親驚の二諦思想について
ーi
l
﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナリ﹂をめぐってl
i
a
徳
t
永2
道
2
雄
前
一
、
は じ め に 所謂﹁自然法爾﹂の法語は現存の古本では四種ある。 ﹃末灯紗﹄第五通にムソ自然法爾事。と題されたもの、文明版 よ び ﹃ 高 田 派 御 堂E
に 加 え ら れ て あ る も の 、 ﹃正像末和讃﹄の末尾に付加されふつうク獲得名号自然法爾。と呼ばれているもの、また高田派顕智上人の真筆、お ① の四本であり、それぞれ内容と年代に異同がある。その原形が何である かは明らかではないが、右の顕智上人真筆には、 正嘉二歳戊午十二月日善法坊僧都御坊三条トミノコウチノ御坊ニテ聖人ニアイマイラセテノキ、カキソノトキ顕 智コレヲカクナリ とあり、他本に較べるとかなりの具体性があるから、これが次々と伝写されて各種の本が成立したもののごとくであ る。しかし、今は。自然法爾 ψ の法語の書誌学的研究が目的ではないので、この問題にはこれ以上立ち入らないこと に す る 。 親 驚 の 二 諦 思 想 に つ い て 九 七親 驚 の ニ 諦 思 想 に つ い て 九 !\ さて、上にあげた四本のうちのいずれにも、 ﹁カタチモマシマサヌヤウヲシラセントテハシメテ弥陀仏トマフストソキ、ナラヒテサフラフ ヤウヲシラセンレウナリ﹂ 弥陀仏ハ自然ノ ︵ ﹃ 末 灯 紗 ﹄ 本 ︶ という表現がみられる。 F
−
J−
ヂ J 中 J ﹃ 高 田 派 御 室E
木では ﹁レウ﹂が﹁料簡﹂となっているけれども、 この箇所に関す る限り、他にはほとんど異同はない。今はこの法語をめぐって宗祖の二諦思想について考えようとするものであるが、 これを資料として宗祖の二諦思想を解明しようというのではなく、むしろ宗祖の思想全体からみた二諦思想に照らし て み て この法語をいかに解釈すればよいのかという問題を扱ってみたい。 言うまでもなく、この場合、 二諦とはいわゆる真宗独特の真俗二諦説il
つまり仏法と王法との関係の論理ーーーを 指すのではなく、大乗仏教の究極的真理を表現するものである二諦説、 つまり第一義諦空と世俗諦方便のことである。 ニ 、 問 題 の あ り 方 ﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナリ﹂ に用いられている用語のうち いま問題の中心をなすところのク自 然 ψ・
ク ヤ ウ L γ ・ ク レ ウ 一 々 に つ い て 、 まず検討しなければならない。 最初にク自然 ψ と い う 語 で あ る が 、 ﹁自然法爾﹂の法語に用いられているク自然。は、根本的にはもちろんひとつ の真理を指しながらも、表面的には幾つかの意味をもたされている。それは内容からみて、或いは直接に、 1 弥陀仏の本願 2 本願のはからい 3 行者においてはからいのないこと4 無上仏或いは無上浬繋 の四つを意味しているが、この﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナリ﹂に用いられたク自然。の意味が、 ﹁ カ タ チモマシマサヌ﹂無上仏或いは無上浬繋を指すことは明らかである。 次にクヤウ L V で あ る が 、 ﹁ エ ウ ﹂ と 表 記 さ れ た 場 合 の ﹁ 要 ﹂ ・ ﹁ 肝 要 ﹂ と い う 意 味 で は な く 、 ② ﹁外見にこめられた意味﹂という意味である。 ﹁ 様 子 ﹂ ・ ﹁ あ り さ ま ﹂ ・ ﹁ 子 細 ﹂ ・ 最後に。レウヘこれが最も問題になる語なのだが について言えば、材料の﹁料﹂の字の表記で、﹁何かの用にあて る物﹂・﹁ある物事に使用する物﹂・﹁ある物を作るための材料・資料﹂等の意味をもち、﹃日本国語大辞典﹄には、﹁あ る物事の根拠となるもの、もとになるもの﹂という項目の下に、この﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナリ﹂が ③ 用例としてあげられている。また、先に述べたように、 ﹃高田派御書﹄本にはクレウクは﹁料簡﹂と写されているが、 これは﹁はかり﹂・﹁えらぶ﹂という漢字の文字通りの意味からくる、 @ り 、 さ ら に ﹁ と り は か ら い ﹂ ・ ﹁ 処 理 ﹂ と 転 化 す る 。 ﹁ 判 断 ﹂ ・ ﹁ 思 慮 ﹂ ・ ﹁ 考 え ﹂ ・ ﹁ 思 案 ﹂ 等 の 義 で あ いま、最も問題となるクレウ ψ をそのままにしておいて、他の部分を現代語になおすと、 ﹁阿弥陀仏はかたちのない無上仏︵或いは無上浬喋︶のありさまを我々に知らせるためのレウである﹂ ということになる。すると 。 レ ウ ψ は先にあげた語義の﹁用にあてるもの﹂・﹁材料・資料﹂がまさにぴったりの意 味である、と解釈するのが当然であろう。 つ ま り 、 ﹁阿弥陀仏はかたちのない無上仏︵或いは無上浬喋︶のありさまを我々に知らせるための用にあてるもの、材料 資 料 で あ る ﹂ となる。さらに言えば こ の 傍 点 部 分 を 再 解 釈 し て 、 親 驚 の 二 諦 思 想 に つ い て 九 九
親 鴛 の 二 諦 思 想 に つ い て
8
﹁阿弥陀仏はかたちのない無上仏︵或いは無上浬繋︶のありさまを我々に知らせるための手段・媒介物である﹂ というのが極く自然な感じを与え、事実これがふつうに行われている解釈である。 問 題 は 、 し か し 、 まさにこの解釈にある。もしもこの解釈が正しいとすれば、阿弥陀仏は我々にかたちのない無上 仏︵或いは無上浬繋︶を指し示すための、又はそれに到らせるための一時的手段・媒介物ということになり、究極的 な価値をもたなくなることは言うまでもない。さらに、浄土も阿弥陀仏と同じ有相のレベルであるから、浄土往生も 一時的な仮りの姿であって、その最終日的は無相の無上浬繋を証することであり、 したがって、浄土は往生人にとっ て は 、 一時的に通過すべき場所にすぎない、ということになってしまうであろう。阿弥陀仏であれ、浄土であれ、往 生人にとっては究極的な価値をもたず、それを媒介として ついには﹁いろもなし か た ち も ま し ま さ ﹂ ハ 意﹄︶ぬ無相の彼方へと飛び去ってしまうことになるであろう。 勿論のことながら、右の解釈は十分の意図があってのことである。 いうまでもなく、それは、浄土教における非神 壬 口 レ ぃ 、 ヨ − 口 , λ 1 つまり浄土経典の関所にみられる、というよりは殆んどであるともいえる神話的表現を超えて、そこに大乗仏 教の本質を見て行こうとする意図である。これはまた、弥陀や浄土を素朴に実在視しそこからすべて出発する、とい う現代的理性をもってしてはとうてい受け入れられない解釈からの脱出を目指してのものであることは間違いない。 この意図自体は尊重されるべきものであろうが、 はたしてその非神話化が浄土教における救済思想の体系を崩して しまいはしないかというおそれなしとは言えない。壮大な阿弥陀説話の非神話化は、或る意味では、阿弥陀仏及びそ の浄土を最終的には否定してしまうことになるのであるが、その場合、本願名号とそれによる衆生の救済すなわち往 生をも否定しなければならなくなる。救済の本源を本願名号におく宗祖の立場も、当然その根拠を失うことになろう。いまひとつの問題点は、弥陀とその浄土という超越的なものの奥を探り、無上仏・無上浬探或いは真如というよう な、或る意味では内在的なものに帰してしまうことによって、信巻別序に批判されている﹁自性唯心に沈みて﹂とい う 傾 向 、 つまり唯心の弥陀・己身の浄土というとらえ方に偏してしまう可能性のあることである。
一
、
二
諦
1
l
i
﹃論註﹄から宗祖へ
l l
l
宗祖の弥陀身土思想が所謂二諦説に立脚していることは否定できない。 ﹃論註﹄の二種法身説に直ちに依拠して、 さらにダイナミ γ グ な 展 開 を 示 し て い る 。 この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、元辱のちかひをおこしたまふをたねとして、 阿弥陀仏となりたまふがゆへに報身如来とまふすなり。これを尽十方元専光如来となづけたてまつれるなり。こ の如来を南元不可思議光仏ともまふすなり。この如来を方便法身とはまふすなり、方便とまふすは、 かたちをあ ら わ し 御 な を し め し て 、 衆生にしらしめたまふをまふすなり。 すなわち阿弥陀仏なり。 ︵ 真 宗 聖 教 全 書E
の 六 一 六 頁 ︶ と﹃一念多念文意﹄にある文、また、 しかれば仏について二種の法身まします、 ひとつには法性法身とまうす、 ふたつには方便法身とまうす。法性法 身 と ま う す は 、 い ろ も な し 、 かたちもましまさず。しかれぼこ L ろもおよぽず、ことばもたえたり。この一如よ りかたちをあらはして、方便法身とまうすその御すがたに、法蔵比丘となのりたまひで不可思議の四十八の大誓 願をおこしあらはしたまふなり。 ︵ 真 宗 聖 教 全 書H
の 六 一 一 一O
頁 ︶ と﹃唯信紗文意﹄にある文を見れば、宗祖が﹃論註﹄の二種法身説に依拠していることは疑いがなく、 い ろ も な く か 親 驚 の 二 諦 思 想 に つ い て。
親 驚 の 二 諦 思 想 に つ い て
。
たちもない不可言説の法性法身と、法蔵・本願・弥陀というかたちのある方便法身の関係が明らかに示されている。 つまり、第一義諦︵右の引文における宗祖の用語では﹁いろもなくかたちもましまさぬ﹂ 一如宝海︶すなわち法性 法 身 と 、 ﹁かたちをあらはし﹂た﹁法蔵菩薩﹂・﹁四十八の大誓願﹂・﹁阿弥陀仏﹂であるところの方便法身との関係が 明瞭である。これに依れば、第一義諦たる法性法身が、世俗諦たる方便法身へ顕現した、という一方向のみが宗祖に よってとらえられていることがわかる。 ﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナリ﹂にみられるような、世俗諦︵こ の場合はク弥陀仏乙から第一義諦︵この場合はん γ 自然乙への方向を説いているとも解釈できるようなものとは、根 本的に相違するのである。 ここで当然提起される反論に答えておかなければならない。その反論とは、 右 の ﹃一念多念文意﹄と ﹃ 意﹄の所説は、仏の立場に立つてのものであり、これに対し、往生人の立場に立てば、﹁弥陀仏﹂︵世俗諦︶から﹁自 然 L ︵第一義諦︶への方向にあると解釈してもよいのではないか、というものである。 つまり、仏の側に立てば第 義 諦 ハ V 世俗諦の方向にあるものが、衆生においてはその逆の方向をたどって世俗諦心第一義諦へと進むのは当然のこ とではないか、というものである。これも尤もな解釈ではあるけれども、﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナリ﹂ ⑤ の一文を除いては、そう解釈できる可能性のある表現は他には見られないのである。 宗祖が依拠した﹃論註﹄では、二諦はどのようにとらえられているのだろうか。 ﹃論註﹄では、法性法身と方便法 身の二種法身説、浄土の三厳二十九種のク広。と一法句のク略。の関係、が二諦思想に基いたものであるが、二種法 身 の 由 生 由 出 、 ク 広 略 ψ の相入という点において、二諦が相即することが明瞭に説かれている。上ノ国土ノ荘厳十七句ト如来ノ荘厳八句ト菩薩ノ荘厳四句ヲ広ト為ス。何ノ故ニカ広略相入ヲ示現シタマフトナ レパ、諸仏菩薩ニ二種ノ法身マシマス。 一者法性法身、二者方便法身ナリ。法性法身ニ由テ方便法身ヲ生ズ、方 使 方 身 − 一 由 テ 法 性 法 身 ヲ 出 ス 。 此 ノ 二 ノ 法 身 ハ 異 − 一 シ テ 分 ツ ベ カ ラ ズ 、 一ニシテ同ズベカラズ。是ノ故ニ広略相 入シテ、統ズルニ法ノ名ヲ以テス。菩薩若シ広略相入ヲ知ラザレパ則チ自利利他−一能ハズ。 ︵ 真 宗 聖 教 全 書
I
の コ 一 六 ー 一 二 三 七 頁 ︶ この文では、第一義諦は一法句の略および法性法身で、 また世俗諦は三厳二十九種の広および方便法身で表現されて、 二諦が相即することが明らかにされている。曇驚大師の属したとされているゴ一論・四論系統の二諦観、すなわち二諦 相即の思想にもとづいているのである。 と こ ろ で 、 ﹁論註﹄の所釈である﹃浄土論﹂では、世俗諦たる三厳二十九種と第一義諦たる一法句の関係を、 此ノ三種ノ成就ハ願心ヲモテ荘厳ス。応ニ知ルベシ。略シテ一法句ニ入ルガ故ニ。 一 法 句 ト ハ 謂 ク 清 浄 句 ナ リ 。 清浄句トハ謂グ真実智慧無為法身ナリ。 ︵ 真 宗 聖 教 全 書I
の 三 三 七 頁 ︶ と 説 く が 、 ﹃論註﹄のような広略相入の表現はみられない。また、これに続けて、 是ノ如ク菩薩者摩他ト枇婆舎那トヲ広略一一一修行シテ柔濡心ヲ成就ス。実ノ如ク広略ノ諸法ヲ知ル。 ︵ 真 宗 聖 教 全 書 ー の 二 七 五 頁 ︶ とはあるが、この広略は叶論註﹄にあるような第一義諦と世俗諦の相即を説くものではない。ところが﹁論註﹄では ﹁菩薩若シ広略相入ヲ知ラザレパ、則チ自利利他−一能ハジ﹂と、この文を広略の相入を 先に引いた文にあるように 強調するための依拠としている。 このように広略の相入、第一義諦と世俗諦の相即を強調することによって、 ﹃論註﹄はかえって第一義諦の世俗諦 親 鷲 の 二 諦 思 想 に つ い て 一O
一 一 一親 驚 の 二 諦 思 想 に つ い て
一
O
四 へ の 展 開 を 語 る こ と に な る の で あ る 。 ﹃ 浄 土 論 ﹄ の 真 実 智 慧 無 為 法 身 を 釈 し て 、 真実智慧トイフハ実相ノ智慧也。実相ハ無相ノ故−一真智ハ元知也。元為法身トイフハ法性身也。法性寂滅ナルガ 故に法身ハ元相也。元相ノ故ニ能グ相ナラザルコト元シ。是ノ故ニ相好荘厳即法身也。元知ノ故一一能ク知ラザル コト元シ。是ノ故−二切種智即真実ノ智慧也。 ︵ 真 宗 聖 教 全 書I
の 三 三 七 頁 ︶ と説くが、ここにみられるのは、無知なる真実智慧から一切種智への展開、無相なる無為法身から相好荘厳への展開、 要するに第一義諦から世俗諦への展開である。換言すれば般若から方便への展開だと言ってもよい。 宗 祖 の 二 諦 観 が 、 ひとえに﹃論註﹄のこの面を継承したものであることは、 先 の ﹃ 一 念 多 念 文 意 ﹄ や ﹃ 意﹄の引文を読めば直ちに理解できることである。 ﹃ 論 註 ﹄ で は 二諦の相即を強調し、先の真実智慧無為法身の釈 でも、無相から相への展開、無知から知への展開を説きながらも、 ﹁是ノ故ニ相好荘厳即法身也﹂著とか﹁是ノ故 一 切 種 智 即 真 実 ノ 智 慧 也 ﹂ というふうに再び無相無知のレベルに引き戻している。 し か し 、 宗祖の著作においては ﹃教行信証﹄におけるこの﹃論註﹄の引文以外に、右の内容をあらわす文は他にみられない。要するに、宗祖におい ては、二諦相即というよりは、第一義諦から世俗諦への展開のみが、すなわち法性法身から方便法身への展開のみが、 ﹃論註﹄から継承されたと言ってよいのである。 宗 祖 の 二 諦 観 に お い て 、 いまひとつ特徴的なことは ﹃論註﹄の二諦が原理的に中観思想に基いたかなりの幅のあ る 内 容 を 有 す る の に 対 し て 、 ひとえに阿弥陀仏に限ってこれを適用していることである。 ﹃論註﹄の二種法身説にお げる諸仏菩薩を、法蔵菩薩と解釈した上で先の﹃一念多念文意﹂および﹃唯信紗文意﹄の説を展開させていることが、 その証明となることはいうまでもないであろう。阿弥陀仏の本願とその成就の象徴である名号は、超因果の無為法身が因果界に顕現したものである。法性法身︵第 一義諦︶が方便法身︵世俗諦︶の形態をとるとき、すでに一切の因果的存在はこの世俗諦に包摂されている筈である。 何 故 な ら 、 ﹃論註﹄における二諦はその本来的な約教の二諦︵世俗諦言説つまり教説は衆生をして第一義諦真如に導 くための誘引方便であるとする二諦説︶の意義を放棄して、般若空︵第一義諦︶を体とする用としての世俗諦を説く ために依用されたものだからである。すると、これは実在を二分するものでなく、実在の二重構造或いは実在の二面 性を表現するものであるから、 一切の存在において、これから除外されるものはひとつとしてない筈である。とすれ ば衆生はすでに真如の一面である世俗諦中にあり、それ故に第一義諦真如と即一であると言えはしまいか。 しかし、宗祖においてはそうではない。衆生が第一義諦真如と即一である、或いは直ちに真如を証するという立場 をとらないのである。第一義諦真如である法性法身が、因果界に方便法身として顕現し、その上になお因果に即した 動きをあらわさなければならない。従果向因︵真如より因果界に来生した如来として︶の方便法身が、なおその上に 法蔵菩薩←その願行と成就←阿弥陀仏︵名号︶という因果に即した動きを示して、 はじめて因果界にある衆生に接す ることができるのである。本願とその成就は、それ故に、従果向因した方便法身の、衆生に対する更なるはたらきか けである。因果界に或いは時間の世界に顕現している方便法身としての法性法身の、衆生への絶えざる一体化の動き である。宗祖においては、如来とは因果の世界に在る身としての自己につねにはたらきかける阿弥陀仏以外にはなか っ た と 言 え よ う 。 四 、 以 上 を 背 景 と し て の 当 初 の 文 の 意 味 こういう宗祖の阿弥陀仏観を背景として考える場合、 当初の問題である ﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナ 親 驚 の 二 諦 思 想 に つ い て
一
O
五親驚の二諦思想について
一
O
六 リ﹂の意味が、先に挙げたような、弥陀は第一義諦真如を衆生に示すための手段方便である、という解釈とは全く趣 きを異にすることは言うまでもないであろう。かと言って、宗祖が弥陀や浄土を素朴に実在視して、そこからすべて が始まるとしているのでもないことは、例えば﹃教行信一証 L 真 仏 土 巻 に 、 仏は則チ是レ不可思議光如来ナリ、土ハ亦是レ無量光明土也。 ︵ 十 具 宗 聖 教 全 室 田 H H の 一 一 一O
頁 ︶ とあるように、弥陀身土を光明でとらえていることなどにうかがえるのである。 と も あ れ 、 ﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナリ﹂の一文だけをとり出して、弥陀が無相の無上浬繋を指示す るための方便手段であると解釈するには、 その背景となる宗祖の二諦観が、 ﹂の解釈とは余りにも方向を具にするも のであることは、前節において既にみたとうりである。 たとえクレウ ψ に﹁方便﹂の意味を認めるにしても、その方便は般若を体とする用としての方便であるべきで、行 者が第一義諦真如に近づくための方便であるとは受け取り難い。 つまり、弥陀のはたらきとしての方便であって、方 便の教説という意味に理解すべきではない、 と い う こ と で あ る 。 ﹂こで注目すべきことは ﹁自然法爾﹂の法語は、顕智上人真筆本および文明版﹃正像未和讃﹄本によると、もと もとは﹁獲得名号﹂を解説するものであったと推測されることである。 獲字ハ因位ノトキウルヲ獲トイフ 得字ハ果位ノトキニイタリテウルヲ得ト云也 名字ハ因位ノ時ノナヲ名トイフ 号字ハ果位ノ時ノナヲ号トイフ自然トイフハ自ハオノツカラトイフ行者ノ ハ カ ラ イ ニ ア ラ ス シカラシムトイフ コ ト ハ 也 @ 然 ト イ フ ハ シ カ ラ シ ム ・ : これは顕智上人真筆本であり、文明版﹃正像末和讃﹄本とは、文字使い以外に殆んど異同はないが、自然の説明の二 行自から行の頭を下げてあるというところが異っている。これは何を意味するのであろうか。自然の釈が、獲得名号 の付加的なものであったことを示すのではないだろうか。尤も、自然の釈の途中﹁弥陀仏ノ御チカヒノモトヨリ行者 ノハカラヒニアラスシテ﹂から、再び行の頭が上って、獲得名号の釈と同列になっているから、決定的な理由とはな し難いが、自然の釈が獲得名号の釈に関連してなされたものであることは、顕智上人間書の体裁からみて、疑いを容 ⑦ れ ぬ と こ ろ で あ る 。 自然の釈は、本願成就の名号を説明するために為されたものであった。 しかも、獲得名号をそれぞれ因果で釈し、 名号が因果界に即してはたらく法身であることが述べられている。宗祖における自然とは、 まさにこのはたらき、す なわち法性法身が法蔵|弥陀として因果界にはたらいているそのことを示すものであったに違いない。自然は、 し た がって、名号の立場から解説されているのであって、その逆ではない。ここで阿部正雄氏の、 親驚の場合、空・一如は本願の側に立っていわれているのであって、空・一如の側に立って本願がいわれている のではありません。それは、親驚においては、業があくまで罪業として問題とされたということと不可分にむす ⑥ びついているからです。 親 驚 の 二 諦 思 想 に つ い て
一
O
七親 驚 の 二 諦 思 想 に つ い て
一
O
八 という一文が、大きな示唆を与えてくれる。これは、本願︵この場合、弥陀仏・浄土等の有相の方便法身を代表する 語と解して差し支えない︶と空・一如︵この場合、自然・無上仏・無上浬般市等の無相の法性法身︶との関係を述べた ものであるが、これによれば、本願すなわち方便法身から空・一如すなわち法性法身が導き出される、換言すれば方 便法身が表で、法性法身は裏ということであろう。すると、阿弥陀仏が法性真如への階程的方便であるという解釈と は方向を逆にするものであると言わなければならない。 さ ら に 、 ﹂ れ が 宗 祖 に お い て は 、 ﹁業があくまで罪業として問題とされたということと不可分にむすびついてい る﹂と言われているが、それは人間の現存在の底に法性真如という究極的真実を直ちに認める立場に、宗祖が立って いなかったということである。凡夫としての立場にしか立たなかった宗祖においては、法性真如はあくまでも自己の 外にあるものでなければならなかったことは、二種深信における機の深信をもち出すまでもなく明らかなことであろ ぅ。人間の業が罪業にしかならないという自覚は、本願という照射を得てはじめて成立することであり、自己の底に 究極的真実を認める立場において言えることではない。 ﹁浬蝶をば滅度といふ、元為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、真如といふ、 いふ、仏性といふ、仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちノ\てまします、すなはち一切群生海の心 に み ち た ま へ る な り 。 ﹂ ︵ 真 宗 聖 教 全 書E
の 六 三O
頁 ︶ とある﹃唯信紗文意﹄の文は、 一見衆生の底に究極的真実を認めるもののごとくに読めるが、決してそう読んではな らぬであろう。究極的真実又は如来の方からの衆生へのはたらきの方向を示すものと見なければならない。 このように考えるとき、最初に引いた﹃日本国語大辞典﹄のクレウタの意味のうちで、 ﹁ある物事の根拠になるも⑨ の 、 も と に な る も の ﹂ と い う 項 、 が 生 彩 を 放 つ に 至 る 。 ﹁ 弥 陀 仏 ハ 自 然 ノ ヤ ウ ヲ シ ラ セ ン レ ウ ナ リ ﹂ は 、 ﹁ 阿 弥 陀 仏 は 自然のありさまを我々に知らせる根拠となるもの、もとになるもの﹂という意味をもってくるのである。これは言う までもなく、先に述べたように、弥陀の側に立って自然が言われていることを明かす解釈となる。すなわち、方便法 身の側に立って法性法身が言われているのであって、その逆ではないということである。 玉 、 結 び と
し
て
﹃論註﹄の二種法身釈を通して継承された宗祖の二諦観は、真如法性とその世俗への顕現である法蔵|本願l
弥陀 に 限 ら れ 、 しかも、宗祖自身の言葉で﹃一念多念文意﹄や﹃唯信紗文意﹄にそれが釈される場合、法性法身から方便 法身への一方向に限定された、と言えるのではないか。。法性法身←方便法身の方向を強調するということは、とり もなおさず︵法性法身の︶方便法身としてのはたらきを強調するためのものにほかならず、すなわち法蔵l
本願|弥 陀 一言にして言えば、南無阿弥陀仏の名号のはたらきを言うためのものであったということでもある。 し た が っ て 、 ﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナリ﹂も、そのことを明らかにするための表現であったとしなければならない。 弥陀による救済の究極的意味は自然であり、弥陀によらざればそれが可能ならしめられる根拠はない、というべきで あ ろ う か 。 かくして、宗祖のニ諦観は、世俗諦︵方便法身﹀を場として第一義諦︵法性法身︶が成立しているというものであ り、法蔵|弥陀という方便なくしては般若がそのはたらきをあらわにすることはできない、という底のものであると 言 わ な け れ ば な ら な い 。 ︵ 京 都 女 子 大 学 ︶ 親 驚 の 二 諦 思 想 に つ い て一
O
九親驚のご諦思想について ① 註 竹内宜啓﹁獲得自然法繭御書小型、﹃高田学報﹄第十二 輯 ぬ J お 頁 に 対 照 稿 が あ る 。 ﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄ 第 十 巻 目 頁 。 同制頁。 同制頁。 よく﹁化身土巻﹂所引の﹃大智度論﹄の月と指のたとえ が、このために併用されるが、これは意味と表現の関係 を 一 亦 す た め の も の で あ っ て 、 こ の 場 合 は 不 適 切 で あ ろ う 。 ﹃高田学報﹄第四十六輯所載の﹁顕智上人間書﹂による。 岡 田