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カ ン ト 道 徳 哲 学 の 研 究 ( 1 )

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(1)

長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第24巻 第1号 一‑三十五頁(一九八三年七月)

カント道徳哲学の研究(1)

‑﹁行為﹂の把握と﹁道徳性﹂‑

佐 々 木 孝 洋

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ud ie n  zu r  Mo ra lp hi lo so ph ie  K AN TS  ( 1)

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カントは道徳哲学にお直る自らの思惟の営みを規定して︑それは﹁道徳性﹂の最高原理の探究︑確立︑またその基礎づけ ということにある︑と語か.そして︑ひとはこの規定を受けて︑或る時にはそのようなカン‑の恩惟に対して︑いわゆる

﹁空虚な形式主義﹂という批判をなし︑また或る時にはそこに何か﹁人間の尊厳﹂を固守しようとする哲人カントの偉大な

姿を見ようとする︒‑しかし︑いずれにせよその時︑﹁道徳性﹂の最高原理を確立し︑それを基礎づけるという︑まさに

その営みのもつ意味︑すなわち︑そのようなカントの思惟がいかなる意味における探究であったのかということ自体は︑何

(2)

二 か暗黙のうちに了解されてしまっているのではないだろうか︒つまり︑それらの批判あるいは賞講は︑道徳ということをめ

ぐるカント自身の探究の意味を何らかの仕方で既に了解ずみのものとした上でなされているのではないか︒しかし︑﹁道 徳﹂の原理を基礎づけるというそのことが︑いったいいかなる思惟であり︑探究であるのかということこそ︑まず根本的な

\ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

意味で我々にとっての問いなのではないか.道徳哲学におけるカントの探究とは端的に何であるのか‑そのことを正確に 把握すること︑そして︑その探究の対象︑すなわち﹁道徳性﹂ということの意味を正確に把握すること︑さらに︑その思 惟︑探究が定位している場面と次元を正しく規定すること‑これらのことは︑我々がカントの問いに近づくためにとりう

るただ1つの︑しかも決して相互に切りはなすことのできない道であろう︒

本稿は︑これに続くカン‑道徳哲学の研究の序論にあたるものであるが︑ここで我々は以降の考察が某本的に定位すべき

ヽヽ 場面と次元を正確に見定めなければならない︒以下において︑まず﹁行為﹂ということが﹁自然的出来事﹂との対比あるい

は区別で語られる際の︑その対比︑区別の意味を考察し︑次に︑およそ我々が或る事柄を﹁行為﹂として把える︑その﹁行

為﹂という把握それ自身の可能性への問いが︑﹁遺徳性﹂の基礎づけという営みと根本においてひとつの探究であることを

確かめたい︒そのことが確認される時︑逆に道徳ということをめぐる探究がどれ程の射程を有する探究であるのかが浮きぼ

りにされるであろう︒と同時に︑我々はこれに続く以降の考察の端初を見出し︑それを明確に限定しなければならない︒我

ヽ\ 我は﹁理性﹂ないし﹁意志﹂という能力(可能性)をア・プ‑オ‑な仕方で吟味することを通じてなされてゆくカントの探

究がもつ意味について序論的考察を加え︑そのことによって︑問題の端初を見出したいと思う︒

‑我々は日常的な経験のうちで︑生起する様々の事柄を︑或る時は︑行為主体が原因となってひき起こされた意志的行

為(その結果)として把え︑また或る時は︑自然的事象が原因で起きた自然因果的な出来事(その結果)として把えてい

る.この二つの把え方は我々が様々の事柄を﹁何か﹂として把えてゆく際の︑相互に異なる基本的な把握の方式︑あるいは

(3)

形式であり︑また我々が世界とかかわる際の︑いわば基本的な構えまたは態度の様式であると言えよう︒したがって︑生起

する様々の事柄は︑意志的行為と把えられるか︑あるいは自然的な出来事と把えられるかのどちらかである︑と言えるが︑

しかしここではまだ︑この﹁あるいは﹂の意味︑また両者が﹁相互に異なる﹂ということの意味は明確ではない︒

たしかに︑我々の日常的なものどとの把握において両者の区別および対比の意味は︑自明のものとして前提されており︑

そこに虹醇の生じる余地はほとんどないと言えよう︒﹁誰かがそれを為した﹂ということと︑文字通り﹁自然にそれが生起

した﹂ということの意味の違いを了解しえなければ︑日常の経験自体が全く成り立たないことは疑えない︒

だが︑少なくともここで確認したいことは︑意志的行為と自然的出来事という対比的な語り方がされる場合に︑そのよう

な対比はたしかに可能であっても︑しかし︑何かそのような二種類の﹁対象﹂が︑いわば自体的に︑すなわち我々がそれを

どう把え︑何であるとみなすかということに先立って既に存立しているとは言えないであろう︑という点である︒すなわ

ち︑意志的行為と自然的出来事とは互いに全く異種の形式のもとに成立する因果的な事柄であると言わねばならないが︑し

かしその際の﹁形式Form﹂とは︑何か事柄自身が我々の把握とは独立に︑それに先立って自体的に具えているものという

ヽ ヽ

\ ヽ

より︑むしろそれは︑我々が或る事柄を何であるとみなすかという時の︑我々自身の把握(より厳密には︑因果帰属)の方

ヽ ヽ ヽ

式に根本的にかかわっていると思われる︒別の言い方をすれば︑我々は自体的に既にどちらかとして成立している行為ある

いは出来事を対象的に﹁受容﹂し﹁発見﹂するのではなく︑むしろ様々の事柄は行為あるいは出来事として把えられ︑そう

みなされるのであり︑両者の形式︑またさらにそれら相互の異なりということが探究される基本的な場面は︑この我々自身

の﹁把握(因果帰属)﹂という場面であろう︒

このことを明確にしておくことは︑行為︑そして同時に﹁道徳性﹂についての考察にとって極めて重要なことである︒何

\ ヽ ヽ

\ ヽ

故なら︑後に見るように﹁道徳性﹂ということは︑我々が(他の行為主体と同時に)︑自ら自身を︑すなわちまさに行為す

\ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

るものとしての自ら自身をいかなる形式(いわば﹁光﹂)のもとで把えているのかという問いと根本において一つの問題で

あり︑したがってそれは︑諸々の事柄を行為として把える︑その我々自身の把握の可能性への問いと決して切りはなすこと

のできない問題だからである︒﹁形式﹂というものが探究される場面を正確に規定しておくことは︑﹁道徳法則﹂という戎

カント道徳哲学の研究川

(4)

佐 々 木 孝 洋

ius

る﹁形式﹂ ̄が(あるいは﹁道徳﹂ということそれ自身が)探究される場面を正しく規定し'その探究の意味を正しく見すえ

ることにそのままつながると思われる︒‑本節では︑まず一つの例に即して︑意志的行為と自然的出来事という対比の意

味を考察する︒

‑実例として︑或る朝︑昨夜まで異常のなかった窓ガラスが割れており︑ベランダに巻大の石が落ちているのが発見さ

れる︑という場合を想定しよう︒このような時︑我々は︑どうしてこのような事態が起こったのかへつまりこの異常な事態

ヽヽ (結果)をひき起こした原因が何︑あるいは誰であるのかをつきとめようとするであろう︒この事態が自然的事象の結果な

\ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

\ ヽ

のか︑それともそうではなくて意志的行為の結果なのかは︑我々にとって重大な関心事である︒﹁昨夜大風が吹いただろう

か︑また︑自分にうらみを抱‑ような者が誰か居るだろうか﹂等々と我々は原因について様々に思いめぐらすであろう︒し

かしともかくも︑この場合︑飛んできたであろうその石が原因となって窓ガラスが割れただろうことは容易に想像できる︒

さて︑ここで注意したいのは次の二点である︒それはまず︑川通常︑我々の原因追求は石に対する原因の指定ということ

\ ヽ

\ ヽ

\ ヽ

で終わりにはされない︑という点であり︑また︑廟そこからさらに続けられる原因追求の二つの可能性︑つまり回その原因

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

をどこまでも水平的︑継起的に他の存在者へと求めてゆくのか︑あるいは㈲﹁意志的行為の主体﹂を想定することによって

その追求の道をどこかで終わりにするのか1ということは︑その際我々がとる原因追求(因果帰属)の﹁構え﹂というも

のによってはじめて決められてくるものであり︑したがってそのことと独立に追求の可能性がどちらか一方へと既に自体的

に決定されていると考えることはできない︑ということである︒

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

まず州について言えば︑飛んできたであろう石を原因として指定することをもって原因追求を終わりにしない︑というこ

ヽヽ とは︑他ならず︑我々が石というその存在者を︑出来事の端的な始まり(或る意味での究極原因)たりえない存在者とみな

い︑そう把えるということを意味する︒そして同時に︑そのことは我々が当の存在者を﹁自然的﹂存在者とみなしていると

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

いうこと︑そして石の飛来を﹁自然因果的﹂出来事とみなしているということに他ならない︒

ヽヽ ここで誤ってはならないのは︑石という存在者が︑自体的︑事実的に﹁意志能力﹂を持っていないから︑その︑﹁対象﹂

における自体的事実にもとづいて︑石の飛来は自然因果的な出来事と受けとられる他はなく︑つまり別様の把握の可能性は

(5)

事実的に排除されている‑とは言えないということである︒少なくとも把握の論理的秩序に関しては︑そうは言えない︒

むしろ︑或る存在者を出来事の端的な始まりたりえないもの︑すなわちその原因性を再び同一の方式で他の存在者に求めう

るようなものとみなすことと︑それを自然因果的な出来事と把えることとは︑いわば論理的に等値であり︑この﹁把捉﹂に

先立つ自体的事実(﹁意志能力﹂の欠如)なるものを想定することはできない︒というよりむしろ︑この自体的(あるいは

客観的?)事実とされているものそれ自身が既に︑我々の︑世界に対する或るかかわり方︑あるいは一定のパースペクティ

ブにもとづく一つの﹁把握﹂に他ならないのである︒逆に︑﹁人間﹂というものを出来事の端的な始まりたりうる存在者と

みなし︑それのひき起こした事態を行為として把える際にも︑この﹁把握﹂に先立って﹁意志能力﹂の存在といったことを

ヽヽ 自体的(客観的?)事実として前提することはできない︒﹁意志能力﹂の存在あるいは欠如といったことは︑我々自身の把

操に先立って既に存立している﹁対象﹂において事実的︑ないし経験的に﹁発見﹂されたり﹁検証﹂されたりするようなこ

とでは決してないOむしろ︑我々が諸々の存在者を1方で意志的行為の主体と把え︑他方で単なる自然的事物と把えると

き︑既に我々はそのような別種の把握を可能にしている二つの根本的な形式のもとにあり︑したがって︑両者の区別︑対比

の意味が了解されるのも︑この﹁形式﹂にもとづいてである︒

用の点についてくり返して言えば︑所与の結果(ガラスの破損)に対して或る存在者(石)をその原因としてひとまず指

\ ヽ

\ ヽ

\ ヽ

\ ヽ ヽ

\ ヽ

定するにしても︑そこからさらに︑その際の因果帰属の方式と全く同lの方式で再び︑その存在者の運動あるいは状態をひ

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

\ ヽ ヽ

き起こした先行原因を指定しようとすること︑少なくともそのような水平的︑継起的な因果帰属が可能であるとみなすこ

ヽ と︑卓のことがとりもなおさず︑所与の結果を(少なくともその範囲で)自然因果的な出来事と把えることに他ならない︒

言い換えれば︑このような出来事の把捉︑すなわちそのような因果帰属を可能ならしめている論理形式によって関かれてい

る領域︑世界を我々は基本的に﹁自然﹂と呼んでいるのである︒逆から言えば︑我々は自らの把握ないし因果帰属の方式と

\ ヽ ヽ ヽ ヽ

に自体的にansich存立している﹁自然﹂を対象としているのではなく︑むしろ﹁自然﹂という言葉は︑そのような

形式によってはじめて可能となっている一つの論理的世界を言う言葉なのである︒

3次に︑先の回について言えば︑Lec我々は上記の水平的︑継起的な原因追求の道を︑同1の因果帰属の方式を常に適用

カント道徳哲学の研究川

(6)

しっつ︑どこまでも続けてゆくことができる(たとえその途上で﹁人間﹂という存在者が原因として登場して‑るにして

I;ii一一一' ̄Hu

も)oまた他方︑㍍我々はその追求の道をどこかで(それはどこであって ̄もよい)︑もはや同1の因果帰属の方式は通用しえ

ないとして終わりにすることもできる︒

だが︑ここで︑この言い方はあまりに唐突であるとされるかもしれない︒というのも︑我々は通常次のように考えている

ヽ ヽ ヽ ヽ

\ ヽ ヽ

\ ヽ

\ ヽ

からである︒つまり︑所与の事態(結果)が行為主体によってひき起こされた結果であるのか︑それともそうではな‑て︑

単なる自然因果的な結果であるのかは︑事後の原因指定がどのような仕方でなされるにせよ︑それとは独立に既に事実的に

決まってしまっている︒したがって我々がなす事後の原因追求は︑その既にどちらかとして成立している事柄が行為であっ

たのか︑それとも自然的出来事であったのかを正しく﹁検証﹂することでなければならないIと︒しかし︑このような言

い方のうちには︑先に述べた︑把握の論理的秩序に関する混乱が含まれているように思われる︒すなわち︑上で言われる事

後の﹁検証﹂なるものが基本的に可能であるのは︑諸々の事柄を把握する際の異種の因果帰属の方式のもとに既に我々自身

が立っており︑さらにこれらの方式が︑我々にとって或る仕方で共通であるような一定のパースペクティブのもとで通用さ

れるからである︒したがって︑この二種の因果帰属の方式がそのもとで適用されるパースペクティブというものが多義的で

あれば︑当然先の﹁検証﹂という概念も︑それに応じて多義的にならざるをえないであろう︒

例えば︑先の例で︑窓ガラスを割った石を投げた﹁人間﹂の存在が原因として﹁検証﹂されたにしても︑その際この事柄

を意志的な主体の為した行為として把え︑水平的︑継起的な原因追求を(或る意味で)そこで終わりにするのか︑それとも

全く同一の因果帰属の方式のもとで︑その追求をさらにおし進めるのか(﹁科学﹂は常にそれをなすであろう)Iという

ことを﹁検証﹂という概念にもとづいて1義的に決定することはできないoこの際︑我々は﹁人間﹂という存在者を︑自ら

\ ヽ ヽ ヽ

の運動の端的な始まりたりうる存在者(行為主体)と把え︑言い換えれば︑彼の運動の原因をもはやそれまでと同1の因栄

帰属の方式のもとでは追求しえない存在者と把えることもできるし︑他方︑そこに出来事の端的な始まりなる概念をいっさ

い登場させずに︑それまでと同様の水平的︑継起的因果帰属をさらに進めることもできる︒通常﹁自然的事象﹂とみなされ

ているような現象(例えば﹁台風﹂)も︑ある特殊なパースペクティブのもとでは︑何か霊的な︑あるいは﹁人格的﹂な存

(7)

在者jJみなされ︑一連の出来事(石の飛来‑窓ガラスの破損)をひき起こした端的な始まりとみなされうるであろうし︑

逆に︑﹁人間﹂という存在者を他の自然的存在者と全く同一の身分を有するものと把えるような(文字通り﹁人を人とも恩

ヽヽ わぬ﹂ような)因果帰属の仕方も可能であろう︒

たしかに︑このような﹁把握﹂をそれだけとして極端な仕方でとり出すとすれば︑それは極めて特殊なものであろう︒し

かし︑それらを論理的に不可能な誤謬と言うことは決してできない︒むしろ︑我々の日常的な把握それ自身が︑ある可能な

一つのパースペクティブのもとで︑二種の因果帰属の方式をいわば様々に使い分けることによって成り立っていると言うべ

きであろう︒したがって︑先の﹁検証﹂ということも︑我々の把握が既に二種の因果帰属の方式のもとにあり︑さらにそれ

を我々が1定の︑共通のパースペクティブのもとで様々に通用しているということを前提してはじめて可能となる︑と言わ

物 ねばならない︒

4さて︑ここで重要なことは︑先の回で述べた二つの原因追求の方向が二者択1的にどちらでも可能である︑というの

ではなく︑ともに同時に可能である︑という点である︒じつさい我々は︑或る存在者について︑この両方向の原因追求をと

もに同時に︑しかも何の矛盾もなく遂行している︒

﹁人間﹂という存在者が石を投げ︑その石がガラスに当ってガラスが割れるという一題の因果関係が見出される場合︑l 方で我々は﹁その人が意図的に石を投げたのだ﹂と語り︑その事態を意志的行為と把え慰その時我々は﹁その人は或る出

来事の現実化を欲し(意志し)そしてそう為した‑その意味でその出来事の端的な原因である﹂という仕方で因果帰属を行

なっていると言えるであろう︒この場合︑重要なことは︑この因果帰属の仕方と同じ意味で︑また同じ方式で︑すなわち

﹁彼がそう欲し(意志し)︑そう為すことを別の原因者xが欲し(意志し)︑そしてそう為した﹂という仕方でさらなる原

因者Jを指定する道は閉ざされている︑ということであるOというよりも︑そのような道をとることは明らかに﹁意志する

(欲する)﹂という語の文法(使用法)に違反することであり︑行為の因果帰属ということに関して端的に無意味なことで

mma

ろう︒例えば﹁彼がしかじかのことを意志する(彼がそうしようとする)ことを私は望む︑あるいは信じる﹂とは言えて

\ ヽ ヽ

︑﹁彼がしかじかのことを意志することを私は意志する﹂とは決して言えないであろう︒逆に言えば︑もしそのようなこ

カント道徳哲学の研究U

(8)

とが言えるとするなら︑﹁彼が意志する﹂ということも︑またそのことを﹁私が意志する﹂ということも︑いわば﹁意志作

用の継起的系列﹂のうちに霧散し︑その意味を失う他はないであろう0

先に川に関して述べたように︑或る出来事を自然的出来事とみなすことは︑さしあたり指定された原因の先行原因をさら

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

に同1の方式で継起的に追求しうるとみなすことと同義であったが︑これに対して︑行為の因果帰属とは︑指定された原因

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

の先行原因をもはやそのような仕方で追求しえないとみなすことであり'したがってこの因果帰属は︑いわば一度限り︑或

る原因をもって論理的に閉じているのである︒くり返して言えば﹁彼が或る出来事の現実化を欲し(意志し)そして︑そう

為した﹂という仕方で行為の因果帰属を行なうことは︑彼の原因性のさらなる原因を他の存在者の因果的系列のうちに水平

ヽ ヽ ヽ

化しえないとみなすことと論理的に等値であり︑同時にその際︑﹁意志の意志﹂を憩定するという仕方で再びその原因を

(いわば垂直方向に)さらに追求する可能性も論理的に絶たれている︒意志的行為の主体とは︑それに先行する原因を再び

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

水平方向にも︑垂直方向にも︑さらに遡って求めえないとみなしうる存在者のことをいうのである0‑たしかに︑このよ

うな言い方はいまだ暖味であると言わざるをえない︒問題は︑﹁それに先行する原因をさらに遡って求めえないとみなしう

ヽ ヽ ヽ

る﹂というその把握の可能性を︑いかなる形式のもとで基礎づけうるか︑にある︒そのことは︑後に見る如く︑﹁わたしが

ヽヽ 意志するvolo﹂︑﹁わたしが為す﹂という語り方がどこでその真実の意味を持ちうるか︑という問いとかかわるであろう︒

ところで︑先のような1連の因果関係が見出される場合︑他方で我々は或る﹁人間﹂の例えば(投石の際の)身体的運動

をひき起こしたさらなる原因を水平的︑紐超的因果帰属の方式のもとで(例えば生理学的に)追求することも可能である︒

また別の視点から︑その﹁人間﹂のふるまいをひき起こした心理的︑社会的原因を同様の仕方で追求することもできるであ

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

ろう︒このような原因追求はどこまでも続けることが可能であり︑我々は意志的行為の主体(究極の原因)なるものを想定

することなく︑そして︑そこで原因追求を閉ざすことなく︑いわばそこを素通りしてゆく︒その際我々は︑ガラスも石も︑

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

さらに﹁人間﹂等々もみな等しく広義の自然的事物︑すなわち出来事の端的な始まりたりえない存在者とみなしているので

あり︑したがってそれら相互の因果関係は等し‑水平的︑継起的な自然的因果関係として把えられている︒そして︑以上述

(9)

べた二つの根本的に異なる原因追求の方向は相互に他と抵触せず︑ともに同時に成り立っている︒

しかし︑ここであらためて注意すべきことは︑我々が或る事柄を行為とみなし︑そこに端的な始まりたりうる原因を指定

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

するその限りにおいて︑その把経がそのもとで可能になっている﹁形式﹂あるいは﹁法則﹂は︑自然的出来事がそのもとで

把えられる﹁形式﹂︑﹁法則﹂とは根本的に異なり︑したがって︑そこでともに﹁原因﹂という言葉が語られるにしても︑

両者の場合のその意味は根本的に異なるということである︒一方は﹁同時に結果であるような原因﹂であるのに対し︑他方

は決して先行原因の結果とはみなしえない﹁端的な原因﹂である︒そして︑くり返して言えば︑この﹁異なり﹂は︑我々が

(自ら自身を含め)諸々の存在者をそれとして把える時の︑把握の﹁形式﹂(いわば﹁光﹂)の異なりである︒したがっ

て︑言うまでもないが︑上で言われた︑両方の把接がともに同時に可能であるということは︑決して両者を可能にしている

﹁形式﹂︑﹁法則﹂の混同︑あるいは混合が許されるということではない︒むしろ全く逆に︑以上述べたことは︑両者が根

本的に区別されねばならないこと︑そしてこの区別は︑﹁対象﹂における﹁意志能力﹂の存在︑欠如といった﹁事実﹂にも

\ ヽ ヽ

とづくものではありえず︑かえって︑我々の因果帰属(原因に対するみなし方)にかかわる区別であること︑したがって︑

ヽ ヽ ヽ

かの﹁形式﹂ないし﹁法則﹂を探究することによってこそはじめて︑﹁自然﹂ということとともに﹁自由な意志的行為﹂に

ついて︑その成立可能性が問われる場が拓かれる︑ということを示していか︒

ーさて︑以上の論述において我々は直接にカントの言葉に言及することをしなかったが︑しかしそこでは﹃純粋理性批

判﹄弁証論第二篇第二章︑第三アンチノミーの解明に関する九節Ⅲでの議論が念頭におかれている︒そこにおいてカントは

次のようなかたちで問題を提出していた︒

﹁ここで問題であるのは︑全ての出来事の全系列において︑ただ自然必然のみが承認されるとき︑それでもなお︑一方で

は単なる自然結果である当の同じ出来事を︑しかも他方では自由にもとづく︹行為の︺結果とみなすansehenことは可能で

カント道徳哲学の研究の

(10)

5

あるのか︑それともこれら二種類の原因性の問にはまざれもない矛盾が見出されるのか︑というこのことだけである︒﹂

\ ヽ ヽ ヽ

この問いに対するカントの解決は︑周知のように現象界と叡智界という観占LQ区別を導入することによって﹁これら両者

̲川 は互いに依存しあうこともなく︑また互いに妨害しあうこともなく成立しうる﹂というものであった︒前節での考察をふり

かえって再び注意しておけば︑このカントの言葉は︑或る結果に対する原因の指定の仕方(みなし方)に関して語られてい

るoすなわちここでのカントの議論は︑経験の対象としての諸々の存在者が自然必然性によって﹁自然迂いうひとつの文脈

の う ち に i n e i n e m K o n t e x t d e r N a t u r ﹂ 一 つ の 例 外 も な く 脈 絡 づ け ら れ て い る こ と を 一 方 で 認 め な が ら ︑ 同 時 に 他 方 で ︑

\ ヽ

自由に為されたとみなしうる意志的行為について語る︑その可能性の端初を見出すことにむけられている︒たしかに︑一見

するとそこでの彼の議論はあまりにテクニカルに見え︑しかも現象界と叡智界という周知の区分は硬直した二世界論的図式

ヽ を想わせるかもしれない︒だが︑その議論は︑最も基本的に言って︑我々が前節で見た︑意志的行為と自然的出来事という

異種の把握それ自身の区別と対比(それは我々にとって日常的にあまりにも自明のものであるが)が︑いかなることにもと

づいて可能なのか‑という問いに他ならない︒一見項境で図式的に見える議論が︑じつは我々にとって日常的にあまりに

も自明な事柄へのふりかえりの徹底化であることを忘れてはならないであろう︒‑以上の点を確認して︑さらに我々はカ

ントに即して︑およそ﹁行為﹂という把握が﹁道徳性﹂ないし﹁道徳法則﹂への問いといかなる仕方でかかわる問題である のかを明らかにしてゆかねばならない︒

‑さて︑或る結果に対して﹁端的な始まり﹂としての原因性を指定する可能性︑すなわち自然必然性におけるのとは全

\ ヽ

ヽ ヽ ヽ

く異種の連関のうちで︑またカントの言葉で言えば﹁超越論的自由﹂という理念のもとで或る存在者を(行為主体として)

把 握

す る

こ と

の 可

能 性

は ﹁

行 為

の 帰

責 可

能 性

I m

p u

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b i

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t a

t ﹂

と い

う 問

題 と

し て

論 じ

ら れ

る ︒

﹁伯由という超越論的理念は︑行為の帰責可能性の本来的根拠として︑行為の絶対的自発性︹端的な始まり︺という内容

を な

す ︒

ここでの問題は︑或る出来事の原因をどこまでも水平的︑継起的に求めうる自然的出来事の系列を1方で認めつつ︑しか

し同時にそれとは異種の連関のうちで﹁わたし(あなた︑彼︑彼女)こそその出来事の端的な原因(‑責任者)である﹂と

(11)

語ることはいかにして可能なのか︑という問いである︒すなわち︑この行為の帰責可能性についての問いは︑前節で見た如

ヽ ヽ ヽ

く︑我々がいかなる﹁形式﹂ないし﹁法則﹂のもとで或る存在者に対する端的な因果帰属をなしているのかという問いとひ

と つ

で あ

る ︒

カソーは︑実例として︑悪質な虚言によって社会に混乱をひき起こした或る行為者を非難するという場合を想定して次の

ように語る(長くなるが︑重要な一節と思われる故︑できるだけそのまま引用する)0

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

﹁ い

か に

し て

そ の

虚 言

と い

う 行

為 は

︑ そ

の 様

々 の

結 果

と と

も に

彼 に

帰 せ

ら れ

う る

の か

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g e

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c h

n e

t w

e r

d e

n k

o n

n e

‑ .

捗とは彼の経験的性格を︑その様々の源泉にまでたどって綿密に調べ︑その源泉を劣悪な教育︑悪しき交友関係に︑また1

布は去恥に対して無感覚な気質という悪性に求め︑あるいは1部は軽卒や無思慮に帰する︒その際ひとは︑この行為を誘発

した偶因も見過さない︒これらすべてのことにおいて︑ひとはおよそ与えられた自然結果を規定していた様々の原因の系列

を追求する場合と同じやり方をする.だが︑先の行為がそれらのことによって決定されていると考えるglaubenにしても︑

ヽ ヽ ヽ ヽ

しかしそれにもかかわらず︑ひとは当の行為者を非難する︒‑‑というのは︑その際ひとは次のことを前提しているからで

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

ある︒つまり︑彼のそれまでの行状がどのようなものであったかは全く無視することができ︑様々の制約︑条件のこれまでの

系列を︑起こらなかったものとみなすansehenことができるのであり︑これに対して︑かの行為は︑行為者がそれによって

諸 結

果 の

系 列

を 全

く み

ず か

ら g

a n

z v

o n

s e

l b

s t

は じ

め る

か の

ピ と

‑ ︑

先 行

の 状

態 に

関 し

て 完

全 に

無 制

約 的

な も

の g

a n

z l

i c

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un訂dingtとみなすことができる1ということを前提しているからである.この非難は︑理性の法則GesetzderVernunft

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

に根拠づけられており︑非難がなされる際ひとは︑理性というものを︑いかなる経験的な制約にもかかわらずuロaロgesehen︑

人間のふるまいを別の仕方で規定しえたような︑また規定すべきであったような︑そのような原因とみなすのである︒し

ヽヽ

か も

ひ と

は ︑

理 性

と い

う 原

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︑ た

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動 機

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︑ そ

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こ ろ

か そ

れに全く背くdawiderとしても︑しかしそれにもかかわらずこのような動機に対する単なる︹それと同列の︺競争者とは

g

9

「耳

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み な

す の

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る ︒

以上の1節において︑行為の帰責ということは︑諸々の事柄をそれとして把える際の我々の因果帰属の方式︑すなわち指

カント道徳哲学の研究∽

(12)

定すべき原因のみなし方に根本的にかかわるものであり︑さらにその因果帰属の方式は﹁理性という原因性﹂についての把

握にもとづき︑﹁理性の法則﹂に根拠づけられていることが明確に語られている︒或る事柄を行為とみなし︑その原因を行

ヽヽ 為主体に帰するということは︑その当の存在者を﹁理性的存在者(理性的であるという仕方で存在するそのもの)dasver‑

n i

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﹂ と

み な

す こ

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あ り

︑ そ

し て

そ の

﹁ 理

性 的

で あ

る ﹂

と い

う 把

握 は

︑ 当

の 存

在 者

を ︑

先 行

の 状

態 に

い っ

さ い

ヽ ヽ ヽ ヽ

かわりなく出来事を全く自ら始めうる︑完全に無制約的なものとみなすことに他ならない︑と言われる︒そして︑このよう

な仕方でなされる﹁行為﹂の把握は︑当の事態を或る自然結果とみなし︑水平的︑継起的にその原因を追求することと決し

て抵触︑矛盾しない︒そのような原因の系列は(当の行為が非難されるべきであれ︑賞護に値するものであれ)確かに存在

するとみなされうるし︑それの追求は有意味になされうる︒しかしそれにもかかわらず︑その事態は或る存在者が︑端的

に︑全く自ら始めたもの︑すなわち﹁彼﹂という処に或る意味での究極の始まりpriロcipiumをもつもの︑言い換えれば

ヽ ヽ

ヽ ヽ ヽ

﹁行為﹂とみなされうるのである︒もし﹁彼﹂という処で因果帰属を閉ざしえないのであれば︑およそ非難︑寅讃︑さらに

一般に帰責ということが成り立つはずはない︒

﹁意志する﹂ということ︑また﹁意志的行為﹂ということは︑(それが非難されるべきであれ︑賞讃されるべきであれ)

まさにそのような﹁始まり・原理Prinzip﹂ということにかかわることである.出来事を全く自ら始めうる︑完全に無制約

ヽ ヽ

的 な も の と み な し う る ﹁ 理 性 的 存 在 者 ﹂ の ︑ そ の ﹁ 理 性 ﹂ と い う 規 定 が ﹁ 原 理 の 能 力 V e r m o g e n d e s P r i n z i p s ﹂ と し て 語 ら

れることの意味もここにあると言えよう︒じつさい︑我々の日常的な︑いわゆる﹁人格主義的﹂態度も︑この﹁みなしう

る﹂という可能性を前接してはじめて成り立っている︒そして︑カン‑にとって︑この可能性は︑それを支える﹁形式﹂な

ヽ ヽ

ヽ ヽ

ヽ ヽ

ヽ ヽ

いし﹁法則﹂を顕わにするという仕方で基礎づけられねばならない問いなのであって︑それは何か人間における﹁日常的生

の事実﹂として確認され︑前提されるということで終わる問題ではなかった︒

‑ここで重要なことは︑﹁そうみなしうる﹂という行為の把経の可能性が﹁理性の法則﹂(これは最も厳密な意味での行

為の法則︑すなわち﹁純粋実践理性の根本法則﹂を意味するであろう)というものにまさに根拠づけられてあるsichg・

g r i i n d e n と い う 点 で あ る ︒ そ の 法 則 と は す な わ ち ー

(13)

﹁汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ﹂と定式化され︑そして同時に﹁行為

の主観的原則︑すなわち格律は︑また客観的に︑言い換えれば普遍的に原則として妥当し︑洩々自身の普遍的立法の役をは

o

た し

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︑ と

い う

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n ﹂

と 語

ら れ

る ︒

しかし︑このような仕方で語られる﹁遺徳法則﹂(﹁理性の法則﹂)が︑およそ﹁行為﹂という把握それ自身の可能性を根

拠づけているとは︑いったいいかなることなのか‑0

ヽヽ 少なくともここで言えることは︑或る事柄を﹁行為﹂とみなしうるansehenkonnenということ︑したがって︑そこに﹁端

的な原因性﹂を有する存在者を想定しうるということ(その﹁可能性﹂)と︑当の事柄が﹁行為﹂とみなされねばならない

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

a m

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と い

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原 因

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﹁ 端

的 な

原 因

性 ﹂

を 有

す る

も の

と み

な さ

れ ね

ば な

ら な

とlいうこと(その﹁必然性﹂)とは︑まさに﹁法則﹂というところでひとつに結ばれており︑そうであるが故にこそ︑こ

の ﹁

法 則

﹂ は

﹁ 自

然 ﹂

と い

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は 全

く 異

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ば れ

る 世

界 を

拓 い

て い

る も

の な

の で

はないか︑ということである︒さらにそのことは︑行為の﹁主観的原理﹂としての格律というものとこの﹁法則﹂との関係

の理解に関して極めて重大な手がかりを与えるであろう︒

しかし︑その点についてのたち入った考察は後に譲り︑いまは次のことを指摘するにとどめねばならない︒すなわち︑

捧めて逆説的なことでもあろうが︑或る事柄を基本的に﹁行為﹂と把え︑しかも︑それをいわゆる理性の命ずる諸々の綻

G e s e t z e ( 例 え ば ﹁ 嘘 を つ い て は な ら な い ﹂ 等 々 ) に 背 き ︑ そ れ に 反 す る も の と し て 非 難 し ︑ そ れ を ( m o r a l i s c h V な 意 味 で

悪しきものと判定しうるのは︑他ならず︑当の行為主体を︑いっさいの感性的動機にかかわらず(それらを全く考慮せず

uロaロgesehen)︑全くそれ自身において完全な理性という原因性を有する存在者(というよりむしろ︑まさに理性的という仕

方 で

あ る

も の

) と

み な

し う

る か

ら で

あ り

︑ か

つ 当

の 主

体 と

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常 に

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さ れ

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な い

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m e

n

専erdenmiissen存在者だからである︒‑﹁道徳法則﹂あるいは先の﹁理性の法則﹂と言われるものが我々の行為ない

七行為の把握に対してもつ意味が顕わにされるのは︑この︑ある仕方では逆説的に見える﹁みなしうる﹂という把握の﹁可 髄性﹂と﹁みなされねばならない﹂という把握の﹁必然性﹂との探究を通じてでしかないと思われる︒後に見るように︑

カント道徳哲学の研究川

(14)

﹁道徳法則﹂への問いとは︑何かこの法則とかかわらない処で既にその成立を前提された︑いわゆる﹁行為﹂あるいはその

﹁主体﹂なるものが︑どういう条件を具え︑それを充しておれば﹁道徳的に善い﹂と言えるのかという仕方で問われるべき

ヽヽ ものでは決してなく︑また︑﹁道徳的に善い﹂行為とそうでない行為とを判別する際の尺度︑規準は何かという仕方で問われ

るべきものでも決してない︒

そのことは︑本稿を含めて以降の考察によって明らかにされるべきことであるが︑いま先取り的に言えば︑我々が(自ら

ヽ ヽ

自 身

と と

も に

) 或

る 存

在 者

W e

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n を

︑ 行

為 す

る 存

在 者

と 把

え る

こ と

は ︑

( そ

れ が

い か

に 感

性 的

p a

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i s

c h

に 触

発 さ

れ る

ものと言われようと)それを根本において﹁理性的存在者﹂と把えることに他ならず︑そしてその際︑﹁理性的﹂という規

ヽ ヽ

ヽ ヽ

\ ヽ

ヽ ヽ

ヽ ヽ

定は︑当の存在者の︑まさにあるということの本質規定Wesensbestimmungなのであって︑言い換えれば︑この規定をは

なれてその存在者をそれとして把えることはできない︒しかも︑この﹁理性的﹂という規定は︑それのひき起こした事柄に

対する端的な︑完全に無制約的な始まりとみなしうる存在者︑そうみなされねばならぬ存在者を規定した言葉なのであり︑

したがって︑そのような存在者こそ﹁道徳法則﹂の必然的な(1つの例外もありえない)命令が︑それへとさしむけられて

ヽ ヽ ヽ ヽ

いる存在者︑すなわち︑﹁道徳法則﹂のもとにおいてdaruロterはじめてその﹁あるということ﹂が把えられる存在者であ

ると言わねばならないであろう︒それはちょうど︑最も厳密な意味での﹁自然法則﹂というものが︑(諸々の存在者がたま

たまそれにしたがって運動している諸法則Gesetzeという意味においてではなく)まさに﹁自然的存在者﹂をそれとして

把握せしめている︑その存在把握の可能性の根拠であったのと同様であろう︒してみるなら︑自らの﹁行為﹂がどのような

評価を受けるものであるにせよ︑その行為の主体としての﹁理性的存在者﹂とは︑まさに﹁道徳法則﹂のもとにあるunter‑

stehen限りでの存在者をいうのではないか‑0

もしそうであるとすれば︑我々はカントが﹁道徳法則﹂について語る際に︑﹁理性的存在者とはいかなるものとみなされ

5

5

︒¢

ね ば

な ら

な い

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h e

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訂 t

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存 在

者 な

の か

‑ ﹂

と い

う 仕

方 で

議 論

を 展

開 し

て い

ことの意味にあらためて気づかされるのではないか︒

﹁すべての理性的存在者は︑自らの意志のあらゆる格律によって普遍的に立法するものとみなされねばならない(みずか

(15)

ら を そ う み な さ ね ば な ら な い )

‑ s i c h d u r c h a l l e M a x i m e n s e i n e s W i l l e n s a l s a l l g e m e i n g e s e t z g e b e n d b e t r a c h t e n m u 8 .

'3

この︹理性という唯1の︺観点から自ら自身と自らの行為とを判定しなければならない.﹂

前節では︑行為の帰責可能性ということを手がかりに︑およそ﹁行為﹂という把握それ自身がいかなる法則(カントはそ

れを﹁理性の法則﹂と呼び︑我々はそれを﹁道徳法則﹂と呼びかえた)のもとにおいてはじめて可能となるのかという問題

に対する考察の端初を見出そうとした︒そして︑我々が﹁道徳法則﹂とは何かという問いに近づきうるのは︑この行為の把

握の﹁可能性﹂とその﹁必然性﹂という両者の関係の探究を通じてであろうことが示唆された︒‑この節と次節ではその

点についての展開を含め︑再び﹁自然的出来事﹂と理性的存在者の﹁行為﹂という二つの把握を対比しっつ︑﹁行為﹂という

把握それ自身の可能性への問いがさらにどれ程の射程を有する問題であるかを明らかにし︑そのことによって﹁道徳法則と

は何か﹂という問いがとるべき道筋をより明確にしておきたい︒

\ ヽ ヽ ヽ

‑カントにおいて﹁生起するものに関しては︑自然にしたがう原因性かあるいは自由からの原因性か︑ただこれらl三

㈹ の原因性しか考えられない﹂という規定は根本的であり︑我々はこれを注意深く厳密な意味で理解しなければならない︒こ

こに言われる﹁あるいは﹂の意味の一側面を我々は既に考察した︒

ここでさらに注意されるべきは︑我々が何らかの存在者に或る事柄(生起したもの)に対する原因を帰属させる時︑その

ことはとりもなおさず︑その存在者の存在性格(身分)を我々自身が規定し︑定立することに他ならないということであり︑

しかもその際︑その存在者は﹁自然的存在者﹂として規定されるか︑あるいは﹁理性的存在者﹂として規定されるかのいず

ヽ ヽ

ヽ ヽ

\ ヽ

\ ヽ

ヽ ヽ

ヽ ヽ

れかであり︑それ以外の可能性は全くない︑ということであるoすなわち︑我々が或る存在者を行為主体とみなし︑それを

葺性的存在者とみなすその限りにおいて︑当の存在者は﹁自然的﹂という存在性格を全くもちえないのであり︑彼がいかに

カン‑道徳哲学の研究の

(16)

感性的に触発されようと︑﹁理性的﹂という規定(身分)と﹁自然的﹂という規定(身分)とを混合ないし混同させて語るこ

ヽ ヽ ヽ ヽ

とは決してできない︒﹁理性的﹂と把えられる限り当の存在者は﹁自然的﹂では全くないのであり︑逆に︑﹁自然的﹂と把え

ヽ ヽ ヽ ヽ

られる限りそれは﹁理性的﹂では全くない︑と言わねばならない︒

たしかに︑このような語り方は一見すると︑いわゆるカントの﹁厳格主義﹂を想わせ︑我々の日常的な﹁意志﹂(﹁行為﹂)

把握とは相容れないもののように見える︒日く﹁常に理性的であるとみなしうる程完全な人間など存在しない﹂﹁人間の行

為のほとんどは感性的な動機から為され︑理性的な行為など極めて稀である﹂等々‑ ︒だが︑ここで最も基本的な意味で

問われているのは︑およそ我々の日常的な﹁意志﹂(﹁行為﹂)把握がおよそ何にもとづいて可能なのか︑という問いであ

ることが忘れられてはならない︒﹁意志﹂や﹁行為﹂についての我々の日常的把握を自明のこととして前提しておいて︑次

にそれらに対して﹁理性的‑感性的﹂﹁完全‑不完全﹂さらには﹁道徳的‑非道徳的﹂といった言葉をあてがって考えよう

とする時︑我々は既にここでのカントの根本的な問いを見失ってしまっている︒カントは逆に問い返すであろう﹁行為にお

いてその主体を常に理性的とみなしうるとは限らない︑とひとは言う︒よろしい︑ではそのひとはいったい何にもとづいて

当の事柄を行為と語り︑そこでの行為主体について語りうるのか︒﹂

‑とはいえ︑ここには経験的あるいは主観的な制約のもとにある理性的存在者の意志︑あるいはまた﹁理性的存在者

由ソん HU l

の ︑

感 性

的 に

触 発

さ れ

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W e

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﹂ と

は 何

か と

い う

微 妙

で 困

な問題が存し︑この問題の解明とここでのカントの問いの理解とを切りはなすことができないこともたしかである︒いまこ

の難問に立ち入ることはまだできないが︑しかし少なくとも次のことは注意しておかねばならない︒すなわちそれは﹁理性

的‑自然的﹂という対概念を無反省に﹁理性的‑感性的﹂ないし﹁客観的‑主観的﹂という対概念と同一化してはならな

い ︑

と い

う 点

で あ

る .

理 性

的 存

在 者

に お

け る

﹁ 感

性 的

な も

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と い

う 概

念 が

ど れ

程 我

々 に

困 難

な 問

い を

課そうとも︑それを無反省に﹁自然的﹂という領域に放逐することは許されない︒また︑後に述べる如‑︑すべての行為は

主観的原理としての格律にしたがって為されると言える以上︑行為の客観性ないし﹁普遍的立法﹂したがってまた﹁道徳性﹂

そのものへの問いは︑決して﹁主観性﹂という場面をのり越えたり︑とび越えたりすることを要求するものではない︒およ

(17)

そ﹁意志﹂や﹁行為﹂について語りうるそのことの可能性への問いと意志規定の根拠についての議論とを安易に混同するこ

旬 也 とは問題の真のありかを見失わせることになるであろう︒

2さて︑先に述べた如く︑諸々の存在者の﹁自然的﹂あるいは﹁理性的﹂という存在性格の区別は︑さしあたり我々自

身の事物把握における二つの因果帰属の方式の区別であった︒そしてさらにこれらの区別の可能性は二つの異種の﹁法則﹂

にもとづいている︒再びくり返して言えば︑﹁自然法則﹂と﹁道徳法則﹂という相互に全‑異なる論理形式をもつ法則をカ

ントが対比させる時︑そこでは︑我々が自ら自身とともに様々の存在者︑様々の事柄を﹁何か﹂として把握しそれに関係す

る際の︑把握あるいは関係(それは当然︑自己把握︑自己関係ということにかかわる)の可能性の制約が対比させられてい

るのである︒したがって︑﹁現象としての自然的存在者﹂と﹁物自体(自体的なもの)Dingansichとしての叡智的存在者﹂

という対比がされる場合にも︑それは自然法則のもとにある(そのもとで把えられる)限りでの存在者と︑道徳法則のもと

にある(そのもとで把えられる)限りでの存在者という対比に他ならない︒そうである限り︑何らかの﹁法則のもとにある

inter‑stehen﹂ということに先立って或る存在者の身分がどこかで確保されていて︑そして次にその存在者が法則にしたが

ったり︑したがわなかったりすると考えることはできない︒したがって︑我々が或る事柄︑およびそれをひき起こした存在

者をそれとして把えることが可能であるのは﹁自然法則﹂という制約のもとにおいてであるか︑あるいは﹁道徳法則﹂とい

ヽ ヽ

ヽ ヽ ヽ

ヽ ヽ

ヽ ヽ ヽ

ヽ ヽ

う制約のもとにおいてであるかのいずれかであり︑それ以外の可能性は全く考えられない︒

ここで我々はまだ﹁道徳法則﹂とは何かについて直接に語ることはできないが︑しかし以上の考察から次のように言わな

ければならないであろう︒すなわち︑我々が或る存在者を意志的行為の主体(出来事の端的な始まりたりうる存在者)とし

て把えることができるのはただ﹁道徳法則﹂という制約(いわば﹁光﹂)のもとにおいてのみである︑と︒しかし︑前節で

触れた如く﹁汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるgeltenkonneように行為せよ﹂と定式化さ

れる﹁道徳法則﹂が︑およそ﹁行為﹂という把握(端的な因果帰属)それ自身の制約であるとはいかなる意味において言え

ヽ ヽ ヽ ヽ

ることなのか‑︒いったい︑或る存在者がこの法則のもとにあり︑そのもとで把えられるとはいかなることなのか‑︒

否むしろ︑この法則が命令であり︑命法であると言われる時︑この法則は端的に言って我々にいかなることを命じているの

カント道徳哲学の研究U

参照

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