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読者は作者に代わり得るか               Stanley Fishの場合

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355

読者は作者に代わり得るか

      Stanley Fishの場合

福  岡  忠  雄

 私はこれまでに二度目わたって現代批評の推移を 作者 の概念に的を絞 って辿ってみようとしてきた。従来の作者の概念がイデオロギーが仕立て上 げた虚構であること,writingの場に於ては 意味 の発生源としての作者は 最早存在しないこと,さらには,作者を含めて 主体 (subject)としての人 間そのものに重大な疑義が発せられていることなどをそこでは指摘したつも

   1)

りである。そしてそれを要約するものとして,「今や作者は死んだ。読者が取 って代わるべき時が来たのである」とのRoland Barthesの言葉で暫定的な        2)

がら一応の結論としたのである。従って,この招き理論の推移を辿る作業を 続けるためには,果たして本当に読者は作者に代わり得るのか,読者とは一 体何者なのか等の問題を避けて通るわけにはゆかない。以下の読者反応理論 についての考察は,そのような企ての一環であることをまず断っておきたい。

1

 一口に読者反応批評といってもその中身は実に様々である。その原因は,

読者 をどう規定するかという問題にある。普通Reader Response Criti−

cism或はReception Theoryのカテゴリーの中に入るとされる代表的な読 者モデルを挙げてみても,Boothの言う「含意された読者」, Ecoの言う「規 範的読者」,Riffaterreの言う「スーパー読者」, Cullerの言う「理想的読 者」,Hollandの言う「literent reader」, Fishの言う「有識読者」と,ざつ         3)

とこんな具合である。まさにS.R. Suleimanの言うとおり「読者志向的批評の

(2)

分野は実に色々で,しっかり踏み固められた単一の路というより,様々な進 路が四方八方に交差する場である。それがカバーする批評の領域は広大で,

その風景の複雑さときたら,勇敢なものすら気が滅入り,気の弱い者なら意       4)

気沮喪しかねないものなのである」。どちらかと言えば 気の弱い 方に属す る私としては,まさに意気沮喪の思いである。こうなったら正攻法で行くし かない。読者反応批評を最も熱心に提唱し,この 学派 の正統を自任する Stanley Fishの考え方に的を絞り,その主張と問題点を振り返ってみること

にしたい。

 Fishの読者反応批評の出発点は1967年に書かれた彼のMilton論Sur−

Prised by Sin The Reader in Paradise Lostにさかのぼる。この論文の最:

も重要な指摘は,彼自身の言葉を借りれば次の様になる。「この詩におけるミ ルトンの戦略は読者自身に自分の行っていることを自覚させること。自分の 反応の正しさに疑問を抱かせること,そしてこの詩に対して自分の受取り方 がこれでいいのか自信が持てない読者に,その逡巡こそがこの詩の眼目であ        5)

ることを認識させることである」。実はこの中には,それまで支配的であった 批評の方法に対する重大な挑戦が含まれているのだが,それは後回しにして,

ここでFishが言っていることが具体的にはどういう意味なのかを見てみた い。彼は次のような例を挙げる。

Nor did they not perceive the evil plight.

  (Paradise Lost, 1. 335)

奇妙な構文ではある。彼らは「苦境」を感じ取ったのか,取らなかったの か。ここで普通統語論上のルール 二重否定 の法則が持ち出される。マイ ナス(Nor)とマイナス(not)でプラス,つまり,「彼らは感じ取った」の だということになる。しかし,Fishに言わせるとこれはあくまでも文法的論 理としては十分かもしれないが,「読者の経験の論理」とは無関係だというこ とになる。ではこの短い文章に於ける読者の経験とはどのようなものか。Nor

(3)

      読者は作者に代わり得るか一Stanley Fishの場合  357 did theyで始まった文章は次に読者に動詞を当然予想させる。しかし,この 期待は裏切られ,新たな否定語notが置かれる。読者の読みの流れは虚を衝 かれ,このnotをなんとかうまく処理することを迫られる。ある者はもう一 度頭から読み直し,ある者はそのまま先に進んで有るべき筈の動詞を求める

ことになる。「彼らは感じ取ったのか,取らなかったのか」と迷いつつ。実 は,これがこの文章に於ける最も重要な瞬間だとFishは言うのである。つま り,統語論上の迷いのために読者が一瞬宙ぶらりんの状態にされる経験がで ある。それを,二重否定のルールを応用して,その迷いとなる要素を一掃し,

すんなりとした陳述文に還元して,それがこの一文の「意味」であるとする のは間違いだというのである。意味とはそのような静止的なものではなくて,

読者の読みという時間的経緯:に沿って次々と起こる 予測・投影・結論・判 断・仮定 などあらゆる出来事(events),つまり,ページの上にではなく,

読者の心の中で起こる反応の総体,それこそが真の「意味」だと言うのであ る。そのような観点からすれば,先ほどの一文の意味はどうなるか。Fishの 答えは巧妙かつ新鮮である。

Subsequently, we discover that the answer to the question  did they

or didn t they,  is,  they did and they didn t.  Milton is exploiting. . .

the two senses of  perceive : they (the fallen angels) do perceive the fire, the pain, the gloom一一physically they see it一一however, they are blind to the moral significance of their situation, and in that sense

      6)

they do not perceive the evil plight in which they are.

このような,テキストよりも読者を,objectよりもsubjectを,空間的要素よ りも時間的要素を優位に立てる彼の主張は,実は,それまでの批評界を支配 してきた考えに対する重大な挑戦であった。それまでの考え方とは勿論ニュ

ー・ Nリティシズムであり,さらにこの問題に限って言えば有名なthe Af−

fective Fallacyである。 The Affective Fallacyと1ま,それと対をなすthe

(4)

Intentional Fallacyと同様,詩をその 原因 或は 結果 の見地から論ず ることを諌めるものである。

The lntentional Fallacy is a confusion between the poem and its origins, a special case of what is known to philosophers as the

Genetic Fallacy. lt begins by trying to derive the standard of criticism

from the psychological causes of the poem and ends in biography and relativism. The Affective Fallacy is a confusion between the poem

and its results (what it is and what it does),...It begins by trying to

derive the standard of criticism from the psychological effects of the poem and ends in impressionism and relativism. The outcome of either Fallacy, the lntentional or the Affective, is that the poem itself,

      7)

as an object of specifically critical judgement, tends to disappear.

ニュー・クりティシズムの基本的立場はフォルマリズムである。詩とは何か,

この問い掛けに対し従来の印象主義的批評は曖昧な心理学的装いをこらした

用語での説明に終始してきた。曰く, sincerity, fidelity, spontaneity,

等々。しかし,いつまでもこのようなレベルに留まっている限り,批評の言 葉は正確さと客観性を標榜する科学の言葉に取り残されてしまう。いたずら に批評家個人の 感性 を売り物にし,気紛れな印象を美的鑑賞の基準とし て相手に押しつけようとする。これではいくらたっても広く共通する批評の 言葉など生まれないというのである。これを打開するためには詩は読み手の 印象の中にあるのではなくて,言葉あるいはテキストそのものの中に存在す ることを認識すべきなのだ。こうしてニュー・クリティシズムの最も基本的 なテーゼである 物そのものとしての詩 (athing−in−itself)という概念が生 まれる。即ち,詩はそれを創作した作者の 意図 に発するのでもなければ,

読者の 印象 の中にあるのでもない。詩は何物にも冒されない輩固たる objectとして存在する。それは内に様々な緊張をはらみながらも,結局は大

(5)

      読者は作者に代わり得るか一Stanley Fishの場合  359 いなる調和の中に収束されてゆく全く自己充足的な世界なのだ。従って,詩 の批評とはこの輩固なobjectを構成する様々な要素(パラドックス,アイロ ニーCその他)の客観的分析によってその科学性を保証されるべき0)もので

なくてはならない。要約すれば,そのキー・ワードはobjective, spatial, static

の三つである。

 批評の言説と言えども時代性を抜きにしては語れない。当時,つまり1930 年代の半ばから1950年代の後半に至るまでの時期,これらニュー・クリティ

シズムの主張がおおいにもてはやされたのも,それまでの批評の 主観性 に対する危機意識があったのである。と同時に,ニュー・クリティシズムの 主張そのものもまた時代の風化作用,新たな検証に晒されるのも致し方のな いことと言える。「読者反応批評の動きはWimsattとBeardsleyが The Affective Fallacy の中で打ち出したニュー・クリティシズムの鉄則への真 正面からの反対という形で生まれた………。その主張は,詩は結果抜きには 語れない。詩の意味を正確に記述するには,心理的その他もろもろの結果が 不可欠である。なぜなら,意味は読者の意識の中で実現しない限り有効に存       8)

在し得たとは言えないからである」というものであった。これが読者反応理 論の生まれた時代的背景である。以下,その主張をFishに沿ってもう少し詳

しく見,同時にそこに含まれた問題点を考えてみることにしよう。

2

 ここまでの議論に於てFishの主張を成程と思われた方も少なくないと思 う。実際,我々が読むからこそ意味が発生するのだし,その読むという行為 は静的なものではなく,動的・時間的なものである。だが同時に重大な疑義 もある。このように,意味を一方的に読者の読みに託してしまっていいもの だろうか。一人一人目てんでんばらばらに勝手な読み方をしたら,文学理論 など成り立たないではないか。読みを 反応 あるいは 経験 とする以上 個人の好みや能力は勿論,さらにはその時々の体調や心理状態までも関係し

てくるはずである。これでは全くの無秩序状態であり,文学の批評行為その

(6)

ものが共通の基盤を失ってしまうのではないか。この問題に対して納得のゆ く説明がない限り,読者反応批評は理論としては成り立たない。従って,こ の点に関するFishの弁明が極めて重大になってくる。(ちなみに,この無秩 序状態に対する警戒心を強く打ち出し「有効な読み」(validity of reading)

とそうでない読みとの基準の必要性を唱えたのがE.D. Hirschであり,逆に,

この状態こそ読みの本質である以上むしろこれと正面から取り組むべきだと したのがHollandである。)

 Fishはこう言う。読みを全面的に読者に託しても決して心配されるような 無秩序状態は生まれないと。なぜなち,我々の内には勝手気儘な読みを抑制 するメカニズムが内蔵されているからである。このメカニズムを彼はNoam Chomskyの提唱した「言語能力」(linguistic competence)とのアナロジー で説明しようとする。Chomskyの「言語能力」というのは,我々の発話行為 はある一定の生得的なルールに従っているというものである。日常それぞれ の個人が行う言語行動は一見自由かつ奔放,さまざまな任意の組立てで行わ れているように見える。しかし,実はその背後には一定のルールがある。た だし,これを狭い意味の 文法 ,学校などで教わるスクール・グラマーのよ うに考えてはならない。われわれは,文法を教わる以前から自国語を話すこ とができるし,しかも,その発話行為は既にしてある一定のルールに従って いる。ということは,我々は生まれながらにして,ある種のより大きな範疇 としての 文法 を備えていることになる。それが,Chomskyの言う「言語 のルールの下部構造」(the underlying system of rules)である。(この考え 方のヒントになったのは勿論Saussureのlangueの概念である)。 Fishはこ の「言語能力」という考え方に着目した。即ち,「言語能力」という,全ての 人が皆等しく生得的に内包している共通の能力があるとすれば,それは発話 行為のみならず,読んだり,聞いたりする行為に於てもまた共通のルールと して機能するはずである。つまり,「言語能力」が無意識のうちに,規準を無 視した発話行為を規制するというのであれば,それは読みに於てもまた,規 準を無視した 反応 を規制するはずだと考えたのである。

(7)

読者は作者に代わり得るか一Stanley Fishの場合  361

If the speakers of a language share a system of rules that each of

them has somehow internalized, understanding will, in some sense, be uniform; that is, it will proceed in terms of the system of rules all speakers share. And insofar as these rules are constraints on produc−

tion一一establishing boundaries within which utterances are labeled

normal,   deviant,   impossible,  and so on一一they will also be constraints on the range, and even the direction, of response; they will make response, to some extent, predictable and normative. Thus,

the formula, so familiar in the literature of linguistics,  Every native

       9)

speaker will. . . .

多少問題が残るとは思うが, 独善的,無秩序的 反応はこれである程度排除 されると言うFishの主張を一応認めることにしよう。しかし,肝心な問題は 手つかずのままである。即ち,では「読者」とは何者かという問題である。

Fishは,一面では読者を生身の,つまり我々一人一人のような存在のように 思わせながら,一方では「生得的言語能力」の概念から抽象された理論的仮 構1(theoretical construct)のように思わせてもいる。 個々の 経験・反応

を重視すると言いながら,無秩序を指摘されると,それらの中の共通部分,

つまりは 普遍的 反応を持ち出してくる。これでは,読者反応批評と言い ながら,肝心の読者が一向に明確になってこないではないか。

 それに対するFishの答えは次のようなものである。まず,彼の言う読者と は最も理想的な読者,即ち「有識読者」(the informed reader)なのだと言

う。有識読者とはテキストで用いられている言語を十分使いこなせるだけで なく, 成熟した 解釈に必要な語彙・語の配置・イディオム・各種専門用語 を含めた 意味論的知識 を完全に備えていなければならず,更には,文学 が用いる様々な手法(比喩表現など)から文学上の約束事(色んなジャンル の形式)までを含めた文学的能力を備えた者だと言う。その上で,この有識

(8)

読者とは生身の存在か,それとも理論的仮構かという問いに対してFishはこ

つ旨つ。

The reader of whose responses 1 speak, then, is this informed reader,

neither an abstraction nor an actual living reader, but a hybrid一一a

real reader (me) who does everything within his power to make        10)

himself informed.

「抽象的存在」と「生身の人間」との中間的存在,正直言ってこの読者モデ ルはかなり苦しい。理論的仮構なのだと言ってしまえばよさそうなものだが,

そうはゆかない理由がある。既に述べたように,彼の主張の最も重要な点は,

読みをtemporalなもの,テキストが送ってくる様々な刺激に対する刻々の 反応と捉えていることで,これではどうしても 生きた 読者を想定しなく てはならないからだ。そうかといって,完全に生きた読者と割り切る訳にも ゆかない。反応にも何らかの共通項がなければならない。結局どっちつかず の存在(hybrid)とならざるを得ない。

 しかし,有識読者モデルについてはそれよりもっと重大な疑問がある。詩 の意味はテキストの中でformal featuresとして予め埋め込まれてあり,読 者の役割はこれらformal featuresを一つ一つ掘り起こしていって,それら の問の緊張・矛盾を最終的に静止的調和の状態に置くことに過ぎない。この ようなニュー・クリティシズムの考え方に反対してFishは,詩の真の意味と はformal featuresにそのつど反応を繰り返して行く読者の経験の総体なの だと主張。それ.では勝手気儘な解釈が横行するだけとの異論に対し,読むと いう行為は決して完全に個人的・恣意的行為ではない。「言語能力」同様,広 く共有された部分,統一的ルールを含むものであり,そうである限り規準を 大きく外れた読みは排除されると反論したのである。ここに重大な陥穽があ

ったのである。即ち,「規準を外れる」云々という言い方である。規準を外れ る外れないという言い方は,当然「規準」そのものが前もってあるというこ

(9)

      読者は作者に代わり得るか  Stanley Fishの場合  363 とを前提とする。それはこの場合テキスト以外には考えられない。それに,

「formal featuresに対する反応」というのもおかしい。彼の言う有識読者と はテキストのあらゆるformal featuresに最:も鋭敏に反応し,最大限の経験 を受容する読者だという。だとすれば,結局はテキ・ストであり,formal fea−

turesが全ての鍵を握っていることになりはしないか。反応といい,経験とい い,いずれにしろそれが何ものかに対する反応であり経験である以上,まず その「何ものか」が最初にあることになる。こうして,Fishの立てた筋書き は皮肉な結末に終わってしまう。即ち,何よりもテキストの現前性の打破を 目指したはずのものが,結局その現前性をこれまで以上に承認する形となっ

たのである。

3

 理論家としてのFishの特徴はその立ち直りの良さである。一つの仮説を踏 み台として思いきり言いたいことを言った後は,その矛盾を自覚あるいは指 摘されると,基本には手をつけないで,新たな,より大胆な仮説を打ち出し て立場を固めてゆく。前章の終わりで述べた袋小路をいかに彼が脱したか,

そしていかにより強固な 読み の理論を築き上げていったか,それが本章 の主題である。

 テキストか読者か。この二元論に出てニュー・クリティシズムが一方的に 前者のみに比重を置いた,そのことに対する反嬢からFishはスタートしたの であるが,結果は 敵 の思う壷になった。どこで道を踏み間違えたのであ ろうか。それは,「テキスト対読者」という二元論の立て方そのものに原因が あることにFishは気付いたのである。この前提に立つ限り読者に勝ち目はな い。なぜなら,このような二元論は必ずテキストが先か読者が先かという問 いになるからであり,そうなると読み手がいなくてもテキストは存在するが,

テキストが無ければ読み手の存在などあり得ないという議論になるからであ る。このような論理的デッド・ロックを解消し,しかも読みを中心に据えた 主張を守り抜く,それはどうすれば可能か。

(10)

 Fishが取った方法は,テキストが独立してまず先にあるということを否定 すること,テキストの中に埋め込まれているとされてきたformal features は実は読みが創りだすものであること,その上で,全ては「解釈の戦略」

(interpretive strategies)に帰せられるのだと結論づけることだったのであ る。この新たな結論を打ち出すために,彼は大胆な自説の訂正を行った。即 ち,それまで彼の理論に予て中心的な役割を果たしてきたはずの 反応 の 概念を引っ込めてしまったのである。そして,それに替わるものとして 解 釈行為 (an interpretive act)の概念を前面に押し出してきたのである。こ

こでもまたMiltonからの例を引きながら彼はこう説明する。

The willows and the hazel copses green

Shall now no more be seen,

Fanning their joyous leaves to thy soft lay・s.

(Lycidas, 11. 42−44)

読みとはその時その時の意味を確保する行為の積み重ねである。例えば,上 の例では読者は43行目の終わりの seen で一度意味のまとまりを得る。「緑 なす柳も榛も今となってはもう見られない」。つまり,リシダスが死んだ悲し みのために,柳も榛もすっかり色あせ,かつての緑の姿は二度と見られない だろうと。ところが,読みが次の行に移るに及んで,読者は seen でいっ たん意味を切ったのは早計だったことを知らされ,新しい意味を確保する必 要性に迫られる。即ち,緑なる柳も榛もこれからもいくらでも見られるので あって,ただ死んだりシダスだけがもう目にすることができないということ なのだ。「緑なす柳も榛も,今となってはもう君のやさしい歌に喜びの枝をそ よがすことはない」。これでは話は全く違ってくる。最初はリシダスの死を悼 んで,二度と緑の姿を見せない憐みに満ちた自然こそその意味,作者の意図 と思われたのに(そのために seen で切れていたはずなのに),次の瞬間,

彼の歌に枝をそよがすことはもうないにしても,いくらでも他の者の歌には

(11)

      読者は作者に代わり得るか  Stanley Fishの場合  365 なびく,人間の生死に無関心な自然という新たな 意図 が含意として持ち 出されてきたのである。ここで,読みをtemporal activitiesとみなすFishの 立場からして,前者の意味が間違っていて,後者こそ真の意味だとする立場 にないことを思い出す必要がある。彼にとって,詩の 意味 は刻々試行錯 誤を繰り返していく時間的経過,その経験こそが真の意味であり,その基本 的前提はここでも変更されていない。今の例でも 無関心な自然 という含 意もまた,この時点限りでの暫定的な意味かもしれないのであって,そうい

う 時点 の繰り返しが読みだというのであるから。

 以上のFishの所説の中で最も重要な指摘は,作者の意図もformal fea−

turesもいずれも解釈行為が 創り出す のだということである。例えば,作 者の意図である。作者の意図を察知するとは何よりもまず書かれてあること

を遺漏なく 理解 することに他ならない。しかも,この場合の理解とはFish に言わせれば,読みに伴う刻々の出来事の総体ということになる。先の例で 言えば,43行目の終わりの時点でのりシダスの死を悼む自然も,次の行に移 行した時点での,人間の生死に無関心な自然もいずれ.も 理解 の中に含ま れるのである。ということは,43行目の終わりの時点では,弓懸に満ちた自 然が作者の意図であり,次の行では冷淡な自然が作者の意図と.いうことにな る。つまり,理解とともに意図も変わってくるのである。これと同じことが formal featuresにも言える。二二に接して人はまず何をするか。予めそこに 埋め込まれてあるformal featuresを掘り起こそうとするのではない。何よ りもまず,意味を理解しようとするのである。そのためには,先ほどの seen の例のように,もともと連続体に過ぎないテキストに自らの読みに従って任 意の切れ目を入れ,仮の行末を設定しては,意味のまとまりを次々と試みて いく。その過程は常に試行と修正の連続である。しかし,その刻々の試行的 意味のまとまりこそがformal featuresを形成しているのである。つまり,作 者の意図もformal featuresも理解,ひいてはそのために用いられた 解釈の 戦略 が創りだしたものなのだと言うのである。

(12)

 What I am suggesting is that formal units are always a function of

 the interpretative model one brings to bear ; they are not  in  the

 text, and 1 would make the same argument for intentions. That is,

 intention is no more embodied  in  the text than are formal units ;

 rather an intentiQn, like a formal unit, is made when perceptual or

 interpretive closure is hazarded ; it is verified by an interpretive act,

       11)

 and 1 would add, it is not verifiable in any other way.

こうして全ては解釈行為に収敏される。初めに作者の意図があって,それが テキストという形で実現され,そうした後読みがその意図を再現するという 従来の 手順 が完全に覆されたのである。覆されたというのは適当ではな いかもしれない。単純にその手順を逆にしてFishは一度失敗したのだから。

むしろ,意図,for!nal units,解釈からなる三項は 同時的に 発生するとい うのが彼の新たな主張なのだ。「読者の経験,formal units,作者の意図,そ れらは一体である。即ち,それらは同時的に見えてくるものであり,それ故 に,意図やテキストが独立してまず先にあるという問題は起こってこないの

  12)

である」。こうして,全てを解釈行為に吸収することによって,テキスト対読 者という二元論を解消し,読みの優位性を改めて打ち出したのである。

4

 前章までのFishの考えを単純に言ってしまえば,「我々は見ようとするも のだけを見るのだ」ということである。残された問題は,ではその解釈の戦 略とは一体何なのか,我々はどのようにしてそれを形成するのか,ひょっと するとそれだって一人一人の読み手が,色々なテキストとの出会いから少し ずつ形成してきたものではないのか,だとすると話は再び元に戻ることにな

りはしないか。それが,彼が最後に答えなければならない問題である。

 Saussureがlangueの概念を, Chomskyが言語能力の概念を,その後の議 論の核として措定したように,Fishもまた解釈能力という概念を原点に据え

(13)

      読者は作者に代わり得るか一 Stanley Fishの場合  367 る。「解釈能力は後天的なものではない。それは人間そのものを作り上げてい る一部である」。後天的なのは,その能力を実際に活用しようとする際の 方 法 である。では,その方法はどのようにして身に付けられるのか。読み手 が所属する共同体がそれを教え込む。これがFishの結論である。この,読み 手が後天的に身に付けてゆく方法を彼は「解釈の戦略」と呼び,彼が所属す

る共同体を「解釈共同体」(interpretive community)と呼ぶ。

 例えば,同一の読み手なのにテキストごとに解釈が違うのはなぜか。テキ ストそのものが違っているからではない。この読み手がテキストごとに違う 解釈の戦略を持ち込んでいるからである。では,複数の読み平なのに特定の テキストに対する解釈が同一なのはなぜか。テキストそのものの中に安定し た同一のものがあるからではない。彼ら複数の読み手が同一の解釈の戦略を そのテキストに適用したからである。

  反応, 有識読者, 経験 など,Fish自身が様々な試行錯誤を繰り返 しつつも,ニュー・クリティシズム的な「物としてのテキスト」を排し,読 みという行為の重要性を説こうとした彼の目的は,解釈共同体という概念に 辿り着くことによって一応の目的を果たしたと言えよう。それは一方で,読 むという行為がある程度individualな経験に属するものであることを保証 し(どのような解釈の戦略を選ぶかは個人に任されるので),他方で,その経 験が際限のない無秩序状態に陥ち入ることを抑制する(いかなる共同体に於 ても戦略の数には制限があるので),その両者を同時的に可能にする概念装置 だからである。彼がこの概念を明白に打ち出した論文は,そのタイトルを 1窺吻z8伽8孟勿Variorzamという。巧妙な題である。下町剛彫とはこの場 合Miltonの詩句に関する様々な異論・異説を寄せ集めたものを指す。その名 の通り過去から現在にかけて提示されてきた様々な解釈の記録なのである。

つまり,これは大規模な 読み の記録である。当然のことながら,それら の異論・異説は特定の個所に集中している。言い代えると,意見が分かれる 個所は限定されているのである。そこにFishは着目した。異説の集中する個 所が特定の個所に集中し,他の部分については殆ど議論が起こらないという

(14)

ことは,それらcommentatorという 読者 たちの読みは大枠に於て共通項 で結ばれているからである。つまり,彼らは英文学なり,英詩なり,さらに 特定してミルトンなりを語る際の共通の言語,その言語を作り出している 解 釈共同体 に共に属しているからこそ,特定の個所を問題視し,またその他 については異論なしとして看過できたのである。一方,特定の個所に関して 意見が分かれるのは,それぞれの共同体が許容する複数の解釈の戦略のいず れを適用するかという段階に於て一致しないからである。これがFishの言う

「解釈の戦略」と「解釈共同体」の概念なのである。

結  び

 読者は作者に代わり得るか,それが今回のテーマであった。そのために専 らFishに依拠して読者こそ 主役 とする読者志向的理論の一端を振り返っ てみたわけである。解釈共同体の概念を軸に,作者の意図もformal features も全ては読者の持ち込む解釈の戦略が創り出すもの,極言すれば「テキスト は読者が創り出す」というのがFishの結論であった。しかし,果たしてそれ で読者の一方的勝利,テキストは遂に消滅したと言えるのだろうか。既に述 べた通りテキストを消滅させるためにFishが取った手段はテキストと読者

との二元論を排することだった。そしてその代わりに解釈の戦略に全てを収 敏する一元論を持ち出したのである。成程,これによってテキストは姿を消

したかもしれない。しかし,皮肉なことに,同時に読者もまた姿を消してし まったのではないであろうか。読者の概念はあくまでもテキストとの二項対 立の線上に於てこそ成り立つものであり,もし,一方の項を消去すれば同時 的に他項も消えてしまう関係にあるのではないか。現にFishの最:終的結論と して何が残っただろうか。それは解釈の戦略,解釈共同体というtheoretical constructだけであって,彼が当初出発点としたはずの 生身の 人間として

の読者からは遙かに遠いものとなってしまった。読みを経験だと定義づけ,

その潮回的なプロセスを強調したはずの彼の主張も,最後になって全ての決 定権を解釈共同体に帰属させる妙にstaticな印象を残す結果になったので

(15)

      読者は作者に代わり得るか  Stanley Fishの場合  369 はないだろうか。

 或はこんな風な批判も可能である。彼が経験と言う時の経験とは何なのか。

  なま所謂生の経験を意図しているらしいが,生の経験などあり得るのか,もしあ り得るとして,それは言語によって記述される以前のものでなくてはならな い。記述された途端,それは表象体系(representation)のネットワークの中 にからめとられ,体系内の自律的意味づけによって変質させられることは避 けられない。最近のjargonで言えば, signifiedとしての生の経験も一旦 記 述 に晒された途端signifierと化し,後はそのsignifierが表象体系の中で勝 手に動き回るのをどうすることもできないのである。これではとても読者が        13)

作者に取って代わったとは言い切れまい。

 しかし,だからと言ってFishの試みが全て無意味だったと言うのでは無論 ない。彼の特徴は既に述べた通り,その立ち直りのよさ(resilience)にあ る。彼の大胆な仮説が多くの矛盾を含み,論理的ギャップがあることを彼自 身十分認めている。にもかかわらず現在でも彼の主張が我々にとって或る種 の魅力を持つのは,彼自身,理論構築という作業がself−consumingなもので あるとの大前提に立っているからである。つまり,彼にとって読むという行 為が常に試行錯誤の繰り返しによって進むものであったように,理論化とい う行為そのものも,仮説から仮説への試行錯誤の繰り返しなのであり,一つ の仮説は次のより強固な仮説のための言わば 捨て石 なのである。だから といってその仮説が無意味だということにはならない。それらは自らを否定 することによってより高次な仮説を産む,これがFish独自のdialecticsなの である。ここ三十年ばかり続いている目まぐるしいばかりの 理論の興亡 の中にあって,自らmaster narrativeを誇称する理論は次々と姿を消してい った。それに対してFishが今なお活発な発言を続けているのは,彼のself−

consumingに徹する理論家としての柔軟さにあるのではなかろうか。

The goal of knowledge is an approximate truth, not an absolute

       ]4)

one....Imperfection is, paradoxically, a guarantee of survival.

(16)

井上洋一郎教授退官記念論文集(第262・263号)

       NOTES

1)拙稿「作者はどこに行ったのか  Foucaultの場合」(『彦根論叢』第250号)及び「作  者はなぜ死んだのか  Barthesの場合」(同第251・252号)参,照

2) Roland Barthes,  The Death of the Author,  collected in lmage−Music−Text,

  (Fontana Paperbacks, 1977).p. 148.

3) Elizabeth Freund, The Retzarn of tJie Reader : Reader−ResPonse Cn ticism (London  and New York : Methuen, 1987), p. 7.

4) Susan R. Suleiman and lnge Crosman (eds), The Reader in the Text: Essays on  Audience and Jnterpretation (Princeton University Press, 1980), p. 6.

5) Stanley Fish,  Literature in the Reader: Affective Stylistics,  (1970) which was  later collected in ls There a Text in This Class? : The Authority of lnte7?bretive   Commztnities (Cambridge : Harvard University Press, 1980), p. 21,

 6) lbid., p.26.

7) W.K. Wimsatt and M.C. Beardsley,  The Affective Fallacy,  Verbal Jcon, p. 21.

8) Jane P. Tompkins (ed), Reader−ResPonse Criticism : From Formalism to Post−

 Stractuvalism (Baltimore and Lendon : The Johns Hopkins Universlty Press), ix,

9) Stanley Fish, oP. cit., pp.44−5.

le) lbid., p.49

11) Stanley Fish,  lnterpreting the Variorum,  (1976) which was also collected in ls   There a Text in This Class?, p, 164,

12) lbid., p. 165.

13) See, for example, E. Freund, oP. cit., pp. 108−111.

14) Tzvetan Todorov,  Literary Genres,  collected in Ttventieth−Centwy Litera7s,

  Tlzeo73,, 〈eds) Vassilis Lambropoulos and David Neal Miller (State University of  New York Press, 1987) , p. 204.

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