モンテーニュの教育論の性格について
鈴 木 昭 彦
1
ミシェル・ド・モソテーニュMichel de Montaigne(1533〜92)は,その 著「エセー」(Les Essais)の中で表わした教育思想の卓越性によって,今日
もなお,フラソス教育学の一始祖としての栄誉を担っている。彼はルネッサソ ス期に於いて近代教育思想の夜明けをつげる人間中心的な教育論,「良識」を 重んじ,子どもに於ける「判断の形成」を目指す教育論を主張することで,教 育史に独自な位置を占める。確かにモソテーニュは今日的な意味での教育思想 家ではない。教育経験も有していない。「エセー」での叙述からも推測できる
ように,ただひとり長生きした娘レオノールの教育にもあまり関与していな い。これらの点では,後代のロックJohn Locke(1632〜1704),ペスタロッ チJohann Heinrich Pestalozzi(1746〜1827),あるいはフレーベルFriedr
−ich Fr6bel(1782〜1852)と異なっている。彼の影響を受けながら近代的な 教育論を打ちたてたあのルソーJean−Jacques Rousseu(1712〜78)とも違っ
ている。モソテーニュは一介の地方貴族であり,法律家,政治家として活躍し た領主であった。が,彼は先ず何よりも一個の人間であろうとし,そして事実 そうあったことで,ユマニスト,あるいはモラリストたりえたのである。何よ
りも自己自身,モソテーニュ自身であろうとし,そしてそれを事実として示し た生涯の中からこそ,「エセー」はかかれ,モソテーニュに方向を与えてきた。
60年に満たぬ変化に富んだ生涯に,彼は公私にわたる様々な人間の問題に直面
した。そこから逃避することなく彼は観察をつづけ,思索を重ねてきたQ価値
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モソテーニュの教育論の性格について
観の動揺の激しい16世紀のフランスのその現実を見すえて,モンテーニュは倦 まずに自己の生き方を求めつづけた。モンテーニー.Lは自己認識に裏打ちされた したたかな人間認識,あるいは自然認識に達しえたことで,今日にもそのひび きを伝える教育論を生みだしたといえる。彼の経験と思索,省察の歩みを明瞭 に表わして.L・るこの「エセー」は,そのi著者をして,哲学者,思想家,散文家 あるいは,モラリストとしてその名を高らしめているかのようであるQとはい え,彼の教育論は「良識ある教育」,あるいは「判断の教育」(G・コソペーレ)
と呼称されることで,時代は多少さきんずるにしろ,同じルネッサソス期に於 ける偉大なユマニストたるラブレーFrangois Ral〕elais(1494?〜1553),エ ラスムスDesiderius Erasmus(1469〜1536)らの教育論と,その教育史的価 値に於いて肩をならべるものといっても過言ではないだろう。
そこで小稿に於いては,このモソテーニュの教育論の性格について考察しよ うとするものであるが,まず彼に見られるペダソティスムP6dantisme批判か ら出発してそのもつ意味,更には学問,知識と人間の生き方を追求し,彼に於 ける教育とコマニスムhumanismeの関連を起点として検討を加えて行こう
とするものである。
II
rEンテーニュは教育に関する自己の見解を,全3巻107章からなる「エセー」
の数多くの箇所で展開している。彼が教育・学問。知識と人間のもつ多様で,
複雑な問題に触れた主な章として,私たちは以下のものをあげうるだろう。
第1巻25章「ペダソティスムについて」(Du pedantisme),それに続く26章
「子どもの教育について」(De linsituticn des enfans),第2巻8章「父親の 子どもへの愛情について」(De laffection des peres aux enfans),同巻10 章「本について」(Des livres),17章「自惚れについて」 (De la pr6sompt−
ion),更には第3巻8章「話し合いの方法について」(De l art dle conferer),
などであるQまた,女子教育に関しては,第3巻5章「ウェルギリウスの詩句
について」)Sur des vers de Uirgile)にも散見される。
これらの章以外にもモソテーニュの教育に対する考え(同時代への批判を含 みながら)は,多彩な表現形態をとって,「エセー」の随所で披歴されている
ともいえるだろう。その中でとりわけ,第3巻12章「人相について」(De la physionomie)や,「エセー」全体の結論ともいえるものを示している次の13 章「経験について」(De l experience)は,彼の人間観,自然観をよく表わし (1)
ていることで彼の教育論の理解を助けてくれる。
「エセー」はいうまでもなく,全体としてモンテーニュに於ける人間として ゐ自覚史,あるいは人間化の過程を示している。とくに上記2章を含めた3巻 17章は,モソテーニュの到達した地点を示している。それによって私たちはひ
とつのユマニスムの内実の形成過程を知りうる。というのは,「エセーt」はモ ソテーニュをして「私が本をつくったというより,本が私をつくったのだ。そ れはその…著者と同質のもの」であり,(中略)私の生活の一要素なのだ」(Class−
ique Garnier rMontaigne』・H・69頁)といわせるものだからである。あるい は,別の箇所での表現をかりれば,彼自身が「エセー」と「共に,一一緒に歩く」
(2)
(同II・223頁)人間だからである
それでは彼に於けるペダソティスム批判がどのようなものであったか,その 検討から入っていこう。モソテーニュは当時の学校教育や,教師のあり方,学
問・知識(両者はモソテーニュに於いてしぼしば同義語となる)の問題に鋭い 批判・告発を行なっている。自らの教育過程を省み,その経験をバネとしなが ら,彼は時代の教育・学問の状況に立ち向かう。それらが集中的にあらわれて いるのが前記各章のうち,第1巻25章・26章そして第2巻17章といえるだろ
う。そこに見出される同時代の教育・教師・学者や,学問・知識のあり方への
批判ないしは非難は,生徒には雑多な知識を強要し,自らは虚飾と化した学識
を誇る教師,通俗のユマニストと堕した学者,何ら人々の生を支えるもの,経
験を深化させるものとなりえない学問・知識の貧しき饒舌への批判,非難をさ
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モソテーニュの教育論の性格について
すのである。
中世末期以来,フラソスにおいても大学及び中等教育機関たるコレージュは 次第に増えつつあった。都市の興隆,商業圏の拡大,印刷術の発明,新大陸の (3)
発見などをその要因としてあげうるだろう。モソテーニュにいわせれぽ,その フランスに於ける教育は,生徒たる子どもをして「善良で賢いbon et sage」
人間にするのではなく「物知りscavan」にすることを目的として,それに成 功した(第2巻17章・II・64頁)。そのような教育は,「徳や思慮深さを求め,
それらを内に抱くことを教えずに,語の派生や語源」を生徒の心に「刻み込む」
ことに終始するものである。生徒は「徳を愛することを知らなくても,それを 語尾変化させることは知って」いる。ラテソ語中心であった当時の教育に向け
られたモンテーニュの批判はつづく。生徒たちは「事実や経験によって賢さが 何であるかを知らなくとも,専門語として,暗記して知っている」(同上)に すぎない。それはr記憶を満たそうとするだけで,判断力や良心はうつろなま
まにしておく」(第1巻25章・1・145頁)教育の必然的な産物である。教育に 於いて,「鳥たちが時折,穀粒を探しに行き,それを味わいもせずに,くちば
しにくわえてきて,そのヒナたちについばませるように」,「教師たちも本の中 の知識を漁って,それを口の端において吐き出し,風にさらすだけ」(同上)
の状況があまりに弥慢していたといえる。学校に於いては,「子どもたちを文 学に誘うかわりに,事実として彼らに恐怖と残離だけを与える」(第1巻26章
・1・178頁)傾向が結果として濃厚だった。だから,そこで長年過した子ど もたちが得てくるものは何なのかといえば,次のようなものでしかない。モン テーニュは書いている。
「15・6年を費した後で,そこ学校をさす一引用者註)から戻る彼(生徒 をさす一P一同上)を見てごらんなさい。こんなに仕事に向かないものはない。
上達したと認められるものは,家を出たときより彼を高慢にし,自惚れずよく
させたラテソ語や,ギリシャ語だけである。彼は魂を充たしてくるべきなの
に,ふくらませてしかこない。そしてそれを大きくする代りに,ふくらませた だけ」(第1巻25章・1・147頁)なのである。それだけにモソテーニュならず
とも,学問をすることで,生徒たちがより健i全な判断をもちえないならポーム 遊び(テニスの一種 引用者註)でも彼らにさせたいといいたくなるだろ
う。そうすれぽ「少なくともそれによって肉体はより元気になるだろう」(同 上)。モンテーニュはそうまで極言する。
彼ら生徒たちは雑多ともいえる知識を寄せ集めてはいる。然し,その知識は 整えられ,体系化されることがなく,彼らの身についていない。精神を規正す る働きをしえないのだ。学校生活の中で獲得したはずのものが,価値観の激し く揺れ動き,よって頼るべき支柱を見失ないがちなこの社会の中で生き抜くた めの血となり,肉となるまでに至っていない。r知識は付着」(同上・1・150 頁)しているにすぎない。モンテーニュにいわせれぽ,彼らにあっては「それ
(知識をさす 引用者註)は手から手へと移って行き,ただ他人に見せびら かしたり,他人をもてなしたり,話し合いの種にされるだけである。それは計 算や勘定に使われるだけで何ら役立たない数え札のようなもの」 (同上・1・
145頁)になってしまっている。彼らが古典文学に関する博識を誇り,ラテソ 語でレトリックを駆使しえたとしても,それはたかだか,虚栄の装飾でしかな いし,知識のための知識に他ならない。単に記憶された知識でしかない。もと より,記憶力は「立派な道具である」(第2巻17章・ll・57頁)けれども,そ れだけでは不十分なのである。知識を記億に「預ける」ことではなくて,それ を基礎とした,というより,その知識に関する自主的な判断力の1函養こそが,
良識にかなった判断力の形成こそが求められるのである。「論理の撰択・選別」
(第1巻26章・1・165頁)に注意を向けるのも,それと無縁ではない。
学問が人々の日常経験と切れて,徒らに学識をひけらかしたり,学者ぶった
りするペダンティスムと化し,知識が生きたものとならずに,単なる雑駁たる
集積,博識と変質する状況は,生徒たちのみを,かたわでひよわな人間にする
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モンテー一ニュの教育論の性格について
のではない。話は逆である。このような現象は,同時代の教師たち,学者た ち,通俗なユマニストたちの動向の必然的な産物なのである。表現をかえよ う。デ ルケームのいうごとく,「教育理論は実際教育の領域において出現し た社会的環境を動かしていた世論の潮流の表現にほかならない」(フランス教 育思想史11頁,小関藤一郎訳・普遍社・1966年)としたら,ペダンディスムの 傾向は,社会のさまざまな階層の教育意識の悪しき表現の一帰結なのである。
モンテーニュもいっている。「本当にわれわれの父たちの配慮や出費は,頭を 知識でいっぱいにすることだけを狙っていて,判断や徳については全く話しに ならない」(第1巻25章・1・144頁)と。モソテーニュはこの場合,恵まれた 家庭教育を与えてくれた自分の父親のことを意識にのぼらしてはいない。自分 が見聞する同時代の父親たちのやり方をやり玉にあげているのである。
ルネッサソスに於ける人文主義の教育は,新時代の空気を反映してその理念 として「自己自身の個性を有し,過去の生活に就いての広い理解と現在の生活 に就いての正しい認識とに基いて,日常生活に有能に参加出来るr自由人』を つくること」)長田新r教育と人文主義』rヒューマニズムと諸文化』所収・198 耳,みすず書房・1947年)を掲げていた。然し,教育内容に幾分改良の手が加
えられたとはいえ,教育方法は旧態依然たるものがあった。「精神と現実との 間に原典が介在し,原典こそがしぼしば知識および教育の直接の対象だった」
(デ=ルケーム前掲書25頁)から,博識・多識それ自体を学問,知識のあり方
とする傾向がつよかった。それが人間を解放するどころか,却って迷路に追い
やるペダソティスムを生み,ペダントと化した学者・教師,通俗化したユマニ
ストを現出させたといえるだろう。モンテーニュの筆をかりれば「より能力が
あると自慢している人々,学問の仕事や,本に関係する職務についている人々
の中に,他のどの種類の人々に於いてと同じく,判断力の空虚さ,弱さが見ら
れる」(第2巻17章・1・63頁)ということになる。他者からの要求の多さゆ
えか,学識を有するという自負からそうなるのか,はっきりしないまでも,ぺ
ダソティスクな学者,通俗化したユマニストはモソテーニュの眼にどう映じた か。モソテーニュは彼らと対比させて,「最も軽べつに値いしない性状の人々 は,その単純さによって一番下層を占める人々であるように思われる。そして その彼らの交際はより正しいものと見受けられ,農民たちの行ないや,話は,
われわれの哲学者たちよりも一般に秩序にかなっていると思う」(同上65頁)
とさえ,いわせている。ここでユマニストということぽをモソテーニュは使っ ていないが,哲学者philosophoと入れ換えて読んでも彼の意から離れること にはならないだろう。知識は彼らペダソト,通俗ユマニストの判断を保証し,
彼らを明析なものにするに至っていない。
教師たち(この場合は,家庭教師ではなく学校の教師が問題とされている)
は,子どもの判断や良心の形成を目指そうとするどころか,絶えず彼らに知識 を押し込むだけで,それを十分に消化させ,彼ら自身のものとさせようとしな い。記憶に訴えるだけの教育は,子どもの自発的な活動に侯つことをしない。
子どもの独自性,大人との質的相違に無知な教師自体が,「物知り」であって も,「有能」ではなく,いくら「学識」を有するにせよ,「賢明」ではないので ある。モンテt−一一・ニュに幾分の誇張があるにせよ,当時の教育は彼が称揚したス パルタの教育,「子どもをして事実そのものにふれさせて,他人がいうのを聞
くことによってではなく,実際の行為によって,教訓やことぽによってだけで なく,専ら実例と所業によって,彼らを生きた方法で訓練し,育成しようと
し……彼らの魂にそれが宿るだけの学問ではなく,その気質,習性となるよう に,後天的なものではなく,生来のものとなることを望んだ(第1巻25章・1
・153頁)教育からは程遠かった。
モソテーニュはラブレーと違って,知識のための知識という考え,あるいは 知識自体に価値があり,それが人間を解放するという見解には与しなかった。
彼はむしろ,知識・学問それ自体よりも,人間と知識のかかわり方,人間生活
に於ける学問の意味,役割を問題にした。「私が勉強するにしても,私はそこ
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モンテーニュの教育論の性格について
に私自身の認識を扱う学問,よく死に,よく生きることを教える学問しか求め ない」(第2巻10章・1・449頁)というモソテーニュである。その彼にとっ て,「印刷された証拠しか受け入れず,本の中の人間しか信ぜず,権威ある時 代の真理しか信じない」(第3巻13章・II・535頁)人も,また知識が「正しく 用いられるなら,人間の得たもっとも高貴で力強い」(第3巻8章・II・362頁)
ものと思われるにせよ,それを「自分の能力や価値の土台とする」(同上)人 も,批判の,あるいは憎しみの対象でしかなかった。モソテーニュは付け加え る。「現代のわが国にあっては,知識(学問)は財布の中味をかなりよくする が,魂をそうすることはまれである」(同上)と。学問は「殆んどどちらとも いえないもの」で,「生まれの良い魂」,天性のつよい魂には「大へん有益な付 属品で,そうでない魂には有害で危険なものである。いやむしろ,それは高価 な使用料を要し,安価で購うことを許さない。もつ人の手によって,それは王 の象徴たる錫となり,道化師の錫となるものである」(同上)。何故なら,知識 は「危険な剣であり,その使い方を知らない,力の弱い人の手にあっては,そ の人を傷つけ,妨げる」(第1巻25章・1・150頁)からである。理性について
も同様である。それはr両刃の,危険な剣である。ソクラテスの手にあってさ えも,理性のもっとも親密で,近しい友であった彼の手にあってさえも」(第2 巻17章・H・58頁)危険なものであった。モソテーニュはわれわれの精神につ いても,同じようにいうが,それは当然のことと推測できる。「われわれの精 神は,さまよい歩く,危険で向う見ずな道具です。それに秩序と節度を与える のは容易ではありません」(第2巻12章・1・626頁),つまり人間の精神とい
うものは「その所有者にとってさえ,秩序をもって慎重に使うことを知らない 人にとっては恐るべき剣」(同上627頁)なのである。これはモソテーニュの基
本トー・一・ンとなっている。
「知識の全体」を問題にするラブレーにとっては,古代もまた「ただ実証的
知識の倉庫」(デ=ルケーム前掲書20〜23頁)となる訳だが,モンテーニュは
上述してきたように,何よりも生きた知識,判断を確かなものにする知識を求 めた。彼にとっては知識と人間のかかわり方こそが問題になっているし,学 問,知識も日々の生活に役立つ限りでしか,価値を有さない。時によっては逆 に人々を阻害するものたなってしまう。それがモソテーニュの考えである。
従って子どもたちが「キケロはこういった。これがプラトソの教えだ。これ がアリストラレスのことばだ」(第1巻25章・1・146頁)というだけでは何の 意味もない。モソテーニュは訊ねる。それでは「われわれ自身は何というの か。何と判断するのか」(同上)と。人は「他人の意見や知識」(同上)を後生 大事にしまい込んでいて,それを自分のものだと信じている。それはただ「記 憶に預けている」だけであって,それによって「物知り」にはなれても,賢く なれる訳ではない。もとよりモソテーニュは,人間に於ける「知識に対する飽
くことを知らない渇望」を分らない訳ではない。ルネッサソスの精神的徴候た る「無限に対する欲求」「デ=ルケーム前掲書27頁)とも無縁ではなかった。
「知識欲ほど自然な欲求はない。われわれはわれわれを知識へ導きうるあらゆ る手段を試みる」というのは第3巻13章「経験について」の冒頭のことばであ る(H・516頁)。それでも,学者が何ら賢者を意味せず,知識を有し,博識を 誇る人間が実生活に於いては無能であるという現実は,彼に著しい齪齢感を抱 かしめたといえる。良識にかなった判断,良心に則った行動の欠落したペダソ ト,通俗のユマニストにおける知識・学問は,その人の魂に「付着する」こと はあっても,それと「一体となる」ことはない。「浸み込む」こともないだろ
う。本当をいえば,「知識も判断もどちらも必要だが,判断の方が大事」(第1 巻25章・1・149頁)なのだとモソテーニュはいい添えている。
モソテーニュは学問・知識の両刃の剣たる危険性を指摘して,それがわれわ れの生活を規正し,われわれの生活に秩序と方向を与える限りで,存在価値の ある,有用なものと認める。学問は「偉大な装飾」という側面があるにせよ,
正しく用いれば「大へんに役立つ道具」なのである。学問・知識がそれ自体善
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・llンテーニュの教育論の性格について
なるものであり,価値を有するものと考え,自ら知識の巨人たることを示した ラブレーとは相当離れた位置にある。
〔注〕
(1)前記「エセー」各章の執筆年代は,今日のところ以下のように推定されている。
第1巻25章については不明だが,つぎの26章に先立つものであることは知られてい る。
1578〜80年頃 第1巻26章,第2巻8章・10章・17章 1586〜88年頃 第3巻5章・8章・12章・13章 (2)引用はクラシック・ガルニエの巻2本による。
(3)梅梧悟「ヒューマニズムの教育思想」1〜23頁参照
III
モソテーニュのこのようなペダソティスムと化した学問,ペダソトとなった 学者,教師及び通俗のユマニストへの批判はどうして生まれてきたのだろう か。彼の批判視点の基礎はどこにあるのだろうか。
モソテーニュの時代のペダソティスムは,
(1)弁証法,三段論法による推論の濫用 (2)不毛な知識の蓄積と雑な博識
(コソペイレ『モンテーニュ』ビュイソン教育辞典1941年版1338頁)
として表われている。いうまでもなく,フラソス16世紀は,ルネッサソスの時代 であり,ユマニスムの時代であり,宗教内乱を惹起した宗教改革の時代であっ た。カトリック教会による真理の独占は,幾分ゆらいだとはいえ,パリ大学神 学部を中心とする勢力は依然として,強大であり,ユマニストやカルヴィニス
ト(新教徒)には,様々な弾圧,迫害が加えられていた。30年余(1562〜98)
にわたる宗教内乱は国土のみならず,人心を荒廃させ,旧秩序は激しい動揺
と,退廃にさらされていた。新しい教育,新しい学校もまた,未だ生まれるこ
とができなかった。学校にあっては,真理探究の自由は,既成の真理の分析,
論証の前に,抑圧され,沈黙を強いられていた。近代教育の原理となる事物に 即した,経験と結合した教育というより,ラテン語中心の,演繹的思考法中心 の教育が支配的であった。エラスムスに於いては,中世ラテソ語に代る古代の キケロ時代の純正ラテン語を通しての言語能力の育成が狙いとされていた。こ のような中での教育であったからこそ,モンテーニュは問うのである。「一体 誰が,その弟子に,修辞学や文法学(共に中世以来の三学の中にあげられてい た。もう一つはいうまでもなく論理学である。四科たる算術・音楽・幾何も天 文と併せて,いわゆる自由七科をなしていた一引用者註)について,キケロ のこれこれの文章についてどう思うか,訊ねたろうか」(第1巻26章・1・162
頁)。
答えが決まっていて,疑問を差しはさむ余地がないのなら,個々人の自由な 検討,判断の可能性は閉じられたままである。却ってひとつの鋳型にはめこも
うとする教育,「暴力や強制」のはびこる教育が子どもを支配する。モンテー 二=のように,暴力や強制によらない家庭教育をうけ,「厳格な服従を強いら れる」(第2巻17章・ll・45頁)ことのなかった少年にとって,・当代一流の学 者,ユマニストといわれた人々,例えばグベァ,A・de Gouv6aグラント Gu6rente,ミュレMuret,ビュカナンBuchananらのいる学校さえ,「青春を つなぎとめる牢獄」と化した「学校」でしかなかった(第1巻26章・1・178 頁)。多少の誇張があるにせよ,モソテーニュは自分のためになるものを,成 果として獲得することはなかったとさえ,いっている(同章・1・190頁)。
知識を頭に詰め込むだけで,自分のものとして消化できないのなら,長い年 月をかけて学んでも意味はない。学校教育の中でたとえ,文法学者,論理学者 をつくることはできても,有為にして,誠実なる人間「ジャンティォムGenti−
1homme」を生みだすことはないだろう(同章・1・182頁)。
このような学校教育に反して,モソテーニュが称讃と尊敬を惜しまない父の
与えた家庭教育は,どんなものであったのだろうか。イタリア戦争(1494〜
(84)
モソデe− =ユの教育論の性格について
1549年)に従軍する中で,イタリアルネッサソスの新しい息吹きにふれた彼 は,文芸愛好の精神をかきたてられ,多くのユマニストたちをモソテーニュの 城に迎えた。彼はやたらに厳しい,「強制と暴力」をもった教育でも,甘すぎ て駄目な教育でもない,自由な伸びのびとした教育をモソテーニュに与えた。
モソテー二=はいう。「父は何よりも,学問や義務を強制された意志によって ではなく,自分自身の欲求で味わわせるように,また私の魂を全き平和と自由 の中で苛酷さや,強制なしに育てるように」(同章・1・189頁)してくれた
と。モンテー一=ユは「素直で従順な性格」をもった感受性のつよい子どもであ ったが,「鈍重で,惰弱で,無気力」な面ももっていて,後年,ラァボエシー La Boetie(1530〜63)のたくましい知性,行動力にひかれる萌芽を示してい た。とはいっても,モソテーニュは「見るものははっきりと見ていた」し,
「この鈍重な性格の下で,大胆な思想を育くみ,年に似合わぬ考えを育ててい た」(同上)。彼「ミシェルは自己の前に置かれた諸々の権威に心から服従しな がらも,自己の周囲に関して個性的な判断を構成することをやめなかった」(
ヤソゼソr現代人モンテーニュ』佐藤輝夫訳・28頁,東京堂出版・1946年)か ら,他者,外なる事物との距離を保つことができた。後年,宗教内乱における 新旧両派のファナテックな言動に批判を向けるのも,この辺からその認識方法
の芽生えがあったといえる。家庭教育や,学校教育の中で姿を現わした彼の性
向は,方法として自己を離れる態度を生むことになったのだろう。モソテーニ
ュが何よりも「自由」を擁護せんとし,あらゆる専制,支配,独断を憎み,そ
れらを避けようとしたことは「エセー」での度々の叙述からうかがえる所だ
が,あらゆる権威が動揺し,旧教会の秩序は全国的に混乱し,ただ自己を生の
支えとせざるを得ない時代の苛酷ともいえる状況によって多分に増幅されてい
くとはいえ,その淵源はこのあたりにあると考えられる。彼が「自分を離れて
まるで隣人のように,一本の木のように」自分自身を「識別したり,考えたり
することが出来ない程,自分を愛することも,自分に愛着を覚えてもいない」
(第3巻8章・II・379〜380頁)といい,「私は自分の物差しで他人を判断す るという共通のあやまりを全くもっていない。(中略)私はできるだけ他人を
自分の性状や,主義から解放して,他との関係なく,彼を彼自身として,彼自 身の規範から考察する」(第1巻37章・1・259頁)というのは,彼が自らを判 断の主人公としつつ,つねに事実から,様々な人間の事実から出発し,相対立 する事実,理念があるにせよ,共にひとつの真理を見出さんとする彼の意志を 表わすものである。互いの差異,対立を越えて。
モソテーニュは自分の受けた家庭教育を当時の学校教育に対する解毒剤とし て作用させ,自分の経験をふまえて,ペダソティスム批判に進んでいった。学 問の体系性,論理性,陶冶性よりも,実際知としての学問,人間生活の指針と
しての学問を重視するモソテーニュは,当時の通俗と化したユマニスムの現実 をえぐり出している。それを以下に見ていこう。
モソテーニュがラテソ語に早くから親しみ(彼はラテソ語会話の直接教授を うけた),フラソス語以上にそれが彼にとって母語的位置にあったことはよく 知られている。彼にとってラテソ文学,歴史書,哲学書は容易に自家薬寵中の
ものとしえるほどのものであった。16世紀初期のフラソスのユマニストにとっ て古典文学に傾倒し,研鐙を重ねることは,とりも直さず旧教会の秩序,スコ ラ哲学の拘束から離れるための人間の原型を探る条件であった。彼らユマニス
トは,古代ギリシャ,ローマの人々の中に,人間の理想を見出し,その人々の 作品に親しみ,その解明に努めることで,自ら教養してきた。その過程を通し
て自らを解放し,人間としての固有の生活,内的な自覚を目指し,自立的な思 索と行動を願ったのであった。これはユマニストに特有の事柄ではなく,時代 に於けるルネッサソス精神の表現として展開された動きであった。少なくと
も,古代文芸研究は教養と直結し,古代文学,学芸の研究者は,ユマニストと 呼ぽれていた。
然しながら,これらユマニストの精神運動は,中世的秩序,教育の残澤を一
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モソテーニュの教育論の性格について
掃するに至らなかった。人間の生活,日常の経験と十分に切り結ぶことがなか った。言語主義や,知識万能主義が顕在化し,一個の人間としての現実での生 活へそれが喰い込むことなく終始するにつれて,ペダソティスムが生まれ,ペ
ダントと化した教師,ユマニストが学校教育を支配するようになった。
それに対して,モソテーニュは自分の教育過程から,極端を避けるその認識 方法(知的平衡をうるヤンーゼソ前掲書66頁)から,更には自らの教養内実の動 揺から,批判を執ようともいえる程に展開した。モソテーニュがよくいわれる
ように,小カトーやセネカの作品に親しむことで,ストイシスムに傾斜してい くのには,ひとつにはボルドー高等法院にて識り合い,深い影響をうけたラ・
ボエシーの存在がある。またそれは,時代の学問の性格傾向とも無縁ではなか ったろう。ストイシスムは,勇気,廉潔,克己を掲げることで,モソテーニュ の青年時代にうけ入れられ,彼の内実を支える思想ともなった。彼が古典を生 きたという意味でのユマニストとしての一面がここに見られる。モソテーニュ は,意志の緊張によって,精神の不断の抵抗によって徳に達しようとした。第 1巻20章「哲学することは死ぬことを学ぶことである」というのがその一証左 となるであろう。
そのストイシスム,あるいはストイカルなユマニスム(フレーム『モソテー ニュ伝』)の傾向を彼が克服しうるのは,それが自己の自然性,肉体の健康さを 無視することに気付いたからだけではない。ストイシスムは思弁によって,推 理によって,単に知識の対象として人間を,自然を捉えようとすることで,人
間的事実,モソテー・一一一ニュの生きているという事実をねじまげてしまう傾向をも
つ。行為を支える学問とはなりえずに,人をしてゆれうごく現実の生活の中で
無力感に陥れる結果ともなりかねない。知識の集積としての学問ではなく,生
きた知識としての学問,生きているというこの事実を支え,方向づける学問を
求めることでしかその学問の存在理由は見当らないのである。モンテーニュが
何よりも実際的判断をもった,社会の中で単に有用ではなく,有為な存在とし
ての人間を求めるに至ったのも,時代風潮としてのペダソティスムへのアソチ ラーゼとしてだけではなく,自己の信奉する教えへの疑問もあったといえるだ ろう。現実の,むき出しの現実の中で生きざるを得なかった彼は,目前の事柄 に対して自らの判断,行動を決定させるのは,単なる知識の宝庫と化し去った 古典ではなかった。彼は先例や社会の習慣に従って行動すると述べてはいるけ れども,自分の良心,良識を社会の枠にしいてはめこむことはなかった。王様 にひざを屈することはあっても,良心をそうすることはないのである。自らの 道徳的判断のよすがたる良心の自由を確保しつつ,一人の人間として,おのれ の人生を享受していこうとする彼の意志が,ひとつひとつの判断・行動を支え ていたのである。人間が普遍のものとしてもつ良識・理性(そうモソテーニュ は信じた)に従って行動することこそモソテーニュの求めるものである。正に 彼は「キリスト教徒として行動し,世俗人として思考する」(ソーニェr16世 紀フラソス文学史・121頁・荒木昭太郎他訳・白水社・1958年)のである。
時代の厳しさが彼を自己の,人間の現実に引き戻すように,時代のさまざま な発見も人間的事実とその差異に眼を向けさせる。社会風俗の相違,人情のち がい,文化の多様さは人間の多様さとなってモソテーニュの認識水平を拡大さ せる。多くの引用に満ちた初期の「エセー」は彼をして,多分に「異国の匂い」
がするといわせたべダソティスクな面をもっている。あるいは,リブレスク Iivresqueな色彩を帯びているといってもいい。然し,上述したような日常の 現実,人間的事実例えばペストに対する農民の死生観は,彼に新しい道を用意
した。ペダソティスムと堕したユマニストたちの学問を越えて,生きた人間た る自己の生活現実を回避することなく,自己の状況の中で人間の証したる良心 を貫くべく,ひとつひとつの事柄を確かめ,確かめ,ひとりの人間としてのモ ソテーtニュを生きる道である。読書することは,自分をひけらかすためではな
く,賢く生きるためであり,楽しむためなのである。哲学は死ぬための学問で
はなく,生きるための,人生を享受するための学問でなければならない。敢え
(88)
モンテーニュの教育論の性格について
て図式化していえぽ自らを判断の主人公として,人間的事柄から眼をそらすこ となく,人間のさまざまな事実傾向を合理的に捉えることで,視野を広げ,相 対立するものの中にあって,つねに平衡感覚,極端からの復原力としての良識 理性といってもいいをもつことで,彼は時代と対峙しえ,ひとりの真摯なユマ
ニストたりえたのだろう。知識自体を信奉し,人間の無限性によりかかる通俗 のユマニスト,学識はあっても,生活に於いて無能なペダンティスクなユマニ ストとしてではなく,時代に於ける人間の現実(価値観の動揺,党派間のあつ れき,精神の不定さなど)を凝視しつづけた,真に人間的事柄にその生涯をか けたユマニストとして。「自らの視線を人間的なものに限定」し,「自らのうち に人間経験の総和を凝集させ」ながら,「人間的なすべてに視野を拡大する」
(P.モローrモソテー二=』73頁。1972年)ことで,モンテーニュは古典に多 くものを負いながらも,時代のゆがんだユマニスムをのりこえる,新たな内実 をつくり出したQ世俗主義と呼ばれるライシスムLaicismρへの道はここに開 かれたといって過言にはならないだろう。知識のための知識ではなく,人間の 生き方とかかわる,生きた知識を要求することで,言語中心ではなく,人間の 事実,事物からの出発を唱え,感覚を重視する教育を主張することで,更には 独断と化すドグマの横行や,唯一一とされる価値観の専制とに対して,人間の多 様性,良識の普遍性を対置させることで,人間の内なる自然を肯定し,肉体と 精神の相関性を重視する,人間中心の人間観を提示することで,モソテーニュ は個人の成立を促し,社会を実体あるものとする努力をつづけ,ライシスムを 準備していく。
IV
それではペダソト,通俗のユマニストによって支配されていた時代の教育に 対して,モソテーニュはどのような教育を対置させるのだろうか。彼は教育に 何を求めるのだろうか。第1巻26章の検討から入っていきたい。
近親者の未来の子どものために,書簡体でかかれたこの章に於いて,モソテ
一ニュは前置きする。子どもの教育,しつけは「人間の学問のうちでも,最も 困難で重要な問題である」(同章・1・158頁)。人間の生来の傾向,素質や,
社会の習慣(その根強さ,第2の天性たることをモソテーニュはしぼしぼ書い ている)や,既存の思想,法律ゆえに,教育は人々にとって難しいものとなっ ているo
それでは,良家の子弟にとって教育の目的とは何だろうか。学芸を修める意 味はどこにあるのだろうか。それは単なる飾りのためでも,外的な利益のため でもない。金儲けのためでも勿論ないのである。「自己自身のため,自己を豊 かにし,内面を飾るため」(同章・1・160頁)なのである。今迄見て来たこと からも想像されるように,「物知り」をつくるためではなく,「有為な人間」を つくるために,教育はなされねばならない。
そのためにどのような教師が望まれるのか。モソテーニュはいう。「よく詰 った頭」よりも,「よくできた,しまった頭」(同章・1・160頁)の教師をえ らばはぽならぬ。さもないと,ふつうの家庭教師の如く,彼は我々に知識を流 しこみ,「ひとりで何かを考え出したり,しゃべったり」してぼかり居るだろ う。本当は,教師は自分の預った生徒を「最初からその能力に応じて試し,彼 に事物を感じさせ,えらばせるなり,見分けさせたり」することができなくて はならないのだ。時には「生徒に自分の前を走らせて,その歩調」を見る必要 があるし,自分を生徒のレベルに合わすべく,「どの程度まで自分の調子,力 を落さねぽ」と知る教師が望ましい。教育の方法についてことばをつげば,子 どもに文学的知識を教え込んだり,文法を詰め込んだりして,オウム返しにい わせるのではなく,彼ら自身が自分で吟味し,咀囎し,自分で判断を下しうる
ように教師は意を用いなければならない。つまり,教師は自らを権威として一 方的に生徒に意見,知識,思想を押しつけるのではなく,飽くまでも,子ども たちがその能力や段階に応じて事柄を判断でき,それに対する自らの考えをつ
くりあげられるように,「様々な判断」を生徒たちの前に出さねばならないの
(90)
モソテーニュの教育論の性格について
である。然もその場合,その事柄の記憶が理解の証拠ではない。子どもの経験,
「生活」が問われるのである。大事なことは子どもの自発性にのっとり,彼ら の性状,能力に見合った教育を教師が行なうことであり,子どもの中に自主的 な判断力をつくることなのである。即ち教育は「判断と品性」を子どもの中に 形成するものであり,「彼の教育,彼の勉強,彼の学習もただこの判断を作る のが目的なので」(同章・1・162頁)ある。それだけに教師の撰択が重要にな
ってくる。
このような教育によってこそ「クセノフォソやプラトソの考えを自分自身の 判断でもつのなら,それはもはや彼らのものではなく,自分自身のもの」(同 章・1・162頁)といえるようになってくる。つまり,ある事が真理なら,そ れはプラトンがいうからそうなのではなく,どこに於いても,誰の手にあって
も,そうなのである。モソテー二:Lは「真理と理性」は共有物であると信ずる ことができた。既成の権威とか,観念をそのまま受け入れるのではなく,万人 に共通たる理性,あるいは良識によって自己の判断を指し示すことが,モソテ
ーニュの教師と生徒に課せられた条件なのである。
生徒自らが自己の判断をためす機会となる他者との交際,旅行,談話など が,モソテーニュの教育においては,重要な手段,場となってくる。他人との 交流の中で,様々な考え,感情,判断に触れることは,その生徒にとって自分 の判断を磨く良い機会となるからで,ここにはモソテー二、、自身の旅の経験(
例えぽ彼のイタリア旅行)の影響が感じられる。この交際にあっては,子ども
は,「寡黙と謙そん」を知らねばならぬ。自分の知識をひけらかしたり,誇示
したりすることは,良家の子弟にとって相応しいことではないからである。こ
の交際は,何も現在生きている人間とのそれに限るものではない。歴史を通し
て,子どもたちは多くの人々との交際が可能なのである。とはいっても,よく
あるように,歴史的事実を丸暗記せよというのではない。「暗記する事は知る
事」ではない。その歴史的事実のもつ意味を探り,その中に於ける人々の生き
方に目を向けることこそ,子どもたちのなすことであり,歴史学習の意義もそ こにかかっている。このような歴史の中での交際や,現在の世間での交際は,
人々の認識水平を拡大し,判断を磨く好機なのである。
自分の周囲の人々との話し合いが,自分の 「精神を鍛える」(第3巻8章・
ll・356頁)には有効な方法だと言うのもこのことと関わるものである。その 際,「真理を明らかにすること」を各人の「共通の目的」(同章・II・358頁)
としなけれぽならないのは,論を侯たない。先にあげた旅行にあってはわれわ れは「他人の脳味噌」と「自分のとを」こすり合わせることで判断を豊かにし うるし,自分自身を,自分たちの習慣,風俗のみを,ひとつの尺度とする態度 を訂正するようになるだろう(モソテーニュは第1巻31章『食人種について』
の中で,文明と自然,野蛮を論じながらこの点を扱っている。)正に「旅は最 良の学校のひとつ」(第1巻17章・1・72)頁なのである。
このように,教育の行なわれる場は,家庭と限られたものでは決してない。
いかなる機会,いかなる場所も,更には自らの時代を越えて歴史の中に於いて も,子どもにとって学習のために利用すべき機会である。「世界市民」(J.シ ャトー)たるモソテーニュはいう。「世界」が子どもにとっては「学校」なの だ,と。子どもに於ける実際知,実際的判断を重んずるモソテーニュならでは
のことぽであろうか。モソテーニーtは書く。「この大きな世界は,自己を正し く知るために見なければならない鏡です。要するに,それが私の生徒の教科書 であるよう,望みます。これ程数多の気質,学習,判断,意見,法律,習慣が 我々に自己のそれを正しく判断することを教え,我々の判断にその不完全さと 生来の弱さを教えるのです」(同章・1・169頁)。
ここには,社会生活の経験を重視するモソテーニュの教育観が如実に現われ ている。あらゆる事柄に知性を光らせて,知識の獲得を目ざすラブレe−一一一の「科 (1
学的教育」とは対照的な「実際的教育」(コソペイレ前掲書1340頁) の考えが
ここに語られている。
(92)
モソテーニュの教育論の性格について
モンテーニュは身体教育についても明確に自分の意見を述べている。 「精神 を鍛えるのでもなく,肉体を鍛えるのでもなく,人間を鍛える」(同章・1・
178頁)ことが教育である。従って,肉体の鍛練のための運動遊戯を課すに しても,一緒に精神を伴なわないものであってはならない。精神と肉体を引離 して考えるのは,人間の事実に反した,錯覚にすぎない。モソテーニュはプラ トソ以来の教育思想のひとつをここに於いて確認じているといえる。精神は肉 体と相たずさえて教育されねぽならない。一個の人間に於いて「純粋に肉体的
なもの,また純粋に精神的なものはない」(第3巻5章・ll・323頁)のは,健 康な常識の認めるところである。これひとつとって見ても,中世の神学的人間 観との著しい対比が読みとれるだろう。
「ジャンティオム」の形成を日指すモソテーニュの教育は,親の元での家庭 教育の中で,あるいは,年令や,発達段階・能力・性状のさまざまに異なる学 校教育に於いてはうまく達成されえない。前老にあっては親子の情愛ゆえに,
優しすぎる危険性があり,後者にあっては,厳しすぎて,子どもたちを阻害し てしまうからである。更に教育内容に関していえば,先にふれたように歴史が モンテー二Fによって重視されている。人間の様々な姿,生き方を学ぽしめる からである。謡語をひとつの道具と捉えるモンテーニュは,中世以来,僧侶の
ことぽであり,知識階級のそれであり,法律においても,教育においても重視 されていたラテン語に代って,身近な母国語から学ぶことを奨める。彼はい
う。「私は自分の国の言葉,より日常かかわりのある言葉をまずよく知りたい と思います。確かにギリシャ語,ラテン語は美しい偉大な道具ですが,人はそ れを余りに高価で購いすぎます」(第1巻26章・1・187頁)と。また,論理 学,物理学,修辞学などを教える前に,生徒たる子どもに「より賢く,より良
くすることに役立つもの」から,教師は教えなければならない。 自己の品性
や,判断を正すものとしては,やはり,自然の学問よりも,歴史や古典がモン
テー二;には歓迎されるのである。だから「弁証法のような,こんな難しい,
面倒な議論はすべて捨てなさい。それでもって我々の生活がよくなることはな い」(1・175頁)ということになる。それより自己の品性を正し,判断を確か なものにする「哲学の単純な理論」こそが望ましい。実際知を重視するモソテ ーニュは更に学問や哲学について次のようにいうことで,それらを人間の生活
(2)
の中に位置づける。
「学問」は「人生の生き方」,「使い方」を教えるものであり,書物に依存し すぎる知識は,死んだ知識であり,実際に人を導くことがないだけに憐むべき
である。彼はいう。「思想は,有益で快適なら,十分に真実で健全なのだ」(第3 巻9章「空しさについて」II・338頁)と。「重たい学問」は,強い性格の人で
なければ,時として押しつぶされてしまうほどのものである。ペダソトは自ら の学問の故に陣吟し,知識の故に傷をうける。学問は「入れる器がわるければ 無益で有害なものになる」(第3巻8章・II・367頁)からだ。従ってとくに女 子に限っていえば,彼女たちは,修辞学や論理学ではなく,詩や「実生活」に 役立つ限りでの哲学,歴史を学ぶだけで十分なのである。知識は両刃の剣であ り,特に女性にとってはそうである。だから,女性にとっては家事の知識が優
先する。
哲学は人を憂うつにしたり不愉快にしたりするものではない。日々の生活,
実践の中で生きたものとして働くことこそ,哲学の意味であるとモソテe−一一 ニュ は考える。そのような「哲学を宿す精神」ならその「健全さによって,肉体を
も健康」(第1巻26章・1・173頁)で,生々したものにしうるだろう。哲学は
「生まれたばかりの子どもにも,老人にも」同じように教えを与えるものだと いうのがモソテーニュの考えである。
このように,モソテーニュにとって学問,あるいは知識,哲学は,社会生活
で有為で,有能に生きていくための術を与え,手だてを与えうる事に,その価
値を有するのである。人は,自己について,自然について,世界についての知
識,事実に基く知識を出発点とし,人間理性にかなう良識を発揮していくこと
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モソテーニュの教育論の性格について
で賢く自分の生を享受できるのである。
モソテーニュは,自己の教育過程や,何よりも「自由」を願う考えから,教 育の営みの中で,暴力や,ムチによる強制をつよく非難している。「厳格と強 制」には,彼は屈辱を感じざるをえなかったし,理性や思慮によってできない
ものを暴力が代りになしえない(第2巻8章・1・426頁)という考えからで ある。「優しい厳しさ」をもって行なわれるべきだと考えられているモンテー ニュの教育の中には,彼自身,子どもを一個の独立した人格と認めるところが 少なかったとはいえ,子どもの自発性,活動性に学習の基礎をおき,学習への ノ
動機づけを重んじたことで,今日の教育思想につながっているといえる。暴力 や強制を否定して,子どもの自主的な判断力の1函養を目指す彼の教育は,ラテ
ソ語の習得よりも,母国語の学習を,言語よりも事物を重んじ,子どもの感覚 に訴えようとすることで,その時代の教育状況を凌駕する。モソテーニュ教育 論の近代性の一端はここに見られる。
モソテーニュの教育論が「判断の教育」と呼ぼれる所以は,以上でもって明 らかにされたと思う。彼は子ども自身の判断の自由を確保することで,理性の 自己支配を願ったのである。行動と切れることのない判断の確かさ,それが良 識の謂であるが,それこそが人間のありようを決定し,社会における自己の位 置を認識せしめるだろう。各自が自らを主体として,あの宗教内乱のもたらす 価値観の動揺,社会の混乱の中で,実践的に生きていく上では,自己を頼るも のとして,自己を一個の人間として,他とは代替できない人格と経験を有する 個人と生きていくことが,有用にして有為なる人間であるための判断と行動と (3)
を必要としたといえる。その個人が社会を定義するのであるし,人間の視野を 人間的事実に限ろうとするライシテLalciteの精神も社会を定i義する個々人の 存在及びその自立なしには考えられないのである。
女子教育に対する見解の狭さや,学問理解の一面性(学問のもつ陶冶性に関
する狭さなど)があるにせよ,モソテーニュの教育論はペダソティスム批判を
強く含んで,アソチテーゼとして,人間の学としての学問,あるいは,人間の 生き方に関わる教育を求めることで,後代への道を開いた。そして,近代の教 育思想の礎石をひとつ積み上げたのである。この節を終えるにあたって,判断 とはどういうものなのか,理性の働きたる判断の役割は何なのか,それをモソ テー二=のことばで見て行きたい。モソテーニュはいう。「判断はあらゆる主 題に向けられる道具であり,どこにでも掛かわり合う。そのためここでその試 験をするため,あらゆる種類の機会をつかう。たとえ,それが私に少しも分ら ぬ主題であっても,それに自分の判断を試してみる」(第1巻50章・1・334 頁)。われわれがある事柄に決定的な断定を下すことが大事なのではない。方 法としての懐疑精神を駆使しながら,一歩一歩,真理に近づく判断の道を歩む ことが大切なのである。自らの下す判断の限界を認識しながらなおも,前へ行 こうとする,それが人間の生活にとって重要なのである。判断の材料が増えれ ぽ,確かな判断が必ずえられる訳ではない。しかし,立止る精神は,なかば死 んだものであり,自己が他者に対して,自己に対して,事実に従って物を見,
判断することがなければ,精神は歩みをやめる。他者に依存する精神は,非個 性的であるが故に,非人間的である。人間世界に自れの視野を限定し,おのれ のふみ止まることを知る判断は健康である。それこそ人間のあり方に相応しい
ものといえる。
〔注〕
(1) コンペーレは同時にモンテーニュの教育論が「明確な理論と明らかな結論」に欠 けていることや,女子教育への理解の偏狭さをもつことを指摘しているが,正鵠を 得たものといえよう(コソペーレ前掲書1339〜40頁参照)
(2)モソテーニュが力点をおいたのは,学問・知識の無効性,無用性の宣告ではなく,
そのもつ危険性,両刃の剣たる性格の指摘だったと思われる。対立,相違を極端に まで押しすすめて論をはこぶ彼のやり方は誤解されやすい。次のデュルケームのこ とばも,厳格すぎるように思われる。
モソテーニュの教育論に於いて「文芸研究が書くことを学ぶことにしか役立た
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