五經搏士の設置に關する疑義の再檢討 : 『史記』
『漢書』における「五經」を中心として
その他のタイトル Reexamination of a doubt about the establishment of 五經博士
著者 城山 陽宣
雑誌名 關西大學中國文學會紀要
巻 28
ページ 87‑118
発行年 2007‑03‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/12880
とって頭の痛い問題となっているであろう︒ た
もの
︑
序言
八七
( 1 )
近年︑﹁儒敦國敦化﹂をめぐる問題について︑敷多くの疑義が提出されている︒これらの問題をおおまかに分類す
( 2 )
第一は︑儒敦國敦化の定義の問題であり︑これがいかなる歴史的事象を指すかを問題としたもの︒
第二は︑儒敦國敦化に闘連して︑必ず言及されてきた董仲舒の封策と五経博士の設置という歴史的事賓を問題とし
( 3 )
であ
る︒
これらは︑それぞれに異なる問題意識を含み︑容易に解決し難いものである︒例えば︑前者の場合︑ひとくちに儒
敦國敦化と言っても︑研究者それぞれによる異なる條件規定により︑その指す時代・事象はまちまちであり︑後學に ると︑次のふたつにまとめられるであろう︒
城 山 陽
│﹃史記﹄﹃漢書﹄における﹁五経﹂を中心として
I 五経博士の設置に闘する疑義の再検討
宣
むものではない︒
一九六七年に︑福井重雅氏が提出された﹁武帝の五鰹博士
(4 )
設置という著名な制度は︑漢書の編纂嘗時の思想から加上的に椴託化された記載﹂であることを結論とする五経博士
これは︑武帝期における儒敦國教化の通説を根底から揺るがす問題提起であり︑時をおかず︑佐川修・冨谷至雨氏
(5 )
︵6
)
らの反論も提出されたのであるが︑一方で︑福井氏の説は︑多くの賛同者を獲得していったのである︒
(7 )
さらに︑近年において福井氏は︑儒敦國敦化に闊わる論考を次々に登表され︑これらをまとめて︑大著﹃漢代儒教
の史的研究儒敦の官學化をめぐる定説の再検討│̲﹄を上梓された︒本書は︑冒頭において︑儒敦國敦化の諸問
(8 )
題を網括し︑五経博士の設置や董仲舒の封策に闊わる論證を大幅に彊化したうえで︑さらに︑文章の正宗である班固
﹃漢書﹄に射する根本的な疑義をも提唱した一個の閥系的な著作となっている︒
(9 )
これに封して︑冨谷氏の再度の反論や澤田多喜男氏の書評が存在するものの︑全閥としてみれば︑現在︑福井氏の
( 1 0 )
説は︑廣<學會に認められるところとなっていると考えられる︒
筆者も漢代の研究者の末端に連なるものとして︑これまでも福井氏の論考から︑多くの啓登を受けてきた︒したが
って︑福井氏の緻密な論證から導き出された多くの結果が︑學會を神盆することが大であったことに︑異論を差し挟
ところが︑福井氏のこのたびの新著は︑如何したものであろうか︒讀後の経過を詳しく迦べれば︑嘗初︑筆者が感
じたのは︑冨谷氏が言われる﹁違和感﹂のようなものであった︒それが︑何度か新著を讀み込むうちに︑福井氏の班
固﹃漢書﹄に酎する疑義への共感と︑氏の説に封する根本的な疑問へと愛化していったのである︒そして︑筆者の福 の設置と董仲舒の射策に闊わる疑義である︒ また︑後者の場合︑かならず︑その俎上にあがるのが︑
I\\
I
新たな局面を切り開くことになるのである︒ また︑現在︑福井氏の説に賛同するものは少なくないのであるが︑彼らの多くは︑福井氏の説に依檬して︑それぞ
( 1 1 )
れに儒敦國敦化を論じており︑これらは︑武帝による五鰹博士の設置を否認する福井氏の説が行き詰まった場合︑た
ちまち︑その論撮を失うことになる︒
次に︑五経博士の設置に開わる疑義を解決することの緊急性とは何か︒ ることができるのである︒ では︑五経博士の設置に闊わる疑義を解決することの重要性とは何か︒言うまでもなく︑それは︑五鰹博士の設置に闘わる疑義を解決する過程で︑著名なこの歴史的事件自膿を明らかにする緒となることであり︑また︑それにとどまらず︑この疑義を解決することによって︑儒敦國敦化の問題において
先に逃べたように︑福井氏の疑問の原貼は︑漢の武帝による五経博士の設置にある︒また︑氏の新著においても︑
これに多くの頁を割かれていることからも︑福井氏が︑この問題に多大な闘心を寄せているのが理解できようが︑な
ぜ︑福井氏は︑これほどまでに︑五鰹博士の設置を否定されるのであろうか︒それは︑言うまでもなく︑武帝による
五経博士の設置を否認することが︑儒敦國敦化の定説を打ち破ることに直結するからである︒儒敦國敦化の定説が︑
董仲舒の封策と︑それによる建元五年の五鰹博士の設置によるものである以上︑その一半を挫けば︑定説を無力化す 新たな展開を期待しうるということでもある︒ の重要性と緊急性についてであった︒
八九
井氏の説に封する疑問のなかで︑もっともはっきりと自覺されたのは︑五経博士の設置に闘わる疑義を解決すること
つまり︑五経博士の設置に闊わる疑義の解決が︑儒敦國教化をめぐる論争に︑
封禅書を補綴した後人の作為であることは︑ こ
れに
つい
て︑
佐川
氏は
︑
まず
︑
して
おき
たい
︒
おり
︑
﹁五経﹂について
迎えるに至っており︑事賓上︑これらの問題については︑福井氏の疑問が提出された一九六七年より︑敷十年に及ぶ
( 1 2 )
停濡を餘儀なくされ賓際︑この間に中國では︑五鰹博士に闘する敷多くの研究が登表されているのである︒
福井氏が提起された五鰹博士に封する疑義は︑ある一面では︑すでに︑我が國の中國學研究における損失ともなって
一刻も早い解決が待ち望まれていると言えるであろう︒
そこで本稿では︑五鰹博士の設置に隅わる基礎的な疑義︑とりわけ﹁五鰹﹂の慎僻の問題について︑﹃史記﹄﹃漢書﹄
の順に再度検討を加えて問題の一端を解決してゆきたいと思う︒
﹃ 史
記 ﹄
の
﹃史記﹄﹃漢書﹄における﹁五鰹﹂の用例を再貼検してゆく前に︑複雑であった︑これまでの議論の争貼を再確認
( 1 3 )
一九六七年︑福井氏によって提出された﹁五経﹂に開わる疑義の出登貼は︑﹃史記﹄孝武本紀に﹁五鰹﹂及
び五経博士の記載が無いということに盛きるようである︒
﹃漢書﹄の武帝紀も﹃史記﹄の孝武本紀によるところが多かったであろうと推測してよいが︑現存の孝武本紀は
つとに指摘されている︒⁝⁝とにかく現存の孝武本紀に五経博士の
九〇
つま
り︑
我が國では︑福井氏を中心とした五鰹博士の設置に闊する疑義の論争により︑これらの異偽の確定については︑熱
心な検討がなされてきた反面︑五鰹博士に闊わる制度や思想の問題については︑議論が棚上げにされたまま︑今日を
たかどうか︑筆者には疑問である︒ 記録がないからといって︑ただちにその事がなかったと断ずるのは早計ではあるまいか︒⁝⁝次に︑氏は︑﹁五経﹂という用語は﹃史記﹄には存在しなかったと言われるが︑原本孝武本紀にそれがなかったという保證はないこと︑前と同じである︒⁝⁝原本孝武本紀の失われた今日において︑﹃史記﹄にその記録がないからといって︑
( 1 4 )
五経博士の存在を否定するのは︑いわゆる﹁沈黙からの論證﹂の弊に陥る恐れがないであろうか︒
︑/ しヽ
/
と言われるが︑福井氏は新著において﹁佐川氏の表現を逆用するならば︑原文孝武本紀にそれがあったという保證も
( 1 5 )
ない﹂と反論されている︒さらに績けて︑
そもそも五経博士の設置のような儒學闊係の顕著な事象を史書に記録するばあい︑ちょうど﹃漢書﹄武帝紀と儒
林偉との記事がその好例であるように︑中國の正史においては︑
同時に儒學開係の列博中にも掲載されるというのが︑
においても後世の正史の模範にこそなりはしたが︑ それは本︵帝︶紀に記載されるとともに︑また︑
ほぼ例外のない一般原則である︒
と︑正史の記載例を根檬に主張されている︒これについては︑﹃史記﹄が︑
九
その編纂初期の段階においては︑あくま
で私撰の史書であって︑後世のような正史ではなかったということを考慮されているのであろうか︒また︑﹃漢書﹄
それが﹁例外のない原則﹂といえるものであったかどうか︒少な
くとも︑私撰の書である﹃史記﹄が︑福井氏がいわれるような中國の正史における﹁例外のない一般原則﹂でありえ
なお︑この﹃史記﹄孝武本紀における﹁五経﹂の有無の問題については︑渡邊氏の見解が最も穏嘗なようである︒
五鰹博士に闘しては︑原本の﹃史記﹄の武帝本紀が現存しない以上︑﹃史記﹄に﹁五鰹博士﹂に闘わる記事の無
( 1 6 )
いことの消極的な理由とはなっても︑積極的な反論とはなり難い︒
の學術界の姿を描き出していると考えられる︒ ゜{ つ つまり︑この問題は︑福井氏︑佐川氏ともに解決がつかず︑堂堂巡りを績けるしかないのである︒渡邊氏は績けて﹁史料に闊わる問題は︑決定的な史料が存在しない以上︑自説の立場からの解繹の整合性を争うことになり︑これ以上立ち入ることは不毛である﹂と主張される︒氏の言われるよう︑﹃史記﹄孝武本紀については棚上げとし︑次の問
そこで︑注目されるのが︑﹃史記﹄に記録される唯一の﹁五鰹﹂の用例である︒﹃史記﹄築書にはこうある︒
太史公日︑余毎讀虞書︑至於君臣相救︑維是幾安︑而股肱不良︑萬事堕壊︑未嘗不流梯也︒⁝⁝秦二世尤以為娯︒
⁝⁝高祖過油詩三侯之章︑令小兒歌之︒⁝⁝至今上即位︑作十九章︑令侍中李延年次序其整︑拝為協律都尉︒通
ヽ /ヽ ノ
し ぅ rヽ ノ
一経之士不能獨知其辟︑皆集會五鰹家︑相典共講習讀之︑乃能通知其意︑多爾雅之文︒⁝⁝又嘗得神馬渥注水中︒
⁝⁝中尉汲賠進日︑⁝⁝上黙然不説︑丞相公孫弘日︑賠誹謗聖制︑嘗族︒凡音之起由人心生也︒⁝⁝而衛震公之
( 1 7 )
時︑⁝⁝太史公日︑⁝⁝︒
本文
には
︑
いくつかの興味深い事賓が記録されている︒まず︑﹁五経家﹂について考えてみたい︒
﹁五鰹家﹂とは何か︒司馬談﹁六家要旨﹂によれば︑まず︑﹁家﹂とは︑元来︑諸子の學派︑集園を指すのであろ
太史公仕於建冗元封之間︑慇學者之不逹其意而師悸︒乃論六家之要指日︑⁝⁝︒陰陽⁝⁝︒儒者⁝⁝︒墨者⁝⁝︒
法家⁝⁝︒名家⁝⁝︒道家⁝⁝︒
なお︑司馬談の﹁六家要旨﹂とは︑輩なる諸子の學派・集圏だけを分類するためのものではなく︑この文章は︑嘗時 題に取り組むのが賢明なようである︒
つまり︑﹁建冗・元封の聞︑學者の其の意に逹せずして師惇るを慇む﹂
九
ょ
•-=y とあるとおり︑司馬談は︑建元元封年間の學者のために︑學術がいかに分類されているか︑
つまり︑博士官がいかなる學術的出自かという分類でもあろう︒
( 1 9 )
つまり︑﹁家﹂とは﹁博士﹂のことでもあるのである︒なお︑﹃漢書﹄には︑﹁易家﹂﹁公羊家﹂﹁穀梁家﹂という﹁家﹂
の例が散見されるが︑これらも學官︑つまり五鰹博士の一鰹の博士官を指すことは︑周知の通りである︒したがって︑
﹃史記﹄築書の﹁五鰹家﹂が︑﹁五経博士﹂を指すことも︑また明白であろう︒
なお︑﹃史記﹄築書の﹁五鰹家﹂の記事については︑おおよその年代の豫想がなされている︒先に見てきたように︑
築書には﹁通一鰹之士﹂という語が見受けられるが︑﹃史記﹄儒林偉の公孫弘﹁功令﹂に︑
九
その特長を奉げて記遠し
一歳皆輯試︑能通一紙以上︑補文學掌故鋏︒⁝⁝不能通一萩︑輻罷之︒⁝⁝請選揮其秩比二百石以上︑及吏百石
( 2 0 )
通一紙以上︑補左右内史︑大行卒史︒
とあるように︑﹁通一鰹之士﹂とは︑射策を経て官に就いたものを言うのであろう︒公孫弘の﹁功令﹂の上奏は︑元
朔五年︵前︱二四︶である︒このように︑築書の記湛が﹁功令﹂の記録の通りであるとすれば︑おそらく︑築書は︑
( 2 1 )
太初四年ごろの資料を正しく記録したものと推測されよう︒
このように︑﹃史記﹄柴書の﹁五鰹家﹂の記載は︑﹃史記﹄の成書時において︑輩に﹁五経﹂という表現が存在した
ことを證明するにとどまらず︑五経博士の存在とその職責に関する證檬をも含む貴重な資料である︒
ところが︑この﹃史記﹄築書の﹁五鰹家﹂について︑福井氏は︑完全に否定的な見解を示されているのである︒氏
周知のように︑この築書は﹃史記﹄完成後いち早く散侠し︑現存するそれは堵少孫らの後人の補填になる一篇と たのである︒また︑嘗時の學術界の分類とは︑學官︑
哉 ︒ ②張照日︑按築書謂猪先生補者︑亦出張守節正義︒
( 3 3 )
するのが定説であるから︑自ずからそれを﹃史記﹄の原文と見なすことは不可能である︒⁝⁝このように﹃史記﹄
( 2 2 )
の中に五経という用語が全く鋏如している⁝⁝︒
と湛べられ︑業書の﹁五経家﹂の用例は︑司馬遷の筆でない旨を彊調されている︒また︑その﹁定説﹂の例として︑
注の
( 3 3 )
に﹁趙翼﹃廿二史箭記﹄径一猪少孫補史記不止十篇︑梁玉纏﹃史記志疑﹄巷一五築書︑瀧川編太郎﹃史記會
注考證﹄巻二四築書など﹂の説を奉げておられる︒たしかに︑福井氏の指摘されるとおり︑趙翼や梁玉縄らは︑﹃史
記﹄築書を拷少孫ら後人の妄補と見なしているようであるが︑しかし︑﹃考證﹄を詳細に検討するに︑氏の指摘とは
相嘗に異なる結論が書き記されているのである︒以下に闊連する箇所を畢げて確認してゆきたい︒
①陳仁錫日︑余毎讀虞書︑至誹謗聖制嘗族︑倶太史公妙筆也︒
③今考太史公日以下叙虞書以至秦︱一世︑見古築之失博︑自高祖過油至天馬来︑志漢築之梗概︑後汲賠正直之言︑公
孫詔映之語以結之︑以明漢築之所以不興︑常馬遷之時︑所應作之築書︑如是止芙︑然則榮書未嘗不覚也︑後人復
以築記全文蔦︑入公孫弘語之下︑又取晉平公事不鰹之談以附盆之︑而馬遷之義始晦芙︒
④梁玉縄日︑獲宛馬作歌︑太初四年之春︑而公孫弘卒元狩二年三月︑渥注大宛事不及見︑安得有誹謗聖制之譜︑汲
賠未嘗為中尉之官︑得渥涯馬時︑賠在淮陽為太守︑無縁而諷武帝︑得大宛馬時︑賠卒已十二年︒又安得誹謗聖制
⑤困學紀聞・通鑑問答︑謂築書後人所績︑厚匪古人︑非史遷之筆︑登有遷在嘗時而乖舛如此︒
⑥通鑑孜異不得其説︒疑馬生渥注作歌︑在元狩一︱一年°汲賠為右内史而磯之︑言嘗族者︑非公孫弘︑殊不然也︒
九四
九五
⑦愚按握漢公卿表︑太初四年得大宛馬時︑公孫賀方為丞相︑則弘字嘗賀字之訛︒史記汲賠博云︑上以醇故官其弟汲
仁︑至九卿︒蘇秦弟有蘇代蘇属︒築毅子有築間兄弟︒親戚資性近似者︑往往有之︒面磯武帝者︑安知不汲仁乎゜
後人校史記者︑熟公孫弘汲賠名︑面不究其事︑以意妄改︑亦未可知也︒
⑧又按結末敷語︑典平準書烹弘羊天乃雨同一筆法︑言外有無限意味︑彼欲婦罪於桑弘羊︑此不欲顧言君悪︒史公妙
筆︑後人不可企及︒
( 2 3 )
⑨又按以上史公證︵築︶書序︑以下後人取膿記築記韓非子十過等書妄増︒
これらは瀧川編太郎﹃考證﹄の文章である︒文①②③は︑築書大題下の﹁考證﹂であり︑文④から⑨までが︑築書本
文﹁上黙然不説︑丞相公孫弘日︑賠誹謗聖制︑嘗族﹂以下の﹁考證﹂である︒
確かに︑文②④⑤⑥の資料は︑福井氏が指摘するように﹃史記﹄築書の史料性に疑いを抱いているようである︒
文②で張照が︑猪少孫の妄補を主張するのは︑張守節﹃史記正義﹄に始まるという︒また︑文④の梁玉纏や文⑥
﹃通鑑孜異﹄では︑神馬を渥涯の水中に得て歌を作ったのが元狩三年︵前︱ニ︱‑︶であり︑このとき汲賠の官位は︑
右内史であって︑中尉ではなく︑﹁族誅に該嘗する﹂といったのも︑元狩二年︵前︱ニ︱)に死去した公孫弘ではな
い︒また︑大宛の馬を獲た太初四年︵前一
O ‑
︶は︑汲賠が死亡してすでに十二年経過した後のことであるので︑公
孫弘︑汲賠雨人が生きていようはずもないと主張する︒そして︑文⑥﹃困學紀聞﹄﹃通鑑問答﹄においては︑﹃史記﹄
築書は︑後人が妄補したもので︑決して司馬遷の筆ではないことを遠べているのである︒
ところが︑肝心の瀧川氏自身の﹁考證﹂の文章③⑦⑧⑨を見てゆくと︑その結論は相嘗異なっているのである︒
文③では︑冒頭︑太史公日<以下の虞書のくだりから秦の二世皇帝までは︑古築が博えられなくなってゆくさまが
見を踏襲されているのである︒ 湛べられ︑漢の高祖が油に立ち寄る場面から神馬がやって来る場面までが︑漢代の楽の概略として説明されている︒その後︑汲賠の賓直な猷言と公孫弘が武帝に阿った辟によって築書の序が結ばれるが︑著湛した時期が︑この内容までであったためである︒にもかかわらず︑築書にその後の記這があるのは︑後の人が公孫弘の言葉の下に築記の全文と﹃韓非子﹄十過篇にある晉の平公の異常な故事を付け足したためである︒こうして︑司馬遷が築書を書き著した意義が隠されてしまった︑という︒ そのわけは︑司馬遷が築書を
前掲﹃史記﹄築書の引用文と照らし合わせて見てゆくと︑瀧川氏の考えでは︑築書は︑冒頭の﹁太史公日﹂から
﹁上黙然不説︑丞相公孫弘曰︑斃誹謗聖制︑嘗族﹂までは︑司馬遷の筆と判断されているのであろう︒
なお︑文⑦⑧⑨についても︑同様の意見で結論付けられている︒佐藤武敏氏の要約によると﹁後人により公孫賀が
公孫弘に︑汲仁が汲賠に改められたもので︑とくに結末の敷語は恰も平準書の﹁︹桑︺弘羊を烹ば︑天すなわち雨ふ
らん﹂と同一手法で︑司馬遷が賓際執筆したものと考えている︒おそらく築書は首序の部分は司馬遷が執筆したもの
に若干後の手が加わり︑首序につづく﹃凡そ音の起るは人心より生ずるなり﹄以下は後人が﹃證記﹄築記︑﹃韓非子﹄
( 2 4 )
十過篇などより付盆した部分とする﹂という︒佐藤氏もこのような﹁﹃考證﹄の説は争嘗と思われる﹂と瀧川氏の意
こうして見てみると︑元来︑瀧川氏は﹃考證﹄において︑福井氏が言われるように﹁︵﹃史記﹄築書は︶猪少孫らの
後人の補填になる一篇とするのが定説﹂と遠べておられるのではなく︑かえって︑﹃史記﹄築書前半の序の部分︑
まり︑﹁五経家﹂を含む部分については︑司馬遷の属筆と見なしているわけである︒
つまり︑﹃史記﹄築書については︑福井氏が主張されるように︑﹁後人の補填﹂になることが﹁定説﹂となるに至っ
九六
つ
おい
て︑
記﹄儒林博は︑五鰹に従って分類されていることで著名である︒
九七
( 2 5 )
以上︑瀧川︑佐藤雨氏が言及するように︑﹃史記﹄築書序中の﹁五経家﹂という用例が︑信用できるものであれば︑
福井氏の「現存する先秦•秦漢時代の文猷はもとより、……前漢の宣帝期以前のいかなる文物の中にも、五経の二字
( 2 6 )
を見出すことはできない﹂という主張は︑そのひとつの有力な證腺を失うことになるであろう︒
なお︑﹃史記﹄には︑﹁五経﹂に闘わる資料のひとつに︑これまでも多く検討されてきた儒林偲の記事がある︒﹃史
自是之後︑言詩於魯則申培公︑於齊則靱固生︑於燕則韓太博︒言尚書自漬南伏生︒言證自魯高堂生︒言易自苗川
( 2 7 )
田生︒言春秋於齊魯自胡母生︑於趙自董仲舒︒
この資料については、『史記』における「五経」の〗県僻問題を検證する際においても、重要な論握となってきた。周
知の通り︑佐川修氏や多くの先學の貴重な指摘も少なくない︒なお︑近年︑澤田多喜男氏も︑福井氏の新著の書評に
( 2 8 )
. ﹃史記﹄儒林偉で五鰹についての學者だけ畢げている事賓にも言及してほしかったと思う︒
とそのことに触れられている︒このように︑﹃史記﹄儒林傭は︑すでに︑漢代武帝期において五鰹博士が存在した有
力な證朦となった感があるが︑紙面の都合上︑ここでは︑
もうひとつの五経の資料を︑簡輩に紹介するにとどめておきたい︒ ていないのである︒
その詳細は先行研究に委ねることとし︑﹃史記﹄における
の説の原貼が﹁董仲舒︑五経博士そして儒敦官學化は︑
﹃ 漢
書 ﹄
前章では︑﹃史記﹄築書における﹁五経家﹂について考察を加えてきたが︑﹃史記﹄における﹁五鰹﹂の用例が︑築
書の一例にとどまる以上︑武帝期の五鰹博士の設置を裏付ける根捩として︑
そこで︑本章では︑﹃漢書﹄における﹁五鰹﹂の用例を検討してゆくことにするが︑幸いなことに︑﹃漢書﹄には︑
敷多くの﹁五経﹂の用例があり︑その中には︑武帝期に年代を比定される資料も存在している︒
しかし︑先にも迦べたように︑福井重雅氏は︑﹁前漢の宣帝期以前のいかなる文物の中にも︑五経の二字を見出す
( 2 9 )
ことはできない﹂と見なされているのである︒元来︑この主張は︑いかにして導き出されたものなのであろうか︒
福井氏の﹃漢書﹄中の﹁五経﹂における資料操作の基本方針は︑次のような観貼に朦るものである︒
﹃史記﹄には全く存在しない五経が︑三十九例の多敷にわたって用いられるようになっているのは︑まさしく嘗
時の経學の特色や大勢を反映するものであろう︒ やや不十分な観は否めまい︒
いいかえれば︑﹃漢書﹄は前漢末期にはじめて出現し︑後漢初
期に多用されるにいたった五鰹という用語や概念を素地とし︑それによって基本的に前漢一代の経學の務展や髪
遷について叙逮しようとした史書であるということができる︒とするならば︑このような観貼から︑﹃漢書﹄に
( 3 0 )
記載される五経の用法について︑ここであらためて根本的に再検討を加える必要があるように思われる︒
ここで思い出されるのは︑冨谷至氏が︑福井氏の著書について書かれた書評のなかの文章である︒冨谷氏は︑福井氏
つまるところこういった班固と﹃漢書﹄がものした捏造でし
( 3 1 )
かない﹂こと︑また︑福井氏の新著が﹁﹃漢書﹄の恣意性︑とくに儒敦に闊する班固の偏向を彊調する﹂ことを指摘 の五鰹について
九八
る ︒ されている︒まさしく︑福井氏は︑そのための資料操作を考えておられたようである︒
九九
例えば︑﹃漢書﹄において︑﹁通五鰹﹂を稲される夏侯始昌については︑以下のように述べられている︒
夏侯始昌⁝⁝は︑ともに﹃史記﹄とは無縁の學者であるから︑ここにいう五鰹が司馬遷の手筆によるものではな
く︑賓際上︑班固のそれにもとづくものであることはまちがいない︒⁝⁝﹁詔して日く﹂などの文言によって先
( 3 2 )
導されていないことも︑これらの短文が特定の公式文書を祖本として記録されたものではないことを暗示する︒
福井氏の考えによれば︑まず︑﹃漢書﹄中の資料については︑司馬遷の手筆によらなければ︑班固のそれであるとみ
なし︑すべて︑班固が﹃漢書﹄を成書した時代︑すなわち︑後漢の章帝期のものと判定する︒したがって︑﹁通五鰹﹂
さらに︑この記事が︑公文書より採られた資料でないことにも注目され︑公文書に依携しないものは︑やはり︑班
固の手筆であり︑後漢の章帝期の資料であると判断されるのである︒この公文書よりの採録の基準は以下の通りであ
﹃漢書﹄の文中に散見する五経の用例を拾集し︑
書﹄を編集するさいに︑班固自身が後漢初期に流行していた五経の名稲を無意識に使用した記事であるのか︑
れと
も二
に︑
つまり、後漢•章帝期のものとみなされるわけである。
その一々について貼検するばあい︑まず︑第一に︑
それは公文書のような原資料を素材として︑ それは﹃漢
そ
それらを忠賓に轄蔦した記事であるのか︑という文章
の出所をあらかじめ特定しておく必要がある︒⁝⁝その判断の基準とは︑詔令や奏議のようないわば公文書類の
ばあいには︑⁝⁝原則として︑班固はそれを勝手に取捨選捧したり︑自分の筆によって書き改めることは許され
なかったはずであるから︑彼はほぼ忠賓にその原文を轄載し︑本文に挿入することによって︑﹃漢書﹄を編纂し を稲された夏侯始昌の記事も︑班固によるもの︑
前の記録は︑成帝期の資料と考えられるのである︒ あらゆる歴史的資料において︑様々な條件を付典すれば︑嘗然︑氏は︑﹃漢書﹄中の資料の年代比定をおこなう際に︑厳密に公文書に依擬するという新たな條件を付加しているのでされる後漢•章帝期にその年代が比定されることになるのである。
以上のように︑手筆や公文書による依握など︑様々な條件を付典することによって︑﹃漢書﹄中における﹁五経﹂
の用
例は
︑
つまりは公文書に依檬しない資料は︑すべて︑班固が﹃漢書﹄を執筆したと
そのほとんどが︑後漢の章帝期のものとなり︑そうして︑﹁前漢の宣帝期以前のいかなる文物の中にも︑
五経の二字を見出すことはできない﹂という結論が導き出されるのである︒筆者には︑このような資料操作は︑極め
ならば︑﹃史記﹄﹃漢書﹄などにおける偲統的な資料操作とは︑
成するに嘗って、『史記』や詔令•上奏文のような公文書にとどまらず、
ままに引用して﹃漢書﹄を成書したと考えられてきたのである︒ その年代もより晩期に設定されうるであろう︒福井
さらに︑先人の著作などを︑ある程度その
とりわけ︑﹃漢書﹄藝文志と儒林博については︑劉向の著作であることが指摘されている︒このふたつの資料につ
いて、池田秀三氏は「『漢書』藝文志の六藝略•諸子略・詩賦略の練叙と諸子略の小被として偲えられる文章は、劉
向自身の説であると断定してもよい﹂︑﹁劉向の手に成る可能性が大きいのは︑儒林博の劉向生前に常たる部分であろ
( 3 4 )
う﹂と説明し︑
これらが劉向の手に成ることを指摘されている︒そうであれば︑﹃漢書﹄藝文志・儒林博中の劉向以 てめずらしいものだと思えるのである︒ ある︒したがって︑それに合致しない︑
( 3 3 )
たと想定することである︒
いかなるものであったのか︒班固は︑﹃漢書﹄を編
10 0
ならば︑保に﹃漢書﹄中の﹁五経﹂の資料を︑偲統的解繹のもとに編年してみると︑どのようになるのであろうか︒
( 3 6 )
以下︑表にまとめてみた︒ そのような配慮は︑あってしかるべきであろう︒ し
ても
︑
それほど多くの麒齢を来たすものではない︒
また︑本来︑﹃史記﹄﹃漢書﹄諸博は︑
抜粋して﹃漢書﹄買誼博を成書したことが明記されており︑ を奉げれば︑﹃漢書﹄買誼博の賛文には﹁凡所著遮五十八篇︑探其切於世事者著於偉云﹂とあって︑買誼の著作から
( 3 5 )
その證檬も存在している︒また︑﹃漢書﹄買誼偉中の資
料は︑買誼の著作︑すなわち買誼﹃新書﹄から選び出されたもので︑﹃漢書﹄買誼偲と現行本買誼﹃新書﹄とを比較
偲えるものと考えられてきたのである︒ その人物の資料として︑
つまり︑﹃漢書﹄買誼傭は︑前漢文帝期における買誼の資料を
このように︑ふたつの例は︑ともに詳細な検討の末に︑
10
それなりの正嘗性を保持しうるとされてきた︒
それぞれの時代の資料として考えられてきたものである︒
福井氏が主張されるように︑﹃漢書﹄の場合︑司馬遷の手筆によらなければ班固のそれであるとする方法や︑公文書
に依握する方法などで︑年代を比定されるのは︑有力な手段のひとつではあろうが︑歴史書のなかの資料が︑どのよ
うな事責を指すのか︑どの時代のものかを判定する際には︑さらに多くの方法︑例えば︑本文批判やその資料獨自の
特殊性を考慮に入れた手法も取り入れなければならないのではなかろうか︒五鰹の用例の年代を比定される際にも︑
一 例
15 14 13 12 11 10
,
8 7 6 5 4 3 2 1 弓番にコe=, 旦 r.=? 亘 旦仁 '早==' 旦ヽ 旦ヽ 旦今 武 武 武 武 武 武 武 武
闘闘闊闊閏闊 醤 闊悶 雷 闊悶 儡 悶 齋 闊
甘 乃 又 興
' 贔
詔 仲 始 夏 初 初 孝 武 置
誓 釧
召趾
従*
太 豆文塁 醤
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舒通 通菖
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昌畠
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博斎
贔
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通 大 夏 五 士オ瞬 J‑隈.¥: 同 能ヽ 蒼 通
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通闊悶
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之及諸喜 崖
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善ヽ 亦通旦 員
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漢書
﹄﹁
五経
﹂
一覧
10
31 30 29 28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16
胃
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ふ•• 哀鷹闊闊闘悶
哀 哀 哀 成 成鷹> 鸞 闊
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5 75 72 72 36 36 98 8. 8 8. . . .
0 36 30 30 2下5 88 8. . .
0 88 巻.
李 李 飽
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儒 東 儒星
尋 醤ヽ旦 后 林 平 郊 林 平 林
偉 傭 • 偲 偲 博 思 博
ヽ
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博 思 傭 書瞑舎 王偉
孟
下 博王 偲偲
10
三
まず︑目に付くのが︑武帝期における五鰹の用例の多さで︑賓に八例を敷える︒博統的な方法と福井氏の方法が導く
結果の差に驚くばかりであるが︑賓は︑その数の多さよりも︑それぞれの資料的性質の違いに注目すべきである︒
先に見てきたように︑福井氏の説は︑資料の性質による絣別を加えるものなのである︒より正確を期して言えば︑
福井氏の説明は︑公文書とその他一般の文書に分類し︑公文書に依檬する文章は︑それが指し示す嘗該の時代の︑信 用できる資料と見なすが︑その他一般の文書は︑すべて班固の手筆によるとして︑これを疑い後漢の章帝期のものと
判断されるものである︒
では、この「五経」における八つの用例はどうであろうか。これらの出典は、『漢書』武帝紀•百官公卿表・五行
39 38 37 36 35 34 33 32 番万Eコ
畠畠
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哀帝 哀帝闊
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100 88 99 87 99 12 87 75 巻
下 • 下 下 上 . 下 • .
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王
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10
四
以下のように逃べられている︒ 志・兒寛簿•王吉偲・儒林博などであり、
したのであろうか︒即ち軍に武帝紀の五文字の記載だけならば︑
紀と百官公卿表にまたがっている﹁置五鰹博士﹂記迦を︑
ぞれ資料的性質が異なる文書から採録されたと考えられ︑
10
五 その由来も多岐にわたっていると考えられる︒平井正士氏は︑こう湛べら
班固は武帝紀に﹁置五経博士﹂と瑕託の記載をした上で︑更に又百官表にもこのような手のこんだ個託の記載を
その建元五年の條はそもそも怪しい記事なのと
( 3 7 )
相侯って俵託とすることに私も躊躇しないがこの百官表のそれを併せると懺重にならざるを得ない︒
( 3 8 )
平井氏は︑もとをただせば﹃漢書﹄武帝紀﹁置五鰹博士﹂の條を疑い始めた嘗の本人であるが︑その氏をしても武帝
ひとまずは事賓として認めざるをえないのである︒平井氏
は︑その理由を明確に記されてはいないのであるが︑右の文章の傍線部にて示したように︑武帝紀甲獨では怪しんで
おられた平井氏も︑百官公卿表の資料的来源については︑承認していたのは明らかである︒
その雙方を同時に疑うことが理性的ではないことを平井氏
は認めていたと考えられるのである︒ならば︑出捩も異なると見られる八例もの用例を疑いきることが︑果たして理
性的であるのであろうか︒この問題を解決するためには︑さらなる精緻な検證が求められると考えられよう︒この一
さらに︑福井氏の説明の限界を示す一例がある︒先の表における文3から文8までに﹁通五鰹﹂と記される夏侯始
昌・堵大・王吉・董仲舒の四名がいる︒氏の説明によれば︑この四名の﹁通五鰹﹂も班固の手筆による﹁附會﹂であ
( 3 9 )
り︑したがって︑後漢・章帝期の資料ということになるのであるが︑ここで︑班固が﹁附會﹂を施した理由として︑ 例は︑福井氏が主張される方法の限界を示すものなのである︒ れ
てい
る︒
つまり︑これらは︑
それ
は感じられるのである︒ 彼︵班固︶は自ら生を享けていた後漢の初期から前漢に遡上しながら︑史書を構想しつつあったとき︑あらためて公羊家の學者である董仲舒の存在に注目した︒⁝⁝それと同時に董仲舒派とでもいうべき一鴬や劉向のようないわば親董仲舒派の學者が輩出するようになった結果︑⁝⁝かれらの多くは董仲舒を恰好の先謳者として﹁揃ぎ
( 4 0 )
出す﹂ことになった︒
福井氏は︑これら四名が︑劉向・班固らの親董仲舒派の學者に担ぎ上げられたことを主張されるのであるが︑賓は︑
彼らの學統は全く異なるものなのである︒﹃漢書﹄儒林偲によれば︑董仲舒と猪大は公羊學︑夏侯始昌は較固生の弟
そこで︑もし瑕に︑福井氏が言われるように︑劉向・班固らが董仲舒に肩入れしていたのであれば︑このような別々
の學統の人物に﹁通五鰹﹂を﹁附會﹂するのであろうか︒必ず︑彼らは︑董仲舒とその弟子逹に封してのみ集中的に
﹁附會﹂を行ない︑公羊家の董仲舒派の獨尊を明らかにしたと考えられよう︒ところが︑右のように︑﹃漢書﹄﹁通五
経」の四名、夏侯始昌•猪大・王吉・董仲舒の學統は、賓に三家にまたがり、ばらばらなものであったのである。
このように︑福井氏の﹃漢書﹄の﹁五鰹﹂﹁附會﹂説に檬って︑﹁通五経﹂を記された人物の學統を考えた場合︑ど
うしても説明しがたい矛盾が生じるのである︒やはり︑ここでも︑福井氏の方法の限界が垣聞見えるように︑筆者に
以上︑﹃漢書﹄における﹁五経﹂の用例を貼検した結果︑福井氏の説では︑證明しきれない多くの事例が存在する
ことが理解された︒よって︑福井氏の﹁前漢の宣帝期以前のいかなる文物の中にも︑五経の二字を見出すことはでき
ない﹂という説明は︑先の﹃史記﹄に引き績き︑﹃漢書﹄においても︑多くの武帝期の﹁五経﹂の用例が再び確認さ 子で齊詩︑王吉は韓嬰の弟子で韓詩を修めたと見なされている︒
10
六
l l l
武帝期に確立した人材登用試瞼である射策に使用された﹁五経﹂︑
﹁博﹂﹁記﹂には︑家世の學ほどの深い理解を必要としない︒﹃漢書﹄藝文志六藝略線序にいう
﹁その大憫を存し︑鰹文を玩ぶのみ︒是の故に日を用うること少なくして徳を畜うこと多し︒︱︱‑+にして五経立 したがって︑その て兼習していたということ︒ I l
︱鰹
の
れたことにより︑大いに再検討の餘地があることが明らかになったと考えられよう︒
﹃漢
書﹄
﹁通
五鰹
﹂
10
七 本章は︑﹃史記﹄﹃漢書﹄における武帝期の﹁五鰹﹂の用例を箕偽の面から再検討するという本稿の主旨に︑基本的にはそわない論證であるが︑﹃漢書﹄の﹁五経﹂の用例を検證するという貼において︑一部︑本稿の主旨に重なる部分もあるので︑附
章と
して
追加
して
おく
こと
にす
る︒
前章で検證したように︑﹃漢書﹄における﹁通五鰹﹂とは︑おそらく︑何らかの歴史的事賓に依握していると考え
てよいのであろう︒ならば︑次に問題になるのは︑武帝期の八つの用例のうち賓に六例を占める﹁通五鰹﹂とは何か︑
ということである︒
I儒學に通じた人物を︑嘗時の人が﹁通五経﹂と稲し︑ その解繹としては︑以下の三例ほどが墾げられるであろう︒
( 4 1 )
それを班固が採録した︒
﹁経﹂﹁傭﹂﹁記﹂すべてに通じており︑かっ︑五鰹すべてに深い理解を有していたものを﹁通五経﹂と記
録した︒﹃漢書﹄藝文志六藝略線序にいう﹁五字の文を説くに︑二三萬言に至る︒幼童にして一藝を守り︑白首
( 4 2 )
にして後能く言う﹂までの深い内容に至る鰹典理解があり︑まさしく︑後世の家世の學を﹁五経﹂すべてにおい
附
について
その五つに通じたものを﹁通五経﹂と記した︒
そうすると︑文皿が︑もっとも有力であるのであろう︒ られているようである︒ の記録であるならば︑ あることを指摘した︒もし︑ まず︑文Iについては︑否定的にならざるをえない︒なぜなら︑﹁通五経﹂を記されている五名のうち襲舎をのぞ
く四名が︑なぜか︑武帝期に集中しているためである︒武帝期の人が︑文Iのように儒學に長じた人物を﹁通五経﹂
と稲するのであろうか︒後の文
I I と共通する理由であるので︑次を参照されたい︒
文
I I については︑否定的な證檬が揃っている︒先に︑﹁通五経﹂を記されている五名のうち四名は︑武帝期の人で
このときに︑文
I I のように︑深く儒學の鰹典すべてに通じているのであれば︑
﹁通五鰹﹂と記されたのか︑問題にされなければなるまい︒
なぜ
︑
なぜなら︑﹃漢書﹄藝文志にも明らかなように︑輩に﹁儒學の経典﹂の呼稲と言えば︑﹁五経﹂登場以降も︑相髪わ
らず︑﹁六褻﹂﹁六経﹂のほうが有力なのである︒もし︑このような儒學すべてに通じている意味としての﹁通五経﹂
( 4 3 )
一例ではあるが︑﹃史記﹄にある﹁通六藝﹂をどのように解するべきなのであろうか︒﹃史記﹄
孔子世家では︑孔子の七十二人の弟子のことを﹁通六藝﹂と記しており︑ここでは︑儒學に長じたものの意味で用い
つまり︑﹁通五鰹﹂には︑異なる意味が付典されていると考えるのが妥嘗なのであろう︒
なお︑武帝期において︑五経の名稲は︑儒學の櫂威全膿を代表するには至っておらず︑試験科目を代表するに過ぎ
( 4 4 )
ない︒試験科目である五鰹が櫂威化されるのは︑今しばらく後のこととなる︒
例えば︑夏侯始昌は︑表の文3﹁通五経︑善推五行博﹂と同じく表の文6に﹁通五鰹︑以齊詩・尚書敦授﹂と記録
されている人物であるが︑これは︑それぞれ﹁通五鰹﹂ほかに﹁五行偲を究明し﹂︑﹁齊詩・尚書を敦授した﹂のであ つ﹂と記録されているものである︒
10
八