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松井石根と興亜観音山田雄司

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松井石根 と興亜観音

山田雄司

は じめ に

明治 11年 (1878)7月 27日 、愛知県牧野村 (現名古屋市)で 生を受けた松井石根は、陸 軍士官学校、陸軍大学校 を卒業

。 日露戦争に従軍 した後、北京 ・上海 な どでの駐在 を経て、

ハル ビン特務機 関長、台湾軍司令官を勤め、陸軍大将 となったが、昭和 10年 (1935)8月 、 陸軍省内で統制派の永 田鉄 山軍務局長が皇道派青年将校に共感 した相沢二郎中佐 に惨殺 され る

とい う相沢事件が起 きたため、軍の責任 を感 じた松井は現役 を退いて予備役 となった

中国駐在 中、孫文の大亜細亜主義に強 く共鳴 した松井は、昭和 8年 3月 に大亜細亜協会が 設立 され ると、この運動に進んで参カロし、予備役 となった後は会長 とな り、亜細亜の独立解放

な ど 「興亜」の理想 を実現すべ く活動に邁進 した。

しか し、昭和 12年 8月 の第二次上海事変をきつかけに、中国通の松井は現役復帰 を命ぜ ら れ、8月 15日 上海派遣軍司令官 となって、9月 29日 には苦難の末に大場鎮を占領、10月 30

日には上海軍 と第 10軍 とを統轄す る中支那派遣軍司令官 も兼官す ることとなったが、12月 4 日朝香宮鳩彦 中将が上海派遣軍司令官 となったため、松井は兼任 を解かれた。そ してその後南 京攻略戦の指揮 にあた り、12月 10日 に総攻撃 を開始、13日 に南京城 は陥落 し、17日 入城式 が行われた。

12月 22日 には上海 に戻 り、新政府樹立のための工作に奔走 していたが うま く事は運ばず、

翌年 2月 23日 海路帰還 した。帰国後の松井は傷病兵の慰問や全国の護国神社の参拝な どを行 い、退役軍人 として英霊の冥福 を祈 り、遺族か ら依頼 された墓碑銘の揮墓などを行 つた。その 後松井は大森の官舎を引き払い、熱海伊豆 山に移 り住み、ここに興亜観音 と名づ けた観音像を 建立 し、 日本 。中国両国戦死者の菩提 を弔つた。そ して松井は観音堂への参詣 と朝夕の観音経 の奉唱を欠か さず、あわせて全国の傷病兵の見舞いに努める一方、上海、南京、北支、中支な どの戦跡 を巡歴 して慰霊 を行 うの とともに、興亜総本部総裁 ・大 日本興亜会総裁 として 「亜細 亜の独立」のために奔走 した。

敗戦後の松井はほ とん ど仏門の よ うな生活であつたが、昭和 20年 10月 19日 、A級 戦犯容 疑 とな り、肺炎のために遅れて昭和 21年 3月 6日 巣鴨プ リズンに入獄 した。そ して極東国際 軍事裁判において死刑判決 を受 け、昭和 23年 12月 23日 、 7人 の うち最初に処刑 された。そ の ときの辞世は次のようである。

天地 も人 もうらみずひ とす じに無畏 を念 じて安 らけく逝 く いきにえに尽 くる命 は惜かれ ど国に捧げて残 りし身なれば 世の人にのこさばや と思ふ言の葉は 自他平等誠の心

衆生皆姑息 正気払神州 無為観音力

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普明照亜洲

本稿 では、このよ うな松井石根によって建立 された興亜観音が、いかなる思想 により発案 さ れ製作 されたのか、また どこに どのよ うな経緯で建立 されたのか、さらには興亜観音が人々に

どのよ うな影響 を与えたのか明 らかに したい と思 う。

南京戦後の慰霊

昭和 12年 12月 13日 、南京 は陥落 し、17日 に入場式が行われたが、翌 18日 に南京戦にお いて亡 くなった 日本軍戦死者の慰霊祭が行われた。 この慰霊祭について、東京裁判中山寧人参 謀の宣誓 口述書では以下のように述べ られている ③。

慰霊祭 は初め"中

国軍の戦没者 も併せて祈 り慰霊する様 にせ よ、これが 日支和平の基調で ある"と

、松井大将は参謀長に祭文其の他の準備 をす る様 に命ぜ られま したが、 同時の余 裕 な く後 日に譲 ることとな りま した。

松井は慰霊祭において 日本軍お よび中国軍の戦死者をあわせて祀 ることを考えていたが、師団 長か ら異論が出て、 同時の余裕 もなかったため 日本軍戦死者のみ とし、「中支那方面陸海軍戦 病歿将兵之霊標」の標柱が立て られ、南京城内故宮飛行場にて松井を祭主 として慰霊祭が挙行

された 0。 松井はすでにこの時点で 日中両国の戦死者の慰霊を考えていた と言 える。

また、山ノ井晃道 「千人針 と観音 さま」に以下の叙述がされている 0。

(昭和 12年 )十 月の或 る日の東京朝 日新聞の夕刊は、上海戦の第一線 に突撃部隊の勇 名 を馳せた我が鷹森部隊長の陣中生活の一面を報 じてゐる。

鷹森部隊長は 日頃、法然上人の教に深 く帰依す る人 とな り、死屍なま ぐさき戦線に立つ ては、 日毎に戦場の露 と消える敵味方の勇士の冥福を祈つて、法然上人の一枚起請文を誦

し又南無阿弥陀仏を唱へて亡き霊に回向 してゐると云ふ。

鷹森部隊長 とは、松井石根司令官配下の第 3師 団先遣隊連隊長の鷹森孝大佐のことである。

彼 もまた敵味方の戦死者供養 を行 つてい ることが注 目され る。

さらには、『朝 日新聞』昭和 12年 12月 24日 には 「無名戦士 よ眠れ」 と題す る記事が写真 とともに掲載 されている。

抗 日の世迷い言に乗せ られた とは言 え、敵兵 も又、華 と散つたのである、戦野に骸 を横た へて風雨に曝された哀れな彼 ら、が勇士達の 目には大和魂の涙が浮かぶ、無名の敵戦士達

よ眠れ !白木にすべ る筆の運び も彼 らを思へばこそ暫 し渋 る優 しき心の墓標だ

そ こには自木に 「中国無名戦死者之墓 大 日本軍建之」 と墨で書かれた墓標が 4柱 横たえて

°いる。 この記事か ら、敵兵を弔お うとしていたのは上官だけでなく、兵卒の間でも広 く行われ ていたことがわかる。中国 との戦争の際には 日本軍による慰霊が しば しば行われ、新聞でもよ くとりあげ られた 0。 こ うした慰霊のあ り方がいつか らどのよ うな形で行われていたのか、

従軍僧 との関係 も考慮 して検討の余地があろ う①

昭和 13年 2月 7日 には南京で 50日 祭 ともい うべき慰霊祭が挙行 された。『松井石根大将陣

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中 日誌』には以下のように記 されている。

午後慰霊祭二参列ス 予 ハ去年南京入城翌 日最初ノ慰霊祭 ヲ自ラ祭主 トシテ営 ミ 今 日 亦五十 日祭 トモ云フヘキ此祭事二遭 フモ ノナ レ ト 異 ノモノハ戦勝 ノ誇 卜気分ニテ寧 口忠 霊二対シ悲哀 ノ情少カ リシモ 今 日ハ只々悲哀其物二捉ハ レ責任感 ノ太 ク胸 中二迫ルヲ覚 エタリ 蓋 シ南京 占領後 ノ軍ノ諸不始末 卜其後地方 自治、政権工作等 ノ進捗セサルニ起因 スルモ ノナ リ 例 テ式後参集各隊長 ヲ集メ予 ノ此所感 ヲ披露シテー般 ノ戒筋 ヲ促セ リ

忠霊 (病死共) 一 人、○○○余 斃馬      一 二、○○○頭

この とき慰霊 されたのは、12月 18日 の慰霊祭で慰霊 された 「中支那方面陸海軍戦病歿将兵」

の 「忠魂」であって、 中国人の戦死者の慰霊は行 われていない。 なお この時に、「忠霊二対 シ」 「只々悲哀其物二捉ハ レ責任感 ノ太 ク胸 中二迫ル ヲ覚エタ リ」 とい う感想 を残 しているの は、「南京 占領後 ノ軍 ノ諸不始末」や 「政権工作等 ノ進捗」 しないことによるためであった と してい る。南京入城後、軍紀の乱れか ら一部兵士による略奪 ・強姦 ・暴行 ・殺人が行われたこ とに松井は心を痛めていたことが昭和 12年 12月 20日 の 日記か らもわかる。そのため、慰霊 祭 の際に 「軍紀 ・風紀 ノ振粛」 「支那人軽侮思想 ノ排除」 といった訓示を与え、規律 を正そ う

と努 めている。

この 日の夕、中国側の 自治委員 と会見 し、新政権樹立を中国人の手に任せ、そのためには 自 らも協力を惜 しまない 旨を述べ、朝香宮軍司令官主催 の夕食会では、 「兎二角支那人 ヲ懐カシ メ 之 ヲ可愛カ リ憐 ム丈ニテ足ル ヲ以テ 各 隊将兵二此気持 ヲ持 タシムル様希望」す ることを 各隊長に述べてい る。中国通であつた松井は慈悲の心をもつて中国お よび中国人 を見ていた。

そ して翌 2月 8日 朝、兵靖病院を慰問 したが、その際、 日中両国僧侶参列の下、中国軍戦 死者の慰霊祭 を行 つてい ることが注 目され る。上海派遣軍参謀副長 『上村利通 日記

』 には その様子が以下のよ うに記 されてい る。

松井軍司令官兵靖病院見舞、担江 門脇二於テ支那軍戦死者 ノ慰霊祭 ヲロロニ取 り行 フ。

敵ニハア レ ド亡キガラニ花 ヲ手向クル武士道 ノ情ケナ リ」 自治委員会 ノー行、 日支 ノ僧 侶参列ス

この慰霊祭は、南京城北西の担江門脇で行 つていることか ら、昭和 12年 12月 12日 日本軍南 京侵攻の際、中国軍兵士が担江門か ら脱 出 しよ うとして混乱 し、約 1000名 の中国軍兵士が死 亡 した担江門事件の慰霊であろ う。

さらに 2月 14日 には、上海郊外の呉泄元砲台跡 に計画中の聖戦記念塔の地鎮祭 を行つてい る。 この地は最初の上陸作戦で多 くの 日本軍死者を出 した激戦地であ り、そ こに記念塔が建設 され ることになったのである。また同 日、上海東西本願寺に祀 られている戦病死者の英霊に参 拝 してい る。『松井石根大将陣中 日誌』 によれ ば、西本願寺に収容 されてい る遺骨総計は約 2 万 1千 で、すでに 4千 余 を還送 し、近 くさらに 6千 を還送す る予定だ とい う。また東本願寺 の分は総計 2千 余で、すでに 6百 余 を還送 し、近 くさらに 3百 を還送す る予定だ とい う。 こ れ ら多数の戦病死者の遺骨 を 目の当た りに し、松井は 自身の責任の重大 さを痛感 じt「痛恨 ノ 至 りJと 記 している。

また 2月 18日 には、大場鎮の戦闘で亡 くなった 日本軍戦死者慰霊のため建設す ることにな

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つた表忠塔の題字お よびその下に刻記す るための詩 を書 し、それは以下のよ うであつた。

大場鎮陥落即吟 悪戦力闘三閲月 包疲抜塁斃不已 神哉敵陣旭旗翻 欲餞忠霊幽寂裏

こ うした納骨施設 を伴つた表忠塔 ・忠霊塔の類は、 日露戦争以後、 日本軍が海外で戦闘の後、

英霊 を弔 うため、その地に少 なか らず建立 された。遺骨の大部分は郷里に還送 されたが、残 つ た遺灰は付近の清浄な地に埋葬 され、納骨祠 を建立 して遺灰は奉安 された

以上、南京戦後、松井の戦死者慰霊に関す る記事を抜き出 してみた。 ここでわかることは、

松井は 自ら慰霊祭の祭主を務めるな ど、積極的に慰霊を行 つてお り、 日本軍だけでな く中国人 の戦死者慰霊 も行 つてい ることである。

松井は 2月 23日 に門司港に到着後、翌朝赤間神宮お よび乃木神社に参拝 してい るが、松井 は同 じ大将 として乃木希典 を非常に尊敬 していた。乃木は 日露戦争旅順要塞攻撃で亡 くなった ロシア軍慰霊のために、明治 41年 6月 10日 日露両国の代表者が参列 して行われた 「旅順陣 歿露軍将卒之碑」の除幕式に参カロした り、旅順要塞攻撃の際に殉 じた 日本陸海軍将校下士卒の 遺骨残灰の一部 を合葬 して英霊 を慰 めるために、明治 41年 3月 31日 に竣工 された旅順 白玉 山納骨祠や、 日本軍戦歿者の英霊 を慰めその威烈を千載に伝 えるために、明治 42年 11月 28 日に竣正式が行われた旅順表忠塔にも深 く関わつていることか ら、慰霊に関 してこ うした乃木 のあ り方に倣 つたのであろ う(1°。 「旅,原陣歿露軍将卒之碑」建立の意図は、戦時中は 「仇敵」

だつたが戦後は 「友邦者」 となったのであ り、 自国に忠義 を尽 くし戦歿 した 「英霊」が存す る のであるか らもちろん敵国にも戦歿 した 「英霊」がお り、その遺屍が 「無頼土民の徒」に冒涜 されない よ うに改葬 して弔い、その義烈 を千載に伝 えようとしたものであつた とされている0。

こうした慰霊のあ り方は、武士道 と結びついて醸成 され、 さらには松井石根が強調 した 「怨親 平等」思想 に基づいた興亜観音建立へ とつながってい く。

興亜観音の建立

熱海伊豆 山に建立 され た興亜観音の経緯 については、田中正明編 『松井石根大将の陣中 日 誌』に紹介 され る熱海伊豆 山温泉旅館涼々園主人古島安二氏の手記 「興亜観音建立由来記」に 詳 しいので、それ をまとめる形で紹介 したい。

松井石根は、帰還 した昭和 13年 5月 粽々園に滞在 し、古島に伊豆山で余生 を送 りたい こと、

それに相応 しき住宅 を作 りたい ことを相談 し、古島はその手伝いを した。住宅が一段落すると、

松井は 「出征の際某氏か ら一体の観音像を寄進 され、陣中常に奉戴 して来たが、 自分の家は神 道であってこれを安置す る仏壇がないのでり「か困つているのだが……」 と相談 した。それに対 して古島は観音様 をおまつ りして部下戦没将士二万余の英霊 を弔われた らどうか と提案 した と

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ころ、松井は即座 に賛成 した。 さらに、観音堂の建立だけでは平凡であるので、上海上陸以来、

南京入場に至 るまでの各戦場の土を採 り、これで露座の陶製の観音像を造つては と進言 した と ころ、松井はそれ に賛成 して 「死んだ ら敵 も味方 もない、よろ しく一緒 にまつろ うではない か」 と言い、戦争の犠牲者の血 肉に

よつてできた観音像 は 「興亜観 音」

と命名 し奉 るほかない との松井 の固 い意思によ り、それ と決まった。

興亜観音 の原型 の製作 は、 当時愛 知県常滑の陶工柴 山清風氏が陶製の 観音像 を焼成 し、 これ を各方面 に頒 布 してい ることを聞 き、名古屋へ出 向 き同氏に原型 を依頼 してll■諾 を得 た。土は畑軍司令官にお願い して 「 場の土」 を十樽 ほ ど送 って頂い たの を常滑へ送荷す るとともに、なお完 璧 を期す る意味で彫塑家小倉右一郎 氏 に原型の修正 を依頼 した。 か くし て両氏合作 の塑像が出来 、 この焼成 は常滑の杉江製陶所 が引受 けて下 さ った。

以上、「興亜観音建立 由来記」の概 略であるが、観音像建 立計画 は古島 によつてたて られ、実際 に建 立 に向 けて奔走 していたの も古 島であつた ことがわかる。

本尊の観音は瀬戸の陶工師カロ藤春二、露座の観音は常滑の柴山清風作で、内陣右 には 「支那 事変 日本戦没者霊位」、左 には 「支那事変 中華戦没者霊位 」を安置 し、開眼式は昭和 15年 2 月 24日 、芝増上寺大島徹水僧正 を導師 として行われた。加藤は一人息子が 日中戦争の際戦死 し、松井の念願 に共鳴 して合掌印の観音像 と同 じ姿のものを二尺に謹作 したので、以下、露座 の興亜観音 を中心に建立の経緯について見てい く。

『朝 日新聞』昭和 14年 3月 29日 「悲願一千観音像一燃 ゆる信仰 を一本の箆に一尊 し六年 無償の奉仕」 と題す る記事 に以下の記述がある。

一本の箆に燃ゆる信仰 と沸きあがる製作慾 をこめて観音像を刻むこと六年、 しかも全霊を 傾 けたその観音像を乞はるるま ゝに一年百證づつ無償で同好の士に頒 ち仏 門の興隆に情熱

を捧げる (中略)

昭和九年一本の箆を手に して斎戒沐浴二ヶ月間、全生命 を打ち込んで謹作 したのが法隆寺 夢殿の国宝救世観音菩薩の陶像であつた、以来仕事の余暇に毎年百誰づづ十 ヶ年一千誰の

熱海の興亜観音

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観音像 を製作 して広 く無償で与へ信仰の世界に導 くことを決心 しすでに五百證の救世観音 像 を製作 した

(中略)

支那事変が勃発するや氏は知多郡最高の本宮山頂に六尺余の護国観音建立を発願 し精進 を 続 けてゐるほかすでに海上に働 く人達の安全 を祈願す るため人尺余の一葉観音像 を謹作 し て鳥羽湾頭に建立 した、また異境にあつて皇国のため奮闘す る皇軍将士の武運長久を祈 る ため一寸足 らずの 「弾除け観音」を謹作 して松井前中支最高指揮官、寺内前北支最高指揮 官は じめ多数の将兵に贈 り第一線か らの感謝状が山積 してゐる、 日下某将軍の依頼を受け て一丈余の観音陶像 を建立す ることにな り原型の製作に努めてゐる

す るために生きてい るか と考 え出 してか ら神経衰 弱に陥 り、そ うしていた ところふ としたことか ら

『観音菩薩研究』 とい う本 を読み、悩んでい る人 たちを信仰によつて救お うと観音像建立 を決意 し た とい う°"。そ して昭和 9年 2月 か ら観音像一千 体謹作 の発願 を起 こし、篤信者 に対 して無料で分 けていた。その一方、鳥羽市三 ツ島 (平島)の 一 葉観音 (波頭観音)や 常滑市樽水本宮山護国観音 な ども製作 してい る(13)。

そ して注 目され るのが弾除け観音である。『朝 日 新聞』静岡版昭和 14年 7月 4日 松井大将の熱 願 五 族協和を表徴 !熱海 に建つ"興

亜観音"」

事中にも、

"興

亜観音"の

製作 を依頼 され た愛知県知多 郡常滑町在住陶工柴 山清風氏 は大将がかねて 戦地 にある際部下将兵に小 さい弾 よけ観音像 を贈つたことが機縁 となった もので昨年十二 月大将か ら観音像製作 を委嘱 され るや大いに 感激 、心血 を注いで製作 に当 り六月末約一尺 の粘 土像の試作を完成 、二十 日には松井大将 来名 して下見を し、愈近 く本製作 に着手す る ことになつた

と記 されてお り、興亜観音の製作者 として清風が

選ばれたのは、戦地の部隊に弾除け観音を贈 つていたことが機縁 となった。弾除 け観音 は 3 ンほどの陶製で、兵士たちは千人針の腹巻きの中に弾除け観音を潜ませていたとい う0。

戦地に赴いた兵士たちの間では、観音菩薩に対す る信仰が広まっていたようである。 これは

『観音経』の内容と関係している。

弾除 け観音 (柴山寛 氏蔵)

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或被悪人逐 堕 落金剛 山 念 彼観音力 不 能損一毛 或 値怨賊続 各 執刀カロ害 念 彼観音 力 咸 即起慈心 或 遭王難苦 臨 刑欲寿終 念 彼観音力 刀 尋段段壊

(中略)

譲訟経官処 怖 畏軍陣中 念 彼観音力 衆 怨悉退散

悪人に追われて金剛山か ら落 ちた としても、観音の力を念 じたな ら、髪の毛一本 も損な うこと はない。心に怨みを抱 く悪い賊 に取 り囲まれて斬 り殺 されそ うになったとしても、観音の力を 念 じたな ら、彼 らは慈悲の心を起 こすだろ う。悪い王の災難 に遭い苦 しめ られて処刑 されそ う になった としても、観音の力 を念 じたな ら、刀 は段々に折れて しま うだろ う。争いの際に戦い の中で恐怖におかれても、観音の力を念 じたな ら、衆生の怨みはことごとく退散す るだろ う。

観世音菩薩は、私たちが遭遇す るあ らゆる苦難に際 し、その偉大なる慈悲の力 を信 じて観音 の名を唱えれば必ずや救つてくれ るとされ る。そのため、出征に際 し、観音のお守 りを身につ けていつた り、『観音経』 を唱えることがあつた゛め

。 こうしたことか ら、松井の建立す る仏像 には観音菩薩がふ さわ しかったことがわかる。

興亜観音の高 さは人尺、台座の高 さ二尺五寸、陶製合掌像でこれは古来の観音像の型 を破っ て、伸ば した五本の指は五族協和、合せた一つの掌は東西、西洋の一致を表 して製作 された。

これだけ大きい陶像 を製作す るのは非常に困難であるとい う(1°。興亜観音が完成す るまで、

松井は数回にわたつて清風のもとを訪れた。昭和 15年 2月 3日 に像は完成 し、名古屋鉄道お よび国鉄の無料奉仕で熱海 まで輸送 された。

熱海市伊豆山鳴沢に建立 された興亜観音の開眼供養法会は、昭和 15年 2月 24日 、願主松 井石根、導師芝増上寺大島貫首をもつて挙行 された。

建立縁起」には次のよ うに記 されてい る。

支那事変は友隣相撃 ちて莫大の生命 を喪滅す。実に千歳の悲惨事な り。然 りと雖、是所謂 東亜民族救済の聖戦た り。惟ふに比の犠牲たるや身を殺 して大慈を布 く無畏の勇、慈悲の 行、真 に興亜の礎た らん とす る意に出でたるたるものな り。予大命 を拝 して江南の野に転 戦 し、亡ふ所の生霊算な し。洵に痛惜の至 りに堪へず。方に此等の霊 を弔ふ為に、彼我の 戦血に染みたる江南地方各戦場の土を獲 り、施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立 し、

此の功徳 を以つて永 く怨親平等に回向 し、諸人 と倶に彼の観音力を念 じ、東亜の大光明を 仰がん事 を祈 る。

因に古島安二氏其他幾多同感の人士併に熱海市各方面の熱心な協力を感謝す。

紀元二千六百年二月

願主 陸 軍大将 松 井石根 また、『朝 日新聞』静岡版昭和 15年 2月 25日 「"冥

福 を祈つて"願

主松井大将は語 る」に は、 「興亜観音開眼式の二十 四 日朝、松井大将 は牧少将を通 じて観音建設 の意向を次の如 く語 つた」 として、

興亜の大光明を仰 ぎ度い一心か らこの大業のために尊い犠牲 となつた皇軍将士 とこれ も 同 じ大業のためたふれた支那の兵士の霊 を併せて弔ひ度いのが 自分の念願で皇軍将士は 靖国の神 と祀 られ るのであるが皇道精神か ら見れば自分が観音像を建ててその冥福を祈 る気持 もそれに合致 してゐると信 じてゐる、本籍迄熱海へ移 した 自分はここで幾多の英

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霊 を慰 めなが ら余生 を送 り度い と思ふ と記 され てい る。

建 立縁 起」 で は、 「怨親 平等」 が明確 に記 され てお り、観 音菩薩 の力 に よつて亡 くなった 人 々の菩提 を弔い 、 さらに東 亜民族の救済 を念 じてい る。

本堂の興亜観音堂の基石の下には、松井の写経 とともにある女性の般若心経一千巻の写経が 納め られた。『朝 日新聞』東京本社版昭和 16年 9月 11日 には 「英霊に献 ぐる秘願 畢 生の写 経千巻一興亜観音に香 る一女性の心血一」の記事が掲載 されてい る。 これによると、東京に住 む女性が、亡き父の三界万霊の冥福 を祈 る写経 を引き継 ぎ、英霊の供養 に と般若心経一千巻の 写経 を して十巻に表装 し、総持寺貫首伊藤道海禅師 らの題字 を添えて松井に贈 り、松井の手で 納め られたのであった。そ して、「興亜の英霊 に捧げる心清い一婦人の"写

経秘話"が

御堂に 杖ひ く人々の語 り草 となつてゐる」 と記 されている。

興亜観音の造立は、戦死者 を悼む多 くの人々の心を動か していった。

各地に建立 された興亜観音

興亜観音は熱海のものが著名であるが、それだけではなかった。新聞記事で興亜観音につい て報道 され るや、怨親平等思想に共鳴 した僧侶が 自らの寺院にも興亜観音 を建立 したい との希 望 を松井に申し出、松井はそれに対 して快諾 して、他所においても興亜観音が建立 され ること になった。

第二号」の興亜観音は二重県尾鷲市の曹洞宗寺院金剛寺境内に建立 された。金剛寺 21世 の鬼頭観梁和尚は、熱海に興亜観音が建立 されたことを知 り、尾鷲にも建てたい と松井大将に 懇願 し、認 められたのであった゛つ

伊勢新聞』昭和 16年 8月 11日 「興亜観音像除幕式 尾 鷲町金剛寺境内で営む」には以 下のよ うに記 されている。

北牟婁郡尾鷲 町金剛寺住職鬼頭氏 の発起で地元有志 の浄財 を得て同寺境 内に建立 を急 ぎ つ ゝあつた 『興亜観音像』は今次聖戦に幾多武勲を樹 て興亜の礎石 として散つた護国の忠 霊 を永久に慰 めるべ く岡崎市の名工宇野員太郎氏に依頼中の ところこん ど見事 に彫亥Iを終 り安置 したので九 日の吉 日を 卜し午後一時か ら大本 山永平寺貫首高階禅師、徳り│1好敏 中将 臨席、松井石根大将 、小笠原長生子の祝辞代読、濱地文平代議士ほか町村長 関係来賓百余 名 を招 き荘厳 な除幕 の式 を挙行、午後二時盛会裡に終了 した。式後徳川 中将の時局講演が 行 はれた

柴 山清風以外によつて製作 された興亜観音は、金剛寺の興亜観音だけである。 また石仏である ことも他の興亜観音 とは異なっている。胸の前で両手を合わせ る姿や衣文等、熱海 のものと同 一になるように製作 されたようである。

台座銘には以下の 「興亜観音建立縁起」が記 されている。

支那事変戦没者追悼供養の為観音大士を建立す、願 くはこの功徳 を以て普 く怨親平等に回

一‑15‑―

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向 し、 日華両民族倶 に妙智力に依倍 して速やかに東亜の大光明を仰かんことを祈 る、

昭和十六年七月吉 日 金 剛廿一世 観 梁曳

辛 巳端午 怨親 平等

祐 民誼」

こ こで も戦 争 で 亡 くな った 日中両国 の戦没 者 の供養 と して 「怨 親 平 等 」 が強調 され 、観 音 菩 薩 の力 に よつて大東 亜建 設 が な され るよ う 祈願 してい る。 「怨親 平等 」 と揮 豪 した祐 民誼

は、民国 29年 (1940)3月 、南京 国民政府 の 行 政 院副 院 長兼 外 交部 長 とな り、 日本 との外 交折衝 を主 に担 当 し、同年 12月 駐 日大使 とな つ た人物 で あ る。 年 月 か ら して 、駐 日大使 と して 日本 に赴任 してい る際 に依 頼 され て揮 皐 した と思 われ る(1め

金 剛 寺 の興 亜観 音 が石 仏 とな った こ とに 関 して の詳 細 は よ くわか らない が 、 岡崎 は石 工 品 で有 名 で あ るの で、石 仏 で興 亜観 音 を作 る こ とに な っ た際 、金剛 寺 と関係 の あ つた宇 野 員太 郎 に依 頼 した の で あ ろ う。 金 剛 寺境 内 に は昭和 10年 5月 27日 の 「日露戦勝 二十周記 念 日」 に東 郷 平人郎 の筆 に よ る 「妙 智 力碑 」 が建 立 され 、そ の ときの石 工が宇野 員太郎 で あ った こ とか ら、今 回 も氏 に彫 像 を依 頼 した の で あ ろ うが、松井 に どの よ うに連 絡 を とつ たのか は不 明であ る。

開 眼供 養 の際 に は、松 井 はお そ ら くは体 調 が芳 しくなか った た め参 列せ ず 祝辞 を寄せ て い る。  当 日は、昭不日1 3 年 4 月 1 0 日 、決 死的 な爆 撃行 の 中で弾 丸数 十 発 を浴 び 、左 腕 左 脚 を負傷 しなが らも、操縦繰 にハ ンカチ を巻 き、

日で くわ えて基地 に帰還 し、15日 に亡 くなっ た尾 鷲 町 出身 の福 山米 助 大尉 の娘洋 子 ちやん が除幕 を行 つた(1°

。 そ して、北 牟婁 郡 内戦 没 将兵遺族 ら 200余 名 が参列 し、郡 内 32ヶ 寺の 僧 侶奉仕 の も と、永 平 寺 貫 首高 階禅 師 の 開 眼

供養があ り、岡町長以下来賓の祝辞、武運長久祈願ののち、 日支両軍戦歿将兵英霊の追悼が行 われ るな ど、盛大な儀式であつた。

尾鷲市金剛寺の興亜観音

―‑16‑一

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ついで富山県入善町の浄土真宗養照寺に興亜観音が建立 された ゛°。熱海 に興亜観音が建立 されたことを知った養照寺住職藤裔常倫氏は、昭和 15年 3月 13日 に興亜観音 を訪れ、その 際、偶然に松井の姿を拝す ることができ感動 したことを記 している。そ して翌年 1月 11日 再 び参拝 し、同時に松井に対 して、興亜観音の分身 を 日本海 に臨んで養照寺内に建立 したい旨申 し出ると、松井はll■諾 して製作者である柴 山清風 を紹介 された。そ して松井は像下の題字 とな る 「興亜観音」をす ぐに揮豪 して養照寺に送った。興亜観音建立委員長は町長の米澤元貞氏が 務めて式典の準備が行われた。清風は松井か らのヽ紹介により観音像の製作に取 りかか り、昭和 17年 1月 10日 、養照寺に像が到着 し、昭和 17年 5月 3日 、開眼供養が行われた。

観音像の右には祐民誼によつて 「怨親平等」 と揮豪 された石碑が建て られ、開眼供養法要に は祝辞 を寄せた。そ してその碑 には、菊池寛が選 した選 した碑文が刻まれた。その文面は以下 の とお りである。

それ観世音は、衆生に無畏を施すゆゑに施無畏者の名あ り、大慈大悲の心篤 きを以て大悲 聖者の名あ り、世界を救済す るの故に救世大士 とも称せ られたまふ。思ふに興亜の義戦は 万邦に無畏 を施すにあ り。興亜の心は万民に慈悲を加ふ るにあ り。興亜の道は虐 げられた る民族を救済す るにあ り。 しかも観音菩薩の救済は無限に して、普 く一人 も漏れ ることな しと聴 く。まことや大東亜聖戦の意義は観世音の心願 を東亜に実現す るにある。今養照寺 の寺域に立ちたまふ聖姿を拝する人は、何人 も興亜の戦に散 り行 きじ人々に対 し、敵味方 無差別の菩提 を弔ふ と共に、戦争の悲願 に、恩讐一如万民共栄、施無畏の理想世界の一 日

も早 く建立せ られんことを念願すべきであ らう。

昭和十七年二月二十六 日

菊池寛 興亜観音に対 して、敵味方の差別なく菩提 を弔 うの と同時に、観音菩薩の力によつて東亜の民 族の共栄が実現 され ることを祈願 している。また、門前の標石には牧次郎少将の筆による 「 亜観音」の文字が亥Jまれた0。 牧次郎は杭州湾上陸の際の勇将 と讃 え られ、帰還後は知恩院 で得度 し繹相園 と名乗つたが、法衣姿で戦場 を弔い、激戦地の霊土霊骨 を将来 して増上寺に安 置 していたが、その一部 を観音像の台座内に安置 したのであった。そ して、東本願寺句佛上人 の 「栄誉無上護国の魂に風薫 る」の句碑 も建て られた。

開眼供養が行われた昭和 17年 5月 3日 には、松井は病気のため参加できず祝辞 を寄せたが、

大谷派宗務総長信正院螢潤連枝導師のもと開眼供養法会が行われ、僧侶二十数名による勤行以 下、盛大な式 となった。

ついで奈 良県桜井市蓮台寺に興亜観音が建立 された ②。蓮台寺 21世 性誉寛樹和尚が、熱海 に興亜観音が建立 されたことを知 り、 自らが提唱 していた興亜合掌会の求めるものは興亜観音 像の建立か ら始まると思い立ったことによるものである。性誉寛樹は知人織 田陳蔵氏が柴山清 風 と旧知の由を知 り、同 じ仏像製作を依頼 した ところ、大将の命あるな らば製作す るとのこと だったので、松井 と親交の厚い大島徹水増上寺法主狽下を介 して、昭和 16年 1月 5日 熱海の 松井邸 を訪ね、興亜会の主 旨を述べ、同 じ土をによ り製作 した観音像 を蓮台寺境内に建立 した い と懇願 した。松井はこれに同意 して 自ら発願主 とな り、柴 山清風に高 さ 2。42傷 の興亜観音 像製作 を依頼 したのであつた。

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そ して、昭和 16年 11月 3日 、 大島大僧正 を導師 に迎 えて地鎮祭 が 行 われ た。 その地 下には県 下の小学 校児童 に よる名 号石 、奈 良安井崇徳 寺住職 の発 起 の写経石 が納 め られ 、 基礎石 には天平年 間吉備真備 に よつ て建 立 され た とされ る心楽寺の礎石 を四切 に して使用 され た。 また、観 音像め横 には 「興亜観音 発 願  陸 軍大将松井石根」 と刻 んだ標石 も建 て られ た。 翌 17年 9月 に工事 を終 え、昭和 18年 3月 27日 松井夫妻 を迎 え、大 島大僧 正 を導 師 と して開 眼大法要 が行 われ た。そ の発願 文 は 以下の とお りであ る6

支那事変 は友 隣本目撃 ちて莫 大の 生命 を喪滅す。 実に千載 の悲惨 事 な り、然 りと雖 も是れ所謂東 亜民族救済 の聖戦 に して、其犠 牲 た るや身 を殺 して大慈 を布 く 無畏の勇慈悲の行以 て興亜の礎

た らむ とす るの意に因 るものな り。予暴に大命 を拝 して江南の地に展戦 し喪ふ所の英霊算 な し。拘に痛恨の情に堪えす、姦に此等英霊を弔 う為彼我の戦場た りし江南地方各地の土 塊 を採 り来 りて施無畏者慈眼視衆生の観世音菩薩の像を建立 し、此功徳 を以て永 くゝゝ怨 親平等に回向 し、諸人 と共に彼の観音力 を念 し東亜の大光明を仰かむ ことを祈 る。今や大 東亜の戦跡は遠 く南洋の彼方に及び戦争の範囲も亦支那事変の比にあ らす。糞 くは亜細亜 古来の観音精神 を治 く大東亜の諸民族に悟了せ しめて大東亜聖戦の完遂に貢献せむ ことを 以て発願の辞 となす。

昭和十八年二月二十七 日

陸軍大将 松 井石根 (花押)

当 日は浄土宗総本山知恩院式衆 をは じめ県下各寺院の僧侶、京都師団長代理相葉大佐、中華民 国大使代理侃学林氏、奈 良県知事代理坂 田聖地顕揚課技師、大福 ・香具山国民学校児童、戦病 歿軍人遺家族 らが参列す る盛大な法会 となつた。

興亜観音 として露座に建立 されたのは、熱海、尾鷲、入善、桜井の 4体 であつた。興亜観音 は熱海 に建立 された後、それ を報道 で知つた人 々が、「怨親平等」の思想 に心を動か され、分 身を地元にもとの思いで松井大将に懇願 し、仏教界、政界、軍、地域が一体 となって運動 した 結果であつた。そこには亡 くなつた人の菩提 を弔 うの と同時に、興亜」 を観音に祈願 し、戦 争を勝利に導いてもらいたい との意志 もあつた。

桜井市蓮台寺の興亜観音

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(12)

︲ ︲

その他、外国に贈 られた興亜観音もある。『読売新聞』昭和 16年 6月 25日 「江氏へ興亜観 音仏一けふ松井大将が沼津駅頭で一」とい う記事には、6月 25日 静岡県沼津駅で、松井が南 京国民政府江兆銘主席に約 8寸 の興亜観音像を贈ることが記されている。贈 られ る観音像は、

熱海の興亜観音像を型取つた清風の製作によるものであった。贈ることになった理由について は、

松井石根大将は江主席 とは第二次支那革命以来すでに廿余年の知己で廿三 日夜帝国ホテル で催 された江氏歓迎晩餐会に出席 した時興亜の大道を語 り合つた際、談たまたま興亜観音 に及び恩讐 を超越 して 日華両勇士の霊 を祈 る大慈悲心に江主席は感激、松井大将か ら贈 る ことになつたものである

とされている。東亜新秩序建設のために 6月 17日 上京 した江兆銘は、近衛文麿首相、松岡洋 右外相 らと会談 し、帰路特急つばめ号の停車 した沼津駅で松井か ら興亜観音の ミニチュアを贈

られた0。 これも清風作で、ミニチュア興亜観音は国内外に数点贈 られたようである。

上海玉佛寺にも興亜観音が贈 られた。『朝 日新聞』昭和 18年 10月 26日 「けふ興亜観音の 恭送法要」記事に以下のよ うにある。

来 る十一月二 日か ら上海玉佛寺で開かれ る大東亜戦争戦没者慰霊法要の本尊仏 として 日華 将兵の冥福 を祈 るため中国に渡 ることになつた既報松井石根大将発願の興亜観音聖像恭送 法要は、大 日本仏教会の主催で二十六 日午前十一時か ら芝増上寺大殿で営まれた

玉佛寺に贈 られた興亜観音 もおそ らくは清風作の ミニチ三ア興亜観音だろ う。また、昭和 18 年にはタイ国 ピプン首相 に献上 された興亜観音 もある°°

興亜観音は新聞で紹介 され るだけでな く、浪 曲にもな り、全国各地 に伝 え られた。『朝 日新 聞』昭和 19年 3月 24日 の記事は以下のよ うである。

松井石根大将が発願建立 した熱海市伊豆 山鳴沢の興亜観音の縁起が興亜総本部の肝煎で今 度浪由に編まれ新篇 「興亜観音」が出来上つた、同大将の中支戦跡の慰霊行における坂 田 上等兵母妹の挿話な ども織 り交ぜ 日支両国将兵の忠魂 を祀るまでを物語風に描写 したもの で四月二十四 日熱海市を皮切 りに木村若衛が全国を行脚す ることになつた

こうした興亜観音 も、戦争が激 しくなると建立 され ることはなくな り、新聞記事にも見られ なくなった。そ して、敗戦、 さらには松井の処刑 とい う事態の急展開に直面す ることになった のである。

お わ りに

以上、興亜観音建立の経緯について紹介 した。 これまでは熱海の興亜観音にのみ注 目が集ま り、他の興亜観音についてはほとんど忘れ られていたと言つてよい。その背景には、松井石根 が戦犯 として処刑 された り、「興亜」 とい う語が否定されたことにより、興亜観音 も忌避 され るようになったとい うこともあろう。

松井が興亜観音を建立 したことに対 して、偽善にすぎない との見方もある。 しか し、松井の

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(13)

人 とな りを見れば、そのよ うな推測はあた らない ことがわかる。松井は尊敬す る乃木希典に倣 い、武士道に基づいて、勇敢に戦つた敵将 もたたえて祀つたのである。そ してそ こには仏教思 想の影響 もあ り、「怨親平等」を唱 えるようになった と考 えられ る。彼の晩年はひたす ら戦死 者の冥福 を祈 ることに費や されたのである。

戦地に赴いた兵士の間では、弾除け観音や観音のお守 りを身につ けた りす るな ど、観音信仰 が広がっていた。また、従軍僧や兵士たちによる敵味方のない戦死者の慰霊 も数多 く行われた。

こ うしたことを受 けて、松井は帰還後、興亜観音 を建立 し、毎 日参拝 して観音経 を唱えた。

従軍の後、出家 した兵士 も少 なくない。戦争 とい う狂気に翻弄 され、生き延びた者がせめて もの思い としてできる行為が、死者への慰霊である。そこには古代以来続 く日本人の霊魂観 を 基層 として、時代 とともに変わる慰霊のあ り方がある。私は、興亜観音の前に立つ とき、歴史 に翻弄 された多 くの先人たちの姿を思い起 こさずにはい られない。

(1)名 古屋駅南の椿神社境内には、松井の筆による 「武五郎直行君頌徳碑」 と、松井が南京 入城後に作つた詩が刻まれた碑が建てられている。なおこの碑は、戦後中村公園近 くの池に 投げ捨てられたが、再び建てられたとい う。

(2)松 井石根の事績に関 しては、田中正明編 『松井石根大将の陣中 日誌』 (芙蓉書房、1985 年)、早瀬利之 『将軍の真実 南 京事件一松井石根人物伝』(光人社、1999年 )な どに詳 し

く、本稿執筆にあたつて大変参考にさせていただいた。

(3)南 京戦史編集委員会編 『南京戦史資料集 Ⅱ』 (僣行社、1993年)。

(4)こ のときの様子は、昭和 13年東宝映画文化映画部作成の戦線後方記録映画 『南京』 とし て編集 され、DVD『 南京 戦線後方記録映画』(コニービデオ、2004年 )で 見ることができ る。松井は長文にわたる祭文を読み上げ、さらに玉串奉箕の後、誰よりも長 く黙祷 している。

(5)山 ノ井晃道 「千人針 と観音 さま」(『観音世界』1‐10、1937年)。

(6)張 石 「日中戦争における旧日本軍 と中国軍隊の 「敵の慰霊」について― 日中の死生観を めぐつて一」(『東アジア共生モデルの構築 と異文化研究一文化交流 とナショナ リズムの交錯 一』(法政大学国際日本学研究センター、2006年)で は、1937年 3月 から1945年 8月 まで

の 『朝 日新聞』に 15件 の日本軍の 「敵の慰霊」が掲載されたとする。

(7)佐 藤正導 『日中戦争 。ある若き従軍僧の手記』 (日本アル ミット株式会社、1992年 )で は、佐藤氏が河北省で慰霊祭や宣撫活動を行つていた様子が具体的に書かれている。「死ん だ人達は皆んな仏であ り、敵も味方もありません。私は中国の兵士も日本の兵士も、わけヘ だてなく供養をしてまわつてお ります。」 との叙述は、従軍僧のあ り方をよく示 している。

こうした仏教の 「怨親平等」思想が、松井の興亜観音構想に影響を与えたと思われる。

(8)南京戦史編集委員会編 『南京戦史資料集 Ⅱ』 (偕行社、1993年)。

(9)大原康男 『忠魂碑の研究』(暁書房、1984年)。

(10)大濱徹也 『乃木希典』(河出書房新社、1988年)に よれば、乃木は自戒の思いを込めて 武士道の本質を広く伝えるのに尽力し、常に戦死者や傷病兵を意識 していたとい う。

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(14)

︲ ︲

(11)藤田大誠 「近代 日本における 「怨親平等」観の系譜」(『明治聖徳記念学会紀要』復刊第 44 号、 2007̀等1)。

(12)網野宥俊 「松井大将発願の観音像謹作者柴山清風師を訪ふの記」(『観音世界』3‐9、1939 年)に 観音像製作の経緯がまとめられている。

(13)護国観音は戦時中に何者かによって破壊 された。

(14)柴 山寛氏談。

(15)小笠原長生 「弾丸受給ふ観世音」(『観音世界』1‐7、1987年 )、平野龍之介 「お守 と千 人針のカロ護一上海事変に参加の勇士から壮烈なりし戦闘談を聴 く一」(『観音世界』1‐7、1937 年)、矢吹慶輝 「時局 と信仰一観音菩薩の信仰を中心 として―」 (『観音世界』1‐8、1937 年)、山ノ井晃道 「千人針 と観音さま」(『観音世界』1‐10、1937年 )な どに兵士たちの観音 信仰を見ることができる。

(16)柴 山寛氏談。

(17)伊藤良編 『ふるさとの石造物』(尾鷲市郷土館友の会、1980年)。

(18)祐民誼は後に昭和天皇から勲一等旭 日大綬章を授与されるが、終戦を迎えると広州で軟 禁 され、江蘇省の監獄に入れ られた。そして翌民国 35年 (1946)漢奸として死刑を宣告さ れ、8月 23日蘇州の監獄で処刑 された。

(19)福 山大尉 も金剛寺に 「制空院豪胆忠節居士」として葬 られている。

(20)建立の経緯については、『興亜観音』 (養照寺、出版年未詳)に 詳 しい。

(21)戦後は 「興亜観音」の文字が 「救世観音」に改められた。

(22)石崎正雄 ・吉井宗平 『賓林山蓮蔓寺』(蓮台寺寺史編纂委員会、1983年 )に 建立の経緯 が記 されてい る。

(23)江 兆銘 は 1944年 11月 10日 名古屋 で亡 くな り、遺体は南京郊外 の梅花 山に埋葬 された が、墓 を暴かれ るこ とを恐れ て 5ト ンの鉄鋼粉 を混ぜ た コンク リー トを流 し込んで棺が覆 わ れ たが、1946年 1月 15日 、国民党軍 は 「漢奸」だ と して墓 の外壁 を爆破 して棺 を取 り出 し、

遺体 を灰 に した後 、野原 に捨てた。 さらには 1994年 、墓のあった場所に後 ろ手 に縛 られ、

孫文 を葬 る中山陵に向いて脆 く江兆銘 の像 が造 られ た。

(24)清 風 の陶房 ホー ムペ ー ジ http7/www7b.big10beene.jp/〜kannOn/に 写真 が掲載 され てお り、高 さ 1.1鷲「とされ る。

付記 本 稿執筆 にあた り、熱海興亜観 音伊 丹妙浄師、金剛寺、養照寺、蓮台寺、常滑市柴 山寛 氏 、岡崎市宇野欽也氏 、朝 日新 聞東京本社辻直美氏 に大変お世話 にな りま した。 ここに記

して感謝いた します。

(やまだ ゆ うじ 二 重大学人文学部)

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参照

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