止観寺僧詮の研究
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オミ二 本本イ
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常 用 品a T
一、問題の所主
止観寺僧詮の研究 摂山三論学派は、南北輯斉代、揚州の摂山棲(栖)霞寺に住した僧朗(
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六書記半)に始まった一学派句、 龍樹造鳩摩羅什(三五O
頃i
四 一O
頃)訳﹃中論﹄四巻、﹃十二門論﹄ 一巻、提婆造鳩摩羅什訳﹃百論﹄二巻の いわゆるコニ論 L を重視して教学を形成した。学派に属する人物としては嘉祥大師吉蔵(五四九i
六二三)が最 も有名であろう。吉蔵は摂山に住したわけではないが、輿皇寺法朗(五O
七 i 五八一)から摂山三論学派の教学 を受けている。法朗は摂山において、僧朗の弟子である止観寺僧詮(
i
五五七/八) から受学しているから、本 稿では吉蔵を摂山三論学派の人物と規定する。 ただし、法朗から受学したとは言っても、吉蔵の教学は、単純に摂由三論学派の伝統教学を無批判に継承した ものと誌言えない。筆者は以前に、吉蔵が法朗より受けた教学を、吉蔵独自に発展させている部分があることを ② 指摘した。このことから筆者は、吉議以前の摂山三論学派の教学と、そこから吉蔵独自に発震させた教学とを区 別することができれば、吉蔵教学の発撞点を明確にできると考、えるに至った。しかしながら、吉蔵以前の摂山三 ③ 論学派の人物による著作辻、今のところ現存が確認されていない。しかし、吉蔵以前の摂山三論学派の教学について知る方法が全くないわけではない。吉蔵はその著作中に、名 前を挙げて摂山三論学派の藷師の教学を引期する場合がある。また、吉蔵と同じく法期から授山三論学派の教学 を受けた慧均
(
i
七世紀前半)の著作においても同様の場合がある。あるいは、摂山三論学派以外でも、道宣 (五九六!六六七)が著した﹃続高僧伝﹄三十巻には、かなり詳しく摂山三論学派の動向が記されている。他に ④ も有益な資料を挙げることができるが、とにかく、後代に成立した文献によるという二次的な方法から、摂山三 論学派の教学をある程度までは知ることができる。 ⑤ 本稿は、前出の僧詮について検討するものである。僧詮は僧朗に受学し、吉蔵の師である法朗を弟子として輩 出 し た 。 つまり、吉蔵から見れば僧詮は、憎朗に次ぐ摂山三論学派の第二祖と位置づけられる。僧詮の著作は、 止縁寺僧詮の研究 わずかに吉蔵の著作に引用が見られるものの、 その他の摂山三論学派諸師のそれと同様に現存していない。しか し、前述したように、後代の資料から信詮について知ること辻不可詣でない。なお、僧詮という一人の人物に絞 って検討を加えるのは、摂山三論学派と一括りに表現しても、極々の人物に焦点を当てれば、 その教学に掴人差 むしろ、この のあることが予想されるからである。摂山三論学派に流れる一定の教学的額向を見出すためには、 ような掴人差を無視して辻ならない。 論述の媛序として辻、まず、信詮の事跡を見る。なぜなら、僧詮の事跡については、すでに境野貰洋氏、布施 ⑤ 浩岳民、平井援策氏などの諸先学によるまとまった研究があるものの、これらの研究辻決して意見が一致するも のではなく、再度整理する必要があるように思われるからである。また、筆者が新たに提示できる資料もあるの で、それらを踏まえて検討を加えたい。そして、事跡の検討の後、常詮の教学について論じるが、特に本稿では、 僧詮の教判論に注目する。僧詮の教判論については、従来の研究で言及されることが無かったと思われる。教判 論以外の僧詮の学説については、他日の検討に期したい。一
一
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僧詮の伝記としては、﹃続高憎伝﹄巻第七﹁諌楊都興皇寺釈法相関伝二﹂(以下﹁法朗伝 L) が基礎的資料である。 ﹁法弟伝﹂には、法甥の伝記に付されるかたちで、次のような告詮についての記載があ旬。 初 摂 山 、 僧 詮 受 一 一 業 朗 公 ﹂ 玄 旨 所 レ 明 、 唯 存 一 一 中 観 ﹂ 自 レ 非 一 で 心 会 析 一 レ 理 、 何 能 契 一 一 此 請 言 ﹂ 荷 額 二 遁 酪 林 、 一 禅 味 相 得 。 及 レ 後 四 公 往 赴 、 三 業 資 承 。 愛 初 誓 レ 不 レ 渉 と 一 一 一 ロ 、 及 レ 久 乃 為 一 一 敷 演 ﹂ 故 詮 公 命 日 、 此 法 構 妙 、 識 者 能 行 。 無 レ 使 一 一 一 出 レ 一 房 親 有 二 関 一 歪 故 経 云 、 計 一 一 我 見 一 者 、 莫 レ 説 一 一 此 経 ﹂ 深 楽 レ 法 者 、 不 レ 為 一 一 多 説 ﹂ 良 由 三 薬 病 有 レ 以 、 不 レ 可 二 徒 行 ﹂ 朗 等 奉 レ 旨 、 無 一 一 敢 言 唐 、 一 及 一 一 詮 化 往 ﹂ 回 公 放 言 、 各 檀 一 一 威 容 ﹂ 倶 棄 一 一 神 略 、 一 一 勇 居 一 一 禅 衆 ﹂ 諮 問 住 二 長 干 ﹂ 朗 在 一 一 興 皇 ﹂ 布 偽 摂 嶺 。 福 門 宏 散 、 慧 声 逗 討 、 皆 莫 レ 高 二 於 朗 一 罵 。 ( 大 正 五0
・四七七頁下) すなわち、摂山で僧詮は僧朗から中観の教学を受けた。僧詮は静かな林に引きこもり、禅定を習得した。後に 四公が僧詮の弟子となったが、僧詮は﹃法華経﹄に﹁我見を計する者は、此の経を説く莫かれ L と説かれるのを ③ 例に出し、弟子に多説をなしてはならないと命じた。しかし、僧詮が遷化すると、僧詮の四人の弟子たちは顎山 三論学派の教学を布教するようになった。四公のうち、勇は禅衆寺、器対は長子寺、期は輿皇寺に住し、布は諌山 に残った。要約すれば砧以上の通りであろう。﹁西公﹂と辻僧詮の西人の高足を意味し、資料に勇・税務・朗・布の ⑤ ⑬ 名が明らかにされている。顕に、慧勇(五一五l
五八三)、智慧(または慧葬、生没年不詳)、法拐、慧花(五一⑪ 八 i 五八七) のことである。﹁四公 L については、﹃続高僧伝﹄巻第七﹁陳摂山栖霞寺釈慧布伝七﹂(以下﹁慧布 伝﹂)に﹁詮公園友、所謂四句朗、領語諮問、文章勇、得意布。布称一一得意﹂最為レ高也﹂(大正五
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・ 四 八O
頁下) とあり、また妙楽大師湛然(七一一 E ・ E ・ - B ・ S ・ S ・ -七 八 二 ) の﹃法華玄義釈護﹄巻第一九に﹁詮有二学士四人入室﹂時入語日、 興皇伏虎朗、栖霞得意布、長干領一語辞、禅衆文章勇﹂(大正三三・九五一頁上)と記されるように、法朗は﹁四 ⑫ 匂朗 L ﹁ 伏 虎 朗 L 、 智 諮 問 は ﹁ 領 語 薄 L 、慧勇は﹁文章勇﹂、慧布誌﹁得意布 L の異名で、人々によく知られていたら し しミ また、常詮は弟子に﹁多説を為さ﹂ないように戒め、弟子も言うことを守り、信詮の存命中には﹁敢えて言を 止観寺僧詮の研究 震くこと﹂がなかったという。憎詮はおそらく、言語で教法を表現することにはかなり慎重な入であった。吉蔵 撰﹃大品経義疏﹄巻第一には次の記述がある c 止 観 師 、 六 年 在 一 一 山 中 ﹂ 不 レ 講 一 一 鈴 経 、 一 唯 講 二 大 品 ﹂ 臨 二 無 常 一 年 、 諸 学 士 講 レ 講 一 一 浬 般 市 ﹂ 師 云 、 諸 人 解 一 一 般 若 ﹂ 那 復 欲 レ 講 一 一 浬 繋 一 事 。 但 読 一 一 三 論 与 般 若 一 自 足 、 不 レ 須 一 一 一 復 講 一 一 銭 経 ﹂ 諸 学 士 、 既 昔 請 レ 師 、 遂 為 高 一 一 略 注 葉 大 意 ﹂ 釈 一 一 本 有 今 無 傷 ﹂ 而 己 唯 留 一 一 心 於 波 若 ﹂ (新記二回・一九六頁上) すなわち、僧詮は﹃大品般若経﹄以外の経典を講じることがなかったため、弟子たちは僧詮遷化の年に﹃浬繋 経﹄を講じることを請、ったが、僧詮はョ般若経﹄の教えを理解した入がどうしてまた﹃浬繋経﹄の講述される ことを望むのか。三論と﹃般若経﹄を読んだのなら、他の経が講じられる必要はない L と断った。しかし、弟子 の講義を請うて断られていたことがあったので、僧詮は仕方なく、﹃涯繋経﹄の﹁本 ⑬ 有 今 無 用 淘 L を講じた。要約すれば以上のようになるだろう。この記述からも、講述に対する僧詮の慎重な態度が たちは過去にも﹃浬繋経﹄読み取られる。そして僧詮の言語に対する消極的な態度は、僧詮が﹁法朗伝﹂中に﹁遮を幽林に頼めて、禅味の 相得あり﹂と言われるように、修禅の面で注目される記述があることとも関係するのであろう。 僧詮の修禅については、 天台の章安大師濯項(五六一 i 六三二)撰﹃賭天台智者大師別伝﹄に次のよ、フにも記 述 さ れ て い る 。 有一二老僧﹂蕨名法済、開何凱之従叔色。自於一一禅学﹂侍致問言、有人入レ定、間二摂山地動﹂知三僧詮練一一無 常﹂北何禅也。答日、辺定不レ深、邪乗関入。若取若説、定壊無レ疑。 ( 大 正 五
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・一九二頁中) ⑬ これ辻智頭が大蘇山から瓦宮寺に移った五六八年頃のことであろう。すなわち、法溶(生投年未詳) という僧 があって、持学を重んじていたが、あるとき天台大師智額(五三八l
五九七)に、告詮が入定する際、摂山の地 が震えたということについて、これ誌どのような禅なのかと尋ねたと言うのである。智頭は、﹁辺定にして深か ⑬ らず、邪乗にして爵に入る﹂と、僧詮の禅に対し批判的な解答をしているが、 いずれにせよ僧詮は、摂出三論学 派以外でも修禅者として広く知られるところであったと考えられる。なお、ここに克える﹁摂山地動 L 関しては後述する。 の記述に三、僧詮が重視した経論
次に、僧詮が特に重視した経論は何であったかということを検討したい。 前に引用した﹃大品経義疏﹄巻第一の﹁但だ三論と般若とを読めば、自ら足れり﹂という文からは、僧詮においてはコ二論﹂と﹃大品殻若経﹄が重視されたことが判判明する。また、講述泣しなかったものの、﹃浬繋経﹄ 講義を請われ、﹁霊祭の大意を蕗略して、本有今無の告を釈﹂したというから、﹃注般市経﹄についても造詣が深か ⑬ ったと考えてよいだろう。ただ、その﹃浬葉経﹄解釈はよ唯だ心に波若を留﹂めたものであっ、般若教学を基調 としたものであったと考えられる。 また、寸法朗伝﹂には告詮について次のように記される。 前 伝 所 レ 紀 、 摂 山 朗 公 、 解 レ 玄 測 レ 徴 、 世 所 一 一 嘉 尚 ﹂ 入 代 長 往 、 嗣 続 猶 存 。 乃 於 一 一 此 出 止 観 寺 僧 詮 法 師 ﹂ 餐 一 一 受 智度中百十二門論並花厳大品等経﹂於即弥一一論蔵部﹂探一一蹟幽徴 J ( 大 正 五
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・ 四 七 七 頁 中 ) 止綴寺僧詮の研究 すなわち、僧朗の教学を受け継いだ増詮から、法朗は﹃大智度論﹄﹃中論﹄﹃百論﹄﹃十二門論﹄の﹁四論﹂と ﹃華議経﹄﹃大口問般若経﹄等の教学を相承したという。法朗が憎詮から相承したというのであるから、これらの経 論もまた錆詮が得意としたものと考えてよいだろう。﹃大品経義読﹄巻第一の記述に加えて、ここでは﹃華厳経﹄ が挙げられ、また、論書に、おいては、法朗詰常詮に、ヲ一論 L ではなく﹁四論﹂の教学を受けたことになってい る。ヲ一弘子と言った場合、﹃中論﹄﹃百論﹄﹃十二門論﹄﹃大智度論﹄の﹁四論﹂から﹃大智度論﹄を捻いたもの ⑫ を意味する。しかしこの記述は、指詮がJ
一論﹂を重視したという﹃大品経義疏﹄巻第一の記述と矛震すること にならないか。﹃大智震論﹄については、常詮はどのように克ていたのか。この疑問は、﹃大品経義読﹄巻第一の 前に引男した文に続いて次の記述が為ることにより解消される。 興 皇 初 出 、 講 一 一 般 若 ﹂ 師 北 岸 得 一 一 大 論 文 墨 ﹂ 還 始 講 一 一 大 論 一 也 。 (新記二西・一九六頁上)σ
すなわち、法朗は摂山から異皇寺に移って﹃大品殻若経﹄を講述したが、 その後北地に赴き、﹃大智度論﹄を 得て興皇寺に帰って、初めて﹃大智度論﹄を講述したという。これは、 ﹃続高僧伝﹄巻第一二﹁障江都慧日道場 釈 慧 覚 伝 一 二 ﹂ ( 以 下 ﹁ 慧 覚 伝 ﹂ ) の次の記述と関連するであろう。 摂 山 泉 石 、 致 レ 美 息 レ 心 勝 地 。 乃 撞 レ 衣 独 往 、 止 一 一 子 栖 霞 寺 一 罵 。 有 一 一 慧 布 法 師 ﹂ 空 解 第 一 、 深 明 二 方 等 ﹂ 或 有 下 未 レ 悟 、 謹 一 一 積 、 子 懐 ﹂ 件 一 了 知 音 一 者
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及 レ 見 欣 然 、 便 即 開 授 。 又 以 一 一 大 智 度 論 ﹂ 江 左 少 弘 。 布 備 一 一 宗 緒 ﹂ 将 棟 二 請 説﹂乃垂二軍忠、一申二暢幽徴﹂布公披襟歎美、即命レ関レ講。於レ是、旧文新意、両以通レ之。遠近餐服、間レ 所レ未レ開。釈論広興、於レ斯盛失 ( 大 正 五0
・ 五 一 六 頁 上 ) 誌摂出楢霞寺の慧布 ζ 従った。慧覚は、慧布に命じられて﹃大智度論﹄を 開講し、江甫に広めるという功があった。慧覚の講説は画期的で、﹁侶文 L すなわち摂山の伝統教学と、﹁新意 L ⑬ ⑬ すなわち﹃大智麦論﹄の教学とを矛虐無く解釈したものであった。要約すれば以上の知くであろう。 次の﹁慧布伝 L の記事を見ることによって、右の﹁慧覚伝 L の記事の内容がより辻っきりする。 すなわち、慧覚(五五酉!六O
六 ) 末 遊 一 一 北 業 ﹂ 更 渉 二 未 開 、 一 於 一 一 可 禅 師 所 一 暫 通 一 一 名 克 ﹂ 震 以 レ 言 拝 一 一 其 意 ﹂ 可 日 、 法 訴 所 レ 述 、 耳 レ 語 、 破 レ 我 除 レ 見 、 莫 レ 通 レ 此 生 。 乃 縦 一 一 心 諸 一 席 ﹂ 錆 晃 一 一 宗 領 、 一 一 周 二 覧 文 義 、 一 並 具 一 一 胸 襟 ﹂ 又 写 一 一 章 疏 六 駄 ﹂ 負 還 一 一 江 表 ﹂ 並 遣 二 朗 公 、 一 令 一 一 其 講 説 ﹂ 国 レ 石 一 一 遺 漏 ﹂ 重 往 一 一 斉 国 、 一 広 写 レ 所 レ 関 、 斉 還 レ 付 レ 朗 。 自 無 一 一 所 畜 、 一 衣 鉢 語 己 。 専 修 一 一 念 慧 、 一 独 止 一 五 松 林 ﹂ 薫 一 一 然 世 表 、 一 学 者 欣 慕 。 ( 大 正 五0
・ 四 八O
頁 下 )すなわち、慧布は北地の霧都に遊学し、慧可禅師(四八七 i 五九三)と問答するなどしたが、そのときに六駄 の章疏を書写し、江南に持ち婦った。そしてそれを法期に講説させ、足りない資料があると、今度は斉国に赴い て、法朗のために持ち帰ったという。三ハ駄﹂がどれほどの数量を意味するのかは分からないが、 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ も この六駄の章読に含まれていたのであろう。 以上の資料の記述をまとめると、﹃大智度論﹄を南地に将来したのは慧布であり、慧布の依頼によって講述し たのが同門の法朗であり、弟子の慧覚であったということになろう。つまり、慧布は﹃大知日度論﹄を北地から南 地へ将来したが、自らは講説せず、法朗や慧覚に講説させていたのである。ここで問題となるのは、慧布が北地 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ から﹃大智度論﹄をもたらすことによって法朗は初めて﹃大智度論﹄を講ずるようになり、しかも、 止観寺僧詮の研究 の内容は﹁新意 L と呼ばれていたということである。このことはすなわち、 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ が江南に広まったのは それ以龍の憎詮及び抽出詮の代の高地の学者は用いることが少なかったために、 @ ﹁ 新 意 L と呼ばれるべきものであったということであろう。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ は 慧 布 ら の 功 墳 で 、 つまり、憎詮が法朗に伝えたのはあくまでヲ一論 L で あ り 、 ﹃ 大 智 麦 論 ﹄ の教学辻摂山三論学派において、慧布の南地将来をきっかけに、初めて法朗らによって本 格的に研鏡されたと考えるべきで為って、﹁法朗伝 L の記事に辻そのあたりの事清の理解に混乱があるので誌な ミ ミ O し , 刀
回、僧詮の没年
次に、僧詮の没年について検討したい。僧詮の没年については、すでに布施浩岳氏の五五六年という推定があ ② るが、筆者の知る限りあまり用いられておらず、定説となるに至っていない。布施浩岳民辻、﹁法相初伝﹂に﹁詮の化往するに及んで、四公放言し、各々威容を彊にす﹂、つまり、常詮遷化以 降に西公が講述を始めたという記事に注目する。四公のうち、借詮に師事して以降、講説を始めた年代がほっき れソしているのは、法朗の永定二(五五八)年一一丹と慧勇の天嘉五(五六四)年であるが、両者のうち年代が阜 いのは法朗であ持。つまり、僧詮遷化の年の下限は、法却が摂山から興皇寺に移ワ講説を始めた五五八年一一月 @ に設定されることになる。しかし、この論拠から五五六年という具体的な数字を導き出すことは不可能であろう。 さらに、僧詮の没年に関しては、五五六年説に対立する資料がある。撰者不明ながらも、少なくとも鎌倉時代 初期には著されていたコ二論祖師伝集﹄巻下では、慧均の﹃大乗四論玄義記﹄巻第十三を引用して次のように記 されてい句。この文は、現存する﹃大乗四論玄義記﹄には該当箇所が存在せず、散逸した部分と考えられる。 栖霞詮法師、欲レ
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終 か ? ) ニ 寿 命 一 之 持 、 運 知 レ 応 レ 死 、 期 呼 二 芳 山 大 学 士 法 相 例 法 師 J 々 々 講 一 一 花 議 経 ﹂ 諸 事一々付属、与一一興皇朗法師﹂寛入一一浬繋一色。法師正欲レ捨レ寿時、地動大瑞現。如二別伝記一也。爾時楊州 司星漏諦、部判レ之。北当二摂山 J 聖人捨レ寿、星天出顕也。梁式、即夜駅馬、訪二関摂山﹂彼寺諸徳答、詮 法師、今縄床結調、坐レ席如レ咲、面容如レ眠気絶色。爾持山地大動也。冨家人之二役地動、合一一時第﹂摂山 動 持 、 与 一 一 楊 州 地 勤 時 ﹂ 漏 刻 合 レ 之 。 二 処 地 動 、 聖 星 出 時 、 一 々 無 レ 春 一 一 前 後 異 ﹂ 九人一也。法揮、縄床結識坐、葬入二寵墓一也。 一 時 故 。 相 伝 験 知 、 詮 訴 非 一 一(
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仏全一一一・五二O
頁下。括菰内法筆者補) すなわち、僧詮が遷化しようとするときのことでるったが、揚州の地が振動したため、梁武幸(在住五O
二 l 五四九)は駅烏を使わして烹山に訪問させた。摂出では、すでに僧詮が結跡訣坐し、いまにも遷化するところで あった。このとき、摂出の地にも振動があった。要約すれば以上のようであろう。資料によれば、僧詮の遷化時には、まだ梁武帝が生存していたということになる。つまり、僧詮の遷化は梁武帝没年の五四九年五月を下らな @ いことになろう。右の資料は管見の及ぶ限り、従来の僧詮研究では触れられてこなかったが、実際に﹃大乗回論 @ 玄義記﹄の引用文であったとすれば、道宣の﹃続高僧伝﹄と同時かそれ以前の資料であり、また、吉蔵と同門の 慧均の証言でもあるから、全く無視することはできない。資料を信頼するのならば、憎詮の遷化の年は、五五六 年より七年以上も引き上げられることになる。また、前に引用した﹃陪天台智者大師別伝﹄の憎詮に関する﹁摂 @ 山地動 L の記述はこのことを踏まえたものであろうから、五六八年の時点で、すでに僧詮遷化の欝の奇瑞は人々 の知るところであったのだろう。 止観寺僧詮の研究 しかし、梁式幸が僧詮遷化の擦に、摂山に寂星川を使わしたということに註したがい難い。何故なら、四公の慧 勇の伝記である﹃続高信伝﹄巻第七﹁諌楊都大禅衆寺釈慧勇伝コご(以下﹁慧勇伝 L ) には、次のように伝えられ ているからである。 至 二 年 三 十 、 一 法 輪 便 転 。 自 レ 北 遠 致 一 一 学 徒 ﹂ 盛 開 二 講 諒 一 高 一 一 視 上 京 ﹂ 欝 為 一 一 彊 采 ﹂ 専 講 一 一 論 文 、 一 将 一 一 十 許 遍 ﹂ 俄 高梁季傾覆、人吉沸騰。毎忠一一遁世﹂莫レ知二其所﹂子時摂出詮潟、直一一轡一乗 J 横 一 一 行 出 世 ﹂ 随 レ 機 引 悟 、 有 レ 願 遵 レ 罵 。 嘗 行 一 一 報 恩 寺 前 、 一 忽 見 レ 人 云 、 徒 一 一 摂 山 一 来 。 授 一 一 竹 如 意 一 俄 失 。 語 レ 勇 日 、 尋 当 レ 如 レ 意 。 俄 失 一 一 縦 跡 ﹂ 信 宿 之 龍 、 又 有 一 一 漆 函 ﹂ 盛 二 三 論 一 部 ﹂ 置 二 房 前 窓 上 ﹂ 尋 究 莫 レ 知 レ 来 色 。 欣 一 一 葦 嘉 瑞 ﹂ 鋭 勇 難 レ 任 、 因 レ 此 払 二 衣 呈 問 、 一 駕 二 言 泉 石 ﹂ 期 神 宮 冥 、 非 レ 金 一 一 琴 台 之 侶 J 修 レ 空 習 レ 慧 、 寒 追 一 一 林 遠 之 風 ﹂ 便 停 一 一 止 観 寺 、 一 朝 夕 侃侃如也。詮師忘以二年期 J 義 兼 一 一 師 友 ﹂ 抑 亦 宮 羽 桓 請 、 氷 藍 待 レ 益 之 志 也 。 自 レ 此 言 、 刈 一 一 章 句 一 採 一 一 撮 希 徴 、 一 凡蕨釈経、莫レ不二包挙 J 大 法 獲 レ 伝 一 一 於 罵 ﹂ 是 頼 。 天 嘉 五 年 、 世 祖 文 皇 、 請 一 一 講 於 太 極 殿 J ( 大 正 五
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・ 四 七 八 頁 中 )すなわち、慧勇は三十歳(五四四年) の頃には経論を講じ、高い評価を得ていたが、 その後﹁梁季頬覆﹂した (五六回)年、擦の文幸(在住五五九!五六六)に請 頃に僧詮と出会い、摂山に引きこもった。その後、天嘉五 われて太握殻に経論を講じたという。慧勇が信詮にしたがった﹁梁季額覆﹂した頃というの辻、梁誠亡(五五七 年 一
O
月 ) の原因となった侯景の乱(五四八年八丹i
)
か、あるいは梁の滅亡そのものを意味しているのであろ う。つまれソ、少なくとも侯景の乱勃発の頃は、僧詮はまだ健在であワ、信詮遷化は乱勃発以後のことになる。そ して、梁武者が僧詮の遷化に際して駅烏を使わしたというのが事実であれば、慧勇が嘗詮に師事したのは、最長で も五四八年八月から五四九年五月までの間という、十ヶ月間に過ぎないことになる。後に回公とまで称される慧 止観寺僧詮の研究 勇の僧詮に師事した期間が一年にも満たないというのは不自然である。あるいは、﹁梁季傾覆﹂が梁の滅亡それ 自体を指しているとすれば、僧詮は少なくとも、五五七年頃まで生存していたことになる。この場合、五四九年 に没しているはずの梁武帝が僧詮遷化の際に駅馬を使わすことは不可龍である。つまり、﹁梁季傾覆﹂がいずれ を指すにせよ、﹁慧勇伝﹂と﹃三論祖師伝集﹄巻下の記載とは矛盾すると考えられることになる。 また、日本平安時代の安澄(七六三 i 八一四)撰﹃中論読記﹄巻第三末では、吉蔵撰﹃浬繋経疏﹄巻第十を引 用し布、僧詮に関する次のような興味深い事跡を伝えている。 又 梁 武 、 為 一 一 北 経 難 解 ﹂ 遺 一 一 使 外 冨 、 一 一 克 二 浬 禁 論 ﹂ 請 得 一 一 真 諦 三 蔵 一 還 、 の 量 レ 乱 不 レ 得 一 一 翻 訳 ﹂ 晩 興 皇 師 、 請 二 三 義 法 師 ﹂ 翻 一 一 得 本 有 今 無 西 信 論 、 一 謂 為 一 一 精 要 、 一 以 一 不 一 一 山 中 輔 、 一 了 不 レ 肯 。 何 故 爵 。 此 山 豆 龍 得 レ 昌 二 於 正 意 一 部 。 ( 大 正 七0
・ 九 八 頁 中 ) すなわち、梁式帯辻外国に集いを出して真諦三蔵(四九九 l 五六九)を詔轄したが、 乱 に ・ あ っ て 翻 訳 さ せ る ことができなかった。乱とは侯景の乱であろう。後に法朗が真諦に﹃浬繋経本有今無傷論﹄の翻訳を要請し、これ を得たが、法朗が僧詮に﹃浬繋経本有今無傷論﹄を提示すると、﹁此れ宣に能く正意を出るを得んや﹂と言って 肯わなかったと言うのである。この記述によっても、憎詮は侯景の乱勃発以後生存していたことになり、また、 の訳出持にも生存していたことになる。﹃浬繋経本有今無傷論﹄は、訳出年時は五五
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壬'A N関 また、唐の賢言大師法蔵(六四三 i 七二二撰﹃華議経伝記﹄巻第三に次のような記述がある。 止観寺{曽詮の研究 貌洛都融覚寺曇無最法師 斉薬中曇遵法詩疏七巻 斉郭茜宝山寺道造法師 斉林霊山供塔鑓遠禅師 麓 北 壱 意 法 師 有 疏 不 知 幾 巻 斉業下総持寺慧頬法師 諌揚都興皇寺法期法師 斉摂山梧雲寺常法師 斉易郡斉后山斉盤(寺玄暢法師 諌摂山止観寺詮法師 諌揚都大禅衆寺慧象法師 陳鍾出番関寺安葉法師 持西京大興善寺洪遵法師疏七巻 誇 西 京 禅 定 道 場 曇 遷 法 師 撰 相 官 難 一 口 問 疏 誇江都慧E
寺慧覚法諦 跨 西 示、 、浄唐
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建 法家 師
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場 基 法 杢 師 菜 講 跨終高山至梧道場静灘法師 唐京諦延興寺吉歳法師 唐終高山至梧寺智正法師有事十一巻 唐越州弘道寺慧持法師 唐京師法禅寺慧醸法師 唐裏州光福寺慧蹟法師 唐京師普光寺光覚法師有疏十巻 右 諸 徳 、 並 博 一 一 綜 群 十 一 五 ﹂ 兼 弘 一 一 斯 典 ﹂ 或 偽 謙 業 蔵 レ 用 、 或 有 志 未 レ 従 、 既 非 レ 専 レ 業 。 又 無 二 祥 瑞 ﹂ 故 直 録 一 一 附 之 於此 J 庶 知 ? 懐 一 一 玄 道 一 者 ど 薦 茶 摩 レ 絶 罵 。 (大正五一・一六回頁下 i 一六五頁上) すなわち、ここに列挙される諸部は、華厳教学を専らとしないながらも﹃華厳経﹄を研賛した者で、これらの 諸徳の﹃華厳経﹄研究があったことを知るべきであると言う。ここに栖霞寺僧法師(僧朗?)、僧詮、法朗、吉@ 歳、慧覚、慧頭(五八
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六三六) といった摂山三議学派系の人物の名が挙げられているのは興味深いが、特に ﹁諌摂山止観寺詮法諦﹂という記述に注目したい。﹃華議経伝記﹄誌僧詮を諌代(五五七 l 五八九)に生存した人 物としているのである。 ま fこ ﹃中論読記﹄巻第一本に次のような記述を見ることができる。 述義云、高麗毘遼東城大期法師、遠去二犠建郡一曇慶師所一一一受一一学三論﹂斉未梁始、来入一一摂嶺山一也。大朗 法師簿業弟子、陳摂山止観寺僧詮師 ( 大 正 七0
・ 二 二 頁 上 ) ここにも僧詮は陳代の入物とされている。右の文章は﹁述義﹂なる文献の引用であるが、これが日本奈良時代 @ の智光(
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七五二i
)
の﹃中論疏述義﹄を指すことは先学によって指捕されている。智光が法蔵の著作を参照し た可能性もあるが、とにかく、智光においても僧詮は陳代の人物と認識されていたことになる。筆者は、以上の 資料から、僧詮は陳代に至っても生存していたのではないかと考える。しかし、布施浩岳氏が指摘するように、 ﹁法朗長﹂の記述から法朗が興皇寺に移った五五八年一一月を常詮没年の下限とすることは否定できない。以上 から本稿においては、僧詮の没年の下張を法規が輿皇寺に移った五五八年一一月、上限は擦が興った五五七年一 。丹と推定する。 @ の招請による。諌武幸は五五七年に帝位に就くが、 法朗が興皇寺に移ったのは、稿係武帝(在住五五七 l 五五九) ③ ﹃大品殻若経﹄と三論を重んじたというから、帝設に就く以前から摂出三論学派との交流辻親密であったのであ ろ九。僧詮の生存中辻僧詮の弟子を招くことはできなかったが、告詮の遷化するに及んで、それまで親密に交際 があったために、すぐさま法規を建衰の興皇寺に招轄することができたので誌ないか。筆者に辻、本文で引用した﹃三論謹師伝集﹄巻下において、梁武帝が僧詮遷化の際に摂山に駅馬を使わしたとする記述が、諌武帝の誤り であると息われる。梁武寺も僧朗と交流があれソ、摂山三論学派と関係の深い人物であるから、混乱が起きたとい ③ うことも充分考えられる。僧詮が五五七年一
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月から五五八年一一月までの簡に遷化したことになれば、法朗が 興皇寺へ移ったのは僧詮遷化からわずか数ヶ月という期間を経るに過ぎず、短かすぎる気もするが、陳武帝の三 論教学に対する熱意を考慮に入れれば、決して不思議なことでもな旬。五、僧詮の教判
止観寺僧詮の研究 僧詮が惨禅を重んじ、経論の講説に関して消極的であったことはこれまでの検討に見てきた通りである。しか し、柏田詮は生涯において、決して穆禅に終止したわけではなく、義学にも通じていたと考えられる。何故なら、 常詮には二議に関する著作のあったことが知ら向、また、独自の教判論を有していたことも後代の資料から知ら れるからである。そこで本箆では、僧詮の教判論について検討し、僧詮の教学の一端を見ることにしたい。 信 詮 の 教 判 論 は 、B
本鎌倉時代の教誉(生没年未詳)撰﹃三論玄義換翻集裏書﹄巻第四に、慧均撰﹃大乗西論 @ ﹁ 関 路 義 L の引用として、次のように記されている。 玄義記﹄巻第 若止観法師云、仏教春一一西種、一一者昆足、二者波若、三者法華、四者浬葉。若能詩、定一二二乗別教既是小乗﹂ 今照的不レ爾。此乃於一二仏乗﹂分別説レ三。菩薩無生法忍、分一一期二乗之智断﹂当レ知、北三乗猷是大乗。那 得 ヒ マ 一 口 二 定 小 ﹂ 雄 レ 有 一 一 四 教 ﹂ 終 不 レ 出 二 因 果 二 門 ﹂ 故 波 若 与 一 一 昆 尼 、 一 比 郎 図 、 浬 禁 即 名 レ 果 。 法 華 若 為 。 解 云 、 還摂一一在波若﹂何故露。明二波若即散説帯得 J 亦是法華、束明二菩薩行 J 難 二 復 散 束 不 一 レ 同 、 同 明 ニ 菩 譲 行 一 処不 レ 異 。 是 故 還 摂 二 一 波 若 、 一 一 回 是 因 円 。 昆 ロ 氾 那 得 三 摂 一 一 在 波 若 ﹂ 解 云 、 此 晃 足 、 此 乃 一 往 、 摂 二 於 浅 近 根 性 、 一 令 一 二 期大乗。所以毘足、摂二在 其 調 二 伏 身
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七支﹂七支窺語、 知了二無生﹂若了二無生﹂却是大乗。故昆足学者、 波若﹂同為一一国位一故。昆宅郎是身戒、波若部是心慧。故身戒心慧、二種荘議。 ( 大 正 七0
・四三五頁上) この資料は管見の及ぶ隈り、従来の研究では全く省みられることがなかったと思われるが、これによれ丘、僧 詮は仏教を、第一に﹁昆尼﹂、第二に﹁般若(波若)﹂、第三に﹁法華﹂、第四に﹁浬般市﹂の四種の教説に分類した という(以下、頬に﹁昆尼教﹂﹁殻若教﹂﹁法華教﹂﹁浬繋教﹂と呑す)。 また続いて、﹁若し他に説明じて、三乗別教は既に是れ小乗と定むるは、今明かすに、爾らず﹂としていること が注目される。これは、四種の教とは別に三乗別教として小乗教を定義したとすれば、それは正しくない、とい うことであろう。つまり僧詮は、批判対象として四種の教に三乗別教を加えた五種に分類される教判論を想定し ③ ていたことになる。関連して、従来は吉蔵の撰述とされてきた﹃大品遊意﹄に、次のような教判が説かれること を指摘しておきたい。 広 州 大 亮 法 師 一 五 、 五 時 間 合 為 レ 初 。 離 一 二 ニ 蔵 一 為 一 一 第 二 ﹂ 如 一 一 優 婆 塞 経 一 也 。 波 若 維 産 息 益 法 鼓 為 一 一 第 一 二 、 一 法 華 為 一 一 第 四 、 一 浬 繋 為 一 一 第 五 一 色 。 ( 大 正 三 三 ・ 六 六 百 ( 中 ) すなわち、広州の大亮法訴は、 五時の最初時に﹃河合経﹄、第二時に﹃優婆塞戒経﹄、第三時に般若経典類・ ﹃維摩経﹄﹃忠益経﹄﹃法鼓経﹄、第四時に﹃法華経﹄、第五時に﹃浬繋経﹄をそれぞれ当てはめたというのである。 大亮法師の五時教判には、初持にこそ﹃跨合経へつまり三乗別教が配当されるが、残りの西時は常詮の四種教と類似している。まず、 四種教の第一は昆尼教であるが、これは大亮法師の五時教判第二時の﹃優婆塞戒経﹄と 対応するであろう。次に四種教第二の般若教は、大亮法師五時教判の第三時には諸大乗経典が配されているが、 その中に般若経典類が含まれているのと対応するであろう。そして、 四種教第三は法華教、第四は浬繋教である が、これは完全に大亮法師五時教判の第四時﹃法華経﹄、第五時﹃浬葉経﹄と一致する。 時教判は、僧詮の教判の批判対象として想定される、四種教に三乗別教(小乗教)を加えた五種に分類される教 判論に、まさしく一致すると一言うことが可能である。 つまり、大亮法師の五 止縁寺僧詮の研究 吉蔵において大亮法師とは、梁武帝勅撰の﹃大般浬繋経集解﹄に見える僧売であり、また﹃高僧伝﹄に見える @ 道亮(四六五
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西七一に六十九議で没)のことである。鑓亮は摂山三論学派に先んじて約教二諦を主張したこと @ で名が知られ、吉蔵も僧亮の二諦説に肯定的である。﹃大品遊意﹄が吉蔵の著作で誌ないとする説もあるが、摂 出三論学派の著作ではあると思われるので、﹃大口出遊意﹄ の大亮法師も信亮のことと考えるのが自然であろう。 しかし、﹃大品遊意﹄の大亮法師の五時教判をそのまま信亮の教判と考えることはできない。何故なら、﹃大殻 浬繋経集解﹄巻三十五に僧亮の﹃謹繋経﹄﹁聖行口問﹂の五味壁画一解釈として、次のように説示されているからであ る 。 僧 亮 日 、 仏 教 従 レ 小 起 、 牛 警 レ 仏 也 。 乳 警 一 三 蔵 ﹂ 酪 警 一 二 二 乗 雑 説 一 也 。 生 蘇 警 一 一 方 等 ﹂ 熟 蘇 警 レ 説 一 一 空 般 若 J 醍 醐 警 二 浬 繋 経 法 一 也 。 (大正三七・四九三真上) すなわち、僧亮は﹃浬繋経﹄﹁聖行品﹂の五味警について、乳味は三蔵教、酪昧は三乗雑説の教、生蘇味は方 等教、熟蘇味は空般若の教説、醍醐味は﹃淫奨経﹄の教説に壁一えられたものであると言ったというのである。この大亮法師の五時教判と比較するならば、少なからず異同がある。まず、大亮法師の五時教判 においては第二時に﹃優婆塞或経﹄を配当しているが、﹃大般浬般市経集解﹄で第二味に配当されるのは三乗雑説 の教である。三乗雑説については、詞じく﹃大般浬葉経集解﹄の巻三十一に僧亮の説として﹁僧亮日、此以二 随レ用作一レ異、為レ警也。如来一道、髄一一大小乗根、一広略為レ別耳。従レ一至レ九、是三乗雑説﹂(大正三七・四八 とある。ここでは、大小乗の機根に諮って如来の教説に異なりがあるが、この種々の教説があることを れを﹃大品遊意﹄ 五 頁 下 ) コ二乗雑説﹂という語で表現している。 つ ま り 、 ﹁ 三 乗 雑 誌 L とは大小乗の教説が逗在した場合を意味すると志わ れるが、これをただちに大亮五時教判の第二時の﹃擾婆塞戒経﹂に相当すると考えることはできないだろう。ま た 、 ﹃ 大 殻 浬 繋 経 集 解 ﹄ の第四味に配される﹁空般若 L と辻、般若経典類に説かれる教えを意味すると考えられ るが、大亮法掃の五時教暫に‘おいて第四時辻﹃法華経﹄が配当されている。﹃大品遊意﹄に見える大亮法静の五 時教判が、﹃大殻浬繋経集解﹄に見える僧亮の五持教判の記述と矛震する隈り、大亮法訴の五時教判を僧亮の学 @ 説とすることには一考の余地があろう。ただ、実際は誰によって説かれたものかは不明であるが、﹃大品遊意﹄ に説かれる大亮法師のものとされる五時教判と近似した教判は僧詮の知るところであり、 四種教を立てたのであろうということは指摘できると思う。 それを批判して告詮が また、僧詮の四種教の構造上で注目されるのは、﹁回教有りと難も、終に因果の二門を出ず﹂として、因門・ 果門の二円に分類されていることである。僧詮の四種教においては、昆尼教・般若教・法華教が因門の教、浬繋 教が果門の教とされているのである。僧詮において諸教を因果二門に分類する考えがあったということは、次に 一小す吉蔵の因果観と対比させて考えると興味深い。 諸教と因果の二門の関係について、吉蔵は﹃法事玄論﹄巻第三で次のように言っている。
問、大品法華謹繋華議西経、国明二毘果﹂因果何異。答、大品因果者、釈論云、仏於二三蔵中一為一一諸声関 J 説 一 一 種 種 法 J 未 レ 説 一 一 菩 譲 行 ﹂ 今 欲 下 為 一 一 諸 菩 龍 一 説 中 菩 薩 行 上 故 、 説 二 波 若 ﹂ 中 論 云 、 先 於 一 一 声 開 法 中 ﹂ 説 一 一 生 滅 十 二 因 縁 ﹂ 次 為 一 一 菩 瑳 ﹂ 説 一 一 無 生 滅 十 二 酉 縁 ﹂ 以 一 三 論 一 詳 レ 之 、 三 蔵 望 一 一 波 若 一 郎 是 開 二 生 滅 無 生 滅 二 種 義 以 三 菩 薩 行 一 一 無 生 滅 因 一 故 、 得 一 一 不 断 不 需 果 ﹂ 無 生 滅 図 、 即是波若。不断不常果、 郎是薩婆若。(中略)次明三 浬 繋 韓 二 因 果 一 者 、 後 一 一 寿 量 品 J 明 三 諸 子 有 一 三 種 ﹂ 一 不 失 心 、 二 失 心 。 不 失 心 子 、 間 二 波 若 法 華 、 一 皆 得 一 一 領 解 ﹂ 不 レ 肯 レ 鼠 レ 薬 。 保 一 一 執 昔 無 常 教 ﹂ 是 以 一 一 如 来 唱 一 レ 減 、 図 レ 此 広 破 一 一 無 常 病 、 二 進 以 一 一 常 薬 ﹂ 正 以 仏 性 飴 失 心 子 、 為 レ 図 、 浬 繋 為 レ 果 。 (大正三四・三八七頁上!中) 止縁寺僧詮の研究 すなわち、﹃大品般若経﹄﹃法華経﹄﹃浬繋経﹄﹃華厳経﹄は全て同様に因果を明らかにしており、﹃大品般若経﹄ では菩薩が行じる無生滅の因を﹁波若(般若 ) L といい、菩薩が得る不常不断の果を﹁薩婆若﹂といって因果が ともに説かれており、また﹃浬繋経﹄においては、夫心の子の無常の病を破して﹁浬般ごの果を得るが、この菌 となるものが﹁仏註﹂であり、 やはり菌果ともに説かれていると言うのである。このように、吉蔵には諸教を菌 果に分類する考えは無く、諸教にはすでに因果二円の教えが備わると考えていたと言える。しかし、前述のよう に、僧詮においては諸教を因果二円に分類する考えがあったので、ここに僧詮教学と吉蔵教学の異なり'を指摘す ることができよう。 また、告詮辻三乗邪教を小乗教と定義することを批判する理由として、﹁此れ乃ち、 て三と説く。菩薩無生法翠は、二乗を分別するの智新なワ。当に知るべし、此の三乗、猷お是れ大乗、 一弘乗に於いて、分別し 那ぞ小と 定 む る と 言 う を 得 ん や ﹂ 、 つまり、三乗教は一仏乗を分別して説かれたものであれソ、菩薩の無生法忍によって分 @ と言っている。また、﹁昆口出は那ぞ波若に摂するを得や。解して云わ 別されたのであるから大乗教なのである、
く、此の毘芝、此に乃ち一往、浅近の担性を摂して、其れをして身口七支を調伏せしむ。七支既仁詩なれば、 ち無生を了す。若し無生を了せ法、 却ち是れ大乗ならん。故に昆定学誌即ち大乗にして、所以に昆走法、波若に つまり、何故昆定教が因企の教に含まれ、般若教に摂せられるのかと自問し、 摂す。同じく国位と為すが故に﹂、 それに対して、毘尼教は浅近の摂性の者のために説かれるが、浅近の者の身口七支を調伏し、無生法忍を得させ るので、この点で大乗教と言うことができると答えている。僧詮においては、三乗別教や昆尼教を小乗教と考え ることは誤りで、全て大乗教と考えるべきであるという思想があったようである。 止観寺僧詮の研究 告詮の大小乗教観については、回公に含まれないが僧詮の弟子であった慧峰(五六
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五六六に六O
歳で没) の伝記である﹃続高僧伝﹄巻第二十五﹁陳摂山極霞寺釈慧峰伝二十三﹂(以下﹁慧峰伝﹂)の次の記述に注目した @ t v 有問云、今学二大乗﹂如何講レ律。峰云、此致、非汝所レ知。宣学一一正法一面大小相黍乎。 ( 大 正 五0
・六一五頁下) どうして大乗を学ぶのに律を講じる必要があるのかと関うたと どうして仏法を学んでいるのに大小の一区別が必要であるのか、と答えたという。慧蜂は律を小乗 @ 教と考えることに否定的であり、また、基本的に大乗と小乗を亙別するべきで誌ないと考えていたようである。 すなわち、慧峰が律を講じたときにある入が、 こ ろ 、 慧 経 は 、 ところで、常詮の四種教法、吉蔵の著作中には全く現れてこない。また、慧均の﹃大乗西論玄義記﹄において も、信詮の教判としてその内容が伝えられるものの、言定も否定もなされず、 それ以上に言及されることがない。 つまり、摂山三論学派において、僧詮の西謹教の存在は伝えられていたものの、文献に見える限りで辻、積極的R
に依用されることはなかったと言うことができると思う。ここに、摂由三論学派の教学が一様ではなく、時代と ともに変遷していった跡を見ることができる。
六、結
論
止観寺僧詮の研究 以上に、僧詮に関する資料を検討し、僧詮の人物像、活動、教学について論述した。本稿の検討で明らかにな った点をまとめると、まず、常詮ほ修禅的頬向が強く、また、講説に関しては慎重な慈度を取った人物であった。 そして、信詮が重視した経論法、基本的には﹃大品般若経﹄﹁三論﹂が中心で、それ以外には﹃浬繋経﹄﹃華議 経﹄の教学にも詳しかった。また、﹃大智度論﹄を用いたという形跡は無いので、摂山三論学派で﹁三論﹂と ﹃大智度論﹄とを合わせて両日論﹂を学んだのは、僧詮の弟子の慧花や法期以降の世代であろう。また、僧詮の 没年については、僧詮が陳代まで生存していたと考え得るので、陳が興った五五七年一O
月から、法朗が興皇寺 に移って講説を始めた五五八年一一月までの関と推定される。また、僧詮は修禅的傾向が強かったものの、学解 をおろそかにしたわけではなく、注目される学説を残している。例えば僧詮が独自の教軒論を有していたことを 指摘できる。僧詮の教判論は、毘尼教・般若教・法華教・謹繋教の四種に分類されるもので、この四種教のうち、 前三教は波若教を中心とする因住の教で、第四浬繋教が果位の教と位置づけられる。ただ、この教判論が後の世 代によって積極的に用いられた形跡はない。 なお、本稿では僧詮について論じたが、必要上、僧詮の事跡を述べることに多くの紙数を費やしてしまった。 僧詮の教学についてはさらに検討する必要があると思うので、次稿以後の課題としたい。註 号摂山は現在の江蘇省南京市の北東に笠置する。棲霞寺について誌平井後楽 ︹一九八三︺、稲本泰生︹一九九七︺を参摂されたい。 ② 筆 者 は 以 前 、 拙 稿 ︹ 二
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三 b ︺で、吉蔵の教判論である三種法輪が、法朗の教判を原型として独自に発展させら れたものであることを論じた。 ③ただし、従来吉蔵撰とされてきた﹃大乗玄論﹄﹁八不義﹂が、法朗の著作の可能性があるという興味深い学説があ る。三桐慈海︹一九七三︺参黒。また、伊藤隆寿︹一九七二a
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も近い見解を一示す。しかし、これら学説は確定的で はなく、あくまで可能性を提示するにとどまっている。 ④例えば、吉蔵の著作と前後して成立した天台系の著作にも、摂山三論学派の教学に言及するところがあり、貴重な 資 粍 で る る 。 ⑤僧詮の常朗受学については、奥野光賢︹一九九二で詳しく検討がなされている。 ⑤境野黄洋︹一九二九︺、布施浩岳︹一九四二 b ︺、平井投柴︹一九六七︺︹一九六八︺︹一九七六 b ︺ 。 @ 慧 咳 ( 毘 九 七 i 五五毘)撰﹃高僧伝﹄巻第七には﹁釈僧詮伝﹂が立てられ(大正五0
・三六九頁下)、この常詮に は法朗という弟子があったと伝えられ、古来、﹃高僧伝﹄の僧詮と止観寺僧詮とは混同されてきた。平井俊築︹一九 七 六 b ︺は、本人のみならず弟子の名前まで一致するということ誌あり得ないということを根拠とし、﹃高信伝﹄の ﹁釈僧詮伝﹂は後世により付会されたもので、止観寺僧詮の伝が逗在しているのではないかとしているが、具体的に どの部分に混在があるのかということには言及していない。筆者に辻、本人の名前と弟子の名前が一致することがあ り得ないことだとは思えない。二人の憎詮辻、境野黄洋︹一九二九︺が指議するように、全く無関係の別人であろう。 ③鳩摩羅什訳﹃妙法蓮華経﹄巻第二﹁警喰品﹂(大正九・一三頁下)の引用。 。伝記誌﹃続高信転﹄巻第七﹁諌楊都大禅衆寺釈慧勇伝三﹂(大正五0
・四七八頁上i
四 七 八 頁 下 ) 。 ⑬長子寺に住したことから、吉蔵の著作中にはよく﹁長子法師﹂などの名で言及される。智諮問については平井後築 ︹ 一 九 六 八 ) ︹ 一 九 七 六 b ︺ に 詳 し い 。 。ん伝記は﹃続高告伝﹄巻第七﹁諌摂出構霞寺釈慧布伝七﹂(大正五0
・ 四 八O
頁下 i 西 八 一 頁 中 ) 。 ⑫﹁慧布伝﹂には﹁時号之、為得意布、或云、思玄布也﹂(大正五0
・ 四 八O
頁下)とあり、慧布は﹁思玄布﹂とも呼 ︹ 一 九 六 七 ︺ ︹ 一 九 七 六 a ︺ 、 吉川忠夫止観寺僧設の研究 江れていたようである。 ⑬自本鎌倉時代の三論宗の中観澄禅(一二二七
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一 三O
七)撰﹃三論玄義検幽集﹄巻第七には、現在に伝わらない吉 蔵撰述の﹃涯繋経疏﹄を引用して﹁浬繋疏第十二日、迦葉白如来一言、於裟羅双樹下、第二明無所得。山中諸法師、請 止観師講浬繋。師亘取第十五巻、唱此中文、高格無所得意。明是謹繋正意也﹂(大正七0
・四八六頁上)と記され、 また、吉蔵撰﹃浬繋経遊意﹄には﹁就摂山大師、唯講三論及摩詞般若、不開浬繋法華。諸学士、請講浬繋経。大師云、 諸人今解般若。第復令護講。復重請。乃為、道本在今無信、寵遂不講文﹂(大正三八・二三O
頁上)と記されている。 これらは、本文で引用した﹃大品経義疏﹄と同趣旨の文である。ちなみに、この文の﹁就摂山大師﹂の解釈には諸説 あるが、筆者は﹁(僧詮が)摂山大関にしたがって﹂の意味と考えるのが妥当であると思う。また、本文の﹃大品経 義議﹄巻第一の引用文に、﹁止観部、六年山中に在ワ﹂とあることについては、日本平安時代の安澄撰﹃中論議記﹄ 巻第三上の﹁述義云、楊州之南、有摂嶺山。山内有止観寺。昔梁武帝、初学成実昆曇。開高麗国道朗法師従北地来住 摂出止観寺善解三論妙達大乗道、智寂等十師、就山学之、十部誌訓授梁武。西北遂改小従大。後摂山麓、造梧震寺、坐 禅行道﹂(大正七0
・七一頁中)、同じく巻第三末の﹁山門者、僧詮師、初住山門、ロハ後住山中﹂(大正七0
・ 九 六 頁 上)という記述を合わせて考えれば、増詮は最初﹁山門﹂、すなわち摂山の麓の壊霞寺に住し、後に﹁山中﹂の止観 寺に移ったと思われる。つまり、﹁六年山中に在ワ﹂というのは、僧詮が止観寺に住した期需を意味するのであろう。 ⑬この頃の智顔の事跡については佐藤哲英︹一九六乙に詳しい。 ⑬﹁若し誌取り〆若しは説か誌、定壊すること疑い無し﹂という智鎮の憎詮に対する評描は、増詮の穆禅を重んじる態 度への批判のようにも思えるが、文が簡略に過ぎ、はっきりと読み取っ難い。ちなみに、宋代の曇照(生没年不詳) は﹃智者大師別伝註﹄巻上において、この智鎮の信詮に対する評価を注釈して﹁方入初禅、至未到走。若入滅尽定、 方乃云深、詮部所練無輩、是蔵教初心、生滅観智。望街門、還成未了﹂(新記七七・六六一頁下)と言っている。 ⑬﹁本石今無偽﹂については、﹃三論玄義検幽集﹄巻第七に次のような記述がある。﹁浬繋疏第十二日、迦葉白如来言、 於裟羅双揺下、第二明無所得。山中諸法師、講止観部講浬葉。輝直取第十五巻、唱此中文、高略無所得意、明是浬般市 正意色。以其無所得故、即能無所不得。為純陀説傷者、埋繋一部、比億四過出。今即二過出。今出与前、何異者、前 出為答迦葉問、釈純陀疑意、如前。今第二過出、此為釈得無得、若有所得、開在三世。故無四無礎。無所得者、乃有 田無擬也。今迩葉、諜此罷来。知広釈仏無所得義。照明仏非三世一昨摂。仏若為三世所摂、部是有所得。就鑓有二。上半明有所得、下半明無所得。上明石三世義、下明無三世義。言本有者、本有媛悩。言今無者、今無涯葉。北本此今、並 拠昔為語。只昔本有煩悩、当昔之今、即無浬繋也。此不言昔時宥煩悩今時無煩悩故、一吉田本有今無也。次文亦然。本則 無波若、今還、是当昔之今、右於煩協也。此就衆生迷故、為論。下明知来不為三世所張。故言、三世有法無有是廷。 若主(迷者、成三世故、是有所得。無四無疑。如来橿故、非三世。故是無所得。有四無凝色﹂(大正七
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・四八六夏上 │中)。﹁浬繋麗﹂とは、現伝していない吉蔵撰述の﹃大般浬般市経疏﹄。平井捜柴︹一九七一 a ︺参照。ここに引用し た無所得の解説も常詮の学説に出来するものであろうか。壌を一猷わず全文を引沼した。今後更なる検討が必要であろ、
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⑫例え誌、吉蔑は﹃三論玄義﹄において、何故﹁西論﹂があるのに﹃大碧度論﹄を除いてわざわざコニ論﹂と称する のか、という間いを立てて次のように述べる。﹁次明別釈三論。問、既有四論。何故常祢三論耶。答、略有八義。(中 略)二者、三論具合方積三義。中論明所顕之理、吾論破於邪執、十二門名為言教。以三義相成故、名為三論﹂(大正 四 五 ・ 一 二 頁 下 ) 。 ⑬﹃大口問経義疏﹄巻第一には﹁然此経野講、商有両論解釈故。一者、三論通論此経之心髄、二者、大論釈此之本義。 此之二論、復是、関中什師、井融叡等、対翻論文、言精要義。可依信。為此故、留心尋講也 L ( 新記二四・一九六頁 上)とある。これは、ヲ一論﹂による﹃大品般若経﹄解釈と、﹃大智度論﹄によるそれとを明確に区別した表現である。 摂山三論学派にとっては、それまでの﹁三論﹂と、新しく慧布によってもたらされた﹃大智度論﹄の教学とを矛虐無 く解釈することがひとつの課題だったので辻ないか。何故なら、﹁三論 L も﹃大智度論﹄も、ともに龍樹(﹃百論﹄は 龍樹の弟子の提婆)の名が冠せられた文献であれソ、慧布や法朗において、﹁三論﹂と﹃大智度論﹄の教学は本来的な 部分で同じと認識されたと考えられるからである。 ⑬﹁慧覚伝﹂によれば、慧覚は最初法朗に詰ったが、後に慧布の門下に入った。﹁年八議出家、研精法相。其初伏業、 即興皇朗法師也﹂(大正五0
・ 五 一 六 頁 上 ) 。 @平井投柴︹一九七五︺辻吉蔵の著作において、経典では﹃浬繋経﹄、論書では﹃大智変論﹄の引用が圧倒的に多い ことを詣檎したが、吉蔵の﹃大智度論﹄引用は、吉蔵の教学の根幹に関わるものではなく、単なる﹁辞童目的﹂依用で あると結論している。この学説を寂り上げ、最近、大野栄人︹二0
0
二辻次のように主張している。﹁大論・四論 師批判判が、いつしか依って立つ﹃大誓度論﹄批判となって、﹃大智度論﹄を意罰的に辞書的役割の書としてのみ依用止観寺僧詮の研究 したといいうるので占める﹂(毘二頁)と。しかし、平井後策︹一九七五︺の﹃大智度論﹄の辞書的依用という問題に 関しては、すでに吉津宜英︹一九九
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︺、奥野光賢︹一九九九︺などの研究で批判的検討がなされ、吉蔵は単に﹃大 智度論﹄を辞書的に毘いているので誌なく、吉議の教学の根幹に関わる依用がなされていることが論証されている。 確かに、大野栄入︹二00
一︺に主張されるように、吉蔵辻三論学派として、﹃大智震論﹄の受容には慎重であった のかもしれない。また、﹁四論師 L については不明であるが、吉蔵の批判対象として﹁大論部﹂﹁智論師﹂などと呼ば れる、﹃大智麦論﹄を重視した学者が想定されているのも事実である。しかし、そのような﹁大論部﹂批判辻あくま で解釈法の批判であり、決して﹃大智度論﹄それ自体を批判することにはつながらない。また、﹃大智度論﹄の摂山 三論学派における受容は吉蔵より一一世代誌の慧布や法期に始まっており、﹃大智度論﹄受容辻吉蔵において、詰朗以 来の課題だったからである。また、﹃大智度論﹄を重視した学派や人物を、ただちに﹁四論宗﹂﹁四論学派﹂﹁酉論師﹂ などと呼称するのは妥当ではない。この点については、相馬一意︹二OO
二︺で詳細に論じられている。例えば曇驚 (西七六!五回二?)辻借伝において﹁西論﹂の学者とされてきたが、曇驚の主著﹃盆生論註﹄に辻﹃大智夏論﹄の 引用が多く見られるものの、他の三論の引用はほとんど見られない。もちろん、だからといって曇驚が全く他の三論 を学ばなかったとは言い切れないが、﹃大智麦論﹄を重視したからといって、他の三論と関連づけて﹁西論教学﹂と 呼べるような教学を形成していたという理由にはならない c @ 布 施 浩 岳 ︹ 一 九 四 二 b ︺ 。 ②﹃続高僧伝﹄巻第七﹁諌楊都大禅衆寺釈慧勇缶三﹂に﹁天嘉五年、世祖文皇、語講於太橿殻﹂(大正五0
・ 題 七 八 頁 下)とあ9
、慧勇は陳の文帝(在住五五九i
五六六)に請われて、天嘉五(五六四)年に講述している。一方、法朗 が講述を開始したのは、﹁法鰐伝 L に﹁永定二年十一見、奉勅入京、住輿皇寺﹂(大正五0
・四七七頁中)とあるから、 永定二(五五八)年である。 ③なお、平井地倶楽︹一九六七︺︹一九七六 b ︺も、法朗の輿皇寺移住を僧詮没年の下限とすることに異論はない。 ③原文に辻巻十三とあるが、伊藤監寿(一九七酉︺は巻十﹁成壊義 L の引用としている。また、﹃三論橿訴訟集﹄辻 少なくとも一二五八年までには著されている。﹃仏書解説大辞典﹄巻第四のコニ論祖師伝集﹂の項(三好鹿雄稿、一 三 三 i 一 三 宮 頁 ) 参 照 。 @梁武・帝の没年については、﹃梁室田﹄巻第三・本紀第三﹁武帝下﹂に﹁(太渚三年)五月丙長、高祖崩子静居殿、時年止観寺僧詮の研究 八十六 L ( 梁書一)とある。太請三年誌西麿五四九年。梁武棄の事跡について誌森三樹三郎︹一九五六︺を参寵され た い 。 @現伝する﹃続高僧伝﹄は、六四五年に一応の形が成立するが、その後に道宣自身により増補されている。さらに道 宣没後、道宣以外の人物によって増諒された可能性もあるという。伊吹敦︹一九八八︺︹一九九
O
︺参揮。一方、﹃大 乗回論玄義記﹄の成立時期は、伊藤隆寿︹一九七二 b ︺参揮。﹃大乗回論玄義記﹄の研究史については菅野博史︹二0
0
二 ︺ が 有 益 で ・ 占 め る 。 @ちなみに﹃陪天台智者大師別伝﹄の﹁摂山地動﹂の記事について、﹃智者大師別伝註﹄巻上では次のように解釈し ている。﹁練無常者、文出禅穏要経三巻。羅行於遁逢園訳。仏為拘捺羅難詑説。始説身念処観白骨不浄等凡三十六観 門。其三味成次第、当詮四果。只於四大地水火底、入定観察。故経中巻第十七観云、得此観時、自然生四黒象。亘至 下文一五、黒象欲抜此樹、樹一根動、此樹勤時、行者自見縄床下地、自然震動。日日如是。地動之持、見其七仏与芦間 衆広為行者説三十七勤聖道法。如是観時、狂象大乱。抜麗令勤時、晃一一房、地六震動、復広並目見三千大千世界一切地 動。経丈甚広須者、往検﹂(新百七七・六六一頁中 i 下)。ここに引用する﹁禅秘要経﹂は、鳩摩羅什訳﹃禅秘要法 経 ﹄ 巻 中 ・ 二 五 一 一 良 下 i 二五五頁上の趣意文であろう。 @吉蔵の﹃浬繋経疏﹄は現伝しないが、かつて存在し、呂本にも伝わっていた。平井夜祭︹一九七一a
︺ 参 黒 。 ま た 、 平井俊策︹一九七一 b ︺ ︹ 一 九 七 二 ︺ で は 、 B 本の三論宗文献に引用される﹃浬繋経疏﹄が整理されてお号、有益で ゑ 7 h v o @ 宇 井 信 書 ︹ 一 九 三O
︺ 参 照 。 @ 伊 藤 隆 寿 ︹ 一 九 八O
︺は、慧蹟を﹃三論遊意義﹄一巻の著作で知られる碩法師と同一人物としている。 @伊藤隆寿︹一九七六︺参照。 ③﹁法朗伝﹂の﹁永定二年十一月、奉勅入京、住興皇寺﹂(大正五0
・四七七頁中)という記述を参照。 ③﹃続高信伝﹄巻第一﹁諌揚都金援沙問釈法泰伝六﹂に﹁先是梁武、宗崇大論、兼翫成実。学人声望、従愚掃慶。諌 武好異前朝。広流大品、尤敦三論﹂(大正五0
・ 四 コ 二 頁 上 ) と あ る 。 @﹃陳室田﹄本紀第二﹁高祖下﹂には次のような記述がある。﹁(永{足元年十月)庚辰、詔出仏牙、於社姥宅、集四部設 無遮大会、古河裡親出、関前礼拝。初、斉故僧統法厳於島謹冨得之、常在定林上寺、梁天藍末、為摂山慶雲寺沙問慧盤(止縁寺僧詮の研究 謀蔵、慧盤︿将終、以属弟慧志、聖承末、慧志密送子高祖、至是乃出﹂(棟書一)。﹁仏牙﹂とは仏舎利のことで、諌武 帝 は 永 定 一 克 ( 五 五 七 ) 年 一
O
丹、仏牙を杜姥宅において開陳した。この仏牙は斉代に烏纏園よりもたらされたもので、 最初は定林上寺にあったが、天監末(五一九)年に摂山慶雲寺の慧興の保蔵するところとなり、慧盤︿議終特には慧輿 の弟の慧士むに付属され、さらに聖承末(五五五)年、慧志が密かに棟武幸に送ったものであるという。ただし、この 烏纏国の仏牙は、中国にもたらされた時には多大な信仰を集めたが、梁武帝の頃に盗賊に盗まれ、行方不明になって いたいわくつきのもので、それが密かに摂出 ζ 伝わっていたということには疑問が持たれている。塚本善隆(一九五 O ︺に興味深い検討がなされているので参照されたい。しかし、陳武帝が即位以前から摂山三論学涼と親しく交際し ていたという証左にはなるであろう。 ③﹃陳室田﹄本紀第二三回向裡下﹂を見ると、永定二(五五八)年五月に、建康において地震が起こっている。﹁(永定二 年)五月乙未、京師地震﹂(陳書一)。このことがただちに﹁摂山地動﹂の伝説と結びつくのなら、僧詮の没年は五五 八年五月と考えられるが、単なる鵠然の可龍性も否めない。 ⑧陳武帝と当時の仏教界の状況については、諏訪義純︹一九九七︺参原。 ③吉蔵撰﹃二諦義﹄巻上には﹁誤嶺興皇己来、並明二議是教。所以山中師手本二議議云、二諦者、乃是表中道之妙教、 窮文言之極説。道非有無、寄有無以顕道。理非二一、国一二以明理。故知、二諦是教逸﹂(大正四五・八六頁上 i 中 ) とある。﹃大乗回論玄義記﹄巻第五﹁二諦義﹂にも﹁摂嶺酉霞寺無所得三論大意大師詮法師云、二諾者、蓋是表理之 握説、文言之妙教。体非在無、有無事於体。理非二一、一二不以於理之﹂(新記詔六・五七三頁下)と同禄の学説が 僧詮説として記されるから、僧詮の﹃二諦疏﹄は確かに存在したのであろう。僧詮の﹃二諦疏﹄については従来の研 究ですでに論じられているが、特に佐々木憲徳︹一九一O
︺ ︹ 一 九 二O
︺、平井俊柴︹一九七六 C ︺ に 詳 し い 。 ⑧現存する﹃大乗回論玄義記﹄に辻この部分が欠けている。伊藤隆寿︹一九七四a
︺参照。また、この資料の直後に は僧詮の弟子である法朗の教判論についての記述がある。拙稿︹二O
O
三a
︺ ︹ 二OO
三 b ︺ 参 照 。 ③﹃大品遊意﹄は吉蔵の著作と考えられてきたが、伊藤隆寿(一九七五 b ︺辻これを吉蔵の撰述で誌なく、慧均﹃西 論玄義﹄の散逸部分である可能性を指議している。また、伊藤隆寿︹一九七回 b ︺ ︹ 一 九 七 五a
︺も参照。伊藤氏の 一連の論文における疑義は、詳細を罷め、無視できないもので、現時点では、﹃大品経遊意﹄を吉蔵の著作とするの は妥当でないだろう。ただ、﹃大品遊意﹄の内容から考えれば、摂出三論学派の著作であると考えて爵題ないと思う。止観寺僧詮の研究 @布施活岳︹一九四二 a ︺辻、道亮が誤りで増亮が本来の名であろうと指摘している。本稿もこれにしたがう。 @佐藤哲英︹一九六六︺、平井俊策︹一九七六
c
︺参照。両論文はともに摂由三論学深の約教二請説と僧亮の二諦説 の関係について述べながら、見解が一致するものではないが、吉蔵が僧亮の二議説を肯定的に見ていたことに異論誌 ないで為ろう c ⑫布施浩岳︹一九四二 c ︺は﹃大品遊意﹄の大亮法師五時教判と﹃大般浬繋経集解﹄の僧亮五味説において、第二時 (味)における不一致について辻﹁第二時の例とせらる、憂婆塞経とは曇憲議訳憂婆塞或経の如き、何合部の一一経を 大乗的に布街せる初期の大乗経典を意味するのであらうから、三乗雑説と云ふに相当する﹂(二九八頁)、第四時 (味)の不一致については﹁第四時の法華を空般若と見るは多少国難であって、会通に困惑するが、然し熟蘇沫に般 若を配するは経文の註釈上避けられぬ難点であれソ、梁代己後尚ほ北点に異論を生ずるとはいで信亮説に於ても空殻 若と云ひ、般若を般若経なりとは云っていないのであるから、空を大空、般若を実慧の意に解すれば、諸法実相を説 く法華経を空般若と云ふも必ずしも不当ではない﹂(二九八頁)として、﹁一見相違する如くなる一向説もよく真意を把 めば一致点を見出し得て相通ずるものなるが知らる冶﹂(二九八百()と結論している。確かに上記のように解釈でき なくはないと思うが、ここは填重に、一向者を同一人物の教判と考えることは避けたい。 @ちなみに、吉蔵の﹃三論玄義﹄には﹁若言第一名三乗別教、是義不然。依毘曇宗、三乗慰問見思議、然後寄道。就 成実義、但会一減、方乃成聖。拠大乗宗、同契無生、然後隔凡。是則初教亦通。何以言別﹂(大正五0
・五頁下)と 言って三乗別教を批判する。 @慧峰は僧詮の弟子で、﹁慧睦伝﹂には﹁釈慧峰、不知何人。住栖霞寺、聴詮公三論。深悟其旨、最為得意。名蟹還 布、衆所推美。詮毎云、峰之達解思力、五口不及也。以吾年老、旦復相依 L ( 大正五0
・六五一頁下)と記される。こ れによれ江慧峰は、信詮をして﹁峰の達解志力、五ロれ及ばざるなり﹂と言わしめる廷どで為り、決して回公に劣る人 物では無かったであろう。また、﹁最も得意たり﹂と評されることなどは、慧峰の後輩で﹁得意布﹂と呼ばれた四公 の慧布を努霧とさせる。 @また、士口蔵は﹃三一論玄義﹄において﹁通論大小乗経、開明一道﹂(大正西五・一O
頁上)と、やはり大小乗を平等 とする見解を示している。止観寺僧詮の研究 ︻ 略 号 } ︿仏教関係資料﹀ 大正リ﹃大正新舘大意経﹄、新記れれ﹃新纂大宮本続蔵経﹄、日弘全社﹃大 E 本仏教全書﹄(名著普及会販) ︿それ以外の資料﹀ 梁 書 日 ﹃ 梁 主 目 ﹄ 三 巻 、 諌 室 田 H H ﹃ 諌 室 田 ﹄ 二 巻 ︿研究論文(敬称略)﹀ 伊藤隆寿︹一九七二三﹁﹃大乗玄論﹄入不義の真偽問題(二)﹂(﹃駒津大学仏教学部論集﹄第三号) 伊藤隆寿︹一九七二 b ︺﹁慧均﹃大乗盟議玄義﹄について(二)﹂(﹃印度学弘教学誹究﹄第二十巻第二号) 伊藤隆寿︹一九七回