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『子どもにおける性格の を読む

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(1)

ワロン

諸起源』

『子どもにおける性格の を読む

一研究ノートー(2)

忠 芳

      略  記

 L enfant turbulent,1925,(QUADRIGE/PUF)==ET  『多動児』=略記なし

 Les origines du caractさre chez I enfant,1934,(PUF)=OCE

 『子どもにおける性格の諸起渡』=『性格』(r児童の性格における起源』久保田正人 訳,明治図書,1965年♪

 L 6volution psychologique de I enfant,1941,(ARMAN D COLIN)=EPE

 『子どもの精神的発達ヨ=r精神発達』(r子どもの精神的発達』竹内良知訳,人文書 院,1982年)

 De Pacte b la per}s( e、1942,(FRAMMARION)=・AP

 『活動から思考へ』一『認識過程、ll(『認識過程の心理学』滝沢武久訳,大月書店,1962年)

第4章  「情緒生活の心理一生理的前提条件」

   について(その2)

運動機能の協応と大脳皮質の統制

 ワロンは運動機能の協応は頸部反射や迷超反射に典型的に見られるように,

脳の低次の部位の機能として現われるとしても,それが大脳皮質支配のもとに おかれてくることについて述べている。例えば,赤ん坊の空間支配の能力の発 達である。迷路反射が比較的純粋に現われることが少なくなる生後四ヵ月の時 期は,迷路反射が大脳支配下に入ってくる時期と重なっていると,ワロンは言 う。このようなメカニズムは,運動機能の協応が感覚や知能の機能と結びあう

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という事実,ワロンのことばをかりていえば, 「ある時期の知覚とその時期の 運動とが正確に対応(correSpondance)」していることを示している(OCE, p.34

r性格』28ページ)。この「対応」も一種の協応(c・ordination)を意味すると考え られるが,これは協応が大脳皮質の支配下に入ってくることを示す一つの事実 だとワロンは言うのであろう。

 運動できるということが,一一種の自動運動から,目的的な活動への変化を表 しているとするなら,それは,このような高次の協応ができるということであ ろう。ワロンはシュテルンの記述を挙げて,空間利用や空間知覚が運動に密接 に結びついていることを述べている。

 例えば,赤ん坊が口と唇の協応しかできないうちは,幼児の空間支配は純粋 に口唇の部分に止まっている。しかし,手と腕の協応動作ができ,手の運動と 口の運動が協応できるようになると,それはいわゆるフロイトの「口唇段階」

を形成する。ワロンはフロイトのように,そのことになんら性愛的な意味を与

える必要はないと述べている(ibid, P 40, r性格』40ページ)。このことについて

はあらためて検討が必要であるが,いずれにしても,赤ん坊には,かなり長い 期間何でも口へもっていく時期が続く。これは明らかに口唇と手腕の運動機能 の協応,さらにはそこでの感覚機能の協応が成立してくることを示している。

ワロンは手と腕が「協応すること」(c・・rd・nner)が,「手近かな空間」(respace

pr・che)の成立を意味し,その際,胴体と肩の安全と協応とを必i要としている

と述べている (ibid, p.29,同上,34ページ)。そしてこのような協応の発達 は,空間と空間知覚の広がりを示している。この空間は,子どもが這い,歩く ようになれば一層発展し,それまで握ったり,突っ張ったりする活動にした がっていた「手近な空間の断片」(lambeaux d espace proche)をつなげ,見当 づけ,総ての対象の共存が可能になる「単一の空間」を造っていく。これが単 一の空間感覚の成立である。そして,この成立をワロンは生後四ヵ月以後だと するのである。これが生後四ヵ月以後だというのは,ワロンによれば,それ以 前は運動を支配するのが自動運動であったのにたいして,それ以後は,大脳皮 質の作用と感覚の発達とが運動と結びついてくることができるようになるから である。このように空間感覚とは,赤ん坊が先天的な自動運動を脱して,運動

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と感覚が協応してくることを意味するが,それが子どもの性格形成の原点につ ながってくるのはどういうことなのだろうか。

 運動機能の協応は,脳のミエリン化を基礎としている点において,明らかに 生理的法則性をもつ。そして,その速度は赤ん坊の行動にたいする周囲のかか わり方の程度によって違っている。 『精神の発達』のなかでワロンが述べてい るように,それは最後にはもっとも高次の諸中枢一大脳皮質の諸中枢による運 動系列のコントロールによって一つの経路を形づくる。このコントロールは,

すでに述べたように,自動的な反応から大脳皮質の統制による一種の意志的行 動への渡り行きを示している。『性格』ではワロンは,この渡り行きについて 全面的に展開しているわけではない。この点をかなりの程度展開しているのは,

『子どもの精神発達』の運動行為を論じた部分である。ちなみに 『性格』と

『精神発達』の発表の九年間に,ワロンは運動問題について次のような論文を 書いている。

 D6velopPement moteur et mental chez I enfant, Actes du Congres

 Intern. de pycho. Paris,1937, 1−16, re6d. in Pour L Ere Nouvelle,

 1938, 187, 133−141.

 Les troubles des fonctions motrices chez I enfant, Ann.,Enfance,1938,

 111,3−13。

 L activite sensori−motrice,8.28.1−8,28,5. in Encyclopedie Francais  t.田.publie sous le direction de Henri Wallon;La vie mental, Paris,

 Sooio, de Gestion de L Enfance. Fr., Larousse depositaire,1938

 これらの著作の一つひとつについて吟味し,それらが『精神発達』の運動行 為の記述にどのように発展したかを明らかにすることは,それ自身ひとつの研 究課題であろう。そのことは今後の課題にすることとして,とりあえず結論的 に言えば,ワロンは『精神発達』の運動の記述において,運動がもっとも自動 的に行なわれ,衝動に支配されている協応動作の段階から,動機づけられた動 作の段階へと発展することを論じている。すなわち,それらが感覚的効果から

発する動作によって複雑化してくること(EPE・p・140。 r精神発達』170ペーvジ),

そしていわゆる循環反応によって再現可能なものとなること (ibid,同上),さ

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らに,動作が感覚と適応し,動作を感覚にあわせて正確にできるようになるこ と(ibid, P.171ページ),こうして自己受容性感覚と外部感覚とのあいだに関係 の系がつくりあげられること(ibid,同上),などを指摘している。この道程は 感覚と動作との相互作用および感覚一運動的素材の形成であるが(ibid,同上).

ワロンは『性格』においてこれらの形成を「情動行動」の視点から意味付け,

それを性格形成に結びつけようとする重要な視点を提出したのである。

 こうして,運動機能の協応はワロンにあって,次のような方向性をもって展 開されつつあったことを『性格』の記述から見ることができよう。

 すなわち,もっとも初期の情動生活の心理一生理的前提条件として,ワロン は一連の機能一運動機能,睡眠機能,栄養機能,排尿機能などの協応をとりだ し,それらを内部感覚,自己受容性感覚,外部感覚などの諸協応と結びつけて 展開していく。つまり,これらの協応を情動を発生させる一連の感覚とむすび つけて展開することは,明らかに運動機能を情動行動の視点から考察する方向 性をもっていることを示している。そのことはまた,情動が性格の形成に関係 する限りにおいて,運動機能の協応が性格的に形成されていくことをも暗示し

ている。

 したがって,r精神発達』における運動機能の性格的把握はこのような方向 の延長上にあったとみるのが適切であろう。

 すなわち,『精神発達』においては,自動運動から意思的な作用への運動機 能の協応への関係は次のようなすじみちをたどって展開される。

 ワロンによれば,運動機能の全体的な協応を可能にするのは,筋肉を動かす 部分的な諸要素の単なる結合ではない。それは,興奮すれば細かな部分によっ て筋肉装置を全ての範囲にわたって収縮させることのできる大脳皮質の諸中枢

である(EPE, p.135. r精神発達』,164ペー・ジ)。 もっとも,こうした大脳皮質の

諸中枢が働く前にワロンが考えているのは,態度や動作の多少とも広範囲な諸

々の全体を秩序づける諸中枢の働きである(ibid,同上)。これはワロンによれ ば,多かれ少なかれ先天的な自動性をもつものであるが,この働きから大脳皮 質の中枢への働きかけへの渡り行きは,自動性がいわば学習性へと転回される 事実を示している。ワロンはこのことを,筋肉装置のはっきりと投影されてい

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る皮質の「運動的大脳回」(circonvoluti・n motrice)と述べているが(ibid,同上),

「大脳回」というのは運動の調整が大脳皮質を介して行なわれるということで あろう。それは運動の各部分を分析し,分析したうえでつなげる運動の分析一 総合の機能が生まれることを意味している。運動機能の協応はここで新しい段 階を迎える。そして運動の分析は,ワロンによれば「油断のない学習」を必要

とする(ibid,同上)。この分析は 「二次的な或る程度不自然な操作」である。

先に迷路反射のところで挙げた,脳の機能の切除による自動運動の復活は「運 動的大脳回」と皮質諸中枢の機能との間の切断による自動運動の純粋な復活に ほかならない。そういう時,ワロンが言うように,子どもは「自分ではもはや 制限することも処理することこともできない筋肉収縮の本当の塊の前に立つ。」

(ibid, 同上)

 ここでワロンが「筋肉収縮の本当の塊」といっているのは,象徴的な表現で ある。これは実際,赤ん坊が運動機能の協応が意思的にできない場合の状態,

または少なくともその途上にある場合の状態をよく示している。赤ん坊が物を つかもうとして手を空中にまわすこと,それを口にもっていこうとしてうまく 入れることができないこと,手と足とをうまく協応させることができないで,

一点を軸にぐるぐるとまわり,少しも体を前に進ませることができないことな ど,ゼロ歳児の運動機能の発達と学習の前にある,この「筋肉収縮の塊」なる ものは,運動機能の協応の発達の問題だけではなく,筋肉の収縮にかかわる情 動の発達の問題と結びついている。

 後にワロンがいうように, 「情動はあらゆる表出的な装置をもっている。」

(AP, p.134, r認識過程』155ページ)この装置は情動の伝播をもたらすが,この 伝播力は多かれ少なかれ自動性をもっている。 「この力は,その外見上の特性 が,運動自動性と同時に,植物的自動性の全体と一体となっていることにもと ついている。で,こういう自動性こそ,各種の情動を成立させているのである。」

(ibid,同上)大脳皮質の中枢による運動機能の協応は,次第に認識的な側面を もつが,それでもこのような自動性の全体と一体化している限りでは情動と結 びついている。ワロンが『性格』において,内部感覚,自己受容性感覚,外部 感覚を問題にしているのは,情動の発生と結びついて各種の協応をとらえよう

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としていることの証左であろう。

 さて,先の『精神発達』での運動機能の協応の展開をもう少し後づけておく と,子どもが運動動作の全体をコントロールするためには,或る運動が他の運 動と共動して働くこと一「都合のよい運動がそれに属していて,しばしばその 運動を鈍くし,不正確にし,麻痺させる運動群」一ワロンのいうシンシネジー synsinesie(共動運動)と闘わなけれぼならない(EPE, P.135, r精神発達』竹内 訳,165ページ)。この「共動運動」こそ,多かれ少なかれ自然的な自動運動の残 澤だと考えられるが,これを解消するためには「練習」を続けなければならな

い。だが,ワロンによれば練習は機能的習熟の後で行なわれるのであって,そ れ以前に行なわれるのではない(ibid,同上)。ワロンは子どもは身体の上部刺 激と手足の追接部分において練習を始めるといっているが(ibid, P.136,同上),

下部と末端では練習はもっと後に始まることをシャリー夫人にしたがって述べ

ている(ibid,同上)。

 ここで重要なのは,赤ん坊が運動を行なうあらゆる瞬間に,運動そのものと それに対応する態度との正確な配分が行なわれ,それによる運動の限定が行な われるという事実である(同上)。その際,態度には二種類のものが存在する。一

つは運動している四肢の移動にともなう「強直性収縮」(Ia contraction tonique)

に属するものであり,これがないと運動の連続と抵抗は行なわれない。運動が 連続しうるのは,運動がとる姿勢にしたがって緊張が,四肢に伝わっていくか らであり,たとえ運動が一時中断しても,このような緊張が存在しているから こそ,赤ん坊はつぎの運動に移ることができる (ibid,同上,165−166ページ)。

もう一つの態度は,ワロンによればそれぞれの運動の際に運動しない身体の諸 部分に生じる強直性収縮に属するものである。赤ん坊は一般に運動している身 体の部分だけに筋肉収縮を引き起こすのであって,そうでない部分はそれを引

き起こさない。だから,赤ん坊は一つひとつの動作に引きずられている(ibid,

同上,166−6ページ)。赤ん坊の身体のなかで動かしている部分はそれなりに動 いているが,動いていない部分もまた一種の緊張がなければ運動自体が一つの 連続した動きとして形成されない。ワロンは,赤ん坊が自分でじっとしている ことができないので,倒れないために人の支えを必要とする例について述べて

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いる(同上)。これは一見無能力のように見える赤ん坊の身体のコントロールの なさである・そこでは赤ん坊の身体のなかで動いていない部分が見逃され勝ち だが,ワロンにょれば赤ん坊が自分で或る身体部分を動かし,その他の部分を不 動に保っていることはきわめて複雑な行動である(同上)。例えば身体を移動さ せるために重心を移動させなければならない。これも一種の身体機能の意識的 協応であるが,それが平衡を保つということであり,そこには,一っの抵抗がな ければならない(同上)。この「抵抗」は動いていない体の部分が補償的に収縮し ていなければ起こらない。つまり,脊柱を支える筋肉が脊柱に沿って収縮して いなければならない(同上)。「平衡」を可能にするのはこのような「抵抗」である。

 ワロンは,身体移動がスムーズにおこるためには,強直性の補償と動作の連 続的継起との間に厳格な同時作用が必要であると述べているが(同上167ページ),

この同時作用もまた一一ncの高度な運動機能の協応であろう。赤ん坊が歩き始め る時にいわゆる「よちよち歩き」をするのはその足どりが前に出した身体の重 さに引きずられて,後に残る身体の補償的収縮がまだできていない証拠である。

ワロンは赤ん坊が「自分の重心を追いかける」という面白い表現でこの状態を 表している(同上)。赤ん坊はものにつかまることによってこの収縮のアンバラ

ンスを防こうとする。これもまた一種の感覚と運動の協応による平衡の維持で あろう。いずれにしても,このような協応動作をとおして赤ん坊は次第に運動 と姿勢的な反応とを一致させていくのである(同上)。

 以上,r精神発達』における運動機能の協応と姿勢との関係について記述し たが,ワロンは『性格』において,このような展開の基調となる部分を第2部

「自己の身体を欝識個別化すること」のなかで述べている。 『性格』の記述の 順序からすれば,そこでは運動機能の協応をやや複雑な展開過程にまで発展さ せて記述することになるのであるが,この部分でもさきにシネルジーの例とし て挙げた頸部反射と璋路反射の問題をワロンはくりかえしているから,協応の 問題としては両者の部分は関連がないわけではない。

 ワロンのr性格』における各種の機能の対立とその止揚の記述は実に複雑で あり,彼はその道すじ各所で連関させて展開しているので,はじめに出てきた 記述がまた後にくりかえして別の文脈であらわれることがしばしばである。運

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動機能の協応についてもそうで,r性格』では運動そのもののまとまった記述 は行なわれていないが,運動と姿勢的反応の一致の問題については,第2部の 第1章「身体意識の心理一生理的条件」にかなり詳細な記述がある。

 結論的に言えば,ワロンは『性格』では姿勢的反応と運動の一致を可能にす るものを「自己受容性感覚」の問題として位置付けている(OPE, pp.191−193,

r性格』,久保田訳,167−169ページ)。「自己受容性感覚」は「ある機能体系に関係

している感覚」であるが,その「機能体系」とは「発達のもっとも初期の状態 から現在の活動能力にいたるまでの運動的活動の発達にともなって成立してき た機能体系」であって「運動中のあるいは静止中の有機体の,体節部分間の関 連,活動時の力動的統一,外力に対抗する静的な統一に呼応する機能体系」で ある(ibid, p.191,同上,168ページ)。そしてワロンはこの機能体系の発展にか

んして次のように述べている。

 「この機構はこのように次第に,その実現と条件とにおいて,もっとも可変 性のないものから,もっとも多様化した,もっとも可変的なものにまでつみか さなってできてきたのであり,最後のものがそれ以前のものの作用を留保させ

る能力をもつにいたったものである。」(ibid, pp,191−192,同上)

       オ−Lノミ   ワロンはすでにふれたように,頸部反射のように生まれる時すでに自律性を 失ってそれだけきりはなして活動できない運動機構のあることを明らかにして いる(ibid, p.192,同上)。いずれにしても,彼は後天的に一定の運動機構がそ の時々のメカニズムにしたがってつくられることを示唆している。そして,す べての運動機構は運動と姿勢のその時々の協同体制を成り立たせていると述べ ている(ibid,同上)。これは「身体の一部によってひきおこされた移動とそれ が出会う諸抵抗とが体の他の部分に一般的な平衡をできるだけ保って運動を継 続できるような態度と運動をひきおこす」(ibid,同上)からである。ワロンは

この点についてすでに『多動児』の第2部,第1章(LT, P II, chap.,1 )の

「生理運動的及び精神的アシネルジーの症候」(Syndrome d asynergie motrice et mentale)で扱っており,モナコフの言う 「運動の二重の条件」について語

っている。 「運動の二重の条件」とは「空間における統一と一貫」「時間にお ける正しい部分と連続」であるが,ワロンは「この二重の条件」は筋肉活動を

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とおして心的活動の「姿勢」(tenue)とかかわると述べている(ibid,同上)。

 このワnンの見解は,運動機能の協応が空間と時間についての心的活動自身 の姿勢に結びついていることを示唆したものであり,筋肉活動における態度が やがて心的活動における態度をつくることについての彼の根本的な思想を表現 したものであろう。そのことはすでに述べてきたように,運動機能の鵬応にか かわる形成が赤ん坊の個性につながる際の展望について我々の予想をふくらま せてくれる。すなわち,運動機能の協応のなかに,筋肉運動にたいする赤ん坊 の態度の個性がすでに含まれており,そこに,ひいては心的活動の態度の個性 の発展が隠されているということへのワロンの着目である。

 ワロンは自己受容性感覚の分析をとおしてこの問題に迫ろうとしたのであり,

その着目はワロンの発達心理学の基礎にとって本質的な部分をなしている。

第5章  『多動児』におけるアシネルジー一の問題

運動機能のアシネルジー

 そこで,当面する滑生格』の分析から少しさかのぼるが,以下, 9t多動児』

において,運動機能のアシネルジーをどのようにワロンが考察し,正常児の態 度の研究への示唆を得ようとしているかを明らかにしてみたい。

 アシネノレジーとは,一一一般にバビンスキ…が小脳の機能不全の性質に付した障 審である(ET, p.194)。それは様々な機能の表出にメスを入れ,それを識別す

るために役だつものであった(ibid)。

 ところで,本来協応すべき機能が協応しなかったり,平行して現われる事実 をワruンはどのように立証しようとしたのであろうか。

 ワロンはアシネルジーの典型的な例として,歩行の「不均衡」(d6s6quilibre)

をとりヒげている,たとえは, 胴体がふらふらし両足が平衡維持の基盤を拡 大するためにひらかたる.(ilT・id.〉酔っ払いの歩行である。酔っ払いやゼロ歳児 の歩行に見られるように,もしも両方の出足が支点を持てないところんでしま

うが,そのように,胴体が継続的な衝動感覚のなかに溶け込みながら,平衡維

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持の基盤を乗り越えてしまうことが起るのである(ibid)。

 ワロンによれば赤ん坊はこのようなアシネルジーのたあに自由に動くことが 困難となる。赤ん坊における歩行の練習はしたがって,小脳の機能の発達と結 びついている。「赤ん坊はあらゆる瞬間に,胴体によってうまく計算された均 衡をとおして,自分の両足の移動の平衡をとらねばならない」(ibid, p.195)。

この場合,シネルジーはとりわけ胴体と四肢との協応として現われる。

 歩行の不協応は任意の感覚のなかに現われるというよりも,前進する感覚の なかに表出される(ibid)。ところが,これに反して病人はむしろ後に向かうと いう感じがある。病人の場合は,胴体と四肢が互いにまといついてくるような 状態になる(ibid)。両者が互いに連動していることしか分からないので,同じ 方向決定,或る方向での筋肉の固定化が起ってしまう。「方向決定」が不変不 動となってしまうのである(ibid)。そこでは「不安定」(unconsistance)という よりも,自制のなさ,強直性の頑固さが問題となる(ibid)。これは協応動作の 欠如による運動動作の固着であり,それは,アシネルジーが筋肉拘縮の背後に かくされている状態である(ibid)。ワロンは,このような状態が小脳と中脳の 機能不全によるものだと述べているが,アシネルジーがやがて筋肉拘縮の背後 にかくされて,最初見せていた不協応のちぐはぐが,やがて堅い姿勢の固着に 取って代られると言っていることは極めて興味深い。つまり,シネルジーとい

うのはある固定の動作,またはこれを可能にする機能の連関なのではなくて,

或る意味で不安定性を,したがって,それだけに自由を含みこんだ機能の連関 体制なのである。

 ワロンは,歩行についての考察を,他の例によって一層精緻にしている。例 えぼ,腕の運動である。「腕の能動的・受動的ゆれが,肩や上半身に連動する ような場合には,運動はしっかりした支点でかかわらずに不正確に行なわれし まう。運動はむしろその「拡散」(extension)の「力強さ」(vigueur)を失って

しまう。というのは,体のその他の部分に不安定な支えしかないと,いくら運

動に努めても効果を失ってしまうからである。」(ibid, p.196)

 例えば,腕を上げる場合,肩や上半身が固定していないと,上げた腕が動く だけでなく,支点が弱いために腕を上げるカが発揮されない。ワロンが「力強

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さ」を失ってしまうと言っているのは,この支点のぐらつきによるものであろ う。そこで,この状態は,腕と肩,上半身のアシネルジーを示すものとなる。

こうして,「活力」(Ia force vive)や「運動的活動性」(activit6 cinetique)は動か

ない体の諸部分との相関的な「固定」(fixation)を要求するのであり,それは筋 緊張に支えられ,その緊張の配分は小脳によって調整されている(ibid)。

 このように見てくると,トーヌスの発達は運動機能の協応と深く結びついて いて,これが可能にならない限り,体の様々な部分の支点は生まれないから,

運動の協応,したがって,体の自由も生まれないのである。その際,トーヌス の発達は筋肉を緊張させたり,弛緩させたりする場合の自在性と結びついてい る。これは体の様々な部分の支点を中心として,体の安定性と不安定性との対 立を一層複雑にする基盤を作り出す。したがって,支点を変えて体を安定した 状態から不安定な状態へ移行させること,例えば,体の支点を自由に移動させ る器械体操の熟練は,空間支配における或るイメージにさえつながるといって よいのである。そこでは一定の空間知覚と身体の自己受容性感覚とはその時々 の体の動きによって結びついている。この場合,体のシネルジーが精神的な協 応関係へどのように発展するか,さらに,そこに性格形成がどのようにかかわ ってくるかが大きな問題となろう。その点については同じ『多動児』の「アシ ネルジークな精神」の記述のところ (ibid, p.212 f)で述べることとして,い ま少し運動機能の協応についてワロンの説明を聞こう。

 ワロンによれば,運動的・筋緊張的な共働(collaboration)は移動する関節に まで必要である。この共働が行なわれないと,「運動測定障害」(dysmetrie)が 起る。この障害は,例えば鼻のあたまに指をうまく置くことができないような 時にあらわれる。つまり,距離をとったり,障害物をさけたりすることができ

ないのである(ibid, p.196)。

 これはバビンスキーが,主導筋と拮抗筋との間のシネルジーの欠如によって 起るのだとしたものである(ibid)。その結果,デユションとド・ブーローニュ が示しているように,運動に必要な筋肉の収縮につれて,反対の筋肉の収縮を 引き出してしまうのである。つまり,筋肉を収縮して或る方向へ位置を取ろう としても,収縮すべき筋肉にたいして弛緩すべき筋肉がそうならないで,逆の

(12)

位置をとろうとする筋肉が収縮してしまう事態が起きるのである(ibid)。

 このような拮抗的な筋肉の収縮は,ワロンによれば,小脳によって調節され ている。これは動作の平衡をとらせる機能をもっているが,そのことによって,

動作の「段階的な継続,限定や展開,目的に比例した正確な収縮などを確かな ものにする」のである(ibid)。こうして拮抗筋の収縮の衰えが起ると,例えば,

前腕を曲げようとする場合,一一・・一定の抵抗ができずに腕は肩の後にカー杯振られ

てしまう(ibid)。

       ディアドコ7ネジ−

 ここでワロンは,いわゆる「交互運動機能」(diadococinesie)について述べて        t

いる。これは「反対機能における筋肉のシネルジーの不十分さをとりわけ明る みにだしてくれるもの」であるが,これがおこるのは,シネルジーがこの二つ

のグループの筋肉の各々に反対の役割を演じるからである(ibid, p.197)。

 ワロンはその証拠をバビンスキーが挙げているマリオネットの動作に見いだ している。マリオネットの動作のなかには 「回内」(pronation)と 「回外」

(supination)とがある。前者は前腕を差し出して手のひらを下に向けるように 前腕をねじる運動であり,後者は,反対に前腕を差し出して手のひらを上に向

けるように前腕をねじる運動である。マリオネットはこの「回内」から「回外」

へとすばやく動作を変化させる運動であるが,この変化は筋肉システムの道程 に完全な同時性を要求する(ibid)。これは,まさに拮抗する運動である。

 ワロンは筋肉のシネルジーが一つの態度を形づくることについて述べている が,このような態度の「協同」(correlation)がなくなると,平衡が乱される。

その一例は「頭と胴体の前転」(renversement progressif)である(ibid, p.198)。

 ワロンは次のように言う。

 「ふつう前転は,ひざの補正的な固定をともなっている。バビンスキーは 小脳症の患者たちにおいては,そのような固定が欠如するか,または,突然,

そして際限なくおこってしまうかするといい,後転する場合でも,ひざが固定 してしまうおそれがある場合さえあるということを示した。」(ibid)

 これは,私のみるところ,頭と胴とひざの運動機能のシネルジーが小脳によ ってコントロールされていることを示す例である。ワロンは体の位置をとる場 合,あらゆる能動的・受動的ヴァリエーションによって調整されるシネルジー

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がじょじょに,そして適切に働くといい,それは,シネルジーの「反射的つな がり」(enchainement reflexe)とまとまりが出来上がることであると述べている

(ibid)。これはシネルジーが連続することであるが,それは,同時に運動と停 止が厳密に配分できることである(ibid)。いうならば,空間に投影された図形 のようにトーヌスを厳密にコントロールできるようになること,動作が安定化 すること,動作の固定軸が安定化することである(ibid)。こうして,シネルジ ーの広がりのヴァリエーションが生まれてくる。そして,その広がりが器官の 末端に及び,全体的なものになる(ibid)。

 ところで,ワロンはシネルジーについて,このように具体的な例をあげて考 察しながら,その障害が,運動の不協応だけでなく,精神の不協応を引き起こ すことへと論を展開していく。この記述の仕方のなかに,ワロンのアシネルジー

に関する見解の本質があり,「生理的運動性」(motilitのと 「精神性」(mentalit6)

の相関におけるワロン独自の展開が見られるように思われる。そして,そのこ ととかかわって性格形成の鍵を見いだすことができるように思われるのである。

 そこで,問題を少し先に進ませるきらいがないでもないが,この両者の関連 についてのワロンの見解に触れておこう。

 先ずワロンはこれらのことをIa motilit6 asynergiqueと Ia mentalit6 asynersiqueに分けて論じる。

         ワノt  ノ ク       モ チ イ タ テ

 前者すなわち,「協応欠如的な生理運動性」について。先ずワロンは平衡の 潜在的な位置のまわりに身体が様々にゆれることに,「安定性」(stabilit6)の 欠如が現われると言う(ibid)。ここで潜在的な位置というのは,そうした欠如 がなければ身体がその位置を中心にして平衡をとる可能性があるのに,ある場 合には身体がそのあるべき位置のまわりを揺れ動くということである。

 この不安定性は,例えばニスタグムス(nystagmus「眼球振.・)とtl乎ばれるところ

の眼球の絶えまない,または,弛緩した揺れ動きに現われる。これは眼球の固 定や移動がもっとも厳密さを要求される器官,すなわち,両眼のアシネルジー である。ニスダグムスは末梢的・中枢的条件をもっている。しかし,異常な興奮

とか刺激に障害が引き起こされれば,迷路に依存した形でも起る(ibid, pp・ユ98

−19 9)。そのもう一つの極は精神病理学や実験が証明しているように,小脳であ

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る(ibid, p.1gg)。

 ワmンはこのように述べながら,眼球運動におけるシネルジーについて次の ように説明する。

  「各瞬間に眼を多様な位置の一つに保っておく  それは両眼で見ることを 要求するのだが一ために必要なトーヌスの量は,あらゆる瞬間において眼球 の相互の回転の中枢にたいする小脳の働きによって測られる。小脳が平衡の器

官としてそこに介入するということは,小脳がもっとも分化した末梢知覚の器 官である迷路の刺激に応答することを示している。」(ibid)

 つまり,ワロンは眼球運動のシネルジーは,なによりも知覚によってコント ロールされているように見るが,その根底には眼球を両方で合わせるトーヌス を支配している小脳の作用が連動しているというのである(ibid)。

 同じ事が,ワロンによれば口蓋振盗症や,或る種の子どもに見られる頭と胴 体の揺れにたいしてもあてはまる(ibid)。そして,ワロンはこのような振盈症 の特徴をつぎのように特徴づけている。

 「形の単純なアナロジーは存在しない。首および脊椎の筋肉の緊張的な均衡 は,同じように小脳に依存している。しかし,同化はもっと厳密に行なわれる。

頭と眼の諸運動は異なるシステムにしたがって活動する。そして,胴体自体,

「直立姿勢」(stati・n)のためのあらゆる器官は,迷路の興奮がそれを示してい るように,そこで作り出されるヴァリエーショに無関係のままでいることはで きない。そして,この迷路の興奮から,眼が様々にゆれること,頭が曲がるこ とだけでなく,横に倒れることをひきおこすトーヌスの停止が結果として起き る。こうして,様々な部位における振盈症は粗野な感じを与える。」(ibid)

 ここでワロンが「粗野」(fruste)といっているのは,振盈症が様々な部位に 起る時,連動して一つのスムーズな流れをつくるのではなく,その流れがごつ

ごつしていて,互いに関係なくおこるように見えるということであろう。振嶺 症は末梢的・中枢的条件をもっていて,末梢的には,眼や胴体などの知覚に関 係しており,その動きは様々に現われるのに,そこには小脳における機能不全 が関係しているので,そのことから,いずれも振盤症には違いないのに,その 現われはかならずしも互いに連動しているようには見えないということを,ワ

(15)

ロンはこのことばで表したかったのだろうと思われる。

 ワロンはこうして「振盈症は,それを引き起こす諸条件を必要とする。それ はその異なった諸形態にとって同じ条件である」と言っている(ibid)。

 ワロンは,これに続いて特別なケースについて論じている。それは,知覚す る場合でも,知的に把握する場合でも,他者の存在を維持する努力をする場合 でも,それらに応える固定の状態が起るケースである。これは一般的にいうと,

なにかに注意をはらったり,力を注いだりするケースであるが,そういう場合 について,ワロンは次のように言う。そういう場合には,頭や肉体の上位部位 における緊張の,強度で,ぎぐしゃくした感覚として,0.ゼルッが記述して いるような,姿勢緊張のヴァリエーションの波がつくりだされる。ゼルツは,

そのような状態が感覚器官にとりわけ局地化されていくこと,それがあまりに もしばしぼだと,隣接した部位へと,とくに,首の筋肉へとひろがるまでにし

ばしばあふれていくと考えている」(ibid, p.200)。

 これは,いわゆる認識的緊張が,一定の部位,とりわけ,かたこり,首こり などに集中して現われるということであり,私たちが,日常しばしば経験して いることである。振盈症は筋肉と運動機能の協応が不完全であることを示して いて,それが様々な機能のシネルジーの不完全さをあらわしている現象だとす れば,極度の注意集中による,かたこりや首こりというのは,このシネルジー が逆に強力におこなわれると,その刺激が過度に筋緊張をひきおこしてしまう

ことを表す現象であろう。

 いずれにしても,アシネルジーやシネルジーの超強化の原因には,知覚と小 脳の機能の相関関係が含まれていて,これらの協応に不全や超強化の状態がか かわっていることを知ることができる。

 しかし,ワロンによればこうした姿勢緊張の波の真の中枢は,オフタルモセ ファロシール器官,または,姿勢の平衡の不断の拡大をともなっている(ibid)。

 ところで,teこでワロンは知覚過敏の状態をもった人間について論じている。

こうした人間の場合には,姿勢緊張の波が,うなじや視線を集中させることや,

両眼を動かすことに現われる不快感と結びつく。それは,しばしば強迫的であ るが,同時にそれは,背中の痛み,腰仙移行推の部分の痛みを引き起こす。それ

(16)

は神経衰弱の症候であり,そこでは平衡と方向性の筋肉システムにおいて感じ られている不調が,精神的には感情が動揺していることに現われる。それはま た,自分を呼び覚まし,自制し,意志へといたることなく,精神をとりかこみ,

分割しているイメージや記憶や観念の間で無力だという感情でもある(ibid)。

 このような場合は二つとも,同じ器官に関係していて,その器官の機能不全 が,ある時は姿勢の機能低下に,ある時は意識に現われることを示している

(ibid)。こうした場合,態度の不完全さは,他の諸効果によって際立たせられ る。その諸効果は,形も起源も心理的類似性も異なるが,それは,単純な動揺

(ゆれ)ではなくて,細かな舞踏病的な揺れとして現われる(ibid)。それは,

痙攣性の様相を呈しており,情動にとくに関係している(ibid, p.201)。ワロン のいうように,それは支えに身を委ねるのではなく,外的な目的なしの揺れで あり,それが呼び覚ます一連の感覚にもはやしばられない揺れである(ibid)。

 これにたいして,ワロンは白痴における小脳の機能不全について述べている。

 「白痴における機能不全は,感覚一運動的な変化によるよりもむしろ,運動 的負担にたいする乱れによって現われるものであり,しかもそうした機能不全 は,動作のしなやかな,おどるような,アクロバット的な軽やかさのない,緊

張低下のケースへはいかない。」(ibid)

 こうした機能不全は,運動における「気分転換」(derivatif)をもつので,

休息と運動を同時にかき乱す舞踏病とは違って,運動時よりも休息時により識 別される(ibid, p.201−2)。つまり,白痴における機能不全は代償行為をとる から,運動しているときは,あまり分からないとワロンは言うのである。アシ

ネルジーがこの場合には,その病状をそのまま純粋に表さないで,多くの他の 要素を付け加えるのである。

 ところで,ワロンは表情にも,筋緊張の,または身振りの不安定性の同じ姿 が現われるという(ibid, p.202)。普通表情はそれを形成している運動の諸力 に分割されていて,それらの諸力は唇の括約筋から,視覚の括約筋へとさまよ

っているように見える。それは,閉鎖筋と開閉筋の間の収縮の交替である。こ の揺れは額一眉の部分に集中と拡散の波を及ぼす。口のまわりに泣きと微笑の 現われが生じるのはこのためである(ibid)。

(17)

 ところが,ワロンは,意図的な運動がこの不安定を増大させたり,広げたり するという。例えば,他者がいたり,合図があったり,質問をされたりすると,

様々な表情の変化が見られる。そして時には,共動運動的な拘縮が単純なアシ ネルジーより優位に立つことがあるという。そして,それが他の兆候によって 小脳と中脳の接合点における,より広範な症候や橋の外傷に関係するという事

実が確認されることもある(ibid)。

 いずれにしても,ワロンによれば,一連の努力は筋緊張を配分し,維持し,

配合することができないことがあるということを証拠立てている。

 例えば,デュプレが行なった実験である。彼は,にぎりこぶしをつくらせて,

筋肉の共動運動作用を確かめようとしたのであるが,それがうまくいかず,拘 縮が起って運動が中断するのは筋肉の運動に同時性が欠如しているからである

(ibid, p.203−3)という。この同時性の欠如こそ,アシネルジーの証拠である。

この場合には,異なる関節の支点が崩れるのである(ibid, P.203)。

 岡じょうに,指の単純な反射に代わって,手首,腕,肩などにおける不確実 な彷裡が確iりした位置を手さぐるように現われることがある。これらは,力量 計による試験によって,潜伏的な舞踏病として扱われているものであるが,

これは,運動しようとすると,肩が押し上げられ,腕が軽く外転し,前腕の回 内などをともなう,四肢の全体的な伸張が習慣的に引き起こされることである

(ibid)。

 ワロンはこのことを「強いて押すことにおける,局所的な筋緊張の突然の欠 如に際して,他の地点に筋緊張の断続的な圧力がつけ加わる」ので,「そこか ら,不規則で,不安定な共動運動が起り」,それが,「小脳の機能不全の新たな

しるし」だというのである(ibid)。

 ワロンはこのように不規則で不安定な共動運動が起るのも,小脳の機能不全 によるものだとしているが,これは,筋緊張の局所的な共動運動が全体として のアシネルジーの結果起りうることを示しているものであろう。

 ワUンは,同じ例を次のように笑いにおいても示している。

  洞じように,強く押すことが笑いに関係してくる。筋緊張が神経の集中力 に打ち勝つと,とめともない笑いの流れは,筋緊張を除去する。笑いの流れが

(18)

生じやすければやすい程,それだけ,その効果も全体的であり,それは,姿勢 をとる器官をすべて作動させ,或る反対行動にたいして,より極端に対立,琴

抗することになる。」(ibid)

 ワロンは,こうした例の典型として,むちゃくちゃに殴りあっている二人の 子どもが,お互いに足を放そうとしない事実を挙げている。これは,子どもが 手を殴りあっている時は,足もまたからませて身体全体が,そうした運動を抑 制することができなくなっていることを示している(ibid)。.〈れも,不規則で 不安定な共動運動の例であろう。ワロンは同じような効果が簡単な心理的影響

から生まれることができることを述べている。例えば,他者の存在によって或 る心理的緊張が起るというように,筋緊張が起るというのである。もっとも,

こうしたときに起る笑いは,極端な精神錯乱の若干の場合を表す支離滅裂な笑

いの爆発とは混同されない(ibid, p.204)。

 つまり,ワロンによれば,或る鋭い緊張におかれた状態は,突然の笑し、のよ うな筋緊張の全面的解除の状態にとって代わられることがあること,したがっ て,シンシネジーの拮抗性における対立と抵抗とが,全くなくなるようなこと

も起ること,そして,その際極端な精神錯乱による笑いは例外的なものだとワ ロンは考えたのであろうと思われる。

 「笑いの出現は,トーヌスの調節器官,すなわち,小脳がより弱いだけ,そ れだけ容易になる。しかし,強いて笑わされてしまうということ(rire de 1 effort)が,しばしば,小脳の機能不全の症候だとするならば,トーヌスがそ

の弱い能力を越えるほど十分につくりだされねばならない。それは,筋緊張低

下の不断の状態とは両立しないものである。」(ibid, p.204)

 結局,ワロンによれば,アシネルジーというものは「拘縮」(contracture)に よって複雑化され得るというのである(ibid)。例えば,歯をきりきり言わせる

ことは,ほとんど小脳症の人にとって日常的であり,白痴の場合もそうなので ある。口を閉じておくために,何時も筋緊張をしていなければならないという ことは,末梢部の興奮が行なわれること,したがって,小脳によってコントロ ールされた中心部の興奮があることを示している。そして,この反射弓におけ る機能の混乱と断続とは,顎の痙攣または,歯のひっかきによって表現されね

(19)

ばならないのである(ibid)。

 続いてワロンはもう一つ別の症候を示している。それは拘縮の様々な表出を 示す子どもたちと小脳症患者たちの例である。これは,しゃがれた,咽のつま       ヒペルトニ−った,かすれた声であり,ジストニーによっても,同様に喉頭筋緊張過度によ

っても同様に説明され得るものである(ibid)。

 ワロンはこのように,次々と筋緊張のアンバランス,そのアシネルジーの症 候に関して子どもと障害をもった大人とを比較しながら,人間の行動のバラン スとコントロールを支配する奥深い法則性を明らかにしていく。

 ここで,一つの感想を述べれば,ワロンがこれでもかこれでもかと出してく る事例を見ていると,彼がr多動児』でその異常を問題にした意味が少しずつ 分かってくる。それは,人間の行動を支配する平衡と不平衡とのダイナミズム の変化のなかに,人間形成のもっとも起源的な様相が隠されているということ であり,シネルジーとアシネルジーのダイナミズムは,人間が大脳皮質によっ てコントロールされる以前の,とりわけ小脳によってコントロールされている メカニズムを明らかにしてくれるということである。そして,これこそ人間研 究の素材として・ワロンが異常児とりわけ,行動や姿勢がきわめて不安定な子

どもの生態を臨床的に選んだ理由であり,ワロンがこの研究から数年の後に,

正常な人間の性格の起源の研究へと渡っていった秘密の一端をそこから知るこ とができるのではないだろうか。

 それはともかくとして,もう少しワロンの『多動児』の観察にかける執念の ようなものを,事例をとおしてとらえていこう。

 ワロンが挙げていた例はしゃがれ声の種類であったが,もっとも,耳ではし ばしばその区別が聴き分けられる。それがジストニーによるものか,喉頭ヒペ ルトニーによるものかは耳で聴いていて違いがあるというのである(ibid)。

 ワロンはしわがれ声をだす多くの人びとは,アシネルジーと拘縮との徴候を 結合しようとすると言う。 「この場合には,どうやら混合した症候が,つまり,

機能損傷(une lesi。n)または機能発育不全(une asenes重e)が問題になるが,

それは小脳一中脳の〔機能の〕諸連関と関係している」というのである(ibid,

P,205)。

(20)

 ワロンによれば,小脳に原因をもつ「突発的な痙攣」(spasm・dicite)の諸結 果は若千の疾患において,「神経板の硬化症」(la sc16rose en plaques)での他 の疾患の間でしばしばあらわれ,しかも普通は脳錐体の諸徴候とまじりあって いる。そして,それらの性質は,それでもはっきりと決まってくるものである。

つまり, 「突発的な断続」 「筋緊張の自制不可能性と執拗性」 「痙攣の発作の 不解消性,また発作の引き続く局面への配分不可能性」などである(ibid)。

 ワロンは,その他の諸連関では,とりわけ前頭一小脳のシナップス(筋肉神経 通路)が傷つけられるという。そして,そこからカタトニー(catatonie緊張病)

が起りうるとのべている。カタトニーは,たしかに結合された症候の結果から 起り,小脳の系列に属するものと見られている(ibid)。

 ここでワロンは重要な点について述べている。すなわち,以上のような状態 があるにしても,そうした態度が継続しているのは,筋緊張の調節の「統合性」

(integrit6)が存在することを証明するというのである(ibid)。

 っまり,或る症候が結びついて或る連関を示すということは,疾患ではある がそれは筋緊張に関して或る統一的な調節の機能が存在していることの証左と もなるという点である。このことは,或る障害をばらばらの機能から局部的に 見ないで,とりわけシネルジーの欠如から見るというワロンの視点を明らかに するものであろう。ワロンはこのようにシネルジーの異常から逆にシネルジー の統合性,すなわち,その完全性を証明しようとしているものと思われる。

 「しかし」とワロンは言う。 「この統合性は変化に近付けないものとして孤 立している。そして,モラヴェシークによると,問題になるのはエルゴシツイス ergoschizis,つまり,それ自身において全く正確なその局面毎に自己を解体す

るような行為がもつ傾向である。それは,運動機能に比べての姿勢機能の解放

(6mancipation)であるが,しかし,それがその全体として現われ,その諸要素 としては現われないということなのである。」(ibid)

 ここで,ワロンが述べていることは難しいが,一口で言えばつぎのようなこ とであろう。小脳の機能不全によるいくつかの症候は筋緊張が全体として,い つも運動にそくして個々の移行を行なうことができずに,極度の収縮や痙攣を 起こしたり,或る場合にはカタトニーをひき起こしたりすることであるが,そ

(21)

れは,全体として筋緊張の調節が,運動機能よりも姿勢機能を自由にすること にかたよっていて,そこでのシネルジーが,運動を自由にするような,移動す る「統合性」ではなくて,いわば,かたい姿勢の全体性を保持してしまう例で あると言えるであろう。この言い方は,ややワロンの見解を通俗的に解説した きらいがあるが,自己を解体する傾向が,運動機能よりも姿勢機能の「解放」

として起こり,しかもそれが全体としてあらわれるとワロンが述べている意味 は,こうした状態をさすものと思われる。そしてこのことは,異常児における 機能連関が正常児における機能連関といちじるしく相違する点を内的な構造に おいてとらえる視点であるということができるであろう。

 ワロンはその場合,従属したシステムがその順序を支配してしまうのではな いかと述べているが(ibid),この言い方でも,ワロンは姿勢機能が運動機能の 動きを支配してしまっていて,或る姿勢が動くと普通は運動的に進行するのに,

或る姿勢機能に従属するシステムがそれを支配してしまい,運動の方へ機能を 移動させずに,一定の堅い姿勢をとるように働いてしまうのだとしているよう

に思われる。

 ここでワロンは,サックスとハルトマンの所論を取り上げて,若干の著者に とってはこの「はずれ」(decrochment)は必然的にその起源をもっているよう に見える,と述べている。 「はずれ」と名付けられるものは,やはり運動がス ムーズにいかないであたかも鍵から外されたようにその進行をずらしてしまう       セリ−

ことであろう。さきの二人は,「運動がそこではイメージの二重の連鎖によって 組み立てられていることを認めている。」(ibid, pp.205−206)「イメージの二 重連鎖」というのはひとつは,いわば外部から運動を描いたり,または運動を 決定するイメージと,今一一一つは,運動の発展的な展開をたどっていくイメージ のことである(ibid, p.206)。別の言葉でいえば,一つは末梢的な〔神経の〕

感受性に応ずるイメージと,今一つは小脳一迷路の活動を表現すると思われる イメージのことである(ibid)。したがって,後者のイメージは,時には前者の イメージの流れにくさびを打つ可能性を持つ(ibid)。

 ここでワロンがサックスとハルトマンにしたがって述べていることは,運動 を規定しているイメージが一方で運動に機能している手や足やその他の外的な

(22)

感覚を可能にするものだけでなく,そのような末梢的な感受性とは相対的に独 自に働いているところの姿勢のバランスをとる小脳の機能をそこから分けてと らえようとしていることである。このとらえ方は,すでに述べたように運動機 能の協応が自動運動的なものから大脳皮質によるコントロールを加味したもの へと移っていく過程で人間が獲得していくメカニズムにたいする着目であろう。

そして,ワロンが性格のなかで体の動きにたいするイメージの獲得が生理的法 則性に貫かれながらも,個性をともなって行なわれることに言及していること を暗示するものであろう。また,後者のイメージが前者のイメージの動きに

「くさびを打つ」(c・incer)といっていることなども,小脳一迷路の機能が末 梢的な外部感覚に様々な影響を及ぼすこととしておさえられるであろう。これ もまた,運動がそれにかかわる二つのイメージの微妙な動きと連動して,個々 の人間の個性の奥深い部分を形づくっていくとしたワロンの理論の重要な源泉 が示されているものとみることができよう。

 しかし,ワロンは,これに続いてクライストの次のような反対意見を付け加 えて,問題を深めようとしている(ibid)。

 「クライストはサックスとハルトマンの考えは〔二つのイメージの〕神経的 な結合を仮定しているが,その存在は示されていないし,平衡の調節器官を感 覚器官と混同していることの真実らしさは少なくともあり得ないとするのであ る。」「しかし」とワロンは言う, 「総じて,イメージにおける意識を普遍的で 全能であると見なすことの偏見は,明示的に公式化されているように見えるほ ど言い触らされているが,それは,心理的説明を引き出すきっかけ以上のもの になっている。それは,カタトニー(緊張病)が,しばしば,催眠状態が促進 する固定観念と同一視されるようにである。観察の結果は,それが逆に防衛的 態度への無知と結びついていることを示している。カタトニーは容易に放心に

よってのみ得られるのである。」(ibid)。

 つまり,ワロンは様々な症候が,小脳一迷路の機能と末端的な外部感覚の機 能と結びついていることを述べながらも,それらを二つのイメージの連鎖で説 明する仕方は科学的でないことを述べたものだと思われる。いくつかの症候は むしろ両方の機能の切断からきており,小脳一迷路の機能の裸の状態のあらわ

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