九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
一八六九年の羅馬問題に就いて
長, 壽吉
https://doi.org/10.15017/2340926
出版情報:史淵. 22, pp.1-32, 1939-12-10. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
一
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﹃猫逸文化評註史﹄の著者ヨハネス・キスリングは︑ヴァチヵノ命識直前の普維西竹祁ビスマルクの
罷度を述べて︑﹁許祁は森議に對して︑敢て攻繋的地位を採らう善こは欲しなかった﹂ご言ひ︑叉︑既に一
八六六年戦役に先だちて︑肯相がプロイセン藩教徒に對する或程度の同情を有し龍こざ︑そしてこの同
情なるものは︑その基準ざして︑彼が齊教徒ご﹁政治的朋務﹂を共にせん亡志したこざであった一﹂ざを
述べ︒︑これ等に就いては︑何等の疑も容れ得ざるざころであるざ言ふ︒
ピスマルクガ法王使節を一八六七年六八年に於て仙林に迎へんさ欲し︑新教的意見の剛王ウイルヘル
ム一世の拒否に念しにこE︑l彼︾こ剛玉︒この疎隔の理由の一は︑この宗教事項の關與にあったこEは譜
ふまでもない︑l並に︑羅賜に使してゐにハリイ・フ寺ン・アルlzの︑ヴァチヵノ禽議反對の諸策動を
彼の猫自の見解を以て否定し去ったこさ︑l彼ざアルニムどの疎陥︑そして手ひの山來の一は︑彼が
このアル一ムの﹁策動﹂の上に︑銀喧をもつたこEに在ったかご恩はれる︒恰かもアドルフ・ステッカ
アの﹁基教祗禽黛﹂運動の︑場合ざ等しき經路に於軍l等も︑同書に記してある.︵第一巻︑第三
一八六九年の羅馬問題に就いて
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一八六九年の羅馬問題に就いて
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﹁ダルュ退きオリヴィエ代る命議は自由﹂ご云ふ電報が羅馬に發せられ仁のはオリヴィェ内閣の成立
︵一八七○年一月二日︶に先だちにるもの凡そ一八六九年総選畢の結果の族の秋であつだらう︒第二帝
政の一般政紫︑殊に對教余Ⅷ策が︑徹底に議禽その多くの教職議員ある議禽に由って制せられにる時であ
る︒ヴァチカノ称議の開催及びこれに開する佛蘭西︑そしで猫逸の甲乙是非の論議の上に︑この電報の
一八六九年の羅馬問題に就い︑てこ
①
筋︑.節十三節︑頁三四五三五一︶同怖が何等の疑も容れ得ざる程度に於て︑果して存し北か否か.それは興に﹁同情﹂ご稀すべさもの
であつ龍か否か︒これらを私は︑今一脈に詳しく槻るこさを試みにい︒猫又﹁政治的川務﹂なるものは
キスリングの言ふ如く︑宗教政策のうちに塒に保守的祗禽改革の締を求め得て︑﹁猫太主義﹂即ち餐本
主義的なる状態を矯正せんざするにあつにこさを︑側目する彩可さするか否か︒更に又國王の新教的
意見むしろ新教侃重が︑嚴湫な對立を示すほどにピスマルクの奮教同情が︑無條件的に存在したか否
か︒これらの上の推想ま坐.催捜別は︑私をしておのづから第二帝政の末期隅於ける羅馬問題の上に︑渉歴
せしめる︒蓋し︑この期ま仁この種の主題は︑決して︑例へぱ猫逸のそれを凋逸に限りて観るを許され
ないものである︒︑これに開する渦逸の文献は必ず佛鮒四のそれに曲って柿はれるべく︑佛蘭四のそれは
叉同様に柿はれる︒例へば︑ビアリッッ倉見に於けるビスマルクの提言ルクセンブルグ侯國虚理の件
の如きは︑相反する雨幽文献の對照に御して︑吾友をして偏に推定を行はしむる以外の途が存在しない
のである︒
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示すざころの形勢は︑大きな影響を與へるものであつ嘱澗って老ふるに祠この羅鳩問題は愛に速く一 八五九年の伊太利戦役に至る︒今これを局面の一つ一つに顧みにぎる如きは︑煩多に過ぎ且つ必要を超 ℃
すものであらう.︲唯︑少くもこの問題の如さに對しては︑その昔より猯導的にして且つ座倒的なものであ
った佛剛西政策が︑六九年選畢を過ぎて︑変にジャン・モウランの洲ふ如く︑その維末を告ぐるものに
王つ泥こ五︑この絡末を告ぐるは即ち帝政椛威pそれは内政のみならず間際の關係の上にも存したる椛
威の維末をも︑意味したものであつにこさを︑吾麦は肴みる.モゥラン曰く︑︐
﹁この選畢の結果は︑皇帝をして︑その椛勢を︑教命朏派の人だが中心要素を成すざころの︑秩序復
f・鷲主張の以前からの黛派に︑讓らしめるこざに弧要し年ものである・・この愛郷は︑帝政椛威の絡末ご倫
職の勝利ざを記録して︑二つの時期を制するものであるo﹂︵ジャン・モウランヨ八五一乖乃至一八六九
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年節二帝政の對教倉政策﹄錐二八章︑〆頁九.三九︶
︵附記l耐諜同璽に固く︑コニハ名の瞬間背そのうち僻職六○名以上を算するもの感︑皇帝を
ノ
して︑七月十二日その内閣を解組せしむるを除義なくさせ嘱臨時内閣が作られたo﹂︑に記し︑叉そ
の脚註に︑﹁七月十五nの1一ヴェル紙に曲れば︑一ニハ名庇問神に開する雅議の結果︑价職派議員等
〃は諭羅鳩問題に開する一便間をこれに附添するここ今笹決定した︒ルウェは之に對し︑その餘冗不必要
且DLOI
を主張し︑政府が一八六七年士一川五日の宣言に忠蛮に從ひつAあるこさを︑指示し↑卜︒﹂︑と記す︒
この宣言は︑ルウエが﹁伊太利は何等決して雑賜を占擴すべきにあらず﹂さしたこざで︵﹄の﹈四目巴
・一八六九年の雑賜側題に就墜し三
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一八六九年の羅脇問題に就いて四
号殉︒呂閂︶︑立法院が二三七對一七栗を以て︑政庶に側意し仁ものである︒︶
斯くの如き形勢︑そして斯くの如誉に至った形勢が︑鼓も直接に波及するざころは︑伊太利に於て存
するこさは︑おのづから明らかである︒この伊太利に於ける波及は︑雌も弧く喚太利に於て感知される︒
既に塊太利が︑蕉教的政治勢力ざ︑これに對立するそして筒末これを座倒するに足らざる反對勢力どの
二つを包含して︑而して唾ちに猫逸殊に南澗逃の政怖に影響し来るものは︑猫逃にありては︑蜜に統一
の問題の上に於て図あり︑延いては普露西にごりては︑その柑面の問題である︒しかもこの蜥而の問題
は︑決して︑奮教自山の思想︑自由改革の思想︑大猫逃主義的の思想︑吏隔﹁より狭くより庶苔﹂の統
一の思想等︑これら凡ての複雑なる祁關與琶︑参照されずして経る可きものではない︒例へぱ︑アーヘ
ン或はミュンヘンに於ける荏教・森議の決議︑宣言叉言論の影響︑或は新教派の對立的繼度の影響︐史に
又一.國比個盟﹂の思想⑳影郷等︑凋逸殊に杵羅凹幽境を超て開聯するものは︑必前記の形勢に参雌され
ねばならぬざころである︒
私のこの小論の主題は︑齢時のビスマルクの甚しく表裡不確定な慨度の上に︑彼の政策の全班の推測
の一例を見んざするものでなく︑之を包含して観察される時勢の推移を︑単に輪廓に於て︑或は頗る狭
糊龍るものに経るべきを筍みかして︑之を窺知せんざするのである︒
恩ふに︑十九世紀史の観察は︑三つの人物に於て︑ルナンの所謂﹁要約されにる類型﹂を︑各変の時
勢の傾向の上に求め得られる.然し︑この三つの類型の間に︑尖鋭な差違なり對照なりを索めて︑この
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差遠對照の線に沿って︑時勢の輪廓を描き州さんざするこざが︑迩槻を妨げ︑推移の意を失ふものであ
るこざは詔ふまでもなく︑差違對照を見るこさも︑又三つの要約されたる麺型を見るこきそのこざも︑
醜に或る偏見を生み︑或は誤謬に到るものであるこぐ﹂が︑漸次の研究に曲って了解される︒私の如き場
合に於てはやスルピックの解説に從って︑食め①旨︲︑昌︒且︒︾・をメッテル・ニヒのシステムの内容ごしたる虚か
ら川發しにる槻漆の上に於て︑ナポレオン三世の鯏﹁閲災性﹂主張に︑﹁蛮在希及性﹂を求め︑ビスマル
クの﹁現在政錐﹂の伽向に﹁蜜在蛮在惟﹂を︑見んさしたるこどもあったが︑漸次の研究には︑少くも
後の二新に於ける差述對雌の境界が︑次第にその明確の牒凌を緩和しや平坦化し︑経には何等の差違對照
をも残さざるに至らんざする伽向が論増大しつ上進むこざを感ぜざるを得ない︒本誌第十九艸拙稲﹁ビ
スマルクざ五九年戦役﹂は︑ビスマルクを以2L一の迦想家でありむしろ或意味に於ては空想家である
こさを︑彼の對ウィンドホルス卜慨度の︑文化評論に際して見られるものから推測しつ上︑何等かの
鮎に於て︑これに燗れんこ︑巴を挑み仁ものであっ化︒ヴァレンティンがその小好蕃ビスマルク博に述べた
る︑人物評の數十語の如きは︑世ちにナポレオン三仙の上に︑安柑されるであらう︒曰く︑
﹁彼は謎にみちに人物である︒リ︑ンユリューまたメッテルニヒの如くに︑完術したる機智を以て政治事
攻を虚理したる彼には︑不安な︑暖昧な︑そして不断の動椛からの弧へおのAく心怖がある︒その弧
力の遂行ぼ︑彼の感怖似淵和きが交はる︒l現蛮的政治方策の逹人は︑ロマンティックに根ざして
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く Jしかもよくその微苦笑の理鯵を知ってゐに︒﹂︵ヴァレンティン﹃ビスマルク及びその時代﹄亘二︶
一八六九年の羅賜川越に就いて五
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一八六九年の羅馬問題に就いて六
かくの如きは︑この人物が包含される一八六九年の雑鵬問題に︑参照されねばならぬ︒
さてこ上に顧みれば︑アンコナ事件以後の佛剛側の對伊太利策︑或は對雑鳩問題策は︑術に振子のや
うな状態に於て︑自巾改革ご保守維持ざの上の蕪教派勢力の鍵進隆替一﹂唯じて︑動揺し來つ婿之を良
く祀れば︑凝明なる不即不離︑臨機雁鍵であり︑之を悪く見れば雌定見なる左凧右雁︑躁蹄妨樫である︒
然し節二帝政の成立の山來が︑醜に蕪教派ざ深き脚絲あるに反して︑節二帝政の對象が︑伊太利を中川
に世きたる法王椛勢芒︑填太利勢力ざに存し仁こごむ老ふれば︑この或は暖明に見え或は無定見に老へ
られるものは︑自然の勢︑己むを得ざるに出つるものでなければならぬ︒六○年代匡於ける将識閥竹祁
の蕪教派關係の對策は︑一勝に複雑なる事態であつにこ亨笹老ふれば︑これも亦︑或は受明なりさし或
は無定見なりさし得るものが存し仁こぐ﹂は︑おのづから窺知される亡ころであり︑且つそれは︑明らか
に第二帝政の政策唱反映されつ母あつにのである︒
刷鮒西の名騨ご蝿心這峰余をし重の義務を獅撞しむ.l汝の敵憾︑即ち余の敵藤︐︒1余
の愛に來るや︑或一つの豫定されにる計飛のためにあらず︒伊太利の諏飛まぜ退位せしめ︑余の意志
を弧制する河めにあらず.余の軍隊の目的は︑敵を討ちや秩序を保つこ︾この一葉の外に存するものに
論らず︒l汝等の閏の解放ご一蟇ゞ唯一の︑的に向って結合せよ.誰デニャ王の旗の下に集れ︒
云里﹂︵一七五九年六月九日︒皇帝ナポレオン三世の︑伊太利人災に對する宣言︒︶︵ボンジャン﹃法王
の
紙裕權﹄C頁四○五︶、
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この宣言は︑″軍なる伊太利統一に對する︑自由主義的同情の意を以って貫かれてあるざは恩はれな
い︒伊太利の秩序維持が︑サルヂ一ヤの統一計霊さ︑必ずや剛蹄するに至るこ・ざが︑既にこの青青のう
ちに看取される.塾一一両せぱ︑この宴一一両は笙帝政の對難馬問題政策に︑一面の存するこざ︑即ち一は法
王団を維持し︑一は伊太利の自由統一を助長する芭云ふ祁互矛応する二而の存するこざ︑而して政策は
この一両の間を往返するに至る可きこEが︑表取される︒果して伊太利戦後はこれを事蛮の上に︑現示
越えて一ケ月七月十一百には︑羅馬にある使節グラモンは︑外務長官トウヴネルからの急報に由って
帝の意向を法王に徳ふるの書を提出し圭准︒即ちヴイラフランヵ和約匝後である︒これには︑法王が法王
管擁地に自治を典へ︑俗人政治を認容し︑選畢に由る代議機關を︑許可すべ苔こざを勧奨して居り︵前
⑤
猫同書︶︒叉同年多士一Ⅱ三十一日︑皇帝審簡の法王ピウス九枇に宛てたるものに曰く︑令斑争鳥後を麺じて︑余協大なる蝿心事は︑法王剛里に燕す.l現在票霞峰厳正なる論遜
を有す︒而して︑余の聖臓に對する誠蛮にも拘はらず︑且つ余の軍隊の羅馬駐屯にも拘はらず︑余は
填太利に對する手を以て伊太利に起されだる幽民運動に對し︑或る趣の連帯關係に於て存するこ・とを
苑かろLこ蓮を能黛.余蝋下が箸総譜自治に︑里営りゑを︑l不幸にしてこ:未︑変
現するに至らず︒從って余は新秩序の樹立を阻止するに︑無力なろを感ず︒余の希求は︑叛乱の披大
を妨げ︑叉アンコナ地域ど侵略によって保持するこさにガリ今ハループィをして僻退せしむるこさの外に
・一八六九年の羅馬問題に就いて七
しにのである︒1
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帝政の對策がこの二面の間に發見しにるものば︑伊太利聯邦の形態であって︑法王をその盟主Eする
ものであったが︑この場合に︑筈雌地の自治は勿論︑法王の世裕的椛勢の可及的縮小は必要さ老へられ︑
軍なる締祁的存在ざしての法王椛勢が︑諾小邦の上に立ってへ唯この精祁的存在の奪奉によってのみ︑
現状を維持する案州である︒それがサルヂ一ャの自曲統一を阻害するこき︑鼓ぴにそれが時勢を反擁す
るものでめるこさは詔ふまでもないやしかもこの阻害し反擁するものは︑帝政の一般政策のおのづから
傾向すべきざころであったのである︒一面サルヂ一ヤの興隆を制限し︑一面喚太利の勢力の波及を拒否
しうる現賓鴬而の對策が︑陰に閏内奮教派の不瀧を綏和せんざしたものは︑却って蕉教的塊太利の排斥 利の勢力拒否琶伊太利國民統一を︑表示してゐるものである︒ 即ち伊太利の秩序維持則ち法王椛勢の擁誰に加ふるに︑ロマ一ャ地方の自由政治を以てし︑更に填太の勢力拒否琶伊太利國民統一ざに加ふるに︑醤教的勢力の保有を以てし︑前苔に記したる二面の存在 六及び川一 を無覗するこご無かるべし︑己雌も︑しかも祷鱸地を弧座するに至らざらんこ己の︑忠言を呈するに及ぶかも知り難し︒即ちこの弧雌は諭外岡軍隊の援助を以って逹しうるものにして︑從って︑拶轆地が久しきに亘って軍事的に占擴されるに至るものである︒この占擴は変に︑伊太利人民の大部分をして︑恢怒さ怨恨ざを懐かしめ︑同時に列弧をして︑嫉覗を生ぜしむるものであるo﹂︵前掲川排亘川一
一八六九年の羅馬側題に就いて八
存せず︒今日行はれん鳶する列間の協議に於て︑列阿は︑聖聴の符帷地に對する手ふぺからざる椛利
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を通じて︑その反映するざころ︑またもざの齋教派の不瀧さなる︒斯くの如きは︑前記の二面の間の往
返であり︑賢明臨機でもあり︑蹄艤妨裡でもある︒更に速く延いては︑填太利の勢力の縮小が︑新教的
許露西さの關係に於て︑猫逸聯邦制度改編の形勢に波及し︑燕教的猫逃諸邦の行動に影禅する声﹂ごある
︑べきは︑おのづから窺ひ知られる︒蓋し伊太利戦役及びその以後の形勢が︑猫逸の政治問題に影粋する
ざころ大なりしこさは明白にして︑嘗て私の説明しにこさあるざころである︒
﹁祁意無邊聖録無垢論﹂が︑近代雑賜問題の發端さ兇られるものさして公にされたのは︑夙に一八五
四年である︒ピウス九枇即位の後凡十年後の事である︒﹁近代祗愈の世俗政治に於ける敬称的絶對専制
主義﹂の支配を志したこの需主が︑四八年革命の苦難の後に︑凡ゆる自巾主義的改革を放棄して︑一意
弧硬に教含萬能さ不可謬論ざを標示しつ上︑﹁榊は漉有であり︑枇界さは自然と人類さに同意義であり︑
精祁こさもに物質︑必然ざさもに自山︑反さざもに侭︑善こどもに悪の細てに︑同意義である︑こして︑﹂
自から祁の代表ざし︑或は祁意の執行新さし︑或は祁己合一するぞのもの︑こして︑﹁覗渡上宗教の樹立
新にして︑弧制荊であり︑自己に雌商の糀祁界椛力さ︑妓商の仙裕界椛力ざを合致し︑釉川的皇帝且つ
祁たる﹂慨度を︑経始堅く守りつ上︑ヴァチカノ決議に至り︑叉雑賜聖臓の捕勝の愛悩に至ったものに
比すれば︑前記の帝政の二而往逆︑しかも一八五九年決断の波に於けるその妨裡が︑いかに不安定︑む
しろ燗れむくさものであったこざが老へられる︒︵︑ンユミッドリン﹃蚊近枇の法皇史﹄・錐二巻︑瓦三二
78︒三︶︵ハー・エム・ツェ﹃法巣椛︑その現在に至る漸次の發逵﹄・一八七六年刊︒頁一七三︶
一八六九年の羅賜側湛に就いて九
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一八六九年の羅賜問脳に就いて一○
ロマー一ャ自治の譲歩の要求に對して︑法王は佛剛西帝に籍ふるに︑﹁彼れに所馬せざるものは︑何
の紫も施し得ない︒法王閏から分離するこさが川來ない︒祷理地の革命粁等に勝利が典へらる上ならば
それは他の地方の凡ての革命蓮動の︑同蛮さなり奨勵さもなる.11何さなれば︑問題は礎に一王粁の
椛利の範困を超えて︑細ての齊教信粁︑竝ぴにあらゆる基教君主に︑閥するが故であるo﹂︵シュミッド︑︒
⑨︑0
功ン前描同普︑頁七三脚注︶︒︵ポンジャン前描Ⅲ苫︑画凹一○・一八六○年一月八口法王携簡︶芭云ふ旨を以てし︑腰勉にしかも毅然ざして法王椎の不可催を主張してゐる︒法王は岡年六川に於ける長文の
訓示文の如壱に於て︑法王樅及び教理が︑千古不易にして何等近代的思想を以て鍵改すべからざるこさ
島を︑粁昂ざして宣言してゐるものである︒︵ボンジャン前禍同諜頁川○六以下︶
この法王の害簡及び宣告の意に對蝿して見るべきは︑・一八六一年七月十二日︑佛蘭幽帝から伊太利王
に逢った書簡の意である︒この辨簡は︑初めに新伊太利王國の梱立に對する佛閲西の承認の意を述べて
伊太利統一に對する同情︑又それが佛蘭西の有する同目的であるこさを述べ︑ついで曰く︑
﹁余は將來に向っての余の保糾を︑言明するこさを禁じ得ない︒凡そ一の政府は︑恒にその既定の事
・項に依擴し行くものである︒斯くして十一年間︑余は羅賜に於て︑聖法王の擁勢を維持し婿伊太利
の閏土の一部たりざも︑これを軍隊を以て占擴するこざは︑余の好まざるざころであるにも拘はらず
事態は常に︑余をして羅馬より撤兵するこさを不可能ならしむる如さものであった︒︲l一言にして
詔は図︑余の見るざころ︑提携はおのづから随って生じ來るべ苔ものにしてや同盟をまづ先きだにせ
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るべさものでない︒然し乍らこの信念ありざ雌も︑余は何等余の行動を鍵ぜず︒伊太利人は︑彼等に
邇應すきするものに對しての︑妓も良き判断新であるのである︒そして衆人の希酸エに曲って立つ余に
於ては自巾なる閏民の決意を阻止寺ろこ?己を︑主張せAさするが如き︑何等の意志も存在しない︒﹂
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︵ポンジャン前場岡杏︒頁川六一︶
果して佛雑舸帝の意が︑戦後三年の後に於て不決断であり︑伊太利の祇俗的統一從って法王樅の縮小
に對して︑猫未だ顧慮を絶らず︑妨樫をつ噂けつ上あったこさが︑この垂川簡の上に窺ひ知られる.一八
六二年八月アスプロモンテ戦︑即ちガリバルディ雑賜進曜肌止の岬帆時に就いても︑トウヴネ池はその﹃画韮
帝の秘辮﹄のうちに︑次の如く記してゐ婿︵ジャン・モウラン﹃ナポレオン三世の剛務長官等ハロッシ﹄
3
頁二三五︶﹁帝の決意は︑推しく蹄踊のうちに在る︒教職派の影郷岻は︑彼の身逢に於て︑自山派の影郷を制雌す
るに傾いてゐる︒云勇﹂
この教職派の影鯉の多き時に︑アスプロモンテ戦があったこさは︑変に鴫蹄妨樫そのものを示し︑こ
れを法王が︑伊太利閏民統一計誰の除去を以って︑羅賜問題の解決の唯一の通であるざ主張してゐだの
に比すれば︑その薙蜜に犬である︒︵モウラン﹃對教命策﹄︒豆八一三︶j長後年レンス大梢正グルヴ寺ァ
の任命承認に開して︑メンタナ戦手︵一八六七年十一川︶更に前記ルウェの否定の常時に於ても︑法王
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が頑ざして皇帝の希顎を拒否しにこさも︑之に参照される︒︵モウラン﹃バロッシ﹄︒画三九七l川○一︶
一八六九年の羅賜Ⅲ題に就いて二・
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一八六九年の羅賜間題に就いて一二︲
メキシコ逹征の影郷があったざは稲へ︑一八六川年九川十五日のフランス・イタリヤ﹁九州協定﹂は
錐二帝政の對羅塒問題策の牛伽を表示したものであった.即ち法王安全の保障を以って︑フランスが二
術年内に雑賜駐屯軍を撤退するの約である︒然るに皮肉にも同年十二川に於て︑法王は﹁謬諭簡條﹂を
錐糞さ發表し︑天下をして騒然たらしめた︒或は敬称が政府の允許なくしで其職椛を行使しうるを主張
し︵節二十簡條︶︑或は閏家がすべての椛利の起源ならざるを指示し︵錐三十九簡條︶︑或は法王地上樅の
撤駿が教介の自由幸而にあらざるを詔ひ︵節七十六簡條︶︑叉或は羅賜法王が進歩さ自由主義ざ現代文
明さに協調する要なきを主張し︵第八十簡條︶︑敢然さして時代趨勢ご反激愈思想ざに挑戦し︑佛側西
帝政の不決断を潮笑し︑各國奮教信徒を喚起して︑將に來らんさする枇俗勢力の風庇を︑知る︑が知らざる
かの慨度に於て︑おのづから雑賜問題の恢大ご緊張ざを︑期するが如さものあったのである︒︵ミ︑ン罰ン
6
﹃法王關係文書唯﹄︒頁九九一○八︶
メンタナ戦争常時の第二帝政の紛糺は︑専ら羅馬問題の上に擴って︑しかも何等の決断にも到逹し柵
ざる如き︑航る不安定なものであった︒前に記したるルウエの﹁断じて﹂の︑下院に於ける言明の如き
は︑ティェールの伊太利問題に開する︑法王支持E剛氏性尊重反對なざを述べたる淡読︑それは帝政外
交の一般に對する非難にして︑敢て保守主義的のものに限られなかったものに晶呼唯したるが如き︑性
質を有してゐたもので︑決して弧間なる信念に立脚し龍ものざは老へられぬものであった︒勿論法王教
禽を以って所謂﹁字義通りの誠反胤つ完全なるカトリック﹄きしての上の識﹁断じて﹂の意見の言明では
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一法王はその猫立のために︑羅賜を必要ざし︑伊太利はその統一の上の︑統御的必築こして老へる雑
″馬を要求する︒これ正に一のディレンムである︒然し︑吾凌は佛剛内政府の名に於里一両明す︒伊太利
は羅馬を占領すべきにあらず︑断じて︒断じて佛剛西は︑その名騨に︑叉カトリシテに典へられる斯 /
︲る佼害を詞忍ぶべきでないo﹂︵一八六七年士一川五日︑下院に於ける言明︒︶︵モウラン﹃節二帝政對
71く ︑
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教命策﹄︒頁八二七八三○︶.
この前後佛附四下院に於ける羅馬問題の討議︑竝ぴに政府の方策の不確定に就いては︑モウランの前
掲同書が詳細に記してゐる︒思ふに︑この事態は︑前誉に述べたる法王の断乎たる態度を︑一層に前進
せしめたものであった︒謬論簡條發表の術然の行程ざ︑して︑法王の不可謬の決定の必要が︑一八六九年
二川のヴァチカノ命議召錐の意見發表迄尋なるものであつ仁己は譜へ︑更に︑前記︑ンユミッドリンの特普
に見る如き法王の法王不可謬儒念②自然的な發露が︑一切の環境を無硯して︑价職御談主義の危険に走
るをも省みなかつにざは綱へ︑羅賜撤兵ロマニャ仙硲化の關係を通じて︑聖臆に示されにる佛剛岡の封
策の性厩が︑﹁確立弧化﹂の一途に事態を誘導し︑しかもその一途が︑諦剛の上に影響し︑叫際關係の
動容を通じて成就されんざする傾向に︑至ったこさば派過し得ざる粍度︑●哲超妄垂L︑むしろ飛要なる山來
であったこざが︑窺はれるのである︒命議の内容の綏和を糊告し︑且つ慾懇したる帝政の方錐の如きは
全く窮辿しにる糊塗紫にして︑その雌益︑既に帝政にさりても明︑に認められゐにるぐ﹂ころである︒︵モ
一八六九年の羅賜問題に就いて二二
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一八六八年赤以来ナポレオン三枇が秘かに誹誰したる佛伊塊三MM肌は︑その倒際鮒係上の事孤に於
てでなく︑愛にはそれが維賜問題の上に参照される︒即ちライン左岸に開する杵佛の抗争︑伊塊の不徹
底なる了解︑許喚の陪為の反Ⅱ︑史にビスマルク・ボイストの不利等凌の郡・狐についての老敬は︑こ上
に間ふざころでなく︑只この側蝋締結の條件ざして︑雑賜撤兵の事攻ある〆﹂﹃とが参照される︒帝政の對
雑鳩問題策の不安定は訓ふまでもない︒この幽際開係飛戦のうちに︑雑賜問題が包含される事︑竝ぴに
この雑蛎問題事域が︑國際關係に延長される率が︑注意される︒︵オン炭ン﹃一八六三年乃至一八七○
9 q
年ナポレオン三祉のライン政策﹄︒雄三巻︑・更一七二一八八︶︵附記︒一八六九年五州八日付︑巴里埋使節メッテル一上公より︑肯祁ボイスト伯宛書簡中︑三脚同盟
條約案文の第三條には︑三両元肯は︑如何なる場合に於ても︑一方が他方に對して干戈を返らざる
こざを︑承認す﹂ごあり︒又同様迭逵替簡︑刷年五川二十日付のものに︒三國秘密同盟約に開する同
月十日議定書のうち︑節川孤には︑﹁佛脳西ご喚太利芭は承認するに︑宗教總命晒議︵即ちヴァチヵノ會
議童一両ふ︶に於て執行する行動︑竝ぴに︑ピウス九世後繼荊の選立の場合に於ての行動に附し︑伊太
・利ご合議するこざを以てす﹂︽ごある︒これらが雑賜問題に剛する幽際關係の上に参雌されるこさは︑
明白である︒羅賜撤兵の件については︑同照約黍文の何れにも明記してない・然し︑次に記す季こF﹂ろ
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のボイ昂書簡は︑之を明らかにしてゐる・I前拠阿悲︒文書︶1 く 8
ウラン前描同書.頁八三八以下︶
一八六九年の羅馬問題に就いて
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一四
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三國同盟計霊に於ける羅賜問題的開係が︑微妙にして且つ困難なりしこさ︑しかもそれが複雑な關聯
を延長するものであり︑そして猫逸の統一の上に︑杵雑西︑填太利及び南部渦逃諸邦間の關係に影響す
るものであっ化こざは︑ポイスト肯祁の書簡︵一八六九年七月九日付︑ガスタイン發︑メッテルニヒ公
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︒宛︶のうちに窺ひ知られる︒︵オンヶン前描同杏︒文香.︑鮪三巻︑頁二○二二○三︶.曰く︑﹁この問題︵註羅賜撤兵の問題︶仁ろや︑それ自身に於て噸る微妙な性斑である︒そして︑吾が剛の
事態が吾等に︑聖聴に對して向背いづれをも容易にするを︑許さぬものがあるだけ︑益盈以ってそれ
に手を鯛れるこさが困難である︒叉一方佛剛西の開する軸に於ては︑この問題は契約の良心に開する
重大な問題に連絡するもので︑この軸に就墜Lは︑吾等はそれを推奨する地位にも在らず︑又判定す
る規準をも有しf・I量下息報に從倉︑先っ︑難鳩撤兵緊嶬︑原uして︑既仁素レォ
ン帝の意中に決してゐるこさ曳思ば・れろ︒そして只その軍隊を召し返す時期ぜ定めるこざだけが︑未
だ決してゐf這刷催呼︒.l驚識心側︑錆法語安全胤総が縦を侭吻︑恐らくば撤兵を
以って法王を兇捺てるこさは諺起るまいご恩はれる︒然し又一価同時に︑組御議が際限なく長引いて
三佃川以上にもなる如きこさを防ぐために︑撤兵が却って早く行はれるかも知り難い︒﹂
果して填太利にさりても︑雑賜撤兵即ち帝政の對雑隅問題錐の郷換は双大なる關心調であり︑從っ
て三剛同盟の成否が懸って存するEころの︑斌要なる軸の一であるこざが︑知られる︒この蝋太利にざ
りての亜大さは︑伊太利の世俗化を通じて生ずる哲敬剛填太利の内政の︑老並に在るご刑時に︑南澗逃
一八六九年の羅賜間題に就いて一五
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一高明に似ず︑教御及び教禽人に對し︑秀敬称︑椛勢の全部︑即ちそのうちには俄然に法王椛勢︑或は法王/
不可謬思想を包含︷9るものに封しで︑痛烈なる非難攻蝦の地位を採ってゐにのである︒意識的なる平和
撹乱の根元︑狂躁的なる信念諺擾乱苦難の希求等︑これら皆彼が形容するさころである︒有効適切なる
防禦の武器︑これ即ち彼の對職薬術である︒これら皆いかに彼の意が存じたか︑いかに彼が反雑賜であ
つ龍か︑を知らしめる︒
︵附記.この書簡の前︑八月五日付︑ホーエンローエからピスマルクに宛てた書簡には︑﹁羅賜に渦逃
一八六九年の羅馬問麺に就いて一七
であらうざ︑信じてゐるのである︒然しこれに反し︑法王は却って︑柵逸に超2卜總會議反對の氣勢︑に管みて一考するやうになり︑叉前述の如き一部の人産の影響から︑遠ざかるやぅになるかご恩はれる︒吾盈は疑もなく談命祁の立場に於て︑少くも北稠逸に在りでは諏教命Ⅷ椛勢の不正糊なる侵害に對し
て︑有効適切なる防禦の武器をもつものである︒然し勿論か出る梢澄をさるこ︑蓋﹂に︑吾等が弧制され
ぬ方が良いこざはご一言ふまでもない︒云と︵誰.常該目的のために選定云たごは︑︑ハヴァリヤ政府を
主動者ざして︑總命卸議反對の諦邦が總命︑談に使節を派遜し︑總命汕議の進行を監覗し︑傍らこれを韮興導
して極端に走らしめず︑叉善後策を誰ずるに姿するため︑適畔艸の人物笹定むくしざの事を謂ふ︒︶
この書翰峰蛮にキスリングが﹃渦逸文化評註史﹄に調員﹂ごく︑ビスマルクがヴァチヵノ愈識に對
して︑敢て﹁攻耀的地位﹂を探らうざは欲しなかった︸︸さを︑知らしめる︒然しこの攻躍的地位を採ら
なか2卜のは︑命議そのもの上上に限られるやうに恩はれる︒・法王の蚤明を希待した彼は︑その綏和な
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諸邦共同の全椛使節を派避し︑総命議の決定を︑穂和な状態垂こするここに誘導するこき﹂が︑既にビ
スマルクざの冊に称談された事︑竝に︑この使節の選定には︑雀しき困難がある事が記されてある︒これ
に先ち︑同備忘録一八六九年六H非二日記︑ビスマルクさの命談の項には︑﹁ピスマルクは直ちにヴァチ
カノ衡議に鯛して話しを進瞳嘱これに就ぃ五彼憾全く特別の鮒心をもってゐる這見ゞ農.l彼
賦︑私の意見直同窓であるこ虐を言明し龍.l私の見る虐ころで健禽識の決定ば︑カトリック教
向を害するのみならず︑更に國家を危難に陥れるに至るであらう︒lビ等ルクの言ひ出しに案は
澗逸諸邦が羅馬に於て共同の且つ協力した手段を行ひ︑其の地に於ける禽議の進行を︑適度に制止せ
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ん直するこ直であった︒﹂直記す︒l︲ホーラローェ備忘録.第一舂頁三八五及び頁三七四︶
この弧烈なる反雑馬の意志を有しながら︑﹁法王は却って︑渦逸に起った總禽議反對の氣勢に横みて︑
一考するやうになり︑云を﹂︵前記︶直言ったピスマルクは︑果してその﹁政治的用務﹂を着眼してゐ仁
であらう︒羅馬に使節を派謎して︑禽議の進捗を制限すべしざ主張したハリイ・フォン・アルニム伯に
晁肌羅四にごりては︑憲法的にも亦政治的にも︑に図一の立脚あるのみである︒即ち︑教称開係事
唖に於ける教禽の完全の自由︑そして︑國政の範幽に於けるそれのい趣なる越椛に對しても︑決定的
なる防衞︑これである︒この二新の分界を乱しだる事攻に︑手を染めるこさ︑例へぱ使節を派謎して
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干渉するごさきこどは︑政府が爲すべきさころではないo﹂︵キスリング前掲同書︒同節︑頁三五一︶ 一八六九年の羅馬問迩に就いて11
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〃 ざ忠告し龍韮︑そしてその傍に燕教悶ハヴァリヤを主動さしての使節派遥を︑ホJエンローェに懲憩しに︒﹁政府の爲す↑べきさころにあらず﹂こしながら︑﹁団家蒋危難に陥れるであらう﹂皇一両明してゐにのである.翌年︑アルニムの釉為狂躁的なる反雑賜に架盛をもつに彼が︑アルニムの﹁策動﹂を非難し︑無愛想に且つ端的にこれを制止して︑﹁祠一以下は︑あらめる誇張的な宣傳から差控へるべし︒不可謬は︑吾等には︑目下興味あるも⑳にあらず︒﹂堂一三︑つだこさは︑一層にこ上に参照される︒果して彼の政治的用務は︑﹁猫太主義﹂祇命皿を保守的に矯正するに︑限られてはゐなかったのである︒︵キス叺ング前掲同
四
書︒同節︑頁三五三︶﹁例の如く不決断である﹂さ︑嫌悪の感惰をもらしに形容︵﹃ビスマルクの夫人への韮川棚O﹄頁五五
6
画四︶を︑ビスマルクが與ヘートフェルディナンド・フずン・ポイストは︑前記の三國同照秘柔及び雑賜問題に開して︑却って率直断定の意見を︑塊太利政府の意さして言明してゐ︽卜︒ユリウス・アンドラッシィ
の牽制なくぱ︑彼は戒は三閥同肌の成立に到逹し︑或は伊太利の仙俗化を寛容してゐ仁であらうご恩は
れる︒三剛同照秘業の頃︑一八六九年︵月日不記︶︑彼は議愈に於て言明した︒
﹁余は今︑佛附西に對する吾等の好意を述べよう︒然り︒誠君︒何ぞ余遮それを悔ゆるこさあらん︒吾
等は雀だ良誉關係︑雀だ親しき關係を︑佛蘭四政府毒この間にもつ︒何故にかくあらざる理由あらん︒
佛剛閲は近年に於て︑吾蝶にその湿誠なる好意を操返して誰明した︒瀧糞の場合に於て︑叉多くの問
題に於て︑吾等に助勢し唱佛剛川は吾等に︑その任務笹遂行した︒云と﹁フォン・ボィスト﹃枇紀の
一八六九年の羅賜問迩に就いて一九
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一八六九年の羅馬川魎に就いて二○
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川分三より﹄・錐二巻︑瓜二五○二五こ.
﹁屋に純粋に教義上の問題の範剛ならば︑何人マヒ雌も︑教・御の決定に反對しない︒然し︑剛家内に於
ける教・梅の事項︑竝に信敦及び剛雌の椛利に燗る上ものに附して︑今日に於てば︑既に容易に判断を
下し難き事態が窺はれる︒即ちこの範個に於て︑夙に現出しゐたる抵燗の氣蓮が︑總・愈識の討術及び
決定を以って︑更に尖鋭化して︑諸岡家の平穏に︑一展⑳危難を與へるであらうこさの危険が︑同前
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に存するγ﹂Eである︒︵一八六九年五川十五側付︒ウィンよ︲りミュンヘンに在る塊叫使節に宛てにる諜
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簡・︶︵前掲耐渋.瓦二七五二八○︶
ボイストの斯かる髄度が︑三岡吋盟を通じて︑前記の如く渦逸の統一の事態の上噌即ち獅逸聯邦内
の準岡際關係の上に︑延長され得べきこさを︑ビスマルクが知ってゐにかっ知ってゐなかつ仁かは︑不
詳である︒然し︑恐らくは知ってゐたであらうざころの彼が︑︵﹃思脳ざ追憶﹂︒鋪二巻﹃北渦逸同鯉﹄︒頁
2
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く j五川︶前記の如き表裡の鞘晦錐を羅賜問題に封して採ってゐにこごば︑砿に醤教徒E﹁政治的川務﹂を
等しくし︑南方渦逸醤敦諸邦ご喚太利芭の開係の上に︑利別せんざしたものであったこさを老ふるは︑
決して不自然のこさであるざは詔ひ得ない︒彼がその言外に︑自己の維賜問題對策の不確立不鮮明を︑
事態の眞和の報告の不明確に蹄するが如き意を以って言った︑ハリイ・フォン・アル一ム非難の需葉峰
吾登にざりては︑むしろ直ちに文化評註に於ける彼のファルク博士非難の言葉を︑想起せしむるものご
な参毎︒そしでこの掩蔽に具ごなったアル一ム伯の︑雑賜に於ける業紘︑即ち二枚舌慨度が︑却って法王
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事態︑それは一面より祀る時︑狸に振子運動の跨蹄枕樫が︑この羅賜問題對策にも窺ばれるこざを見る
のである︒所訓二枚舌慨度琴鶯アルニム伯に締するこざそのこざは︑勿論充分に考慮されるべきさころ
である︒
戦役の間︑恰も前記︑﹁不可謬は︑評等には︑目下興味あるものにあらす﹂喧しに唖︑一八七○年十
二月二十二日︑ビスマルクは曰く諜︑
﹁アルニム︒彼の雑賜からの報缶は︑毎週度Iに一旦つで︑悉く愛災されてゐる︒黙り︒彼は元來︑各
を職務に於て否匪交︑同一の職務に於ても︑畷凌の見解を愛へる人である︒﹄︵ビスマルク談話︒︶
鋤 く
︵﹃ビスマルク全集﹄︒第七巻︑武川五五︶しかもアルニムが聖臓に於て︑杵羅西使節ざして︑﹁雑賜に於ける二枚舌の辨羅閲代理新アルニムが︑
杵維両が羅馬問題の解決を希待し︑必嬰に唯じ︑退位させられ仁ろ法王に︑賓客さしての招待﹂︵キス
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リング前掲同諜︶をなす意あるなⅨしだのは︑このアルニム非難の以前であつにのである︒︑しかも又そ
の時を等しくして︑サルヂニャ王閏の竹都にある杵雑川使節は︑サルヂニャ政府に向って︑罪Ⅷ維凹
は︑羅馬のこさに容味する細ての図に抗敵す︒戦勝する杵羅西は︑佛附閥をして︑羅賜に就墜L伊太利
を妨げしめざるやうに和約ど結ぶであらう︒伊太利は︑渦逃の勝利に際して︑難聴笹占祢すべきでぁ
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ろ︲一さ言つ・に︒︵雑誌﹃同時代人﹄︒一八九五年一・川號︑ピウス九祉攻︑瓦一四︶
一八六九年の羅賜間湖に就いて二一
招待の案のうちに︑ビスマルクの政治的剛務煮﹂して利川されるに玉つに乙這を櫛みて︑いかにこの肌の可︲︒I11
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その昔サンタンジェロに麺れ賑れた苦悩から慨死し仁氣骨稜凌の体統が︑法王不可謬の主張に想起され
る︒頑張り通しにこの法王の態度は︑むし↓っ跨踏妨径さ表裡不確定さの外界の状況に曲って︑却ってお
のづから生れ州仁ものざも老へられやう︒少くも︑これが促進され尖鋭壱れにものであつたこざは老へ
られる︒稀世の叡智ご総逹な方策ざに由って︑聖臓の威備を害芯はなかった次代の法王にも︑かの昔な
がらの傅統が繼承きれてゐにのである︒吾糞は一八六九年の維鳩問題に就いて︑観察されるごこるの時
勢の推移に︑興味深さものあろを兇ゆるのである・
﹁現蜜政策﹂の意に關︑︺て︑﹁現在の政策﹂の解読を述べ︑その畷明を椎稲したウィルヘルム・モムゼ
ンの論が︑この場合E吾袋には却って微笑を與へるものさして想起される︒︵ウィルヘルム・モムゼン
3 2
﹃ピスマル.ク匡共時代﹄︒頁三六三七︶︒即ち︑現在の政策の﹁現在﹂は︑動揺し︑表裡し︑不確定す
一八六九年の羅賜間脳に就いて二二
細てこれ臨機應鍵の贋明さも見るべく︑礁蹄妨樫の無定兄守﹂も見られる︒佛附凹帝がその内川剛脆性
の原理を信じながら訪閏内敬称派の唾力を噸慮し︑對杵維門の填太利を計邸して︑動揺をつ噴けにこ簿こ
は︑杵雑両打祁が對喚太利優越を岡り諺南方柵逃を掌裡にせんざし︑しかも佛關両宗教界の事態が影粋
しにる剛内藤教派を願慮して︑表抑不確定を布し龍こ・こ上對照される︒その執れが逝義に庶幾すゞべきか
は︑絃に問ふぺさ壱ころでないが︑﹁謎にみちに人物﹂︑﹁不安な暖昧吟さ︑﹁不断の動揺からの弧へおの
の︐︑心怖﹂︑そして﹁ロマンティックに根ざして︑微苦笑の憂鯵.一をもつものが︑この胴對の對雑賜紫に
窺はれる︒異れるざころは︑一が獄盈さして過ぎ諭一が饒舌に過ぎたここのみである︒この川に在りて
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−9 ムゼン曰く︑ ろ︑その機ごなり命さもなるものに外ならない︒アル一ム伯の報告の隠糞鍵縛声︶︑同一規に存する︒モ
一八六七年に至る塊太利さ中部諸邦さナポレオン三世さに對する︑武器rのつに︒﹂︵モムゼン前掲同書
.
頁一八︶︒然るに︑何が故に法王招待を荊策し︑しかもそれが閲王の意に反すろを知りながら︑法王隠遁の地までも並H難西内に定めんざしにか︒閏王がこれを許さざるや︑錐制雑西内醤教徒の有力なる支援を説
き︑法王は先以て政治的人格なりE説き︑これに對して彼が︑元來凡ての現貧の椛勢に尊敬を笹くこざ
.I渠さこさをを併せ説き︑更にこの大なる元肯が︑統一渦逸の欧洲に於ける地位の上に︑開聯するこさ豚︑7
4
3
説いた彼は︑︵ポシンガア﹃ビスマルク談話集﹄︒キスリング媛用︑前鍋同書︑頁三五八三五九︶その恰かも一個年前の日に於てやアルニム非難に併せて人に語ってゐた︒曰く︑︲/
﹁然り︑主権着さして︑法王は存在すべきものである︒唯問題は︑それがいかに存在するかである︒︒法
一八六九年の羅馬問越に就いて一三
﹁彼の政略の眞蛮は︑醒及人に認められない.その現睡政策なるものは︑奉世にして先人見無く︑凡 巴ゆろ晶愈るものに打雛する二掘冊な驚態で憾職ぃ︒l何帯の將來晶源しに︑叉或
る定められにろ政治概念なしに︑彼は閾家椛勢のために努力した︒それは瞬間を把へ︑初めより悪ま
れ歩卜ろ痔磯を掴へんご欲するものである︒維始現在に生きて︑遠大な目途決定を以って將來を作りぅれにろ時機を掴へん.
るさば信じなかった︒
南方猫逸自由派の韮叩羅西好感は︑ピスマルクが利用す響へ苔ものであつ↑信﹁猫逸議命卿寺鉦郷迩選畢さは︑
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一八六九年の羅馬間脳に就いて二四
王至上主義者が至る庭に於て吾等に對抗しないならば︽人糞は法王のために︑一暦誰力し得るこさも
あらう︒余は︑他人が余に俊幣で桃っ龍ならば︑余も亦碇幣で桃ふこさを︑智悩さしてゐる.lあ
︑︑︑bも℃℃︑︑︑の男アル一ムは︑元來このやうな小さな主樅考に對しての品の良い使節であったでもあらう︒法王は
然し︑宗教剛⑳君主であるばかりか︑また燕教教禽⑳頭でもある︒云1.﹂︵一八七○年九卿二十七
鶉
日諭フェリェールに於ての談話︒︶︵﹃ピスマルク全帷尾第七巻︑︑三五九︶彼の法王の地位に對する︑叉法王の尊厳に對する便意は︑維にこれを知るこざが出來ない︒否︑雑賜
問題に開する彼は︑笈に﹁腱來目途なしに論叉或る定められたる政治概念なしに﹂︑維始現在に生きて
ゐたものであった︒前後周凧の形勢に從ひ︑﹁祁よh悪まれたる時機を掴へんざ欲する﹂〆﹂ざに由って
法王使節を迎えんごし︑法王椛勢を説き︑法王拓待を岡つた彼は︑或はこれが自由派の好感ご開するこ
さをも符みず︑叉﹁興味なし・一造した不可謬を︑忽ち文化評註の反抗の旗を以て迎ふる時をも有してゐ
たのである︒︵シュミッドリン前掲同書頁二八七︑二九○以下.︶
結局彼は︑善意に於ける雨刀使ひの名人であった︒或時は大刀を︑或時は小刀を︑左右の手に鍵卿し
つ上戦った國際外交の偉大なる名人であつ・た︒彼をして斯く在らしめに理由を條件さは︑.別に吾等の研
究すべきさころであり︑興趣ある諭稲の主題直なり得るざころである︒從て︑この理由E條件さの老堂
は︑雨刀名人の本燈が︑他に何等かの或る姿に於て現出す・へきことを︑吾等に想像させる︒今こ上には
この雨刀の存在を︑羅賜問題に開する或る文書に曲って︑窺ふに止まらうさ恩ふ︒そしてこの祁刀の状
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態が予一に政治的用務ざ利用ざを目的さしたものであったこさを︑老ふるに止まらうさ恩ふ︒一八六六
年即ち兄弟戦争の歳の十二月十七日付︑彼は伊太利王廷に在る杵羅西使節に電報にて迩逹を逢った.日
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この迩逹は︑戦後専ら伊太利の親和を必要さする時期のものであったが︑亦能く︑彼の祁而外交を見う
る丈脊である︒
﹃思噸さ追憶﹄のうちに︑彼は自から被れの對雑賜政紫が政論的刑務に川し︑﹁旋幣を以って伐幣に
83桃ふ﹂ものであったこさを︑記してゐる.︵﹃思胆さ追憶﹂.錐二巻︑文化評註.頁一二三一二五︶︒こ
の本來の政治的川務琶︑或は敵こし或は味方巴する利川の上の教稗の意義が︑夙に彼の政流生涯の初期
から窺ひうる性質のものである事は︑五九年戦役の唖に明らかであった︒l恩ふに︑伊太利戦役の形
勢は︑彼に︑教禽の政治意義の何たる↑旨を知らしめにものであったらう︒ll彼は稀にのみ斯ろ事攻
一八六九年の羅賜刑題に就いて二五
9﹁原則こして︑量下は固く守る可し︒即ち︑吾等は︑伊太利の好感を阻害すべき何ものをも︑伊太利に對して要求すべからず︒然し叉︑吾等をして︑燕教糞禽の元竹に對する明白な反對に入らしむる︑何等の弧制をも︑法王に加ふる能はず琶云ふこさである︒この後若の節制に併せて︑吾等は細ての伊●太利の希望に沼Pえく用意してある︒︵註︒﹁伊太利の希梁﹂の語の定冠詞を︑ビスマルクは﹁細ての﹂
に訂正しだもの芭云ふ︒︶吾等はざにかく︑伊太利の感情を害す尋へ巷総ての事柄を︑慨かるべさであ
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るo﹂︵普羅西外交文評集︒錐八巻︑夏二一三︶
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一八六九年の羅馬問領に就いて二六
について記する夫人宛の秤簡のうちに述べでゐた︒曰く︑
﹁吾等の政府の政策は︑次第次第に︑塊太利の船の行く跡をつけて行くやうになってゐる︒藩し吾零
がライン河畔で︑一發の銃火を放つならば爺伊太利・塊太利戦雫は過ぎ去って︑杵羅西・佛鮒西戦争
が舞台に出るだらう︒塊太利は︑吾等がその肩から亜荷をうけさった後で︑吾等の味方ざなるかなら
ぬか︑自分勝手に決めるに述ひない︒さて︑いかにも奇妙な事は︑このやう危急な時に︑佛剛凹さの
戦争が好きなカトリック派の閏務長官が︑いつも吾等の運命を業内してゐるこさであるo﹂︵一八五九
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年七川二日o︶︵﹃ピスマルクの夫人宛の書簡﹄︒頁川○一︶
然しながら今こ上に︑この政滴的用務ざ利用ざの外に︑またその裏に︑存するものに就いて︑一杵する
要がある.このこさは︑蜜はこり小論の主題に關聯し︑輪廓に於て︑且つ推移の状態に於て淵時の形勢
を︑窺はしむるものごなるこさが老へられる︒
閏民主義的興奮︑そしてナポレォン三世の事業に︑同感をもったでもあらうピスマルクが▽l﹃史
淵﹄第十九鮴拙稿Iこの鮎を通して渦逃の統一の將來に︑何等かの定まれる希求︑それは理想芭必し
も言はずさも詞或る何等かα希求をもつてゐ仁であらう這老へられるこさは︑これらの朝暮鍵縛の躰度
また所謂現在の政策ざは︑別趣に観察される・べき乙ころである︒これは今並に掲げた主題には︑匝接に
關係なきざころである︒然しながら︑私はこの小論を書くに當って︑常に之を念頭に置き來つに.寧ろ
この考察琴笹基礎さして︑如上の表裡不確定を説き來つ北︒この私の考へ方は︑前啓に述餐卜る﹁要約さ
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れたる類型﹂の差逢對順雛︑緩和し平坦化される事が︑蹄納されるざころの研究の過程に於て︑おのづ
から生じたものであった︒謙一﹇せば︑私の研究の過程は︑ナポレオン三世の自由國民性の理想が︑その
存在を繼綾しながら︑しかも躍蹄妨儂に於て現象した︑Ilこれに就いては︑私は本誌の三一諦丈に於
て聾て塘︑lざ等しいものが︑ビスマルクの鴬に於ても瞥迄迄︑私澄して蓄息るこ直で
ある︒
更に一層具篭的に︑私をして詔はしむるならばっビスマルクには︑五九年戦役の前後に於ける彼の親
柵鳴度に︑その一端斑はれる琶ころq圃襄關秀︑lそれはマンチックに胤喜れ龍
ろ人冊ピスマルクの持ちうべ巷そのものから川發したる︑猫逸統一の上の或る希求︑ダールマンの影響
ゲッチンゲン七教授の影響があったや匡思はれる︒ウィルヘム・モムゼンが前掲書些言ふこごく︑六六年
戦役の匝前まで彼が填太利ご戦ふの意がなかったか否か︑茎一つの柵逃内の弧國の存在は彼にこりて對
立でなく併立であったか否かに就いては︑私は敢て明一二mするの川意を有してゐないが︑少.くも彼が﹁統
このうちに塊太利を包含し︑更に少くも所洲﹁より狭くより庇蓉聯合﹂を老へてゐにここは竹鵬Mされ
る︒この事は既に私が本誌に︑五九年戦役に開して述べ仁己ころである・・この或一つの希求は︑佛剛閥
帝の自由閾民性の血想に對比される︒そしてその表裡不確定の姿は︑正にかの踊蹄妨禅の姿に對比され
るのである︒以上の如きこざは︑今誠にこの︑王題には価關係に見えるものであるが︑一歩進んで私がビ
スマルクの統一の希求︑戎は敢て理想己呼ぶべきものL性伐を老ふる畔には︑それは更にこの小論の主
一八六九年の羅馬問題に就いて二七
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一八六九年の羅賜問題に就いて二八
題︑己關聯するものあろを兇川す︒即ち︑彼がこの希求或は理想のうちに︑何を非さし︑何を除かん竜こし
●にかぜ間ふならば︑それは笈に自由主義ご燕教主義Eであったらう︒蓮命的に︑この二新は恰も︑佛剛
爾帝の那想の支柱の主たるものであっ化のである︒
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この二粁の前考は︑ピスマルクの惟來の好まざる庭であり︑フランクフル咋剛民議命叩即ち四八年思想
の流川の︑犬猫逸思想の關聯に存するも伽である︒即ち︒フロシャゞ裾節二位ざするものである︒後粁は完
早全なる凹家椛威の思想にⅨし︑そして更に等しく︑フランクフルト叫災議御の大珊逸川擶お繼承を︑包
含してゐるのである︒これらの事狐に就ては︑愛に詳説するの除地がない︒た図その一般を︑主要な形
e■▼勢の摘記に曲って︑推定するこご奥しよう︒
●
も反喚太利︑それは反カトリックから自然に傾向した反塊太利の﹁凋逃叫民同盟﹂ざ︑ビスマルクさの
開係︑むしろビスマルクの之に對する態度は︑竹領ルドルフ.︒ヘンニクゼンがビスマルクの嚢中に入り
對佛蘭両政策に開してビスマルクの期待に合・する同蹴の蹴間を發し︑ピスマルクをして胸中に手笹拍に
︑しめた以前︑或はビスマルクが漸次に命剛民側盟の主張に接近した以前に於て︑決して良きものではな
り
Iかつだ︒換言せぱ︑閥雌祠帆の主張の内容には︑ビス兎クが同意し難き重要な伽向があっ婿l杵
伽戦乖の前︑伽蘭西の東境地域弊求に對し︑これを市棡逸懐柔の具さし↑トビスマルクは︑北猫逸同蝿議
禽に於て︑閏民同盟が潤逃人の領土の安全を杵雑両政府に確認せしむる仁め︑ゞヘンニクゼンの礎問を行
ったこ壷﹂を好機さした︒l凹災岡川激.・ブルグ細蒋︵一八六○年九月ⅢH︶の宣言には︑次の如き諾
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川町.
刀 節がある︒ら六九年雑馬問題に至るものである︒反燕教瘤愈的なるその動き︑そして從って反喚太利的なるその動きは︑ピスマルクにごりて︑近つくべきも⑳さ︑近つくべからざるものざを︑併せ化ものであった︒
伊太利戦役の後︑一八六一年九川のミュンヘンに於ける︑獅逸カトリック協議稗は︑凡そ三つの決議
JJをなした︒一法王の仙俗的椛勢を擁謎するこざは︑肢も正柑なる事項である︒二法王に開する事吸は︑くj く凡ての君主の事項琶等しくして.︑欧洲の公法であり︑平和さ秩序ざである︒三聖臓及法王教禽は澗立自立く
一八六九年の羅賜川越に就いて二九
.八四九年の帝剛憲法に於て︑聯邦的統一はその法的表現を有す︒l剛氏同蝿は︑從って統一的中央樅威竝ぴに職逸議禽蝿壁善︑n的直す.l樋逃偉大↓迄統冒の建立里岱に︑終邦慰同ら犠牲ざなる志あるこ↓こを期待す︒11杵羅阿は柵逸の一部分であり︑他の識邦昏﹂等しく︑渦逸の中央椛威さ人足代表芭に從脇するこさを知るべし.l剛災同蝿は猫逃聯邦境域の何等の部分をも煮過せず︒柵逸の一州たる填太利を︑祀叫の同然的なる椛成部分さして認識す︒血縁︑雁史︑利審關係の共有は︑吾等に塊太利さの妓も親しき連繋を示す︒但し︑覗態これを即時に澗逸聯邦に結令し能はざる94時は︑自餘の猫逃の統合を力むるこ︑こむ妨げず︒云と︵トイプネル﹃文書録﹄節凹の二十二︑頁一︶
この一八四九年の帝叫憲法︑中央樅威さ人氏代表は︑自然的なる榊成部分に封して︑ビスマルクにざ
りては除去さ・り︒可さものであつにここ︑疑ない︒從って︑同様価向に存するものは︑彼が興蕃を感じ
たでもあらうざころりものから︑除去さ畑るべ巷であっ化︒幽雌同盟のこの動きは︑伊太利戦役⑳後か
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の元主さして︑何人の臣下にもあらず︒ご詔ふりである︒澗逸カトリックの趨勢は︑佛剛西の襟教派の
動向に影響され︑又伊太利に於ける政論の進行︑竝にこれに件ふ佛附閥政府の態度に参照されて︑佛剛
門に於けるものよりは一膝に法王至上主義に側向し︑・これが同時の剛氏同鯉を反溌し︑喚太利カトリック
に呼唯し︑狐逃統一の問題の上に作川してゐに︒伊太利戦役の推移のうちに︑愁教堂禽⑧勢力の波及を
感ずるこざ深かったでもあらうご恩ばれるビスマルクが予この形勢に對して飛取し得たものは︑少くも
後年の文化評註に系流する︒齊教的政治勢力の問題の確認であったらう︒之もま化彼にごりて︑近つく
べく近づくべからざるものであっ化らう︒果しでこれに曲って︑﹄彼が閏民同盟の反喚太利に接近し︑途
にそれが六六年戦役に發展しだか否かは︑猫多く⑳研究を要する直ころである︒
蒋羅両満相就任の件に開する交渉の顕︑ビスマルクには︑凋逸カトリックの動向が一層よく︑了解さ
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れてゐにご恩はれる︒一八六二年九月のアーヘンに於ける︑猫逃カトリック協議倉に於て打はれに洲訂
のうちには勺次の如きものがあったのである︒
忍川羅西に對し︑吾等は大なる感謝の念を有す︒蒋雑西は吾等に︑教愈の自由を典へ北國である︒然
しながら蒋羅西は︑全渦逸を意味するのではない︒吾等の祗國ば︑猫大きくあらねばならぬ︒總
罷の猫逸祀剛に對する愛は︑決して︑各勇の韮剛羅両人が彼等の承王及びその狭き本剛に對する義務ご
矛厩する關係のものではない︒﹂︵キスリシグ﹃獅逸カトリック禽議の歴史﹄︒第一巻︑頁三七八︶︵同
書頁三八一以下参照︶
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