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パーリ学仏教文化学 (31) - 001飯島 明子「「タム文字写本文化圏」におけるクーバー・スィーウィチャイについての覚書」

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[論文]

「タム文字写本文化圏」における

クーバー・スィーウィチャイについての覚書

飯 島 明 子

Khuba Siwichai in “the Cultural Region of Tham Script Manuscripts”

Iijima, Akiko

Khuba Siwichai (1878–1938) was a celebrated monk from what is now northern Thailand, who happened to become a national figure because of the conflict between his local Lan Na (Yuan) Buddhist practices and the regulations newly set up by the modern Siamese (Thai) state sangha in the early twentieth century. Almost 80 years since Khuba Siwichai’s death, his reputation as a ton bun (holy man) is still prevalent in the midst of the proliferation of contemporary khrubas, who often hold Khuba Siwichai in high esteem as the primogenitor of their respectable tradition.

In the eyes of contemporary devotees, Khuba Siwichai may seem primarily an activist best remembered for his monumental building projects. Following a careful reading of a number of biographical writings on Khuba Siwichai, however, this paper is an examination of another significant field of his activities—the palm-leaf manuscripts he preserved. From 1926 to 1928, while engaged in the five-year-long renovation and reconstruction of Wat Phra Sing in Chiang Mai, he collected manuscripts in disrepair, sorted them, and had them copied in order to create new collections. The colophons of some of these manuscripts, in which Khuba Siwichai revealed his fervent desire and determination to achieve Buddhahood in his own handwriting, indicate that he produced some of these manuscripts himself.

Khuba Siwichai’s deep involvement in the manuscript production are reminiscent of one of his great predecessors in the region, Khuba Kancana, who established a library for Wat Sung Men in Phrae in 1830s and is said to be the greatest single preserver of manuscripts in the history of Buddhism in

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Laos, Thailand, and adjacent areas. It is most interesting that the mentoring relationships relating to Khuba Siwichai can be traced back to Khuba Kancana, who had also visited Wat Phra Sing in Chiang Mai at some time in life. It is therefore quite possible that Khuba Siwichai consciously emulated Khuba Kancana’s example. In this light, Khuba Siwichai should be considered as a successor of Khuba Kancana, whose work belongs to “the cultural region of Tham script manuscripts.” This important feature of Khuba Siwichai’s legacy is rarely remembered today, mostly because reverence for Tham script manuscripts themselves has diminished considerably since the division of the region into the modern nations of Thailand, Laos, Myanmar, and China.

キーワード: 「タム文字写本文化圏」,クーバー(クルーバー),スィーウィチャ イ師,貝葉写本,ワット・プラスィン

はじめに

 クーバー(khuba)とは,『ラーンナー(1)=タイ辞典』[MFL: 124]によれ ば,師匠であるところの「尊崇される僧侶を呼ぶのに用いられる語」で,年 齢が50歳以上の場合が多いとある。クルーバー(khruba)と発音される標準 タイ語の『王立学士院版辞典』でも,ほぼ同じ語義を与えながら,パーヤッ プ(西北)の地方語としているから[PRB: 235],本来はクーバーと呼ばれ るべき,限定的な,「北タイにおけるクルーバーの伝統」[速水2015: 84]で あった(2)。しかし今日,クルーバーと呼ばれる僧侶たちは上記の定義を逸 脱しつつ増殖し,タイ国全域の人々を巻き込む「クルーバー運動」[Pisith 2017]が現出している。さらに,現代においておそらく最大の名声を博する クルーバーであるブンチュム[Amporn 2016: 377; Cohen 2017: 5]は,タイ 国北部のみならず,ラオス北部,スィプソーンパンナー(中国・雲南省), ビルマ北部にまたがる広域で活動を行っている。こうしたクルーバーたちの めざましい動きに呼応するように,地域の伝統を超越した「クルーバー学」 (khruba studies)[Pisith 2016]を標榜する研究潮流が起こっている。  「クルーバー学」の多様な拡がりのなかで,「クルーバー」の代表として必 ず言及されるのはクーバー・スィーウィチャイ(1878‒1938)(以下,スィー

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ウィチャイ師)で,死後80年近くを経た現在もなお,関連する文献が陸続 と現れている。学術研究に限っても,近年ではとりわけ,コーヘン[Cohen 2000等],ボウウィー[Bowie 2014a 等]らの文化人類学者が精力的に成 果を発表してきた。2017年に刊行されたコーへンの最新の編著書『ラーン ナー仏教のカリスマ的僧侶たち』[Cohen 2017]は8名の人類学者の論考を 納めているが,その至るところにスィーウィチャイ師が登場する。同書に も寄稿しているボウウィーは別の所でも,地方的存在であったスィーウィ チャイ師の名を全国に聞こえしめたシャム(3)「中央」サンガとの間に生じ た軋轢の原因を注視しながら,スィーウィチャイ師が生きて活動した当時 の北タイ地域の時代状況において,師が人びとのいかなる希求に応えたの かという問いかけから,スィーウィチャイ師の活動の再評価を行ってい る[Bowie 2014b]。中央における1902年の「ラタナコーシン暦121年サン ガ統治法(Phraratchabanyat Laksana Pokkhrong Khanasong Ro.So.121)」[石井 1975: 353‒371]の成立と施行(北タイ地域では1924年(4))をもって,法制 度的な観点から,スィーウィチャイ師を媒介としたコンフリクトがあたか も起こるべくして起きたかのように叙述していたかつての傾向(たとえば, [Keyes 1971; 石井1975: 157‒158])と比べると,ボウウィーの研究が明らか にしつつある地域の歴史の具体性は際だっている。飢饉や疫病の蔓延の上 に重なった悪政が生み出した危機的閉塞状況を剔出するボウウィー[Bowie 2014a: 696‒706]は,スィーウィチャイ師に始まる「伝統」を仏教的「復興 主義(revivalism)」の一形態と性格付けるコーヘン[Cohen 2000: 143]が否 定した,タンバイアーによる千年王国運動(millenarian Buddhism)的な見方 [Tambiah 1984: 293‒319, esp. 306; Cohen 2000: 142‒143]を新たな視角から発

展させている。

 本稿がスィーウィチャイ師研究に些かの付言を試みるのは,上のような近 年の諸研究による議論の深化に触発されてのことである。しかし本稿の考 察の直接のきっかけとなったのは,2015年にスィーウィチャイ師の最もよ

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を迎えたのを記念して,大部の『スィーウィチャイ師伝』が刊行されたこ とであった[Rugnwit 2015: 51]。編著者のルンウィット(Rungsit Suwanna-aphichon)は,1979年にスィンカ(Singkha Wannasai)(1920‒1980)の手にな るスィーウィチャイ師関連の著作[Singkha 1979]をチェンマイで刊行した 出版人である。スィーウィチャイ師と同じくランプーンで生まれ育ち,そこ で生涯を終えたスィンカは,宗教学者スウェアラー(Donald K. Swearer)が 一編の学術論文のテーマの中心に据えて,北タイ仏教において重要な存在 であるサンガと在家の仲立ちをする「特別な在家者(layman extraordinaire)」 の典型として,実名を挙げて論じた稀有な「伝統的」知識人だった[Swearer 1976](6)。そのスィンカが生前ルンウィットに,自らが若き日にスィーウィ チャイ師の謦咳に接した思い出を語っていた。それによれば,1936年から 37年にかけて,当時15歳の沙弥であったスィンカは,ランプーンのワット・ チャーマテーウィーの寺堂建立工事の指揮をとっていたスィーウィチャイ師 の下をしばしば訪れ,親しく言葉を交わしていたと言う。スィーウィチャイ 師はその約2年後に世を去っている[Rungwit 2015: 22]。  本稿では,スィンカから聞いた話の記憶を留めたいと願うルンウィットの 師資相承の物語をさらに敷衍して検討することにより,スィーウィチャイ師 の業績のうち,これまであまり触れられてこなかった側面に目を向ける。そ してその意義を「タム文字写本文化圏」(7)の視座から論じ,若干の考察を行 い,今後のスィーウィチャイ師研究の課題の一端を示したい。

1.スィーウィチャイ師伝について

 スィーウィチャイ師の伝記的作品の嚆矢は,早くも1920年に現れている。 詩人スントーン・ポッチャナキット(1863‒1937)(8)がカーオ(khaw)と言 うラーンナーの民衆に好まれた定型詩型式で著した『スィーウィチャイ比丘 のカーオ・ハム』[SWTN, vol. 2: 916](9)がそれで,詩人が書き上げると,書 物として刊行された。当時の北タイのことゆえ,原文も刊本もタム文字で書 かれ,印刷された[Sanguan 1972: 395](10)。刊本の一部はスィーウィチャイ

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師に献上され,スィーウィチャイ師はそれを布施に訪れた人々に配ったと伝 えられるから,内容はスィーウィチャイ師自身も納得のいく信頼できるもの であったと考えられよう[Rungwit 2015: 20‒21]。  スィーウィチャイ師の生前から師について多くの詩文が著されたことに ついて,筆者は以前にそれらのテクストが「タムナーン(tamnan)」(11) 呼ばれ,貝葉写本として残ることに着目して紹介した。そこで取り上げた 『スィーウィチャイ尊師詳伝(Tamnan Khruba Siwichai baep Phitsadan)』写本 は1949年に書写されたものだが,元になった原本または写本は1929年に書 かれたことがわかる。同写本は,チェンマイ大学社会科学研究所(SRI と略 記)が1978年から1990年にかけてタイ国北部で行った貝葉写本調査プロジェ クトにより,マイクロフィルム撮影されて保存されている[飯島1999: 11]。 同様に SRI がマイクロフィルム化した貝葉写本群の中に,少なくとも9本 のスィーウィチャイ師伝が数えられる。そのうち3本については,それぞれ 小暦1290(西暦1928/29)年,1294(1932/33)年,1295(1933/4)年の筆写 年が知られるが,いずれもスィーウィチャイ師の存命中である。写本の出所 はチェンマイ県サンサーイ郡が5本と多いが,別々の3寺院に所蔵され,他 にチェンマイ県ドーイサケット郡,さらにはチェンラーイ県,ナーン県の寺 院にも及んでいる[SRI 2009]。  これらは偶々今に残って,マイクロフィルム化のために選別された写本で あり,実際に製作された写本のごく一部に過ぎないのは言うまでもあるまい [cf. 飯島1998: 108‒110]。したがって,上記のデータから,スィーウィチャ イ師に関して文字で定着された情報の量は相当に大きく,広域に伝わってい たと想像すべきであろう。そして貝葉写本は,経典であれば読誦され,そう でなくとも声に出して読まれる性格のもので,音読により大勢の人びとが音 声と耳を通じてテクストの内容を享受するのが常であったこと[飯島2009: 222]も想起されねばならない。先に挙げた『スィーウィチャイ尊師詳伝』 はまさにその冒頭で,「さあさあ,在家者,主家者,男女の皆さま方」,こ れから述べるスィーウィチャイ尊師のタムナーンを「じっくりしっかり聴

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きなさい(cong sadap trap fang)」と語りかけているのである[SRI 83.120.  01M.044‒044: 1]。  このような文字テクストの存在を認識し,それが有したであろう看過しえ ない大きさの伝達力を想像することにより,20世紀前半においても依然と して息づいていた「タム文字写本文化圏」の意義(12)に改めて気付かされる。 従来スィーウィチャイ師が多くの信奉者を集めたプロセスについての実証は 乏しく,往々にして口伝えの「噂(rumors)」[Bowie 2014a: 689; Pisith 2017: 7‒8]の拡散によって説明されてきた感があるが,そうした噂の源あるいは 触媒として,文字テクストが関与していた可能性が充分ありうることを指摘 したい(13)

2.スィーウィチャイ師の系譜について

 速水が北タイにおいてクルーバーと呼ばれる「トン・ブン(徳者)」ない し仏教聖者の系譜を語るとき,それは「クルーバー・スィウィチャイとそ の系譜に連なる聖者」たちのことで,スィーウィチャイ師から弟子のクー バー・カーオピー(1889‒1977),そして両者の弟子であるクーバー・ウォ ン(1913‒2000)へと続く系譜である。速水の場合,年来のテーマであるカ レンとの関わりで,とりわけ多くのカレンが精霊信仰を捨てて帰依したと され,彼らを労働奉仕へと誘ったクーバーたちが焦点となった[速水2015: 84‒87]のかも知れない。しかし,「現代のトン・ブン伝統の範型」[Cohen 2000: 142]であるクーバー・ブンチュムについて論じるコーヘンも,ブン チュム師の先駆をスィーウィチャイ師とクーバー・カーオピーであるとする から,それは同様にスィーウィチャイ師に始まる系譜である。コーヘンによ れば,この系譜のトン・ブンは,宗教的建造物の建立・修復事業への献身が 著しい。スィーウィチャイ師からクーバー・カーオピーやクーバー・ウォン へと連なるカレンの主体的参加が顕著な系譜の活動を「クーバー運動」とし て捉えるクワンチーワンが,運動の核として主に扱うのも建築事業である [Kwanchewan 2003]。在俗信徒は労働と金品の寄与を通じて建立・修復工事

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に,さらには竣工を祝う祭り(poi luang)に参加することにより,徳を積む 機会を与えられる。かかる相互関係により,トン・ブンの求心力が維持,拡 大された。ブンチュム師は確かに,スィーウィチャイ師を髣髴とさせるまで に,寺院や仏塔の建立・修復の数々に携わっている。  しかし現代のクルーバーたちの中には,護符(プラ・クルアン[パーリ学 仏教文化学会2016: 419])ビジネスに手を染めて資金を調達する例が少なく ないなど,スィーウィチャイ師が体現したトン・ブンの本質は既に失われて いるのではないかと疑われる状況もある。にもかかわらず,彼らの殆どは スィーウィチャイ師との何らかの系譜的関係を主張し,ある場合にはスィー ウィチャイ師の生まれ変わりだと信じられていたりする[Pisith 2017: 25](14) こうした現代的状況において,スィーウィチャイ師の後継の系譜をどこま で,いかに辿りうるかは意見が分かれるであろう,検討に値する課題であ る(15)  如上のスィーウィチャイ師以後の系譜に関する議論に比すると,スィー ウィチャイ師以前については論じられることが少ない。それだけスィーウィ チャイ師が突出した画時代的な名声を獲得したからであろうが,それには師 が「中央」サンガとの軋轢の表舞台に立たされたという変革期の時代背景が 与っている。そもそもの出自において,スィーウィチャイ師自身は決して地 域の「伝統」を覆す突然変異のごとく生まれたわけではないだろう。ここで は,スィーウィチャイ師に至る過去の系譜に目を向けて,スィーウィチャイ 師以後には見えにくくなった地域の「伝統」と言うべき背景の在処を探るこ とにする。前出のルンウィットの著書を始めとして,筆者の手元に限っても かなりの数に上るスィーウィチャイ師伝(16)を紐解いていくが,いずれにお いても,トン・ブンの表徴とされる超能力を証する奇跡譚が各所にちりばめ られている。そうしたカリスマ的伝説の御簾をできるだけ払いのけて,見え 隠れする実在したスィーウィチャイ師の人となりを捉えるよう努めてみた い。

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3.修行の始まりとクーバー・サマナ

 1878年6月11日に現在のランプーン県リー郡バーンパーンに生まれ,イ ンターフアンと名付けられた男児が,後のスィーウィチャイ師である。幼時 より物静かな子で,殺生を嫌って菜食に徹し,早くから出家修行の道を希望 していたと伝えられるが,まずカニョム(寺小姓)となって郷里の寺(ワッ ト・バーンパーン)に入った。そこで17歳まで過ごす間に読み書きを覚え, 簡単な経典の読誦を始めとして僧侶のなすべき務めを習得していたという。 そして18歳となった1896年,同じ寺でかねてよりの望み通り沙弥として出 家して,サーマネーン・スィーウィチャイとなり,短期間のうちに古いタム 文字の読み書きをマスターし,パーリ語・サンスクリット語の文献にも習熟 していった。ワット・バーンパーンのカッティヤ師が最初の師匠であった [Rungwit 2015: 143‒154, 165‒169]。  得度式は1899年,ランプーン県バーンホーン郡のワット・バーンホーン ルアンの布薩堂において,クーバー・サマナ(またはスマノー,ソムノー等 の記載がある。以下,サマナ師)を授戒師として執り行われ,スィリウィ チャヨー比丘すなわちプラ・スィーウィチャイとなった。スィーウィチャイ 師は以来,サマナ師を尊敬して師事した。得度式後まもなく,スィーウィ チャイ師はワット・バーンパーンに戻り,そこでカッティヤ師からさまざま な呪術(saiyasat)の教えを受けた。当時の人々は呪術を好み,盛んに学ん でいた。スィーウィチャイ師はまた,当時の男子の多くがそうしたように, 両脚に入れ墨を施すこともした[Rungwit 2015: 171‒3]。  厳格に修行に励むスィーウィチャイ師に,カッティヤ師はさらなる研鑽を 勧めた。そこで初めて長期にバーンパーン村を離れて,林住派の流れを引 く最も優れた止観(wipatsana-kanmathan)修行の場として古くから聞こえた 大寺ワット・ドーイテー(現ランプーン県メーター郡)に赴いた。ワット・ ドーイテーのウパラ師は呪術(wicha akhom)で名高く,民衆の尊敬を集め, 平地民であると山地民であるとを問わず(17),寺には大勢の修行者がいた。

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師は,ワット・バーンホーンルアンのサマナ師の授戒師でもあった。ウパラ 師は熱心なスィーウィチャイ師に目をかけ,自身のもつ学術の限りを伝授し た。スィーウィチャイ師は約1年ののち,この3人目の師匠の下を去って, ワット・バーンポーンに戻る。ために,ウパラ師のワット・ドーイテーで研 鑽を積んだ事実は看過されがちだが,スィーウィチャイ師が仏法に専心する に至った転換点であり,スィーウィチャイ師の流れを汲む仏教が今日に至る まで確固とした根を下ろすうえで重要な基礎となったとルンウィットは述べ る[Rungwit 2015: 173‒6, 517]。  ここまでのスィーウィチャイ師の歩みに見られた師弟関係によって把握さ れる系譜を,林にならって仮に「教派」と呼んで,注目したい。林によれ ば,「教派とは,始祖にあたる師をもち,読経・瞑想法,律(罰則規定)に 関わる日常の儀軌作法が差異化する師弟の系譜」,あるいは「師資相承の実 践を共有する出家者とそれを支える在家者の集まり」であるが,教派間に競 合関係はなく,理論上,教派は無数に生じ,「師弟の二者関係を基本とする 点で生まれては消える運命にある」[林2009: 241]。スィーウィチャイ師が 連なった「教派」の場合,始祖は必ずしも明確ではない。また,スィーウィ チャイ師以後となると,前述のような問題が生じて,その系譜は次第に捉え にくくなる。しかしここでは,スィーウィチャイ師の「教派」を探ることに より,スィーウィチャイ師が地域においては決して異端ではなく,あくまで も地域の先輩僧たちに師事しながら,その実践の歩みを積み重ねていったこ とが確認できれば充分である。では,その「教派」はいかなる特徴を有した のだろうか。  そこでまず,既述のようにスィーウィチャイ師の授戒師を務めたサマナ師 から見てみよう。スィーウィチャイ師が得度の際にサマナ師の寺で過ごした 時間は長くはなかったが,その後も授戒師と弟子と言う関係[Turton 2006: 154]が保たれ,スィーウィチャイ師は常日頃からサマナ師を訪ねて行き来 した。後にランプーンの諸寺院の建立事業に携わるようになってからも,表 敬訪問を欠かさなかったという[Rungwit 2016: 191]。

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 サマナ師は1850年にバーンホーンルアンで生まれ,1870年,バーンホー ンのワット・マハーサンカーラーム・スィーブンルアンで出家した。得度の 後は,ワット・サントントンのソムデット・チェータワチラパンヤー・マ ハーテーラの弟子となって,瞑想やパーリ語文法・語法を学んだ。このサ マナの師たるソムデットこそ,プレーのワット・スーンメンを拠点として, ラーンナー全域からルアンパバーンまでその名を馳せた高僧クーバー・カン チャナ(以下,カンチャナ師)[Hundius 1990: 12; Veidlinger 2006: 152‒153] の弟子であったと言う[Rungwit 2015: 189]。したがって,スィーウィチャ イ師はカンチャナ師の孫弟子のそのまた弟子にあたる。ここに,カンチャナ 師とスィーウィチャイ師を繋ぐ師承の系譜が存在したことは極めて興味深 く,重要だと筆者は考える。サマナ師についてはまた,「タム文字を[貝葉 に]美しく秩序整然と書くことができた」と特筆されている[Rungwit 2016: 189]ことにも注意したい。  サマナ師には動物の会話を理解する特殊能力があったとも言われ,その戒 律を遵守する模範的な品行によりバーンホーンとその近辺では僧界俗界挙 げて心酔していたので,広く多大な尊敬を集める「ラーンナーの徳者」に 相応しい師僧だった。そして60歳,法臘40年にて,1910年に世を去った [Rungwit 2016: 191]。

4.クーバー・カンチャナ

 カンチャナ師(18)は1789年(19)プレーに生まれ,ワット・スーンメンで得度 して学んだ。三蔵に深く通じて,とりわけ貝葉聖典による護法を重要と考 えていたカンチャナ師は,タイ国北部のナーンとラオスのルアンパバーン において,その地の王族たちが後援して開催された仏典結集会議(prachum sangkhayana tham)[SWTN, Vol. 1: 206‒207]を主宰し,経典写本を制作した。  両地における写本制作については,石刻文による記録が残っている[CLNI, 5: 43‒49]。1833年4月,弟子の僧たちを従えてプレーからナーンへ徒歩で 赴いたカンチャナ師が中心となり,ワット・チャーンカムにおける七日七夜

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の会議を経て,142巻1603束の三蔵聖典の結集が行われた(20)。ナーンの僧 正が僧界を代表し,俗界の信徒を代表したのは時のナーン王チャオ・マハー ヨット(在位1825‒1835/36)だった。完成の祝いは1837年6月に挙行され, それが済むと,カンチャナ師は経典を奉じてプレーへ帰った。ルアンパバー ンのワット・ウィスーンで結集会議に臨んだのは1836年のことで,この時 も,会議に七日七夜を費やしたとされる。  ルアンパバーンにおける写本制作については,ワット・スーンメン所蔵写 本の幾つかのコロフォンからも詳細が知られる。ルアンパバーン王マンター トゥラート(在位1817‒1836)やその王子の後援の下,王族たちとプレーの 民衆の寄付金を用いて,ルアンパバーンの写字生を雇い(21),242巻(mat)(22) の貝葉写本が完成した。ナーンと同じ1837年の奉祝儀礼の後,写本はカン チャナ師により,プレーのワット・スーンメンに運ばれた[Hundius 1990: 108‒113]。  カンチャナ師はチェンマイ,チェンセーンにも行脚して写本制作活動を 行ったと言われる。そうして制作された経典を集積したワット・スーンメン はパーリ学仏教学の拠点となり,現在もその三蔵庫(ho trai)はタイ国北部 で最も多い1万5千束の貝葉写本を所蔵することで知られる[Hundius 1990: 34‒35]。  カンチャナ師はタム文字で現地の言葉を美しく書くことができたために, プレーの僧侶たちから非常に尊敬されたとの証言をマクダニエルは紹介して いる[McDaniel 2009: 129]。手書きの文字の美しさは,既にクーバー・サマ ナについても言われていた。美しい文字を書くことは,この「教派」の僧侶 たちに共通する資質のようである。そして,それを僧侶の尊敬すべき属性と 見なす価値観が存在したと言えよう。  マクダニエルが強調するのは,カンチャナ師についての地元の評判では, パーリ語の能力にあえて触れられることはないという点である。マクダニエ ルは,カンチャナ師によるパーリ語の著作が無い事実を記し,カンチャナ 師がパーリ語文法に余り通じていなかった可能性もあると見ている。そし

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て,プレーで高い尊敬を集めるには地元の北タイ語の写本制作を奨励した ことで充分であったと述べる。北タイにおいて(ラオスでも同様であった が),パーリ語よりもずっと大量の現地語写本が制作されたこと,そして教 育上,現地語テクストはパーリ語テクストの補助とは見なされず,教師たち は現地語で書き,現地語で雄弁に説教する能力により名声を得ることができ たことを確認し,カンチャナ師もそのようにしてこの地域で尊ばれた。他 方,それこそが,カンチャナ師がタイ国全域には知られない理由の一つであ ろうとも述べる。カンチャナ師の事業の成果を始めとする北タイ地域におけ る大量の写本の存在が,バンコクを中心としたタイ国の仏教研究においては 過小評価されていると言うのが,マクダニエルの言わんとするところである [McDaniel 2009: 129‒130, 134‒135]。  タイ国内においてはマージナルな存在であるカンチャナ師だが,タイとラ オスという近代国家の境界を跨いで推進されたその写本制作事業は,前近代 において機能した「タム文字写本文化圏」に十全に属するものと見なすこと ができよう。写本制作は,建設事業がそうであるように,王侯や女性を含む スポンサーないしパトロンから,書写材料を準備し提供する村人や商人,そ して僧侶や沙弥,場合によっては在俗の写字生まで,地域の多様な人びとを 巻き込んで行われたが[Hundius 1990: 109; 飯島2009: 214],そこにおいて, 特定の僧侶の傑出したリーダーシップが発揮されたのである。ワット・スー ンメンの場合はカンチャナ師の死後,マクダニエルが紹介するもう一例であ る,ランパーンのワット・ラーイヒンの場合[McDaniel 2009: 131‒134]も, 牽引者であった僧侶の死後,目立った写本制作は行われなくなった[McDaniel 2009: 136]。  カンチャナ師のチェンマイにおける事績については諸説あって確定できな いが,いずれにせよ,ワット・プラスィンに関わるものである。ランプー ンのワット・プラタート・ハリプンチャイが所蔵する銅鑼の碑銘に,1860 年にカンチャナ師がワット・プラスィンに止住していたとの記述があると 言う[SWTN Vol. 1: 207]。ワット・プラスィンの三蔵庫についての研究書

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では,15世紀の創建後,1811年頃に再建され,1830年代にチェンマイに滞 在したカンチャナ師が修復を行ったと明記しており[Cirasak et al. 1996: 3], マクダニエルはこの説を全面的に採用している[McDaniel 2009: 128]。ワイ ヤットは文献の欠如を嘆きつつ,カンチャナ師がプレーで活動する以前に, ワット・プラスィンの三蔵庫の整備を企図したという口頭伝承を記す[Wyatt 1997: 434]。ワイヤットが収集したような口頭伝承は,スィーウィチャイ師 の時代にもおそらく流布していたに違いない。

5. ワット・プラスィンとスィーウィチャイ師の写本制作事業,

あるいは写経

 ワット・プラスィンはチェンマイの旧都城内に位置し,最古の仏塔は14 世紀半ばにマンラーイ王朝第5代のパーユー王が創建したと伝えられる古 刹である[飯島2016]。そして現在は,止住する僧と沙弥の数がチェンマイ 県中で最多の大寺院で,信徒が日夜参集するだけでなく,寺院の名の由来で あるスィヒン仏やラーイカムと呼ばれる堂内に描かれた彩色壁画,三蔵庫 [Cirasak, Worasan and Yuwanat 1996]を始めとする境内の趣のある建造物な どが観光客をも惹きつけて,賑わっている。しかし1923年当時,境内の建 物は損壊が激しく,荒廃していた。そこでチャオ・ケーオナワラット(23)と, チャオ・ダーラーラッサミー(1873‒1933)(24)というチェンマイの筆頭王族 の二人が,地元経済界の有力者たちと語らって修復・再建を決めた際,白羽 の矢が立てられたのがスィーウィチャイ師だった。  ワット・プラスィン再建の指揮者として招請を受けたとき,スィーウィ チャイ師はパヤオにいて,パヤオの名刹ワット・スィーコームカムの修復工 事に従事していた。1922年,パヤオの僧界・俗界の代表や有力商人らがこ ぞってスィーウィチャイ師を招請したという事実は,当時既にスィーウィ チャイ師の評判が如何に広く聞こえていたかを物語る。スィーウィチャイ師 は,パヤオの招請者側がレンガ,砂,石などの建築資材を用意するという条 件で,建設作業に熟練した弟子の僧侶たちを引き連れて,ランプーンから赴

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いた[Sucit ed. 1984: 200‒202]。スィーウィチャイ師のパヤオ到着の報が伝 わると,近隣の北タイ各地からだけでなく,今日のビルマ・シャン州のチェ ントゥンからも信奉者が集まったという。カレン,モン,ラフ,アカ,ラ ワ,カムなどの「山地民」が労働奉仕に加わっていたことも特筆されている [Carat 2006: 90‒92]。  パヤオのワット・スィーコームカムの修復工事は,仏殿,布薩堂,食堂な どを含めて,1年余りで終了した。続くワット・プラスィンの再建は1924 年から1928年まで,足かけ5年を費やす大事業だった。その間の1926年か ら1928年,スィーウィチャイ師は経典の破壊や散逸を憂えて,ラーンナー 版三蔵(25)の結集とも呼びうる事業を行った。それは弟子たちを率いて,各 地の寺院にうち捨てられていた写本を集め,分類・整理・校訂し,新たな貝 葉写本を制作することだった。  寺院建造物や道路などの建設修復事業に比して,従来ほとんど取り上げら れてこなかった,このスィーウィチャイ師の写本制作事業に目を向けてみよ う。改めて注意して見れば,スィーウィチャイ師伝の多くが控えめながら, 写本制作に言及している。  スィーウィチャイ師の下で制作された写本の内容と数量について,手元の 文献に掲載されている限りでまとめたのが〈表1〉である。参照した5種 の文献の掲載内容はそこかしこに齟齬があり,数量を細部まで確定するの は困難であるが,おおよそ符合する。『スート・サンカハ(Sut Sangkhaha)』, 『サマンタパーサーティーカー(Samantapasathika)』,『ウィスッティマッカ (Wisutthimakka)』については完全に一致しているので,誤りないところで あろう。しかし写本テクストについては,タイトルや数量だけでなく,ある テクストを含む写本がなぜ,いかにして存在するに至ったかというコンテク ストの問題を含む,多くの問いかけを伴う実地(26)の調査が今後は必要であ る(27)  4千ルピー(28)を越える経費の内訳としては,写字生の傭い賃,束にした 貝葉の縁に貼る金箔代,三蔵奉納儀礼の諸費用[Rungwit 2015: 516]が挙げ

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〈表1〉 SRI 1994: 46 Sanga 1956: 227‒8 Doi Suthep 2009: 75 Rungwit 2015: 515 Carat 2006: 99 Winai thang 4 (or

5) [Vinaya] 10m/170p 10m/170p 10m/170p 10m/170p 10m/170p Nikai thang 5 [Nikāya] 5m/64p 5m/69p 5m/69p 5m/69p Aphitham 7 khamphi [Abhidham] 7m/145p 7m/76p 7m/76p 7m/145p 7m/76p Barami [Pāramī] 10m/112p 10m/122p 10m/122p 10m/122p 10m/122p Sut Sangkhaha [Suttasaṅgaha] 7m/76p 7m/76p 7m/76p 7m/76p 7m/76p Samantapasathika [Samantapāsādikā] 4m/45p 4m/45p 4m/45p 4m/45p 4m/45p Wisutthimakka [Visuddhimagga] 3m/76p 3m/76p 3m/76p 3m/76p 3m/76p Suwanna Chadok [Jātaka] 116m/1232p 126m/1232p Tham/Ton 172p 172p 172p 172p 172p Sattha thang 8 8m/38p 8m/38p Kammawaca [Kammavācā] 6m/104p 6m/104p 6m/108p 6m/104p 6m/104p 1m/108p Nibat 21m/145p 21m/145p 21m/145p Thammabot 21m/145p Mahawak (or Waramak) 235m/2726p 135m/2726p 235m/2726p Tamnan lae chadok 1m/172p 合計 235m/2726p 235m/2726p 344m/5408p [積算値] [176m/2234p] [73m/1055p] [308m/3785p] [344m/5400p] [303m/3712p] 諸経費(単位ル ピー) 4231 4321 4321 4232 4321 m=mat(巻)/ p=phuk(束) られている。ワット・プラスィンの再建・修復費の総計約7万5千ルピー [Carat 2006: 95; Rungwit 2015: 513]と比べると,金額は些少で目立たない。

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「成就の聖僧」[Rungwit 2015: 74]との評判を得ていたというスィーウィチャ イ師の実行力は,拠金を導く才とも言うべき,収金能力に裏打ちされていた ことに鑑みれば(29),この目立たない事業は看過される運命にあったのかも 知れない。  写本制作が実際どのように進められたかに関する記述は少ない。わずかに チャラットに,スィーウィチャイ師が事業を愛弟子のチーナーという比丘 に委ねたとあり,この比丘が「統括者(phu cat ruap ruam)」となって,「写 字生を雇い(cang chang khien),金箔を施した」,それがワット・プラスィン の経箱内に,また各地の村々の寺院に所蔵される説法書であると書かれる [Carat 2006: 99]。これによれば,スィーウィチャイ師の関与は間接的であっ たかに見える。  しかしスィンカが,スィーウィチャイ師がワット・プラスィンにおいて, 自らの手で貝葉に書写していたことを明らかにしている。  スィンカが翻字して紹介するのは,1926年にスィーウィチャイ師が「ウッ サーバーロット・ジャータカ(Ussabarot Chadok)」(30)15束の筆写を終えて, その写本末尾に記したコロフォン(31)である。その概要は次のようである。   プーク・ジーの年,小暦1240年,仏暦2420年(西暦1878年)生まれの 私スィーウィチャイ比丘が,ラワーイ・ジーの年,小暦1288年,仏暦 2469年(西暦1926年)に及びまして,[僧界の]弟子たち全員,また俗 界では父母兄弟,大勢の男女信徒全員とともに,信仰心(sattha/saddhā) を抱いて,この一巻(mat)の経(tham)を書写し終え,御齢5千年の 仏の教えを護持奉ります。私はランプーン県リー郡バーンパーンのワッ ト・スィーサーイムーンブンルアンで[仏道に]務めております。私は チェンマイのワット・プラスィンで務めております時に,[この経を] 作り(sang)ました。請い願わくは,私をブッダ(sapphanyu aphothiyan cao)の悟りの境地に至らせたまわんことを[Singha 1979: ‘kham nam’; Rungwit 2015: 518‒519]。

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 スィーウィチャイ師はこの発願文(panithan)を,自らが書写した写本の 末尾に必ず記したという[Singkha 1979, ‘kham nam’]。一般にかなり類型化

されているコロフォンのパターンや書かれる内容(32)から,取り立てて逸脱 しているようには見えないが,スィンカはこれを以て読者にスィーウィチャ イ師の真の動機の在りかを知らしめようとする。スィーウィチャイ師自身の 手になる写本がどのくらいあるかは不明だが,その数は決して少なくないと いう印象を与えるスィンカの書きぶりである。  上例では明らかに,スィーウィチャイ師は本文のジャータカを自ら書写し たうえで,コロフォンを書いたと見られる。しかし,必ずしも本文テクスト の写字者がコロフォンを書くとは限らなかった。16世紀のそうした例を紹 介するヴェイドリンガーは,コロフォンの筆者は写本制作を指揮監督した人 物だろうと推測している[Veidlinger 2006: 125](33)。スィーウィチャイ師も 写本制作の指揮者であったから,その立場でコロフォンのみを書くこともあ りえただろう。と言うのも,ヴェイドリンガーの試算では,僧侶(または 沙弥)が僧院生活の傍ら1日1時間程度を書写にあてた場合,1束(24葉) 写すのに平均13日間かかる。15束の上記ジャータカ1本なら,200日近くか かる勘定である。したがって,書写に専念できる写字生を雇って遂行された ワット・プラスィンにおける写本制作は,それだけ特別な事業だったのであ る。その原動力はスィーウィチャイ師の強い意思に他ならない。  スィーウィチャイ師は,能弁ではなかったようだ。師の謦咳に接していた スィンカは,「スィーウィチャイ師は説法師ではなかった。言葉少なで切れ 切れに話し,遠くまで聞こえるように何か演説するのを好まなかった」と書 いている[Singkha 1979, ‘kham nam’]。また別のところでは,祝福を与える 言葉が早口で殆ど聞き取れなかったと書く。スィンカは怪訝に思ってそのわ けをスィーウィチャイ師に尋ねたところ,「祝福を請う信者たちが入れ替わ り立ち替わりひっきりなしにやって来るのに,ゆっくり話してなどいられな い」との答えだった言う。実際,一日に二,三百人以上の信奉者が祝福を請 いにスィーウィチャイ師の下へやって来た[Rungwit 2015: 119]のだから尤

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もだとの話なのだが,いずれにせよ,よく通る声で朗々と語るようなスィー ウィチャイ師の姿は想像しにくい。  人を惹きつけるような堂々たる体躯とはほど遠い「小柄で華奢」な,そし て「説法師ではない」スィーウィチャイ師の何が多くの人びとの心を捉え て,困難な仕事を直ちに成し遂げ得たのかと問うスィンカは,スィーウィ チャイ師と他の人々との差は,貪り(lopha),怒り(moha),愚かさ(thosa) の三惑が人並み外れて少なかったことにあるとして,その証として,上の発 願文を紹介するのである[Singkha 1979, ‘kham nam’]。スィーウィチャイ師 にとって発願文によって完結するその作業は,写本制作事業であると同時に 写経であり(34),求道者としての師個人にとっても究極の意味を有する行で あったのだろう。また,写経がスィーウィチャイ師に確実にさまざまな知識 をもたらしたことも重要であろう。タートンは,自身が直に接した或るクー バーの系譜の研究を通じて,「クーバーが自ら収集し,書写した貝葉文書か ら得た知識に由来する力,この知識が経験と実践と結びついて,クーバーを 指導者たらしめた」[Turton 2006: 156‒7]と書いている(35)。スィーウィチャ イ師は,薬学,建築,占星術,防御的その他の呪術,拳闘術,武術に至る熟 練の技や知恵を有したことでも尊ばれる[Turton 2006: 160]が,文字を介し た知識に由来した部分も少なくないと考えられる(36)  スィーウィチャイ師によるまとまった数の写本制作は,ワット・プラスィ ンの修復事業中(およびその後まもなく)に行われ,制作された写本はワッ ト・プラスィンに奉納された。写本制作は他所でも行った模様であるが,そ の明らかな中心であったワット・プラスィンがスィーウィチャイ師に何らか の動機づけを与えたとすれば,前述のカンチャナ師とワット・プラスィンと の関わりが想起されよう。先に確認した系譜上の師承のつながりを有する スィーウィチャイ師は,当然,自らが連なるべき系譜の先達であるカンチャ ナ師とワット・プラスィンとの因縁を知っていたに違いない(37)。そしてそ の先達の事績は,今日私たちが想像する以上に大きくかつ重要な意味を有し たのではあるまいか。系譜上の「教派」的繋がりと併せて,ワット・プラ

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スィンという共通の場が有したインパクトを考えると,スィーウィチャイ師 の事績として忘れられるべきでない写本制作に, アランヤワースィー と 明瞭に名乗ったカンチャナ師(38)の事業の継承と言う意義を見ることも可能 ではないだろうか(39)

おわりに

 現代においてタイ国北部を含む各地で寺院や仏塔などの建立,修復を盛ん に行い,スィーウィチャイ師の再来と見なされることもあるブンチュム師に ついて,コーヘンは,国境を跨いでラオス北部,中国西南部,ビルマ北部に 展開するその活動域を「ユアン仏教」世界に対応すると論じている[Cohen 2000: 152]。片岡はそこに,「近代国家によって分割・解体されてきたかつて のユアン仏教世界の再建,というモチーフ」を読み込む[片岡2015: 111]。 ブンチュム師はそうして「ユアン仏教」の伝統を熱心に保持しているという のだ[Cohen 2000: 142]。「ユアン仏教」(40)という用語と概念について,筆者 は別のところで詳しく論じた[Iijima 2009: 17‒20]ので,ここでは繰り返さ ないが,あくまでも外部の観察者による呼称であり,論者によって揺れがあ ることは指摘しておきたい。  そのようなブンチュム師の活動域の広がりと比べると,スィーウィチャイ 師の場合,今日のタイ国北部に限定されていたと述べられる[Cohen 2000: 152]。 確 か に,107件[Rungwit 2015: 691‒696](41)と 数 え 上 げ ら れ て い る スィーウィチャイ師の寺院・仏塔の建立・修復事業については,タイ国北部 に立地する建造物に限られた(42)。しかし,スィーウィチャイ師の写本制作 事業にカンチャナ師の事業の継承という性格を読み取るならば,それは国境 成立以前の「タム文字写本文化圏」に属するものであり,その意味におい て,タイ国内に限定されないブンチュム師の活動域に潜在的には匹敵しう る。したがって,両者の活動域の表面的な比較は余り意味がないだろう。問 題はスィーウィチャイ師の中にどの程度までシャム国家への志向性が芽生え ていたかであって(43),それは今後の解明に待たねばならない。

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 既に明らかなのは,寺院・仏塔の修復事業がブンチュム師を始めとする今 日のクルーバーたちによっても盛んに継承され,発展しているのに対し,タ ム文字で書写する写本文化が間違いなく絶えたことである(44)。それが,今 日,スィーウィチャイ師の事績のうち,写本制作事業がほとんど顧みられ ない本当の理由であろう。現代に隆盛するクルーバーたちの始祖とされる スィーウィチャイ師だが,他方,「タム文字写本文化圏」の「伝統」を体現 する最後のクーバーでもあったと言えよう。 注 ⑴ 現在のタイ国北部を中心とした地域において,13世紀末頃から山間盆地に立地 する諸邑(ムアン)を連合して成立した国家がラーンナー(「百万の水田」の意) と呼ばれた。ラーンナー地域は16世紀半ばから約200年間にわたり,ビルマ王朝の 直接・間接の支配を受けたが,18世紀末に中部タイのシャム人勢力と連携して復 興を果たし,シャムのバンコク王朝により叙任されたカーウィラ一族の王統(カー ウィラ朝)が20世紀初頭まで存続した(「チェンマイ」[飯島2016]を参照)。ラー ンナーでは先住のモン人の仏教が継承されたうえに,14世紀(1367年頃)と15世 紀(1430年頃)の二度にわたり,スリランカに起源する仏教伝統(ランカーウォ ン)が修行僧たちにより導入された。新旧のランカーウォンは王権に擁護されつつ 競い合って,教学の興隆をもたらすとともに,周辺各地に勢力を扶植し,共通の経 典とタム文字[註⑺]を伝えた。シャムとは系統を異にしたラーンナー仏教(「ユ アン仏教(Yuan Buddhism)」[Cohen 2000: 142]とも呼ばれる)圏がこうして生ま れた。 ⑵ 20名の「チェンマイの」クーバーを扱う[Anu 2015]は,クーバーに関して厳 密な定義はなく,「重要なのは,信徒たち[「七衆」の語を使う]からクーバーと認 められ,尊敬されること」だとする。 ⑶ タイ国が正式の国称として用いられるようになったのは1939年以降である。 ⑷ “Prakat Hai Chai Phraratchabanyat Laksana Pokkhrong Khanasong Ro.So.121 nai

Monthon Maharat Monthon Phayap lae Monthon Patanai[ラタナコーシン暦121年サン ガ統治法をマハーラート州,パーヤップ州およびパッターニー州に適用する布告]” [Ratchakitcanubeksa[官報]: Vol. 21, pp. 74‒75]。マハーラート州とパーヤップ州が

北部にあたる。

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参詣に難儀した[Siwa 1995: 58]チェンマイ市西郊のステープ山頂にある仏舎利塔 寺へ登る11.5キロの参道建設を指揮した(nang nak)。自発的に参集した多様な民 衆の労働奉仕により,5ヶ月余りの短期間で自動車道路を完成させた偉業は,既に 評判だった「成就を司る聖僧」(phra ariyasong haeng khwam samret)[Rungwit 2015: 598]としてのスィーウィチャイ師の名声を一段と高からしめた。民衆はカレン, モン等の山地民を大勢含み,タイ国北部の各地にとどまらず,チェントゥンやスィ プソーンパンナーから参加する信奉者もいた[Songsak ed. 1999: 18‒20]。工事に 関する情報は,口伝えとともに,10万枚[Sanga 1956: 250‒251; Rungwit 2015: 585] ([Carat 2006: 107]に拠れば,5千枚ずつ2回で計1万枚がすぐに無くなった)印 刷されて,各地で配られたチラシによっても広まった[Siwa 1995: 58]。 ⑹ スィンカについては,フンディウスも,自身の師であると共に,ドイツの財団が 支援した写本調査プロジェクトに多大な貢献をしたと明記している[Hundius 1990: 4, 15]。  筆者は,1979年にスィンカ氏がチェンマイ大学人文学部で開講されていた「ラー ンナー文学」の授業を聴講してタム文字の初歩を学び,その後氏が病に伏されてか ら,ランプーンのご自宅で営まれた延命(スープ・チャター)儀礼に参列させてい ただいたというささやかなご縁を有する。 ⑺ タム文字は,タイ系の人びとが用いてきた文字の一種で,パーリ語ならびに用 いた人びとの話すタイ諸語を表した[飯島2001]。筆者はタム文字で書かれた現存 写本の分布に依拠してとらえられる地域を仮に「タム文字写本文化圏」[飯島1998: 113]と呼んで,歴史研究の対象としてきた。その範囲は,最初にタム文字を使用 したと推定される今日のタイ国北部から,ラオスの低地部全域およびタイ国東北 部,ビルマ(ミャンマー)・シャン州のチェントゥンを中心とした地域,中国雲南 省スィプソーンパンナー(西双版納䍼族自治州)を中心とした地域と,これらの地 域を繋ぐ地帯の各地に及ぶ。タム文字はかつて盛んに用いていた何れの地域におい ても,近代国家に在っては公用文字たりえない副次的ないし少数民族の文字である ため,復興や保存の動きはあっても,識字者の数は減少の一途をたどっている。 ⑻ チェンセーンに生まれたが,1881年頃にチェンマイに移る([SWTN, vol. 13: 7000]は,チェンマイ生まれとする)。妙音の美しいカーオを創る詩人として有名 になり,チェンマイ王族の恩顧を受けて,出仕した。スントーン・ポッチャナキッ トの名はカーウィラ朝第九代で,最後のチェンマイ王となったチャオ・ケーオナワ ラット(在位1909∼1939)から授けられた[Sanguan 1972: 399‒404]。「酔いどれ詩 人」として知られたが,酒癖を恥じて,1917年頃に出家した。スィーウィチャイ 師について作詩したのは出家後である[Singkha 1979, ‘kham nam’]。

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も伝わる。カーオ・ハムは出来事を叙述する記録に類するカーオ[SWTN, vol. 2: 916]である。ルンウィットはスントーン・ポッチャナキットの『チェンセーンの ソー・カーオ』と題したカーオ詩集所収の「ワット・バーンパーンのスィーウィ チャイ比丘のタムナーン」として紹介している[Rungwit 2015: 20‒21]。カーオ詩 は19世紀半ばのプラヤー・ロームウィサイの作品が始まりとされる。従来のクロー ン定型詩より容易で親しみやすかったため人気が出て,節をつけて様々な集いの機 会に歌われて広まった[Udom 2003: 487‒489]。 ⑽ 1920∼30年代頃,チェンマイ市内には地元の人士が経営・印刷に携わるタム 文字の印刷所があり,経文やカーオ型式の創作詩を刊行していた[Songsak 1999: 24‒25]。カーオ・ソーが中部タイ文字で印刷され始めたのは,1952年頃だった [Udom 2003: 489]。 ⑾ [泉2016: 338‒339]。但し,泉が「タムナーン」として言及している『ムーラサー サナー』のタム文字による諸写本には「タムナーン」の語が現れないことなどに注 意が必要であり,「タムナーン」概念は写本に基づいて再吟味されねばならない。 詳しくは,[飯島1999]を参照。 ⑿ 詳しくは,[Iijima 2009]。 ⒀ 註⑸のチラシに関する記述を参照。また,『タイ文化百科事典』のスントーン・ ポッチャナキットの項には,「スィーウィチャイ師の様々な建立・修復事業の宣伝 広報支援として,北部全県全域に広く知らしめるために詩作した」[SWTN, vol. 13: 7000]とある。これによれば,本文で紹介したカーオ以外にも多数の作品が作られ て流布したと考えられる。 ⒁ ある(護符)鋳造者の証言によれば,北タイの人びとの間では,「スィーウィ チャイ師への強い信仰があり,誰であれ,スィーウィチャイ師の直系の弟子との評 価を得れば,神聖かつ魔術的な僧として高い尊敬を受ける」[Pisith 2017: 15]。 ⒂ たとえばピスィットは,現代のクルーバーたちのカリスマを構築するネット ワークをスィーウィチャイ師の時代と比較して,その変質を検証している[Pisith 2017]。 ⒃ 日本語による記述として,[泉2008]がある。 ⒄ この地域にける山地民と平地民との関係については,[ダニエルス2014]を参照。 特に,スィーウィチャイ師の信奉者の中にも大勢いた「山地民」のラワについて は,[飯島2014]がある。 ⒅ 貝葉写本には,クーバー・カンチャナ・アランヤワースィー・マハーテーラ,カ ンチャナ・マハーテーラとも書かれる[SWTN Vol. 1: 206]。 ⒆ [SWTN, Vol. 1: 206]は,生年を1781年頃とする。 ⒇ 845束,貝葉にして約14500葉の三蔵経典の校訂を終えた。翌1834年,カンチャ

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ナ師の一行はメコン川を渡った[SWTN, Vol. 1: 206‒207]。 ワット・スーンメン所蔵貝葉写本中,パーリ語テクストがタム・ラーオ文字で書 かれているのは,ラーオ人の写字生の手になるものであろう。但し,コロフォンは タム・ラーンナー文字である[Hundius 1990: 108, 117, 119, 130]。 2825束にあたる[Hundius 1990: 34]。 註⑻を参照。 カーウィラ朝第7代チェンマイ王プラチャオ・インタウィチャヤーノンの末娘と して生まれ,1886年にバンコク朝5世王チュラーロンコーンの側室として伺候し た。1910年の同王の死後,1914年にチェンマイに戻ってから亡くなるまで,文化・ 芸術のさまざまな分野で,ラーンナーの「伝統の創造」に尽力した。ステープ山仏 舎利塔寺の修復を始め,チェンマイ近郊の多数の寺院の建立・奉献に私財を投じた [Bunsuem 1989: vol. 1, 58‒173; Wongsak ed. 1996: 202‒215]。

ルンウィットは,スィーウィチャイ師の写本制作事業に当てた短い章を「ラー ンナー版三蔵の校訂」と題している[Rungwit 2015: 515‒520]。マニーによれば, 1477年ティローカラート王治下のラーンナーで行われた結集(タイでは「第八結 集」に数えられる)をハイライトとして,独自の三蔵を護持する伝統を有したラー ンナー地域だが,18世紀末に成立したカーウィラ朝時代には学識のある僧がいな くなり,三蔵伝統は衰退した。どこの寺院にも「三蔵」はあったが,それは短いダ イジェスト版に過ぎなかった[Mani 1997: 48]。 「写本の[生成し,置かれた]環境における状況に対する深い理解が,文学・歴 史・社会科学に関連する,根本的に新しいテクストの解釈を導きうる」[Lagirarde 2017: 266]と述べるラジラルドに筆者は共感する。しかし,これまでのところ, ワット・プラスィン所蔵写本の調査は可能となっていない[Lagirarde 2017: 281]。 スィーウィチャイ師が関与した写本を実見しなければ断定できないが,これ らパーリ語のタイトルを有する写本群は,原典の一部をニッサヤ(nissaya)と呼 ばれるパーリ語とタイ語を混用した話法で記したテクストが多いと推測される。 [McDaniel 2008: 122‒127]を参照。 英領インドで発行されたルピー貨がビルマを通して北タイに流入し,シャムの バーツ以上に流通していた。北タイではグン・テープ(ngoen thaep)と呼ばれ, 1920年代には1ルピーが約0.8バーツだった[Carat 2006: 89; MFL: 176]。チーク林 業で儲けた北タイ商人たちはルピー貨で蓄財した。1946年のスィーウィチャイ師 の火葬式の際に寄せられた布施は,ほとんどがルピー貨だったと言う[Sommai ed. 1994: 37]。 ワット・プラスィンの工事中,スィーウィチャイ師が資金の枯渇の恐れを口に したとたん,工事人が仏殿の土台下の埋蔵金を掘り当てたため,完成にこぎ着け

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たという逸話が残る。これが,スィーウィチャイ師の仕事を成就させるべく「神々 (thewada)から金銀が届けられた」という噂になって喧伝された[Rungwit 2015: 72]。 ラーンナーの蔵外ジャータカの一つで,14世紀半ば頃から言及があり,当時か ら愛好されたと考えられている[Udom 2003: 240‒255]。 貝葉の写字者が,本体のテクストを写し終えた後,末尾に書き添える「最後の一 筆」を「コロフォン(colophon)」と呼ぶことについては,[Hundius 1990]に従う。 [飯島2009: 213‒215]も参照。 コロフォン一般については,[飯島2009: 213‒214]を参照。 註 を参照。 ヴェイドリンガーは,調査した多くの古写本において,スィーウィチャイ師の発 願文中で仮に「作る」と訳したサーン(sang)の語が,写字者(phu khien)と明確 に区別されるスポンサーないし施与者であるところの制作者(phu sang)の意で用 いられていることに注意を喚起している[Veidlinger 2006: 126]。 クーバーの資質のあるべき一例として,「貝葉の書写に熟練し,貝葉聖典を結集 する」を挙げるチェンマイの著述家もいる[Anu 2015: n.p.]。 スィーウィチャイ師の系譜に連なると言ってもよいであろうスィンカは,儀礼に おいて果たす 並外れた 役割に欠かすことのできない知識が,出家者であった間 に多くの寺院の書庫にある教本(tamra)の研鑽を通じて得られたものだと述べて いる[Swearer 196: 165]。 先述のワイヤットが記す口頭伝承を想起せよ。 註⒅を参照。ヴェイドリンガーによれば,寺院において圧倒的多数の写本制作 を主導したのは,アランヤワースィーの僧侶たちであった[Veidlinger 2006: 128, 131]。 写本制作に関して,カンチャナ師とスィーウィチャイ師の名を並べて論じている のは,ラジラルドである[Lagirarde 2017: 268‒269]。 サムーチャイはタイ語で「ユアン仏教」に相当する「『ヨーン』派仏教(Phuttha-sasana nikai “Yon”)」と言う語を用いて,クーバー・ブンチュムを論じている [Samer-chai 2009]。

ワット・バーンパーンの僧による。[Sommai 2000: 46‒52]も同数を挙げる。 [Carat 2006: 153‒157] は105件 で こ れ に 近 い が,[Siwa 1995: 70‒73] と[Sopha

1991: 91‒92]はステープ山仏舎利塔寺参道建設を含めて51件,58件と少ない。 最大数を挙げる文献によれば,現在のランプーン県,チェンマイ県,チェンラー イ県,パヤオ県,ランパーン県,スコータイ県,メーホーンソーン県,ターク県に 及ぶ[Rungwit 2015: 691‒696]。

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ワット・プラスィンの建立・修復が一段落した祝賀行事期間中の1926年1月, バンコク朝第7代プラチャーティポック王(在位1925‒35)が王妃とともに北部巡 幸の途次にチェンマイを訪れ,スィヒン仏を拝みにワット・プラスィンに参詣し た。その折り,スィーウィチャイ師は国王に拝謁して,お褒めの言葉と寄附を受け ている[Rungwit 2015: 505‒506]。  他方,スィーウィチャイ師が事務に使用したスタンプには,タム文字と中部タイ 文字のみならず,ビルマ語・文字,漢字,ローマ字でスィーウィチャイ師の名が刻 されていたという興味深い事実がある(ローマ字では,PRA SRIVICHAI CHANA と書かれる)。楕円形の印判の中の小楕円の中央に生年にちなんだ虎の図が描かれ, その上下にローマ字と漢字,小楕円の外周の最上部にタム文字,左側に中部タイ文 字,右側にビルマ文字が配されている。タム文字が最も中心的な位置を占めると見 なすことができようが,5種の文字が過不足なく納まった図柄が指し示す「世界」 観は,一国内の中央と北部という二項対立構造を超越している。本稿では写本制 作に焦点を絞って,「タム文字写本文化圏」を強調したが,今後はこうした「世界」 観の因って来るところも考察されるべきであろう。なお,このスタンプを筆者はま だ実見していないが,ワット・バーンパーン付設の博物館に展示されており,不鮮 明ながら,印影画像を閲覧できる[TMD 2012]。ペンスパーによれば,このスタン プは僧や沙弥に証明書を出す際に用いられ,チェンマイのアメリカ人の印刷所で作 られた[Pensupa 2016]。 クーバー・ブンチュムはビルマ・コンバウン朝のミンドン王(在位1853‒78)に 倣い,クーン文字(タム文字の一種)を用いて,パーリ語三蔵を石板に刻ませる企 図を有するという[Samerchai 2009: 47‒48]。 文献 [未刊貝葉文書]

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参照

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