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日本書紀に現れたる百濟王暦に就いて

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

日本書紀に現れたる百濟王暦に就いて

鏡山, 猛

https://doi.org/10.15017/2341043

出版情報:史淵. 15, pp.81-100, 1937-03-30. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

日本書紀締纂にあたっては︑我岡内所仰の記文の外に︑

とした意岡が着られ手︒︒その一例として︑

される︒二年にあたるとして︐喬起居注の女か一引用してゐる︒

日本杏純に現れたる百濟王扉に就いて 三十九年.是年也大成己未︒灘囎糾魂加一賑麩組誰避四十年︒癖一澪鍔証轆鉦睦必︸榊砕弛識蝿蝋四十三年︒鈍誌に鰐郁跡地糀轄確姪憩鰕弛一︑↑︷︑︽二o是年︒晉武禰寒初二年︒睡切担居注一号武空ノュープ4蔽泰初一一年十月︒催女王遡二瓶蒜戒献一︒以上単に流仙年数戒は犬榧干支を神き三ヶ條は魏志倭 日本書紀に

現れたる

︵|︶

百濟王暦に就

岬功皇后識政紀を締くならば︑

1,

これは神紀細炊 人体の服文を引川し u 戸L

支那或は州鮮の哩糾〃一殿って細年諾細維

錨し亦僻暹術二京部一也︒ 過︸︸大夫雄升米等一・

奉にあたって皇代記年の汚定に川ひら

︽八一

︑一歩催は是年を靜武帝泰初

しやう

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(3)

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日本悲組に現れたる而濟王膵に就いて八こ

れた一つの史料である事を示してゐる︒書紀全縮の年記は︑色だの材料によって配序されたであらうが︑

との川功紀は独志及び涛起塒汪によってその絶對的年代が決定せられたのであった︒即ち細粁は川諜に見

える﹁倭女王﹂を以て祁功皇后に比定しやうとしたのである︒皇后の即位年代〃見ると︑やはり魂志幡人

体に説く如く︑桓躯の冊に怯剛大に剛れ︑女王叩彌呼立って側めて治まった時代に祁徽してゐる︒然し乍

ら六十六年の條に引川した晉起鵬注の倭女王は卑荊呼ではなくして︑その宗女壷與である事は魏志@文に

明である︒細考は不川迩にも︑一Xの倭女王を一人@脚功皇垳となした事によって︑六十九年といふ水い

流仙歩與えなければならなかった︒一川功幽罪厩の御仙は︑かくし王一祇紀の前中期︵西紀二○一I一天九︶

寺占める絲果となった︒然し乍ら︑皇后治価の疵年代は兎も角としても︑撚蚊記に現れてゐろ百濟の紀事

は後述する如く四五枇紀の交の事で︑干支に於て二通だけ降った時代のものである︒若し以下に述る如き

百濟との交渉か︑一川功皇后の時代に始ったとするならば︑書紀に於ては皇后の治仙は︑凡そ百一千年箇際

よりも古く遡って細年されてゐるといはねばならぬ︒從ってこれより後の時代の百濟開係の記事も︑内地

の所傳と關辿せしめて細紋する以上︑年代刑に大きな捉飢か淵かれねばならなかった︒此の況飢が先づ如

何に百沸王雁の上に現れて来るかを取り上けて問題として見たい︒

|・祁功皇后轍四十#.干豊彦箇て百禰蘇を熱かすむろ罪を間はし朧の註搭耀獲︒

以下害紀に引川された而濟史料を加次に列絃して見やう︒

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■●

(4)

一一

七.雄略天皇五年︒螺蕊膜蘇唯蠅雑藏峰一 八︑武烈天皇四年ふ繍艘朧謡織巽︽群擬一蔽篭畷感謝獅碑蕊織蓉蒔訓罐

ノ、

00○○ 始祀也o両演記云職城那那加比脆者読是馳也︒ ○○○ 狐︿姓人一o一云武藏國人○今是凱田部槻本芭等之

︑祁功皇后六十二年・新羅不し朝︒即年避二襲津壱一雛室新羅一.認継一罹華灘︒斜辮礎難彗蝋型

錨於津一o沙至比蹄受一興美女一︒反伐加羅閥一︒加靴閲王己本恥岐腿兄百久氏︒伽筒誰︒州沙利︒伊梛肺泗︒爾汝至

等G勝二其人民一o來奔二百濟一・百減厚遇し之︒加縦叫王艸珊殿竿c向二大倭一秤云C天凰一遡二沙至比脆一以討二新珊聿く

而納二新聯美女一捕而不し討︒反艇二我閲一︒児軸人災拷駕洗洲o不y杯︾憂恩︾・故以来牌J天嘩犬趣常即拙木靴斤読

髄一兵衆一來二集加羅一復一翼祗程一o一云沙至比鮠知軍天曜怒一︒不一耐公蓮一c乃自攻伏︒其蛛有r幸二y恥宮一者k比

脆密巡二使人一.間二天皇怒解不一o妹乃託し砂一百︒今夜夢見二沙韮比蹄↓C天

恩大怒一奄比脆何雌來︒以一瑚言一報し之c比脆知v不し免入二洞穴一叩死也︒

○○一︑腱祁天皇八年︒春三月︒百濟人来朝諦蠅渉鯏祁饒瀞響稚率舜酔鞍蝋蝿犠砺溌彌陛弾

雁祁天皇一千五年︒百濟直支王蕊︒即子久剛辛立爲v王・王年幼・大倭木猟致執一國政一・與一王母一祁婬︒

多行一無鵬一︒天皇聞而刑﹂之︒諜羅蕊繋嫉群謡蕊蕊誕蝋謝鯉諜鳴り

然天皇側二共悲韮一召し之︒

雄略天皇二十年冬︒郵癖瞬癌函識畑謬鐸蜘一坪峠李封哩払恥塞一厩奔浮粋孔鋤荘↓夜﹂

以上百桝記︒

雄略天皇一年.螺蕊鮨凝議坤離議鰄舗蕊礒晟

日本番純に現れたる百濟王勝に就いて

1.1

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八三

(5)

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=と

以上百濟新撰︒

九・鱒天皇三年毒一月︒輩一箪息癌騨巽獄識唾

︑ 繼 朏 天 皇 七 年 夏 六 月

︒ 百 群 塗 珈 彌 文 武 將 姫

︒ 洲 利 即 燗 將 軍

︸ 刑 一 融 械 臣 抑 山 一

・ 翻 姉 鉢 幅 嘩 瀞 委

十一︑轆髄天皇九年春二月甲戌朔・丁冊・百群使者文兆且將砿等諭し龍︒佃勅刑二物部連︸桐遥罷肺之︒蝿辨郵燕準

士一・繼肥天皇一千五年を一月・天皇病落丁未天皇崩二子辨灸王離出︵中略︶鰄榧唖詮菫拒計毎群雑趣却砿

l』且

通一計新羅一・深童一賜之一・函唯侭潅縮鋤評挿戦跡蜘握 茄味淳︒紀臣奈奉彌肺沙等一︵蝿︶使二子安羅一瀞一列新羅任那執事一説ソ雄一任那一・別以三安雑日水府河内直 欽明天皇一年秋七月・百濟聞ド安雑日本府與二新羅一通ヒレ計︒泄二前部奈李鼻利︒英古奈奉火文・中祁奈奉木

獄明天皇五年二月︒ソ鞭守淵二糺莱・撫蕊鱸群畷緬.宜一詔仙而間任那之戯.︵中略︶測詔一一

河内山|螺黙孵鍬祁蟻蝋日背迄隊今唯剛菫汝理︒汝先肌等岬艤罐赫赫縦辮聯

雑認印婚誕倶懐二軒燗一誘説︒爲歌可君岬幟峰↓鉦鋸据峰導儒二其言一不し罐二叫難一︵中略︶乃飛一し使刀加三川水府

認蕊鑑溌頒︒與在郡︵中略︶夫係弾以︽|安羅嬢肥唯從二韮挫一︒烹人者以二口水府・喝﹄天︒ 安一・叉川日永天皇没堀太子似崩難︒山し此川云二辛亥之旗一徹二二十五年一実︒後勘校者知レ之也 昔収間濟本把一濁し文︒共父一壱八歳辛亥三月︒師推至二子安雛一・瞥乞徳唆一・是月商麗試二其王 島王是蓋闇王之子也︒末多王是混亥王之孑也c是口二卿母児一末し洋也○ 名し島︒今各鞭海中有二主島一︒王所し産品︒故百濟人號爲二主烏・今案 日本番組に現れたる百濟王塀に沈いて

八四

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(6)

唯從一共意一・龍蕊続一鎧穂淨︵中嶋︶於︽印爽蝿俊一米詐曽嶬︒銀繁潅躍鞠瓢一新

雑無一復催二通他境︸︒︵中略︶冬十胤百濟使人奈奉符文︒奈率歌肺等惟肺鞆噸嘩銅罎四匪計鈩舞畔癖睡竪不

奏河内直感郷斯脈都等覗無二報勅一也︒

毒欽帆天皇六年︒剛沁戯︒高雅大飢被二誹殺蒻衆●辮職僻蛎一説縦洲職城溺鯉鱗曝難蝋

爽︑欽鴫天皇七年.圃疋歳高雌大乱.凡闘死考二千齢︒頓戦雲魂鱒興維謝薮鏡戦鐡

織擁鮮戦難装篭獅職難一珂鮮嘘︒

十七.欽明天皇十一年春二月辛己朔︒灰爽︒遥峰使詔二千百濟応樵禦鑿群一蕊誠篭本︵中略︶夏

四月庚辰朔︒在一百濟一日本王人方欲v遼之︒魎蹄酵燕唯峠傘鋤昨咽 十八︑欽明天皇十七年赤正月︵中略︶別迷筑紫大弘都職蜂州稚軸紫李一男士一千︾術逢姉殿︸︒

以上百淡水記︒

以上の引川書目を兇ろと︐少くとも一二つの百濟國に棚する記録が常時にあって書紀細纂に役立ったもの

であった事がわかる︒飾一に百済記︑笙一に百濟新撰弟二一に百済本記がこれである︒この三つの記録の

性愛は︑引川簡所が極めて伽かである爲に充分明かでないが︑多少とも一重画の川には綿纂時代腰洲後があ

る事が肌はれる︒一孟口の配列は百満記は脚功擶政紀より雄略紀まで︑新撰は雄略紀より武烈紀まで︑本記

は総慨紀より欽叩紀までで︑新撰引川の時代に百濟紀が一ケ條︵五︑百済王都陥沸の事︶入ってゐる外は︑

日本謹糺に現れたる百濟王勝に就いて八五

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(7)

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日本君細に現れたる百癖玉杯に就いて八六

年代的に順次にまとめられて引かれてある︒虹に共の文ぞ楡すると︑この記鋒成立の前後の關係が猫明か

に知られる︒

︵二︺︵五︺へ七︶

第一に紀年法について見ると︑百濟記及び新撰は干支を記すのみ︵例へば壬午年︑乙卯年冬︑辛孤年︶で

︵十二︶へ十七︺

あるに反して︑本記に総ては太歳辛亥三月の如く川を入れ更に叉三月十二日辛酉︑四月一日庚辰の如く日

の干支迄も書き加へて︑他の二神よりも粘碓さを加へてゐる︒三森の引川文は年或は月日にかけて沖かれ

た齊態を冊めてゐる所から老へれば︑大冊百満に開する細年的な記錐である事が知れやう︒

輔二に日本の事を百濟記では黄叫︵一ヶ所大倭︶と書き︑新撰では倭或は大倭となし︑本記では日本とな

ってゐる︒支那及牛烏で古来Ⅱ水か僻と孵せられたのは︑支那では後淡普以来の記録により︑朝鮮では商

句寵好太王の碑文で知る事が川来るが我剛を稲してn本といふ文字を用ひるやうになったのは左程早い事

ではない︒推古朝﹁日出虚天子云堂﹂の句を以って支那に對して日の本と云ふ概念の發芽を見せてはゐる

が︑日本と云ふ字句が彼の地の記錐に見えるのは︐府誓以來である︒店書の日本傳によれば︐日本の字句

を説明して﹁戒享元年︒避使賀半高肥︒後稻智夏一昔︒悪倭名亜號日本︒使者自言︒剛近日出所っ﹂として

○○ゐる︒我が閏では齊明紀に引川された高麗沙門道顯の﹁日本仙記﹂があり︑叉同紀に引川された伊吉辿博

○○・

徳の日記と恩はれる菩に暦の朝廷にて﹁日本國天皇平安以不︒﹂と訊ねられた事を記してゐる︒即ち日本と

云ふ語は肝代に入って漸く川ひられたものである事を知る︒從って文字によって解鐸するならば︑百濟本

記は百濟滅亡後の編述であって︑他の書に比べて蚊も降った時代の書である事が判然する︒然し乍ら日本

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(8)

を孵して貴剛と云ひ︑犬倭と云ひ天朝と云ふ類は︑半島川の記録としては不自然である︒のみならず︑百

濟新撰に泥支王が倭に向ふ時筑紫の烏に列て子花薩み︑後北へ子が即位して志卿王と呼ばれた山來を説明し

︵八︶●●●

てゐるのは︑國語の烏l志肺と通音にょら日本的な論明傳説である︒反ってその島溌百満人號して主島

となすと云ふ註稗的な句は︑両濟人自身の説話記鋒として如何にも不自然である︒日本溌武剛︑大使と云

ひ白剛を百濟と國名か僻記する如きは︑半島に生活してゐた育濟人の誰になった鴫のとは老へられぬ︒足

を我が國人の勝手な潤色と老へればそれまでごあるが︑然し原書の文句迄自由に鍵更する窓意彩害紀の細

者が持ってゐたか頗る疑川であみoさすれば我岡に師化した所の百濟人の手によって書かれた記録である

と老へるのが︐最も潅徽であらう︒

假令比較的新しい時代に師化百済人の手になったにせよ︑その材料となったものは︑更に古い半島に於

ける記録であったに相進ない︒その例は日本の問有猪詞の番き方に現れてゐる︒百群記以下日本の人名は

躍昔の漢字溌綴ってゐるo例へぱ職麻那那加比鮠︑沙至比脆︑の類である︒書紀の本文では前蒋は千熊長 ︵一︶

壱であh後考は鯉津彦と鍔かれてある︒猫例ぞ恥れぱ穂祇凧抑山が委意斯移肺岐州となり︑河内直が加不

︵十三︶︵十四︶

至批直と通り︑的伍が鳴胡波匝となってゐる如く︑稗紀の緬若も百濟の記録に現れた日本人名ぞ以て︑日

本の慨川字に引匝すのに背心してゐるo本紀の人猪諾以て﹁語批不レ砿未レ祥﹂等云ひ︑箙しからず未だ詳

へ十四︶らかならざる人名の字をその主坤本文に北︑を下してゐる︒欽叫天皇五年の條の如きは殆んど百洲本記によ

って菩紀の本文が課かれたと恩はれるから︑この苦心が蛾も特しく現はれてゐる︒猫妓に附言すべきは百

八七日本独組に現れたる百濟王廓に就いて

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(9)

拙蕊蝉凋Q腱︽U一・W

劃得〃 稀S樫k型 六臆昼﹄毒一週引 叩禿簔EJ緬︒蝉︒k・ 三や庁釈淵賭︒︒掲啄穴遥 /︑ノk弾制ぺ︺匡く型窪シ声二罫U一堂や 一︸一・心蕪9得津く鍔写叶︒勺凋 Q罫草刈︒善昼 山淀gol鴬①く筵K罫伽伽 ﹀長ド梨U一心三窄憎舟彦Q一蓬岳r︲奉 坤に燕巻型に中咋RSU−三詞刈 升S巡卜絆︒鎧冷酋鑿︒侭や 潔里︒川一K一心黒Q 畏︒穐慧 豊P蓉一睦畏レー善一や稟議型P志汽蒜 P誰岬領5︒﹀﹄蕊刈今言︒司隷U一 一錘螺乍農樫恥﹃篇e裳写請19淵心 賛抑︒・Qや漣opj里欝担知︒K 群尽隠恒伽U一損塞誇畳蝉劃Q琴篤舗 〃い︲漂揖詞蹄睾濤営心梨謹置呉庖U− や指黛叩一覗投龍Q椚萱潤壜昼忌刈豊一 汁漿蝉竿昌婁画旦志・三黒弛言や剥 Ⅳご仁吟苓蟇司窄蔓く川憲司︒Ⅷ﹁︲蝿g 侭騨廻課︑ 誰壗掴酬識釦川︑ノS梼紘没﹀膿蜑 昼9幻K言秋9蠕川淵・粥旦牌︲S讃一劃 得﹄一雲や蒋笥畏三窄匡蕊︒心潤逆9員

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(10)

以上の説話は記︑紀︑に物語られてゐろ三純征伐後の百濟朝貢時代の事としては了解し難い︒即ち征韓

説話と切離して老へらるべき川の︑両濟が我幽に始めて交通した山來を物語る百濟側の説話でなければな

らぬ︒か上鳥説話が百濟記の文より出たものか︑或は別本であるかは不明にせよ︑兎も角我剛で出來た説

話でない事は首肯川來る︒

︵一一一︶

百済に於ける細年悶の史蒋が辨紀細蝶術時に作してゐた事は以上で明かになったと思ふ︒從って其の内

容にもられた日本に開する事項が︑諜紀に引川されたのも轍然である︒然しこの場合に天皇代によって細

年されるこの害に於て︑Mじく恐らく両濟王代によって緬序されたと恩はれるものを如何に入れて行くか

壇常然問題となる︒評紀にほとんど各代の両濟王の蕊即年と系柵に鮒する記事を折り込んである事は︑我

閥の天皇系州︑諸家の系訓の如き而濟王系識が存し︑引いて王代系譜を中軸とした所の細年井の存在浄豫

惣せしめろ︒祥舞は先づ押紀に見える百濟王勝について松討を加へやう︒

今左に卿ぴ日本評紀に記戦された百沸王肝削係の記事を扮って列べて見ると︑

川功皇后搬政五十五年︒︵乙亥︶百濟肯古王斑︒

同五十六年︒︵丙子︶汽濟王子蛍弧立爲レ王︒

同六十四年︒︵叩巾︶百濟愛披王蕊︒王子枕流立爲γ王︒

同六十五年︒︵乙凹︶百濟枕流王蕊︒王子阿花年少︒叔父脹斯亦立筋し王︒

日本番紀に現れたる訂濟王孵に就いて八九

1

9

(11)

唯川天皇三年︒︵壬辰︶処歳︒百群灰斯王立之失二脚於災剛天皇一・故避二紀角宿禰・羽川矢代術彌・荷川捕

脚︒木磁柄禰一︒噛呈誰共元y概状︸・山し是而濟閏教二辰斯王一以謝之︒紀角病剛等使立二阿花一鰯γ王而肺︒

同八年︒︵丁酉︶百満記云︒阿花王立光し磁二於炎剛一︒故奪︸一我枕蠅多澱︒及帆南︒支侵︒谷那︒束韓之

地一︒是以逝二王子直支子天朝一以怖二先王之好一也︒

同十六年︒︵乙巳︶是歳︒百濟阿花王斑︒天皇召二直支王︸訓之日︒汝返一一於叫一以伽レ位︒

同二十五年︒︵叩寅︶百濟直支主苑︒即子久爾辛立爲レ王︒

雄弊天皇二年︒︵戊戊︶百沸新撰云︒己巴年︒兼尚王立︒

同五年︒︵辛丑︶百濟新撰云︒辛丑年︒號蜘王遊二弟班支君一︒向二大倭一侍二天皇一︒以脩二先王好一也︒

同二十年︒︵丙辰︶百濟記云︒蓋肉王乙卯年冬︒狛犬軍來︒攻二大城︸︒七日七夜︒王城降陥︒逢失二尉

臓一︒岡王及大府王子等拷没二敵手一︒

同二十一年︒︵丁巳︶春三月︒天皇聞ド百濟鰯二高服一所上し破・以二久肺那利一賜二紋洲王一︒救興其剛一︒

︵中黒︶紋洲王蒋尚王母弟也︒

同二十三年︒︵己未︶夏四月︒百群文斤王斑︒天皇以二足支王五子中︒鮪二末多王幼年聰明一︒︵中黒︶

使レ王二其國︵中黒︶処爲二東城王一・

武烈天皇四年︒︵壬午︶迭歳︒百濟末多王鉦γ道︒暴二店百姓一・阿人途除而立二鵬王一・是爲二武準王一・百濟

新撰云︒是混支王子之子︒則末多王異母兄也︒︵下鶚︶ 日本番組に現れたる両濟王咋に靴いて

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(12)

繼燈天皇十七年︒︵癸卯︶夏五月︒百濟國王武寧斑︒

同十八年︒︵叩辰︶春正月︒百濟太子明即位︒

欽明天皇十六年︒︵乙亥︶春二月︒百濟王子餘昌輩一王子恵一奏日︒聖明王爲/賊見レ殺・

先づ以上害紀の文に現れた所によって百濟王の系譜を表記すれば︑次の如くなるであらう︒

この系譜で不明な簡所は久爾辛と蓋南王︲との絨柄︑及び汝洲王の次に即位した文斤王の地位である︒前

者は後に述べる理曲によって︑害紀に案隙が生じてゐる山來を知ることが朏來ろが︑後者の記赦洩は故意

か偶然かわからぬ︒之ぞ鯏鮮に於ける現仔溌古の史籍三閏史記に記された所と對照して見ると左の如くな

︹三剛史記︺

︵花︶︵直︶︵ナシ︶︵汝洲︶︵女︶

近肯古l近仇首11枕流l阿華l肌支I久爾辛I砒有l蓋閲一H峰鋤Ⅱ潅吋l武寧I聖l餘凸

︵斯師︶

︵右側の細字は齊紀の字︑三國遺事も全く史記と同文である︶

誰画紀と史記とを對照比較して見ると︑久附辛以前六代既ぴ聖王以後の系譜は全く一致してゐるが︑蓋閏

九一日本神細に現れたる百済王癖に糊いて デCO

術古l貴須llN廊耐l阿花l直支l久胴半

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汝混 洲支

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末武 多寧

(13)

日本悲祀に現れたる口濟王孵に翻・いて九二

王以下武寧王迄の数代に︑耕しい莱異がある︒

先づ書紀に全く見えない咄打王から瞼すれば︑宋諜の両済仰に︐﹁乢死子慶代立︒仙肌大明元年謎使求

除授︒詔許︒﹂とあり︑咄が砒有王に祁常し度が恭南王に扣當する事は︑その即位年代からも背汁川來る︒

此應に於ては朝鮮の史料たる三剛史記及び迩躯の系譜の服しい事が承認される︒既に我閏に於ても少し年

○○○代は降るが新撰姓氏錐に於て両濟岡部慕王後毘有王より川でた︵姓氏錐右京諸群下百濟不破辿︶と云ふ氏

もあった事が見えてゐる︒諜紀かこれを記戦しなかったには刈山があるが︑行文の便冗上後述する事とす

﹃わ︒

次に兼幽王以下武寧王迄の王代の茨鋪については害紀に於ては︑或は本文に於て・或は引川の百満史料

によって︑かなり詳細E日ろて記してゐる︒誰点王か弟混支を荻日本に避した際︑兄王の姉を跣って途中

筑紫の島で生れたのが鳥王であると云ふ新撰の説明があるが︐この斯肺王は即ち武寧王であるo新撰に云

ふ辛丑年即ち雄料天皇五年況支王が我図に来朝の際斯肺王が生れたとすれば︑即位常時は川十一才である︒

以上の説話によれば武獅主︵志肺王︶は蓋醐王から見れば甥であり︐叉事賛は荒闘王の子でもあった︒百

濟新撰の文﹁武寧奎峪諦斯肺王︒叩沁埖支王子之子︒川未多王蝿母兄也・﹂を普紀の鯆者が疑って﹁鵬王

阿嚢恥肉王之子也︑是卿鼎毎兄末詳也︒﹂とあるのも不思議rはない︒害紀の説話を信ずれば剛方の關係が

同時に成り立つ︒然るに一方三幽史記に於ては斯肺王即ち武寧王は蓋肉王の玄孫となり︑と上に必呵紀の系

譜と大きな開きが生じてゐる︒蓋歯王の崩年から武寧王の即位年迄は︑繩かに二十六年間である︒この短

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111

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40ユリ

(14)

い期間に於て如何に蓋闘王が高齢であり︑武寧王が幼年であっても︑史記匡云ふ如く三慨の子孫が即位す

ると云ふ事は︑餘混特殊な場合しか老へられぬ︒それも然し全然f可能と云ふ課でもないが︑史記の系謡

に更に支障を來す一條があるり南齊書百満体に次の文がある︒﹁制詔部将百濟諸軍事鍾束大塒軍百桝主牟

大︒今以犬襲帆父牟部鰯百群王即位︒﹂と︒右の年代は南齊諜映文の︽爲明記されてゐないが︑﹁南史﹂﹁冊対

元雅﹂等によって齊の︑氷明八年牟大泄使の事として記されてゐる︒百群王牌傘ぞ以て常時の百濟手婚按すれ

ば︑牟大は東城王であり︑︵三岡史記に喝東城王祥牟大排とあり︶前王牟都は三斤王であらなければな

らぬo即ち淡史によれば東城王は三斤主の孫でなくてはならぬのに︑三剛史記では從弟になってゐみ︒而

も三斤王の即位は史記に﹁王蕊繼位年十三歳﹂と述・へてゐ︽︒︒三國史記細者もこの矛盾令や蕪付いて次の如

く冊封元蝿令齊害の記事を疑ってゐる︒

﹁冊府一元魑云o南齊建聖一年︒百沸王牟都遼使貢献︒詔日︒密命惟新︒深被絶域︒牟都祉蕃束表︒守職退

0○○○○00○○○○○○

外︒可即授使持節部将百濟諾軍事鋲東大將派︒又︑水川八町︒百満玉木大拙仙上表︒泄謁考惟射孫剛︒轆命

0○0○○○○○○○○大興亡Ⅷ父牟都爲百濟王︒剛︒於戯帷附仙製叫鋤︒誠蒋遇表︒海路蜥流︒要貢無替︒式術紳典︒川纂顯命︒

従敬哉︒其敬孵休業o可不愼雌︒行部将百濟諦郡事鋲東大澗耶再淌王︒而三韓古記無牟都爲王之事︒叉按

牟大︒號脚王之孫o蓋閖笙手︑比支之子︒f一考孔祁牟都︒則濟韮向所戦不可不疑・﹂今淡史に云ふ如く︑三斤

王が東城王の皿父である底らぱ︑害紀に引かれた史料に現れて絨椚の不明な文斤王の位世が與へられ︽わ︒

然し父系から一云へば東城王の肌父は拠支︑荒尚王の父でなければならぬ︒誰尚王の父が耽布王である鞭は

日本謝絶に現れたる両濟王膵に就いて九三

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(15)

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日本神紀に現れたる育沸王膵に就いて九四

確かであるから︑或は熾系の肌父にあたるかとも老へられる︒件記に文斤王の系融が示されてないのも砒

有王と同時代の人物であった結果︑雌有王か行略されたと同様な刈川によるものかも知れない︒以上三剛

史記の系譜が淡史と矛盾し年序に特極な場合を示すに反して︑淡史と矛肝せずより一般的な場合であるn

本書紀の系譜に︑多くの偏擁すぺき班山があるであらう︒三閏史記は勿論円濟の耕記孝採川した事は尚定

出來ても︑諜紀細纂の場合の百洲の材料に比すれば︑問題にならぬ稚少い︒高腿の中葉に締まれた三國史

記は百済の史料は最も衝弱であった︒三仙紀前の奈良朝初期に細纂された書紀には外國史料としては淵然

百濟關係の史料が些富であったに州述ない︒

︵四︶

次に百濟王各代の蕊去及び即位の年を日本諜紀と三剛史記の咽筈に現れた川を比較して見やう︒

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(17)

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右の對照表で先づ氣付くことは︑直支王以前山王代に於て各王の苑即年は概ね干支は一致してゐるが︑

書紀が史記よりも亘一十年︑即ち干支二氷遡った年に記されてゐる事である︒これは始めに述べた艸功皇

后の紀年決定の際に誤まられた結果を物語るものである︒魏志の文を此擁として定められたと恩はれる書

紀の百二十年引き上げられた時代に相常する百済王有は︑干支〃合せて矢張りそれだけ遡った年代として

害紀には書かれてゐる︒荒尚王路年以降は眼常な紀年になってゐるから︑列序して行く間には何唯かに百

二十年の案隙が生ぜねばならない︒霄紀の細者も︑この紀年の分離に氣付いたと恩ばれ︑この零隙をその

まLにして置かなかった︒響紀に於て︑百濟王有の案隙を洲す努力によって生ずる混乱が︑直支王から張

脚王の間︑即ち我が天皇で云へぱ唯抑天皇晩年から雄略天皇の測年にかけて認められる︒直支王の即位迄

は干支はぼ回一致してゐるし︑蓋闘王の即位からは干支と蜜年代が一致してゐるにか上わらずその中州に

於ては砒有王の王孵を全然行略し︑荒肉王の即位卒史記よりも二十六年︵表面は干支三蓮を兼へて有川十 や仁︒1J︒−rL

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日本押細に現れたる百濟王麻に就いて

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(18)

六年の差となってゐるが︶古くなしてゐる︒此虎に於て剛書に現はれた年代の最も等しい附きが見られる︒

岻有王即年と兼閑王即年については︑三閏史記がぼ営信擴川来る事は︑支那史料と毒看對照するによって

證明される︒即ち宋書一剛濟傅をみると﹁元嘉七年︒商濟王除哩似修貢職以映僻糀授之︒二十七年︒雌上書

献方物︒﹂とある︒元嘉七年は内紀四三○年で同一千七年は川五○年である︒三閏史記では岻有王の四年

及び二十四年となり︑宋菩の文を以て次の如く記してゐる︒﹁川有王川年互四月︒宋文皇帝以王復修耽貢︒

降使冊授先生王映僻號︒稚莊叶誰枠罪錬輯細啼碓榊琳彌﹂又叱有王十川年参十月︒泄使入宋朝貢﹂とあるは

二十四年の誤示あらうか︒一方円本書紀では百群新撰を引いて己己淡︵阿紀三○九年であるが互干年降

して四二九年︶兼閻王即位とあれば︑元嘉七年は怖も號闘王の即位二年に相常し︑元嘉|千七年は同王の

一千二年に常ろ諜需一ある︒然るに非紀では同じく諜尚王の二十九年となってゐる︒犬明元年︵西紀川五七

年︶には百濟王は代が代ってゐる︒即ち宋書百濟仰に﹁砒死︒子座代立︒価帆大明沁年︒避使求除授︒詔

許︒二年︒座澁使上表日っ︵巾略︶大宗泰始七年︒叉泄使貢献︒﹂とあり︑川に代って立つれ子の度は大明

元年︑同二年︑及び泰始七年︵両紀川七一年︶の郡合三川の泄使をなしてゐる︒三剛史紀ぱこの度を以て

號蜘王に發て上ゐる︒霄紀の王代では唯及び膜の代が祷兼尚王である結果となってゐるのである︒よって

この場合三國史記の主席を脹常のものと認めねばならぬ︒

か比る干支二通の案隙が呼紀に生じたとすれば︑その間に記すべき對韓記蝋も同然あり得ないのである︒

雌艸天皇未年より雄鶚天皇初年にかけて半鵬側の史料から川た︑とⅢはれる記事が諜紀に無いのは︐斑にか

日本謝紀に現れたる百濟王癖に就いて九七

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次に又末多王︵東城王︶無道にして剛人是を除き烏王︵武寧王︶を立てたといふ日本書紀の紀年は三剛

史記よりも一年後れてゐる︒これもやはり賊年榊元による烏王の一九年を標準として記事をなしたLめに一

年の差が生じたものと忠はれる︒三剛史記では新王の即位の年を以て凡て前王の蕊去となってゐる︒この

年に東城王が蕊去したか︑武烈紀によれは位を除いたとのみあり死去の事には及んでゐない︒荊一的に蕊

去とする史記の文は賀附に速ざかるものである︒

以上述べた所を要約すれば︑近肯古王の斑去より仙支王の即位までと︑荒曲王斑去以降の干支がほ直一

致し︑其の中間に於ては剛聿口の示す所がかなり唯ひ逹ってゐる︒この誤差の澗根は日本書紀の祁功皇后紀

年の誤まられた決定にあるのである︒

︵五︶

祁功皇后獄政紀以下に記された汀桝王肝は︑大冊に於てよく而濟の古仲の面影を残し︑三剛史記の不備

を袖ふものとして蛍亜な材料である︒仙し川功臼示雁の年代を︑魏士心倭人体に見える卑彌呼の時代としたL

めに︑中途に於て況飢を生じたのである︹若し灯濟王肝か日本の古仲と何等開係なく州紘せられたならば

中断なく百濟史料のま上に右の誰序も生じなかったであらう︒而哨並叩紀の細渚が敢てとれをなした軸は︑

やはり皇后の二一軸征伐の読話と切離しては.干川洲入貢の起源が物諦り得ない事淀に︑原因してゐるものと

いはねばならぬ︒

祁功皇后撒政紀以下に見える両濟の古仰に基く對韓記事は︑干支二通を降して始めて承認され得る一聯

日本譜卸に現れたる百滴王瞬に就いて九九 11

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の脈洛める物語りである︒從って面濟が大和刺延と交渉を開始したのは四泄紀の後半のことで︑枠岬時百濟

は高句歴との對戦に秤しんでゐたのであつ︽ト︒か入る状態が我剛の勢力をして︑新羅任那より阿北に進出

して直挺却川句歴と干戈浄交ふる飛態に迄立到ちしめたものであった︒即ち﹁悸以辛卯年來漉海破而礎ロロ

口雑以爲臣民﹂とい条尚句肥好太王の碑文文の事熾が︑川仙紀末︵辛卯年は西紀三九一年︶の事として承

認出來る︒叉番紀に見える汀濟王族か我剛へ人衝として來朝してゐた事も︑右の状態が五枇紀迄糟縦して

ゐた事を條件として︑老へ得られることである︒

右の如く︑日隷交渉史研究に北加紀に引川された汀群史料の持つ慨仙は大きい︒然し︑今はその俳鷺の一

端尭王暦について考へ︑蕪礎的な史料吟味の問題に止めておく︒

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︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

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