井上円了『稿録』の研究
著者名(日) シュルツァ ライナ
雑誌名 井上円了センター年報
号 19
ページ 318‑270
発行年 2010‑09‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00002857/
井上円了『稿録』の研究
ライナ・シュルツァ
rainer schulzer
1.始めに
井上円了の英文による『稿録』は、1973年に東洋大学図書館の未整 理の書庫の中に発見されたものである(1)。表紙には、円了の自筆で
「明治十六年秋 稿録 文三年生 井上円了」と書いてある。そのため 一般的に、「稿録』と呼ばれ(以下、『』を省略する)、1883年度の始 期、っまり東京大学文学部の三年生の時に書き始まったノートとされて いる。井上円了の初期思想の形成を知る上で、この稿録はもっとも重 要、且つ総合的な資料として重視されている。
この論文は、内容よりも、稿録の構造と諸記録の由来や目的を研究す るものである。この研究の豊饒性については、井上円了記念学術セン ターの三浦節夫先生にご示唆頂いた。衷心より感謝申し上げる次第であ る。また、私の不十分な日本語で執筆された論文の訂正をして下さった 社会学部の柴田隆行先生にも心より感謝の意を表するものである。更に 本年報に掲載された「井上円了『稿録』の日本語訳」(後掲)において
も、柴田隆行先生には多大なるご協力・ご指導を頂いたことに、重ねて 謝意を表するものである。
2.原典の様子
稿録自体は、東洋大学図書館に所蔵され、一般の方が閲覧できないも のであるが、稿録の黒白コピーは一般の図書館利用者にも閲覧の可能な 資料である(2)。この研究の際し、東洋大学図書館から在り難い許可を
井上円rvrasu9の研究 3(318)
得られ、本物を検討する貴重な機会を与えられた。
稿録の外寸は、縦21cm、横16.5 cm、厚さ2.5cmである。表紙は、比較 的に厚い板紙で作られているので、頁のみを測ると、厚さは1.9㎝だけ である。頁数は660頁であるので、本が165枚の洋紙に綴じられている ようである。寸法と頁数から見て、ノートあるいは小冊子というより も、本格的な書籍であると言わなければならない③。洋紙には、縦書 きのための線がそれぞれの頁に17本が引かれている。縦書きの線に 沿って英語の文章を書くために、円了は本を90度回して、背を横にし て執筆した。文字を数えないと、はっきり言えないが、稿録に書いてあ る文は、推測すると、95%ぐらいが英文である。様々な縦書きの日本 語のメモ以外に、日本語の文章は英文と同じように、本を90度回した 状態で横書きに執筆されている。全ての字は、手書きである。
稿録は、巻頭からだけではなく、末尾からも記録が記されている。こ のような前後の使い方は、執筆の易しさのゆえであったと思われる。
660頁のノートの場合は、真ん中のほうで、上の300頁と下の300頁の 紙が両方に高い級になるので、書き難いだろう。稿録の目的や記録の性 質を以下に議論するが、仮に稿録の「稿」を「ノート」、または「原稿」
という意味で考えると、様々な記録の順番と場所が体系的な繋がりを持 たないのは、不思議ではないだろう。執筆の便利さから見て、末尾から 書くことも差し支えないのである。
そして今回は、内容の上、稿録の諸記録の内容を問わずに、物質的な 状況の上で、記録の分け方を挙げるつもりである。僅かなメモを別にす ると、空白の頁、筆記具、それに筆跡によって、はっきりした分割が可 能である。この分け方は、表1俵1.1や表1.2)に示されているとおりで
ある。
このようにして項目別にすると、23項の記録として区別できる。表 紙(印刷用語で表2)に清書で執筆されている漢詩は、記録0にした(4)。
ただの大学ノートではなく、貴重なものに対しての円了の尊敬を表すも のである(5)。稿録の合計660頁のうち395頁に記録がなされている。1 頁だけの記録は5つあり、一方一番長い記録は、(121頁に亘る)記録7、
つまり「シュヴェーグラー『哲学史ハンドブック』」の抜粋である。表 1の「内容」欄に書いてある「」の中は、稿録に記してある題目、ま たは、テーマである。〔〕は、筆者が付けたものである。一冊の洋書 だけの抜粋は、この洋書の著者やタイトルを記入した場合もある。そし て、表1の「頁(翻訳)」欄には、本年報に掲載されている「井上円了
『翻訳』の日本語訳」の頁番号が載せてある。なお、表1の他の欄、つ まり「分類項目」「冊数」「頁(喜多川)」などは、この論文を進めなが ら、説明したい。
3.先行の研究
喜多川豊宇氏は、稿録を初めて解読・活字化して、1988年の「井上 円了の西洋思想』の中に「井上円了英文稿録解」との表題の下に89頁 に亘って発表した⑥。今回の研究により、喜多川氏のテクストの直す べき、また補足すべき箇所がたくさん明らかになったとはいえ、今回と 今後の稿録研究は、喜多川氏のご苦労に大いに依存していることは、間 違いないのである。
喜多川氏のテキストには2項の記録の順番が誤っているので直してお きたい。「外史評論」という記録18は、喜多川氏のテキストの最後に、
っまり187〜188頁に記してあるが、正しい場所は、表1に示されてい る通りである。「外史評論」という記録18は、日本語だけで書かれた唯 一のものであるので、この理由で喜多川氏が別にしたのかもしれない。
順番におけるもう一っの間違いは、212〜213頁にある文献目録に関 するものである。これは、喜多川氏のテキストで示されているように巻 頭から始まる最後の記録ではなく、末尾からの最初のものである。それ
1日r「i・欄録」の研究5(316)
P噸L三) ( 11 11
ls鵠
桧1 《
c
︐一§﹂ LΩ 寸三卜 1⑩
m§ §旨 自s
§自c =
@芭 ?ワ
巴 lN 1さ︑劃卜☆
罵 § §1§
.嵩
Os 養9鵠
箋閑 q⊃エ§
寸琴︽︶ 1寸日讐i
蘭ッ
Ol
峰 .1.。已自
一
§N
巳1琴。つ1品尊塞斜 189巽
留3吉
§1卜 煤e
寸 .
O当
(
e無承X踵 ︶▲ 一1 1α 目 IIN 」
繰§
1]o 留 oo 寸﹁蒸室
(1三1〔
⊆
一
…g 1
oり倫言り
寸 ゜
P
歯辮
制皿柵報皿 一コ,沖 wロ
1鰹/⇔
舗皿
襖肴匝 1 坦輌 坦昌皿 坦君ロ 坦輌 聾緒 坦目皿 坦嵩ロ
慧脳 1
柵
f 窯x両破
柵頴ミ這 ∂x両燦 x両地
芭xAjヤ1囎蹄鯉搬x毒刊皿 §柵憲 x辰搬 x轟3懇
孜畏
1
k 〔
P龍1]球
ソ曄
曇寧惑﹁
《蘂
エβ
隔柑練蓬一 一綿欄相刊鎧嚥堅唱1却一 L
ー|口くe和i紳︺
冨書 clくぺ1/遼あ醤 亘蓑ヨ㊤呼奄塑 §
顛蒋紅迷︺@握 尋 姻 酷悼1齢 ﹂一一 1 ︺ミミ61︽シK
副騒奄
龍1
ォ 薫1
図
蓬
蝋
糞巡 .
K迷
糞悉 文悉巽1婁香@退
「 ル・。一
N co 寸 口 q⊃ ト oo ㊦ 19 :受只隠柳 鋼ー騒侶e踏稟 ↑.一榔
卜嶋一︐oう雪 oっ瘁A専目
專一︐N菖
゜○
求B黶C一〇目
一巴︑oO⑦目
゜02︐00N
到劃§
﹇寸﹇︐Φoつ一 一〇N︐NON
Φつ目︑器﹇ 卜oo﹇︐oooo一
oうnN
﹂°・・ー
ooON
oonN
卜σっ一︐Nσつ︼ ㊦ON︐N︼N
N﹇N︐㊦一N
⑫︵三■國︶
①ミ︐ロヨ目田︐寸oo
的oo︐寸卜
oうg︐﹇卜
O卜︐O口
口吟︐°う頃
卜寸
寸寸︐⑦N 寸N
o卜
目ひつoり
巴
一 oう
①目
鵠寸︼
NN︐eっ
(
惑N 踵一
)
〔
ON
N
︵蛋踵︶嘉固
[ 寸 一
︵°︒︶
︵°︒ト一︶
︵㊦︶
︵ひう︶
oり
︵卜一︶顯圭 興蜘辮﹂柏興却到氷柵記躍釦璽柳到釦鴫卵剛却蜘鯉柵謡
喬辮 柵碧柵頴
べて麟フ聖
べ八ヤ嚥㌍
柵憲
べNヤ曄細
柵頴
︹三べλ∨劇鯉
柵綱
柵頴
べヤ銅灘
柵詣
叫口ぬ柵 ﹃騨堅e朴園剖是聖﹄ ー無ピー只〔(K︶曙潔Q朴知圃岳︺
﹃榔螺留枯蘂﹄㎏纂
︹刑挺ゼ担e旅岳︺
﹁曝潔Q朴靱画岳﹂
﹁纏駝取K﹂
︹齢蕊超︺
﹁騨華﹂﹁割鱈﹂
﹁朴圏匂﹂﹁談ー肝劇﹂
︹裳皿起﹂↑杓繰毬︺
﹁畑蒜﹂
﹇藩艦︺
︹蕊繋肝紅︺
雑江 婁搭謄締糖糞墨婁悉囎欄羅
寵畑裳皿
蝋皿
惣皿蟻皿
糞遷贈口
皿瞥無奄
σう
m
NN
一NON
巴oo
m
巳⑩︻
巴
寸一
oう
u
田tS zp
緒臨
但粂世米 鋼−蠣暗e蝋蝶 N.r撫
牛・L円」 fra録』の研究 7(314)
は、表1の「〔哲学雑多〕」と書いてある記録12である。
喜多川氏の開拓的な価値のある活字化以外に、清水乞氏の2007年の
『井上円了センター年報』に発表された「井上円了における近代西洋哲 学研究の原点 「明治十六年秋 稿録」とその展開」という論文があ る(12)。清水氏は、喜多川氏の稿録テキストをたくさん補ったり、直し たりもしたが、この論文の主な目的は、稿録に記した抜粋と円了の初期 著作との関係を明らかにすることである。つまり、「排孟論」『倫理通 論』『心理摘要』『哲学要領 後編』という円了の初期著作と稿禄に見ら れる西洋哲学者の名前を対照する表も挙げられている(13)。哲学者の名 前だけではなく、円了の抜粋した洋書の確実な書誌情報を知るために、
稿録のテキストと洋書の出典を照合しなければわからないことも清水氏 の研究で明らかになった(14)。これは、筆者の研究の出発点となった。
更に、茅野良男「井上円了の哲学史研究について」との論文もある。
茅野氏は、稿録に見られる円了の哲学史研究に関して、シュヴェーグ ラー『哲学史ハンドブック』の抜粋を中心対象にした(15)。
4.『稿録』の諸目的
清水氏が指摘された通りに、稿録を「雑記帳」と呼ぶのは、適切であ ると思う(16)。稿録の多様な目的は、諸記録の多様な性質から伺わなけ ればならない。漢詩を別にすると、表1の左から第2欄に書いたあるよ うに記録の6つの種類を区別できる。つまり、「抜粋」「目録」「図」
「表」「講義録」「草稿」である。図は記録3のみ、表は記録5のみであ る。両者は、「抜粋」と同じように研究ノートといえば、正しいだろ う(17)。それで「講義録」は、記録19と記録22であり、一方「草稿」
はまた1項だけである。それは、既に言及した記録18の日本語の「外 史評論」である。清水氏の調べによると、この未完の原稿は、1883年 10月25日に『東洋学芸雑誌」に発表されている「読日本外史」という
論文の下書きのようである(18)。
「抜粋」以外に、もっとも多い記録は「目録」、所謂文献リストであ る。抜粋は12項の記録に及んでいるが、一方目録は6項である。ここ に「目録」とされた記録は英文書籍の文献リストばかりで、そしてここ に「抜粋」と呼ばれた記録は、英文書籍からの抜書きである。この書き 抜きの95%以上が英語で書いてあるが、日本語のまとめも見つけるこ
とができる。
そして、量の面から見て、講義ノートや草稿ノートとしての使用は、
稿録の副次的な目的であったと言わなければならない。稿録の主な目的 は、抜粋と文献目録という二つのところにあったようである。稿録に見 られる抜粋と文献リストとの関係を明確にすることは、この論文のポイ ントの一つである。
5.『稿録』の洋書
「読日本外史」の下書きを別にすると、稿録というものは、円了に とってあくまでも西洋の学問を勉強するためのものであった。日本語の 書籍、あるいは漢籍の跡をどこにも見つけることができない。
稿録に見られる洋書の合計数を挙げようとすると、タイトルがはっき り書かれていないためとか、同じテクストでも二つの出典先が考えられ るためとか、このような問題などで確実な数え方は難しいが、細かいと ころを省くと、稿録に挙げられている洋書は、約220冊と数えられる。
ドイツ語やフランス語などからの翻訳も何冊見られるが、この220冊の すべては、英語で書かれたものである。
表1の「冊数」の欄には、それぞれの記録に扱われている本の数が挙 げられているが、220冊という数は、この欄の合計というわけではな い。「冊数」の欄の合計は312冊であるが、2回や3回に亘り、稿録に出 て来る著作を一回だけと数えると、220冊になる。でも、井上円了の研
井1・円了「稿録』の研究 9(312)
究においては、もっとも面白いのは、ただ列挙されている本ではなく、
円了の勉強した書籍であるだろう。一つの文章、フレーズ、名前などの 短い抜書きも配慮に入れると、抜粋された本の合計は、59冊である。
この59冊を出版年、版、訳者などの書誌情報も含む文献目録で挙げる ことは、今回の研究の目的の一つである。
表1の「冊数」の()の中に書いてある数字は、抜粋や抜書きを見 つけることができず、著者やタイトルだけで確定できる書籍数を指して いる。稿録の目録の全ては、著者やタイトルだけで成り立っているの で、冊数を()に書いた。抜粋の記録の中で一番複雑である記録9に は、抜粋された本以外にも、名前だけ挙げられている本も見受けられ る。そして、円了が抜粋した本の大部分は、目録の中にも出て来るし、
目録も互いに重なっていると注意すべきである。
6.『稿録』に見られる書架表記
出版年、版、出版社などの情報が稿録にはどこにもないが、辿る方法 はある。この点に関しては、稿録の6つの文献目録は大切なヒントで あった。喜多川氏の稿録に欠けている目録を挙げることで、説明を続け たいと思う。乱筆で書かれてあるので、喜多川氏が記録1である目録を 落としたかもしれない。稿録の多様性のために、文献学的に満足させる 編集がとにかく難しいが、メモ書きでノートしたものは特に活字にし難 いと思う。この問題の実例にもなり、図1に喜多川氏のテキストを補足 するために、記録1である「〔歴史〕」の目録を挙げておく。
図1に列挙してある15冊の歴史本の中の6冊の前に「△」が描かれて いるが、意味が不明である。そして、7行目に見える「Epipt」は、1行 目と同じように「Egypt」という言葉であるはずだが、どう寛容な見方 を生かしても、そのように書いていないのである。しかし、今回の研究 に関して注目したいところは、右に書いてある表記番号である。このよ
△ History of Egypt
Heroe worship Chamber
△ Epipt Dew,
Historv of World △ Historv of Greece Freeman His. of Europe
Greece △
△ Ancient Greece △ L 392anclent History
Heeren
Historv of ancjent Greece
Digest of Manner Custom
L291
L3722V
P285 L225 L151 L1813V.
L247 L43
L912V.L3867V.
L345
L343 L18012 V L391図1 記en 1:〔歴史〕
うな表記番号は、稿録において多く箇所に見つけることができる。図1 に挙げた目録では、「P」の番号、「L」の番号のみであるが、稿録の全 体には、また「D」「F」「G」「J」「v」「x」それに「Mis.」の記号も ある。「アルファベットー文字と数字」という形の記号は、合わせて 231冊の洋書を列挙する6項の文献目録の中に6冊だけに欠けている。
目録以外の記録の中にも、17箇所で見つけることができる。
高野彰氏によって行われていた明治時代の東京(帝国)大学図書館に ついての詳しい研究のお陰で、この記号を図書表記として証明すること 可能であった。1911年以降に使われていた『東京帝国大学附属図書館 案内』というパンフレットで、高野彰氏は、図書記号の意味を明らかに
した(ig}。円了がノートした記号は、明治時代の東京(帝国)大学図書 館の書庫内の分類を示す書架表記である。高野氏の推測によると、この 書架表記は、法文理学部図書館が神田錦町で設立した1877年から、
1883年の本郷キャンパスへの移設の後でも使われ、関東大震災による
牡円了1「線期磯11(310)
図書館の破壊まで続いて使用されていたのかもしれない〔20)。
それで、稿録の最初の記述から最後の記述までの年月の問題は、図書 記号から判断できない。しかし以上に言及した1911年の図書館案内に よって、この書架表記の意味が判断できる。アルファベットの一文字で は、学問の分野、あるいは科学領域が示されているのである。この表記 は、明治の東京(帝国)大学図書館に所蔵されていた洋書だけに使われ ていたので、分野も英語で表されていたが、表2では日本語で表記し
た(21)。
表2の「稿録の全ての記号」の欄に稿録に見える全ての書架記号を配 分した(二回か三回か出て来る記号は、一回だけ数えられている)。右の欄 には、抜粋された59冊の本の配分を示す。この59冊の全てには書架記 号が稿録に書いてあるわけではないが、1896年の『帝国大学図書館洋 書目録』で調べることができたので、その通りに配分にした。
表2に見られる学問分野においては、心理学と教育が哲学の一部分と して扱われていたので、哲学と同じように「V」で表記されたことを注 意すべきである。そして、法律と社会・経済・政治学のためには、別の 分類が存在した。今表2を見ると、東京大学の存在の最初からは、近現 代の科学体系が殆ど完全に図書館で表示されていたことが分かる。この 事実自体も、面白いと思っているが、円了の初期思想の形成において
は、稿録に見られる洋書がどのようにこの学問分野に及んでいたのか、
意義があるだろう。特に円了が抜粋した著書の配分は円了の大学時代に おける興味や視野を表すものであると考える。
この問題においては、D一行に関して注目したい点がある。「生物学」
や「人間学」と書いてあるが、高野氏の研究によると、図書館が設立さ れた1877年に、D一行は「植物学」所謂「Botany」だけであったそうで ある(22)。その時に生物学は、生命を研究する包括的な科学としてまだ 独立していなかったのである。円了が稿録を始めた1883年、つまり約5
表2 書架表記の意味と稿録の洋書 書架表記 分類 1 稿録の
@全ての記号
抜粋された {の記号
A
建築B 天文学、数学 「
C 伝記
D(Mis.) 生物学、人間学 11 3
E 化学 1 1
F 教育 5
G 辞典、百科事典 2 2
H 工学
1 美学
J 地理学 1 2
K 地形学
L 歴史 14 1
M
工業、農業N 書誌
O 言語
P 文学 5 ユ
Q 医学
R 気象学、地学
S 軍学、航海学
T 鉱物学
u 鉱山業、冶金学
V 哲学 167 44
Va 神学
W
物理学 2X 科学一般 3
Y 雑誌(長)
Z 雑誌(短)
井上円了「稿en』の研究 13(308)
年後にもまだ同じであったと次の事実から推論できる。
記録17に、筆者は「〔生物学〕」という題目を付けたが、この目録に 見える8冊の書架表記は「D」ではなく、「Mis.」と書いてある。今日 から見ると、生物学と生物学的人間学の代表的な著作ばかりである。
『種の起源』も含む三つのチャールズ・ダーウィン(1809〜1882)の著 作以外に、当時の西洋の学界で有名な生物学者であったジョン・ラボッ ク(1834〜1913)やエルンスト・ヘッケル(1834〜1919)などの本も列 挙されている。稿録が記述された時、「生物学」という包括的な学問が まだ確立されていなかったので、そして以上の著作は「植物学」ではな いから「Miscellaneous」即ち「その外」に入られたようである。しか
し、1896年の『帝国大学図書館洋書目録』に調べると、確かに全部
「D」となっているので、表2に「Mis.」と「D」を一緒にした。
稿録に見つけられる書架表記は、哲学を表示する「V」が圧倒的に多 いということは、円了の専門から見て驚くようなものではないが、「D/
Mis.」一行に入る著作が比較的に多いという事実は、興味深いと思う。
19世紀の後半から西洋の学界で激しく議論されていた科学と宗教の対 立は、進化論の発見で盛んになった生物学の宗教批判で始まった議論で
あった(23)。稿録の幾つかの箇所にみられる「宗教VS科学」というテー マに対しての円了の深い興味については、今後の研究課題にしたいと思
うが、ここで少し触れておきたい。円了は無神論や無宗教主義を生じた 進化論的生物学を無視したわけではなかった。その一方、進化論の真理
を信じる上で、科学に矛盾しない宗教を望んだり、永遠に発展している 生命を価値としたりするという思想傾向があった。この円了の思想形成 の方向は、稿録にみられる現代生物学の先駆となった代表著作に表われ ていると思う。
7.『稿録』の文献リスト
稿録に見られる220冊の洋書の中に、208冊は書架記号が記されてい るので、稿録と当時の東京大学法文理学部図書館との関係は、確実であ ると思う。高野氏の編集の下に、明治前半の東京大学、または東京帝国 大学の図書館に所蔵されていた書籍目録が8巻に亘って復刻された。
『明治初期東京大学図書館蔵書目録』の第3巻である『東京大学法理文 学部図書館洋書目録』(1880年)と第5巻である『Author Catalogue of the Library of Teikoku−Daigaku(lmperial University)』(1891年)、そして
既に取り上げた第8巻である『帝国大学図書館洋書目録 上巻 辞書体 分類』(1896年)は、稿録の洋書研究のために重要であった。1889年の
『東京大学法理文学部図書館洋書目録』は、分野別の目録であり、1891 年の『Author Catalogue of the Library of Teikoku−Daigaku(lmperial University)』は、著者のアルファベット順で、出版年と発行都市も含む
目録である。そして、1896年の『帝国大学図書館洋書目録』は、書架 表記の載っている唯一のものである。その三つの目録で調べられる情報 を、更に「NACSIS」と「Worldcatjなどのデジタル・データベースで 補足すると、殆ど完全な文献目録を成立させることができる。図1に見 える稿録の断片的な歴史文献リストは、このような調査で表3の目録と してまとめることができる。
これまで稿録に見られる目録の中に記録1や記録17しか触れてない が、残っている文献リストも更に解説できる。特に「〔廃棄された目 録〕」という筆者が付けた記録15の題も説明したい。記録15は、円了 が題を付けていないもので、鉛筆で書かれているものである。そしてこ こに載っている9冊は、記録16の最初の9冊とまったく同じである。記 録15とちがって、記録16は、一番長いだけではなく、インクで執筆さ れ、書架記号・著者・タイトルという三つの欄になるように赤いインク の線も引いてあるし、「哲学一般」「心理学」「論理」「倫理」という題目
井上1回嚇」の醗15(306)
表3 記録2に見える歴史本
Samuel BIRcH:E.g. 1)r.fbom the Eai・1iest Times tひ300 B.C., New YOrk:Scribner,
Armstrong and Co□875.
Heinrich BRUGSCH・BEY:!{〃i.yto 1 (〜fEgrPt utlC〜6 デ1〜e Pノ〜aj aoh.s Derii eゴe 置〃ノ司、1ノ} ()m
〃2eルfo1blme 8∫. To it hicノ∫is ad〈fed a Disc ounse oηtノ」e Exodu.s qノ〃le IS ue〜ite,s .7} alst.
and ed.占vア乃itip Sniith.防rノ〜a・TVei・v Prefla(で, A iditio/1∫ ind Ori9. Notes函ゴカρAut/10t:
uaps a,・id/〃↓,stn,2vols.,2. ed., London:Murray 1881,
η〃榔rひ300β.C., New YOrk:Scribner, L291
r∫イアπ〜ε∫デ1〜εPノ〜ωηoん∫.Dεr↓vεゴe置ノ司、1.ノ}刀1η
1
Thomas CARYLE:O,・J Het ()es(1,id Hero leb, 5 ノlil)a/7∂the〃eノ oic iJl tfi.s o,3・(1841).
L372 P285
lW・&R・CHAMBE・・(P・b・)・伽ib・・ s s Ed−・・…κ一・伽・1・ ・q/Aiicien・lL225
Gt eet.・e, London 1875,
Arthur Hugh CLouGH:G e〈法Htlstot;1./元刀〃)Tii〔〜nrih ご)c/es o・41〈!xa〃den加a∫el ↓ピ・Y q/
〃w∫、〃刀,ll Piuta,τノ1, new ed., London:Longmans, Green, and Co.1870.
Ernest CuRTIus:研∫ oり・q〆1 G ee ・e,3vols., trans. Adolphus Wi▲ham WARD, rev.
William A. PAcKARD, New Ybrk:C. Scribner&Co.1871−72.
L151 Ll81
Ferdinand de LANoYE:」〜α川e∫eぷrノ,ρσeαr.0 ・Eg、.印3300}セαr∫αgθ, trans. from erench, New Ybrk:ScribneちArms亡rong&Co.1875
L247
lThomas DEw:4Djgε∫r q/ノ1e Lα、↓s, C酪roη,∫,ル血〃,昭パ,オ〃亙1)7∫rl!flo7Aρr〃∫eλ7ピ〆ど所「α〃∂M6佐η771Vα加,1∫, New Ybrk:D. Appleton 1869.
L43
Evert Augustus DuYcKINcK:H ∫ω,:1 0∫ 舵培)〃 ∫.ρom〃〜¢五α〃 ε∫/p〈竹o 〜↓o,加
o,で∫ど r7}me,4vols, in 2, New Ybrk:Johnson. L91
George FINLAY:/1苗.yω y句』G花βcθノγom∫1∫Co η御e∫↓々v 『e Ro ηα 雀∫101んP㎎ぷε ナ ηe β.C 146 ro 4.D.ノ864,7vols., rev ed, Henry Fanshawe TOzER and George eINLAY, Oxford:Clarendon Press 1877,
L386
Edward Augustus FREEMAN:研∫ro,y O伍己f,ρρε,2. ed., London:Macmillan l876 L3451 .
不明 L343
George GRoTE:.41ガ∫70 二vρ〆 G ぞεce, Fm η 舵Eσ〃↓e∫ Pe 04 ro r/7ρClo、▽0∫ 乃ε feηピrα〃o〃Coη∫e〃rρorα,〔・ハ勺・》〆九4/己切,7 ∫ρ, /加G昭αr,12 vols., new ed., London:J.
lurray 1869・70. 1 L180
の下にあわせて178冊の本がアルファベット順で列挙してある。記録の 順序も配慮に入れると、円了が記録15を執筆してから、それをまた廃 止、そして記録16でより整っている新しい目録を始めたという過程を 伺うことができる。
記録16の目録を検討の上、面白いポイントを発見できた。記録16を 1880年の『東京大学法理文学部図書館洋書目録』と比較することで、
円了の文献リストの目的がより明確になった。『東京大学法理文学部図 書館洋書目録』の「哲学と教育」という第6項の分類は、更に「哲学一
般」「心理学」「論理」「倫理」「教育」「雑誌など」という項目に分かれ ている。この項目の下に著者のアルファベット順で洋書が挙げられてい る。稿録の記録16の文献目録は、「倫理」の「b」までしか記していな いが、そこまでのところは、1880年に印刷された目録と大幅に重なっ ていて、つまり85%以上に一致している。
両方には、倫理の「b」まで載っている本が併せて178冊であるが、
それは偶然である。しかし、この178冊の中は、153冊が順番でもまっ たく一致していることは、もちろん偶然ではない。そして、異なってい る24冊を検討してみると、『東京大学法理文学部図書館洋書目録』の方 には、英文以外の著作の全部(所謂、フランス語6冊、ドイツ語6冊、ラテ ン語1冊、合わせて13冊)とラテン語からの翻訳(2冊)と小冊(2冊)が 大部分を占めている。一方、稿録の目録の方に気付くことは、異なって
いる24冊の書架記号が、全て285番より高い「V」の番号である。一 致している153冊の中のV一番号は、全て285番より低いのである。
受け入れが遅ければ、書架番号が高くなることは、十分に想像できる だろう。高野氏の「帝国大学図書館における蔵書構築」の研究による と、1881年から1884年までに213冊の「哲学・教育」の書籍が新しく 受け入れられたことも分かることができる(24)。この213冊の間に雑 誌、教科書、英文以外の洋書など、そして「倫理」の「b」の後に入る 本の割合を推測すると、倫理の「b」までに24冊の英文哲学本が新し
く書庫に排列されるようになったことは、十分に可能性があると思う。
より詳細な点もあるが、ここではそれを省略して、次に結果をまとめ てみる。稿録の記録16は、当時の東京大学図書館に所蔵されていた英 文の哲学本の包括的な文献目録として始まったものであると考えてい る。赤いインクの線は次の頁まで描いてあるが、円了が「倫理」の
「b」以下に目録を続けなかったのである。そして、この目録の円了に とっての目的も、明確になったと思っている。書架記号がアルファベッ
井上円了1稿録」の研究 17(304)
ト順と対応しないので、書架記号が分からないと、書庫の中に本が見つ け難いこともあったかもしれない。1896年に『帝国大学図書館洋書目 録』が発行されたまでに、書架記号を調べられる目録が印刷されなかっ たので、円了が図書館の中により早く捜索できるために自分で目録を 作ったのであると考えている。
記録16の文献目録と重なっている『東京大学法理文学部図書館洋書 目録』には「教育」が「倫理」の直接後に来るが、稿録には、「教育」
という記録14は、哲学系の文献リストと分かれて、その前に記してあ る。3冊しか書いてないが、この3冊の著作は、1880年の『東京大学法 理文学部図書館洋書目録』の「教育」の下に載っている最初の3冊と同
じで、つまり、アルファベット順で「al」から「ar」までである。しか し、稿録の記録14と記録15の間に空白の頁が一つしかないので、『東 京大学法理文学部図書館洋書目録』に見られる95冊の「教育」の洋書
を登録するためのスペースが足りないのである。また、記録14は記録 15と同じように線なし鉛筆で書いてあるので、円了が記録16を包括的 な目録として始めた時、『東京大学法理文学部図書館洋書目録』に見え るように「倫理」のあとに「教育」の項も書くつもりであったために、
記録14も途中で止めたものであると考えている。
喜多川氏が稿録の文献目録を「読書リスト」として解釈したが、以上 の説に従うと、記録15〜記録16の場合は、「読書リスト」とは、想像
しにくいと思う(25)。「〔歴史〕」(記録1)と、まだ触れてない「〔哲学 雑多〕」(記録12)と「〔生物学〕」(記録17)の場合は、「読書リスト」と して筆記されたものであることは、可能性があると思う。抜粋のある 59冊との共通点を検討すると、記録1に載っている15冊の中になく、
記録12に載っている17冊の中に2冊、記録17に載ってある8冊の中に 2冊は、抜粋された59冊と重なっている。特に判断の根拠にならないも のであると思うので、読書の事実が抜書きで証明されている59冊の洋
書研究へ進みたいと思う。
8.抜粋された本
この論文の付録1は、円了の稿録に抜粋された59冊の洋書の目録で ある。稿録に欠ける書誌情報をどうやって補足ができたかということに っいて既に説明したが、稿録の抜粋にそれぞれ著者とタイトルは書いて あるわけではない。例えば、記録3、記録4、そして記録23には、円了 が出典について何も記録しなかったのである。原文を最初から辿るた め、インタネット検索が不可欠なツールであった。そして、11冊の本の 抜粋の中に頁の番号がノートされていて、この番号も、著書の書誌的な アイデンティティーを最終的に確定するための役割を果たしたのである。
しかし、ここには付録1の目録の欠点を認めなければならない。文献 リストよりも抜粋された本の中に、初期の東京大学で教科書として使用 された著書が多いと推測できる。1881〜1883年度の『東京大学法理文 三学部一覧』には、教科書についても報告されているので、これを検討 すると、抜粋された59冊の中に少なくとも15冊が教科書であったこと は確かなことである(26)。しかし、なぜ問題であるかというと、以下に 説明通りである。
当時に洋書は貴重なものであり、英文教科書を買うために学生は金が ないことも、金があっても手に入れることができないことも、当然で あったかもしれない。そのために学校に教科書が大量に海外から購入さ れていて、学生に貸し出され、または販売されたようである(27)。そう 考えると、明治時代の東京(帝国)大学図書館目録の情報に基づいて調 べられる版、出版社、出版年などは、書庫に排列してあった本に当ては まるが、教科書は必ずしも同じであったとは、言える根拠がないと思 う。例えば、記録2であるスペンサー『第一原理』の抜粋は、抜粋に見 られる頁番号で、図書館と違う版から作られた抜粋であるのが確実であ
井上円了r稿録」の研究 19(302)
る(28)。同じように、「ScHwEGLER:Handbook O〃舵H 5roW O∫p〃1050,
phyJ(付録1の44番)の場合も、教科書として使われていたことが十分 に知られているので、図書館のもの以外に、学生へ貸し出すために何冊 も存在したことは、可能性が高いと思う。それで、付録1の目録に見え る著者とタイトルは、それぞれに殆ど確実であるといえるけれども、そ の外の書誌情報は、教科書であっても、明治時代の東京(帝国)大学図 書館の目録に従って載せるようにした(29)。
付録1の目録にあたっては、更に2冊の著書に関わる問題を説明した い。一つは、第12番の「CARPENTER:Principles q∫Mental Physiology」1こ 関することである。東洋大学図書館には、約90冊の「井上円了学祖旧 蔵洋書」が所蔵されている。この90冊の洋書の出版年は、1868年と 1909年の間であり、そして、円了がこの洋書をいつ手に入れたか、そ
して一回か、あるいは少しずっ集めたのか、それについては不明であ る。円了旧蔵洋書と稿録に抜粋された本を比較すると、6箇所は互いに 重なっている(30)。円了が稿録をいつまで使用したかも、不明なので、
自分の洋書を抜粋して、稿録に記したことも、完全に否定できないと思 うが、次の三つの点を考えると、可能性が低いといえるだろう。(1)
書架表記で稿録と東京大学図書館との関係が確実である。(2)稿録の 表紙に書いてある年で稿録が学生時代のものであることも確実である。
その時、円了には洋書を手に入れにくかったかもしれない。(3)稿録 と重なっている6冊の円了旧蔵洋書を検討すると、5冊の場合に読書の 跡が僅かである。
この6冊にっいてこれ以上詳細に議論することを省きたいが、円了旧 蔵洋書に含まれているカーペンター『精神生理学の原理』に見られる読 書の跡は見落とすことができない。しおりやアンダーラインがたくさん あるので、喜多川氏は、稿録に関する本とされた。カーペンター「精神 生理学の原理』は、初めて1874年に出版されたが、円了旧蔵洋書にあ
る版は、1887年のものである。そのために喜多川氏は、稿録の記述さ れたタイム・スパンを表紙に記してある1883年から1887年まで「確定」
していた(31)。
円了旧蔵洋書にある本が1887年に出版されたからと言って、円了が カーペンターの抜粋を1887年に作ったと推論できないにも関わらず、
喜多川氏が気付かなかったのは、稿録の抜粋されたところでは、どこに もアンダーラインなどを見つけられないのである。そうであれば、次の 過程を考えることも差し支えない。東京大学の時、円了は教科書であっ たカーペンター『精神生理学の原理』の中から、迷信や妖怪に関する深 い興味を持ち愛読したので、卒業してから、機会があった時に、自分の ものを購入した。そして、自分の本なので、稿録のような面倒な抜書き よりも、アンダーラインなどすることで研究を続けた。そう考えると、
円了旧蔵洋書にあるカーペンター『精神生理学の原理』から稿録の使用 タイム・スパンについて判断できないだろうか。
煩墳ではあるが、付録1に含まれているもう1冊の本を説明したい。
それは、第36番の「MARsHALL:1ntroduction to the Science(〜f Dynamics」
である。出版年において一番新しい、つまり1898年の本である。それ に当たる抜粋は、記録3の図である。この図は、動力学の用語の階層的 分類を示すものであるが、書誌情報が何も書かれていない(32)。分野別 の『東京大学法理文学部図書館洋書目録』には「動力学」に関わる洋書 がいろいろ載っているが、「Pneumatics」「Hydrodynamics」「Hydrokinetics」
などのような独特な言葉の全てを定義する本が見つけられなかったので ある。ようやくインタネット検索で「MARSHALL:Introduction to tke Science of D.vnamics]が出たのである。48〜49頁と76頁には、稿録にある図で 定義してある用語の全て同じ意味や分類で説明してある。そして、同じ 本の1886年の版もあったけれども、内容は1898年の改訂版と違って、
「Hydro−」などにっいて何も説明されていない。または、1886年と1898
井上円了r稿録」の研究 21(300)
年の版は両方とも、明治時代の東京大学図書館に所蔵されていなかった だけではなく、「NACSIS」の検索によれば、現在も日本で1冊も存在し ない。それにしても、1898年の版との相似が偶然と考えられなかった
ので、調査を続けた。その結果は、「fntroduction to the Science qfD.x nam−
ics」の著者であるDavid Henry MARsHALLという人は、明治初期のお雇 い外国人であった。1881年の『在留外人人名録』に調べると、現在千 代田区にあった東京の工部大学校の教授であり、専門は「Natural Philosophy」と書いてある(33)。もしかしたら、稿録の記録3は、
MARSHALL氏が東京大学などで自然哲学について講演した時にノートし たものであるかもしれない。
そうであれば、抜粋された本の一番新しいのは、第44番の1884年の
「SIDGwlcK:Fa〃acies」になるので、円了が1885年、あるいは1886年に 東京大学を離れてから、稿録を書き続いた根拠はないと思う。
9.照合の結果
円了が抜粋した洋書の殆どは、ディジタル化、或いはスキャンされた 版がインタネットにある。インタネットの検索によって、稿録に見られ る英文洋書からの抜書きの99%は確認することができた(34)。日本語 だけの抜粋における不明なところは、短いものが二箇所残ってい る(35)。円了の英文抜書きとその抜書きの出典を比較する研究の結果と しては、何と言っても円了の抜粋方法を挙げなければならない。稿録に 見られる英文の抜粋は、95%以上原文からそのままの形で転写した文
章である。
この研究のもう一つのポイントは、出典と照合することで喜多川氏の 転写の間違いを訂正、そして読み取れなかったところを補足できるよう にすることであった。もし、稿録が将来更に円了の思想形成、そして日 本における初期の西洋哲学受容の研究上に大切な資料として重視される
ならば、稿録の正確な編集も必要であり、この研究によってそれは可能 になった。稿録の性質に適切な文献学的な編集は、稿録のテキストだけ ではなく、出典のテキストも含めて編集すべきであると思う。二つの欄 に稿録の文章とその文章の本来の文脈を照合すると、円了の興味や注目 を具体的に研究できる。このように照合する文献学的な編集の例として は、スペンサー「第一原理』の抜粋(記録2)を付録2として挙げておく。
10.スベンサー『第一・原理』の抜粋
稿録の記録2であるスペンサー『第一原理』の抜粋は、特別な位置を 持っているといわなければならない。一つは、既に説明した通り、稿録 の英文文章の95%以上は、原文から転写したものであるが、スペン サー『第一原理』の抜粋は、それと違って円了が自分の英語でまとめた 唯一の抜粋である。そしてもう一つは、スペンサー『第一原理』の抜粋 が稿録の最初の記録であったと推測することができると思う。
それはなぜかというと、乱筆調で書いてある記録1と違って、記録2 は、ゆっくりと清書調で記されている。または、抜粋の上に「Book L」
と書いてある。これは下に執筆されたタイトルと関係なく、最初の本の 抜粋という意味を持っていると考えられる。「Book L」とは、愛読した洋 書のために稿録というものを今から始める決意を表していると思われる。
円了がスペンサーの『第一原理』を愛読し、非常に刺激されたこと は、稿録そのものを開始する切っ掛けであったとさえも想像できると思 う。円了の抜粋を『第一原理』の原文と照合すると、円了が意図的に原 文から完全なフレーズを取らないで、自分の言葉でまとめを作ったこと が分かる。それゆえに、大学の課業として行ったものであった可能性は 高いと思う。
1881〜1883年度の『東京大学年報』や『東京大学法理文三学部一覧』
によっていろいろと円了が受けた授業について知ることができる。『三
井上円了「稿録』の研究 23(298)
学部一覧』で調べると、哲学専攻の二年生向けの心理学の授業の中に
「スペンサー『哲学原理総論』」が教科書として使用されていたことが分 かる〔36)。その時、『哲学原理総論』というタイトルを持つスペンサー の著作の日本語訳が存在しなかったので、他の洋書教科書のタイトルと 同じに『三学部一覧』のために翻訳されたものであると思う。確かにス ペンサーの「First Principtes』を指していることの他に考えられないと 思う。面白いのは、1884年にスペンサーの『First Principles』は、2っ の翻訳本が出版されるようになった。一っは、『哲学原理」というタイ トルを持ち、2巻で発表されていた。もう一っは、抄訳であり、『万物 進化要論』として発行された(37)。この事実は、明治時代の日本におけ
るスペンサー哲学の積極的な受容をよく表していると思う。
『東京大学年報』によって、1881年と1883年の間に東京大学で心理 学を担当する教授は、外山正一(1848〜1900)という人であった(38)。
外山正一は、アメリカのミシガン大学を卒業し、1876年帰国してから、
東京大学の創立された1877年に唯一の日本人の教授になった。そして、
外山正一については、「スペンサー輪読の番人」と呼ばれていた有名な 言葉がある。日本における西洋哲学受容についての「哲学的思想」とい う1908年の三宅雪嶺(1860〜1945)の論文によって、外山に特に尊敬 されたスペンサーの著作は、確かにスペンサーの原理論を提起する
『First Principles』であったことも分かる。「外山氏はスペンサーを主と して、其原理論を辮護するの傾きあつた」とは、東京大学の哲学科で円 了の一年上の先輩であった三宅雪嶺の回顧である(39)。
特に心理学であるわけではないのに、包括的な科学理論を目指してい る『First Principles』を、枠組みとして外山はカリキュラムに入れたと 考えられる。そして、外山は、学生に「輪読」させただけではなく、自 分の言葉で抜粋させたこともあったそうである。
しかし、『東京大学法理文三学部一覧』に従うと、稿録の表紙に書い
てある1883年度(1883年9月〜1884年8月)ではなく、円了は二年生の 時、つまり1882年度(1882年9月〜1883年8月)に外山の下で『First Principles』を勉強したはずである。当時の東京大学の学生数はまだ少
なく、つまり1882年度には、文学部の学生数は27人、哲学専攻は2人 だけであった(40)。そのゆえに、教師と学生の関係が近いこともあった かもしれないし、親しい先生の授業に学年を問わずに参加できたなどこ ともよく想像できると思う。しかし、『First Principles』の抜粋が確か に1883年の秋ではなく、1883年の春期に授業のために作られたことも 十分に可能性があると思う。
稿録の思想的内容と円了の哲学との関係を明らかにすることは、今回 の論文の範囲に入らないが、ここに少し触れる必要がある。スペンサー が『第一原理』で提起した立場は、随所に見られる迷信のために「宗教 vs科学」の対立が避けられないものであるが、「不可知的」というアイ ディアに宗教と科学が共通の消失点があるので、哲学的な調和も可能で あるという思想である〔41)。この哲学が円了の立場と酷似していること は、ここに詳細に論じなくても納得されると思う。
将来の研究課題にbなるかもしれないが、作業仮説としては次のよう な過程を指摘したい。1883年の夏期に円了が外山の授業のために、「宗 教と科学」という『第一原理』の最初の章(1〜24§)を詳しく勉強し、
そして文章をそのままの形で転写するのではなく、授業作業として自分 の英語を活かして内容の概要をまとめた。外山の影響と当時の日本の学 問風潮のためだけではなく、世界に斬新な哲学者として注目されていた スペンサーは、哲学科二年生であった24歳の円了にとって非常に権威 があったかもしれない。そして円了は、スペンサー哲学の思想的基礎を 提起する『第一原理』を勉強しながら、科学と矛盾しない「哲学的宗 教」という理想を徐々に悟ることで、自分で作った抜粋を貴重な研究と 見るようにもなった。そのため、同じ年の秋にこの抜粋を「Book I.」と
」1上円rr稿録』の研究 25(296)
して更に西洋哲学の研究のために始めた稿録に清書で記録したのであろ
う。
11.フェノロサの講義録
今回の稿録の構造や諸記録の目的と由来の研究に関するものは、記録 19と記録22だけが残っている。記録22にはタイトルが書いていないが、
内容は記録19と繋がるから、清水氏も同じ英文テキストとされていた。
テキストの内容に関しては、1883年度の『東京大学法理文三学部一覧』
を参考にしたい。「哲學ハ分テ東洋及ビ西洋ノニトス〔…〕東洋哲學ノ 沿革ヲ論スルニハ支那哲學ト印度哲學トヲ以テ至要ナルモノトス〔…〕
支那後世ノ哲學ハ大抵秦漢以上ノ哲學二本ツクヲ以テ先ツ老孟荘楊墨等 ノ哲學ヨリ始メ或ハ其是非ヲ論シ或ハ其得失ヲ辮シ或ハ其關係傳統及ヒ 流派等ヲ論証班明シ以テ暫次二東洋一般ノ哲學ヲ知ラシムルノ方ヲナス モノナリ」と書いてある(42)。
このように概略されている「支那哲学」の授業目的は、記録19・22 の背景であると思う。稿録に記したテキストは、弁証法、つまり正反合 を方法として中国における思想の発展を説明し、概要を示している。し かし、稿録に見られるほかの英文文章と違って、このテキストの印刷さ れたバージョンをどこでも見つけることができない。このテキストが 元々に講義であることと、そして講義した人物としてフェノロサを確定 するためには内容や英語の性質から判断しかできない。その結果は証明 よりも、文献学的な傍証の連鎖に基づいている結果であるが、証拠が十 分に挙げられると思うので、今回の論文の最後のポイントになる。
最初に考えるべき可能性は、円了自身がテキストの著者であったとの ことである。この仮説を検討するために既に論じた『第一原理』の抜粋 に見られる円了の英語と比較しなければならない。『第一原理』の抜粋 は、文法的な間違いは多くないが、自然な英語であるとはいえない。ち
なみに、外山の文部省への報告で、外山が担当している英語の授業の主 な目的はなんといっても読解であったことも分かることができる。「目 的及課業書講授ノ法等ノ如キハ前年ト異同アルナシ即チ學生ヲシテ英書 ノ文意ヲ解スルコトニ達者ナラシメントスルヲ以テ專一トナシ」と書い てある(43)。読解が優先されていたにせよ、留学経験のない人にして は、『第一原理』の抜粋に見える円了の英作文能力は優秀であると思う。
しかし、「中国哲学の発展」というテキストを作った人は、円了ではな かったことも確実に推論できる。乱筆で書いてあり、転写の間違いもい ろいろあるにも関わらず、「中国哲学の発展」に見られる英語は、読み やすいし、全て自然である。そして、文章様式そして語調、あるいは論 調が書き言葉よりも、講義の話し方である。そのゆえに、記録19・22 である「中国哲学の発展」は、東京大学で行われた講義であったと考え
る。
この講義をした人として円了を除く理由と同じ道理で、井上哲次郎も 不可能である。井上哲次郎(1856〜1844)は、1882年から助教授とし て円了に東洋哲学史も教えていたが、それは1884年に始めてドイツに 留学に行く前であったので、授業を英語で行ったことは想像できない。
ちなみに、「井上円了記念学術センター」に所蔵されている円了の「東 洋哲学史」の授業ノートもあり、これを検討すると英語の言葉は一つも 記していない(44)。
そして、当時の東京大学で英語の文化圏に留学経験のあった日本人の 哲学教授は、2人いた。即ち、中村正直(1832〜1891)と、前に触れた 外山正一である。中村正直は明治維新の前に留学生の引率者としてイギ
リスに渡り、約2年間滞在した。1870年のサミュエル・スマイルズの
「Se[f Help』の翻訳で著名な啓蒙思想家としても知られていたが、後に 東京大学で「支那哲学」を教えていた。しかし、「中国哲学の発展」の 講義に見られる論証弁やスペンサー派の進化論などに詳しかったことも
井上円rr稿録.の研究 27(294)
特に証拠がないし、非常に才能があったことを配慮に入れても、2年の 留学の間に英語の完壁な話し方にならないだろう。そして、円了の「支 那哲学」の講義ノートには、「東洋哲学史」と同じように英語の言葉を 見つけることができない(45)。ちなみに、日本人が日本人に東洋哲学を 英語で教えることはあまり意味がないだろう。実は、1878年度の『東 京大学文理法学部一覧』には「各學部二於テハ到底邦語ヲ用ヰテ教授ス ルヲ以テ目的トス」(8頁)という方針が既に決まっていた。このよう に考えると、中国哲学についての英語講義であるからこそ、外国人によ るといわなければならない。
それにしても、外山は、スペンサーに詳しかったし、1866年から 1869年までイギリスで、そして1872年から1876年までアメリカで、合 わせて6か7年に亘って、英語の文化圏に滞在した人であったので、当 初から除くことができないと思う。しかし、英語講義の滑らかな話し方 で、アメリカ人やイギリス人を思い浮かべることは、止むを得ないと思 う。哲学を教えているお雇い外国人が当時に一人しかいなかった。それ は、1878年に25歳で東京大学の教授として赴任したアメリカ人のアー ネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco FENoLLosA、1853
〜1903)である。フェノロサが「中国哲学の発展」の講義者であったこ との強い証拠が存在する。
秋山ひさ氏の編集で金井延という円了の同級生のノートに基づく
『フェノロサの社会学講義』が出版された。稿録に見られる講義は、社 会学ではなく、思想史であるが、話題の重なっているところがあり、こ れを対照することで、フェノロサが「中国哲学の発展」の講義の話し手 として明らかになる。次頁の表のように円了と金井のノートの共通の言 葉は、筆者が太字にした。
フェノロサは、既に1881年から日本、または東アジアの美術研究を 熱心に始めたそうである(52)。金井延のノートによって知られている
円了のノート 金井のノート
It is at present generally acknowledged that society is an organism.(46)
What is then the condition which is most
necessary亡o the development of
civilization in Society?It is certainly a struggle between different elements. This is aIso true to the development of philosophy. In the world of philosophy we find a continued struggEe or dispute between two opPosite views when it is in process and a perfect harmony or
eqし1山brium when i亡is declining.(48)
We know that society is an organism, and 亡herefore al▲its changes are organic.(47)
Society first reached the poin亡by the struggle which had occurred between various elements;but when it is at that point, all are in perfect−harmony and there is no struggle, the only thing remaining being the inevitable tendency to copy. In such a condition of society,
formalism cannot be escaped and decline is the neCeSsary cOnSequenCe.(49)
As we said that struggie is the most favourable condition to development, and 亡hat harmony is the greates亡h且ndrance to it, the Chinese genius from this time had been stopPed to grow and continued to decline to the time when a new element of philosophy was introduced from India.
[…]Though it first came into China in the Iatter part of the Kan dynasty, it is
between the To dynasty and the So dynasty that it gained the power to compete with the other schoels.[…]Now there necessarily occurred a great struggie
between these[…]schools, Thus proceeding, Chinese philosophy, again,
attained to its highest point.(50)
From the above, we find the highest point of the rise of China under the To dynasty、
and the next point under the So dynasty,
One of the causes of its cしilmination in the To dynasty was the introduction of Buddhism which bears the elements of Indian civilization. By this intreduction a new combination was produced and a new force was thus given to social progress. So China attained its highest civilization under the To dynasty;but after that time formalism arose and the whole society began to decline. Under the So dynasty, it once began to rise, but the previous formalism finatly prevailed.(51)
フェノロサの社会学講義は、1882年に教えたものである。後半の第21 番の講義を読むことで、フェノロサが比較文明学に強い関心もあったこ とを知ることができる(53)。秋山ひさ氏の研究によると、フェノロサ は、金井延と井上円了の世代向けに哲学史を社会学の後に、っまり 1882年12月から1883年10月まで教えたようである(54)。「中国哲学の 発展」は、哲学史の一部分であったはずなので、1883年に2回、3回ぐ
らいに亘って教えた講義であったと考える。
フェノロサの社会学講義に見られる中国文明や歴史についての知識
井上円了1 稿rwの研究 29(292)
は、哲学史講義にも生かされたので、以上の文章照合に明らかな共通点 が見えるわけである。内容と言葉の類似を見落とすことができないと思 うが、証拠として次の三つの点も挙げられる。
(1)フェノロサの哲学的立場は、井上哲次郎の『明治哲学の回顧』
によって伝えられている。「へ一ゲルの哲學にあるところの進化思想と、
科學的の進化思想と、この雨者を打つて一丸となし、その上に出でよう 努力したのである」と書いてある(55)。殆ど同じ内容は、阪谷芳郎の講 義ノートによってフェノロサ自身の言葉でも知ることができる。「lf we can unite the doctrine of Spencer s Evolution&Hegel s Philosophy, we will have a complete philosophy[…].」という言葉が伝えられてい
る(56)。
「中国哲学の発展」のテキストには、確かにその通りの立場を抜き出 すことができる。筆者の説明は非常に大雑把ではあるが、ヘーゲル哲学 的な弁証論には、精神、或いは思想が正反合という規則に従って発展し ている。この規則を社会にあてはめて、進化論的に解釈すると、「正」
と「反」の間に競争、即ち先の引用に見られる「struggle」が入る。弁 証論において包含的な結論を表す「合」は、進化論的に把握されると、
いっそう高い適合性のある存在ということになる。一直線の過程ではな いのに、文明進化と思想発展は、互いに対応する規則に基づいて進歩し ていることは、フェノロサの考えであったようである。
(2)哲学的な内容を具体的に説明するために黒板に図形を描くこと は、フェノロサの特徴的な教える方法であったそうである。それは、三 宅雪嶺のフェノロサについての回顧で知られているだけではなく、残っ ているフェノロサの講義ノートでも証明されている(57)。「中国哲学の 発展」にも、図がいろいろ見られるし、中国の思想史の発展を表してい るグラフは、同じような形で社会学講義にも見つけることができ
る(58)。
(3)文法的に正しい英語で話すのは証拠の一つであるが、もう一つ の点は話し方、あるいは語調に伺える話し手の態度である。例えば
「So it is verv difficult to trace each cause and condition of Chinese civilization. Still I will boldly try to trace it.」というような発言も見つけ
られる(59)。それは、あくまでも日本人ではなく、西洋人、っまりアメ リカ人の態度、或は性格を伺わせる言葉であると思っている。
それで、稿録にある講義はフェノロサの話したものであるとの証拠が 十分にあると思うが、将来に最終的に証明するチャンスがある。日本 フェノロサ学会の元会長である村形明子氏が作られたカタログによっ て、ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵には、まだ研究されて ないフェノロサの自筆の資料が残ってあり、その中に東京大学の講義の ための草稿も含まれている(60)。または、秋山氏に編集された金井延の ノートは、社会学講義の部分だけであった。原物は亡失したようだが、
イエール大学・バイネッキ図書館に金井延のノートのコピーが所蔵され ている(61)。金井延の筆記では、社会学講義以外に、哲学史とヘーゲル 哲学の部分も含まれているようである(62)。金井延が円了と同じ大学世 代であったので、井上円了研究のために価値のある資料であると思う。
フェノロサの東京大学の哲学講義は、幾つものノートが残っているそ うである。特に金井延、阪谷芳郎、井上円了の場合は、断片的なノート ではなく、あくまでもまとまったテキストのものが多い。それは、フェ ノロサの授業方法のためである。「但し口舌を主とするも、時によりて は椅子に就きしだい、自著の原稿を読み聞かせて、文字通りに筆記せし むることあり。」とは、三宅雪嶺によって伝えられている(63)。稿録に みられる講義は、円了が確かに授業中に筆記したものであると思う。稿 録に見られる英文抜粋と違って、「中国哲学の発展」の2項の記録は、
早く乱筆で書いてあると見える。書き取りであったという感じがする。
円了は、西洋哲学史だけではなく、東洋哲学史にも正反合の規則で把握
井上円τ「稿録」の研究 31(290)