チベット仏教文献読解における口伝の役割
―コントゥルの「了義大中観に対する
23
の誤 」の読解を例として―
槇 殿 伴 子
1.
はじめに
本発表は,コントゥル(Kong sprul Blo gros mtha yas, 1813–1899)の「黄金の : 了 義大中観に対する23の誤 を糾す善説」(nges don dbu ma chen po la khrul rtog nyer gsum gyi bur joms pa legs bshad gser gyi tho ba)を例として,チベットにおける中観密教の展 開を見るとともに,口頭による注釈に基づくチベット仏教文献の読解の例を提示 することを目的とする.議論は「論理学者」(rtog ge ba)を対論者として展開され ており,23の誤 を糾すことによって了義大中観としての他空が説示されてい る.誤 の原因は典籍の読解方法を含み,師を媒介とする法の伝授を説く.その 伝統はすでに12世紀のチベット土着の密教経典『マニ・カンブン』に見られ, 患者が医者の指示に従うようにラマの指示に従うよう説く1).チベット仏教の研 究方法について示唆するものとして取り上げる.訳文の解釈はカルマ・カムツァ ム系カギュ派のケンポ・カルマ・ゲンドゥン2)による口頭の注釈に基づく.筆者 が行っているフィールドワークに基づく研究成果の一部である.本文ではケンポ による注釈の箇所を〔〕で示す.
2.
勝義諦と世俗諦についての誤
誤 1では勝義諦は思考の及ぶ範囲ではないにもかかわらず,論理学者が概念 を分析することによって到達できるとするのは誤りだと説く.勝義諦は如来蔵と 同義と解釈される. 「概念を分析すればあるがままの在り方が見える」という(者がいる).勝義諦〔如来蔵〕 は〔衆生が〕考えて分かる領域だと承認するのは菩 とブッダの〔教え〕に始めから反し ている.〔測ることのできない〕虚空の大きさを測ろうとする論理学者たち. 誤 21は勝義において悪を説くことの誤りを指摘する.つまり,勝義は善であり,如来蔵は善であることを教証と論証の二つから説く. 勝義のとき,悪の説明は一切智者はなさらなかった.[悪の説明は第一法輪と世俗諦での みしか説明しない.]アビダルマ[サムッチャヤ]などにも8つを断じている3).黄色の自 性は黄色ではない.[黄色の自性は黄であるが,黄色ではない.たとえば,悪の自性は空 であり,如来蔵の自性は善である.『アビダルマ(サムッチャヤ)』に「勝義の本性(ngo bo)は善である」とお説きになっているようである.]ゆえに,[『アビダルマ(サムッチャ ヤ)』の]経[証]と[黄色の自性についての]論[証]の二つから逸れている論理学者. 誤 23は勝義は密教では実在するにもかかわらず実在を肯定するのを恒常論と 糾弾するのは顕教の教えと密教の教えの違いを理解しないことからくる誤りだと 説く. 「勝義が実在するというなら恒常論者と同じになる」〔とゲルク派が言う〕なら,実在しな い〔と自空派が言う〕いうのは断滅論者と同じではないのか.顕〔教では世俗諦の事象は 実在しないと教え,〕密〔教では勝義,如来蔵の恒常を教える.『宝性論』は密教に連結し ている.〕という違いを知らないのは牡鹿の挑戦〔のようなもの〕だ.勝者に矛盾するな, 論理学者よ.
3.
空は無ではないことについて
誤 2では,密教では世俗諦と勝義諦が分かつことのできない関係にあること を前提にして空性についての誤 を説く.空性は一方が他方を否定することに よって成立するのではなく,空性は決して「無いこと」ではないと説く. 〔世俗諦と勝義諦は別物ではないにもかかわらず〕「誤れば世俗諦である.誤りがなければ 勝義諦である.」と〔異端者は〕いう.「ひとつが成立すれば,ひとつが成立しないことが 究極の中観だ〔つまり,互いに打ち消しあう関係において空である.たとえばウサギは犬 ではない〕」と[異端者は]いう.「世俗諦は恒常論〔衆生にとってはすべてが存在する〕, 勝義諦は断滅論〔空は何もないこと〕」とする,異端者に追随する学者たち. 誤 11は純粋否定のみを中観の究極の見解とする誤 について説く.戯論から離れた見解〔つまり,純粋否定(prasajyapratiṣedha, med dgag gyi lta ba)を見解の 中の〕究極の見解とすることのみが否定(の方法)ではない.真実〔つまり,如来蔵〕の
相すべてが顕れる秘法を知らない.〔所知障と煩悩障の2障を〕離れる方法(bral lugs)〔つ
まり,対治薬〕をたくさん説くが,目的が純粋否定以外には[説か]ない論理学者.〔他空 は定立否定(paryudāsa, ma yin dgag)である.〕
4.
「三つの偉大なもの」: ゾクチェン・マハームドラー・大中観
4)誤 15・16はゾクチェンとマハームドラーを了義大中観,すなわち他空であ
り如来蔵と同義であるという見解を示している.
〔他空の〕見解は世俗諦の恒常論〔一切事象が存在すると考えること(yod par dzin pa)〕と
断滅論〔一切事象は存在しないと考えること(med par dzin pa)〕の思考とは乖離している.
修習は頭でこねまわして考えることを超えた直接知覚の道である.ゾクチェンは虚空〔の ようである〕.〔凡夫の〕卑小な頭脳は針の穴〔のようで,それでは〕通らない〔ので〕,残 念である.瞑想せよ,論理学者よ. 〔輪 から〕放たれて〔仏地を獲得する〕特質を有する〔如来蔵〕,空と大楽,不変,自性 無二双運のマハームドラー.糸巻きのように二つに切り離されることができるものではな いということを今,悟得せよ,論理学者よ.
5.
二種姓についての誤
如来蔵はまた慧と本性住種姓と同義と解釈される.如来蔵は本来的に備わって いるものであり,発展・展開するものではない.誤 3は覚者となってはじめて 仏の特質が備わるのではなく,本来的に備わっていることを理解しないことにつ いて指摘する.慧(ye shes)〔つまり如来蔵〕は実在するが,事物では〔(dngos po ma red)ないし,事物で
はないものでも〕ない〔(dngos min pa yang ma red)〕.だから思考(blo)を超えている.〔五
智(ye shes lnga)が転依(gnas gyur)したとき法身が生じる.五智は如来蔵ではない.八 識(rnam shes tshogs brgyad)が清浄になり,五智が生じる.その五智は習所成種姓(gyas
gyur gyi rigs)であり,瞑想の修習を経て,汚染を取り除くことによって,清浄となり,世
俗のブッダ(kun rdzob gi sangs rgyas)となる.世俗のブッダは無常である.しかし,如来
蔵である「本性住種姓」(rang bzhin gnas rigs)は始源から清浄である.発展するもの(gyas
gyur)ではない.本性住種姓は始原からブッダの功徳がすべて備わっている.自空派は
ブッダの功徳は始源にはないと説く.凡夫の八識はまた習所成種姓であり,それが徐々に
3段階(不浄・少し不浄かつ少し清浄・非常に清浄)を経て清浄となり,非常に清浄と
なった段階が五智である.〕 無分別〔つまり空性〕の修習から〔習所成〕種姓(rgyas gyur
gyi gnas rigs)に似た〔自空の〕法身が生じる.何も執着しないことによる崇高の薬を毒だ とする学者たち.
誤 4は本性住種姓と果の因果関係についての誤りについて指摘する.
関係が証明された.〔本性住種姓は瞑想(mnyam gzhag)のときの智資糧に連なり,それに
依って,法身としての果(bral ba i chos sku)が得られる.また,習所成種姓は日常生活を
している普段(rje thob)のときに行う福徳資糧に連なり,無常である.それに依って,色 身が果として獲得される.このように関連づけられる.〕 〔たとえば,シャーキャチョク デンが説くように,〕種に〔如来蔵がないと主張し,種にない〕果が〔覚者となったときに はじめて〕生じるものであるということと,〔無常の〕有為法を因として虚空が成立する と説く.(このように)論理学者が言っているのは牛飼いの家系の言説である.
6.
了義・未了義経典についての誤
誤 6は密教を第三法輪に含むことを根拠にして第二法輪を了義,第三法輪を 未了義経典とするのは誤 だと説く. どの程度に目的を教えるのかによって,〔つまり,サキャ派やゲルク派が言うように,目 的毎に教えることによって経典が〕「未了義」とするなら〔誤りである.〕〔経典は顕教だけ でなく〕密教を伴う.〔金剛乗は衆生のために説かれた.それには,作タントラ,行タン トラ,瑜伽タントラ,無上瑜伽タントラの別があり,劣・中・優の衆生の器の違いによっ て導入される.劣・中の器の者たちは作タントラと行タントラを行い,優の器は瑜伽タン トラと無上瑜伽タントラを行う.経典の目的は衆生が仏地に達するために説かれるにもか かわらず,第三法輪の経典と〕密教を了義と解釈しないことになってしまう.衆生のため にという目的に鑑みると,それらを未了義とするのはおかしい.牟尼の経典の説き方が混 ぜこぜにされてしまう.〔つまり,第一法輪は器の劣な者のために説かれ,第二法輪,第 三法輪の順に器が勝っていく.にもかかわらず,ゲルク派の言うように,第一法輪が未了 義,第二法輪が了義,第三法輪が未了義なら,説き方の順がおかしくなってしまう.第三 法輪にもう一度未了義を説く理由がなぜあるのか.〕 論理学者たちは勝者が喜ばないこと を肯定している. 誤 20は心について教えることは唯識派であることを意味しないと指摘する. 心について教えるだけで,唯識派の伝統の典籍とはならない.あるがままの在り方は〔白 い〕貝だが,黄色と見間違える.〔つまり,アサンガと弥勒は本当は中観派にも関わらず, 唯識と誤認するのはそれと同じだ.〕了義を悟得する目を汚染する眼病〔に罹っているの で,目〕薬できれいにせよ,論理学者よ.7.
文献読解の方法論についての誤り
誤 5は師の教えなく文献を自己流に解釈する誤 を指摘している. 〔自他空,帰 派,自在論証派のいずれにせよ,個々人の根本師匠(rtsa ba i bla ma)の〕教 えなく,〔自分の考えだけで〕文献を見ても〔意味がない.根本師匠からの教えが絶対に必要である.〕 〔宗義に関しては〕外道と仏教徒,〔瞑想に関しては〕分析〔の瞑想(dpyad
sgom)〕・定〔の瞑想(mnyam gzhag)〕さえも分けることなく,自分の頭で作り出して,「あ
るがままのあり方を修習している」と考えている者達は,賢者たちが哀れみを垂れる論理 学者である. 誤 12は如来蔵についての要点を知らず,文献だけを読んで勝手に自己解釈す ることの誤りについて述べている. 〔如来蔵の〕本質〔は何であるか,〕自性〔は何であるか〕についての要点(gnad gsang) 〔如来蔵の本質は実在,恒常,始原から存在しているものである.自身によっては空では ない.自性は実在である.という要点〕を知らず,文献を見るだけでは内心は理解してい ない(khong sbos).〔他空の究極の見解は〕「すべての相が備わった崇高な空」(rnam kun mchog ldan gyi stong nyid)であり,それは如来蔵の別名である〕が,「群盲象を評する」(よ うな)論理学者.
8.
おわりに
以上,了義大中観他空についての自空派の論理学者を対論者とした,コントゥ ルによる幾つかの議論を注解と共に見た.議論は中観でありかつ密教であること を前提とし,世俗諦と勝義諦が不分離である上で,空性の定義をなす.空性は如 来蔵であり,無ではない5).如来蔵は実在するものとして説かれる.勝義諦, 慧,善,本性住種姓,ゾクチェン,マハームドラーと同義と解釈される.論理学 の分析では到達できないものである.純粋否定ではなく,定立否定として語られ るものである.心について語ることと即唯識派の教えとが混同されてはならない ことが指摘されていた.このような教えは師から受け取るもので,自分勝手に文 献を読んで解釈することから間違いが生じ,教えなき読解に意味はないとする. 目的に達するための方法論を示唆し,方法論の誤りが間違った結論を導くものと なると教えている.四依の「語に依らず,意味に依れ」の教えにも通底し,語の 意味を伝える師匠の口伝による師子相承が明示されていると言えよう.1) Maṇi bka bun (E. p. 181.1–2): sman pa dang dra ba i bla ma dge ba i bshes gnyen bsten te de i gdams ngag nyan nas | chos byed dgos pa dug.
2)ケンポ・カルマ・ゲンドゥンはチャング・リンポチェを師とする.後者はカルマパ17 世の師としても知られる.ケンポはチャング・リンポチェの寺院の仏教学院(カトマン ズとサールナートに所在)で教授職を務められている. 3)出典については未特定. 4)「三つの偉大なもの」(chen po gsum)はゾクチェン,マハームドラー,大中観の意図を 同じものと捉える.カギュ派ではカルマパ3世ランジュン・ドルジェ(1284–1339)の
『マハームドラーの祈願』(Phyag chen smon lam)に記されている.これに先立ち,『マニ・
カンブン』中で,ニャンレルニメウセル(1124–1192)を著作者とする部分にこれらがあ
る(Maṇi bka bum, Waṃ, pp. 579–587).(「三つの偉大なもの」についてはレオナルド・ ファン・ダ・カイップ先生にご示唆を受けた.謝意を表する.)ケンポのご説明では,チ ベットにおける中観の前期(ツォンカパ以前)と後期(ツォンカパ以降)のうちの前期 の意図を伝えるというご説明であった.その中のマハームドラーについてはランジュ ン・ドルジェの思想と合致しており,大中観についてはカルマパ8世ミキョ・ドルジェ (1507–1554)の意図と一致していると解釈されたことを付記しておく.『マニ・カンブ ン』は自空の中観密教経典であるが,大中観他空の説示者の中にはこれら二人のカルマ パも系譜に含める者もいる(Makidono 2016).中観密教のその後の歴史的展開を考える 上でも『マニ・カンブン』の一節は重要であろう. 5)如来蔵を空性と同定する経典であり,かつ他空の根拠として他空派が用いる経証は 『宝生論』(ad I.155)に引用される『勝鬘経』の一節である(Ratnagotravibhāga, p. 76.8). 〈一次文献と略号〉
Kong sprul Blo gros mtha yas. Nges don dbu ma chen po la khrul rtog nyer gsum gyi bur joms pa legs bshad gser gyi tho ba. In vol. 5 of rGya chen bka mdzod, 1001–1008. New Delhi: Schechen, 2002.
Maṇi bka bum. Ed. Trayang and Jamyang Samten. Vol. I (E) and II (Waṃ). New Delhi: [s.n.], 1975.
Mañjuśrīyamūlakalpa. Āryamañjuśrīmūlakalpa. Ed. P. L.Vaidya. In part 2 of Mahāyāna sūtra-saṃgraha. Darbhanga: Mithila Institute of Post-Graduate Studies and Research in Sanskrit
Learn-ing, 1964.
Ratnagotravibhāga. The Ratnagotravibhāga Mahāyānottaratantraśāstra. Ed. E. H. Johnston. Patna: The
Bihar Research Soceity, 1950. 〈二次文献〉
Makidono, Tomoko. 2016. Dge-rtse Mahāpaṇḍita s Great Middle Way of Other-Emptiness. Minobu: Faculty of Buddhism, the Dept. of Tibetan Studies, Minobusan University.
(令和元年科学研究費助成事業基盤研究C(課題番号18K00066)による研究成果の一部)
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