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明暦三(1657)年の正月早々に起った大火は、"明暦の大火"あるいは"振袖火事"と呼ばれて、江 戸の火災史上最大の火事だった。この火災で江戸の町の 60 パーセント以上が焼け、被災した大 名の屋敷が 500 以上、神社仏閣が 300 以上といわれる。焼け出された人びとは家財道具も打ち捨 てて命からがら逃げ出したが、煙に巻かれて堀に落ちたり川に落ちたりして死んだ人が実に 102,000 人といわれた。この死者の供養のために建てられた寺が現在も残る両国の回向院である。
幕府首脳部は現在でいう幕府災害対策本部を設けた。このときに面白い話がある。本部が設けら れたのは現場に近いところだった。次々と首脳部が詰めかけた。が、江戸城内では大名問に席次 がある。身分や家格によってどこに座るかが決まる。対策本部の本部長をつとめたのは、大老の 保科正之(会津藩主)だ。副本部長格で老中の松平信綱が補佐した。保科の意見によれば、
「松平殿は、すでに川越の大火後みごとな復興計画を実行された。その経験を生かして今度の 江戸を復興していただきたい」
と頼んだからである。酒井という実力者大名がいた。江戸城内ではいつも席次にこだわる。あ るいは、宴席にいっても床の間を背にして座らないと気がすまない。遅れて防災本部にやってき た。ところが自分の上席はすでに若い大名が座っている。それは松平信綱が、
「先着順に座って欲しい」
と告げたからである。しかしそんなこととは知らない酒井はむくれた。ムッとして「帰る」と いった。松平信綱が止めた。そして入口に近い空席を示し、
「酒井様、あそこにお座りください」
といった。酒井は不機嫌で、
「冗談いうな。わしがあんな下の席に座れるか。帰る」
と踵を返そうとした。ところが松平信綱はそんな酒井を止めてこういった。
「酒井様、われわれ後輩はいつもあなたを尊敬しております。江戸城ならあなたのお席をきち んと用意をいたしますが、ここは現場です。ただし、われわれ後輩は酒井様がお座りになった席 を最上席と考えておりますから、どうかお座りください」
酒井はなに、という表情をしたが、信綱の機知に感ずるところがあった。ここで意地を張れば 今度は自分が笑われる。酒井はうなずいた。
「わかった。そこへ座る。しかし松平」
被害者優先、天守は不要
―松平信綱と保科正之―
作家
童 門 冬 二
連 座 載 講 第 1 回
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「はい」
「おぬしはやはり知恵伊豆といわれるほどのことはあるな」
そして大きく笑った。これで一座が収まった。みんな、松平信綱のチエに感心した。議題がい ろいろあってなかでも、
「焼け落ちた江戸城の天守閣をどうするか」
ということで論戦になった。多くの大名は再興すべきだといった。しかし保科正之が断を下し た。
「この平和な世の中で、城の天守閣など必要ない。それよりも霧しい被災者の救済にその費用 を充てるべきだ」
これに多くの大名が賛同した。川越大火の経験を持つ松平信綱が江戸の復興計画を立てた。そ れによって、防火地帯(広小路)の設置・新しい市街地の開発(築地)・隅田川に新しい橋を架ける (両国橋)・諸大名の屋敷を江戸城から遠い地域に移す・大名や旗本による消火組織をつくるなど が決定された。そのころ日本橋あたりにあった遊郭も浅草の水田地帯に移された。吉原である。
保科正之は時の将軍徳川家光(三代)の実弟でありながら、江戸城の天守閣はつくらないという断 を下した。だから、現在皇居内の本丸跡には、天守閣はなくその台石だけが残されている。江戸 時代の高級役人たちはのちに伝えられるような悪者ではなく、まず民のことを考えるという愛民 の思想に燃えていたのである。
そしてこの時の江戸復興計画立案の中心に、川越城主松平信綱を据えたことが、この整備を促 進した。現在、埼玉県川越市の中心街は、"古い建物と新しい建物との、自然な融合(とけあい)の まち"として、遠近からたくさんの訪問者を集めている。まち全体が観光だけでなく、なにかをも たらす。ちかくの新河岸川は、江戸時代の物流ルートであり、"モノは水の道"のたとえをそのま ま実践した。江戸中心部ヘヒトやモノをはこぶ川舟は、"川越夜舟"として名をたかめた。面白い のは、これらの舟に"特急便"と"並(なみ)便"があったことだ。当時の舟の発着場付近には、"駄菓 子の店"が群れをなし、人気を呼んでいる。
松平信綱は川越の城下町を不燃都市として再興しただけでなく、"住んで楽しいまち・住みが いのあるまち"としての魅力を付加させた。現代の地方のまちづくりにも活用できる手法を展開 した。
さらにかれは防火のために、広域的な用水を設けた。"野火止(のびどめ)用水"の敷設だ。
この用水は文字どおり、燃えひろがる野火をくいとめるための防火用水だ。しかし長い流路を もつ川の流れは、流域城下町が火災におそわれた際の消火用用水も兼ねた。
新座(にいざ)に平林寺という禅寺がある。額は江戸初期の文人武士石川丈山が書いた。
この平林寺の奥に松平信綱の墓がある。そしてそのちかくに、野火止用水の設計と工事を施行 した技術者安松金右衛門の墓がある。
地下で信綱と金右衛門は、
「おたがいに、後世によい仕事をしたな」
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と語りあっているにちがいない。さらに同墓所には、豊臣時代に京都の五条大橋を架けた増田 長盛(ましたながもり)の墓もある。
五条大橋の柱に「この橋は天下万民のために架ける」という増田の文がきざまれている。都市 計画やインフラには、ヒューマニズムが必要なのだ。