横穴防空壕に担送され、高木教授 眼科の山根教授、石崎助教授らも同所に収容された。学長は古屋野教授を呼び学長代理として大学復 興に努力するよう後事を託した。 な め し 十二日夜、郊外の滑石に移り、滑石神宮の拝殿の一隅に山根教授とともに収容された。学長は創傷 も癒え出して一時元気を回復したかに見えたが、十八日頃より高熱、皮下出血、口内炎症状が顕著に なってきた 。 弟の角尾滋昭和医大教授に﹁滋、爪を切ってくれ﹂といい﹁どうも悪くなったようだ﹂とつけ加え た。﹁こんなに高熱が出て汗が出ないのはどうしてだろう 。 被爆で受けた外傷以外の何物かの影響で 新しい病気が起こりはじめている 。 自分が長年勉強した医書のどのペ l ジにも書いてなかったこの新 しい症状は、必ずや新しい病気に違いない﹂とつけ加えた。さらに見舞いの医師たちに事細かに自分 の症状はこんなものだと伝え、冷静な医師の観察の 一 面を見せた。 臨終前夜には心臓部あたりを打診しながら﹁もう駄目だ﹂とつぶやいた。そして古屋野教授、調教

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授、筏島助教授、夫人、弟らを呼び遺言を残したが、医大再建の切々たる言葉だけで家族に対しては 何もなかった 。 同時に 一 冊の古い本とドイツ語の論文の入った風呂敷包を弟に渡し、緒方富雄博士(東 京帝大教授、緒方洪庵の令孫、 一 九 O 一 ーー八九)に必ず届けよと告げた。この古い本はラエンネック(一 ﹃間接聴診法﹄初版のドイツ語訳本で、東大医学部本館図書室にあったものを 七八一一八二六) の 緒方博士から借り受けたものであった。 ︹ 注 9 ︺ ドイツ語の論文は、学長自身が書いたもので、その要旨は、 ﹁長崎医科大学に 一 つの古い聴診器が保管されている 。 こ れ は 吉 雄 圭 斎 ( 一 八二二-│九四)が寄附し たもので、あとでそえられた文書には、 つぎのようにしるされてある 。 一、聴診器 壱個 右吉雄圭斎君寄附 在 日 ︺ 該器ハ距今弐百年前渡来セシモノニシテ我国泰西医学ノ濫傍ニ 7う 其ノ紀元ヲ同セシモノ也 日本最初の間接聴診器 (三つに分解出来る) このものが外国 この聴診器について私はかつて歴史的考察を試み、 から渡来したものではなく、吉雄家からわかれた品川梅村(一八五七 年死去)がつくったものであろうと結論した。(中略)その後、私は九 州帝国大学農学部の渡辺治人教授にこの木材の鑑定を乞うたところ、 それは東部地中海地方、中部、南部ヨーロッパに自然に分布している

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p m F M 凶 ロ ω ピ ロ ロ m w o z ω ( ペルシャクルミ) であって、日本のオニクルミとはちがうものだということである。 その木材が渡来して、日本でつくられたものかどちらかである。しかし、はじめの方の推定の方がは るかに可能性が大きい。いずれにしても私のさきの考察、すなわち問題の聴診器は外国から渡来した ものでなく、日本でつくられたものだとする主張は、それの歴史的意義をゆがめるものであったよう である。そしていまこそ私のさきの考察は私自身がひっこめ、この聴診器にそえられた文書に書かれ である意義を、年代のちがいは別として、 ふたたび承認し、確証する O L ( 緒方富雄博士訳、日新医学、 昭和二十二年四月、参照) 学長として多忙をきわめた終戦間近の出張でも、前田ハルエ婦長に対し﹁空襲の折りは必ず持って 出て下さい﹂と繰り返し依頼した文書の内容である。 こうして緒方博士の好意により、学長の論文は死後世に出たが、借用図書の返却と学術論文に対す る責任を最重要事項においていた姿勢は、皆の心に深い感銘を与えた。後に本論文のドイツ語原著は、 青木義勇氏(長崎大名誉教授 、 細 菌 学 、 一 九 九

O

年没)の努力により学会誌に正式に掲載された。在日︺ 八月二十二日午前十時死去。﹁巨星堕つ﹂と調教授は書き留めた。二局、東大思賜の銀時計組であり、 敬慶なクリスチャン、本邦第一級の医学者として天下に名声を馳せた人物の最期であった。日頃 ﹁ 長 崎医科大学を日本におけるドイツ最古の大学で学問のメッカ、ハイデルベルク大学にするんだ﹂が口 癖で、母校からの教授招聴をすべて断り続けてきた経緯を知る関係者、教職員の悲嘆は大きかった。 ︹ 注 9 ︺ ラエンネック E 3 5 n -窓 口 品 叶 広 告 E Z E 3 2 E Z ( 一 七 八 一 ー ー 一 八 二 六 ) フランスの病理学者 。 筒状の紙

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︹ 注 目 ︺ を用いた聴診法のすぐれている点を発見、 一 八 一 九年間接聴診法に関する論文を発表 。 聴診法の創始者とな っ た 。 聴 診器の発 明は、その後の臨床医学の発展に貢献した 。 吉雄圭斎(一八二二 l 九四 ) 医 家 。 長 崎に生まる 。 代 々 外 科 医 。 蘭 医 ポンペに学ぶこと数年で洋式医学に 通暁した 。 明治十年、西南の役では長崎病院に勤務し、陸軍一等軍医 。 官を辞し長崎で診療に従事。種痘術 開始に功績があった 。 この話題をまいた本邦 最古の 輸 入 聴 診 器 は、オランダ商館医モ l ニッケが日本に持ってきた可能性を角尾学 長は論文中で推定している。幸いに戦時中 疎開していたので原爆被災を免れ、現在長崎大 学 図書館医学部分 館に所蔵されている。 ︹ バ 在 日 ︺ 附属病院長の圧死 77 し た が 、 産婦人科教室の被害もまた大きかった。すでに八月一日の空襲で病院は二五

0

キロ爆弾六発が命中 そのうち 一 発 は教授室に命中し、隣りの教授研究室、図書室も破壊され 一 部火災で焼失した。 内藤勝利教授(東京帝大卒、四十一歳)は、附属病院長を兼ねていたので 教室の後片づけに専念するひまはなかった 。 内藤勝利教授 (1904-45) ようやく九日は朝から焼け残った図書を病院新館の 一 室に整理するこ とになった 。 教授は患者輸送車の上に燃え残りの書籍を数十冊ずつ積みあげて、長 い廊下伝いに二

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メートルほど離れた新館の一室へ運ぶのを安堵の色

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を浮べて見ていた。﹁この本も助かってよかったね L といかにも嬉しそうに水浸しになった黒焦げの 洋書に手を触れた。そこには学者らしい専門書への断ちがたい執念がうかがえた。 運命の一瞬はその直後に来た。﹁内藤教授行方不明 L の報が避難した丘の上の教職員の聞を走り、 翌十日も消息なく過ぎた。十一日午後、焼け残った産婦人科一階の廊下で大きな梁が転がっている下 に上着、巻ゲートル姿で発見された。すぐ側の白壁には手形の血痕が残っており、頭上に落下した梁 により脳挫傷、失神そして死亡が推定された。教授は誠実一途の学者で、子宮頚癌、癌移植の研究に 優れた業績をあげてきた。 当日朝も、いつものように疎開先の自宅玄関から長い石段、それに続く坂道をふり返りふり返り手 を振って出勤したのが遺族にとって生涯網膜に灼きついてはなれぬ夫、そして父の最後の姿になった。 外来本館二階の新患室では附属医専三年生の卒業試験が本多有隣講師によって行われていたが、被 爆により全員傷だらけ、診察衣、シャツ、ズボンはボロボロに裂けた。幸い犠牲者を出さずに病院裏 山へ退避した。しかし、病棟勤務をはじめ、とくに看護婦、生徒ら女子職員の被害は大きく、原爆症 死をふくめ一九名にものぼった。 田中米子婦長は中央廊下産婦人科入口で被爆したが、遺体発見時は病棟階上エレベータ横であった。 必死に病室まで患者を案じてもどろうとしたのであろう。内藤教授以下二二名が犠牲になった。

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