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On the Relative Value of Money

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

On the Relative Value of Money

岡橋, 保

https://doi.org/10.15017/4403440

出版情報:經濟學研究. 33 (5/6), pp.1-24, 1968-02-25. Society of Political Economy, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

貨 幣 の 相 対 仙 他 に つ い て

銀行券論争の問題点を大きくわけると︑だいたい︑三つにしぼられる︒第一は︑貨幣流通の諸法則と紙幣流通の特殊

法則をめぐる諸問起︑第二︑貨幣の流通速度︑そうして︑第三のもっとも重要で決定的な問題は︑貨幣の粗対価値にか

んするものである︒

第一と第二の諸問題は︑兒換の停止された銀行券流通のもとにおいても︑紙幣流通の特殊法則の専一的支配はありえ

ず︑ややもすれば貨幣流辿の諸法則の﹁反映﹂だけにはとどまらないで︑その支配すら︑認めなければならないことを

あきらかにした︒第三の貨幣の相対価値の問題は︑貨幣の象徴化の理論を生み︑貨幣流通の諸法則を︑ついに︑紙幣流

通の特殊法則に接近させる結果にみちびいた︒こうして︑第一および第二の問起点から︑紙幣流通の特殊法則の専一的

支配説の支持しがたいことがはっきりとし︑第一一一の貨幣の相対価値の否定は︑貨幣流通の諸法則の紙幣流通の特殊法則

への接近︑その本質転換をもたらした︒こうして︑貨幣流通の諸法則と紙幣流通の特殊法則との相互接近から貨幣数量

第一および第二の間類点については︑すでに︑別稿で発表した︒ここでは︑もっばら︑第三の貨幣の粗対価値をめぐ 説への道がひらげる︒ まえ

貨幣の相対価値について

第五・六合併号

岡 橋 保

(3)

第三十三巻

る詰間題を論じ︑兒換の停止された銀行券の本質を紙幣と同一視する紙幣説が︑貨幣︵金︶11章標説の一環であること

を示し︑紙幣説がこの貨幣11章標説を媒介に︑ついに︑その強調してやまないところの﹁価値のない価値章標﹂の正体

がただの紙切れにすぎないことを曝露した瞬間︑紙幣説じたいも紙切れ謡に顛落していることをあきらかにしようと思

兒換されない銀行券と紙幣の本質が同じにとする紙幣説を︑貨幣11章標説にまで発展させ︑ついに︑貨幣11紙切れ説

貨幣の相対価値とはその支配酋品価値を意味し︑その変動は商品の総価値と総価格の乖離のなかにあらわれ︑金と一

般廂品とのあいだの不等価交換においてしか生じない︒いま飯田教授によれば︑不等価交換とは﹁商品と貨幣とのあい

だでの︑あい等しくない価値量の交換のことだ:....︑商品がそれの価値以上の市場価格で売られるということは︑商品

がそれの価値以上の貨幣足で実現されるということであって︑その貨幣量のなかにはその商品の価値以上の価値がげん

じつにふくまれている︒流通手段としての貨幣の価値がすくなくなっているのでもなければ︑またすくなくなるのでも

ない︒だからこそ︑流通手段としての貨幣は商品の価値以上のぽ場価格を実現でぎるわけだし︑また商品と貨幣との価

(1 ) 

値量における不等交換がおこるわけでもある︒﹂ところで︑摩損金貨と商品とのあいだにおける不等価交換にあっては︑

貨幣のげんじつの価値をこえる商品価格をば実現するのだけれども︑麻

1 1U l

の価格はもとのままにとどまっているために︑

商品価値の貨幣形態をとりちがえて︑げんじつに流通している摩損合;具這ではなく︑商品価値どおりの観念的金量をも へとおいこんだものは︑貨幣の相対価値の否定であった︒

摩損金貨の象徴化

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

第五・六合併号

(4)

貨 常 の 相 対 価 伯 に つ い て

11•六貪併号 ちこみ︑この観念的金量とげんじつの金呈とのあいだにおける﹁不等交換﹂を説く︒こうして貨幣の相対価値を否認しながら不等価交換を肯定しようとする教授は︑むしろ︑かえって︑あたらしい多くの誤りをおかす結果となったようだ︒

1)飯田繁「兌換銀行券の連幼と物価の変動ー序論。貨幣の運動と物価の変勁との閃係をめぐる岡橋説の批判ー」〔一九五九•一

ニ・七鷺︺︵﹃社会経済学の展謁ー福井孝治教授迫麿記念論文集﹄圏和三十五年)四八ー九只参照︒以下の引用では﹃展隅﹄と略

称す

教授によれば︑摩損金貨と商品との不等価交換とは︑

をこえる商品価格をば実現できるばあいのことである﹂︵﹁辰開﹄五四貞︶︒

値の貨幣形態である商品価格︵観念的金量︶﹂︑ ﹁流通手段としての貨幣がそれにじっさいふくまれている価値

すなわち﹁商品価値と電的に一致する﹂︵﹃展聞﹄且四良︶︑価値どおりの

価格11

﹁価

値価

格﹂

︵﹃

現代

銀行

券の

埜靡

理論

i一五二頁︑二五四頁︶のことであって︑﹁流通手段としての貨幣のげんじつの

価値⁝・:がその商品の等価ではない⁝

. .

.  

のに︑流通手段としてのその貨幣がそれの価値をこえる商品価値の貨幣形態で

ある商品価格︵観念的合凰︶を実現できるのは︑流通手段としての貨幣がそれのげんじつの価値とは量的にちがうところの、それの額面にぎざみこまれた金含有量の価値…•••として通用するかぎりである」(記踪叩』五四ー丘頁)

うして不等価交換の問題が摩損金貨の含有金巫とその代表金量との乖離の間起に解消してしまう︒

人は︑ここに︑いろいろな誤謬が集中的に表現されていることを見いだすであろう︒まず︑①は︑摩損による価格標

準の事実上の切り下げが否定され︑これを流道手段としての価値低下と混鳳されていること︑⑳金属流通における流通

必要金量とげんじつの貨幣流通温を分離し︑軽い金貨︵摩損金貨︶による重い金貨の象徴化を主張する結果︑不等価交

換がかえって否定されていること︑そうしてこのような摩損金貨の象徴化によって︑⑥貨幣流通の諸法則を紙幣流通の

第三

十︱

︱一

しかも︑ここにいう

と︑いう3こ ﹁商品価格﹂は﹁商品価

(5)

特殊法則に接近ないしは転化させたこと︑などである︒このように︑教授は価値の尺度としての金がみずからの象徴に

たりうるように考えちがいをしたために︑もはやとりかえしのつかない致命的なあやまりを犯された︒

摩損金貨と商品との不等価交換には︑貨幣の流通手段としての価値の増大と︑価格標準の事実上の切り下げとい

う︑貨幣の二つの機能変化の問題がふくまれている3ところが︑教授はこれをみまちがえて︑金貨の摩損のなかに流通

手段としての価値の低下だけをみいだして︑価格標準の事実上の切り下げを否認された︒流通手段としての貨幣の価値

の上昇ではなしに︑むしろその低下をみたということは︑摩損や削り取りが金属流通における価格標準の事実上の切り

下げであることを認識しえなかったからであることはいうまでもないが︑その根抵には貨幣の相対価値を理解しようと

しない教授の理論的姿勢が禍をしているようである︒

貨幣の相対価値を否認しても︑不等価交換だけはこれを認めようとする教授は︑摩損金貨の象徴化を説かれる︒すなわち、たとえば純金一匁をふくむ五円金貨が摩損によってもはや0•五匁の金しか含有しなくなっているにもかか

わらず︑やはり︑もとどおりの価値をもつ商品と交換されるのは︑摩損金貨が価値十分の五円金貨として通用するからだとし、摩損金貨の価値に、その含有金量0•五匁の価値(固有価値)とそれの代表する金量一匁の価儘の、二つのち

がった価値を認められる︒こうして価値の尺度としての金は価値章標の素材としての金と対立する︒いまや流通必要金

量はこの価値の尺度として機能する金の数量であり︑それと摩損金貨の流通塁との代表関係から︑摩拍金貨の価位︵代

表金量︶がきまるので︑金属流通における必要貨幣量とげんじつの流遥貨幣塁とが分離してしまう︒価値章標となった

摩損金貨の価値がその合有金凪の価値ではなく︑その代表金量の価値によってきまるとすれば︑摩担金貨は商晶にたい

しては、もはや0•五匁の価値物としてではなく、商品の価債と等しい金一匁を象徴するものとしてあらわれる。した

(2)  (1) 

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

第一二十三巻第五・六合侃号

(6)

(3)  貨

幣 の 相 対 価 値 に つ い て

としての金とは区別され︑

第五・六合併号 がって︑商品は何値どおりに価格実現され︑不等価交換はみられないことになる︒

不等価交換の事態をあきらかにしようとしてかえってその存在を否定しなければならなくなったのは︑摩損金貨の価

値をその代表金量のなかにもとめたからである︒摩損金貨の合有金︑すなわち価値章標の索村としての金は価値の尺度

一方、商品にたいしては合有金量0•五匁を価位の尺度としての金一匁の価値をもったもの

として対立させ︑他方︑飼値の尺度としての金にたいしては含有金塁じたいとして対立させる︑という1一様のつかいわ

けによって︑等価交換となったり︑あるいは不等価交換となったりする︒しかし︑等価交換か不等価交換かの問題は︑

商品と購買手段としての貨幣とのあいだのことであって︑後者と流通必要金量としての貨幣とのあいだの問題ではけっ

してない︒ところが︑教授は不等価交換の閏題を︑あとの流通必要金量と購買手段としての貨幣の含有金塁との乖離の

なかにみようとするから︑紙幣流通にあっては︑つねに︑不等価交換のみがあって︑等価交換は永遠にありえないとい

うことになったり︑あるいは金属流通にあっても︑等価交換であるにもかかわらず︑商品は価値どおりに価格実現され

なかったり︑逆に不等価交換でありながら価値どおりの価格実現がなされるという︑まことに不可解な事態がおこる︒

こうして︑価値の尺度としての金がみずからの象徴になりうるということ︑したがって貨幣︵金︶の流迎必要塁

とげんじつの流通塁との乖離を主張し︑そのなかに不等価交換をみることが︑不等価交換の否定となったり︑あるいは

商品の価値どおりの価格実現が笠価交換を意味しないという矛盾につきあたるだけでなく︑ついには︑貨幣流通の諸法

則を紙幣流通の特殊法則︑価値章標特有の法則に接近させるという根本的な誤りにみちびく︒固知のように︑流通に必

要な貨幣量をきめるものは取引商品の価格総額である︒この流通必要貨幣塁が商品価値どおりの価格を実現するに必要

な数景であろうと、あるいは、それ以上•それ以下の価格を実現するに必要な貨幣累であろうと、それだけの貨幣塁が

第三十三巻

(7)

げんじつに流遥する必要な数量だということであるし金貨が摩担したにもかかわらず︑おなじ価値の諸商品がもとの価 格で実現されたとすれば︑摩損金貨のげんじつの流遥量が流通必要貨幣邑であって︑摩損していたい価値十分な金貨量 ではない︒このように︑貨瞥流通の諸法則の問題点は諸商品価格による流通必要貨幣量の被規定の閲係にあって︑げん

じつに流通する金貨が価値十分かあるいは摩損しているかは間うところではない︒ところが︑摩損金貨の流通において︑

流通に必要な貨幣量とげんじつに流通する貨幣呈とを区別し︑甘性を価値十分な貨幣の数菫とし︑後者の流通最を摩損 金貨の数鼠として相対立させることは︑摩損金貨を価値辛標とすることであり︑価値の尺度としての金がみずからの象 徴となることを意味する︒かくして貨幣流通の諸法則のたかに︑流通必要貨幣にたいする流通貨幣の代表関係をみるこ

とになる︒いまや︑貨幣流通の諸法則は︑﹁金五涜泣必要金最ー岡柏︶にたいする紙幣︵げんじつに流通する紙幣祉ー岡橋︶の

代表関係からのみ生ずる﹂

( I.

s .  

141)

ところの紙幣流通の特殊法則に接近してくる

e

貨幣流通の諸法則の紙幣流通の特殊法則への接近の第

1歩は︑すでに︑この摩損金貨の象徴化によってふみだされた が︑ここでは︑まだ︑不等価交換の問題が︑総価値と総価格の乖離の問題としてはうけとられておらず︑教授はこれを 個別化することによって︑不等価交換を完全に焦視しておられろ︒すなわち︑

﹁かりに︑︹岡橋︺教授かいわれるように︑商品の市場仙格友動によって八流通手段としての貨幣の価値の変化>が生ずるものであるならば︑八流通手段としての貨幣の価値の変化>では︑おなじ瞬間においてさえも︑商晶の種類により︑また市塩価格変動の程度

によって︑無限にあいことなる︒多様な度合の︑したかってまったくつかみどころのないものとなろう︒商品の市場価格変動は︑げんに観察されるとおり︑個別的な︑たかだか個別梨団臼な現集なのであって︑おなじ瞬間に︑ある商晶種類の市場価格はあがるのに

他のある商品種類の市場価格はさがるといったようなありさ立たし︑しかもそれぞれの市場価格変勁の度合は極饂にまちまちなので︑八流通手段としての貨墜の価値>は商品の市娼価格変励に訂けるそのような雑多な個別的な事伯によってかぎりなく︑そしてたえず

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

沼三十三巻第五・六合併号

(8)

貨 繋 の 相 対 価 値 に つ い て

しか

し︑

第三十三巻第五・六合併号じ

一時のできごころにすぎなかったよう

︵而

盆m

六一

一貞

付記

参照

︶︒

﹃展開﹄はこの諭 いろいろなぐあいにうごかされることになろう︒八流通了段としての貨幣の仙値>が︑どこまでも︑商昂種類ごとに︑またそれぞれの商品種類の市場価格変勁ごとに︑おのおのちかう変化をずるという乃えかたは︑あらゆる商品柿類の一般的・共面切な等価としての

貨幣

の社

会的

性格

. . . .  

にた

いす

る科

学的

な認

諏と

は完

全に

矛旧

する

﹂︵

・加

偏四

四几

頁︶

こうして︑教授は︑

﹁個別的なまたは個別集団的な商品の﹂﹁市場価格変動を貨幣の︿相対的価値﹀の変化としてうけ と﹂めて︑その﹁相対的価値﹂の﹁一般的・社会的性格﹂を無視することによって︑かえって総価値と総価格の乖離︑

商品と貨幣との不等価交換を否認するという﹁科学的な認識﹂を誇示される︵﹁屁関﹄五0

艮 ︶ ︒

『展阿』につづいて発表された論文「不換紙幣・不換銀行券の団刑と物価の変動—|↓岡橋説の問題点ー|_」〔一九八0

・ニ

・六

稿

LI(

﹃経

済学

年乾

﹄︹

大阪

市大

経済

学部

L J第︱二集︑昭和︱︱︱十か年︶においても︑総価値と総価格の乖離にたいする教授 の問題意識は欠除していた︒もともとこの論文は︑さきの﹃展開じ所収の論文の続編をなすもので︑

文のいわば﹁序論﹂として構想されたものだったからである

ら﹂

︵﹃

年報

﹄八

六頁

︶︑

そうして︑総価値と総価格の乖 離への無関心ば︑すでに︑教授の旧著﹃物価の狸論的研究﹄

( ‑ I L

叫九化︶いらいのことであって︵﹃展開﹄五0

頁注

5)

それいらい﹃年報﹂︹第一︱‑集]にいたるまで︑その﹁考えかたは旭本的にはいまもってなにもかわってはいないのだか

︑︑

︑ 教授のみさおの堅さはたいしたものである︒ところが︑おなじ年の八月から翌昭和三十六年二月

まで四匡にわたって発表された論文﹁不換銀行券論争点の基本線'│ー不換銀行券研究のための序章ーー̲﹂(﹃合融経済﹄第

六三ー六号︑﹃現代銀打券の基礎旺論﹂に集録︶においては︑魔がさしたとでもいうのか︑総価値と総価柊の乖離の誘惑にみ

せられて︑遊部教授がこの乖離の魅力を無視してぶすいな魚インフレーション論を提唱したことを︑つよく非難される

c

︑︑

ヽ︑

.︑

飯田教授のよろめぎも︑

︵飯

田﹃

現代

銀行

>か

の基

礎理

論﹄

︱︱

可四

ー.

j J 旦 ︶ ︒

(9)

飯 田 教 授 を よ ろ め か せ る 契 機 と な っ た と こ ろ の 遊 部 教 授 の 不 等 価 交 換

11

金 イ ン フ レ ー シ ョ ン 論 と は

︑ つ ぎ の よ う な も

のである︒

﹁金貨流通のもとでは一般的には金が増加したために物価が高くなるのではなく逆に金生産部門の労働生産性の増大すすんでは金

価値の減少によって諸商品価格が騰貴し︑かくして流通金貨量が増加せざるを得なくなったのである︒尤もこのような金生産労働の

変動に直接よるのでなく︑極端な場合としては外国から戦利品乃至賠償金の融資でおびただしい金貨の国内流通が行なわれ︑このた

めに必要量以上に金貨が流通することもありうるであろう︒この場合には金貨の現実の価値︵購買力︶は本来それが具有している価

値︵それに対象化されている社会的必要労働量︶以下となるであろう︒そして一方商品価格の名目的騰貴ということがおこる︒一般

的等価物としての金貨と商品との間に不等価交換が行なわれるであろう︒したがって金の鋳貨価格と市場価格との乖難も生ずるであ

ろう︒しかしかくの如き事態は極めて経過的に存するのみである︒蓋しかかる場合には金貨の退蔵か又は国外流出が行なわれるであ

ろうから・・・これによって結局金貨の流通量は収縮し必要量に一致するにいたる︒反対の場合︑即ち金貨の流通量がその必要量以下に

減少した場合にもおなじようなことが起る︒蓋しこんどは退蔵貨幣は流通手段としてあらわれ又国外からの金の流入が行なわれて結

局金貨の流通量は必要量と一致するであろうから﹂︵遊部久蔵﹁インフレーションの基礎理論﹄=︱│四頁︶︒﹁されば金貨については

元来インフレは存しないのである﹂︵前掲書四頁︶︒﹁かくしてインフレーションとは・・・紙幣即ち

A

強制通用力ある国家紙幣>の流通

する場合にのみかぎられる﹂︵前掲書五頁︶︒

こ の よ う に

︑ 遊 部 教 授 の 叙 述 は 正 確 さ を か き

︑ た し か に ま ぎ ら わ し い の は 事 実 で あ る

︒ し か し

︑ そ の 強 調 し よ う と し て い る 点 は

︑ 不 等 価 交 換 の 事 態 で あ っ て

︑ こ の こ と は

︑ 紙 幣 流 通 に お け る イ ン フ レ ー シ ョ ン な る も の も

︑ じ つ は

︑ 価 格

である︒

完全価値金貨の象徴化

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

第三十三巻第五・六合併号

(10)

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

第五・六合併号

標準の切り下げられたとおなじような効呆をもつ物価の﹁名目的騰貴﹂︵インフレ・ギャップ︶であって︑価格標準の

れを︑しゃにむに︑金インフレーションに仕たてさせたものは︑流通必要金量と流通量を乖離させるからである︒そう

して︑そのうえ︑飯

E B 教授はそこにむしろ価格漂準の事実上の切り下げをみいだしたのであった︒

辺部教授のように︑価格標準の切り下げをみとめていないかぎり︑まだ救いがある︒けれども︑飯田教授は遊部教授

の強調を無視して︑そこにみてはならないものをみいだしたばっかりに︑みずから仕かけた落し穴におちこまれる結果

となった︒すなわち︑遊部教授の不等価交換論に金インフレーション論の烙印をおすことによって︑飯田教投は金貨の

象徴化をそこにみとめたわけであり︑これは︑前掲﹃展開﹄所収の論文いらい︑すでに︑強調してぎた摩損金貨の象徴

化の論迎を︑避部教授の不等価交換のなかに追人したものにすぎない︒

﹁流通手段としての貨幣に︑蜆実的にはとうに失ってしまった価値を名目的・機能的にはまだ身

につけているものとして︑すなわち︑それじしんなお︑商品価値の貨幣形態である商品価格と一致するものとして︑そ

一定の金量を代表する補助鋳貨も︑

目的・機能的にはまだ身につけているものとして﹂象徴貨幣11金章標だといってよい︒したがって︑

しまっているその流通手段としての金11現実的な金含有量が︑それじしんの価格標準としての金11名目上・額面上の金

合有量のたすけによって︑いいかえると︑ ﹁何値を減少して

自己の半身である名目上・額面上の金属量︵価柊標年において明示されていると

ころの︶として機能することによって﹂︵五五百こ﹁流通手段としての金﹂は︑ここに︑完全に︑象徴貨幣に転化してしま

っている︒﹁流通手段としての金﹂の価債は︑象微化によって︑﹁価格標準としての金﹂の一定量を代表し︑そのかぎり

第三

十三

の商品価格を実現することができる﹂

︵﹃

展購

﹄五

土頁

︶︒

その代表金量の﹁価値を名 飯田教授によれば︑ かわっていないことを前提している

︵前

掲害

六五

頁︑

三九

頁庄

⑥︶

ことからも︑容易に︑推理されうるところである︒こ

(11)

って︑不等価交換が解消されなければならないとしたのである︒これに反して︑摩損金貨を象徴化することによって︑

その代表金量と商品価筐どおりの流通必要金量との等価を説く教授にあっては︑

値の尺度としての機能はなく︑それの増減は︑ただ︑それの代表している金︑したがって﹁価格椋準としての金﹂のも

つ価値尺度機能によるいがいはない︒かくして︑物価は︑﹁流通手段としての金﹂︑すなわち摩損金貨の増加によって騰

貴し︑その代表金量も減退する︒摩損金貨が増大し︑それとともにその代表金量の減退がおこるというのは︑摩損金貨

の代表金塁がつねに不賄定なことを怠味する︒価値章標としての紙幣の代表金量はその流通数量に依存し︑ の

(K ri ti k. S.

 99)

して

﹂︑

菫 ︱ ‑ +

︱ ︱ 一 巻

﹁流通手段としての金﹂にはもはや価 において︑商品価値の貨幣形態として︑等価となりうるのである︒こうして﹁流通手段としての金﹂が象微化することによって︑摩損金貨と商品とのあいだには不等交換が消失してしまうばかりか︑それには価値の尺度としての機能さえもみとめられなくなる︒このことを︑じゅうぶん︑理解しておられることは︑飯山教授のつぎの文章からもうかがうこ

﹁流通手段としての金

11

現実的な金含有量が︑それじしんの価格棋準としての金

11

目上

・額

面上

の金

含有

量・

・・

・・

・と

すなわち象徴貨瞥として﹁機能することによって︑その商品価格と等置されるのでなかったら︑流通手段とし

その商品価格と等置されるのでなければならない﹂︵﹁展開﹄五五頁︶︒ ての貨幣はとうぜん他の半身である現実的な価値星の追加投入︵庁滅金量をおきなうのに必要な流通手段量の増加︶によって

このように摩損金貨の増加によって不等価交換が

解消されていくのは︑その合有金が価値尺度として機能するからである︒

マルクスが貶質の程度ほど物価が騰貴しないので︑貶質貨幣の数呂制限からそこに不等価交換の生じたことを説いた とができる︒

貶質金貨が象徴貨幣となってはいないからこそ︑

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

価憤尺度機能の貫徴現象として︑その壻加によ

つねに紙幣 第五・六合併号

10  

(12)

貨 幣 の 柑 対 価 値 に つ い て

飯田教授によれば︑﹁物価騰賓←流通必要量の増大﹂過程というのは︑

第五・六合併号

﹁げ

﹁げんみつにいうと︑流通必要蘊以下の流通 に堕することをまぬがれう 流通の特殊法則の支配に服すといわれているが︑それとおなじように︑いまや︑象徴化された摩担金貨もその流通数量伸縮の機能をかくから︑物価の騰貴はその流通数量の増加によってしかおこりえないことになる︒

ところで︑価値十分な金貨の増加によって物価が謄貴するといっても︑そのなかに価格椋準の切り下げを認めるのと︑

認めないのとでは︑まったく話しがちがってくる︒前省にあっては︑物価の騰百は価格標準の切り下けを反映したもの

であるから︑その下落は価格標準の切り上げによるいがいにはおこりえないが︑これにたいして後者にあっては︑価値

尺度機能は貫徹し︑膿貴した物価はやがて反洛して︑固定することがなく︑そのような物価騰貴は﹁極めて経過的に存

するのみである﹂︵遊部﹃インフレーシT

ン の 某 礎 理 論

﹄ 三 ー 四 頁

︶ と い う こ と が で き る

﹁ 価 値 ど お り に 実 現 さ る

ベ含諸商品価格︵←必要金量︶をこえて金貨が流通するから﹂︵飯田﹃現代銀行券の基犀理論﹄二五四頁︶物価が﹁名巨的﹂

に騰責したといっても︑価格標準には切り下げがないというのであるから︑それをただちに﹁金インフレ諭﹂だときめ

﹁価値どおりに実現さるべぎ諸商品価格﹂ではなくつけるわけにもいかない︒よし︑流通必要金塁を規定するものが︑

﹁そのとぎどきの総市場価格﹂︵前掲書二万五百こだといいかえたところで

わち両者の乖離をみとめるところにある︒

第三

十三

J

だか

ら︑

﹁金インフレ論﹂

るわけではない︒むしろ︑問題は︑価値十分な金貨の流通量も︑なお︑流通必要量以上あるいは以下でありうる︑すな

量︑したがって︑それの流通必要量への適合過程﹂であり︑また︑﹁物価下落←流通必要量の減少﹂過程とは︑

みつにいえば︑流通必要塁以上の流通量﹂がそれの流通必要量へと適合していく過程である

︵﹃

現代

銀行

券の

韮礎

理論

﹄ニ

四九

ーニ

0頁︶︒こうして︑﹁貨幣の流通必要呈とけんじつの流通量とのあいだの不一致﹂をみとめることは︑二つの貨

(13)

収 ︶

いらいのものである︒ 以上あるいは以下の金・銀量を代表しうる︵前掲書二五七ー八頁︶ 第三十三巻

幣のあいだに代表哭係をみることを意味し︑価値十分な金貨が︑その含有金累以上あるいは以下の金量を代表しうる︑

とすることにほかならない︒これは︑﹁価値章標﹂としての﹁貶質金・銀貨﹂が﹁それじしんの現実的な含有金・銀塁﹂

﹁流通手段﹂としての摩損金貨もその含有

金量以上あるいは以下の金量を代表しうるように錯覚した︵は展開﹄五四ー万頁︶のと︑まったく︑おなじである︒なるほ

ど﹁価値章標﹂は﹁流通手段﹂としての貨幣の機能から生じた代用貨幣ではあっても︑それだからといって価値の尺度

としてなお機能しうるところの摩損金貨を︑﹁価値章標﹂と同一視することは許されない︒涜道手段としての摩損金貨

を﹁価値章標﹂としてみることは︑摩損金貨から価値の尺度としての機能をうばうことを意味する︒そうして︑価値十

分な金貨の流通量と必要量との乖離をみとめることは︑価値十分な貨幣を価値章標とみることである︒こうなれば︑流

通必要金量を規定するものが商品の市場価格総額だといおうと︑あるいは価値価格総額だとしようと︑それは︑さしあ

たり︑どうでもよいことであって︑流通手段としての価値十分な金貨と流通必要量としての金とは異質のものであり︑

価値尺度機能をうばわれた流通手段としての価値十分な金貨が流通必要金量に適合しなければならないといったような

必然性は︑もはや︑存在しないといわねばならないであろう︒

こうして︑飯田教授の誤まりは︑遊部教授の不等価交換論を金インフレーション論と錯覚し︑価値十分の金貨を価値

章標としたことにある︒そうして︑それは︑すでに︑摩損金貨を︑みさかいもなく︑価値章標とみた旧論文︵﹃朕聞ー所

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

こと

から

第五・六合併号

(14)

貨 臀 の 相 対 価 値 に つ い て

飯口教授の金貨の象徴化理論を支えているものは︑マルクスの曲解にある︒この曲解が︑また︑金属流通における貨 幣の流通必要塁と流通塁との乖離・適合の主張となり︑さらに︑のちには︑この乖離・適合のなかに︑貨幣流通の苫法 則の﹁真髄﹂を発見したと︑自画自賛させるにいたったのである︒しかし︑問組の﹃経済学批判﹄の文章は︑

象 徴 (S ym bo l) 飯田教授は︑これを三宅教授の訳文と比較されて︑

量 か ら 質 へ の 弁 証 法 的 転 化 は 聞 い た よ う だ が

︑ 質 か ら 量 へ の 転 化 と い う の は 教 授 ど く じ の も の な の か

うになっている︒

四 貨幣

︵金

11

章標説

ついに︑金貨を象徴として﹁役だ﹂ててしまう︒

第 一

1

第五・六合併号 それが︑ つぎのよ

「••…·すべての金鋳貨は流通過程じたいによって多かれすくなかれそれらの実体のたんなる表章(N

ei ch en ) または に転化される︒しかし︑どんなものもじぶんじしんの象徴ではありえない

e⁝・・・金は︑だから︑じぶ

んじしんの象徴になるが︑しかしじぶんじしんの象徴として役だちえないので︑⁝・:﹂︵

s .

91 . 

訳文は飯田教授にしたがう︶︒

﹁三宅教授は⁝八かくして︑金は自分自身の采成となり︑しかも自分自身の象徴として役立ちえない>︵傍点ー飯田︶と沢出して

おら

れる

:・

︒こ

の原

文は

二[

Da 

al so  G ol

d  z

um   Sy mb ol e  s in er s  el bs t  w

ir d, a  be r  n ic ht  a l s  S ym bo l  s ei ne r  se lb st  d ie ne n k an n,  

9

であって︑否足詞は的役にはおよんでいない︒このさい︑否定詞が︑前段にもおよびうるような︑また前段にもおよぶのかおよ9

ばないのかはっきりとしないような︑翻訳はさけられねばならない︒マルクスの文章をしさいにみると︑八・・・転化される︒しかし

 

ではありえない︒:なるが︑しかし・・・役だちえない>というのだから︑金鋳貨が︑表阜に転化される︑表章となる︑ということはな

にも否定されていない︒ただ︑それが︑紙幣のようにどこまでも表箪であるということ︑いつまでも表章として役だっということが

否定されているだけだ﹂︵飯田畠窟2銀行券の某礎理論﹄二五九頁注図︶

(15)

であ

る︒

を端的に物語っている︒

第 一 ︱ ‑

+ ‑ . 云

一 巻

﹁どこまでも﹂あるいは﹁いつまでも﹂章標となったり︑役だったりするのではなく︑たとえ二瞬たりとも﹂章標に なれば︑その金貨はふたたびもとに戻りうるものではない︒それは価値の尺度機能をうばわれて価値章標になってしま

ろう

︒ うか︑あるいは価値の尺度であるかぎり︑価格標準の事実上の切り下げによってその地位をまもるかしか︑ほかはなか

マルクスは︑金貨の摩損を否定しなかった︒そうだからこそ︑金貨が流通においてその﹁実体のたんなる章標ま

たは象徴に転化される﹂といったのであって︑けっして象徴で﹁ありうる﹂︑

ところに︑メフィストフニレスが教授を誘惑しうるすぎを見つけたようだ︒

あるから︑教授のそのような性向が︑

あるいは象徴として﹁役だちうる﹂とは いってはいない︒なぜなら︑象徴と価値の尺度とはあい容れない規定だからである

3この質と量とのけじめをつけない

しかし︑金貨の象徴化︑質と塁との混滑はいまにはじまったことではない

e

それは摩損金貨の象徴化いらいのことで

マルクスの文章を読みちがえさせたわけであろう︒教授のつぎの文章はこのこと

﹁価値章桓としての八悪化された金・銀>によって代表される金・銀玉量は八流通にあるそれの数璽に依存する>︑というマルク

スのこの命題をいったいどう解釈したらいいのだろうか︒⁝ひょっとすると︑マルクスのこの命題を焦意識的にか否定してしまわれたのかもしれない︑という印象を読者がうけるような文箪をば三宅教授はつづっておられる︒それというのが︑八軽い金貨は重いそれの象微たりえない>という点を教授か強調されすぎるからなのだが︑そうであるかぎりでは︑八軽い金貨が重いそれの家彼になり

うる

>と

いう

点か

らう

まれ

るマ

加ク

スの

この

命坦

は理

解で

きな

いは

すで

ある

﹂︵

﹃現

代銀

行券

の基

礎理

論﹄

二五

八頁

い︶

これであきらかなことは︑価値の尺度としての金と価値章標の素材としての金との区別が教授にはない︑ということ

﹁軽い金貨は重いそれの象徴たりえない﹂のは︑軽い金貨も重い金貨もおなじ価値の尺度としての金だからで

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

第五・六合併号

一四

(16)

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

くい︒それはその人の理論的姿勢に原因しているからである︒

第五・六合併号

と翻訳しておれば︑それが誤訳であることは誰の眼にもはっきりとする︒しかし︑

一丘

﹁悪化された金﹂貨の代表銀重量︑あるいは﹁悪化された銀﹂貨の代表金重量が︑それぞれの

﹁流通にある数塁に依存する﹂のは︑金が銀にたいして︑あるいは銀が金にたいして︑それぞれ﹁価値章標﹂となって

いるからである︒価値益標としての﹁悪化された金﹂貨が価値の尺度としての金重量を代表するというのではけっして

ない︒それなればこそマルクスは﹁軽い金貨ぱ重いそれの象徴たりえない﹂と︑はっきり言いきっているわけである︒

金を価値の尺度としている国では︑銀製の価値章標が代表しうるのは金の一定重塁であり︑銀を価値尺度とする国の金

製の価値章標が代表しうるものは銀の一定重量であって︑一定重量の金ではけっしてない︒金本位をとるイギリスや銀

本位国のフランスにおける﹁貨幣貶質の歴史﹂を説いたマルクスが︑前段において︑価値の尺度としての金と価値章標

﹁軽いソヴリン金貨は完全量日のソヴリン金貨の象徴ではありえない﹂と強調している

所以である︒それだのに︑教授は︑両者を混同して︑貶質金貨に金の一定量を代表させ︑腎いソヴリン金貨に完全量巨

のソヴリン金貨の﹁象徴になりうる﹂と読みかえてしまわれた︒︑︑︑︑︑これは麒訳ではないが︑重大な読みちがいである︒誤訳はかんたんに発見されるが︑読みちがいはなかなかわかりに

︑︑

︑︑

﹁象徴たりえない﹂とあるところを︑﹁象徴になりうる﹂

︑︑

ヽ.

﹁象徴たりえない﹂とあるにもかか

わらず︑価値の尺度としての金と価値章標としての金との区別をみおとしてしまえば︑﹁ひょっとすると﹂︑飯田教授の

ように︑すこしぐらいは﹁象徽になりうる﹂のだと︑あやまった解釈も可能となろう︒そうして︑価値の尺度と価値章

標との混同は︑すでに︑﹃展開﹄における論文いらいのものであることが︑ここに︑はっきり示されているといえよう︒

﹁摩損金貨﹂︵貶質銀貨︶が︑このように︑価値章標だと考えられたからこそ︑﹁摩損金貨﹂の相対価値の変化がその の素材としての金とも区別し︑ ある︒これにたいして︑

1一 巻

(17)

代表金量の問題にすりかえられ︑不等価交換︑

総価値と総価格の乖離が否定されてしまったわけである

︵﹃

晟開

﹄五

四ー

五頁︶︒そうして︑のちに︑総価値と総価格の乖離をみとめられるようになって︑流通必要金量を市場価格総額のなかに みたとしても︑必要金量とけんじつの流通貨幣量とのあいだに乖離・適合の問題を説くかぎり︑価値十分な金貨をもな

一貫

して

︑ お価値章標と同一視していることになんのかわりもない︒ここには︑摩損金貨いらいの方法論的な誤りが︑

もちつづけられているといってよいであろう︒教授の方法論における根本的なあやまりが︑教授を誤訳ならぬ誤解にみ

ちびいたのであって︑貨幣︵金︶

章標説は︑すでに︑摩損金貨の象徴化の理論に発し︑価値十分な金貨の象徴化諭をI i へて︑流通必要金葺と流通量との乖離・適合の迎論︑そこに貨幣流通の諸法則の﹁真髄﹂の発見となって︑完成された といえよう︒貨幣流通の諸法則のこの﹁真髄﹂が︑じつは︑価値の尺度としての金と価値章標の素材としての金とのつ かいわけにあるのであって︑教授のつぎの文章はこのことをはっきりと示している︒

﹁︿究品流通が貨幣追勁を規定する﹀という基本的な精神は︑商品流通ー詔商品価格の変動か︑それじたい内生的・構戊内なものであるだけではなく︑そのう文にまた積極的・必然的に貨幣流通そリードするものであるということをいいあらわしている︒そこで︑この基本的な精神のうえにたつ貨幣流通の諸法叫では︑流通しなければならない貨陪ーそれの流通辿度か一定ならーの数塁︵流適必

要金量︶は実現されねはならない諸商ロ

n o 価格︵諸商品価伯[単位商品価植と両品取引早皿との腐の社会的総計︺と貨幣価値との二要囚

によってきまるところの︶の変勁によって内在必然的に規定されるということ︑そしてまた貨幣のけんじつの流迅総量はこの流返必妥金量の変動によって自勁的にみちびかれてたえす適合的にうごかされるということが︑法測内容の核心となる﹂︵﹁不挽紙畝山の運勁と貨幣流通の諸法則」大阪市立大学経済学部『経済学年報」第一七集[青心•金励論恥忙ご昭和三+七年ヽ一九頁o以下の引用では

﹃年

報﹄

第一

七集

と略

称す

︶ ここで貨幣の﹁げんじつの流通量﹂と﹁流通必要金電﹂とのあいだに乖離をみとめ︑両者のあいだにおける代表関係

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

第三十三巻第五・六合併号

一 六

(18)

貨 郎 の 相 対 面 値 に つ い て

第二十三巻第五・六合併号

をみることは︑﹁げんじつの流通﹂貨幣を価値章標とみることを意味し︑他方︑﹁げんじつの流通﹂貨幣が﹁流通必要金

量﹂に﹁内在必然的・自動的に適合して変動することがでぎる﹂のは︑両者がおなじ価値の尺度としての金であるから である︒このように︑おなじ金が価値章標であるかとおもえば︑また価値の尺度としての金にはや変わりして︑流通必

要金旱きに﹁内在必然的・自動的に適合して﹂培減できるというのが︑貨幣流通の諸法則の二核心﹂というわけであろう︒

しかし︑価値章標としての金貨にそのような伸縮機椛があるとするならば︑価値草標としての紙幣にも流通必要金

= ‑ E ‑ に﹁内在必然的・自動的に適合して変動する﹂ことを認めなければならないのではなかろうか!﹁紙幣であろうと︑晶 位の悪化された金・銀であろうと︑価値表章が鋳貨価格にしたがって計算された金・銀菫量を代表する割合は︑それじ

しんの材料に依存するのではなく︑流通にあるそれの数量に依存する﹂というマルクスの﹃経済学批判﹄︵九九頁︶を引

用されて︑摩損金貨を価値の尺度としての金の価値章標とみられた教授が︑いま︑また︑価値十分な金貨をも価値章標 だとみなし︑その増減運動︑貨幣流通の賭法則の支配を説くかぎり︑おなじ価値章標としての紙幣にも︑この金貨とお たじに︑増減運動をみとめ︑そこに貨幣流通の諸法則の支配をみいださなければならないであろう

e

しかし︑教授は紙幣流通における貨幣流通の諸法則の支配を︑断乎として︑排撃される︒すなわち︑

﹁八貨幣のたんなる象徴内な存在>にすぎない価値表箪は︑ほんらいその︵﹁一般的等価としての貨幣﹂ー岡栢︶ような畜賊桟忙

をもたないので︑流通必要合量の増減にたいして内在必然的に適合して︑︽げんじつの流通過程︾のそとへまたはなかへ流白入する

ことができないのだ︒もっとも︑︽けんじつの流通過程﹀のなかでは︑仙伯表章だって商品流通によってみちびかれて運勁するのであって︑けっしてその逆ではない︒つまり︑価値表章のばあいにも︑︽げんじつの流涌過程>のなかでは︑八商品流通が貨幣運動を

規定する>という基本的な精神はつらぬかれる︒だが︑^げんじつの流通過秤>のなかからそとへの連勅や︑そとからなかへの遮勁においてこの基本的な精神があくまでもつらぬかれるための条件は︑価伯表亭にはまった<欠けている︒そういうわけだから︑貨幣

(19)

﹂れを﹁裏がえしていえば﹂︑

蓄蔵機能は

﹁貨幣流通の諸法則にしたがって運動するの

流通の諸法則の基礎にすえられたものは︑たんに^げんじつの流通過程>のなかでの運動においてだけではなく︑さらにまた^げん

じつの流適過程>のなかからそとへの︑またはそとからなかへの運励においても︑全面的につらぬかれるものとしての︑^商品流通

が貨幣運曲を規定する>という基本的な精神である︑ということが止しくつかまれなければならない︒いいかえると︑価値表章は︑

・・・流通必要金謳の燐減とは無関係に︑外在偶然的になげこまれたのち︑︽げんじつの流通過租>のなかでは商品流通によってみちび

かれて運動するー各貨陪片にかわって各価値表章が商品の形態転換の一場面となるーのだが︑だからといって︑流通必変拿墨以内に

ある価値表章の運助に貨幣流通の諸法則が支配する︑とはけっしていえない︒なぜかといえば︑価値表章が︑どんな方法で発行され

るかにはかかわりなく︑発行されて^げんじつの泣遥過仕﹀のなかにはいりこんでしまったのちの価値表章の流通総量は︑たとえ流

通必要金量以内にあろうとも︑流通必要金量の増減につれてそれじたい^げんじつの流通過程﹀の内外への必然的・自間的な連曲を

とおして増戚するものではないのだから﹂︵口年報﹄第一七集︱

10

‑︱ 頁

︶ ︒ こうして︑教授は︑価値章標が流通過程の﹁内外への必然的・自動的な﹂流出入のでぎないのは︑それに蓄蔵機能し たがって価値尺度機能がないからであり︑それゆえにその連動に貨幣流通の諸法則が支配するとはいえないといわれる が︑それでも安心がならないとみえて︑さらに︑﹁完全ないみでの不換銀行券

( 1 1

価値表章︶﹂の﹁発行総量はもはやほ

んらいの流通必要金足をこえないとはいいきれない﹂︵傍点ー岡橋︶ので︑

ではなかろうか︑といったようなあの疑問はあっけなく解消しよう﹂︵﹃年報﹄第一ヒ策に0

ー一

頁︶

と︑

こと﹂つけくわえておられる︒

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

﹁念のためにひと

﹁それじたい価値・一般的等価である貨幣にだけ本米的にあたえられたも

ので

あっ

た﹂

︵﹃

年報

﹄第

一七

集︱

I

頁︶︒すなわち︑流通必要金量へのげんじつの貨幣流通量が適合するのは︑それが﹁象

徴でない貨幣﹂(︱

1 0

頁︶︑﹁本位貨幣としての金貨﹂︵三二頁︶であり︑に値の尺度として機能し︑必要におうじて流通過 第三十三巻第五・六合併号

(20)

畳﹂

︑ 貨

幣 の 相 対 価 値 に つ い て

はたして︑ なりえない︑というわけであろう︒

第三十三巻第五・六合併号

﹁げんみつにいえば︑

一 九 流通必要金量以上の流通

程から外へ︑あるいは外からうちへと流出入しうるからである︒菩蔵貨幣は︑そのように増減し︑出人する貨幣の貯水 池の役目をはたす︒これに反して︑佃僅章標は価値の尺度としての機詣をいとなみえないからこのような蓄蔵貨幣とは ところが︑流通必要金量とげんじつの貨幣流通量とのあいだに﹁一時的な不一致﹂がおこると︑教授は主張される︒

そうして︑蓄蔵貨幣はこの﹁一時的な不一致﹂を適合させる機詣をもっといわれる︒すなわち︑

﹁その適合のしかたは︑︵一︶流近必要金量にたいするげんじつの貨賠流通量が過乗となるばあいと︑︵二︶流遥必要金量にたいす

るげんじつの貨棺流通量が過小となるはあい︑との二つのばあいに対応してそれぞれちがう︒︵一︶のばあいには︑流通必要金量に

たいするげんじつの究幣流遥量の過剰部分は貨幣の価値保存的・自己防衛的な機能にもとづいて菩蔵されるというしかたで︑流通必要金星の変動︵減少︶にたいするげんじつの貨幣流通菫の適合がおこなわれる︒また︑(︱‑︶のばあいには︑流適必豆金量にたいす

るげんじつの貨幣流通量の不足部分は︑貨憎の価値実現的な檬能にもとづいて流通によびもどされる蓄蔵貨幣の流通手段への再転投によって補充されるという方法で︑流通必要金呈の変動にたいするげんじつの貨幣流通量の適合がなされる﹂︵﹃年報﹂第一七集︑三

五頁

︶︒

しかし︵一︶のばあいには︑﹁流通必要金量にたいするげんじつの貨幣流通塁の過剰部分﹂が蓄蔵されることによって︑

﹁貨幣の価値﹂が保存され﹁自己防衛﹂される︑といえるであろうか︒すなわち︑

の減少に︿適合﹀

してゆくための現実的貨幣流通塁の減少過程﹂

﹁物価下落←流通必要塁

﹁したがって︑それの流通必要量への適合過程﹂︵﹁現代銀行券の基礎蝉論﹄二四九ーニ五0

頁︶を意味するが︑このば あい︑流通過程に残った貨幣はこれまでよりもより多くの商品価値塁を支配することができて︑﹁価値保仔・自己防衛﹂

しえたであろうが︑蓄蔵貨幣部分はその犠牲にあまんじなければならないであろう︒ことに︑物価がふたたび騰冑すれ

(21)

の増大過程﹂とは︑ てできた相談ではなかろう︒なぜなら︑ ば︑これら蓄蔵された貨幣は流通過程にあらわれねばならないということになれば︑蓄蔵告幣の﹁本生池内に流涌のそとへ身をひくことによって︵価位をー岡橋︶保存しようとする︑

﹁けんみつにいうと︑流遥必要量以下の流通量︑したがってそれの流通必要量への適合過程﹂を意

味し︑その流通量の増加によって物価騰貴を﹁実現して﹂ゆくことになるからである 一 胃

0頁 ︶

eこうなると︑貨幣の硫通必要金

u ‑ m

︳へのげんじつの流通量の適合の内在的必然性はない︒貨幣の流通は︑こう

して︑市場価格のあがった商品をそのときどきに実玩しなければならないような当然の流通﹂は存在せず︑﹁しいられ﹂

た流通になってしまう︵﹃年報﹄第一七集︑三四頁︶︒

金貨の流通をこのように﹁しいられ﹂た流通とみなければならないような教授の発想は︑流通必要金=軍と流通量との

分離・適合からぎたものであり︑それは︑さらにさかのぼれば︑紙幣と流道必要金量とのあいだの代表関係の問題にま

でいかなければならないであろう︒もちろん︑教授は流通貸幣足の流通必要金景への適合の過程をもって︑両者の不等

金量の掏等化の過程と考えられたのかもしれないが︑こうすることによって︑流通必要金量にたいずるげんじつの流氾

貨幣量の代表関係をみ︑かくして金貨の象徴化への道をぎりひらく結果となった︒金属流通にあっては︑もともと︑流

通必要金量とげんじつの流通量とのあいだに乖離はなく︑両者は一体であって︑おなじものにすぎない︒しかるに︑遊

部教授の不等価交換論を金インフレーション論とみた飯田教授は︑いまや︑市場価格総額に等しい流通必要金量とげん

じつの貨幣流通量との乖離をみることによって︑みずからもまた価値十分な金貨の象徴化を説く︒問題は︑価値どおり

の商品価格総額に等しい流通必要金置と増加したげんじつの流通貨幣盟との代表関係をみる︵遊部教授︶か︑あるいは市

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

いわば自己防衛的な機泥﹂︵﹃年報﹄第一七集︑三四頁︶なん

﹁物価鷹貴←流通必要金量の増大に︿適合﹀してゆくための現実的貨幣流通量

︵﹃

現代

銀行

券の

基礎

理論

﹄二

四九

第三十三巻第万・六合併号

1 0  

(22)

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

まるということであって︑

策︱

‑+

︱︱

一巻

第几

・六

合併

これに適合するために増加していくげんじつの流通貨幣号ーとの代表関係をみる

こうして︑貨幣の流選必要量とげんじつの流通量との乖離をみとめることは︑流通必要金量としての金とげんじつの

流通量の金とを異質のものとすることであり︑莉者は価値の尺度としての金であるのにたいして︑後者の金は価値章標

の索付としての金であり︑価値章標としてのげんじつの流通金貨の価値はその素材としての金の価値とほ乖離してしま

う︒このように︑象徴化されたげんじつの流通金貨は︑したがって︑その流通量によって価値の尺度として金の一定重

量を代表することになってしまうがら︑それは︑もはや︑流通必要金塁の変化こ対して﹁内在必然的に適合して﹂増減

する機能をかく︒げんじつの流通霞は流通必要金盟の増減と一体となって変動し︑真接︑物価の実質的騰落によって制

約されている︒これが貨幣流通の諸法則である︒物価の変勁によって規定される﹁流通必要金量の変動のあとについて﹂

えし

てい

えば

﹂︑

げんじつの流通貨幣の代表金属量は︑ げんじつの流通貨幣が﹁まわらなければならない﹂︵﹃年報ー第一七集︑三五頁︶のではけっしてない︒だから︑﹁こうして流通必要金量の変動にたいして内在必然的に遼合してたえず新たにうごいてゆかねばならないという某本点﹂を﹁衰が

流通必要金量とこのげんじつの流通塁との代表関係によってき

﹁これこそ︑貨幣流通の諸法則の真髄﹂︵?︶だということになろう︵三ヒ頁︶︒

この価値十分な金貨の象徴化論︑必要金量と流通金棗との乖離・適合の狸論は︑不等仙交換を等価交換に転化し︑金

貨の代表金量変化の理論に解消するものであり︑貨瞥の相対価値の変化の否定︑総価値と総価格の乖離の否定につうずc

もちろん︑教授は流通必要金量を市場価格総額とみることによって︑言葉のうえでは︑これを︑一度は︑肯定しはした

が︑げんじつの流通貨幣の象徴化によって︑結果的には︑不等価交換を否定してしまっている︒価値十分な金貨の象徴 ︵飯田教授︶か︑というところにあるのではない︒ 場価格総額に等しい流通必要金量と︑

(23)

化論

は︑

成にたっしたが︑他方では貨幣流通の諸法則を︑

貨幣︵金︶

ついに︑貨幣流通の諸法則の﹁真髄﹂を流通必要金量と流通金量との適合のうちにみることによって︑その完

ついに︑紙幣流通の特殊法則に転化させてしまった︒

価伯十分な金貨の象徴化によって︑流通必嬰金呈の変化にもかかわらずげんじつの流通金貨はその代表金重量をかえ

るだけで︑その流通量の増減とはならず︑したがって価格変動は実現されないままとなる︒すなわちその代表金重塁は

不確定である︒こうして商品の価格はただ観念的金量としてあるだけで︑価値の尺度は作用せず︑その貫徹もみられず︑

金章椋としての金製の価値章標︵価値十分な金貨︶は︑いまや︑商品の価値を直接︑象徴するものとなる︒

金貨の象徴化の理論︑貨幣︵金︶11章標説は︑摩損金貨の不等価交換を流通必要金量と流通量との代表関係に解消し︑

流通手段の価値︑相対価値の問題を価格標準の問題にすりかえたところに発している︒不等価交換は商品価値量と流通

必要金量とのあいだの問題であり︑これを流通必要金量とげんじつの流通墨との代表関係の問題にうつすことによって

否定し︑総価値と総価格の乖離を否認することを意味す︒この総価値と総価格の乖離の否定は︑貨幣の流通手段として

の価値︑その相対価値の否定を意味し︑このことは︑さらに︑紙幣の相対価値の否認︑紙幣流通における不等価交換に

かんする問題意識のけつじょは︑紙幣の価伯をその時々の代表金量のなかにのみもとめる緒果となり︑それは︑やがて︑

紙幣の代表金鼠の不確定の規定へとみちびく︒こうして︑はじめて︑紙幣の連動における絨幣流通の特殊法則の専一的

価値章標としての紙幣の代表金量の不確定は︑紙幣からその伸縮機能をうばいとる︒流通速度は伸縮機能の一表現で 支配が確立するe

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て 11

章 標 説 の 貨 幣 11 紙 切 れ 説 へ の 顧

第冗・六合併号

(24)

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

速度や騰落のない物価変動が説かれえたのであった︒

第五・六合併号 あり︑したがって流通速度と代表金量の不確定とはあい容れない︒それらはおたがいに矛盾する規定である︒紙幣の流通速度変化による流通必要金量への適合を︑個別的な流通速度に分解し︑物価の騰落を個別あるいは個別集団的な騰落に解消し︑紙幣の流通総量

(M V)

の一定によって︑物価の一定←流通必要金量の一定によって︑ようやく紙幣流通の

特殊法則の専一的支配を死守することはできたが︑しかしそのため︑流通必要金量の変化に対応する紙幣の運動の問題

は︑流通必要金量の不変のもとにおける紙幣の個別的な運動の問題にすりかえられてしまった︒こうして動かない流通

しかし︑紙幣の専一的流通のもとにおける物価の実質的騰落の説明には︑どうしても︑必要金量の増減︑したがって

紙幣の流通量の伸縮が不可欽であった︒そうして︑ついに︑利子うみ資本の運動をもちこむことによって︑げんじつの

流通過程における紙幣流通量の増減の余地を見いだそうとしたが︑それでも紙幣はなお流通過程のそとに出てしまった

わけでないから︑この構想も︑結局は︑流通速度構想の変種にすぎず︑どのような伸縮構想も紙幣の代表金量の不確定

性と矛盾し︑紙幣流通の特殊法則の専一的支配の地盤をきりくずすおそれがあった︒紙幣の伸縮構想が開発されるにし

たがって︑紙幣流通の特殊法則の専一的支配の地盤もゆるみがちとなり︑そのたびごとに︑その専一的支配の強化︑強

調となったようである︒最初は︑紙幣だからそれは当然に紙幣流通の特殊法則に支配されるのだといってすましておれ

たが︑流通速度構想の採用とともに︑紙幣に特有でない運動に貨幣流通の諸法則が反映するや︑紙幣の発行流通総量

(M V)

の一定︵流通速度の個別化︶によって︑紙幣の自由に流通過程から出たり︑それへはいることはできないのだ

という理由から︑紙幣流通の特殊法則は︑依然として︑支配しているのだ︵﹃年報﹄第一七集二

0

︱頁︶とじぶんにいい

きかせたが︑紙幣の貸付発行をみとめるや︑それだけでは安心ができなくなり︑ついに︑紙幣の貸付発行にあっても︑

第三十三巻

(25)

|_―九六八•-. ﹁流通必要金量をこえないとはいいぎれない﹂︵五一頁︶といいぎって︑紙幣流通の特殊法則の専一的支配をしつように守りとおされる︒

このことは︑流通速度構想が紙幣の代表金量の不確定性とまったくあい矛盾することを意味し︑したがって紙幣流道

の特殊法則の専一的支配と速度構想のあい容れないことがあきらかとなる︒かくして相対価債の否定︑総価値と総価格

の乖離の否定によって︑紙幣を価値なぎ価値章標︑その紙片化にみちびくとともに︑兒換の停止された銀行券11紙幣説

は︑商品価値を直接象徴するたんなる章標説11紙切れ説となる︒

このように︑貨幣の相対価値の否定は︑一方では︑貨幣︵金︶11章標説を生み︑貨幣流通の詰法則の紙幣流通の特殊

法則への接近︑その転換をもたらしたが︑他方では︑兒換の停止された浪行券の金章栢化から価値なぎ価値章標をへて︑

ついに商品章標に転化し︑ここに︑紙幣流通の特殊法則は︑流通必要金景にたいする金章標の代表関係から生じないで︑

商品にたいする紙片の代表関係から生ずることになってしまう︒こうして紙幣流通の特殊法則がたどりついたところは︑

﹁商品は価格なしに︑また貨幣は価値なしに︑流通過程に入りこみ︑それからそこで︑商品雑炊の一可徐部分が山なす

貴金誤の一可除部分と交換される﹂

( K .

I .  

s .  

1378)という仮説にほかならなかった︒

かくて︑兄換の停止された銀行券を紙幣とみる飯田教授の紙幣説とは︑紙幣流通の特殊法則によって科学的に紛郷さ

れた雑炊理論をその基礎原理にもつ貨幣11紙切れ説の一環であったことがわかろう︒

貨 幣 の 相 対 価 値 に つ い て

第三卜三巻第打・六合併号

参照

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