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真宗研究56号 014溪 英俊「『往生論註』における『十住毘婆沙論』の受容」

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全文

(1)

}\

本願寺派

はじめに

曇鷲の﹃往生論註﹄︵以下﹃論註﹄︶は、その具名﹃無量寿経優婆提全日願生燭註﹄からも明らかなように、世親の ﹁ 無 旦 一 寿 経 優 婆 提 全 日 願 生 偶 ﹄ ︵ 以 下 ﹁ 浄 土 論 ﹄ ︶ を 註 釈 し た も の で あ る 。 し か し ﹃ 浄 土 地 嗣 ﹄ の 文 を 逐 語 解 釈 し な が ら も、註主曇驚の独自の思想が込められている。冒頭に龍樹の﹃十住毘婆沙論﹂︵以下﹃十住論﹄︶を取意依用して難 易 二 道 を 一 不 し 、 ﹁ 浄 土 論 ﹄ は ﹁ 上 桁 之 極 致 不 退 之 風 航 ﹂ で あ る と 表 明 す る 。 さ て ﹃ 論 註 ﹄ と ﹁ 十 住 論 ﹄ の関係は、冒頭に引用されただけではなく、上下二巻を通じて﹁論註﹄に受容されて い る と 考 え ら れ る 。 曇鷲の浄土教思想を窺う一つの方法として、小論では﹁論註﹄における﹁十住論﹄ の 受 容 に つ い て 考 え て み た い 。

(2)

に一不される菩薩道 はじめに﹁十住論﹄に説かれる菩薩道について、﹁序品﹂の記述をもとに概観しておきたい。﹃十住論﹄ の 作 者 に ついては、龍樹であるか否か議論のあるところである。しかし今凹は曇驚自身が、 ノ ヲ 謹 案 一 龍 樹 菩 薩 ﹃ 十 住 毘 婆 沙 ﹄ 一 ︵ ﹁ 真 宗 聖 教 全 書 ﹄ ︵ 以 下 ﹁ 真 聖 全 ﹄ ︶ 一 ・ 二 七 九 ︶ と 述 べ て い る の で 、 ﹃ 十 住 論 ﹄ は龍樹の著作であるとして考察する。 ム 十 一

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Lト説 で あ る ま ず 帰 敬 偶 に お い て 、 ︵ ﹃ 大 正 新 情 大 蔵 経 ﹂ ︵ 以 下 ﹃ 大 正 ﹂ ︶ 二 六 ・ 二

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上 ︶ と、その解説は作者の恐意的なものではなく、仏の所説に随順することを一不す。次に造論の因縁についての問答を 出 し 、 ナ リ ン ル 地獄畜生餓鬼人天阿修羅六趣険難。恐怖大畏。 十 地 義 。 ︵ 中 略 ︶ ラ ル コ ト セ ン ノ ヲ 或有二到者兼能済二渡無量衆生寸 テ ヲ ク ノ 以 二 是 因 縁 一 説 二 菩 薩 ︵ ﹃ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 二

O

上 ︶ と述べる。ここで﹁あるいは到ること有らば、兼ねてよく無量の衆生を済渡せん﹂と、大乗菩薩道の基本である白 利利他が端的に示されている。 続けて菩薩の十地を修行しなければ、生死の大海を渡ることはできないのかと問い、声聞乗・昨支仏乗において も生死の大海を渡ることは可能であると答えるが、しかし菩薩乗によるべきだとする。また声聞乗・畔支仏乗が修 行する期聞を問い、声聞乗は一世、または二世、昨支仏乗は七世、 八世によって解脱することができるが、菩薩乗 を行ずるものは一恒河沙大劫、あるいは二、一二、四より十、百、千、万、億の時聞がかかることを示す。さらに声 ﹁往生論註﹄における﹃十住昆婆沙論﹂の受容 九

(3)

﹃往生論註﹄における﹁十住毘婆沙論﹄の受容 四

聞乗・昨支仏乗・菩薩乗の解脱の内容については差別がないことを示す。 それでは結果が同じであれば、なぜより速やかに解脱することのできる声聞乗・昨支仏乗によらないのかと聞い、 ノ ハ ズ ニ シ ク パ シ ニ ノ チ ズ ノ ヲ ズ レ 是語弱劣、非一是大悲有益之一吉弓︵中略︶若無一諸仏一亦無一一法僧イ是故汝所説者則断二三宝種。非一是大人有智之 一 一 首 イ ︵ ﹁ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 二

O

中 ︶ と 示 す 。 ﹃ 十 住 論 ﹄ では声聞・畔支仏の成立する根拠が仏であり、諸仏の成仏道が菩薩道であることを示し、同時 に菩薩の成立する根拠もまた仏であると述べ、声聞乗・昨支仏乗を求めることを良しとすれば、 三宝の種を断じて し ま う と す る 。 次 菩 に 薩 菩 衆 薩 者 に 。つ 為ニい

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発 を 心スす 会る 名ヶ 日フ 主E 薩ト ︵ ﹁ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 二 一 上 ︶ と、無上道を発心するものを菩薩であると規定し、さらに新発意の菩薩、名字の菩薩もあるとする。初発心を離れ ては、無上道を成ずることはできないからである。そしてその初発心を離れず、漸々に菩薩の十地を修行するもの を如実の菩薩、堅心の菩薩と呼ぶ。堅心の菩薩とは、二乗に堕さないものである。二乗に堕すものを﹁軟心の者﹂ と呼ぶ。六道の衆生の苦しむ姿を見て、軟心の者は二乗を求めるのである。これは上求菩提下化衆生を標務する大 乗にあっては、菩薩の死と呼ばれる。そこで固く堅固な心によって、菩薩の十地を修すべきことが説かれている。 菩薩の解説が終わった後に、 キ ノ ヲ ノ ル ヲ ク ル ノ ヲ ニ シ テ マ 我説一十地論其心得一清浄一深食一是心故精勤而不レ倦 ン キ テ シ ク ヒ ヲ ニ ラ ン ノ ヲ 若人聞受持心有清浄者我亦深楽レ此一心造一一此論 ノ リ ニ レ ヒ ク ヲ テ ノ ト ノ ヲ 三 ル ノ ノ ヲ 此二倍其義己顕不レ須一一復説寸但以一白心他心清浄故、造一此十地義。 ︵ ﹁ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 二 二 下 ︶ と述、べ、本論の作成が利他を目的とすることを示す。

(4)

以上﹁序品﹂の説一示をまとめると、発心して、その心を堅持して必ず仏果を得るものを菩薩と呼ぶ。大乗菩薩道 は利他を離れることがなく、その道は諸仏の成仏道である。諸仏の成仏道を自ら歩むことにより、六道輪廻の衆生 とともに成仏しようとするものであることが理解される。また造論の意趣も、利他の精神に立脚していることをあ ら わ し て い る 。

における

の影響 一一ーー一、先行研究に指摘されている共通点の見出される箇所 ﹃論註﹄に引用される経論釈についての研究は、幡谷明氏の﹃曇驚教学の研究﹄︵以下﹃幡谷﹂︶や、武田龍精氏 編の﹁往生論註出典の研究﹄︵以下﹃武田﹄︶などがある。﹃幡谷﹂では九箇所、﹃武田﹄では十箇所の引文ないし共 通点が指摘されている。ただし﹃幡谷﹂ では該当箇所の指摘に止まり、﹃武田﹄も部分的に註釈が入る程度である。 そ の た め 、 ま ず ﹃ 幡 谷 ﹄ ﹃ 武 田 ﹂ の指摘する該当の文を確認してみたい。 ︵ 1 ︶ ﹃ 論 註 ﹂ ﹁ 荘 厳 大 義 門 功 徳 成 就 ﹂ ︵ ﹁ 幡 谷 ﹂ 一 五 一 頁 、 ﹃ 武 田 ﹄ 二 五 七 頁 ︶ ノ ニ テ ノ ヲ ク シ テ ノ ヲ メ ハ シ ノ ナ リ ノ ニ ス 卜 イ ヘ リ 又﹃十住毘婆沙﹄中龍樹菩薩造二阿弥陀讃一云。﹁超二出三界獄一日如一一蓮花葉。声聞衆無量、是故稽首礼。﹂ 是 有 二 声 聞 一 二 証 也 。 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 二 九 六 ︶ 十

超笠

二 旦 出シ 百 易

9剛、ヲ口 日ハ」 如ン 蓮 華ノ 葉ノ ナ リ ノ ニ シ シ タ テ マ ソ ル 声聞衆無量是故稽首礼 ︵ ﹃ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 四 三 中 ︶ ﹃往生論註﹄における﹃十住昆婆沙論﹄の受容 四

(5)

﹃ 往 生 論 註 ﹄ に お け る ﹃ 十 住 毘 婆 沙 論 ﹄ の 受 容

﹁論註﹄﹁荘厳大義門功徳成就﹂において、二乗のものが浄土にいないといわれるのに、﹃無量寿経﹄﹃十住論﹂ ﹁ 大 智 度 論 ﹄ の文によって、声聞がいるではないかという聞いをおこす箇所である。ここでは具名を出して ﹃ 十 住 論﹂が引用されており、文も一致する。 ︵

2

︶ ﹃ 論 註 ﹄ ﹁ 荘 厳 大 義 門 功 徳 成 就 ﹂ ︵ ﹃ 幡 谷 ﹄ 一 五 四 頁 、 テ マ 、 ネ ク ヲ レ パ リ エ ハ ニ 問日。名以召レ事、有レ事乃有レ名。安楽国既無二乗・女人・根欠之事。 ノ ル ヲ ダ ナ ラ リ テ フ ガ ト ン ノ ナ ル ト ハ ナ ル ヲ リ テ ガ ト 如下軟心菩薩不二甚勇猛一識言中声聞同如下人詰曲、或復停弱識言中女人目 ﹁ 武 田 ﹂ 二 六 八 頁 ︶ 亦 イ可ゾ ヲ頁ク

浄復

土ニ言フ 無ン無ト 女日キ此ノ

与 耶 ャ 奪 之 答 名 目 ︵ 中 略 ︶ ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 二 九 七 ︶ 十

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主 若ンム 堕セ

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遍宮

口口 及ピ 昨 支

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ム 地ニ ヲ ゾ ケ ノ ト チ ス ノ ヲ 是 名 二 菩 薩 死 一 則 失 一 一 一 切 利 ︵ 中 略 ︶ ニ シ ノ ニ ラ パ ク ル ル コ ︸ ヲ ニ ハ ク ハ ニ キ タ マ ヘ ヲ 是故若諸仏所説有下易行道、疾得レ至て阿惟越致地一方便上者、願為説レ之。 ヘ テ ク ハ ノ ノ シ ル コ ト ザ ル ニ ヲ テ ノ ニ 答日。如一汝所説一是停弱怯劣無レ有一大心 4 非こ是丈夫志幹之言也。何以故。 ヲ 貌 三 菩 提 。 若人発願欲 ν求一阿蒋多羅三 ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 四 一 上 ︶ ﹂ こ は 先 の ﹃ 十 住 論 ﹂ の引文に続く筒所で、具体的にニ乗種不生ということについて問答している。﹁幡谷﹂﹃武 田﹂共に、この ﹃ 十 住 論 ﹂ ﹁ 易 行 口 問 ﹂ が 典 拠 で あ る と 指 摘 し て い る 。 ﹃ 十 住 論 ﹄ の直接の引文ではないが﹁俸弱﹂と いう語は他の論書においてほとんど用例がないので、﹃論註﹄が ﹃十住論﹄を参考にしているといえるだろう。﹃十 住 論 ﹄ では菩薩の死を恐れ、すみやかに阿惟越致に至る方便道を求める者を﹁停弱﹂と詩り、丈夫志幹の一言ではな い と 述 べ る 。 そ れ を 、 つ け て 、 ﹃ 論 註 ﹄ では、軟心の菩薩が勇猛でないことを識って声聞というと理解していると考

(6)

え ら れ る 。 ︵

3

︶ ﹁ 論 註 ﹄ ﹁ 起 観 生 信 ﹂ ︵ ﹃ 武 田 ﹂ 四 一 五 頁 ︶ 然 有 一 称 ν 憶 念 而 、 無 明 由 存 而 、 不 レ 満 一 一 所 願 一 者 、 チ ナ レ 何 者 、 ガ ル ト セ 由 下 不 如 実 修 行 、 ル ニ セ 与 一 名 義 一 不 中 相 応 上 故 也 。 ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 二 二 四 ︶

多是隻

羅 諸 理 三 仏 「 窺 世 易 三 尊 行 菩 現 ニ 品 提ヲ在ス」 十 方 清 浄 世

皆 称 レ 名 憶 念 。 ノ ハ ン ノ シ ジ ヲ シ ヲ ラ セ パ 阿 弥 陀 仏 本 願 如 レ 是 。 若 人 念 レ 我 称 レ 名 自 帰 、 チ リ テ ニ 即 入 一 必 定 得 二 阿 樗 ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 四 三 上 ︶ のみ、典拠であると指摘している。共通箇所は﹁称名憶念﹂であるが、﹁称名﹂も﹁憶念﹂も、 それぞれの語は多くの経論釈で数多くみられる。しかし﹁称名憶念﹂と連続している例は数少ない。 ﹁易行品﹂では百七仏の名を列挙して、これらの諸仏が十方の清浄世界におられるから、﹁みな名を称し、憶念す の箇 所 は ﹃ 武 田 ﹂ べし﹂と示す。そして阿弥陀仏の本願にもとづき、仏名を称することによって必定に入り、阿蒋多羅三貌三菩提を 得ることができると説く。﹃論註﹄では、仏の名を称し、憶念しでも、なお無明あって所願を満たすことのないも のがあるが、それはどういうわけかと問う。それに答えて、如実に修行せず、名義と相応しないからであるという。 この箇所の典拠としては、関係性が低いように思われる。しかし﹁論註﹄ではもう一箇所、巻上の菩薩四修荘厳功 徳 成 就 を 説 く 中 で も 、 ル ノ ス ル ノ ス ル ノ ク 若人称レ名憶念者、帰依者、観察者、如− ﹁ 法 花 経 ﹂ 普 門 品 説 、 シ ト シ テ ル コ ト 無 二 願 不 v 満 。 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 三

O

四 ︶ と、﹁称名憶念﹂の語が見られる。観音・勢至の名を称え憶念するもの、帰依するもの、観察するものは、その願 が満たされないものはないと説かれている。﹃武田﹄ では巻上の丈は指摘されていないが、この巻上の丈とあわせ ﹃往生論註﹄における﹃十住毘婆沙論﹄の受容 四

(7)

﹃往生論註﹄における﹃十住毘婆沙論﹄の受容 四 四 る こ と で 、 ﹁ 称 名 憶 念 ﹂ の 典 拠 が ﹃ 十 住 論 ﹄ で あ る と 理 解 さ れ る だ ろ う 。 ︵ 4 ︶ ﹃ 論 註 ﹄ ﹁ 荘 厳 心 業 功 徳 成 就 ﹂ ︵ ﹃ 幡 谷 ﹂ 一 六 九 頁 、 ﹃ 武 田 ﹄ テ ス ト イ フ ハ ヲ リ テ ノ ニ ジ テ 云何用治二衆生、︵中略︶入一如来家畢寛得二平等身業づ 五 三 一

O

頁 ︶ ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 三 二 九

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一 二 三

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︶ ﹃ 十 住 論 ﹄ ﹁ 入 初 地 品 ﹂ ズ ノ ニ ノ ハ チ ノ ナ リ テ ノ ヲ ス ル ガ ニ ケ テ ス ト 生二如来家一者。如来家則是仏家︵中略︶諸菩薩以二是十地一来二至阿蒋多羅三貌三菩提故名為二如来イ︵中 ナ リ ノ ヲ ケ テ ス ノ ト 略 ︶ 如 来 者 。 所 謂 十 方 三 世 諸 仏 是 。 是 諸 仏 家 名 為 二 如 来 家 イ ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 二 五 上 ︶ ﹃幡谷﹄﹃武田﹄共に、﹃論註﹄において仏の三業功徳成就の後の問答において見られる﹁如来の家﹂の語が共通 す る と 指 摘 し て い る 。 衆 生 の 三 業 は 仏 ・ 菩 薩 の 三 業 に よ っ て 治 さ れ る こ と が 示 さ れ て い る 。 ﹁ 弘 一 柵 註 ﹄ での﹁如来の で﹁如来の家﹂とは初地を指す。﹃論註﹂は ︵4 ︶ 龍樹や世親が浄土に願生するのは、七地沈空の難がないからであると述べるが、その理由として浄土において阿弥 家﹂とは具体的には阿弥陀仏の浄土を指している。しかし﹃十住論﹂ 陀仏を見れば、未証浄心︵初地から七地まで︶ の菩薩が八地以上の菩薩と身等しく法等しくなるからである。曇鷲 は 菩 釈 薩 迦 の 如 十 来 地 於テを

I子 提二 応 化 道 耳 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ −

) と述、べ、超越の理によって浄土の階次を廃する。これから考えると、﹃十住論﹂ では﹁如来の家﹂は初地であった が 、 ﹃ 論 註 ﹄ では浄土に生れることが重要であり、そこに生れれば必ず仏になるという内容を﹃十住論﹂から依用 し た の だ と 考 え ら れ る 。 ま た ﹁ 十 住 論 ﹄ ﹁ 入 初 地 品 ﹂ で は 如 来 は 十 方 三 世 の 諸 仏 で あ る 。 ﹃ 論 註 ﹂ では十方三世の諸仏を阿弥陀一仏に摂し て 理 解 し て い る と 考 え ら れ る 。

(8)

5

︶ ﹁ 論 註 ﹄ ﹁ 浄 入 顧 心 ﹂ ︵ ﹃ 幡 谷 ﹂ 一 八 七 頁 、 ﹃ 武 田 ﹄ 六 一

O

頁 ︶ ン テ ヲ ニ ノ ラ ル セ モ ダ ハ コ ! ノ ヲ ク ル ガ 卜 又如 L 濯頂王子初生之時、具一三十二相即為七宝所レ属、難レ未レ能レ為一転輪王事一亦名中転輪王勾 ル ベ キ ヲ ト ナ リ ノ ノ 為一転輪王故。彼諸天人、亦復如レ是。皆入一一大乗正定之衆、畢寛当レ得清浄法身。 ノ レ 以 三 其 必 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 三 一 一 一 八 ︶ ﹃ 十 住 論 ﹄ ﹁ 入 初 地 品 ﹂ ヲ ル ガ タ エ ケ テ ス ズ ノ ニ ズ ル ガ ト ニ 今是菩薩行一如来道、相続不レ断故名為レ生二如来家。又是菩薩必成一如来一故、 ル ガ ト ク ノ ズ ノ ニ 輪聖王家一有一転輪聖王相。是人必中作転輪聖玉川是菩薩亦知レ是生如来家寸 如 来 家 。 雪ス名ヶ 子ノ為ス ’I...'ヲレ 故ニ生ズ 必ズ知 成ル来ノ

如宅ニ

是ヲ如シ

生ズ転

︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 二 五 中 ︶ ﹃論註﹂﹁浄入願心﹂で、浄土に往生したものは、必ず清浄法身を得ることができるから、仏や菩薩と同じく清浄 と呼ばれることを、濯頂王子は必ず転輪王になることができることになぞらえて説明している。﹃十住論﹂ では菩 薩も濯頂王子のように、如来の家に生ずれば発心して必ず如来となることが可能である旨を示している。 ﹃幡谷﹄では、これ以外にも﹃十住経﹄の関連箇所を指摘している。﹃幡谷﹄﹃武田﹂が指摘するように、内容も 一致していると考えられるが、﹁大智度論﹄には﹃論註﹄の丈と同一の丈があるので、﹁大智度論﹄からの引用であ るとした方が妥当だと思われる。 ︵

6

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故ニム 不 合 求 三 二 頁 自 )

依 ν慧故遠三離我心入賞二着自身イ ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ ・ 三 四

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頁 ︶ ﹃ 十 住 論 ﹄ ﹁ 大 乗 品 ﹂ セ ニ セ ニ ハ テ ノ ヲ ニ セ 二 ︵ イ ︶ 不 レ 貧 一 一 白 楽 一 者 。 所 謁 不 ν 二 切 諸 楽 サ 菩 薩 以 二 五 因 縁 一 故 不 レ 貧 一 一 白 楽 イ ︵ 中 略 ︶ ﹃往生論註﹄における﹁十住毘婆沙論﹄の受容 四 五

(9)

﹁ 往 生 論 註 ﹄ に お け る ﹁ 十 住 毘 婆 沙 論 ﹄ の受容 二 四 六 ︵ ロ ︶ 利 益 衆 生 一 者 不 レ 麿 レ 有 一 貧 著 一 ア ノ ノ ヲ ニ セ ヲ 及 無 量 身 命 者 。 菩 薩 以 一 五 因 縁 故 不 レ 貧 一 惜 身 イ 是身無量過不レ応レ有一貧惜 ︵ 中 略 ︶ ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六

O

七 上 ︶ ﹃論註﹄﹁離菩提障﹂の文である。進んで仏道を求めることを知り、二乗三乗に退かないように身を守ることを ﹁智﹂とし、それによって自らの楽を求めない。そして空・無我を知ることを﹁慧﹂とし、それによって我心の白 身に貧着することを速離すると分釈している。典拠として指摘されるのは ﹃ 十 住 論 ﹄ ﹁ 大 乗 品 ﹂ の 文 で あ る 。 ︵ イ ︶ の ﹁ 不 貨 白 楽 ﹂ が ﹃ 論 註 ﹄ の﹁不求白楽﹂の典拠であると考えられ、また ︵ロ︶が﹁遠離我心貧着自身﹂の典拠と 考えられる。しかし﹁智﹂の内容である﹁不求白楽﹂が、﹃十住論﹄ の﹁利益衆生者 不感有貧著﹂と関係する程 度で、全体としての内容の関係性は薄いと考えられる。そのためか、﹁武田﹄ で は ︵ イ ︶ の丈のみを典拠としてあ げ る に と ど ま っ て い る 。 ︵ 7 ︶ ﹃ 論 註 ﹄ ﹁ 名 義 摂 対 ﹂ ︵ ﹁ 幡 谷 ﹂ 一 八 九 頁 、 ﹃ 武 田 ﹄ 六 三 四 頁 ︶ ル ト ト ハ ノ ナ リ パ ラ ト ト ニ ノ t h t ﹁ 応 知 ﹂ 者 、 謂 応 レ 知 F 智慧方便是菩薩父母、若不レ依一智慧方便﹂菩薩法則不中成就 M 衆生一時則堕一顛倒寸若無二方便観法性一時、則証実際 l 是 故 応 知 。 何ヲ 以ノ 故ニ 若 無 一 智 慧 一 為 − 一 ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 三 四 二 ︶ ﹃ 十 住 論 ﹄ ﹁ 入 初 地 品 ﹂ ノ ナ リ ン ノ ニ ク ガ 有人言。般若波羅蜜及方便、是如来家。如一助道経中説 ズ ル ガ ニ ケ テ ス ト ス ル ガ ニ ク ト 知日度無極母善権方便父生故名為レ父養育故名レ母︵中略︶ ヲ ヲ テ ス i ノ ノ ハ リ ノ ズ 菩薩善法父智慧以為レ母一切諸如来皆従是二一生 ︵ ﹁ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 二 五 中 ︶ ﹁論註﹂﹁名義摂対﹂の丈である。智慧と方便を菩薩の父母とし、智慧によらなければ願倒に堕し、方使によらな

(10)

ければ実際を証してしまうことを述べる。﹃十住論﹄﹁入初地品﹂ の如来の家の説一不が典拠とされる。直接の引丈で はないが、智度つまり智慧を母とし、方便を父とするという説示は一致している。ただし 豆 一 一 川 註 ﹂ では智慧と方便 を菩薩の父母とまとめて説示してある。 ︵

8

︶ ﹃ 論 註 ﹄ ﹁利行満足﹂一九四頁、﹁武田﹄六五三頁︶ ク ン ト ル ル ニ ニ チ ス ﹁ 成 就 ﹂ 者 、 謂 自 利 満 足 也 。 ﹁ 応 知 ﹂ 者 、 謂 応 レ 知 下 由 一 白 利 一 故 則 能 利 他 、 ︵ ﹃ 幡 谷 ﹄ ズ ト レ ニ ク ス ル ニ 非 中 是 不 レ 能 一 白 利 一 市 能 利 他 r 也 。 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 三 四 六 ︶ ﹁ 十 住 論 ﹂ ﹁ 序 品 ﹂ ク ズ ヲ ズ ル ガ 多 念 一 三 宝 及 菩 薩 衆 心 又 念 二 布 施 持 戒 忍 辱 精 進 禅 定 智 慧 一 故 、 ケ テ ス ニ ス ト ヲ チ ナ リ 名 為 = 笹 川 比 供 二 養 諸 仏 ﹂ 則 是 利 他 。 ク ス ヲ チ ナ リ ス ル ガ ノ ヲ ニ 深 発 一 善 心 一 則 是 自 利 。 又 演 ニ 説 照 = 一 明 此 正 法 一 故 、 ︵ ﹃ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 一 一 一 一 中 ︶ ﹁論註﹄﹁利行満足﹂の丈で、自利と利他の関係性を述べる箇所である。菩薩の前回門の行によって自利の行が次 第成就することを一不し、その自利ができないものは利他することもできないと説かれている。﹃十住論﹄ で の 自 利 は三宝と菩薩衆を念じ、また六波羅蜜を念ずるミとによって深く善心を発すことである。ここでいう利他とは正し い法を説くことで、諸仏を供養することであるという。 ﹃幡谷﹂﹃武田﹄共にこの箇所を典拠として示しているが、﹃十住論﹄ では自利と利他との関係を述べておらず、 直接の典拠とは言い難いように思われる。 ︵

9

︶ 他 利 之

平JI「 他 憲

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左 」

﹃ 論 註 ﹄ ︵ ﹃ 幡 谷 ﹄ ︵ 中 略 ︶ 一 九 五 頁 、 ﹃ 武 田 ﹄ 六 七 三 頁 ︶ ソ レ ト ノ ニ ノ ノ ノ ハ ル ガ ノ ニ ナ リ ヲ テ 凡是生一彼浄土一及彼菩薩人天所起諸行皆縁ご阿弥陀如来本願力故。何以 ﹃往生論註﹂における﹁十住毘婆沙論﹄の受容 四 七

(11)

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之 ヲ 論 註 若シ:

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仏 ザ 力ニ Q 四 十

十 隻

J¥ 援 願~ £,j玉 三ぶ lヌ二チ ロ岡 是レ』 徒

2

三月ー コζ 員又ナ 学き 0ラ ・w ム 一 一 四 八 ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 三 四 七 ︶ ﹁ 十 住 論 ﹂ ﹁ 五 戒 品 ﹂ テ ク テ テ ヲ メ テ ズ ヲ ノ ラ ン ニ モ ニ ス ト ヲ ニ ラ ル ノ ヲ 問 目 。 捨 一 一 白 利 一 勤 行 二 他 利 一 此 事 不 ν 。 如 二 仏 説 イ 難 二 大 利 v 、 不 レ 応 一 ニ 白 捨 一 一 己 利 。 ︵ 中 略 ︶ テ ク テ ノ ニ ニ ノ ル ハ ヲ シ テ シ ト テ ス ︸ ン ヤ ノ ハ ズ ル ス ヲ ン ス レ ヲ 答 日 。 於 二 世 間 中 一 為 レ 他 求 レ 利 猶 称 為 レ 善 以 為 二 堅 心 心 況 菩 薩 所 レ 行 出 一 一 過 世 間 ι 若 利 レ 他 者 、 ハ ヒ テ ニ ハ ナ ラ セ ヲ ハ テ ナ リ 菩薩於二他事一心意不二劣弱一発一菩提心一者他利即自利 ノ ハ ノ ニ ニ ク ク ノ ニ ノ ハ ラ ク リ テ ヲ ニ ズ シ テ ノ ノ ニ ニ ク ズ 此義初品中己広説。是故汝語不 ν 。 深 知 レ 恩 倍 報 者 、 若 人 於 二 菩 薩 所 作 好 事 一 応 二 当 厚 報 イ ノ ナ リ 人 相 。 チ レ ナ リ ン ク ガ 即 是 自 利 。 如 レ 説 ク ル ノ ヲ 又 深 知 一 其 恩 イ 此ハ ヌE 善 ︵ ﹃ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 五 六 上 ︶ ﹁ 十 住 論 ﹂ ﹁ 大 乗 品 ﹂ ノ ハ ル ノ ニ ス ル ニ ヲ 所 修 十 善 道 勝 一 一 二 種 人 ⋮ 者 。 菩 薩 修 二 十 善 道 J ニ テ ノ ヲ ニ ク ス ゲ ル ノ ヲ 故 。 以 二 是 因 縁 一 故 。 能 度 下 過 ご 算 数 一 衆 生 日 於 下 求 二 声 聞 昨 支 仏 一 者 上 為 一 一 転 勝 4 ︵ 中 略 ︶ ン テ ス ル ガ ヲ 回向利二安一切衆生一 ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 一

O

二 上 ︶ ﹃論註﹄﹁襲求其本釈﹂で他利利他の深義を述べる。曇鷲は、 ズ ル ニ リ 談 有 一 左 右 。 他 利 之 与 二 利 他 一 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 三 四 七 ︶ と 述 べ る が 、 ﹃ 十 住 論 ﹄ では他利も利他も内容としては変わらない。 ﹃十住論﹂﹁五戒品﹂では自利と利他の関係について、まず自利を求め、それが成就してから他を利するべきでは ないかと問いを出し、それに答えて菩薩の行は世間を超えたものであり、他を利することがそのまま自利となるこ とを示している。また﹁大乗品﹂でも自利と他利を列挙している。 ﹂ れ は ﹃ 論 註 ﹄ でも入の四種門の成就と出第五門の成就において自利と利他が不可分であることを述べているの で、﹁幡谷﹂﹃武田﹂が一不すように﹁他利利他﹂の典拠となっているとはいい難いのではないだろうか。むしろ先の ︵ 8 ︶﹁利行満足﹂の内容の典拠であるという方が理解しやすいように思われる。

(12)

︵ 叩 ︶ ﹃ 論 註 ﹄ ﹁ 三 願 的 証 、 第 十 一 一 願 ﹂ ︵ ﹁ 幡 谷 ﹄ 一 九 六 頁 、 ﹃ 武 田 ﹂ 六 七 七 頁 ︶ 縁 一 仏 願 力 一 故 住 − 正 定 緊 J 住 一 一 正 定 緊 一 故 必 至 一 滅 度 一 無 諸 廻 伏 之 難 、 所 以 得 ν 二 証 也 。 ︵ ﹃ 真 聖 人 王 ﹄ ・ 三 四 七 ︶ 十

日~ 汝 「 欲ス序 レ ル 仁I 二口口 解ヵ」 菩 薩ノ 十 地ノ

テ ノ ノ ヲ ニ ク ヤ テ ク 以一何因縁一故説。答日。地獄畜生餓鬼人天阿修羅六趣険レ難。恐怖大畏。是衆生 シ テ ノ ヲ ラ ル コ ト リ ハ ラ ル コ 卜 生死大海旋流掴複。随業往来是其津波。︵中略︶如レ是往−来生死大海、未下曽有も得レ到一於彼岸イ或有二到 者兼能済一渡無量衆生 4 以 一 是 因 縁 説 二 菩 薩 十 地 義 イ ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 二

O

上 ︶ ﹁三願的証﹂の中、第十一願をもって、正定緊に住すことにより、必ず減度に至り再び輪廻する難が無いことを 示 す 。 ﹃ 十 住 論 ﹄ では菩薩十地の義を説く理由が一不されている。それは生死の大海を往来している無量の衆生を済 度せんためである。﹁入初地品﹂では菩薩の十地は阿蒋多羅三窺三菩提に来至する︵ H 如来の家に生ずる︶ために あることを一不す。つまり菩薩十地を説き、阿蒋多羅三貌三菩提に来至し、如来の家に生まれることが無量の衆生の 救 済 と い う こ と に な る 。 ﹃ 論 註 ﹄ では、如来の家に生まれることは阿弥陀如来の浄土に往生することである。浄土 に往生すれば、正定緊に住し、必ず減度に至ると一不されている。﹃武田﹂ではこの箇所を﹁廻伏之難﹂の典拠とし てあげであるが、広くは ﹃論註﹄上下二巻全体で説かれている、浄土に往生するという仏道の典拠であるとも言え る だ ろ 、 っ 。 以上、先行研究によって指摘される箇所を検討してみたが、明らかに引用丈であるといえるのは ︵ 7 ︶ であり、他は文中の一語を用いるにとどまる場合がほとんどである。この理由について考えると、語句の依用が主 ︵ 1 ︶ の 文 だ け たる目的ではなく、そこに説かれた内容に着目したからではなかろうか。とくに冒頭の﹃十住論﹄ の取意の文はそ ﹃往生論註﹄における﹁十住毘婆沙論﹄の受容 四 九

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﹃往生論註﹄における﹃十住毘婆沙論﹄の受容 二 五 O の 好 例 で あ る 。 ︵ 8 ︶ ちなみに﹁大智度論﹄からの引用についてはすでに検討したことがあるが、二百箇所を超える引用ないし共通す る点を指摘できた。その中には比較的長い引文もあり、菩薩、仏、慈悲など重要な語についての内容は ﹁ 大 智 度 論﹂から影響を受けているといえる。ただし仏教の汎用の説明を、法蔵や阿弥陀仏の浄土に限定する形に書き換え ︵ 9 ︶ ることで、独自の浄土教思想を展開している。﹃十住論﹂との比較においても、例えば ︵

4

︶ で 検 討 し た よ う に 、 このように阿弥陀一仏に約すような態度は見られる。 一一|二、﹃論註﹄冒頭の引丈 一 一 l 1

E l i −、﹃論註﹂回目頭の﹁謹案龍樹書薩﹁十住毘婆沙この意図 ﹁ 論 註 ﹄ 冒 頭 に は 、 謹 案 一 龍 樹 菩 薩 ﹁ 十 住 毘 婆 沙 ﹄ 一 云 。 菩 薩 求 二 阿 毘 蹴 致 一 有 二 二 種 道 4 五 濁 之 世 於 一 無 仏 時 一 求 一 阿 毘 肱 致 一 為 レ 難 。 ナ リ タ テ 一 者 難 行 道 、 二 者 易 行 道 。 難 行 道 者 、 謂 於 一 一 一 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 二 七 九 ︶ と、あたかも﹃十住論﹄からの引用であるかのように書かれている。しかし取意の文であり、また﹃十住論﹄とは 内容も異なる語の用い方をしている。﹁十住論﹄には難行道という言葉は見られない。あくまでも仏道そのものが 難行であると示されており、その中に易行道と言う方便法を説くという形になっている。﹁論註﹄ の阿毘蹴致を求 める道を二つに分ける理解の仕方は﹁十住論﹄とは異なっている。 ﹁五濁の世﹂という語は、﹃大智度論﹂﹃十住論﹄の中には見られない。﹁無仏の時﹂は れるが、これは昨支仏の説明である。﹃論註﹄のこの箇所では引用のように示してあるが、あくまでも曇驚の世界 観、時代観を表現していると考えるべきであろう。五濁の世、無仏の時においては、すでに難行道という道は自身 ﹃ 大 智 度 論 ﹂ に 一 箇 所 見 ら

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にとって不可能な道であるという自覚がそこにある。 一 一

l

ニ|二、﹁難﹂である理由 次 に 曇 鷲 は 、 五濁の世、無仏の時に阿昆蹴致を求めることが難である理由を五つ示す。それぞれ﹃十住論﹂ σ〉 ど こにもとづき記述されているのかを検討する。 ︵ 1 ︶ ﹁ 外 道 相 善 乱 二 菩 薩 法 一 ﹂ に つ い て これは﹁阿惟越致相品﹂において﹁敗壊の菩薩﹂ ン デ ウ ノ ヲ タ ニ ハ ク ニ 好 楽 一 一 下 劣 法 一 者 。 ︵ 中 略 ︶ 復 次 下 名 一 一 悪 事 。 ヲ ス ト ズ ル ノ ヲ ニ ケ テ ス フ ト ヲ 是 為 一 下 法 寸 行 一 一 此 法 故 名 為 レ 楽 二 下 法 イ 所 謂 m

五相

官欠す全 又 不

断 す

,苦手, ιL」

l

ノ、 一十 見 一 切 外 道 論 議 、 一切増一長生死、 ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 三 八 下 ︶ と説かれるによると考えられる。下劣の法とは、仏乗以外の余乗は仏乗と比べて小劣であるから下劣の法と呼ばれ る。この中二乗を信楽すること、 五欲にまかせること、さらに断常などの六十二見、 一 切 外 道 の 論 義 、 一 切 の 生 死 を増長するものを下劣の法をねがうことであるとする。仏乗とは菩薩十地のことであるので、﹁論註﹄にいう菩薩 の法と共通すると考えられる。悪をなすわけではないが、これらの善に相似した法によるならば、 せっかく菩提心 を発しても敗壊の菩薩であると説かれる。 ︵

2

︶﹁声聞自利障一大慈悲一﹂について すでに見たように、﹁序品﹂に悟りの境地が三乗において差別なしというのなら、なぜ菩薩の十地を行ずべきな の か と 聞 い 、 三乗の根底に仏があることを一不し、声聞・昨支仏を求めることは三宝の種を断ずることであると述べ ﹁往生論註﹄における﹃十住見婆沙論﹄の受容 五

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﹃ 往 生 論 註 ﹂ に お け る ﹃ 十 住 見 婆 沙 論 ﹄ の 受 容 五 ている。また﹁易行品﹂において、 a d ン ヲ ハ ダ ニ ズ ガ ヲ ニ ニ メ ヰ ス 若求一一声聞乗畔支仏乗一者但為レ成一己利常応一勤精進 と声聞・陪支仏乗を求める者はただ自利のみであることが示されており、これらによって曇驚が声聞は自利にして ︵ ﹁ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 四 一 上 ︶ 大慈悲を障、っと述べたことが理解できる。 ︵ 3 ︶﹁無顧悪人破一他勝徳﹂ について 五 善 人ノ啓 業 巴 者 l 略手吾 説ク人 主 主

人ノ色

﹁悪人の業﹂を一不す丈が典拠と考えられる。すなわち、 シ ニ ク ス ヲ ノ ラ チ ニ ム ヲ セ 白住二善利亦能利 ν 。 悪 人 業 者 。 白 陥 一 一 衰 悩 一 令 一 人 衰 悩 寸 ︵ ﹃ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 五 六 上 ︶ とあり、﹁悪人の業﹂は、自ら衰悩に陥るだけでなく、他人をも衰悩させてしまうことが一不されている。 ︵ 4 ︶ ﹁ 顛 倒 善 果 能 壊 一 賛 行 一 ﹂ について λごド

主的

呈 法

行ズ巴

j去 l

即チ 説ク

ク ヲ ニ ラ ヒ ヲ フ ノ ヲ 説 一 一 異 論 故 自 失 レ 利 亦 失 一 他 利 。 ︵ ﹃ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 五 三 上 ︶ とあるのが典拠であると考えられる。布施の中で、法施が最もすばらしいものであるが、不知日者が行じた場合、異 論を説いてしまうため、自分だけでなく他人の利も失すると述べる。 ニ リ ソ ノ ハ チ ン キ ニ ガ ラ ノ 章陀経中有四顛倒。︵中略︶顛倒則無レ実。無レ実一ぷ何有寂滅。 また顛倒の善果とは、﹁難一切智人品﹂に、 ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 七 五 下 | 七 六 上 ︶ と一不されるものによったものであると考えられる。﹃論註﹂ では﹁真実功徳相﹂の説明において、凡夫人天の諸善、 呆報は顛倒、虚偽であることを一不し、不実功徳であると述べる。﹃十住論﹄で﹁顛倒はすなわち実無し﹂と説かれ ている内容とも共通している。

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ニ ン テ シ ヲ ソ コ ? 5 ︶ ﹁ 唯 是 自 力 無 他 力 持 ﹂ について ﹂ れ は ﹁ 十 住 論 ﹄ の中からの具体的な出拠を見出すことができない。他力という語は ﹃ 十 住 論 ﹂ の中にみられる が、その丈では財物がなくても他人によって施与されることを示したものであり、内容が異なる。これは先学が ﹁易行品﹂全体の内容を、つけたものであると指摘するように、信方便易行を開顕し、五濁の世、無仏の時は自力に よることが難であると示したと理解するのが穏当であろう。 一 一 I l l i − − 一 、 易 行 道 に つ い て ﹁ 論 註 ﹄ においての易行道についての説示を見てみると、 ク ノ ヲ ズ ト ニ ン テ ニ チ ヲ ノ ノ ニ 易 行 道 者 、 謂 但 以 二 信 仏 因 縁 一 願 レ 生 一 一 浄 土 イ 乗 二 仏 願 力 一 便 得 三 往 一 生 彼 清 浄 土 4 ハ チ ナ リ パ シ ニ ズ レ パ ニ チ ガ 定即是阿団地蹴致。警如水路乗レ船則楽イ シ テ チ ル ニ 仏力住持即入二大乗正定之緊 J 正 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 二 七 九 ︶ と あ る 。 ﹃ 十 住 論 ﹄ ﹁ 易 行 品 ﹂ で は 、 シ ズ セ パ カ ン ト ノ ヲ ニ ク ヲ ニ リ ノ シ ノ ニ リ リ 汝若必欲 ν 一 此 方 便 一 今 当 レ 説 レ 之 。 仏 法 有 一 一 無 量 門 イ 如 世 間 道 有 レ 難 有 レ 易 。 モ ン ノ ハ リ ハ リ テ ヲ ニ ク ル ニ 菩薩道亦如 ν是。成有二勤行精進 J 或 有 下 以 二 信 方 便 一 易 行 疾 至 二 阿 惟 越 致 一 者 団 ノ ハ チ シ ク ノ ハ チ シ キ ガ 陸道歩行則苦、水道乗船則楽ぺ ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 四 一 中 ︶ と示される。﹃論註﹄において易行道は、浄土に願生し、彼の土に生まれ、大乗正定緊に入るという構造である。 これは﹁信方便易行をもって疾く阿惟越致に至る﹂道が、信仏因縁、乗仏願力、仏力住持という、阿弥陀仏の本願 力にもとづくものであり、その成就でありはたらきそのものを浄土に約して理解しているからである。この浄土に 往生するための行法が﹃浄土論﹂に説かれる道であり、曇鷲はこれを﹁上街之極致不退之風航﹂と讃えるのである。 ﹃十住論﹄は続けて十方の諸仏の名をあげ諸仏を念じ、その名号を称え憶念することによって不退転を得ること を示す。また特に、 ﹃往生論註﹂における﹃十住昆婆沙論﹄の受容

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阿 弥

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陀韮

仏 ノ 論 本

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註 厚具、

如シピ

E

卜 { 主 昆 婆 j少 ヨ& ロ聞 の ,§ ム〈一 行 主 ヲ 廿 二 五 四 ︵ ﹁ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 四 三 上 ︶ と、阿弥陀仏の本願について一不されることから、﹁易行品﹂一品が弥陀に限定されていると理解されることが多か った。しかしこのような理解については、﹃十住論﹂全体を通して﹁易行品﹂の位置づけを検討するべきであり、 再 考 を 要 す る 。

の思想的受容 一 一 一 I l e a − 如 来 の 家 先 に ﹁ 序 品 ﹂ の 説 一 不 を も と に ﹃ 十 住 論 ﹂ の一不す菩薩道とは、諸仏の成仏道を自ら歩むことにより、六道輪廻の衆 生とともに成仏しようとするものであると述べた。これを具体的に表しているのが﹁如来の家﹂である。如来の家 とは仏の家を指す。諸の如来はここから生まれるから﹁家﹂というのである。﹁家﹂とは、 ズ ル ガ ニ ケ テ ス ト ス ル ガ ニ ク 卜 生 故 名 為 レ 父 養 育 故 名 レ 母 テ ヲ ス i 一切世間以父母為レ家。 ︵ ﹃ 大 正 ﹄ 二 六 ・ 二 五 中 ︶ と一ぶされる。先述したが﹁十住論﹄では如来の家は具体的には初地を指している。菩薩が初地に入れば、そこで養 育され、子供が成長するように十地を登っていくからである c ﹃論註﹄で如来の家は、仏の三業功徳成就の後に キ ノ マ ツ レ ノ ノ ヲ ノ ノ ノ テ ヲ リ テ ノ ニ ジ テ ノ ヲ 如レ是等衆生見阿弥陀如来相好光明身一者、如レ上種種身業繋縛皆得一解脱、入一如来家一畢寛得一平等身業。 ノ ノ ヲ キ ノ ノ ノ ノ テ ヲ リ テ ノ ニ ン テ ノ ヲ ︵中略︶間一阿弥陀如来至徳名号説法音声、如レ上種種口業繋縛皆得解脱、入如来家畢寛得平等口業。 ︵ 中

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入リ略

如回一

来ノ主ノ

畢 若 ン 寛ジ遇ヒ

得 阿

平 弥

等ノ陀 責 如

等ノ 光 ハ カ パ ノ ノ ヲ 若聞一阿弥陀如来平等意業、 ノ テ ヲ 是等衆生如レ上種種意業繋縛皆得一解脱、 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ ・ 三 三

O

︶ と一不される。ここでは阿弥陀如来の清浄なる身口意の三業によって、衆生は身口意の三業の繋縛から解脱し、如来 の家に入りて畢克じて平等の三業を得ることが明かされている。二ー一の ︵4 ︶ で示したように、﹁如来の家﹂に ついて先行研究では﹁入初地品﹂を引用しているが、筆者は﹁釈願品﹂によっていると考えたい。ここで曇驚のい う如来の家は、﹃十住論﹂ の説示を、つけて初地に入ることであると見ることもできるが、﹁論註﹄全体から考えると、 阿弥陀仏の浄土を指していると理解すべきである。不虚作住持功徳成就の後に、﹃浄土論﹄の セ パ ノ ヲ ノ ン テ シ テ ヲ ノ ノ ノ ン テ ジ ク ル ガ ヲ ナ リ 即見二彼仏一未証浄心菩薩畢寛得二証平等法身 J 与二浄心菩薩与一一上地諸菩薩一畢寛同得二寂滅平等一故。 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ −

) を 解 釈 し 、 ノ テ ム ︸ ニ チ マ ツ ル ヲ 此菩薩願レ生二安楽浄土−即見一阿弥陀仏ベ 見y 阿 弥 陀

時 与 − 上 地 諸 菩 薩 、 畢 寛 身 等 法 等 ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹄ −

) と、未証浄心の菩薩が願って安楽浄土に生まれて阿弥陀仏を見たてまつれば、土地の諸菩薩と畢寛じて身等しく、 法等しくなることが示されている。そして設問して、 ン パ チ ラ ヲ チ テ カ フ ト レ パ ニ テ ク シ テ ニ ニ カ ル ゾ リ ニ ム ヤ ノ ン ト 問日。若不二即等、復何待言二菩薩寸但登一一初地一以漸増進自然当二与レ仏等 J 何 仮 言 下 与 二 上 地 菩 薩 一 等 日 ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹂ と問う。それに答えて菩薩が初地に登れば、漸々に増進して、 ついに仏になると一不されている。この内容はすでに 確認したように﹁十住論﹂﹁序品﹂などで説かれているものと共通する。それならばなぜ初地の菩薩ではなく八地以 上の菩薩と身等しく、法等しくなるのかと問う。これに対して浄土においては七地沈空の難がないからであると答 ﹁往生論註﹄における﹃十住毘婆沙論﹂の受容 二 五 五

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﹁往生論註﹄における﹃十住毘婆沙論﹄の受容 二 五 六 える。﹃論註﹂において如来の家は阿弥陀仏の浄土であると理解されている。上地の菩薩と等しいというのは、菩 薩には七地沈空の難があり、これに陥れば仏道を捨てて無余浬繋を願うようになるからである。これでは声聞とか わらないのであって、もし浄土に往生して阿弥陀仏を見たてまつれば、この難がないことを述べる。この箇所は ﹁ 易 行 品 ﹂ の は じ め に 一 不 さ れ る 菩 薩 の 死 に も と a ついて記述されている。さらに続けて ﹁ 無 量 寿 経 ﹄ の第二十二願に もとづいて、十地を廃する。つまり、 フ ハ ノ テ ニ ノ ノ ハ ゾ ズ ク ナ ラ ン 言 一 一 十 地 階 次 一 者 、 是 釈 迦 如 来 於 二 閤 浮 提 − 二 応 化 道 耳 。 他 方 浄 土 何 必 如 レ 此 。 と、菩薩の十地は釈尊の閤浮提における衆生教化の方法であり、浄土においても同じである必要はないと一不すので ある。これを﹃論註﹂冒頭において仏道を難行道と易行道に分け、 ク ノ ヲ ズ ト ニ ジ テ ニ チ ヲ ノ ノ ニ シ テ チ ル ニ 易行道者、謂但以一信仏因縁願レ生一浄土。乗一仏願力一使得三往一生彼清浄土サ仏力住持即入二大乗正定之緊、正 チ ナ リ 定 即 是 阿 見 蹴 致 。 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ −

) ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 二 七 九 ︶ と、易行道は浄土往生の道であると、先に明かすのである。信仏の因縁によって阿弥陀仏の家、 つまり浄土に生ま れることが易行道なのであり、阿弥陀仏の家に生まれたから、仏力住持され、すなわち大乗正定緊に入るのである。 ﹁家﹂であるから、養育され、必ず仏果に至る。これが信方便の易行であり、この往生行が ﹃ 浄 土 論 ﹄ に 説 か れ て いると曇鷲は理解したのである。 一 一 一 l e a −二、仏三業功徳成就について 如 一 生 ズ 来 切

3

の 世 故 ニ 家 間ハ名ヶを 以テ世テ解 ~ 7

2

時 ヲ る 為 ス 養 中 ¢. 育スで 方、i ガ

母}と は ︵ ﹁ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 二 五 中 ︶

(20)

と 一 不 さ れ た 。 この父母の誓えに般舟三味を父とすると示されている。般舟三昧は、 ヲ ク ト ハ 一 ナ ノ ヲ モ ダ ヲ ク ル ル コ l ヲ ヲ 般舟三昧名二見諸仏現前寸菩薩得一是大宝一二昧べ難レ未レ得天眼天耳而能得レ見一十方諸仏。 ヲ 法 。 ク ノ 亦聞一諸仏所説経 ︵ ﹁ 大 正 ﹄ 二六・六八下 と 示 さ れ 、 いまだ天眼・天耳を得ていなくても仏を見ることができると説かれる。仏を見るということについては ﹁ 釈 願 品 ﹂ に お い て 、 ニ ル ル コ ト ヲ ニ リ テ ル コ ト ヲ チ ス ニ 見時得レ入二必定一者。有衆生見 v 仏即住一阿蒋多羅三貌三菩提阿惟越致地口 ニ ク チ ニ ル ニ 実相サ能直入二阿綜多羅三貌三菩提必定地イ テ ノ ノ ヲ ス ︵中略︶以一是三昧力通達諸法 ︵ ﹁ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 三 二 下 ︶ とも一不される。見仏によって必定に入る。見仏によって一一一味を得て、 三味によって諸法実相に通達して必定に入る のである。これは﹁論註﹄で観察門を此彼二土に配し、 レ パ ヲ ノ ニ マ ツ ル ヲ ノ ジ テ ス ヲ ノ 亦 得 レ 生 二 彼 浄 土 J 即見一阿弥陀仏イ未証浄心菩薩、畢克得二証平等法身。与一浄心菩薩一与一上地菩薩 J 畢克 ジ ク ヲ 同得一寂滅平等 4 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 一 二 一 六 ︶ と述べる内容と一致する。また巻下でも未証浄心の菩薩について述べ、浄土に往生して阿弥陀仏を見たてまつるこ とによって、未証浄心の菩薩が浄心・上地の菩薩と畢寛じて身等しく法等しくなることが説かれる根拠と言える。 こ れ は 、 キ ノ マ ツ レ ノ ノ ヲ 如レ是等衆生見一阿弥陀如来相好光明身一者、 ノ ノ ノ テ ヲ 如レ上種種身業繋縛皆得二解脱 J リ テ ノ ニ ジ テ ノ ヲ 入一如来家一畢克得一平等身業 4 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ − 三 三

O

︶ と、仏の身業功徳成就によって、衆生の身業の繋縛が解脱されることも同様である。 さ 聞キら

メV = 『 ?コヲ十 入ル住

必童

者 続 。 け 仏ニて 有リ

願 ン ケ パ ヲ チ ル ニ 若 聞 一 我 名 一 者 即 入 一 必 定 ﹂ ク ル ヲ ク モ シ ノ 如 レ 見 レ 仏 間 亦 如 レ 是 。 ︵ ﹁ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 一 一 一 二 下 ︶ ﹃往生論註﹄における﹁十住毘婆沙論﹄の受容

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﹁往生論註﹄における﹃十住毘婆沙論﹄の受容 二 五 八 と、聞名によって必定に入ることを示す。これも仏の口業功徳成就によって、衆生の口業の繋縛が解脱を得ること を一不す丈と、内容的に一致する。そして残り仏の心業功徳成就であるが、これも、 ハ レ エ ス ン チ エ ケ レ ド モ ノ テ ノ ヲ レ パ ノ ニ チ 光明触レ身苦悩皆減者。若衆生堕二地獄畜生餓鬼非人之中 J 多一諸苦悩イ以一一仏本願神通之力光触一其身一即得 ル ル コ ト ヲ ヲ レ 離 レ 苦 。 ︵ ﹃ 大 正 ﹂ 二 六 ・ 二 一 三 上 ︶ にもとやついていると考えることができる。仏の心業︵意業︶を光明とする点が共通している。先に仏の三業功徳成 就の典拠を先行研究のように﹁入初地品﹂ではなく﹁釈願品﹂を典拠としていると考えたいと述べた。それはこの ような文の共通点が指摘できるからである。 一一|一でも述べたが、﹁大知日度論﹄においては諸仏について説かれる内容を、﹃論註﹂に引用する際、阿弥陀仏に 限定するように解釈している。この ﹃十住論﹄についてもそれと同じ態度であると考えられる。これら ﹃ 十 住 論 ﹄ の文は諸仏の浄土の相を説く中、仏の功徳力についての解説であるが、﹃論註﹄ では阿弥陀仏のすがたを見、名を 聞き、光明に触れることで繋縛を解脱することができる、と理解されているといえる。 以上のように、この仏の三業荘厳功徳成就についての曇驚の解釈は、﹁十住論﹄﹁釈願品﹂にもとづきながら記述 され、諸仏通途の内容を阿弥陀仏に限定するように受容したと考えられる。 結 ぴ ﹁ 論 註 ﹄ に お い て ﹃十住論﹂は直接の引文というよりも、そこに説かれている思想内容を広く受容したものであ っ た 。 ま た ﹃大智度論﹂と同じように諸仏に通じる内容を阿弥陀一仏に限定するような表現によって、﹁論註﹄独 自の思想を展開しているといえる。

(22)

住 論 ﹂ 特に影響を受けていると考えられるのは、従来指摘されているように﹁易行口巴であることは間違いない。﹁十 の信方便の易行によって速やかに阿惟越致に至るという構造を用い、信方便の易行を仏力によるものである と理解し、阿弥陀仏の浄土に往生する行であると明らかにしたのである。 今回は先行研究で典拠として指摘されている箇所の再検討、および﹁論註﹂冒頭の出拠の検討を中心に行ったた め、新たに共通点や典拠と思われる箇所の指摘が十分でなかった。今後継続して、﹃十住論﹄と ﹃ 論 註 ﹄ の比較研 究を行いたいと思う。 小論は、平成二十二年度山内慶華財団の援助による研究成果の一部である。執筆にあたり、この場をかりで関係 者に甚深の謝意を表したい。 註 ︵ l ︶ ︵ 2 ︶ ︵ 3 ︶ ︵4 ︶ ︵ 5 ︶ 幡谷明﹃曇驚教学の研究﹄︿出典篇﹀同朋出版社一九八九年 武田龍精編﹁往生論註出典の研究﹄永田文昌堂一一 00 八 年 他 に は ﹃ 妙 法 蓮 華 経 玄 賛 ﹄ ﹃ 安 楽 集 ﹂ ﹁ 選 択 伝 弘 決 疑 紗 ﹄ な ど に 見 ら れ る 。 七地以前の未証浄心の菩薩は、浄土において阿弥陀仏を見れば、八地以上の金口薩と身等しく法等しくなるとある。 また曇鷲は菩薩の十地を﹁釈迦如来の閤浮提における一の応化道﹂であり、浄土では超越の理があるという。 ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 二 二 二 三 | 三 三 三 の 内 容 ︶ 又如瀧頂王子初生之時具三十一一相。即為七宝所属。難未能為転輪王事亦名転輪王。以其必為転輪王故。彼諸人天 亦 復 如 是 。 皆 入 大 乗 正 定 之 索 。 ︵ 大 正 二 五 ・ 六 一 九 上 ︶ ﹃ 十 住 論 ﹄ ﹁ 入 初 地 口 問 ﹂ に ﹁ 諸 菩 薩 以 是 十 地 来 至 阿 梼 多 羅 三 貌 三 菩 提 故 名 為 如 来 。 ﹂ ︵ 大 正 二 六 ・ 二 五 上 ︶ と あ る 。 また、他の論や﹃十住論﹄でも別の箇所を典拠とした方がよいのではないかと思われる点も見られた。 渓英俊﹁曇鴛浄土教の研究||﹃論註﹄における﹁大智度論﹄の思想的受容||﹂︵﹁龍谷大学大学院文学研究科 紀 要 ﹄ 三 O 二 O O 八年︶六五頁 例 え ば ﹃ 大 知 日 度 論 ﹄ で ﹁ 仏 道 之 根 本 ﹂ と さ れ る 箇 所 が 、 ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶ ︵ 8 ︶ ︵ 9 ︶ ﹃ 論 註 ﹄ で は ﹁ 浄 土 之 根 ﹂ と 示 さ れ て い る 。 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ に お け る ﹁ 十 住 毘 婆 沙 論 ﹄ の 受 容 二 五 九

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﹃ 往 生 論 註 ﹄ に お け る ﹃ 十 住 毘 婆 沙 論 ﹂ の 受 容 二 六 O ︵ 叩 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ ロ ︶ ︵ 日 ︶︵凶︶ 僻支仏難仏法中種因縁。無仏時白能得道。︵大正二五・五六四上︶ ﹁ 真 夏 全 ﹄ 一 ・ 一 一 八 四 ﹁ 十 住 見 婆 沙 論 ﹄ ﹁ 地 相 口 叩 ﹂ ︵ 大 正 二 六 ・ 一 一 七 上 ︶ 香月院深励﹃浄土論註講義﹄六九頁 例えば﹁﹃論﹄の顕丈は諸仏に通ずる易行道には相違なけれども、今驚師は弥陀一仏に限りて易行道を宣ふ故、 此下に述べる所は﹃大経﹄の第十八願成就の文並びに第十一願成就の文に依て弥陀別途の易行道を明かし給へ り o ﹂︵香月院深励﹃浄土論註講義﹄七一頁︶と説明される。 参考文献 ・香月院深励﹃浄土論註講義﹄法戒館一九七三年 −武邑尚邦﹁十件毘婆沙論研究﹄百華苑一九七九年 −幡谷明冨吾川教学の研究﹄︿出典篇﹀同朋出版社一九八九年 ・ 新 国 訳 大 蔵 経 ﹃ 十 住 毘 婆 沙 論 ﹄ I − H 大蔵出版一九九四年 ・武田龍精編﹃往生論註出典の研究﹄永田文昌堂二 OO 八年

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