印度學佛敎學硏究第六十七巻第二号 平成三十一年三月 一八二
新羅華厳の智儼伝承をめぐる一つの
︱
湖北省博物館蔵﹃華厳経略疏﹄
に記される
﹁十句﹂
︱
佐
藤
厚
一
問題の所在
新 羅 の 義 相 ︵義 湘、 六 二 五 ︱ 七 〇 二︶ の 系 統 の 華 厳 文 献 に は、 新 羅 だ け に 伝 わ り 中 国・ 日 本 に は 伝 わ ら な い 智 儼 ︵六 〇 二 ︱ 六 六 八︶ に 関 す る 伝 承 が い く つ か あ る 1 。 そ れ ら の 中 に は 義 相 義相系華厳独自の教説が説かれているものがあ る 2 。筆者はこ れらについて、本当に智儼が説いたものではなく、義相系の 中で考え出されたものではないかという印象を持っている。 本論の主題もこれと似たものである。高麗時代の義相系統 の均如 ︵九二三︱九七三︶ に ﹃十句章円通記﹄ という文献 ︵﹃韓 国 仏 教 全 書﹄ 第 四 巻 所 収︶ が あ る。 こ れ は 智 儼 が、 あ る 文 献 の 注 釈 書 を 作 っ た 際 に そ の 表 紙 に 大 切 な 言 葉 を 十 個 ︵① 十 句︶ 記 し、 そ の 後、 新 羅 華 厳 の 法 融 ︵八 世 紀 頃︶ な ど が、 こ の 十 句 に 対 し て 注 釈 を 作 っ て ②﹃十 句 章﹄ を 作 り、 さ ら に 均 如 が 復 を つ け て ③﹃十 句 章 円 通 記﹄ が 出 来 上 が っ た。 整 理 す る と次のようになる。 この中、現在残っているのは③均如﹃十句章円通記﹄だけで ある。 智儼の十句とそれに対する﹃十句章﹄の内容は次の通りで ある。 第 一 句 不 思 議 以 成 陁 羅 尼 顕 地 法 ︵不 思 議、 以 て 陁 羅 尼 を 成じ地法を顕す︶ ︿注釈﹀ ﹃華厳経﹄に出る五海と衆生の本識、種性との関 係 を 論 じ な が ら、 ﹃華 厳 経﹄ と﹁十 地 品﹂ が 対 等 の 関 係 に あることを論ずる。 第 二 句 随 文 取 義 有 五 種 過 ︵文 に 随 い 義 を 取 ら ば 五 種 の 過 有り︶ ︿注 釈﹀ 句 名 は﹃十 地 経 論﹄ の 言 葉 で あ る が、 内 容 は 義 相と法蔵の数銭の比喩の考え方の違いを論ずる。 第三句 教義二大有五重 ︵教義二大に五重有り︶一八三 新羅華厳の智儼伝承をめぐる一つの︵佐 藤︶ ︿注 釈﹀ 句 名 の 教 義 二 大 は﹃十 地 経 論﹄ に 由 来 す る 言 葉 である。議論の内容は、この教義二大に忘像海印、現像海 印、仏外向、普賢入定、出定在心中などの海印説を読み込 んで行くものである。 第 四 句 因 果 相 形 現 義 無 尽 ︵ 因 果 相 形 し て 義 の 無 尽 を 現 わ す ︶ ︿注 釈﹀ 第 三 句 で 説 か れ た 五 重 の 教 義 が 一 一 に 互 い に 五 重を具して勝劣の相対がないことを論ずる。 第 五 句 文 別 属 以 現 義 融 ︵ 文 別 属 し て 以 て 義 の 融 を 現 わす︶ ︿注釈﹀ ﹃華厳経﹄を構成する一文字一文字が、互に包摂 しあって無礙なることを論ずる。 第 六 句 寄 因 陁 羅 彰 義 辺 際 ︵ 因 陁 羅 に 寄 せ て 義 の 辺 際 を 彰 す ︶ ︿注 釈﹀ 第 五 句 で 説 か れ た 融 合 の 義 を 因 陁 羅 網 の 比 喩 に より彰す。 第 七 句 摠 三 三 転 現 際 無 窮 ︵ 三 三 転 を 摠 じ て 際 の 無 窮 を 現 す ︶ ︿注 釈﹀ 第 六 句 が 空 間 の 面 の 包 摂 を 説 く の に 対 し て、 時 間の面の包摂を説く。 第八句 無生仏法寄位升沈 ︵無生仏法、位に寄せて升沈す︶ ︿注 釈﹀ 無 生 仏 法 と は 仏 の 境 界、 寄 位 升 沈 と は 普 賢 菩 が衆生の機根に合わせて種々に教えを説くことであり、そ の中で所目、所流、方便などの方便一乗を論ずる。 第九句 微細相容以明極勝 ︵微細相容、以て極勝を明す︶ ︿注 釈﹀ 法 界 の 法 は 遠 近 大 小 が 自 位 不 動 の ま ま 一 塵 の 中 に収まることをいう。 第 十 句 隔 越 科 文 成 義 自 在 ︵ 科 文 を 隔 越 し て 義 の 自 在 を 成 ず ︶ ︿注 釈﹀ 初 会 に そ の 他 の 会 の 法 文 句 な ど が 凝 縮 さ れ て 自 在に成立するのであれば、初会の名を様々な名として答え る こ と が 可 能 で あ り、 本 来 の 科 文 を 飛 び 越 え て ︵隔 越︶ ﹃華 厳経﹄ の義理が自在であることを説く。 これらの内容は華厳学の議論であるが、義相系独特の議論 が多く、彼らの関心事が凝縮された書物である。よって義相 系の思想を解明するために研究しなければならないと考えて いるが、いまだ内容に関する本格的な研究はない。先行研究 では著作の成立が問題とされ、中でも智儼と十句との関係に ついても議論されてきた。しかし均如の証言以外に十句に言 及するものがないこともあり研究は留まっていた。筆者は湖 北 省 博 物 館 編﹃湖 北 省 博 物 館 蔵 日 本 巻 子 本 経 籍 文 書﹄ ︵上 海 辞 書 出 版 社、 二 〇 〇 六︶ と い う 書 物 の 中 の﹃華 厳 経 略 疏﹄ 巻 一 の末尾に、新羅伝承と同じ十句が記されていることを発見し た。 こ の﹃華 厳 経 略 疏﹄ は 智 儼 の﹃捜 玄 記﹄ ︵大 正 蔵 三 五 巻 所 収︶ と 内 容 が 同 じ も の で あ り、 本 来、 日 本 の 鎌 倉 時 代 に 高 山 寺にあったものである。本論文では、智儼と﹁十句﹂をめぐ る 先 行 研 究 を 整 理 し た 後、 湖 北 省 博 物 館 収 蔵﹃華 厳 経 略 疏﹄ を紹介し、それを踏まえながら智儼と十句との関係を考察す
一八四 新羅華厳の智儼伝承をめぐる一つの︵佐 藤︶ る。本研究は、第一に、文献が少ないために全貌が見難い新 羅華厳関連文献の出現という意味で、第二に、新羅高麗との 関連が深い高山寺の華厳を知る材料にもなるということで意 義がある。
二
智儼と十句との関係
︵一︶原文 智 儼 と 十 句 と の 関 係 は 、 均 如 ﹃ 十 句 章 円 通 記 ﹄ に 出 る 二 つ の 文 に 記 さ れ る 。 一つ は ﹃ 十 句 章 円 通 記 ﹄ が 引 用 す る ﹃ 十 句 章 ﹄ の 記 述 で あ り 、 も う 一 つ は 均 如 の 刊 記 で あ る 。 こ れ は そ れ ぞ れ 次 の 通 り で あ る 。 後 に 問 題 と な る と こ ろ に 傍 線 を 引 い た 。 ① 均 如﹃十 句 章 円 通 記﹄ 巻 上 ︵韓 仏 全 四・ 三 九 中︶ の﹃十 句 章﹄ の記述 智 儼 和 尚 は、 注 釈 書 ︵疏︶ を 造 る と き に 意 を 要 す る と こ ろ が あ っ た。 五 巻 の 注 釈 書 ︵疏︶ を 作 り お わ る と、 首 紙 の 中 に こ の 十 句 を 書 い た。 ︵智 儼 和 尚、 造 疏 要 意。 五 巻 疏 作 竟、 首紙中、書此十句。 ︶ ② 均如﹃十句章円通記﹄巻下 ︵韓仏全四・八一上︶ 刊記 至 相 尊 者 ︵智 儼︶ は 生 知 の 智 を も っ て 杜 順 師 に 事 え て 華 厳 を 学 ん だ。 ︹智 儼 は︺ 神 僧 の 冥 告 を 夢 み て、 六 相 を 悟 り 一 乗 を 洞 ︵あ き ら か︶ に し た の で あ る。 そ こ で 三 観 の 妙 に 約し、地論の旨をじてこの十句をし、 略疏の初 に標し た。 す な わ ち 法 の ︵渦 巻 き︶ と い う べ き で あ る。 ︵至 相 尊 者、 以 生 知 之 智、 事 杜 順 師、 学 華 厳。 夢 神 僧 冥 告、 悟 六 相、 洞 一 乗。 於 是、 約 三 観 之 妙、 地 論 之 旨、 玆 十 句、 標 於 略 疏 之 初 、 則可謂法矣。 ︶ この二つの原文をてがかりに、多くの研究者が次項のように 智儼と十句との関係を考察してきた。 ︵二︶智儼と十句との関係をめぐる諸説 智儼と十句との関係をめぐる諸説を挙げる。重要な部分に 傍線を引いた。 ① 石 井 教 道﹃華 厳 教 学 成 立 史﹄ ︵一 九 六 四︶ 平 楽 寺 書 店 三二〇頁 こ れ は 全 く 朝 鮮 文 献 に の み 出 る 智 儼 で あ っ て、 中 国、日本の文献に見ない所である。而してその漢文た るや朝鮮式の点があり、教義二大に五重ある等の法相 は智儼著の他部に全く見ない所で、これらを総合する と 朝鮮文献の誤伝 でないかと思われる。 ② 金 杜 珍﹁均 如 の 著 述 と 生 涯﹂ ︵﹃歴 史 学 報﹄ 七 五・ 七 六、 一九七〇︶ 八六頁 本 書 ︵引 用 者 十 句 章 円 通 記︶ は 智 儼 の ﹃華 厳 経 疏 要 意﹄五巻 の中、首紙に書かれた十句をとり釈した を解説したものである。一八五 新羅華厳の智儼伝承をめぐる一つの︵佐 藤︶ ③ 金 知 見﹃均 如 大 師 華 厳 学 全 書﹄ ︵一 九 七 七 後 楽 出 版︶ 三六頁 この著述は智儼のあらゆる著述目録には見えない章疏 である。この十句は、智儼が ﹃十地経論疏﹄五巻 を著 述し、その首紙に記載していたという均如の説が唯一 の記録である。 ④ 木 村 清 孝 ﹃ 初 期 中 国 華 厳 思 想 の 研 究 ﹄ ︵ 春 秋 社 、 一 九 七 七 ︶ 四〇〇頁 そしてこの十句が、智儼が五巻の疏を作り終って、そ の首紙に書いたものだといわれるのである。この疏が 何 か に つ い て は、 ﹃十 句 章﹄ 自 身 は 一 言 も の べ て い な い。しかし、十句の内容および﹃十句章円通記﹄の刊 記に﹁三観の妙に約して地論の旨を総じ、この十句を して略疏の初に標す﹂といわれていることから判断 すれば、それはおそらく ﹃捜玄記﹄か﹃十地経論﹄に 対する ﹃疏﹄ のことであろう。 ⑤ 高 翊 晋 ﹁ 十 句 章 円 通 記 本 文 考 ﹂ ︵﹃ 韓 国 仏 教 学 ﹄ 六 、 一 九 八 一 ︶ ﹃ 韓 国 述 仏書 の 研 究 ﹄ ︵ 民族社 、 一 九 八 七 ︶ に 再 収 録 ︵ 六 七 頁 ︶ そして智儼が十句を首紙に書いておいた﹃疏要意﹄五 巻 と い う 文 献 は、 ﹃十 地 経 論 疏﹄ で あ っ た と い う よ り も ﹃華 厳 経 略 疏﹄ 五 巻 と 考 え ら れ る が、 こ ん に ち 伝 わ っ て い る 智 儼 の﹃華 厳 経 捜 玄 方 軌 記﹄ 五 巻 ︵或 十 巻︶ とは若干異なる 新羅所伝の異本 であったものと見なけ ればならない。 これを見ると、①石井教道以外は智儼と十句との関係を認め て い る。 そ の 中 で 議 論 と な る の は 十 句 が 書 か れ た 書 物 で あ る。②金杜珍は﹃華厳経疏要意﹄という 名 3 で﹃華厳経﹄注釈 を、 ③ 金 知 見 は﹃十 地 経 論﹄ 注 釈 を 挙 げ、 ④ 木 村 は﹃華 厳 経﹄ 、﹃十 地 経 論﹄ 注 釈 の 両 説 を 挙 げ、 ⑤ 高 翊 晋 は﹃華 厳 経﹄ 注釈であるが、現行の﹃捜玄記﹄とは異なるものという推測 を行っている。 このように智儼と十句との関係が研究されてきたが、これ らは均如の証言をもとに、それぞれの研究者が推測した結果 であり、現物は存在しなかった。そのような中、現物と思わ れる新たな資料が現れた。それが次に紹介する湖北省博物館 所蔵の ﹃華厳経略疏﹄ である。
三
湖北省博物館蔵﹃華厳経略疏﹄
に記される十句
湖 北 省 武 漢 に 位 置 する 湖 北 省 博 物 館 に ﹃ 華 厳 経 略 疏 ﹄ が 所 蔵 さ れ て い る 。本 文 献 の も と の 所 有 者 は 清 末 の 学 者 で あ っ た 楊 守 敬 ︵ 一 八 三 九 ︱ 一 九 一 五 ︶ で あ る 。 彼 は 湖 北 省 出 身 で 、 一 八 六 二 年 に 科 挙 に 合 格 し た 。 一 八 八 〇 年 か ら 八 四 年 ま で 駐 日 公 使 の 黎 庶 昌の 随 員 と な っ て 来 日 し たが 、 そ の 際 、 仏 典 を一八六 新羅華厳の智儼伝承をめぐる一つの︵佐 藤︶ 含 む 、 中 国で は 失 わ れ て い た 古 典 籍 を 収 集 し た 。彼 が日 本で 収 集 し た 書 物 の 目 録 は ﹃ 日 本 訪 書 志 ﹄と して 残 っ て い る 。 と こ ろ で 筆 者 が ﹃ 華 厳 経 略 疏 ﹄ を 見 つ け た の は 湖 北 省 博 物 館 編 ﹃ 湖 北 省 博 物 館 蔵 日 本 巻 子 本 経 籍 文 書 ﹄ ︵ 上 海 辞 書 出 版 社 、 二 〇 〇 六 年 ︶ と い う 書 物 で あ る 。 こ れ は 楊 守 敬 が 日 本 で 収 集 し た 巻 子 本 六 五 種 に つ い て 、 写 真 ︵ 部 分 ︶ と 解 説 を 付 し た も の で あ る が 、﹃ 日 本 訪 書 志 ﹄ に は ﹃ 華 厳 経 略 疏 ﹄ は 含 ま れ て い な い 。 さて、 ﹃華厳経略疏﹄ の書誌事項は次の通りであ る 4 。 紙 本 墨 書、 縦 二 九・ 八 厘 米 横 一 一 八 〇 厘 米、 共 二 十 三 紙 半 六 百 五 十 五 行、 毎 行 十 九 ︱ 二 十 字、 欄 高 二 四・ 五 厘 米、 日 本 京 都 高 山 寺 文 書、 十 三 世 紀 日 本 建 仁 二 年︵一 二 〇 二︶ 写 本。 内 有〝建 仁 二 年 七 月 廿 六 日 申 時 於 高 尾 山 平 坊 書 之 畢〟 字 句。 楊 守 敬 題 箋 華 厳 経 略疏 建仁二年書 すなわち本写本は本来、日本の高山寺に所蔵されていたもの で あ り、 建 仁 二 年 ︵一 二 〇 二︶ の 七 月 二 六 日 に 写 経 さ れ た も のであることがわかる。 ﹁高尾山平 ︵岡︶ 坊﹂ とは、 おそら く高山寺の近くにある高雄山のことと思われる。 内 容 を 見 る と 、 本 写 経 は 大 正 蔵 経 ﹃ 捜 玄 記 ﹄ の 巻 一 下 の 途 中 か ら 最 後 ま で に 対 応 す る 。﹃ 湖 北 省 博 物 館 蔵 日 本 巻 子 本 経 籍 文 書 ﹄ に は 写 真 版 で 冒 頭 頁 と 末 尾 頁 が 掲 載 さ れ て い る 。 こ れ を 現 行 の ﹃ 捜 玄 記 ﹄ ︵ 大 正 蔵 三 五 巻 ︶ と 対 照 す る と 、 冒 頭 頁 は ﹁ 第 六 起 分 文 分 二 ﹂ ︵ 二 三 上 一 一 行 ︶ か ら ﹁ 問 。 二 乃 往 過 去 下 答 上 二 ﹂ ︵ 二 三 中 一 二 行 ︶ ま で で あ り 、 末 尾 頁 は ﹁ 文 有 二 ﹂ ︵ 三 二 上 一 九 行 ︶ か ら ﹁ 三 六 偈 明 於 瑞 相 讃 説 摩 頂 等 成 説 善 也 ﹂ ︵ 三 二 中 〇 三 行 ︶ ま で で あ る 。 残 存 す る 割 合 は 、 巻 一 下 の 約 九 割 で あ る 。 問題の十句を見るために、末尾の部分を対照すると次のよ うになる。 大 正 蔵 本 ﹃ 大 方 広 仏 華 厳 経 捜 玄 分 齊 通 智方軌 ﹄ 湖北省博物館蔵 ﹃ 華厳経略疏 ﹄ 大正蔵 三 五・ 三 二 中 ﹃ 湖北省博物館蔵 日 本巻子本経籍文書 ﹄ 一三 頁 三 六 偈明於瑞相讃説摩頂等成説善也 大方広仏華厳経捜玄分齊通智方軌巻第 一 之下 乙 巳歳分司大蔵都監開板 説摩頂等成説善也 華厳経略疏第 一 巻 一 巻 不 異 本 无 之 思議 以 成陁羅尼顕地法 随文取義有 五 種過 教義 二 大有 五 重 因果相形現義無尽 文別属 以 現義融 無生仏法寄位升沈 摠 三 三 転現際無窮 隔越科文成義自在 寄因陁羅彰義辺際 微細相容 以 明極勝 建仁 二 年 七 月廿 六 日 申時於高尾山平坊書之 畢 両者を比べると、まず題目が異なる。題目の次に大正蔵本 は 底 本 と な っ た 高 麗 版 の 刊 記 を 出 す が、 ﹃華 厳 経 略 疏﹄ で は 問題となる十句を記す。この十句の名称は均如の文献に記さ れるものと同じである。ここで注意されるのは十句の冒頭に ﹁異 本 无 之﹂ と 注 を 記 し て い る こ と で あ る。 す な わ ち こ の 写 経を行う時、対校本には十句は記されていなかったと考えら
一八七 新羅華厳の智儼伝承をめぐる一つの︵佐 藤︶ れる。 さて﹃華厳経略疏﹄の刊記を手掛かりに調査を続けて行く と、 こ れ に 関 連 す る 情 報 が﹃大 日 本 史 料﹄ 第 四 編 補 遺 ︵別 冊 一︶ に あ る。 そ こ で は﹁栂 尾 顕 教 蔵 展 観 記﹂ を 引 用 し て 次 の ようにあ る 5 。 ︹ 華 厳 略 疏 ︺ ○ 栂 尾 顕 教 蔵 展 観 記 所 収 / 建 仁 二 年 七 月 廿 六 日 申 時 於 高 尾 山 平 岡 坊 書 之 畢 / 華 厳 宗 定 恩 / 二 校 了 / 同 月 廿 七 日 又 以 正 本 一 交 了 ﹁栂 尾 顕 教 蔵 展 観 記﹂ と は 江 戸 時 代 の 栗 原 柳 庵 が 天 保 十 年 ︵一 八 三 九︶ に 作 成 し た 目 録 で あ る。 題 目 は﹁華 厳 経 略 疏﹂ 、 ﹁華 厳 略 疏﹂ と 少 し 違 う が、 内 容 は、 湖 北 省 博 物 館 蔵 本 の 刊 記﹁建仁二年七月廿六日申時於高尾山平岡坊書之畢﹂と同じ であるから同本と考えられる。そしてここには湖北省博物館 蔵本にはない、書写者と校正の記録が記されている。書写者 で あ る 定 恩 と は 明 恵 の 華 厳 の 弟 子 で、 ﹃華 厳 血 脈﹄ に 喜 海 と 並んでその名が出ている。そして彼が二度校訂を行ない、翌 日の二十七日に校訂を終えたことがわかる。 これに関連して高山寺の目録を見てみると、 ﹃華厳経略疏﹄ の名は﹃高山寺聖教目録﹄には見えない。しかし、江戸時代 に 編 纂 さ れ た﹁甲 乙 録 外 6 ﹂ に﹁華 厳 経 略 疏 二 巻 ︵第 一、 第 五 7 ︶ ﹂ が あ る。 こ の 二 つ の 巻 だ け が 残 っ て い る﹃華 厳 経 略 疏﹄ の巻第一が現在、湖北省博物館に所蔵されているものと考え ら れ る。 ち な み に﹃高 山 寺 聖 教 目 録﹄ に は 智 儼 の﹃捜 玄 記﹄ は﹁華 厳 方 軌 五 巻 ︵本 末 十 巻 8 ︶ ﹂ と し て 記 載 さ れ て い る。 で は この﹃華厳経略疏﹄はどこから来たものであるか。詳しいこ とはわからないが、十句が記されていることから朝鮮半島か ら伝来したものであることは確かであろう。ちなみに日本で 智 儼 の﹃華 厳 経﹄ 注 釈 書 は 一 般 的 に は﹃捜 玄 記﹄ で あ る が、 ﹃華 厳 経 略 疏﹄ と い う 名 も 奈 良 時 代、 平 安 時 代 の 目 録 に 見 ら れ る 9 。朝鮮半島においては﹃捜玄記﹄ 、﹃略疏﹄の名称のどち らも使われ る 10 。 以上、従来、均如の証言以外に実態が不明であった智儼 と さ れ る 十 句 を 記 す 文 献﹃華 厳 経 略 疏﹄ が 出 現 し た。 そ し て、それは智儼の﹃華厳経﹄の注釈書すなわち﹃捜玄記﹄と 同じものであっ た 11 。前に見た智儼と十句との関係を考察した 先 行 研 究 と の 関 係 で い え ば、 高 翊 晋 の 説 ︵現 行 本 と は 異 な る ﹃捜 玄 記﹄ ︶ と 同 じ で あ る。 で は 智 儼 が 十 句 を 作 っ た と い う 伝 承は、歴史的事実と考えられるだろうか?
四
智儼と十句との関係は事実と考えられるか?
これについて筆者は懐疑的である。その理由は、決定的な ものではないが二つ指摘する。 第一に、 ﹃華厳経略疏﹄の十句が書かれた場所が気になる。 均如は、智儼が﹁首紙﹂に十句を書きこんだという。 ﹁首紙﹂一八八 新羅華厳の智儼伝承をめぐる一つの︵佐 藤︶ とは表紙か冒頭を意味するであろう。しかし、実際書きこま れた場所は巻一の題目の後という中途半端な場所である。第 二に、十句の内容と智儼との関連である。木村清孝はこの問 題について、前に挙げた引用に続けて﹁智儼は、すでにのべ たように、智正などを通して地論の学系を承けており、また ﹃十 地 経 論﹄ に 説 か れ る 六 相 の 探 究 に よ っ て 悟 り を 開 い た と 伝 え ら れ る。 こ う し た こ と か ら 考 え る と、 か れ が﹃十 地 経 論﹄の注釈書を著わし、その首紙に上のような十句を書きつ けた可能性はないとはいえない。また内容的には、簡潔すぎ る と は い え、 上 の 十 句 に は 確 か に 華 厳 教 学 的 方 向 に お い て ﹃華 厳 経﹄ と﹃十 地 経 論﹄ の 思 想 を 的 確 に 押 さ え て い る 面 が あるようである。つまり、上の十句は、智儼の華厳教学の性 格からさほど離れているとは思われないのである。義湘系の 人びとが一般に、この十句の智儼作と、それに関連してある いは﹃十地経論疏﹄五巻の智儼を信じていたとしても不思 議ではない。だが、その確信が正当かどうかは、現存資料に よ っ て 明 ら か に す る こ と は で き な い 12 。﹂ と 十 句 が 書 き こ ま れ たのが﹃十地経論疏﹄である可能性について述べながら、智 儼と十句の関連について可能性はあるがその当否は現存資料 か ら は 判 断 で き な い と い う 立 場 を と る。 こ れ に 対 し て 筆 者 は、智儼作に懐疑的である。木村がいうように十句の名称は ﹁﹃華厳経﹄と﹃十地経論﹄の思想を的確に押さえて﹂いるこ とは認めるが、智儼が﹃捜玄記﹄の段階で、そこまで十地品 の思想を深めていたとは思われない。細かな論証は他日に譲 るが、例えば第二句の﹁教義二大有五重﹂などは智儼の﹃孔 目 章﹄ の﹁証 教 二 大 章﹂ な ど を 受 け た も の で は な い だ ろ う か。さらに十句そのものと新羅での注釈の十句章の内容が関 連しないものが多いように考えられるのも気になるところで ある。 この問題を考える際に参考になるのが、冒頭に述べた五海 印や十重総別など、新羅だけに伝わる智儼の教説である。こ れらは智儼の真説というよりは、義相系の中で独自の教説が 形成されて行く中で、そのルーツを智儼に仮託した可能性が 高いと思う。十句もこれと同様に、義相系の伝承の中で作ら れた可能性が高いと考える。 では﹃捜玄記﹄と同じ内容の﹃華厳経略疏﹄に十句が記さ れていたことはどのように考えればよいか。おそらくこれは 新羅華厳で出来た伝承を反映して十句が書きこまれたのでは ないか。このように智儼と十句との関係は相変わらずであ るが、を考察するための材料が一つ増えたのは重要なこと である。 1 中 条 道 昭﹁朝 鮮 華 厳 文 献 よ り み た 智 儼 の 伝 記﹂ ︵﹃印 度 学 仏 教
一八九 新羅華厳の智儼伝承をめぐる一つの︵佐 藤︶ 学 研 究﹄ 通 号 五 一、 一 九 七 七 年 一 二 月 一 五 六 ︱ 一 五 七 頁︶ で は、 同 年 に 刊 行 さ れ た﹃均 如 大 師 華 厳 学 全 書﹄ を も と に、 新 羅 だけに伝わる智儼の伝記資料を紹介している。 2 例えば、海印三昧に五つの種類があると説く五海印説や、 ﹃華 厳経﹄ の要点を知るための十重総別など。 3 こ の 題 目 に な っ た の は 均 如﹃十 句 章 円 通 記﹄ の 原 文﹁智 儼 和 尚、 造 疏 要 意、 五 巻 疏 作 竟﹂ の﹁造 疏 要 意﹂ を﹁疏 要 意 を 造 り﹂ と﹃疏 要 意﹄ と い う 著 作 の よ う に 読 ん だ か ら で あ る。 た だ そ れ で は 不 自 然 な 感 じ が す る。 そ も そ も こ の 文 章 が 読 み に く い の で あ る。 筆 者 は 前 に 掲 げ た よ う に、 ﹁造 疏 要 意﹂ を﹁注 釈 書 を 作 る と き に 意 を 要 す る と こ ろ が あ っ た﹂ と 読 ん だ。 こ れ も 不 自 然 な 気 が す る が、 ﹁疏 要 意﹂ を 著 作 と 読 む よ り は よ い と 考 え る。 4 湖 北 省 博 物 館 編﹃湖 北 省 博 物 館 蔵 日 本 巻 子 本 経 籍 文 書﹄ ︵上 海辞書出版社、二〇〇六、七二頁︶ 。 5 ﹃大 日 本 史 料﹄ 第 四 編 補 遺︵別 冊 一︶ ︵ 東 京 帝 国 大 学 史 料 編 纂 所編 一九二〇、六四五頁︶ 。 6 ﹃高 山 寺 聖 教 目 録﹄ は 甲 乙 の 二 編 の 編 成 で 鎌 倉 時 代 に 成 立 し た 後、 江 戸 の 寛 永 一 〇 年︵一 六 三 三︶ に 転 写 さ れ た 際、 現 存 本 と の 照 合 が 行 わ れ た。 こ の 時、 そ れ に 洩 れ て い る 聖 教 を﹁甲 乙 録 外﹂ と し て 目 録 化 し た。 奥 田 勲﹁高 山 寺 経 蔵 と そ の 古 目 録 に つ い て﹂ ︵高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 編﹃高 山 寺 経 蔵 古 目 録﹄ 高 山 寺 資 料 叢 書 第 十 四 冊、 東 京 大 学 出 版 会、 一 九 八 五、 二 八 九 頁︶ 。 7 奥田前掲書、 二九五頁。 8 ﹃高 山 寺 聖 教 目 録﹄ ︵﹃高 山 寺 経 蔵 古 目 録﹄ 高 山 寺 資 料 叢 書 第 十四冊、東京大学出版会、一九八五、一〇頁︶ 。 9 奈 良 時 代 の 記 録 に は 神 護 景 雲 二 年︵ 七 六 一︶ と 推 定 さ れ る 記 録 の 中 に﹁花 厳 経 略 疏 五 巻︿智 厳 師﹀ ﹂︵ ﹃大 日 本 古 文 書﹄ 一 七、 一 四 二 頁︶ が あ る。 ま た﹁大 小 乗 経 律 論 疏 記 目 録﹂ ︵平 安 時 代 前 期︶ に は﹁華 厳 経 略 疏 五 巻 一 帙 智 儼 師 ﹂ と あ る。 落 合 俊 典 編﹃中 國・ 日 本 經 典 章 疏 目 録﹄ ︵大 東 出 版 社、 一 九 九 八、 三三二頁︶ 。 10 均 如 文 献 を 見 る と、 ﹁捜 玄﹂ 、﹁捜 玄 疏﹂ 、﹁略 疏﹂ と い う 名 称 が混在して用いられる。 11 ﹃捜 玄 記﹄ の 書 名 に つ い て 凝 然 は﹃法 界 義 鏡﹄ で﹁捜 玄 記 五 卷、 亦 名 方 軌、 亦 曰 略 疏﹂ と 述 べ て い る よ う に、 ﹃捜 玄 記﹄ は ﹃華 厳 経 略 疏﹄ と い う 名 称 で も 流 通 し て い た。 凝 然﹃法 界 義 鏡﹄ 巻下︵日仏全、華厳小部集︶三二下。 12 木 村 清 孝﹃初 期 中 国 華 厳 思 想 の 研 究﹄ ︵春 秋 社、 一 九 七 七、 四〇〇頁︶ 。 ︿キーワード﹀ 智儼、十句、華厳経略疏、十句章、義相系華厳 ︵専修大学特任教授・博士︵文学︶ ︶