第
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7
号
教化と教学
講 演 生きる姿勢としての教学と教化 本願と真宗 一一一教学に基づく教化の開発を求めて 研究発表 清沢と学問 「首拐厳経』の漢訳とその受容 仏教における教化の課題 親鷲の菩提,L
、観 浄土の大菩提,心 親驚三百凪忌の歴史的意義 真宗教学学会講演会一歴史のなかの親鷺ー 親驚と女性 尊号真像銘文の性格 2005年度教学大会発表要骨2
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真 宗 教 学 学
ISSN 1346-2156 中 西 智 海 1 小 JII 乗 19 田 村 晃 徳 37 釆 畢 晃 50 茨 田 通 俊 65 藤 間 哲 祐 76 安 藤 弥 90 西 口 順 子 107 名 畑 ,,6.. Z三 崇 120 139講演 真宗大谷派教学大会 二
OO
五 年 度生きる姿勢としての教学と教化
生きる姿勢としての教学と教化 このたび大谷派の教学大会という、大変権威ある大会 に、はからずもご縁をいただきまして、大変恐縮をして いる次第でございます。正直言って後ほどの小川一乗先 生のお話を聞きに来たのです。その前に時間を与えて何 か言えと言われでも、本当はそんな時間はもったいなさ すぎて、どうしたことかと思っている訳であります。そ ういうことでレジュメも出しておりますが、全く私のい わば感想文で、あるいは日頃、お育ていただいた方の言 葉を復習しながら、今、遅々として歩いております途中 の、気持ちを正直に申し上げたいという、そういうスタ イルであることを、初めにお断りしておきたいと思うこ と で ご ざ い ま す 。中
西
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それでは、少しレジュメに基づいて申し上げたいと思 います。はじめに、私の気持ちを整えるために書いてお ります。﹁生きる姿勢としての教学と教化﹂という題を出 させていただいたことですが、どういう姿勢があるのか ということであります。第一点は﹁仏教・真宗において、 現実をふまえていない思考は戯論である。﹂この言葉は、 私は東京大学の藤秀理という、﹃歎異抄﹄の本をお書き になっている先生に習った言葉です。改めて、﹃仏教学 辞典﹄という、大谷派から出た大変権威のある辞典があ ります。それは非常によい辞典ですが、それを見てみま す と 、 ﹁ ︵ 党 ︶ プ ラ パ ン チ ャ 宮 山 宮 山 口 同 の 訳 。 正 し く な い 無益な言論。﹂と書いてありまして、﹁戯論﹂ということ2 は非常に難しい字ですけど、それがあまり一般の辞典に は書いてないような発音でございますが、これは﹃仏教 学辞典﹄には正確に書いてありますので、使わせていた だきましたし、今申しました藤秀理氏の言葉として私は 習ってきて、いつでも胸に置いておる言葉でございます。 ﹁仏教・真宗において、現実をふまえていない思考は戯 論であるよという言葉であります。第二点目は、﹁仏 教・真宗の出発点は現実の正見﹂、正しく見る。現実と いうと抽象的になりますので、時代・社会と人間という ことでしょうし、伝統的な言葉で言えば時・機、浄土教 は時機相応の教えであるということを習うてきましたの で、それに当てはめただけのことでありまして、新しい ことを言ったつもりはございません。そういう意味で、 どこまでも時代と人間のあり様を正しく見る、何か仏教 学 の 一 ペ ー ジ み た い な こ と を 一 一 言 い ま す が 、 正 見 と い う 、 正しく見ると言いましでもね、一般の人は科学的に正し いんですかとか、法律的に正しいんですかとか、倫理的 に一止しいんですか、とかね。仏教で正見というのは、や はり邪見という言葉に対する概念であるということは、 やはり押さえておく必要はあると思いますので。その邪 見の﹁邪﹂とは何かと言えば、これはやはりセルフセン タ
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、自我中心、まあ自己中心という訳の先生もおられ ますが、私はこの場合は、自我中心性と訳すべきだと思 っております。自我中心性からの見解というものが邪見 である。したがって仏教での正見という意味は、深い意 味を持っておると思います。それから次の﹁念仏は人生 への姿勢を教えるもの﹂、これは私の聞き覚えなんです が、金子大柴先生から聞いた言葉であります。以上三つ の点を並べましたが、第一番目は東大の藤秀理氏の言葉 であります。三番目は金子先生の言葉でありまして、私 にはそういう意味で本当にありがたい言葉だと今でも思 っておることでございます。さて本日与えられました ﹁ 教 学 と 教 化 ﹂ 、 承 り ま す と 一 一 一 年 目 の テl
マで、先生方 はもうすでに色々と考えておられるところでありまして、 その概念規定も大変色々な先生から、きちっとした衣場 がありましょうが、まあ私も重なるかとも思いますけれ ど、二応﹁教学﹂とは教法、つまり真宗の思惟化のいと なみという規定をしてみたいと思っております。あえて ﹁思惟﹂と一言ったのには、特別な意味はございませんが、 ﹁思惟﹂という単語、先程の﹁戯論﹂じゃないですけど、 ﹁戯論﹂というような言葉は普通一般の辞典にはあまり その意味は出てきません。最初の﹁戯論﹂というのは、生きる姿勢としての教学と教化 党 語 の プ ラ パ ン チ ャ ︵ 司 片 山 宮 町 内 向 ︶ の 訳 で す か ら 、 仏教語で﹁正しくない無益な言論﹂を指すと。同じよう に﹁思惟﹂という言葉をあえて使いました。これは考え、 思うこととか思索でいいんですけれど。仏教語で﹁思 惟﹂という言葉の発音がありますので、ここは﹁しゅ い﹂と読ませていただきます。これは哲学でありますと、 これは論理的に思考するという概念規定がありますが、 あえて宗教にあるのかどうか、私には分かりませんので、 勝手な言い方ですけれども、﹁すなわち、教法・真宗の 普遍性・論理性・実動性を聞思するいとなみである﹂と。 こういう言い方をさせていただきました。皆さんの中に はご意見があろうかと思いまして、そこへ﹁聞思﹂を持 ってくるのかと、言われるかもしれませんが、お許しを いただいて、また後ほどご質問でもあればと思います。 問題は私の申してみたいことは、教学をする教学者、あ るいは﹁開思﹂をする教学者の姿勢というものに、やは り据わりを置きたいと思うわけであります。聞思する教 学者の姿勢は、同朋として、あるいは共同体・教団の責 任者として開思することであります。何を言いたいのか と思われたかも知れませんが、やはり教学者というのは、 共同体・教団の責任の一員という自覚がなければならな こ れ は 3 いのではないかと思うわけであります。飛躍した論理で あ り ま す が 、 次 に ﹁ ト 方 衆 生 ﹂ と ﹁ 親 印 刷 鳥 一 人 ﹂ と い う 、 これは私のどうしても申しておきたいところであります。 思い出させていただきますと、私は親驚批判を書いた本 を読んだことがあります。そこには、親驚聖人の罪業観 とか人間観というものは、世界的に見て、厳しい思索の 点は非常にいいけれども、結局は﹁親鴛一人﹂と書いて あるので、結局は﹁親驚一人﹂の救いを言、っているのだ と。だから甚だ個の立場と言いますか、はっきり言えば、 社会性がないと。世界性がないという意味の批判書であ りました。若い時ですから、﹁ちょっと待てよ、親驚聖 人の仰っているのはそんな意味か﹂と。たしかに﹁弥陀 の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鷲聖人 一人がためなりけり o ﹂﹁親驚一人﹂じゃないか、という ことであります。しかしですね、あの言葉は、先生方に はここで何も講義する必要もありませんけれども、主語 は﹁弥陀の五劫思惟の願﹂なんですよね。﹁弥陀の五劫 思惟の願﹂というのは誰のための願だったのですか。 ﹁十方衆生﹂のための願でしょ。十方衆生一人も残らず、 我と同じ仏にしたいという長い思惟と実践の言葉じゃな いか。そうすると、本願の対象というのは十方衆生に喚
びかけられた、その十方衆生に喚びかけられた本願、 まり一人も漏らさぬ普遍の願いであればこそ、この特殊 な親驚が救われていくと。このような特殊な自分が救わ れていくのであるから、一人も漏らさぬという普遍の願 であることの証︵あかし︶ではないかと。両方喜ばれた のではないですか。もうちょっと言いますと、僧でもな い僧、﹁非僧非俗﹂をどう解釈するかも問題ですが、何 か半僧半俗みたいなことを言って何か通過している人も いますけど、﹁非僧非俗﹂の﹁非﹂というのは、やはり ﹁僧にあらず﹂ですから。﹁僧にあらず俗にあらず﹂と いうんですね。だから﹁非︵あらずにという字は、これ は小川先生に聞いていただいた方がいいのですけども、 ﹁非︵あらず︶﹂とか﹁不﹂という言葉は、あれは﹁超 ︵こえること訳してもらわないと間違います。﹁非僧非 俗﹂だから僧でもない俗でもない、俗でもなけりゃ僧で もない、まあ権力の下ではそうではなかったかとか、何 か同じ次元で言、っているけれど、そうじゃなくて僧とか 俗とかという枠の中にある人閉じゃないわけでしょ。一 個の人間として弥陀の本願に真向きになった人間として 立った一人の親鷲でしょ。勝手な言い方ですけれども、 十方衆生漏れなく、普遍の願いであればこそ、 4 この特殊 て コ な親驚が救われていく。この特殊な親驚が救われていく 道は、五濁悪世の十方衆生は必ず救われていく道だった とよろこんだ、そういう押さえがなければ何の意味もな い。若い時に読んだ親驚批判、社会性がない、世界性が ないといわれたが、どこを読んでいるのか。全然受けと め方が違うということです。 宗教とは主体を通さないものは宗教ではありませんか ら、自身というものは抜きにされませんけれども、しか し宗教は私的なもので終わるものではないでしょ。私的 なもので終わるものは宗教ではありません。 次に教学者にとって、いま、ひとつ留意すべきことが らは、教法の思惟化すなわち教学はそのまま信心そのも のではない。これは先生方に今更言うことではありませ んが、どういう謂われがあるのかということであります から、これは先生方ご承知の﹃歎異抄﹄の十二章でいい んではないかと思っております。真宗の宗教的生命の中 心は﹁本願を信じ、念仏をもうさば仏になる o ﹂ ︵ ﹁ 歎 異 抄﹂第十二章︶これはもう金子大築先生が岩波書店から 出された﹁歎異抄﹂の教義の解説の所に、この言葉によ って真宗概説全部書いてあられる。私は若い時から、や はりありがたいと思っておりました。ですから学問との
生きる姿勢としての教学と教化 関係は、﹁いかにもいかにも学問して、本願のむねをし るべきなり o ﹂と、﹃歎異抄﹄の第十二章は言っておりま すので、これ以上の説明を加えなくても、学問と信心と いう世界のあり様はもうこれで何も言うことはないので は な い で す か 。 次に﹁教化﹂とは大谷派では﹁きょうか﹂という発音 をされますが、﹁教化﹂とは、教法・真宗の具現化・社 会化のいとなみと一応了解したい。﹁具現化﹂という言 葉もね、本願寺派でもよく使いますけれど、改めて私は ﹁具現化﹂というのは、どういう日本語かと思って、辞 典を繰りましたら、﹁形にはっきり現れること。﹂と書い てありました。大変単純な言葉遣いですけれども、いず れにしても教法・真宗の現実のはたらくすがた、あるい はもう一つ言えば先ほど言いました、教法というものは、 単なる私的なもので終わるものではなかろう。そうかと 言って主体性を無視するようなことではない。そこは注 意して真宗の具現化・社会化のいとなみである。﹁教団﹂ というものも、ある意味で教法の社会化の組織というも のでなければ教団ではない。この点も大谷派のほうが私 はその路線が走っていると思いますので、敬意を表しな がら、現実を考えさせていただいたことであります。 5 そこで教化の内容ですが、二応はですね、中村元先生 の﹃仏教語大辞典﹂によりますと、これもまあポピュ ラーなものですけれど、﹁教化とは﹃きょうけ﹄あるい は﹃きょうげ﹄ともよむ。教え導く。人を教えさとし、 苦しむ者を安んじ、疑う者を信に入らせ、あやまてる人 を正しい道に帰せしむること。教導感化の略。﹂これが 中村一冗先生の﹁仏教語辞典﹂の説明であります。一般的 な説明ではありますが、そういうことでしょう。一応概 念はそれにおまかせいたします。が、問題はその次の、 ﹁教法・真宗の具現化・社会化のいとなみをする者の姿 勢である﹂と。さきほどの教学者と同じように、ここで も同朋として、共同体・教団の責任者としての姿勢でな ければならない。何を言いたいのかといいますと、教化 する者が教化者意識とか指導者意識というものでやろう とすることは、これは最も危険であります。指導者意識 あるいは教化者意識という意識、これは問題であります。 いつも開法者、あるいは開法者の立場、聴聞する人の立 場、あるいは問いを起こす質問の側に立つ、その座にす われるかどうかが問題です。反対になったら切れてしま う。それでやわらかい言葉なんですが、皆さんどれだけ ﹁伝える﹂、﹁伝える﹂と言って力んでみてもね、﹁伝わ
6 らない﹂現実は見えないのかと。ここに問題はないのか。 ﹁教学と教化において伝えよう、伝えることが大事です、 伝道教団である﹂と。私の本願寺派では伝道教団という ことを言う。教団は伝道教団であると。その場合に﹁伝 える﹂、どうしたら﹁伝える﹂ことができるかと。そう じゃなくて﹁伝わる﹂ようないとなみがどこにあるのか。 これは答えじゃなくて、皆さんと一緒に、私はこれをい つも課題にしていきたいと思っております。﹁伝える﹂ という意識があっても、﹁伝わらない﹂という現場があ るということであると。で、このことについては後ほど ﹁教学﹂と﹁教化﹂について考えてみたいと思います。 ところで﹁教学と教化﹂についてはいろいろな議論の あ る 所 で あ り ま す 。 私 も 二 、 一 一 . 大 谷 派 の 先 生 の 立 派 な 本 を読ませていただきました。色々な論が書いてありまし た。要は大変ありふれた整理ではありますが、これもや はり﹁教学と教化﹂というのは、算数のイコールという 訳には、概念的にも落ち着かないような気がいたしまし て、それではどういうことになるのかということですか ら、要は教学つまり教法・真宗の思惟のない教化・伝道、 つまり具現化・社会化というものは成り立たないと。そ れはそうですね。例えば説教をしようとしても教学のな い説教は感想文です。そうかと言って、伝道にならない、 教化にならない教学のいとなみというものは、やはり反 省なり、転換すべきことを自覚するということでなけれ ばならないのではないか。最初に言いましたが、﹁仏 教・真宗において、現実をふまえていない思考は戯論で ある o ﹂というんですから。キリスト教の先生の本も読 んでみましたけど、やはり神学もそういうもので、説法 にならない神学というものの反省をいつも繰り返してい るように思われます。両者は相応的であり、むしろ循環 的である。いつもそこには省みるという運動態がなけれ ばならない。教学するものは、教化にならない教学のい となみを、やはり問い直してみる。逆に、どんなに巧み な言葉でどんなに人を揺さぶろうとしても、教学のない 教化というものはそれは本来的な教化ではない。そうい うことの厳しさと反省と循環的な運動態であるというぐ らいの、包括的・弾力的な思考というものは、実際問題 としてなかなか難しいところでありますけれども、一つ の責任の論理として、姿勢のなかに付け加えておきたい。 そんなことを思っておることであります。 次に﹁伝える﹂ことの難しさで、﹁伝わらない﹂現実 の中で、これからの﹁教学と教化﹂に対してどのような
生きる姿勢としての教学と教化 姿勢がありうるのかという問題を考えていきたいと思い ま す 。 ﹁ 生 き る 姿 勢 と し て の 教 学 ﹂ 0 これは金子大栄光生 の﹁念仏は人生の姿勢を教えるもの﹂という言葉から、 ﹁生きる姿勢﹂という言葉を出させていただききました。 念仏はあげものか、唱えものかと言うことです。﹁念仏 は人生の姿勢を教えるもの﹂だ c これはすごい言葉だと 思いましてね。考えてみれば考えてみるほどなかなかこ れは含蓄のある言葉だなと思っております。そこで一つ の手がかりとして、現代という時代をどう押さえるかで ありますが、現代という時代の一つの流れというのは、 ﹁世俗化﹂の時代だという言葉が、これは洋の東西を問 わず、今の世界の趨勢だと言われます。ただ﹁世俗化﹂ という概念規定は非常に難しい。これはもう世界中の人 が言っているように、色々とあるのですけれど、これも 私は辞典ばかりを繰って、しかも難しい辞典ではなく、 一番簡単な﹃日本国語大辞典﹂というのがあって、繰っ てみたんですよ。﹁世俗化﹂という時代はね、学者も使 えば、評論家も使、つんだけど、結局何を言いたいのかね、 押さえは。こんな簡単な辞典ですけど。﹁宗教のもつ影 響力や特権が失われていく現象﹂少し具体的に言います とその次﹁宗教的思考に代わる科学的思考、政治・教 7 育・芸術と宗教の分離などをさすことが多い﹂。この辞 典も最後をぼやかしているようですけれどけど、辞典で さえもこんな書き方しかしてないわけであります。ただ 宗教のもつ影響力や特権が失われていくということであ ります。本願寺派のご門主のお話に﹁今の現実は、既成 教団の発言力が薄れてきた時代である o ﹂ と 。 一 般 に 、 これは既成教団の発言力が薄れたというのはどこからで てきたといいますと、﹁世俗化の時代だ﹂ということを 言っているのです。今、世界、東洋も西洋も一般的に宗 教的なことは、日本では皆さんご承知の通り、東京大学 の理学部、医学部と言ったって﹁宗教﹂の﹁宗﹂の字も 習っておりませんから。政治や経済や芸術はいっぱい習 っていても、宗教というたら全然わからない。宗教とい うのをきちっと概念的に習っているのは、おそらく私立 の宗門関係学校ぐらいですね。倫理社会にというような こと言いましでもね。私も調べてみましたけど、倫理社 会、日本仏教史で正しくおしえてはいない。そんなこと でありましてね。宗教というのは分からない。だから東 大の医学部、理学部を出て、筑波大学の医学部を出ても 宗教というたら、﹁あっそうかオウム真理教へ行こうか﹂ と。なぜかと言えば、﹁教祖様の言、つことさえ聞いてお
8 けば、あとは自由に研究ができて好きなことを研究させ てもらえる。金もくれるし﹂と。﹁宗教は教祖様のオウ ム真理教﹂これが宗教だと思っている。これはね、特殊 な若者だけではなくて、京都駅に行って﹁宗教とはなん ですか﹂とマイクを近づけて何人の人が答えますかね。 変なこと言いますけれども、答えられない。ところで私、 若い人をかばうわけじゃないけれどね、教えてないもの を答えよというのも無理ですよ。私の富山の田舎に行っ たらね、﹁住職、いっぺん田んぼの中に放り出してやる から、うまいコシヒカリ作ってみて﹂と言われて私は田 んぼに行って、右から足を入れて左の足も入れて、それ からどうしたらいいか分からない。うまいコシヒカリど ころではありません。全然教えてない者に答えろという のは無理です。私の現代人の押さえは、現代人というの は、答えとしての宗教的素養は希薄である、薄い。なぜ か。教えていないものを答えろというのは無理だ。それ なら全く宗教性がないのかと言えば、聞いとしての宗教 性は極めて豊かである。その問いとしての宗教性とは何 か。それが苦悩ですよ。人聞の苦痛と苦悩。 宗教というのは﹁心持ちの問題です﹂と言って泊々と している人はね、僕は間違いだと思いますよ。宗教とは 精神の問題といわれるとき、清沢満之先生が﹁精神主 義﹂とおっしゃったのは全然レベルが違いますわ。私の 言 い た い の は 、 心 持 ち だ け の 問 題 か と ニ 一 一 口 っ て い る の で す 。 宗教というのは心持ちだけの問題ですか。肉体は関係が ない、物質は関係がないと言うんですか。それでも最初 の﹁現実をふまえて﹂ということになりますか。三十何 度の体温をもって端いでおる人聞をつかまえて、宗教は 心持ちの問題です。いやあんまり力入れておるとね、 ﹁ 先 生 、
NHK
がせっかく﹃こころの時代﹄という番組 を作って、宗教を取り扱っておるのに、先生あれに反対、 無 意 味 だ と 一 三 一 口 、 つ ん で す か ﹂ と 。 あ れ は 、 そ れ ま で 科 学 、 科学、物質、物質ばかり言ってきたから、この辺で待て よと。﹁こころの時代﹂だ、物質の時代ではない﹁ここ ろの時代﹂だと言ったメッセージはあったと思う。だけ ど、今やもう次の段階に行ってもらわなければ困る。体 を無視、肉体を無視、物質を無視するのが宗教的いとな みかと言ったら違う。煩悩というのは﹁煩は、み︵身︶ をわずらわ﹂し、﹁悩は、こころをなやます﹂。身に悶え、 こころに悩みを持つ人聞が、信心を得たら﹁信心歓喜﹂、 ﹁歓はみ︵身︶をよろこばし、喜はこころをよろこばし む﹂。これは親驚聖人の解釈ですね。それでもこころだ生きる姿勢としての教学と教化 けの問題と言うのですか、宗教は。私は真宗者としては いけないと思います。そんなことを親鷲聖人は言われて いないでしょ。煩悩の煩は身をわずらわし、悩は心をな やます、それが信心歓喜、歓は身をよろこばし、喜は心 をよろこばしむ。そんなこと言ったら、﹁先生、﹁踊躍歓 喜﹂って、踊る宗教みたいになるんですか﹂と。そんな ことを言ってるのとは違いますよ。要は﹁歎異抄﹄の第 九章でね、﹁念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のここ ろおろそか﹂と。あれ、解説書で何と書いてあるかと言 ったらね、﹁念仏はもうさせていただいておりますが、 よろこびのこころとは起こらないものだ﹂いう解説が多 いですね。あれどうなっているんですかね。その次、 ﹁浄土にまいりたいこころも起こらないものです﹂と唯 円坊が質問したとなっとる。冗談じゃないですよ。あの 文章は﹁念仏もうし・:﹂は正しい念仏ですよ。専修念仏 の、ただ念仏の間違いない念仏をもうしておるけれども、 踊躍歓喜のこころ、﹁おろそか﹂であることが問題にな ったんですよ。違いますか。あのアクセントは﹁おろそ か﹂ですよ。よろこびは起こらないものです、なんてこ とを言っていたら信心歓喜なんていわないほうがいいで すね。成就丈の﹁信心﹂と﹁歓喜﹂は原語が同じ字だそ うです。どんなものでしょうかね。﹁おろそか﹂である ことが問題だ。浄土にまいりたくないじゃなくて、﹁い そぎ浄土へまいりたきこころ﹂。いそぐこころがない。 正しい信心の上からは必ず救われて仏になることはいた だいておるが、﹁今すぐいくか﹂と言われたら﹁とても ではないが、臨終の一念まで苦悩の旧里はすでがたい。﹂ 正定緊のよろこびは持っている。﹁おろそか﹂であるこ とを問題に。﹁いそぐこころ﹂のなきことが問題になる ということは、裏返しに一言いましょうか。嘗ては天にお どり地におどるほどよろこんだ体験の唯円であれば v ﹂ そ 、 ﹁おろそか﹂であることが問題になったんじゃないので すか。そうでないともったいないですよ、﹁歎異抄﹄は。 これはもう大谷派の先生が立派な﹁歎異抄﹄の本を書い ておられますからね、私が言、つことはないですけど、私 は大谷派に色々なことを教えてもらったから、今日皆さ んにご披露申しながら、私のありがたいところも付け加 えさせていただきたいと。 さて既成教団の力が衰えておるということは悪口では なくて、﹁世俗化﹂という現実を見なさいと。洋の東西 を問わず、宗教的なものが失われていく。その中に教育 されて、浸かっているじゃないかと。そうしてその次に
10 ﹁薄れていくような時代ですが、人間の苦悩はいよいよ 深まりつつある現実であることを見据えて真実の宗教で ある浄土真宗が伝わるよう、努力したいと思います o ﹂ と言わなければなりません。いいですか、ここには非常 に大きな意味があると思います。答えとしての宗教性は 薄いけれど、問いとしての宗教性は豊かである。問いと しての宗教性は何かと言うと、人聞の、体には苦痛、精 神的には苦悩。親鷲聖人は﹁苦悩の有情をすてずして﹂ と仰った。晩年、同じ﹁サットヴア︵由主守山︶﹂の訳語を ﹁衆生﹂じゃなくて﹁有情﹂とされた。そこにはそれな りの気持ちがあったと思います。 苦悩はいよいよ深まりつつある現代を見据えて、真実 の宗教である浄土真宗が伝わるよう努力したいと思いま す、と。そこには一つの意味がある、と思います。私の 文脈は、今﹁伝える﹂と﹁伝わる﹂を言いたかっただけ で。それともう一つは、宗教というものの力のなさとい うのはいったいどう考えるのか。答えとしての宗教性は 浮いが、聞いとしての宗教性はきわめて豊かである。そ こに﹁教学﹂と﹁教化﹂がどう関わるのかを、皆で一緒 に考えようではないか、それがこの大会じゃないんです か、という風に私は思いたい訳であります。 もう一つはですね、今からの時代では、教化 の場合には特に、宗派の教義を先行させるのではなくて、 やはり﹁いのちと人生に宗教とは何をもたらすものか﹂ という、宗教学の概論の始まりみたいなことを一言うと思 われるかも知れませんけど、現場ではやっぱり語り合っ ていくという、姿勢を持っておかないと。深まってると ころへ行って初めからやれという意味じゃありませんけ ども、腹構えとしてはいつも、﹁宗教というのは特別な 門 が あ っ た り 、 一 扉 一 が あ っ た り 、 難 し い 。 言 葉 も 難 し い 。 浄土真宗も深い罪業深重というのはなかなか難しい﹂と 言うだけであって、止まってしまって何にもなりません。 せっかくのすばらしい世界一の宗教がそんなことでは困 りますので、やはり﹁宗教とは何か﹂ o そこで、一々持 ち出す必要もないんですが、ある評論家が、宗教の定義 なんでいうのは宗教学者の数ほどありますなと、私を冷 やかすから、そんなこと一言ったって論が進まないから、 私は推薦すると一言って出すのは、皆さんご承知の東京大 学の岸本英夫氏の宗教定義であります。これはご承知の 通り、東京大学の宗教学主任教授で最期ガンで亡くなっ て、﹁宗教学者のガンの死﹂ということでエピソードに なった先生でもありますが、一生涯かかって一つだけの そ こ で 、
生きる姿勢としての教学と教化 こと考えておられた。﹁宗教とは何か、宗教を定義した らどんな言葉につづまるのか。端的な言葉はどうなるの か﹂と言って書かれた、たったこれだけですよ。﹁宗教 とは人生の究極的な意味を明らかにし、人間の究極的な 解決にかかわる丈化現象である﹂と。この定義にはね、 ﹁はじめに神あり﹂とも書いてもないし、﹁祈りから出 発します﹂とも書いてないし、仏教的に言うたら﹁浄土 はあるか﹂じゃなくて、﹁訳が分からなくても信じなさ い﹂とも書いてないし、こんなものが宗教定義かと一百わ れるかもしれませんが、私は数多い宗教定義の中でなぜ これが大切かというのは、この宗教定義にはたいていの 宗教学の宗教定義というのは大体ヨーロッパ型の﹁レリ ジョン︵
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ロ︶﹂としての宗教の説明ですよ。全知全 能の創造の神と罪人をいかに結び付けるかという、それ が宗教だと思っているでしょ。これはまた話が飛んで、 まあ講演だから許していただきたいんですが、鈴木大拙 先生がねえ、ご承知の通り、ステッキ一本持って世界を 周って、英語で旅をされ、最後日本に帰ってきて日本語 忘れたというぐらいの人ですから。その人がどんな唯物 論者であろうと、誰ともなく膝を交えてお話しされた。 それで一番にヨーロッパの真ん中に行って、ヨーロッパ 11 というのは、宗教とは全知全能の神と罪人いかに結び付 けるかという思いしかない、その真ん中に行って何と言 われたかといえば、﹁仏教に入るのには何の前提も条件 もありません。もしあるとしたら、人間であることを見 つめるだけかな﹂それで世界を周って歩かれた。初めて 聞 い た ヨ ー ロ ッ パ 人 が こ れ は 何 を 一 言 、 つ ん だ と 。 ヨl
ロ y パで宗教と一一首うたら神と罪人をいかに結ぶかという論理 が宗教。﹁仏教に入るのには、人間と人生を見ることだ け。﹂これは、何を言いたいのか。岸本英夫氏が、かな りの研究スタッフと仏教を研究した後でないとこの定義 は 出 て き ま せ ん 。 ﹁ は じ め に 神 あ り ﹂ 、 ﹁ 祈 り で あ り ま す ﹂ 、 ﹁救いは奇跡であります﹂言うとるところへ通る訳がな い。そういう意味で私はこれを非常に大事な押さえであ ると。いのちと人生に密着しない論理を言っていない、 これは。現実をふまえております。ところで東京大学を 出したから京都大学を出すわけじゃありませんが、西谷 啓治という立派な、これは大谷大学の教壇にもお立ちに なったすばらしい先生でありまして、私も伝道院という 所で習った先生でありますが、これは有名な言葉ですよ。 ハワイで世界の宗教哲学者会議の最後の司会をやられて、 まとめの言葉が次の言葉です。これはもし詳しいものを12 読みたい人は、﹃この永遠なるもの﹄という本の後書き に書いてあります。﹁政治や経済や他のいかなる精神文 化もおよびえず、真実の宗教のみが解決できる次元は生 死貫通の次元である。﹂これは西谷啓治氏のいわば宗教 定義です。別の言葉で言えばね、﹁死を語りえないもの は宗教ではない﹂と。浄土真宗で葬式とは、まさか亡き 骸の始末するセレモニーではないでしょう。浄土への旅 立ちの日です。ただ死んだ、死んだ言う、そうではなく 無量寿命の旅立ちの日でしょう。それは命日、命日は命 の終わった日ではない。永遠の生命の旅立ちの日です。 政治や経済や他のいかなる精神文化と宗教は違います。 小説に﹁愛と死を見つめて﹂といってね、関わりはあり ますが、しかし文学は現実をえぐることはできるかも知 りませんが、救いまでを説いたらそれは文学じゃありま せんですね。﹁愛と死を見つめて﹂と語ることはできて も、解決を与えるのは宗教的次元。死を語りえないもの は宗教じゃない。他の丈化は死を語らなくても成立する。 政治、経済、他のいかなる精神丈化も死を持ってこなく てもできるではないですか。しかし正しい宗教というの は生死を貫き通す次一応の解決ですよ。一時的慰めではあ りません。一時的慰めが宗教としたのが、戦後六十年で はなかったか。強く正しく明るく生きましょうというよ うなことを言、って、それ宗教ですか。宗教でなければな らない次元とは何かと問われでさえも、答えられない者 が議論しておっても、はじまりません。 この二つ、岸本先生と西谷啓治先生をふまえて、そし て真宗ですから私は親驚聖人が﹁本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき功徳の宝海みちみちて煩 悩の濁水へだてなし﹂ o 何のためにこの世に生まれて来 たのか。弥陀の本願力に遇うための人生だったと言えな いのか。これが教化伝道じゃないですか。大きい家を建 てるだけに生まれて来たのか。愛人と一緒に天国に行く ために生まれて来たのか。心を転換させないと。つまり 最後は回心ですよ。教学といえどもイコール信心ではな いと言いましたけれども。大谷派はしっかりしてます。 すなわち﹁機の深信﹂であります。﹁機の深信は生涯相 続﹂という本願寺派でも安心問題のおさえがあるじゃな いですか。﹁機の深信は生涯相続﹂、間違いなしにお浄土 へ往くことはありがたいことに決まってるけども、現実 を見失ってはなりません。しではならないことをするよ うな私なんです。人間の実態をごまかさない智慧を﹁た まわりたる信心﹂、﹁念仏は智慧なり﹂と押さえてくださ
生きる姿勢としての教学と教化 った親驚聖人のすごいところを、やはり言わねばなりま せん。というのが私の発想なのでありまして。本物に遇 えて、本物に遇って気持ちの悪い人聞がいるか。人間と はどこかで真実に触れなければ燃え上がらないいのちの あり方をしている。そこが親驚聖人の顕浄土真実。真実 とある。といいますと、いや真実は方便に対する言葉で ございますという、ここでは真実、宗教的まこと、真実 とは人間のいのちに何をもたらすものかを、はっきりし てくださったのが親鷲聖人ではなかったのか。そういう ことを私は言いたい訳であります。 どうも浄土真宗の話はですね、阿弥陀仏や浄土が前提 になるというような、教化のあり方というものは、やは り入口から少し考え直したほうがよいと思います。私は 浄土というものは﹁真実功徳相﹂でありますから、浄土 とは真実の世界。それで﹁教学﹂﹁教化﹂ではどこから 始まるかと言えば、﹁人間とは何がなければ生きられな い生物か﹂から出発したいと。人聞が生きていくのに何 がなければ生きられないかというと、そんなことは衣・ 食・住に決まっているではないか。着るに着物がなけれ ば生きられないって、しかしそれは生存の問題です。も う一つ、どれだけ物があっても何があっても本当の生き 13 甲斐とは、人聞はどこかに本物を探している。今日若い 学生諸君もおられるから言います。昔、全共闘というグ ループがいてね、東京で暴れてね、大学を壊すと言った。 そのリーダーは何というセリフを吐いたかといえば ﹁我々の目の前にあるものに全て真実なし。壊すことこ そ真実である o ﹂と言ったんです。これも一つのセリフ ですよ。大人の汚い、そのような大人の世界の日の前に あるものに全て真実なし。壊すことこそ真実だ。その地 下へ潜った全共闘のリーダーに、一哲学研究室から手紙 を書かれた先生がおられる。﹁君は外の世界の真実に情 熱を向かって問いただした。私はどちらかといえば内な る哲学で少し内にこもりすぎたかもしれない。しかし言 いたいことは、全く方向は反対であったかも知らないが、 真実を求めたことだけは一緒じゃないか。今から俺は必 ず手紙を出す、君は必ず返事をくれ﹂こうして最後﹁朝 日ジャーナル﹂という本に全文を載せた。そこには﹁内 なる真実﹂、﹁外なる真実﹂という入口の違いはあったか 知らないけれど、最後はどこかに真実に出会わなければ 燃え上がらなかったいのちじゃないか、と対話は続けら れた。そのようなことで私は阿弥陀仏や浄土を前提に解 説するんではなくて、人間は最後に本物に触れなければ
14 いけないと。最後に生死を貫く真実の世界を本当の宗教 の世界といい、そのまことの崩れない世界を、永遠の真 実の世界を﹁浄土﹂と説いてくださった意味を、私は尋 ねなければなりません。それでも教学は必要ないと言、っ か、教化は必要ないと言いますか。 皆さん浄土があるかないかという問いはね、問いを変 更してくださるように促してください、教化の場では。 昔ね、仏教壮年会の会長があるご講師に、講師部屋へ尋 ねて行って最後に、﹁ご講師、わたしに本当のことを言 ってください﹂﹁地獄って本当にあるのか。はっきり言 ってください﹂と言った。さすがにしっかりしたご講師 ですね、何と言われたか。﹁君、地獄はあるかないかを 問うんじゃない。地獄をつくっているおのれであるかな いかを問え。﹂仏教は地獄はあるかないか、浄土がある かないかじゃないですよ。地獄をつくっておるおのれで ある。浄土とは何かというと、業が浄められた世界が浄 士でしょ。浄業の士一でしょ。天国で誰かが待ってるとい うような世界ではありません。裁判官がおって、お前は 極楽、地獄と命令しているんですか。それに従って行く のか。そんな発想はもう仏教にならんですよ。おのれの 人生はおのれの行為によって、おのれの業によって趣い て行く世界。悪の趣きは悪趣と言われる、果ては地獄だ。 業が浄められた果てが浄業の士、浄土だ。その他に何を 言いたいんですか。地獄は悪魔がつくって待っているん ですか。片一方は極楽で、天国は待っているんですか。 我の外、私以外のものが私の人生を命令したり扱ったり するのか。それでは仏教にならないのであります。 仏は不可思議光とか無量光、これはもう小川先生の講 読を読んでもらった方がありがたいから、﹁往相・環相﹂ もありますけれども。それで一つだけいいます。﹃教行 信証﹂﹁信巻﹂に真仏弟子釈、または現生十益とか、特 に真仏弟子釈が﹁信巻﹂に説かれているというのはあり がたいですね。何を言いたいのかと言えば、信心とはそ こに静止するものではなくて、真の仏弟子を生むもので あると。ここのプリントがちょっとですね、﹁真実は真 の仏弟子を生むもの﹂とありますが、これ﹁真実信心 は﹂とちょっと丁寧に書いておいてください。﹁真実信 心は真の仏弟子を生むもの﹂である。なぜかとニニ ﹁教行信証﹂﹁信巻﹂に真仏弟子釈が書かれている O 信 心 と い 、 つ も の は 盲 パ の 仏 の 弟 子 を 生 み 出 す 、 と い う こ と で す。それから真宗における利益論もね、これはどこまで も現生十益は真実の信心、﹁信巻﹂に書かれているんで
生きる姿勢としての教学と教化 すよ。変な言い方ですけどこれ﹁方便化身土巻﹂に書か れていない。真実の信心に、真実の信心には必ず現住に 十種の益、必ずと書いてあるから必ずなんですよね。こ れ本願寺派の学背では、︷併益、顕益というようなことを 言 、 っ て : : : 。 ﹁ 必 ず ﹂ と 書 い て あ り ま す か ら ﹁ 必 ず ﹂ な んですよ。どういう現れ方をするとかじゃなくて、必ず ある。そこに﹁常行大悲﹂と書いてあるんですから。常 行、大悲と言ったら仏様のはたらきを言、つんじゃないか。 煩悩のある者が大悲なんてない、そんなこと言うたら ﹃歎異抄﹄読めなくなりますよ。﹁念仏もうすのみぞ、 すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき﹂と。 これはどうなるか。念仏はお浄土へいってからするこ とか。念仏には現世と彼岸との時間の枠はないのではな いか。念仏のあるところ我あり仏あり。時間の枠をつく ったら読めなくなる。﹁念仏もうすのみぞ、すえとおり た る 大 慈 悲 心 ﹂ o 現生十種の益は常行大悲なんです。大 慈悲、大悲っていうのは仏さまの世界だと言、って、また 向こう側へやりたがるけれども。ここのところを整理し な い と だ め で す ね 。 時聞が参りましたので、今一つだけ付け加えさせてい ただきます。﹁いのち﹂という言葉を本願寺派ではひら 15 がなで書くことにしています。いいじゃないか漢字で ﹁ 生 命 ﹂ と 書 い て お け ば 、 と 二 一 一 口 、 つ ん で す が 、 こ れ も 時 間 がありませんので端的に言いますとね、この頃﹁生命﹂ というのは﹁生命操作﹂ということもあるでしょ。生命 というものは操作できる。心臓でも入れ替えられる。つ まり対象物としての物質ですよね。そうでしょ。生命操 作ですから。そんなところへ宗教家がのこのこと出てっ て、同じレベルで論じても、いのちというのにはもっと 宗教的な意味も含めて。物質だけではない、色々な面か らの心理学とか、色々シンクタンクでねえ、頭脳集団で ひとつのいのちを見つめ直す時代でしょ。だからそのよ うな物質的生命論や操作的生命観だけで言わない。いの ちという問題。我々だったら宗教的な問題です。それで、 ひらがなで﹁いのち﹂という意味においては二つ意味が あります。一つは先ほど言いました、身と心の両方入れ てください。身体だけをいのちとは言わない。ましてや 心だけを﹁いのち﹂とは言わない。身心を合わせて﹁い のち﹂。もう一つは先ほど言いました、生の一面だけを いのちの解決とは言わないですね。生死を見つめ、生死 を解決する。それでいのちという概念をもっと幅広く使 った方がいいんではないかと言、つんで、わざわざ生命操
16 作の域をひとつ超えてそれを、超えるということはそれ を包み直して、見直させてお互いに発展する道を示唆し ていくといういとなみが宗教的ないとなみのなかにあっ ていいんじゃないか。こんなことを何とか表せないかと いうことを思う訳であります。 結局この世というものを浄土教はどう見るのかという ことなんですが、そりゃ穣土でありますとか、親驚聖人 も﹁そらごとたわごとまことあることなきに﹂、すべて が虚仮であるとかね。しかし間違えたらいけません。親 鷺聖人がすべての﹁そらごとたわごとまことあることな き﹂根拠は何かと一三守ったら、自我と煩悩の生み出した世 界のどこに真実があるかという意味では全面否定ですよ ね。それならそれで終わってるかと言ったら﹁念仏のみ ぞまこと﹂なんですから、我執から生まれた世界に真実 なし、無我の世界からの展開の念仏が真実であるという 押さえをはっきりしたら、現実に虚仮の真つ只中におり ながら、自我と欲望の世界を全面否定して仏を拝んで、 ﹁なんまんだぶつ﹂。﹁なんまんだぶつ﹂が私のいのちで あると生きる人聞がここに成立してるじゃないですか。 そういうことをきっちり押さえて、この世とは虚仮だと か機士だとかというだけじゃなくて、この械土の真つ只 中で、病の真つ只中が今現在説法のど真ん中です。この 世は仏に遇うことのできる遇法のよろこび、法に遇、つよ ろこびの場だという位置付けはなぜできないのか。そう いうことが経・論・釈で説かれておる。この現実の世界 の押さえの中に、逆に言ったら、だからこそ真実の法に 遇うということは本当にすごいことなんだというよろこ びを語り合うことが大切なのです。そういう視点も押さ えながら、これからの﹁教学と教化﹂の方向性をですね、 もっともっと私の段階じゃなくて、フレッシュな感覚の 若い学徒の皆さんに、これを皆で語り合って大成してい ただければ、すばらしい未来があるということを申し上 げさせて、いただいたことであります。 小川先生のお話にご期待を申し上げて終わらせていた だきます。どうもありがとうございました。 ︷ 講 演 要 旨 ︼ ︿ は じ め に ﹀ −仏教・真宗において、現実をふまえていない思考は戯 論 で あ る 。 ・ 仏 教 ・ 真 宗 の 出 発 点 は 現 実 ︵ 時 代 ・ 社 会 と 人 間 ↓ 時 ・ 機 ︶
の 正 見 で あ る 。 念仏は人生への姿勢を教えるもの 生きる姿勢としての教ヲてと教化 [
I
] ﹁ 教 学 ﹂ と ﹁ 教 化 ﹂ ﹁教学﹂とは教法・真宗の思惟化のいとなみと了解し たい。すなわち、教法・真宗の普遍性・論理性・実動性 を聞思するいとなみである。 聞思する教学者の姿勢は、同朋として、共同体・教団 の責任者として聞思することである。それは﹁十方衆 生﹂と﹁親驚一人﹂を発起させるものである。 いま、ひとつ留意すべきことがらは、教法の思惟化す なわち教学がそのまま信心ではないということである。 つまり、真意が宗教的生命の中心であるということであ る 。 17 ﹁教化﹂とは、教法・真宗の具現化・社会化のいとな み と 了 解 し た い 。 ちなみに、中村元著﹁仏教語大辞典﹄には、﹁教化と は﹃きょうけ﹂﹃きょうげ﹄ともよむ。教え導く。人を 教えさとし、苦しむ者を安んじ、疑う者を信に入らせ、 あやまてる人を正しい道に帰せしめること。教導感化の 略 ﹂ と な っ て い る 。 問題は、教法・真宗の具現化・社会化のいとなみをす る者の姿勢である。ここでも同朋として、共同体・教団 の責任者としての安勢でなければならない。それは教化 者意識・指導者意識を転換して開法者・間回心する者の座 に徹底することである。どれだけ教化伝道する、﹁伝え る﹂という意識があっても﹁伝わらない﹂という現場が あるということである。それについてどのような道が考 えられるか、後ほど触れることにしたい。 ところで﹁教学と教化﹂について、いろいろ議論のあ るところであるが、要は、教学︵ H 教 法 ・ 真 宗 の 思 惟 ︶ の ない教化・伝道︵ H 具現化・社会化︶というものは成り立 たない。反面、具現化・社会化に相応しない教学は常に 反省・転換すべきであるということである。両者は相応 的であり、循環的である。 つまるところ、信心の共同体へのいとなみである。 [H
]生きる姿勢としての教学 ﹁世俗化﹂のときの教学への姿勢 ※﹁世俗化﹂とは、﹁宗教のもつ影響力や特権が失われ ていく現象。宗教的思考に代わる科学的思考、政治・ 教育・芸術・と宗教の分離などをさすことが多い﹂18 ︵ ﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄ ︶ 山宗派の教義を先行させるのではなく﹁宗教とは何か﹂ ﹁いのちと人生に何をもたらすものか﹂を明らかにす る 。 ②岸本英夫氏﹁宗教とは人生の究極的な意味を明らかに し、人間の究極的な解決にかかわる文化現象である。﹂ ③西谷啓治氏﹁政治や経済や他のいかなる精神文化もお よぴえず、真実の宗教のみが解決できる次元は生死貫 通 の 次 元 で あ る 。 ﹂ ④本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし ⑤真実とは、真実ならざるものを見い出して真実に転じ 変えなすはたらきとなる ⑥阿弥陀仏や浄土が前提か ⑦﹃歎異抄﹂第 1 章に学ぶ ⑧仏はすなわちこれ不可思議光如来なり士はまたこれ 無量光明土なり ⑨往相・還相 ⑩真実は真の仏弟子を生むもの 信巻に真仏弟子釈、現生卜益を説かれた意味 [ 皿 ] 生 き る 姿 勢 と し て の 教 化 山いのちの対話 ①いのちと生命 ②いのちの対面親鷲聖人と関東の門弟 ③﹁この世﹂をどううけとめるか遇法のよろこびの場 凶真の主体性と共同体の責任 ①たまわりたる信心・同一の信心 ②菩提心としての信心 同正定緊の生きがい 1 真仏弟子・常行大悲 凶﹁身を捨ててこそ﹂
講 i寅 真宗大谷派教学大会 手 一
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五 年 度本
ウ 一 小真
ーー教学に基づく教化の開発を求めてl
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願
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本 願 と 真 宗 今日の真宗教学学会の中心である真宗学を専門にされ ている先生方にとっては、初歩的で頼りない記念講演と なるでしょうが、私と致しましては珍しく原稿を作り、 原稿を読まさせていただくことに致しました。従いまし て、中身が少し堅苦しくなっています。いつものように 私の話はやさしいと思ってお聞きに来られた方には、今 日はちょっと退屈な話になるかもしれませんが、ご容赦 いただきたいと思います。原稿を作りましたので、それ を読みながら講演を進めていきたいと思います。なお、 ﹃真宗聖血ハ﹂からの引用箇所については、大谷派の﹁真 宗聖典﹄によって提示します。 19l
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乗
教 学 | | 説 法 と 開 法 の 伝 統 | | この度、真宗教学学会の主催する﹁真宗大谷派教学大 会﹂の記念講演として、日頃の所信の一端を述べる機会 を頂きましたことに謝意を表します。﹁教化と教学﹂と い う テ l マに沿って、﹁本願と真宗|教学に基づく教化 の開発を求めて﹂という議題にいたしました。誠に借 越な講題とお叱りを受けるかも知れませんが、これは大 乗仏教の仏道体系から親驚聖人の教学を鮮明に学び取る ことができる目下の学問的関心に立って、特に﹁本願と 真宗﹂との関係を体系的な教学によって確認することを 志している、一つの試論としてご了解いただきたいと思20 います。この試論を補填する論考としては、すでに大谷 大学の最終講義﹁大乗の中の至極|親驚における大乗の 仏 道 体 系 ﹂ ︵ ﹃ 親 驚 と 大 乗 仏 教 ﹄ 、 法 蔵 館 ︶ を 参 照 い た だ け れ ば と 思 い ま す 。 さて、﹁教学﹂というとき、親驚聖人の主著﹃顕浄土 真実教行証文類﹄︵以下﹃教行信証﹄と略称︶においてこ の語は使われていませんので、宗門内における特異な解 釈は別として、一般的な了解によれば、教学とは﹁教え と学び﹂という語意であり、真宗における教義の理論と その研究ということになるのではないかと思います。そ うしますと、その﹁教え﹂とは、言、つまでもなく、真宗 においては浄土三経に説かれている説法、特に選択本願 であり、それを伝承する七祖の教えであり、それは﹁歎 異 抄 ﹄ の 第 二 通 に 、 弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚 言 な る べ か ら ず 。 ︵ 六 一 一 七 頁 ︶ 云々という、説法と開法の伝統において顕かにされてい ます。従って、そこに説かれている基本語である﹁本 願﹂とはどういう仏教教義の理論に基づいて説かれ、そ こには何が説かれているかを﹁説法﹂に基づいて学んで いく開法としての﹁学び﹂が求められていることは言う までもありません。ところがその聞法としての﹁学び﹂ については、同じく﹃歎異抄﹂第二通の初めの、 南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられて そうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりで、 往生の要よくよくきかるべきなり。親鷲におきでは、 ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、 よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子 細 な き な り 。 ︵ 六 二 六 頁 ︶ という一文を常用して、﹁学び﹂の軽視が蔓延している ように伺えます。それは教学への﹁学び﹂が開法ではな く、単なる学習となっているからです。そのような用例 は、枚挙にいとまはありませんが、たとえば﹁真宗とは、 命の確かな拠り所としての仏道を表す名である。どんな に立派な教えでも、私の領きとならなければ教えとして の意味はない。仏教に領くとは、教理や理屈を知ること ではなく、私を念ずる如来との出会いである。私を念ず る如来の心を通して我が身を知り、課題が見出されてく る。﹂という、不特定多数の人々に共通するような一丈 があります。これに類似した内容で、より見事な﹁私の 領き﹂を語る文章は枚挙にいとまがありませんが、何れ も普通の人には理解困難な内容となっているのではない
本 願 と 真 宗 かと思います。ここでは﹁学び﹂が﹁教理と理屈﹂とし て切り捨てられています。もしこの一文を書いた人自身 が、教理や理屈を学べば学ぶほどそれが無意味な学びで あったという過去の経験的な苦難に満ちた﹁学び﹂に基 づいての発言であれば、それはそれなりに了解できます。 なぜならば、そこには﹁教理と理屈﹂を知り尽くしそれ を超えていったその人の﹁私の領き﹂を伺うことができ るからです。そうでなければ、それは﹁学び﹂が開法で はなく、単なる学習に終わっているのです。﹁学、ぴ︵開 法こなくして、何によって﹁私の領き﹂が可能なので しょうか。仏道への真撃な﹁学び﹂より先にあるような ﹁私の領き﹂とは何でしょうか。﹁私を念ずる如来との 出会い﹂とは一体どういうことでしょうか。如来とは何 であり、その如来は私の何を念じているのでしょうか。 そのことが明確でないと﹁我が身を知り、課題が見出さ れてくる﹂という言葉も空虚に響いてくるだけです。少 なくとも、教学を開法するという立場に立つ以上は、 ﹁教え﹂を﹁学ぶ﹂、聞法の営みによってそれを明確に し な け れ ば な り ま せ ん 。 もとより、教学を開法することがなくても﹁私の領 き﹂としての﹁教化﹂の実現は可能であり、現に様々な 21 体験から多くが語られています。ちなみに、﹁教化﹂と いう用語については、親鷲聖人は﹃教行信証﹄の中では、 大乗仏教の菩薩道における﹁教化地﹂という菩薩の位に よってそれを提示していますが、それについてはこの講 演の最後の所で少し触れることにします。ともかく、 ﹁教化﹂とは﹁教えに導かれること﹂であり、そこに教 化された人がいるという事実において教化はありえてい るわけですから、直接に教学と関わることがなくても、 仏 典 ︵ ﹃ 阿 含 経 ﹄ ﹃ 浬 繋 経 ﹂ な ど ︶ に ﹁ 四 馬 の 警 え ﹂ に よ っ て、生死する命への目覚めの有り様が説かれていますよ うに、例えば、最大の人権侵害に他ならない戦争の悲惨 さと、それによってもたらされる差別の現実を凝視する ことによってとか、大自然による災害を目前にしての人 間の無力さを痛感することによってとか、或いは信心を いただいている妙好人などの詩に感動してとか、不治の 病の身となってとか、様々な体験によって﹁私の領き﹂ としての﹁教化﹂は実現されることがあります。釈尊は 自らの正覚は自分だけのものではなく永遠の真理である から、いつでもどこでも誰にでも実現可能であると説い ていますように、それは仏教でいう独覚乗の人々です。 ともかくも、現代は近代的思考が優先されて、﹁教学﹂
22 は教理や理屈として敬遠され、現代的状況の中で苦悩す る個々人の根底を支えている﹁教え﹂︵説法︶を聞こう としないで、人聞が至上であるとする自己中心的な独覚 乗 の 時 代 と な っ て い る と い う の は 言 い 過 、 ぎ で し ょ う か 。 しかも、﹁本願﹂とか﹁如来﹂とか﹁他力﹂とか﹁浄土﹂ な ど の 真 宗 に と っ て 重 要 な 用 語 ︵ テ ク ニ カ ル タ ー ム ︶ は 、 仏道体系の中で教学として確認されなければならないに もかかわらず、教学に基づかない恋意的な﹁私の領き﹂ の中に、その言葉だけを安易に用いて、それらの用語に 対する﹁私の領き﹂による独自の解釈を重ね、いよいよ 混乱を深めているのが現状であるというのも言い過、ぎに な る の で し ょ う か 。 仏教の基本的思想
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﹁ 流 転 す る い の ち ﹂ か ら ﹁ 縁 起 す る い の ち ﹂ へ ! | このような私の感想はともかくとして、それでは浄土 二.経やそこに説かれている選択本願は、大乗仏教のどの ような仏道体系に基づいて説かれているのでしょうか。 いうまでもなく、仏教に限らず宗教は、生まれ死ぬ﹁い のち﹂を如何に生き如何に死んでいくかという、﹁いの ち﹂の救済のために人々から求められているのであり、 浄土真宗における﹁真宗﹂とは、﹁いのち﹂の真実を顕 かにし、浄土とはその﹁いのち﹂の行方を往生として顕 か に し て い る の で す 。 ところで、﹁いのち﹂という言葉には様々な意味が託 されていますが、仏教で説かれている﹁いのち︵命︶﹂ とは、生まれて死ぬまでの聞の﹁寿命﹂を音山味し、﹁き ょうともしらず、あすともしらず﹂という﹁生死﹂のダ イナミックなあり方を指しています。﹁死すべき身﹂を いま生きているという﹁生死するいのち﹂です。したが って、この﹁生死するいのち﹂の救済は死を無視しては ありえません。しかるに、現代の科学的な知識主義は、 ﹁経験的に実証可能な知識﹂を基本としているため、死 とか死後を問、つ思考を停止しています。加えて、近代合 理主義に基づく自我的観念は、﹁いのち﹂を私物化し、 ﹁いのち﹂は私とともに生まれ、私とともに死ぬのであ って、死後などは問題にならないとして、死の先延ばし だけを求めています。そのために、死や死後を問、つこと は無意味であるとしています。死は考えても考えなくて も必ず訪れる生物的事実であり、そのことに思い煩うの は無意味な営みとして触れないようにしています。しか し、そのことに思い煩ってこそ人間ではないでしょうか。だからこそ人間にのみ宗教は不可欠なのです。死や死後 を 問 、 つ こ と に 意 味 が あ る か ら 問 、 つ の で は な く 、 問 わ ず に いられないから問うのです。それなのに、死や死後を問 うことは無意味であるとして、平然と悟りすましていか なければならないところに、実は、現代人特有の潜在的 な癒し難い苦悩、死を間わないニヒリズムがあると一言え ま す 。 本 願 と 真 宗 この﹁死すべき身﹂を生きる﹁生死するいのち﹂は、 仏教が誕生する下地となっているインドの民俗宗教にお いては、﹁いのち﹂は死に変わり生まれ変わりを繰り返 しながら存続する、輪廻に﹁流転するいのち﹂として捉 えられていたのです。それは自己存在に対する強烈な執 着である我執・我所執を持ち、自らの﹁いのち﹂の永続 性を求めるインド民族によって作り出された﹁いのち﹂ に対する考え方と言えます。この﹁流転するいのち﹂を ﹁縁起するいのち﹂として見定め、輪廻からの解脱を明 確にしたのが釈尊に始まる仏教であると言うことができ ま す 。 23 このように、生まれ変わり死に変わりして、転生を繰 り返し、﹁いのち﹂の存続を余儀なくする一方で、その 輪廻からの解脱を求めるという、そこに形成された﹁流 転するいのち﹂という観念は、﹁いのち﹂を私物化し、 死後を問わない現代の自我的観念とは、ある意味で正反 対であると言えます。これに対して、流転するような ﹁ い の ち ﹂ と い う 存 在 ︵ 生 命 体 ︶ な ど は な く 、 ﹁ い の ち ﹂ は﹁縁起﹂であることを発見した釈尊によって、仏教は 誕生したのです。この﹁縁起﹂は、一二世輪廻に流転する ﹁いのち﹂観によって形成されている﹁生まれの差別﹂ を凝視し、一切衆生の﹁いのち﹂は平等でなければなら ないと確信した、釈尊の﹁いのち﹂観を説明する道理と して発見されたのです。釈尊は、この﹁縁起の道理﹂に つ い て 、 この縁起の道理は、それを覚証する如来︵私︶が世 に出ても出なくても変わらない、変わることのない 真理であり、法性︵存在の在り方︶であり、それが 真 一 如 で あ る 。 ︵ ﹃ 阿 含 経 ﹄ ﹁ 相 応 部 ﹂ 第 二 巻 な ど ︶ と説き、これによって﹁輪廻に流転する世界からの解脱 を 明 確 に 認 識 し た ︵ 解 脱 知 見 ︶ ﹂ の で す 。 この﹁縁起﹂については、すでに度々説明しています ので、今は省略しますが、簡単に言えば、私たちの﹁い のち﹂は、単独に存在して、輪廻に転生するような在り 方で存続する﹁流転するいのち﹂ではなく、諸々の因縁
24 によって瞬間瞬間ありえているだけの存在︵唯此縁性︶ であり、因縁所生の﹁いのち﹂である、という﹁いの ち﹂観を成立せしめるための道理が、﹁縁起﹂として説 かれているのです。従って、私たちの﹁いのち﹂は﹁縁 起するいのち﹂であり、単独の生命体として存在してい るような﹁いのち﹂ではなく、因縁によって形成されて いる、それ白体としては、龍樹菩薩が説くように﹁空﹂ なる﹁いのち﹂なのです。この﹁縁起するいのち﹂につ いては、例えば、清沢満之先生の﹁絶対他力の大道﹂に 述べられている他力論は正しく、この﹁縁起するいの ち﹂を論じている縁起論に他なりません。昨年の法語カ レンダーの中にも、﹁私どもが自力と考えていること全 体が他力の中にある﹂というのがありましたが、そこで 言われている﹁他力﹂とは、この﹁縁起するいのち﹂へ の目覚めに他なりません。﹁私の領き﹂において﹁他力﹂ と い う 一 一 一 一 口 企 業 が 使 わ れ る と き 、 そ の 多 く は 、 こ の ﹁ 縁 起 す るいのち﹂への領きにおいてありえているといえます。 因縁のままに生死する、業縁のままに生死する、それ以 外としてはあり得ない﹁いのち﹂の在り方を﹁他力﹂と 領いているのであり、仏教はこの﹁他力﹂に対する了解 を 基 本 と し て い る の で す 。 ところで、親驚聖人が﹁他力﹂という時は、﹃教行信 証﹄においては、﹁この行信に帰命すれば摂取して捨て たまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。 こ れ を 他 力 と 日 う 。 ﹂ ︵ 一 九 O 頁 ︶ 、 ﹁ 他 力 と 言 う は 、 如 来 の 本 願 力 な り 。 ﹂ ︵ 一 九 三 一 頁 ︶ 、 ﹁ 往 ・ 還 の 回 向 は 他 力 に 由 る 。 ﹂ ︵ 二 O 六 頁 ︶ 、 ﹁ ﹁ 横 出 ﹂ は 、 正 雑 ・ 定 散 ・ 他 力 の 中 の 自 力 の 菩 提 心 な り 。 ﹂ ︵ 一 一 一 一 一 七 頁 ︶ 、 ﹁ ﹁ 横 超 ﹂ と は 、 本 願 を 憶 念 し て 自 力 の 心 を 離 る る 、 こ れ を ﹁ 横 超 他 力 ﹂ と 名 、 、 つ くるなり。︵中略︶これすなわち真宗なり o ﹂ ︵ 一 一 一 四 一 頁 ︶ といった用例などによって明らかなように、本願を他力 として頂いているのですが、その他力について、﹁他力 とは何か﹂とその他力自体を問う他力論が、自力と他力 の関係を論じつつ、様々に論じられているわけです。そ れらの他力論の多くは、すでに示しましたように、仏教 の基本的な道理である﹁縁起﹂を内容としているのです。 このように、縁起論とは他力論であるとして、﹁縁起﹂ を﹁他力﹂と了解していることは、曇驚によっても示唆 されているところですが、真宗教学の特徴的な知見とな っ て い ま す 。
本 願 の 思 想 的 原 点 | | 転 生 か ら 往 生 へ | | 本 願 と 真 宗 ﹁生死するいのち﹂を、輪廻に﹁流転するいの ち﹂と受け取っていた、インド民俗宗教の﹁いのち﹂観 に対して、それを﹁縁起するいのち﹂と見定めたところ に、仏教は誕生するわけですが、そのような﹁縁起する いのち﹂においては、私を私たらしめていた全ての因縁 が消滅した時に、私の﹁いのち﹂という何かが残存する わけがありません。それを釈尊は﹁浬繋︵消滅︶は寂静 ︵ 静 け さ ︶ で あ る ﹂ と か 、 ﹁ 入 滅 ︵ 浬 般 市 に 入 る こ と 説 い て います。これは釈尊の往生論であると了解されますが、 この往生論は、浄土思想の選択本願においては、﹁必至 滅度︵必ず完全な浬繋に至らしめるこという誓願となって 説かれています。後に詳しく論説したいと思いますが、 親鷲聖人は、この﹁必至滅度﹂の誓願こそが、釈尊の仏 教の核心であり、選択本願の基本であることを、明確に 指 摘 し て い ま す 。 ところが、﹁生死するいのち﹂を﹁縁起するいのち﹂ と見定めた、釈尊の縁起の道理を是としながらも、自己 の﹁いのち﹂の存続を求める思いは断ちがたく、インド 民俗宗教の常識となっている﹁流転するいのち﹂におい き て 、 25 て、さらなる﹁いのち﹂の転生を求める願望を断ち切れ ないでいるのも、多くの人々の現実にあったのです。現 代に生きる私たちであっても、白らの﹁いのち﹂を何ら かの独自の生命体として想定して、その存続を来世に求 めたり、現世にて断滅すると切り捨てたりしているので す。そのためか、釈尊滅後しばらくして、五道輪廻を説 くようになった仏弟子たちの教団では、出家者は正覚を 成し遂げ浬般市に入ることを目指すが、在家者は出家者に 布施を行うことによって、来世では五道輪廻の最高位で ある天界に生まれることができるという生天説などの、 来世への転生が説かれるようになります。この生天説は、 善根功徳を積んでよりよき来世に再生して、転生を続け たいという願望を断ち切れない人々を救済するための説 法であったと見なすことができます。 この転生への願望を仏国土への往生へと、質的転換を 図ったところに、浄土思想の発端が伺えるのではなかろ うかと、推察することができます。転生への願望を捨て きれない人々に対して、出家者に布施を行えば天界に生 まれることができると説く生天説などが土台となって、 仏を念じたならば、その仏国土に生まれることができる と説くようになった、そこには、仏国土に生まれさせる