文久期・慶応期における開成所改革についての一考察 [ PDF
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(2) 代化といった文脈に位置づけることのできない側面を開. る開成所支配)が見送られることになった経緯・事情を. 成所は有しているのではないだろうかというところにあ. 論述した。. る。文久2(1862)年に作成された「開成所稽古規. 鎖国を放棄した幕府にとって、洋学導入による軍事力. 則覚書」に対する評価を例にあげると、大久保・倉沢の. の強化は不可欠な課題となった。しかし、そのために洋. 両氏は学科の成立という事柄に注目し、同覚書の作成を. 学を学ぶ者や、徳川幕府を支える旗本・御家人が「夷狄. 「画期的な改革」と評価する。たしかに教育と学問に明. ニ流入」してしまっては、国内における幕府の支配力を. 確な区分をもたない儒学社会において、学問の学科が成. 低下させることになる。蕃書調所の創立をめぐる評議の. 立した意味は大きい。しかし、開成所における学術研究. 論点は、洋学を効率的に摂取し、かつ「夷狄ニ不流」措. の実態解明に努めた原平三「蕃書調所の科学及び技術部. 置をどのように展開するかというところにあったとみて. 門に就いて」からは、「画期的な改革」という両氏の評. 良い。その論点が形となってあらわれたものが「支配役」. 価に見合うような状況は見当たらない。原氏の論考は、. に関する評議である。つまり「夷狄ニ不流」をより効果. むしろ混沌とした状況に開成所があったことを感じさせ. 的に実施し、洋学を効率よく摂取できる者が「支配役」. るものであった。. に相応と考えられていたのである。そして、その「支配. このように、ある種の文脈に位置づけることで得られ た評価と、実態の解明につとめた同時代的な評価との間. 役」に想定された者は昌平坂学問所を管理し、幕府の綱 紀粛正をつかさどる大学頭、林家であった。. にギャップが生じていることがわかる。実態の把握を通. 「夷狄ニ不流」に有効とされた唯一の策は、漢学を学. じて、近代化・開化の文脈には位置づけられない開成所. び「本」を確立することであった。漢学を学ぶことの強. の一側面を照射し、官立洋学教授機関としての開成所の. 制を試みる場合、林家に蕃書調所の運営を任せてしまう. 性格を再考する必要がある。また、そのためには幕政改. ことが最適と考えられた。しかし、創立要綱作成段階に. 革と開成所において取り組まれた改革との有機的な接続. おいて、「支配役」に関する箇条はなぜか突如削除され. が必要だと考える。. てしまう。その理由を本章では、次のように読み解いた。. 開成所の管理・運営に関わる人事異動には、各時期の. 「支配役」の箇条を残せば、漢学を学ぶことに強制力を. 幕政改革の目的が反映されていた。文久期の開成所は、. 発揮する林家支配が適当と老中に判断され、実現してし. 数人の開成所頭取と「支配役」によって運営されていた. まう可能性が強い。しかし、周知の通り林家は洋学に対. のであるが、彼らの異動を追うことによって、幕府が開. する根強い嫌忌を抱いていたし、またその役割も学術研. 成所に期待した役割の移り変わりを把握することができ. 究というより、むしろ人物鍛錬にあったといわれている. る。. 1. 。そのような林家に、洋学研究を発展させるという役. また、当時開成所教授職にあった加藤弘之の回想によ. 割は期待できないという岩瀬修理・勝鱗太郎ら急進主義. ると、頭取とは校長に類似するものであり、その職務は. 「支配 の見解に川路左衛門尉ら漸進主義が理解を示し2、. 教授職の職務である研究・稽古以外の御用を引き請け、. 役」そのものが削除される結果になったのではないだろ. 開成所の環境を整えることであった。幕政改革が着手さ. うか。そして、 「支配役」に関する評議が先送りにされ. れるに伴い、このような頭取職にどのような者が任命さ. たまま、創立の最終要綱である「洋学所之儀ニ付奉伺候. れるようになったのか明らかにすることによって、開成. ヶ条」が作成されたのであった。. 所において取り組まれた研究・稽古をとりまく環境を把 握することができる。. 「支配役」が不在となった蕃書調所の運営は、頭取古 賀謹一郎に任された。以降、文久元(1860)年まで. 第一章では、創立「見込下案」を手がかりに、創立の. の6年余、蕃書調所は古賀によって運営されることにな. 段階で設置される予定であった「支配役」(=林家によ. る。古賀は、教授職箕作阮甫に種々相談しながら、蕃書.
(3) 調所の機能整備に力を尽くした。柴田修蔵や高畠五郎を. 頃に頭取に任じられた者は、特別の事情があって任命さ. はじめ、教授職に任命されたほとんどの者が、古賀のネ. れたと思われる木村摂津守喜毅を除いて頭取以上に出世. ートワークによって集められたといってよい。. することはない。彼らにとって、開成所頭取が最高職だ. つづいて第二章では、まず、一度見送られた林家支配. ったのである。当時の洋学の重要性を考えると、開成所. が実現した理由を論述した。従来の研究では、安政2(1. の頭取をつとめ、多少なりとも洋学にふれた経歴を持つ. 854)年に林家支配が見送られたことと、文久2(1. 者は重宝されていたにもかかわらず、彼らの多くがその. 862)年に実現したこととを関連づけてとらえられる. 後何らかの役職に就くことはなく、小普請・寄合となっ. ことはなかった。しかし、この林家による開成所支配は、. ていた。. かつて見送られた際に提示された理由が克服されること. 当該期に頭取に任命された者の中には、明らかに縁故. によって実現したものと考えられる。. によって就いた者や、新撰組の前身新微組から任命され. 万延元(1859)年から文久2(1862)年にか. た者がいた。このように頭取任命の基準がまったく見当. けて、蕃書調所においてさまざまな学科が成立した。こ. たらなくなっていたことを考えると、上述したような事. れは「開成」を念頭に置いた初代頭取古賀謹一郎と頭取. が生じたのも納得がいく。. 助勝麟太郎が尽力した成果であった。両者の働きによっ. さらに、頭取の在職期間は古賀謹一郎の6年8ヶ月を. て諸学諸術の学科が設置され、洋学研究の軌道が確保さ. 最長に、西尾錦之助の4年2ヶ月・小田切庄三郎の3年. れたのである。林家による開成所への改称及び「開成所. 9ヶ月がつづくが、基本的には極めて短く、1ヶ月しか. 稽古規則覚書」の作成は、古賀・勝の成果を引き継ぎ、. 勤めなかった者や、江連加賀守則堯のように1週間で出. それを文章化したものといえる。. 役替えを命じられる者がいた。開成所の教授職からすれ. また、この時期になると林家が抱いていた洋学に対す. ば、このような激しい人事異動は開成所の発展に寄与す. る偏見もいくらか軟化した。加藤弘之の回想によると、. るものとは思えなかったようである4。. 「昌平校の方でも、大分反対も減じてくるし、必要なこ 3. 第三章では、支配役として赴任した林家が着手した開. ともわかつてくるし」といった状況だったようである。. 成所改革の内容を検討した。林家が取り組んだ改革は、. このような条件が整うことによって、林家支配は実現し. 門番の整理や端銀流出の差し止め、書籍借用の効率化な. たのである。. どのいわゆる行政改革であった。これは「士風の復古」. 次に「支配役」が設置されることによって、それまで. という精神的変革、軍事費の確保という財政的変革を目. 蕃書調所の運営を一手に引き請けていた頭取職にどのよ. 的とした文久「政治向御改革」に連動するものであった。. うな変化が生じたのか、頭取計27人の異動に注目し、. 文久改革の最終目標が、朝廷の信頼を得ることに置か. 頭取職が形骸化していく様子を明らかにした。. れており、国内の政治的安定を何よりも優先するという. 林家が「支配役」に任命された同時期に、頭取は出役. 性格であったことを考えると、林家が取り組んだ改革の. 場所から本役場所へと移り変わる。本役として定められ. 範囲も政治的な限定を受けるものだったと思われる。だ. た場所高は、それまで出役であったときの役高に比べて. が、今回はそこまで迫ることはできず、林家による開成. 低いものであった。これによって、頭取の増員が可能と. 所改革は人物鍛錬に始終するものであったということを. なったのである。. 解明したに留まった。そして、人物鍛錬を主とする林家. 増員に伴い頭取に任命される者の質は著しく低下する。 文久 3(1863)年8月以前に頭取に任命された者の. の改革は、開成所において研究・稽古を担う教授職に居 心地の悪さを感じさせるものであった。. なかには、後に外国奉行や箱館奉行、若年寄などの要職. 本論中では慶応期の開成所改革について触れることが. に任じられる者がいた。しかし、以降、特に林家支配の. できず、そのため附章として掲載した。林家による開成.
(4) 所支配を経た後、開成所は陸軍奉行並・海軍奉行並・外. 二見剛史「蕃書調所の成立事情」 ( 『日本大学精神文化研. 国奉行並へ移管された。このような度重なる移管は、開. 究所教育制度研究所紀要』第 10 集、1979 年) ). 成所の期待された役割が時々によって移り変わっていた. 宮崎ふみ子「蕃書調所=開成所に於ける陪臣使用問題」. ことを示す。現在のところ、陸軍奉行並・海軍奉行並へ. (『東京大学史紀要』2 号、1979). 移管された時期を特定することができず、そのため附章. 宮崎ふみ子「開成所に於ける慶応改革−開成所「学政改. という形態をとった。しかし、時期を特定できないよう. 革」を中心として−」 (『史学雑誌』89−3、1980). な事情が生じた理由をそのまま示すことによって、開成 所の運営における混乱を見ることができると考え本稿に 加えた。 以上見てきたように、開成所における研究・稽古の発 展に寄与すべき立場にあった頭取の異動は、開成所教授 職からして理解できないほど激しいものであった。 また、 幕政の課題を担って開成所に出頭した「支配役」にして も度重なる異動が見られ、開成所に向けられる期待は一 貫していなかったことが明らかになった。 本稿では開成所の研究・稽古を規定する人的条件の一 端を明らかにした。従って、開成所において取り組まれ た研究・稽古の実態の全貌を把握できたわけではない。 しかし、大学の成立・教育政策の近代化という文脈に位 置づけられることによって見落とされてしまった側面が まだあり、それらの側面が開成所の性格を考える上で重 要な要素となっているということが今回明らかになった。 ただ、これらの側面が従来の研究では照射されることが なかったという意味を、吟味できなかった点が心残りで ある。今後の課題としたい。. [主要参考文献] 大久保利謙『日本の大学』 (1943、日本図書センター) 倉沢剛『幕末教育史の研究』 (1983、吉川弘文館) 三谷博『明治維新とナショナリズム −幕末の外交と政治運動−』 (1997 年、山川出版社) 呉秀三『箕作阮甫』 (1914 年、大日本図書) 蘭学資料研究会編『箕作阮甫の研究』 (1978 年、思文閣). [論文] 原平三「蕃書調所の科学及び技術部門に就いて」 (『帝国学士院紀事』18 巻 3 号、1943). 1. 大久保利謙『日本の大学』 (1943、日本図書センター) ここでいう急進主義・急進主義の区別は、原平三「蕃 書調所の創立」 ( 『歴史学研究』103,1943 年)にも とづいたものである。 3 加藤弘之「蕃書調所に就いて」 ( 『史学雑誌』20−7) 2. 4. 同上.
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