虚構世界と実在世界との不調和な関係
―マリオ・バルガス=リョサと全体小説の美学
マーク・D・アンダーソン
(訳)井 上 隆 史
訳者より
本稿は、Mark D. Andersonの “Dissonant Worlds: Mario Vargas Llosa and the Aesthetics of the Total Novel”の全訳である。Juan E. De Castro の編集によるMario Vargas Llosa (Critical Insights) に収録されている
(Salem Press, 2014, pp.201-218.)。
私は以前から、全体小説という考え方に、強い関心を寄せてきた。日本 の戦後文学において、全体小説といえば第一に思い浮かぶのは野間宏であ る。しかし、幾つかの適切な観点を取ることによって、野間とは文学的姿 勢も政治、思想的立場もまったく異なるように見える三島由紀夫の文学に ついても全体小説という論点から考え深めることができ、またそうするこ とによって、両者を含む戦後文学の可能性を、世界文学的な水準において 最大限に展開する道が開かれると思うに至った。
私はその考えの一端を、近著『三島由紀夫「豊饒の海」VS野間宏「青 年の環」-戦後文学と全体小説』(新典社)において示したが、ペルーの 小説家バルガス=リョサの思想と文学を扱った本稿は、私の思考を押し進 める上で、きわめて大きな役割を果たしたものである。
私はラテンアメリカ文学研究については、まったくの素人であることを
告白しなければならない。思い違いや不適切な訳について、お叱りを受け
ることがあると覚悟している。しかし、私はこの優れた論文を、一日も早 く紹介することに大きな意義を認め、不明な点については、著者に一々問 い合わせながら、和訳を試みた。
ジョージア大学教授である著者には、メキシコの小説家カルロス・フエ ンテスの全体小説などに関しても、多くの優れた論考がある。2016年2月、
メキシコで三島由紀夫シンポジウムが予定されているが、今回訳したバル ガス=リョサ論を出発点とし、今後、考察を継続し、深めてゆきたい。
なお、
・ 人名、作品名などで、日本語名がある程度定着している場合は、日本 語で表記、あるいは原語と併記したが、そうでない場合は、原語のみ 記した。
・ 引用文献リストは原語のみの表記とした。
・ 理解の便宜のための訳注は【 】で示した。 以上
1960年代から70年代初頭にかけて、青年作家時代のマリオ・バルガス=
リョサは、自分自身の文体を探っていた。その際彼は、当時考えていたテー マに関する思索を深めてくれるような無数の先行テキスト群に狙いを定め たのである。その文体が、 『緑の家』(1966)や『ラ・カテドラルでの対話』
(1969)といった小説において実現したとき、彼は、ジュアノット・マルトゥ レイによる15世紀騎士道小説『ティラン・ロ・ブラン』やフローベールの
『ボヴァリー夫人』から、ペルーの作家仲間であるホセ・マリア・アルゲ
ダスの『深い川』にまで至る、広大な、しかし一見したところ首尾一貫し
ないテキスト群に関して、一連の文芸批評を執筆した。なかでも重要なの
は、現代コロンビアの小説家ガブリエル・ガルシア=マルケスの、その時
点までの全作品を扱った記念碑的な博士論文で、それは『ガルシア=マル
ケス―神殺しの物語』García Márquez: historia de un deicidio
1(1971)と して出版されている。そこでは、文脈上の隔たりがあるにもかかわらず、
共通のテーマが追究され、ジャンルとしての小説の概念化の試みが繰り広 げられている。
これらの論考においては、全体小説novela total 、全体化の野心ambición totalizadora、全体化への願望afán totalizanteといった用語がしばしば用い られている。それゆえに文芸批評家たちは、「全体小説」の美学を、第一 にバルガス=リョサに、またその他の1960年代のスペイン語圏アメリカ文 学「ブーム」の作家たち(なんと言ってもガルシア=マルケス、カルロス・
フエンテス、フリオ・コルタサル、そしてエルネスト・サバト、フェルナ ンド・デル・パソ)に結び付けたのだった。その場合、全体小説は、主と してこれらの作家の初期作品に関連付けられるが、近年、ロベルト・ボラー ニョの大作『2666』(2004)やデヴィッド・フォスター・ウォレスの Infinite Jest(1996)のようなマキシマリストの作家の作品を論ずる際に、
この概念が再浮上している。これらブームの作家たちの小説や、このジャ ンルについてバルガス=リョサが述べていることから推し量ると、批評家 たちは通常、「全体小説」というものを、まぎれもなくラテンアメリカに おけるモダニズム文学の系譜に属するものとみなしているが、このラテン アメリカにおけるモダニズム文学とは、フォークナーやドス・パソスの場 合とよく似た構造上の実験や、プルースト、ジョイスの影響下にある文体 上の独特さを、ラテンアメリカならではのポストコロニアル的関心と結び 付けるものである。そのようなポストコロニアル的関心には、文化的、政 治的表象に関する、より排他的でなく民主的な様式の構築が含まれるが、
その場合、口承の歴史と書物に書かれた歴史との関係が批評的に再検討さ
1 バルガス=リョサの小説や評論に言及する際は、最初に原題を記すが、以後は英訳の表題を用いることとする。
れ、またコロニアリズムの核心において中心-周縁の弁証法を乗り越えよ うとするものとしてのコスモポリタニズムが生れるであろう。この種の小 説は、そのスケールの大きさ、百科事典的だが「食人的」でもある文化的 参照項目の広がり、ポリフォニーによって語られる複合的で絡み合う話の 筋、時空表現の共鳴【訳者註 断片化された語りの並列を指す】、そして 少なくとも、その膨大な分量によって、それと認められる
2。またここに、
社会関係を理解するための手段としてのアレゴリーの拒否、ということを 付け加えることが出来るかもしれない。というのも、複合的な話の筋は、
個人的、階級的、民族的特性といったものが体系的な社会関係のなかに位 置づけられている様子を同時に写し取ろうとしている場合にあっても、そ の個人的、階級的、民族的特性そのものを見失うことがないように設定さ れているからである。この意味で、批評家が「全体的」と評する大多数の 小説は、主にリアリズムの方法に従って表象に迫ろうとする。それらの小 説は、しばしば神話的なあるいは空想的な要素――それは、境界を踏み破 ることによって、現実が何処まで広がっているかということを浮き彫りに するのだが――を取り込むが、それでもそうなのである。
通常、批評家たちが「全体小説」というものを、スペイン語圏アメリカ 文学ブームの産物をみなしていることを考えると逆説的だが、バルガス=
リョサはこの語を、リトアニア生れでフランスに帰化した小説家ロマン・
ガリーから借用したようである。ガリーは、Pour Sganarelle(1965)に おいて文学創作をめぐって熟考した際に、「全体小説」というものを「全 体主義的小説」と対置したのだった。ここでガリーは、全体小説について
2 世の中を破壊しかき乱す、ポストコロニアル的で意図的な擬態(パロディー)行為を 示すために、「食人」という語を用いるブラジルのモダニストたちと同じように、バル ガス=リョサは、創作の過程を、「カニバリズムの行為」と位置づけている。「カニバリ ズムにおいて、これらの食べ物は、新たな現実によって悉く消化され、まったく別の、しかし質的には同じものへと変形されるのである」(『ガルシア=マルケス―神殺しの物 語』481頁)。
バルガス=リョサが熟慮した時に再び浮上することになる多くの重要な概 念を発展させたが、そこには、芸術はイデオロギー的立場から自律すべき ものだ、ということに関する概念が含まれている。というのも、イデオロ ギー的な芸術は、全体主義的なやり方で「世界をイデオロギー的立場その ものに服従させる」からである。これに対して小説は、(イデオロギー的 小説の場合は別として)現実世界を忠実に表象しようとするわけではない が、現実の世界とその射程を競い、私たちが皆そろって現実だと思い込ん でいるものの優越性に疑問符を突きつけるような、全体的な「虚構の宇宙」
を組み立てるべきなのだ。そして、小説家は虚構の世界において「神を演 じる」。だが、その時、絶対的真理や全体主義的な世界解釈、(もっと言え ば、世界支配という、すべてのイデオロギーの暗黙の「目的」)を追求し ようとする小説家自身のイデオロギーを、フロイト的な意味において、ま さに虚構の王国に置換し、そして、その虚構世界がいったん組み立てられ た以上は、もうそこに一切関与しようとしないのである。それはまさに、
神によって創造された世界に神自身が不在であるのと同じなのだ(22-24 頁)
3。ガリーはまた、19世紀フランスの詩人ステファヌ・マラルメの満た されざる欲望、つまり無限に開いて終わることのない、彼が端的に「Livre」
と呼ぶ書物を書こうとする、そのような欲望から、インスピレーションを 汲み取った。もちろん、バルガス=リョサは、芸術的表象のテーマや文芸 技法について考察をめぐらしたラテンアメリカの先人たちの考えによって 形作られた存在でもある。特にホルへ・ルイス・ボルヘスやチリのアバン ギャルド詩人Vicente Huidobro(彼らはいずれもマラルメの企てに実に精 通している)のように、バルガス=リョサが、その典拠を認めているわけ ではないような場合においても、そう言えるのだが、他にも私たちはバル
3 文献リストに掲げた英語以外のすべての文献は、本稿筆者による英訳によって引用する。
ガ ス = リ ョ サ の 祖 先 と し て、Martin Adan、Macedonio Fernandez、
Leopoldo Marechal、Juan Carlos Onetti、Guimaraes Rosa、Juan Rulfoの ような種々の文体を誇る作家たちの名を挙げることができる。
4調和をかきみだすものとしての小説
バルガス=リョサは全体小説という用語をスペイン語圏アメリカに広め たが、この語を用いる批評家たちでさえもしばしば、どちらかといえば行 き当たりばったりに見えるバルガス=リョサの全体小説論の曖昧さについ て、不満を表明してきた。バルガス=リョサがこのテーマに関する考えを、
もっとも筋の通った形で定式化したのは、『ティラン・ロ・ブランによる 戦いの手紙』Carta de batalla por Tirant lo Blanc (1969) 、『ガルシア=
マ ル ケ ス ― 神 殺 し の 物 語 』García Márquez: Historia de un deicidio
(1971)、『果てしなき饗宴―フローベールとボヴァリー夫人』La orgía perpetua. Flaubert y Madame Bovary (1975)だが、それは決して自律し た理論としてではなかった。このテーマに関してリョサが書いたことは、
その文芸批評の仕事の至る所に分散している。そのため、全体小説に関す るバルガス=リョサの理論が明白な結論を持たないことはイライラするほ どで、文芸技法について語る彼の論文やインタビューを読んでいると、そ れはいつも首尾一貫せず、不完全な形で、繰り返し姿を現わすのである。
このようにリョサの理論は、どう見ても結論がはっきりしないように思わ れるが、その何割かは、より包括的なロマン・ガリーの探究をリョサが参
4 バルガス=リョサは、ボルヘスとの関係についてはしばしば論じているが、Huidobro が自身の作品に及ぼした影響に関しては、まったく言及していない。だが、リョサの作 品に、この創造論者の作品において用いられる「詩的芸術」「純粋創造」「全体的」の ような語が贈り届けられた、ということは、大いにありうることである。その一方で、
Huidobroとバルガス=リョサが、互に無関係に、しかしともに用いている語の共通の源 泉が、いずれもフローベール、ユゴー、マラルメ、プルーストのようなフランスの作家 たちであるという可能性も、常に存在する。
照するその姿勢ゆえであることは、明らかである。というのも、リョサの 批評作品の大半は、批評家よりもむしろ作家を想定読者としていて、彼は ガリーを参照していることについても、そのガリーがこの問題についてよ り包括的な考察を深めていることについても、一言も触れることなく話を 進めてよいと感じているからだ。リョサは何よりもまず、自分だけの力で 創造する個人のために文学の可能性を開くことに関心を寄せているので あって、首尾一貫した美学理論をまとめることは二の次だったのである。
しかし、多くの批評家は、芸術作品と社会的表象(作家を捉え、文学創作 へと駆り立てるような「悪霊」の中の「悪霊」である社会的不公正を含み、
そしてそれを越えた社会的表象)の関係を、説得力を持って説明すること にリョサは失敗したと見なしたのだった。これは、リョサがリアリズムの 様式に従って執筆していることを考えると、まったく逆説的なことである。
確かに、リョサは一貫して、決して悪びれることなく、社会的表象や政治 的アンガジュマンへの関与よりも作家の創造的自律性を特権視したので あって、これは芸術、社会的公正、政治的変革の間の関係に関心のある批 評家たちにとって極めて苛立たしい状況だった。リョサの作品が、社会的 政治的テーマの重要性を正確に前景化するように見えることを考えると、
それはなおさらのことである。しかしながら、リョサが最近ノーベル賞を 受賞したことを考えると、文化史の現在に社会的表象は関わりがあるのか 無いのかということについての判定に対してはもちろん、社会的表象の美 学に関するリョサの思想についても、新たな見方を投げかけうるほどに時 は熟したようである。
バルガス=リョサは、書くということは、現実に対して根本的に不満が
あり不幸であるような境遇に由来すると、インタビューにおいてよく語っ
ている。このような不満があるため、作者は、現実を象徴的なものに置き
換えることによって、その現実を消滅させ、無に帰そうと駆り立てられる
のである。
小説を書くということ。それは、現実に対する、神に対する、そして それこそが現実であるところの神の創造物に対する反逆行為である。
それは実際の現実を正し、変革し、撤廃し、小説家の創造した虚構の 現実によって置き換えようとする試みなのだ。小説家は異議申し立て 人であり、架空の人生を生み、言葉の世界を生み出す。それは彼らが、
人生と世界を、それがもともとそうあるままのものとしては(あるい は、それらがそうであると、彼らが信じているままの形では)受け入 れないからなのである。小説家の仕事の根底にあるのは生に満足でき ないという思いである。すべての小説は、秘かな神殺しであり、現実 の象徴的暗殺なのだ(『ガルシア=マルケス―神殺しの物語』85頁)。
バルガス=リョサにとって、書くということは、本来的に、脱構築的な 行為なのだ。現実を広大なスケールのそれ自身の模型によって置き換える ことによって(リョサは全体小説家を、ボルヘスの描く、実在世界の原寸 大の地図をつくろうとする頭のおかしい地図製作者にたとえている)、作 家は「生と世界」の、それらがそうである通り、もしくは、「そうである と作家が信じる通り」の、その象徴的性質に注目するのである
5。「言葉の 世界」という虚構は、それ自身の文脈においては、現実と同じように嘘い つわりのないもののように思われ、あるいは、経験的に観察されうるもの よりももっと深い現実を構成するように見えさえするかもしれないが、も し、私たちが現実として捉えているものが、ほんのつかのまでもそのよう な「言葉の世界」によって置き換えられうるとするならば、現実という概
5 リョサは、『ティラン・ロ・ブランによる戦いの手紙』(11頁)において、ボルヘスの「学問の厳密さについて」に言及している
念それ自体が、問い直されることになる。現実という概念は、現にそれが どのようなものであるかという問題(いついかなる時にでも経験的に観察 されうるもの)であるよりも、むしろそれが今までどのようなものであっ たかという問題(過去を思い描くその思い描き方)になり、それゆえ、想 像力、「信念」、解釈、あるいはイデオロギーの問題にもなるのである。
完全に架空なのだが、読書中には実在するように見える世界の外へ出る や否や、読者は二種の現実間の弁証法的な対立に引き込まれることになる。
それは、読者の想像力において構成される明らかに架空の現実と、外界に 存在するため客観的に対象化されるように思われる現実という、二種の現 実の対立だが、実は後者は、時間的にも空間的にも断片化された知覚と記 憶を想像力が統合することによって生み出される統一体としてのみ存続す る。そこで、虚構の世界は実在の世界と不調和な関係に入り込むことにな り、読者は次のような事実と正面から向き追わねばならなくなる。すなわ ち、客観的に測量可能な現実が実在するかどうかということとは関わりな く、世界というものは常に心の中で集積され解釈されたものだという事実 と。だから、虚構/現実の弁証法は否定弁証法【訳者註 アドルノの唱え た方法】なのであって、それというのも、それはおのれ自身を超越するこ とができないからである。両者を統合することは弁証法それ自体の否定な のであり、それというのも、対立する二項を結び付けようとしてもパラドッ クスに終るからだ。つまり、実体のある現実に対して、実体のない虚構の 構成要素の存在を前提とするというパラドックスである。こういうわけで、
現実をイデオロギーによって超越することは、常に非実在、つまり虚構で あることが示されるのである。
だが、バルガス=リョサは「テクストの他には何も存在しない」という
脱構築主義のアポリアを回避する。なぜなら、バルガス=リョサは、たと
え究極的には文化的歪みを通じてしか知覚できないとしても、本来、現実
的で実体的な実在が存在するということを、信じているからである。従っ て文化の目標は、文化の自己消去ということになる。文化は、現実を効率 的に改変し、物質的発展や普遍的な人間の権利の履行を通じて現実をより 人間の居住に馴染むものにし、文化それ自体の空想的で(虚構の)、トラ ウマを調停する側面を不必要なものにすることができるようにするため に、出来る限り現実に接近しなければならないのだ。この、どちらかと言 うと縮小主義的な筋道においては、虚構/現実の弁証法は、イデオロギー というものが(そしてあらゆる種類の観念主義が)、文化を現実から引き 離すものであることを暴露し、その発展への企図を挫折させるのである。
しかしながら、この弁証法的対決が起こるためには、虚構の世界は象徴 のようにではなくて、現実のように見えなければならない。それゆえ、バ ルガス=リョサにとっては、リアリズムの表象様式を用いることが重要で ある。あるインタビューで言っているように、 「あらゆる虚構の存在理由は、
嘘としてではなく、真実として、体験され、生きられる、ということであ る。逆説的だが、その本性上、虚構は嘘であり、嘘でしかありえないのだ」
(『悪魔と嘘』17頁)。言語への――言語の象徴的特質への――関心を喚起 する作品は、現実を全体として完全なものにするための最後の一片であろ うとすることは、決してない。そのような作品は常に、言語というものが、
それが描写する対象に経験上従属するように見えるのと同様に、現実に従 属しているように見えるものである。同様に、ファンタジー小説や心理学 的小説のような、より特殊なジャンルもまた、みずからを現実より下位に 位置づけるが、それはみずからを現実から明白に切り離すことによって、
そうする。それらは客観性というものを求めないので、現実世界とは関係
を持たない、もっぱら主観的で、不完全な解釈、もしくは純然たる虚構の
ように見えるのだ。ところが、全体小説は「実際の現実を剽窃する」。全
体小説は、現実からすべての要素を入手し、それらを、本来であれば決し
て姿を現わすことのない、ある閉じた秩序の中に配置するのだ(『ガルシ ア=マルケス』11-13頁)。バルガス=リョサがマルトゥレイの『ティラン・
ロ・ブラン』について書いているように、全体小説は、「唯一の全体的現 実であって、同時に全体的現実の表象であるものとして、他を押しのけて、
みずから名乗りをあげる。全体小説は、極大部と細部のすべてにおいて、
あらゆるスケールにおいて、全体的現実を鏡に映し出すのだ。とはいえ、
実のところ、それは錯覚なのだが。――全体小説は、それを構成する本質 的部分において、全体的現実のレプリカないし等価物を備え持つのである」
(『ティラン・ロ・ブランによる戦いの手紙』38-39頁)。
このことは、質的に言っても量的に言っても正しく、というのも、全体 小説は現実生活における人物の広範な配置、設定、筋立てを型どるからで ある。しかし、それは人間が経験することのうち主観的な面も包括するの で、その結果、全体小説は、「行為と夢、客観性と主観性、理にかなった 考えと不思議な思い、というような現実、というより現実的なものと同じ 多種多様の感覚を伝える、言葉によって表現された客観的事物になる。全 体小説の『全体的リアリズム』、つまり神に取って代わるということは、
こういうことである」(『ティラン・ロ・ブランによる戦いの手紙』26頁)。
しかしながら、どんなに主観的であっても、現実の世界に対する全体小説 の自律性が損なわれるわけではない。というのも、全体小説は全体として 現実的な虚構世界との、量的関係に帰せられるべき客観性の外観を得るか らである。つまり「フローベールの狂的なまでに物質的な文体のおかげで、
ボヴァリー夫人においては、主観的現実が、物質的現実と同じように手で
触って確かめられる硬さ、物質的な重さをまとっているのである」(『果て
しなき饗宴』11頁)。読者の心の中において、虚構世界に、それ自身の自
立した存在を与えるのは、この量の間の広大な相互作用である。そしてそ
の自律性は、ぜがひでも、私たちが疑いなく現実だと思い込んでいる世界
観と競合し、ぐらつかせるものでなければならないのだ。
しかしながら、無秩序な現実世界とは異なり、全体小説はそれを構成す るすべての要素に、構造とプロットを備えさせる。そして、客観的な現実 には決してありえないようなやり方で、その現実性を判読可能なものとす る。現実世界の諸現象の総体である限り、現実の実質は、それをどんなに 解釈しても、自分自身を越え、超越することが出来ない。神、あるいは現 実に統一や絶対的な意味を与えることの出来る、何か他の形而上学的実体 が不在であるなら、現実はまさに現実でしかないのである。これに対して、
全体小説はみずからを「部分の総和以上の」(『果てしなき饗宴』30頁)単 体として提示する。その、現実の境界を踏み破る超過分は、バルガス=リョ サが「追加要素」と呼ぶものである。――それは、神のみがその被造物に 与えることの出来る、残る隈なく現実を補い、現実に解釈の枠組みを提供 する要素である。だからこそ、秩序というものは、新たに生み出されたも のなのだ。それは、常に経験的な現実の外側にある。
小説が与えることの出来る全体的現実の表象は、架空のものであり、
蜃気楼である。それは、それに生気を吹き込む、果てることのない眩 暈(現実のこと)に比べれば、質的には同一でも、量的には微細な、
知覚出来ないほどの小部分である。それは、元の現実と同様の広大な 無秩序である、という印象を与える。しかし、それはそのような無秩 序ではないのだ。それは現実を表象するが、それというのも、現実か ら、その存在を構成するすべての原子を奪い取るからである。しかし、
それは元々そうであるような現実ではない。現実との違いは、それが
新たに生み出されたものである、ということだ。(『ティラン・ロ・ブ
ランによる戦いの手紙』33頁)
それゆえ、追加要素とは、客観的現実を完全なものにすべく全体小説が 加えるものを、可視化し、ゆるぎなくするもののことであり、それはつま り、全体小説をノンフィクションや現実的な真実なるものと区別する明ら かな虚構性のことなのである。
これがバルガス=リョサの神殺しという概念の急所である。ロマン・ガ リーが指摘するように、 「合法的に神を演ずることなど出来ない」のだ(24 頁)。虚構世界において、残る隈なく現実を補って神を演ずること(バル ガス=リョサは「神を騙る者」という言い方を好むが)によって、全体小 説の作者は、現実世界におけるその地位において、神(絶対的真実)に取っ て代わるのだが、しかし彼はまさに不法にその地位を占有して、実質的に、
神を「殺し」、あるいはその価値を無くするしかない。虚構世界の秩序は、
作者の不在に注意を促すが、それというのも、虚構世界を一度に秩序付け られ、自律的で、かつ自立できるものにするのは、その不在でしかないか らだ。これとは対照的に、経験的現実の無秩序(それは小説の虚構の秩序 と比べれば明らかになる)は、神の不在ではなく(ニーチェの意味で)そ の死を暴露する。バルガス=リョサにとって、秩序はまさしく人間の創造 に他ならないのである。
しかしながら、全体小説の作者は、実際には、社会の彼岸に位置する神
のような孤独な創造者ではない。リョサの言う追加要素は、私たちの心を
ざわつかせるもの、妄念、デリダが『マルクスの亡霊たち』で用いるよう
な意味における憑依に対する、一つの反応である。バルガス=リョサにとっ
て、無秩序で混乱した現実の恐怖から作者を解放する自律的世界を創造し
ようとする衝動は、「悪魔」払いの必要性――作者に取り付いて、作者に
課す命令に強迫的に応えさせようとする個人的あるいは集団的なトラウマ
を追い払おうとする必要性――に由来する。
小説家の仕事、言葉と想像力によって現実世界とは全く別の世界を 生み出す仕事の出発点は、生きられた体験との葛藤や不一致から生じ る。そういう体験は、概して曖昧で不合理なやり方で、人に、虚構に よって与えられる別の選択肢を探し出すように仕向けるのだ。想像力 は真空においては働かない。それは魂の無償の活動ではなく、葛藤、
トラウマ、禁制、敵意があるときに、そこを狙うのである。(中略)
私はこのすべてを、比喩的に「悪魔」と呼ぶ。(『悪魔と嘘』15頁)
もちろん、精神分析の用語で言えば、バルガス=リョサが「悪魔」とい う言葉を呼び出したことは、 「他者」が自己に与える脅迫を思い起こさせる。
――それは、よく知られるように、サルトルが『出口なし』の最後で、 「地 獄とは他者のことだ」と宣言したようなことである。ちなみに、この台詞 は、よりしばしば引用されるゲーテの悪魔の場合と同様に、バルガス=リョ サの用語の語源であるようだ
6。作者は、「悪魔」という他者の憑依を、物 語を通じて意識から追い払おうとする。そして、それらを自己の物語(ア イデンティティ)の中に、他者ではなく自己と同じものとして組み込むか、
証言や、あるいは他の伝記的表象形式によってそれらを追い払うのである。
しかしながら、悪魔の霊力は常にそれを表象するために用いられる言葉を 上回るので、拭い去ることの出来ない痕跡――バラバラな記憶――が残る。
その上、バルガス=リョサは、他者が自己に倫理的切迫性を負わせてくる というレヴィナスの考えに同意しているように見える。このような内面化 された他者の痕跡は、たとえ象徴化ということが常に不十分であるにせよ、
6 バルガス=リョサは、若き作家としての自分にサルトルが与えた影響をたびたび認め てきた(ウィリアムズ101-103頁)。文学創造を不合理な過程とみなすゲーテの概念に関 しては、「ガルシア=マルケスと小説の諸問題」(25-33頁)におけるアンジェル・ラマ とバルガス=リョサの論争を参照のこと。エファイン・クリスタルは「言葉の誘惑」(3-4 頁)において、この考え方のより完全な系譜学を提供している。
私たちがそれらを表象し、それらのために証言することを、要求してやま ない。この状況は、たとえ虚構世界において神になったとしても、最終的 には解決されえない。
いかなる小説家も、ある固着状態、つまり神に成り代わろうとする 営みの邪魔をする、 (現実からの、そして/あるいはアイデンティティ からの)断絶の瞬間の重圧から逃れることは出来ない。(中略)小説 家の営為は、一時しのぎに過ぎず、治癒ではないのだ。小説家が、こ の眩暈のするような、神に成り代わろうとするほとんど無意識の衝動 において、勝利を収めることは決してないだろう。あらゆる小説は失 敗に終わり、あらゆる物語は期待はずれに至るだろう。(『ガルシア=
マルケス―神殺しの物語』95頁)
こうして、これら小説家の過去からやってくる悪魔たちは、果てしなく みずからの象徴的な代用品を生み出し、その存在を証明し、物語中におい て、自分たちを一つの独自の、語りかけてくる声として具体化するように、
小説家を強いることになるだろう。その過程が完全に終る可能性は、全く ない。
その上、バルガス=リョサが虚構の起源として強調する現実との根本的
な対立もしくは断裂は、直接的で分化されていない現実との遭遇の、ぞっ
とするような、トラウマ的な本性というラカンの概念を呼び起こす――そ
の現実とは、象徴化と秩序に抵抗するものである。実際、すべてがきちん
と二項対立のうちに分類されるような虚構の構造を設け、対称的な世界を
生み出すことによって小説家が乗り越えようとするのは、まさしくこの混
沌たる無分化なのだ。
この二項対立的世界においては、一は二である。つまり、すべてのも のはそれ自身であり、またそのレプリカなのだ。そのレプリカと言う のは、時にはそれそのものであり、時には変形させられている。それ 自体単独に存在するものは、ほとんどない。というのも、ほとんどす べてのものが、それを承認し、そして否認する何物かに二重化される からだ。(中略)虚構のリアリティは、現実のリアリティとは異なり、
どんどん無秩序に増大し倍化するような印象を与えない。むしろ内在 的な法則や、どのような場合にもあてはまる実質的有効性に従って、
堅固な全体的見取り図の枠組みの中で、増大し倍化するような印象を 与える。(『果てしなき饗宴』146頁)
こうしてバルガス=リョサは、実際の現実に任意の対称性を押し付ける ことを批評の俎上に載せるという点において、ポスト構造主義に一致する。
彼は、そのような対称性の押し付けを、合理的というよりも魔術的な思考 過程とみなすのだ。しかしながら、リョサは、虚構の二項構造は、全体性 の印象を生み出すために欠かせないということを、注意ぶかく指摘する。
それにしても、そのような二項構造は、虚構世界の自律性を保とうとする なら、弁証法的であることはできない。なぜなら、対立は相補的であり、
矛盾的ではあるが、この対立を乗り越えるジンテーゼは、どんなものであ れ構成されえないからである(『果てしなき饗宴』147頁)。こうして、全 体小説は分化されない現実のトラウマとなる無秩序を和らげるために構造 を用いるのだが、虚構世界の中においては、ジンテーゼによる解決を拒む ことによって、その現実の痕跡と外貌を消さずに残すのである。
他方、リョサは、彼の「悪魔」という概念を創造の病理に帰すものと見
なす精神分析的な説明を、明らかに拒む。「私は『トラウマ』という言葉
を使いたいと思ったことはないが、それは一般的なフロイト的説明となる
ことを避けるためだ。単に神経症によって引き起こされるものとしてそれ が説明できるなどとは、私には思われない。それは、純粋に病理的なもの として定義されるものよりも、無限に広がりのありうるタイプの葛藤なの だ」(『悪魔と嘘』15頁)。バルガス=リョサにとって、現実とのこの根本 的な不運や不満、このように悪魔に囚われることが、創造的な体験となる が、それは、これこそ二種の現実について考える唯一の方法だからである。
人がもし実際の現実に満たされているとすれば、その現実に対して批判的 な姿勢を発展させることなど出来ないし、虚構を求める必要性などはまっ たくなくなってしまうだろう。そして、もしも創造がなければ、自己創造 もないであろう。しかし、これらの悪魔は、我々の内なる他者の痕跡であ り。決して完全に払い清めることの出来ない痕跡なのである。このことは、
根本的に語り掛けあう構築物として自己を解体する、ということを含意す るだろう。
フローベールやガルシア=マルケスに執筆の筆を取らせた悪魔の正体を 明かそうとして精神分析に手を出した際でも、因果関係を打ち立てること が結局は不可能であることを、バルガス=リョサは認識している。因果関 係を打ち立てるなどということは、話を単純化する試みでしかありえない のだ。リョサの理論にとってより重要なのは、虚構が人の心から生み出さ れ、みずからの命を得て、現実のように見えてくる過程の分析である。彼 は文学の価値を非常に重んじているが、「みずからを虚構とは見なさない 虚構、現実の客観的解釈であろうとする虚構」(『悪魔と嘘』18頁)に、よ り多くの関心を寄せているのだ。従って、文学に関するリョサの考察は、
イデオロギー、マルクスの言う「虚偽意識」の構築に関する考察というこ
とになる。つまり、特定の世界観に至るような知的な構築物が、自然なも
の、しばしば破局的な結末に至ることもあるが、読者にとって自明かつ自
律的なものとなる過程についての考察となる。バルガス=リョサが、この
引用で言及しているイデオロギー的虚構は、彼を中傷する人がおそらく期 待するであろう特定の政治的志向を指すものではないことは、注目に値す る。彼が示唆しているのは、1984年の小説『世界最終戦争』の主題である、
1897年のブラジル共和国の軍隊によるカヌードスの農民虐殺において示さ れたような、19世紀の自由主義(リョサに対する批評家が、しばしば彼に 結びつける哲学)である。この筋立てにおいては、文学の公然たる虚構性 は、あらゆる種類のイデオロギーの虚構性を暴露するのだ。作者その人と 密接な関係にあるイデオロギーでさえ(『悪魔と嘘』18頁)。
文脈の中に置かれた全体小説
文学を何よりも社会的真実を運ぶ乗り物と見なす左翼批評家は、全体小 説を根本的に脱構築的なジャンルと見なすバルガス=リョサの理論と、彼 の小説的実践との間の問題含みの関係を、当初は脇によけておくことが出 来た。なぜなら、彼の物語は明らかにリアリズムの方法で社会関係を表象 し、彼自身、言葉の上でも行動においても、1959年のキューバ革命を支持 したからである。彼は、キューバ革命における最も突出した文化機関であ る「アメリカの家」の統治委員を務めてさえいた。この間、文学とは現実 に対する「永遠の反乱」だというバルガス=リョサの決定的な宣言は、もっ ぱらある特定の現実、つまり、新植民地的で搾取的な資本主義という現実 に対する攻撃であると見なされた(デ・カストロ、ビルンス2-3)。それゆ え、文学創造の自律性を唱えるリョサの主張は、リアリズム小説を、現実 を客観的に再創造することにより、創作家のブルジョア的世界観からの自 律を達成した「有機的」芸術作品、と捉えるマルクス主義文芸批評家ルカー チの定式と容易に結びつけて考えることが出来たのである。しかしながら、
1970年代の、リョサのいわゆる「新自由主義的転回」のあとでは、彼が創
造的自由を強調していることは、マルクス主義批評家によって、集団社会
正義のための運動と衝突する個人主義のブルジョワ的な正当化と見なされ るようになった。マルクス主義批評家たちが、リョサの小説の多くを、体 系的な社会関係の典型的表象と見なし続けている時でさえ、そうであった。
皮肉なことに、バルガス=リョサは、文学を自律したものと考える批評家 たちからも、よく思われなかった。それはおそらく彼の作品の社会的内容 のためであろう。たとえば、ボルヘスは、バルガス=リョサの小説を、一 冊でも開いてみることなんか絶対しなかった、と軽蔑したように言い放っ た(ソラー・セラノによるインタビュー)。
同様に、最初、全体小説に関するバルガス=リョサの定式は、民主化の 愛国主義的計画と民族的アイデンティティ(政治的左翼のものであろうが、
より中道右派の自由民主主義者のものであろうが)による脱植民地化に とって、まったく魅力的なものだった。愛国主義的な構想においては、小 説は、たとえ緊張と葛藤の只中にあってさえ、単一の形態下における統合 のアレゴリーになることが多いのである。それで、国家としてのアイデン ティティや対等で民主的な市民社会の構築に関心のある批評家にとって は、『緑の家』や『ラ・カテドラルでの対話』のような作品は、縺れた社 会的、民族的緊張が、いかに、単一でありながら、異種混成の物語という 形態に変成しうるか、という方途への洞察を与えた。同時に、1963年の『都 会と犬ども』や『ラ・カテドラルでの対話』は、権威主義的政府の大きな 欠陥と、その市民社会への影響を物語ったが、小説においてその市民社会 は、スペンサー流の自由競争社会へと劣化するのである。従って、バルガ ス=リョサの小説の大部分は、家族から国家に至るまで、いかなる規模の ものであっても権威主義を拒むことによって、法の下における民主的平等 を唱導するものとして、読むことができたのである。たとえ、そう明示さ れていない場合であっても。事実これは、バルガス=リョサが評論や対談、
1990年の大統領選挙で自ら展開した読み方であり、そこで彼は自分自身を、
平等主義的民主主義の王者として表現したのである。
しかしながら、リョサが1980年代の幾つかの作品で、インデジェニスモ
4 4 4 4 4 4 4 4【訳註 ペルー先住民(インディオあるいはインディヘナ)の文化に学ぶ ことを何よりも重んずる政治的、文化的、社会的運動】を、現地の人々を 国の政治的、文化的市民へと統合しようとする方法としては拒んだことで、
彼のこの政治的な顔の有効性に疑問符が付くようになった。イグナシオ・
ロペス=カルボが指摘したように、ペルーにおける現地の市民との問題含 みの関係を扱うバルガス=リョサの小説と評論は、現地のアイデンティ ティが近代性の中で保持されえないような筋立てを描いているのだ(123 頁)。そのため、インディオ
4 4 4 4 4に関するリョサの話は、近代の経済、政治生 活に対する現地文化の不適合を示す、今では時代遅れになった19世紀的な 自由主義的議論を映し出す鏡のように見えたのである。ちなみに近代の経 済、政治生活は、明らかに非民主的な立ち位置にあり、それはバルガス=
リョサを、20世紀後期の新自由主義の状況下において、国家のあり方を考 えるに際して第一の方法となった多文化主義との協調の外側へと追いやっ た。彼はごく近年には、この立場の問題化を試みたが、それはとりわけ、
アメリカ合衆国の新保守主義との関係を明確にするためだった。しかしそ れでも彼は、民族的なものであれ、人種的なものであれ、あるいは国家的 なものであれ、いかなる集団的アイデンティティの制限からも、個人は自 由でなければならないというアイデンティティ観を訴え続けている(デ・
カストロ57-58頁)。こうして、アメリカ流の多文化主義やアイデンティ
ティ・ポリティクスに共感する読者にとっては、全体小説は、民族的、社
会的な差異を、西洋的普遍主義の単独かつ時代錯誤的な大いなる物語のな
かに回収しようとするエリート主義的試みを代表するようになってしまっ
た。そのため全体小説は、1980年代の新自由主義的多文化主義の勃興と展
開の間、証言としての言説様式――多くの人に訴える自己表象――によっ
て、取って代わられることになるのである。
全体小説を正当な美学理論として受け止めるのを妨げるもう、さらにも う一つの障害は、スペイン語圏アメリカ文学ブームとの深い関係から生じ る。多くの批評家が、今やそれを何よりも商業的現象と見なしているのだ。
つまりそれは、自社が抱え込んだ作家を売り出し、スペイン語における国 際的な文学市場を開拓するためにスペインのSeix-Barral社によって展開 された市場戦略なのだ。たとえば、ブレット・レヴィンソンは、そのブー ムは「ハイモダニズム」というラディカルな文学実験を商品市場に組み入 れるためのメカニズムだと主張したが、そのメカニズムは、エリートの「教 養ある」階層からベストセラーの民主的消費主義への政治力の転換を伴い、
したがって、ラテンアメリカをグローバル化した資本主義における地域市 場として構築するに際して、一定の役割を果たしているのだ(23頁)。こ の見解においては、ブームはラテンアメリカにおける新自由主義的資本主 義の勃興と不可分であろう。それは、バルガス=リョサが拳を振り上げて 新自由主義を擁護していることと、決して矛盾しない見方である。
しかしながら、バルガス=リョサが展開した全体小説論は、このような
見方を問題として取り上げ、ラテンアメリカを「世界文学」の名において
世界的な文化市場に集約しようとするラテンアメリカブーム、およびポス
ト・ラテンアメリカブームの企図を撹乱する。自己表現的作品や前衛的で
さえある技術実験とは異なり、全体小説は、現実に関して、残るくまなく
これを補うか、もしくはその安定を損ないぐらつかせるような位置を保持
している。それは、世界的な市場で売買される生産物として、小説それ自
身が文化産業に組み入れられている時でさえ、そうなのである。少なくと
も読書の時間中は、現実的な虚構世界は、全体性として同等の身分を要求
する。私たちが実際の現実と捉えるものと、その量と範囲において競合す
る、もう一の現実として。そして、一つの全体は、ただ、部分としてもう
一つの全体の下位に置かれるとしても、そのもう一つの全体を修正するこ となど決して出来ない。それは同じ無限の量を持つので、他方に取って代 わることしかできないのであって、そこに組み込まれるわけにはゆかない のだ。世界観というものが、経験的現実というよりもイデオロギー的構築 であることを証明する弁証法的対決を生むのは、二つの全体の間の、この 最終対決である。この弁証法的対決は、小説が市場向きの作品かそうでな いか、ということとは関わりなく生じる。それは、政治的位置取りの問題 であるよりも、構造の問題なのだ。
これこそ、左翼批評家を当惑させるバルガス=リョサの著述の側面であ る。美学と政治の根源的な相補性への彼らの信念は、現実に対して破壊的 なリョサの小説のリアリズム、ベストセラーとしての市場的価値、そして リョサ自身の「右翼」政治、これらの間の一致を、容易に許すことは出来 ないのだ。しかしながら、ロマン・ガリーによる、 「全体主義的小説」と「全 体小説」との間の基本的対立は、全体小説は、まさしく美学と政治と市場 とが、見解の一致と同意を非民主的に大量生産するという一極集中を粉砕 するためにこそ、そして社会に関して根源的に批判的かつ破壊的な虚構の 地位を維持するためにこそ、形作られているということを、明らかにした。
それゆえ全体小説は、もっぱら経済的な力によってのみ世界は規定される というマルクス主義者の認識に疑問符を付すかもしれないが、それはまた、
資本主義者の「プラグマティズム」がユートピアの理想主義に勝利するこ とによって「歴史は終焉する」という新自由主義者の主張を傷つけもする のである。
新自由主義的な資本主義へのバルガス=リョサの明確な支持について考
えると逆説的だが、リョサが一貫して反権威主義者であることは――文学
は「永遠の反乱」だという見解――は、民主主義の名の下に、新自由主義
的な見解の一致が世界規模で拡張するこの時代において、はたして政治的
行動の現実的可能性はどこにあるのかということを憂慮している、ジョル ジョ・アガンベン、アラン・バディウ、ジャック・ランシエールら左翼の 政治哲学者の最新の仕事と一致する。第二次世界大戦後、ヘルベルト・マ ルクーゼやテオドール・アドルノによって展開された大衆資本主義に関す る批評理論に基づきながら、これらの批評家は、「政治的言論」への広く 対等な権利(選挙権)を通じて平等を与える民主主義を表向き支持する市 民社会というものが、政治行為の可能性よりも、むしろ消費主義の均一性 に根を下ろした市民社会に取って代わられた、ということを論じている。
政治的な統治階級は、意見の異なる政治集団のアイデンティティを、年齢、
民族性、人種、性別、そして/あるいはその他の要因によって分けられた 販売対象層ごとに隔離することによって、潜在的に中和してしまう。これ らの販売対象層は、多数派と少数派という二項対立を生み出すようなやり 方で分類され、そこで政治的言論への少数派の権利は、多数派のそれによっ て常に取って代わられるのである。人々には選挙権がある。しかし、それ に政治的意味はなく、販売対象層を示すのみである。――そして、これら の販売対象層は、見かけ上民主的な見解の一致を生み出すために、国家に よって調整されるのである。政治的な可能性を失ったとしても、その損失 は、安寧を維持するのに必要な程度に消費者が満足する権利を与えること によって緩和される。そして、社会的不平等は市場の区分として捉え直さ れる。万人のために商品がある。しかし、それは同じ商品ではないのだ。
いかなる除外者も(つまり、いかなる反対者も)認めない、まったき見 解の一致という状況において、唯一の真に政治的な行為は、販売対象層の 分割過程が、民主的な政治行動から除外された少数派を生むという現実を、
あからさまに示すことである。それは、様々な戦略を通じて達成されるだ
ろう。たとえば、大衆的な行動が公共空間を占拠する場合のように。しか
し、文学と芸術もまた、新自由主義的な見解の一致のなかの矛盾を眼に見
えるものにするに際し、批判的な役割を務めることが出来る。ちなみに、
そのような見解の一致は全ての販売対象層を包含するので、もっぱら実践 的かつ現実主義的であろうとし、イデオロギー的であろうとはしない。こ の全体主義的な物欲と政治的な見解の一致を重んじる傾向において、いか なる種類の不調和も政治的意味を持つようになった。そして、バルガス=
リョサが、全体小説を、調和をかきみだすもの【訳者註 「虚構世界と実 在世界との間の不調和な関係」を引き起こすもの】として概念化したこと は、ランシエールが見解の一致の大量生産を粉砕するために「理に適った もののなかの溝」と呼んだものを明らかにするための有益な道具を提供す る。実際、近年の全体小説、たとえばダニエル・サダのPorque parece mentira la verdad nunca se sabe(1999)と、ロベルト・ボラーニョの『2666』
は、政治的目的のために、あからさまに世界と世界の不調和な関係の力に 狙いを定めて、新自由主義的な資本主義下における政治的プラグマティズ ムの容赦ないように見える慣性を撹乱する。従って、絶対的な見解の一致 を全体小説が無効化するということ、それはもはや、純粋で公平無私の脱 構築としては解釈されえない。それは、見解の不一致の一様式、ランシエー ルの用語を用いるなら、見解の相違の一様式になったのだ。
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